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8.書くことをめぐって              

  書くことをめぐって

目指すもの

言語による構築、真実の探求と発見破壊

自分から撃って出るのだ

 

目  次

  はじめに

 一 書く(一)   (序論‐問題意識)

 二 感覚と認識

 三 想像・空想・夢

 四 生きる

 五 愛する

 六 書く(二)   (何を書くか、感覚と諸問題)


 はじめに

 なぜ書くのか。なにを書くのか。結論は、簡単には出せそうもない。しかし、単純に言えば、書くのは、「人」のためである、とは言えるでしょう。なぜなら、書かれたものを読み、理解してくれるのは「人」以外にはないだろうからです。書くのは、金のため、と言ってもいいですけれども、この場合は、人が自分ということになりますので、矛盾はない。

 僕はなぜ書くのか。生きることと一体に近いが、感じること考えることをはっきりさせ、残しておきたいためらしい。

 自分がどう生きているのかも、記録しておきたい。実体を。

  問題は一生書き続けること、そのことだ。そして、書くことへのたえざる意識と反省。なぜ書くのか。何をどう書くのか。

 

 

 一 書く(一)   (序論‐問題意識)

 書く。それは僕にとって何か。一切だ、すべてだ、と言えばそうに違いない。僕から書くことをとってしまったら何も残らないだろう。だからそれに違いはない。例えば感じたり知ったりすること、想像したり空想をたのしんだり夢見たりすること、また生きること愛することは、それぞれかつての僕にとってやはりすべてだった時があるが、それらは今の僕にとっては何の意味もない、と言ってはきつ過ぎるが、まあどうでもいいと言って差し支えない。では何故書くことを選んだのか。この問いはむつかしい。考えてみている間にたちまち何年か過ぎ去りそうで、うっかりまともには頭を悩ますことも出来ない。しかし、それには僕自身のメモがあるから、それらが答えのヒントぐらいは、少なくとも明らかにしているだろう。ただ、才能に恵まれていないことは良く分かっているので、書くことだけに絞るまでには相当の考え悩む時間が必要だったこと、そして最終的には僕自身の決断で選んだこと、またその時他には道がないような思いつめ、追いつめられた状態、状況の中での決断だったこと、は疑いない。いや、こんな愚痴めいたことは止そう。それに、そんなことは本当だろうか。それより、若き日にこの道に入った者にとって、これ以外の世界がどんなものだったかを簡単に触れておくことにしよう。その後で以下の章に入ることにする。

 僕は感受性の鋭い子供だった、というよりは寧ろカンの強い子供だったという方があたっている。色々と邪推し、考え過ぎ、悩み、泣き虫で、いつまでも一人立ち出来ない未熟な、潔癖好きな少年だった。それは後の今も変らない。そんな風だから想像は好きだった。空想や夢にふけることは楽しみで、年少の頃の読書はその楽しみを倍加させた。こんな子供にとって、現実と向き合ったり触れ合ったりすることは不得手で、あるがままに見ることが出来なかった。現実はいつも楽しさや美や、ある時は悲しさや悪意をかぶった所からしか僕には体験出来なかった。これもその後今に至るまで基本的に続いている。だから僕は実社会には住めない人間なのである。こんな子供が生きられる世界は限られている。あるいは正しくは生きられないと言ってもいい。その代わり、人を愛し、人に全部ぶちまけてしまおうとするのは業で、しかもそれは基本的に愛する愛ではなく、愛されたい愛なのだから、甘え、頼れる人がいればそれで満足し、それ以上には踏み込もうとしない。もともと勇気や度量とは無縁なのだ。女々しく、弱々しく、少しのことで傷つく。だからいつも恐れている。そうして、僕は犯罪者になる勇気も英雄になる度量もなく、一人紙片に向って何かを書くことにだけ生きる灯を見ている。しかも、僕は自分も信じていないのかもしれないし、僕が書くものがたとえ文学であれ、文学なんてものも信じていないし、大嫌いだ。

 

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