神の鑿(のみ) 寅吉・和平の世界

寅吉・和平の世界15

寅吉は人間の像が苦手だった?

 大胆な飛び狛犬や生きているかのような馬や鶏の像に比べると、寅吉が彫る仏像や観音像は今ひとつデッサンや顔の表情が弱い気がする。
 工房があった福貴作の公民館庭には、失敗作の仁王像が置かれている。
 寅吉はこれを彫る際に、ああでもないこうでもないと、一日中手を頭の上にかざしたり足を上げたりしながら悩んでいたそうだ。その様子がまるで踊っているようで、見ていた者たちは、ついに親方は気が狂ってしまったのではないかと心配したそうだ。
 結局、この仁王像は失敗のまま制作途中で破棄されてしまった。寅吉は人目に触れぬよう、失敗した仁王像を地中に埋めてしまったのだが、寅吉の没後、生前の寅吉を知る人たちが「名人の大作を、失敗作だからといって埋めたままにしておくのは忍びない」と掘り起こし、公民館横に置いたらしい。寅吉としては、あの世で「余計なことをするな!」と怒っているかもしれない↓。
寅吉の仁王像
福貴作公民館横に置かれた、「失敗作」の仁王像。確かに身体のバランスがおかしい。


 とはいえ、寅吉は数多くの神像、仏像、観音像を残している。
 以下、ざっとご紹介しよう。
アメノウズメノミコト像 アメノウズメノミコト像
アメノウズメノミコト像 (須賀川牡丹園内)


永昌寺の不動像 
永昌寺(浅川町)の不動像↑ 明治42(1909)年


旭宮神社の恵比寿像
恵比寿像 須賀川市 旭宮神社 明治45(1912)年




 中でも最大級の作品は、雲照寺三十三観音の中にある「準提観音」と呼ばれる観音像だ。
 とにかく呆れるほど大きい。
準提観音

大きさが分かるよう、隣りに立ってみる↓
準提観音
 おそらく、石造りの像としては日本でも最大級のものではないだろうか。これだけのものがなぜもっと広く紹介されていないのか不思議である。
 しかし、大きいだけでなく、よく見ると、寅吉らしく、細部がこれでもかというくらいていねいに彫られている。
準提観音  準提観音の顔部分  準提観音の下の部分  準提観音の銘
この三十三観音を彫ったときの寅吉親子の写真が残っている。
下の写真、法被姿の、いかにも頑固そうなおやじさんが寅吉、隣のちょっと色男風の若者が息子の亀之助。
寅吉はこの仕事を請けるにあたり、寺の住職(中央)から善現菩薩という生前戒名を授かった。この住職は後に、京都の仁和寺の住職になったそうである。
寅吉親子の写真
■Data:雲照寺(栃木県西那須野町): ο建立年月・明治35年9月(準提観音)。ο石工・彫刻人 小松布孝
境内には息子の布行をはじめ、複数の石工が彫った石の観音像が多数。
ο撮影年月日・2004年7月23日。


 寅吉が残した最後の作品と思われるのが、長福院(石川町)の毘沙門天像である。
 大正2(1913)年3月の作で、このとき寅吉は69歳。亡くなる2年前にあたる。
 毘沙門天の前には、一番弟子・小林和平が彫った仁王像一対もある。

 この毘沙門天の銘は、「福貴作 小松孝布」となっている。
 自分の名前を間違えて彫るわけがない。なぜ、寅吉は「布孝」を逆にして「孝布」と彫ったのだろうか?
 この毘沙門天を彫るにあたっては、弟子の和平もかなり手伝っていたらしい。和平は独立して4年が経ち、31歳になっていた。
 こんな話が残っている。
 ある日、和平が何かの用で寺に立ち寄った際、毘沙門天が傾いているのを見つけた。和平はすぐにそれを直した。
 このとき、寺の住職が和平に「この毘沙門天は親方ひとりで彫ったのか?」と訊いたところ、和平は「いや、俺も手伝った」と答えたという。
 実際には、年老いた親方の代わりに、和平が大部分を彫ったのかもしれない。
 寅吉は、和平らに手伝ってもらったことに感じ入り、自分の作品とは言えないという意味を込めて、「布孝」と彫るところを、わざと逆に彫ったのではないだろうか。
 この毘沙門を守るように立っている仁王像は和平の作だが、こちらは「和東斎剣石」という銘がある。これは和平の雅号とのことだが、こんな風に彫られた作品は他には見あたらない。多分、和平は、親方が自分の名前を「孝布」と逆に彫ったのを受けて、自分もシャレで返したのだろう↓
 あるいは、死が間近に迫っていることを感じた寅吉が、いろいろな確執がありながらも最後まで自分の仕事を献身的に手伝ってくれた和平に対して「小松孝布として後を継いでくれ」というメッセージだったのかもしれない。だとしたら、和平は親方に「いいえ、私は私です」と答える意味で「和東斎剣石」などという名前を彫ったのではないか。
   
 毘沙門の台座には、発起人として小林和平も名を連ねている。また、筆頭には角田定右ヱ門の名があるが、これは小松利平の作と思われる波乗り兎像の奉納者と同じ名前である。天保14(1843)年と大正2(1913)年では70年も離れている。実は、波乗り兎は角田定右ヱ門の親が息子が生まれたのを記念して息子(生まれたばかりの赤ん坊)の名前で奉納していたのだ。その角田定右ヱ門が、自分が老人になったときに奉納したのがこの毘沙門像というわけだ。
 定右ヱ門は、このドラマに登場する小松利平布弘~小松寅吉布孝~小林和平という、江戸末期から昭和に渡って活躍した3人の名人をすべて知っていた貴重な証人だったかもしれない。
 長福院の毘沙門天と仁王像は、明治期に「奥州一の名工」として情熱的な石工人生を駆け抜けた小松寅吉布孝が、一番弟子・小林和平に後を託した「バトンゾーン」的な存在と言えるだろう。
 大正4(1915)年2月22日、小松寅吉布孝、71歳で永眠。
 このとき、一番弟子・小林和平は33歳だった。



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