兎は参道を挟んで一対いますが、残念ながら両方とも耳が失われ、今ではプレーリードッグのようになっています。この耳は背中にくっついて彫ってあった形跡はなく、垂直もしくはそれに近い角度で立っていたはずです。一体どんな耳だったのか……確認できないのがなんとも残念。
建立はなんと天保14(1843)年8月15日。
狛研サイトによれば。「日本最古の兎」は万延2年(1861)だそうですから、18年も一気に記録更新。しかも、出来はこちらのほうがはるかに上!
日本石仏協会の大津和弘さんにこの写真を見てもらったところ、これは「波乗り兎」と呼ばれているものだとか。陶磁器の絵付けや祭り屋台、鏝絵(土蔵の壁や扉、民家屋内の壁や欄間に描かれているもので、江戸時代末期以降、左官職人が鏝を使い図柄や文様を描いたもの)などの図柄としては、雲龍、鯉の瀧上り、養老の瀧などと並んで定番らしいです。
WEBで調べてみたところ、兎は因幡の白兎との関連が深く、たいていは波と一緒に描かれるようです。また、波は水を象徴し、火伏せの御利益とも結びつけられているともありました。地域によっては、兎は狐同様に神の使いとして尊重されているという話もあり、となると、この地域でも野兎を神使とする信仰でもあったのかもしれません。
ともかく、この兎の出来のよさは出色です。左右の「波」の形がまったく違うところにも注目してください。
奉納者として刻まれているのは角田定右衛門で、このかたは和平情報を提供していただいている吉田さんの奥様の四代前の先祖にあたるそうです。
しかし、石工名はありません。ここでまた、もしやこれこそ小松理兵衛の作では? という思いが沸き上がるのです。
天保年間ですから、理兵衛が活躍したであろう時期と一致しています。しかも、寅吉が工房を構えた福貴作から遠くない場所。天保時代にこれだけの腕を持った石工がこの地で活躍していたとなると、理兵衛ではないかと思うのは当然でしょう。吉田さんも同じことを考えたそうです。
もし、これが理兵衛の作だとすれば、理兵衛という石工は柔和な顔立ち、深くかつ滑らかな彫りを特徴として、渦巻きや波形の紋様を得意としていたらしいことが分かります。そうなると、須賀川の旭宮神社にあった狛犬にも特徴が共通しており、あの狛犬が理兵衛の作ではという思いはますます強まるのでした。
理兵衛が柔だとすれば、息子の寅吉は剛。個性の対照が面白いですね。(……って、勝手に理兵衛の作品だと決めつけていますが……)