鳴沢岳遭難事故報告書を読んで

2010.10/05 

 

 20094月の鳴沢岳遭難事故は衝撃だった。1990年代に厳冬期の黒部・丸山東壁にルート開拓で活躍した伊藤達夫が、二つ玉低気圧の襲来が事前に予報されていた中で、「庭」としてきた後立山、それも技術的にはさほど困難でないルートで遭難死したのである。しかも、同行した二人も死亡が確認され、その中には京都府立大学山岳部の現役主将を務める女性も含まれていた。さらに、遭難者の遺体がバラバラに発見された事も伝えられ、「どうして悪天の中で突っ込んだのか」「何があったのか」と疑念が広がった。この事故からほぼ一年をへて京都府立大学山岳会(OB等で組織)は、京都の岳人の協力を得て外部有識者による調査をへた事故報告書を刊行された。この報告書は各方面の関心を呼んで第一刷はすぐに配布完了となり、私が入手したのは増刷した第二刷である。報告書では、事実として確認できたこと、調査してもわからなかった事などが整理された上で、遭難事故の原因とその背景について検討が行われている。

 報告書の結論は、@悪天候にもかかわらず、山行を中止せず、途中で撤退できる場面が多数あったのに、そう判断しなかった。A先頭の伊藤と安西とは推定で2時間ほども離れており、それぞれがバラバラに倒れて行った。Bバラバラになった後、伊藤は後続を待った形跡すらなく、各人はただひたすら先頭の伊藤の跡を追い続け、力尽きて息絶えていった。C事故の直接的な原因は悪天候による低体温症である。しかし、このようになったのには、パーティシップの問題がある。Dその背景として、伊藤の登山観と身勝手な行動様式・伊藤に盲従するだけのパーティシップのあり方・それを生み出してきた長年の山岳部と伊藤との関係に原因が指摘できる。 というものである。

 特に、伊藤のリーダーとしての資質にかかわっては、20085月に今回の事故で亡くなった安西と一年生を連れたトレーニングにて、伊藤が先行して「置き去り」にした結果、安西がトレースを見失い、二人が悪天候下でビバークした事件が報告されている。この時の伊藤は、「体力を消耗した」として救助活動にも加わらず、一人でテントに戻ってしまう。伊藤は、平謝りに陳謝したとの事であるが、この行動は今回の遭難での行動パターンと酷似している。この時、この問題をもっときちんと総括していれば、今回の遭難は防げたのではないか、との関係者の無念の思いが報告書からは強く伝わってくる。

 この伊藤の20085月の行動、そして今回の不可解な行動をどう理解するかについては、報告書は伊藤の個人的な資質と登山観に大きな原因を求めている。そのため伊藤との京都府立大学山岳部との山行についても、「伊藤がリード、学生はビレイ・ラッセル・ボッカ役」の事が多かったとの事から、「伊藤は相手がほしかっただけ」との否定的な評価がされている様に思われる。また、伊藤が京都左京労山から脱会して「てつじん山の会」を結成した事についても、「独善的・個人的な登山観」を原因として捉えているようである。

しかし、伊藤に関するこうした評価は、ほかならぬ報告書に証言として紹介されている、かつて伊藤と山行を共にしたOBの話から浮かんでくる人間像と著しいかい離がある。「テントの中で必ず高層天気図をとっていた」「先行しても要所で待っていた」「軽量化に厳しく、用具が古かったり適切でないと買いかえる様に指示された」「パートナーがもう行けないと言えば、撤退をいとわなかった」等が卒業生の話として共通している。そこには、「独善的で他を顧みない」人間像とは対極の姿がある。

登山時報20107月号に紹介されている京都労山・教育遭対部での、最近の伊藤が果たしてきた役割も、事故防止に熱心に取り組む姿として、上記、OBたちの回想とつながるものを示している。

それにも関らず、伊藤は現実に遭難しており、パーティの行動については「報告書」がとりまとめた様な現実があったのは事実である。「どうして伊藤は、このような行動をとってしまったのか」が、報告書では納得できない問題として残されている。

ところで報告書では、「三人の技量・経験は、一般的にはこのコースには対応できるものであった」としている。確かに悪天候がなければそう難易度の高いコースではなく、技量以上の山ではなかったのかも知れない。

しかし、メンバーの山行歴を見ると、安西はビバーク体験もあり、総合的な登山技術の習得に熱心であったことがうかがえるが、院生の櫻井の場合にはどうだったのだろうか。櫻井は、積雪期登山にほとんど経験がなかった。こうしたメンバーを連れて雪山に行く場合に、メイストームという条件でも可能と考える事はいかなる判断があったのであろうか。また、これは退避技術やその適用のための知恵をどれだけ持っていたのだろうか、という事でもある。

実際に伊藤以外のニ名は、荒天下の稜線で持参していたフリースを着ないままに亡くなっている。下部では暑かったとしても、風の強い場所に出る前に一枚着込むのは当然の事ではなかっただろうか。報告書では櫻井がルンゼ上部を滑落し、その後、上がり返す気力も無くなって絶命したものと推定している。低体温症が進行して意識がもうろうとした中で行動して滑落したとして、そうなる以前に回避するための行動が意識されていたのかどうかが疑わしい。単なる登攀技術ではなく、山に安全に登る総合的な知恵と技術がどれだけ習得されていたのかが、大きな疑問となる。安西が「どうしても伊藤先生に追い付かねば」と行動するのではなく、自分の状態を客観的に判断して、「自分では追いつけないから安全な場所で幕営しよう」と考えられる自立した登山者であれば、少なくとも全員が亡くなってしまうことは避けられた。パーティシップの基本は、リーダー絶対とか集団行動絶対であるよりも、一人一人が自分を守りつつ、その上でパーティの仲間を気遣う所にあるのだと思うのである。

さらに、報告書を読んでひっかかった事は、共同装備の分担である。行動面から見ると全体で最も遅れ気味だったと思われる安西が、テント・スコップを持参して荷物が14-15Kgと重く、伊藤が10Kg程度と最も軽くなっている。岩壁の登攀であれば、トップを行くリーダーを軽くする根拠がある。しかし、西尾根はそうしたコースではない。出発前に安西の荷物を研究室で見て、伊藤たちが「何がこんなに入っているのかね」と言っていたと書かれているが、軽量化に失敗した結果としての荷物であるのか、それともテント等を安西がすべてもったためによる重荷であったのかは、一つのパーティのあり方にかかわる問題として疑問である。もちろん、安西は女性とは言え若い現役山岳部の主将であり、かなりの体力を持っていたのだろう。だが、この山行経過から考えると、パーティの中で安西が多くの荷物を持った事が全体のスピードを落とすことにつながったのではないか、とも思われる。尾根歩きで、これほど共同装備の分担をよせるべき、合理的な理由が私には思い当たらない。もちろん、長年、黒部での登攀では大学生がボッカを担当していた事も背景としては指摘できるが、ハードクライムから尾根に転進した中で、このような分担である事は不合理であったはずである。

こうして見てくると、「加齢による伊藤の体力低下」というOBの指摘が、実際には伊藤の行動でかなり大きな要因となっていたのではないか、と思えてくる。ハードクライムを退いて後に、伊藤がどのようなトレーニングや山行をしていたのか、その全体像は報告書では触れておらず、伊藤が府立大と行った山行が記録されているのみである。しかし、本の執筆に熱心に取り組み、片や本業の研究者・教育者としても熱心に取り組む中で、「体力トレーニングは各自」に委ねられていた伊藤のスタイルでは、50歳を超えての体力全般の低下は避けられなかったと思われる。

過分な憶測かもしれないが、こうした場合に、伊藤にとっては自分の体力低下は、逆に安西や櫻井への過大評価ともつながりやすいのではないか。「体力の落ちた自分でも動ける。若い彼らならば大丈夫だ」と考えたとしても不思議ではない。実際、安西は20085月の「置き去り」の際には、荒天の中を木の上に座ってかぶったツェルトで耐えている。「安西ならば耐えられるだろう」と考えなければ、伊藤がトップで進む事に「自分のペースで進めるので楽だ」という面があったとしても、メンバーに対する確認なしにどこまでも先行してしまうことはできないのではないか。伊藤が遭難当日、どこまでも先に行動してしまった事は、自身の体力低下とそれに他の二人への主観的な過大評価に支えられていたのではないか、と思う。

 こうした考えは私の「憶測」に過ぎないのかも知れない。だが、私は報告書では、ある特定の「登山観」が、それとは異なる登山観を持つ伊藤に対する人格否定的な評価を生み出している様にも思われるのである。それは、委員長の平林氏が書いている登山の歴史と登山観の変遷についての記述である。

そもそも事故報告書にこうした文があることは、異例であろう。しかし、あえて平林氏は今回の事故を考える時にどうしても必要であろうと考えた、と報告書にはある。論点は多岐にわたっているが、特に山岳部についてはかつての「団体的登山」観が失われた中で、「個人主義的登山」観が広がり、今回の事故でも自分の事のみしか顧みない行動がとられるようになる背景となった、という趣旨の様である。

しかし、私にはこの「団体的登山」とか「一校主義」との登山観そのものが、特殊なイデオロギーではないのか、という疑問を拭い去ることができない。人の価値観に多様性があり、生き方に多様性があるのと同じく、登山と言う営為にも多様性がある。「団体主義」や「一校主義」も一つの登山観としてあり、歴史を振り返けばある時期に日本の登山史に大きな役割を果たした事も事実であろう。しかし、その価値観が唯一の様な捉え方は、現代には受け入れられないと思われる。

伊藤が「てつじん山の会」を創設した経緯の詳細は不明である。しかし、こうした山岳会からの脱退と別の会の創設は、社会人山岳会では決して珍しい事ではない。労山でも、県連盟役員が自分の所属していた会と別の山岳会を創設する、という事はしばしば見られる。また、日本の登攀と登山の歴史を振り返れば、むしろ、社会人山岳会の分裂や設立と共に、アルピニズムの新たな発展がとげられた事も多かったのではないだろうか。さらに言えば、「てつじん山の会」も労山京都府連盟に所属しており、伊藤は前述した通り府連盟の教育・遭難対策活動に積極的に関与してきた。「一校主義」的な価値観では、こうした事実は理解しがたいものであるのかもしれない。だが、報告書が伊藤の山岳会の創設を「独善的・個人主義的」登山観の産物と決めつけるのは、少なくとも私には独断的にすぎると思われる。

 そもそも山に登るという行為は、山に関係のない人たちには多くの場合、まったく理解しがたいものである。何の利益にもならない「登る」という営為に自分の生きることを見出す者は、世間からは「理解できない人」であるかも知れない。だが、私たちが山に登るという営為は、その人の人格の一部なのであり、その人そのものを表すものだ。だから、山に登る人の多様性は、登山観の多様性とも連なっている。そうした多様性を許容できないで、ある特定の登山観をもって他を切り捨てる事は、その人の本質にかかわって行われる登山という営為の豊かな多様性を貶めるものである、と思われる。特にそれが団体至上主義的な色彩を帯びる時、今日の時代においては、山に登ろうとする人々の多くから見向きもされない存在となるのではないだろうか。大学山岳部の現状を見据えつつ、かつての大学山岳部黄金時代がそうであったように、若い世代が何ものにもとらわれずに自由に自分たちの新しい登山を発展させていく事を、私はむしろ期待したいと思う。

 

2010.78日記に追記