「ドラキュラ」ヴラド・ツェペシュについて

 

吸血鬼ドラキュラ、といえば吸血鬼(ヴァンパイア)の代名詞ですが、これはブラム・ストーカーという作家が考え出した想像上の存在です。しかし、ドラキュラにはモデルとした人物がいました。それがワラキア公ヴラド三世です。

吸血鬼ドラキュラは、ドラキュラという名前と出身地(ルーマニア地方)についてはヴラドをモデルとしていますが、人となりなどはまったくヴラドとは似ていません。ヴラド自身のことが忘れられるなか、ドラキュラとして名前が一人歩きし出したことは、ヴラドにとっては不幸なことであったかもしれません。

そのヴラド、さすがドラキュラのモデルと言いますか、生前からさまざまな伝説を――悪逆・残忍な暴君と――ばらまかれています。じっさい、通称のヴラド・ツェペシュのツェペシュは「串刺し」の意味で、敵対したトルコの兵数百人を串刺しにしたこともあります。

彼の名誉のためにいえば、串刺しは彼だけが用いた手法ではなく、また、その他非情と思える行動の裏には、しっかりとした自身の君主観、道徳観があるのです。滅多やたらに血を好んだ暴君とは違います。また、トルコという強大国がいて、西のヨーロッパからも常に圧力をかけられていたワラキア(現在のルーマニア地方)にあって、ワラキアを独立国として維持してきた政治的・軍事的手腕は優れたものと言えるでしょう。

ワラキアは国内の抗争も激しくて、ヴラドも君主と承認されては位を失い、と三度君主の座についています。最初が1448年、次が1456-1462年、最後が1476年。

1462年に君主の座を追われたのは、侵略してくるトルコに対し、全ヨーロッパが連合して戦おうというこの時期に、トルコに内通し謀反を企てていたハンガリー王マチャーシュに告発されたからです。証拠としてヴラドがトルコ皇帝メフメト二世にあてた密書というものが挙げられていますが、真筆なのか偽書なのかはっきりせず、ほんとうにヴラドが謀反を企てていたのかも不明です。いずれにせよ、謀反という理由でヴラドはワラキア公の座を追われ、マチャーシュによって囚われます。1463年のことです。そして以後13年間に亘ってヴィシェグラードに幽閉されます。

この事件で不思議なのはマチャーシュの動き。ヴラドはマチャーシュの妹と結婚しているのですが、それがこの1462-63年という時期。ほんとうに謀反人と考えているなら、妹を結婚させるものかどうか。

しかもカトリックのマチャーシュの妹と結婚するため、ヴラドは東方教会からカトリックへ改宗までしているのです。君主の改宗は当時、その国がどの勢力圏に入るかに直結しますから、非常に重要な外交問題になります。結婚、改宗と、この時のヴラドの決断の裏には何があったのでしょうか?

1476年に復位したヴラドは、その1ヶ月後には暗殺されてしまいます。最期の最期まで謎に満ちた生涯でした。


参考文献 『ドラキュラ公 ヴラド・ツェペシュ』 清水正晴 現代書館 1997

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