池田信夫著「電波利権」を読む

JF1TPR 熊野谿 寛

この本を手にしたわ け…

 ある日、朝日新聞の一面記事に 「地上波デジタル化が第二のPSEマークになるか」との記事があった。記事の要旨は、「PSEマー クが中古への適用の土壇場で国民的な批判をあびて実質的な対象外とされた。これを見て、総務省などに2011年の地上波デジタル完全移行・アナログ停波も延期に追い込まれるのではないか、との危機感が走っている」とのものだった。

 その記事でコメントをよせてい る人物に「『電波利権』の著書がある池田信夫氏」と紹介があった。それは「普及率などで一定の基準をもうけ、延期も必要ではないか」との趣旨だったと思 う。PSEの場合は、直前になって中古にも適用と言い出したので地デジとは厳密に言えば全く違う。しかし、「テレビ」が持 つ社会的存在の大きさを考えると、おそらくPSEどころではない規模で問題となっていくだろう。それでも、地デジ・バンザイの報道が 基本的には多い中で、へぇ、一面でこの記事をだしたかと思った。そして、そんな本が出ていたか、それにしてもこの人の名前はどこかで聞いたことがあるぞ、 と引っかかった。そこで、しばらくしてAMAZONEに本を頼んで、手にしてみた。

放送と政治の関係は「おもしろい」のだが…

 この本の前段は、戦後の放送に ついての行政がどのように政治的な利権と結びついて展開してきたかを述べている。その多くについては、既に松田道夫氏の「NHK(岩 波新書)がより詳細に述べているが、放送業界と田中角栄とのかかわりなどは、本書の方が生々しく描いているようにも感じ た。この部分が、多分、本書で最も面白い所だ。

 しかし、その構図と描き方に は、私はいくつかの根本的な疑問を持った。それは、例えば戦後の放送改革と放送委員会とに対する見方である。松田氏の「NHK」 では、この放送委員会の時代、そして戦後初期の放送労働者による民主化への努力に光があてられている。しかし、本書での「放送委員会」は「社会主義者」な どのレッテルをはっただけであっさりと切り捨てられ、放送局内部での民主化への努力はまったく評価されていない。NC9の 田中角栄判決・三木インタビュー削除問題などは、本書でも取り上げられているが、それは、もっぱら「日放労による支配 VS シマゲジ」という構図で見られている。これは一例だが、どうも、本書では放送の内部でその民主化と改革を求めてきた努力を評価する視 点が感じられないのである。

 それは本書の立場が、マスコミ の持つ公共性、放送の公共性を追求するのではなく、あらゆる部門で市場原理を貫徹させることにおかれている事とも関係があるのではないか。

放送は単なるコンテ ンツ提供業か??

 本書においては、放送の番組は もっぱら「コンテンツ」として扱われているようだ。コンテンツはあくまでも消費者に提供される商品に過ぎない。従って、そこでは市場において評価されて売 れるかどうかがもっぱら意味を持つものとなる。また、それを売るための手段も、電波でもネットでも区別される必要は無い。

 だが、マスコミとしてのテレビ や新聞の意味は決してそうしたコンテンツ提供にとどまるものではない。マスメディアは、国民全体に共通する公的情報を伝え、世論の土台となる情報を伝える ことを本質的な使命としている。これがマスメディアの「公共性」の中核をなすものだと私は考える。しかし、本書では番組はせいぜい売れるコンテンツとして しか考えられていないように思われる。それとも、日本の放送の現状はその程度のものになっているのだ、と池田氏は放送業界を皮肉っているのだろうか。

 地上デジタル放送への転換につ いても、池田氏は厳しい批判を加える。しかし、その立脚点は「デジタル化は、インターネットとの融合をもって進むべきだ」「そうすれば経済的に有用な電波 を携帯電話などに明け渡すことができる」というものである。さらに、そこで考えられている放送は、しばしば「有料の登録した者だけのもの」として語られ る。例えば、「有料で登録するのだから、契約の段階で地域的な限定をすることもできる 云々」と。こうして本書は、放送と通信の融合という名の下に、公共 性を持った放送を創造しようと言うのではなく、逆に放送の解体をすすめようとしているのではないか、と思われるのである。

無線LANIP万 能論

 また、本書の後段で述べられて いる無線LANとインターネット、IP通信に関する部分になると、前段のようなドロドロした内幕モノの面白さも姿を消して しまう。それは、これまで何度も形を変えて現れてきた「ニューメディア万能論」の焼き直しに過ぎなく感じられるからである、無線LAN、 そしてUWBなどが「新しい夢の技術・社会」を作るというのである。また、IP通 信ですべての通信や放送がまかなわれるようになる、という事である。携帯電話業界とインターネット接続業界などの利害が、ここにあるという意味でなら、本 書は面白く読むことができる。

 そうだ、この本の著者 池田信 夫氏の名前をどこかで見たと書いたのは、この分野だったのだ。WRCに向けて、総務省が「5G帯を無線評定(レー ダー)の第一次業務区分とする」事を求めたいとの方針を公表した。ところが、この案がパブリック・コメントにかけられ ると、通信族や関連業界から大反対の声があがった。いわく「レーダーなんて、どの周波数でもよい。アメリカ・ヨーロッパのようにこの周波数での無線LANを 優先した割り当てを考えるべきだ。そうしなければ日本は情報通信革命の時代に乗り遅れる」という事であったと思う。

 だが、実はレーダーは「Cバ ンドが他で使いたいからXバンドで」とはいかない代物である。Xバ ンドレーダーとCバンドレーダーでは、全く使用環境・有効範囲、天候に対する特性などが違ってしまう。むしろ、逆に無線LANに とっては、X-BANDでもK-BANDでも、技術的・費用的な問題をのぞけば問題は少ないように思われる。

本書に欠落する視点は??

 本書を読んで、「どうも何かが欠けている」と感じた。それについて少しあげてみよう。

@国際的な視点が欠落

電波の希少性は免許制度によって作られる、と池田氏は述べているようだ。しかし、こ の本には、ITUの存在こそ紹介されるものの、国際社会において電波利用のあり方をめぐってどのような問題があるのかは、述べら れていない。そこで考えられているのは、「アメリカでもこうした」「イギリスでもこうした」という程度のことである。つまり、発展途上国との格差の問題は まったく考えられていないのだ。発展途上国との情報通信格差の是正こそが、現代の世界で大きな問題なのだが、この本にはそうした視点はない。

 池田氏の視点からは「もはや古 臭いシステムにすぎない」とされるだろう短波や中波放送な どのアナログ・ラジオも、世界にはそれらを基本的なインフ ラとして整備することすら課題であるような国が多い。少し前になるが、手回しの発電機付のラジオが国際的に高く評価されたが、それは電力の供給も困難な地 域で確実に使える情報通信の手段として、現実に新しい可能性を広げたからである。やや極端な場合かもしれないが、AM放 送であれば電源のないゲルマニウムラジオですら聞くことが可能である。これは発展途上国ならずとも、災害時を考えれば、日本などでも大きな意味を持つので はないだろうか。

 むろん、国際的にも世界情報通 信サミットにおいて「世界の村をネットでつなぐ」事が提唱されてはいる。携帯電話技術の発展は、そうした可能性も現実のものとしてきている。だが、放送と いうメディアがこれからの課題であるような国も多い現実をふまえて、国際的な電波利用のあり方は論議されねばならない。

 池田氏は「電波利権」という誠 に日本的なものだけで、政府や国際間協定による電波監理の性格をとらえようとした。だが、電波は国内的な資源にとどまらない。電波に国境は無く、実際に冷 戦期には東側などでジャミングなどの妨害が国家間で行われてきた。今では、韓国の衛星テレビ、ロシアの衛星テレビなどを、いずれも日本国内で視聴する人た ちがいる。それら、お互いの国での電波利用については、相互の関係での調整がもともと必要な分野なのだ。だからITUで も世界を三つの地域に区分しつつ、地域での割り当て調整と世界的な割り当て調整とを行ってきた。この割り当ての現実を検討することなしには、どんな新たな 割り当ても困難なのが現実ではないのか。

 そもそも、電波は人類全体の共 有財産であるという事を、どのように考えるかが、私たちにとって「電波利権」を批判する上での基本的に立脚点であるべきなのではないだろうか。そして、人 類的視点で考えるときに、国際的に大きな問題となっている情報格差の解消をどのように位置づけていくのか、発展途上国でいかに通信と放送の体制を整備して いくのかが大きな課題となると思われるのである。

A「軍事」との関係を隠す??

 さらに、「電波利権」について ふれているこの本は、電波の割り当てにおいて、国内でも実は最も優先されている事項の存在を、なぜか無視している。

 それは「軍事」である。例え ば、アメリカでは確かにFCCが電波監理にあたっている。だが、事情に詳しい人に聞けばわかることだが、実はすべ てをFCCが掌理しているのではない。連邦政府と米軍関係の免許はFCCが 付与する事項ではなく、FCCには通告されるものの評議する権限は無い。

 そもそも電波利用の歴史は、そ の軍事利用と一般利用との相克の歴史でもあった。無線による通信手段は、軍事的優位にかかせないものであるからこそ、しばしば国家によって独占されようと した。また、電波兵器の開発、秘匿された軍用通信の開発は、20世紀の戦争の歴史と切り離せないものである。例えば、本書は、最近の無線LANで 使われているSS(スペクトラム拡散)について「1940年には開発されていた」と述 べている。しかし、これは主として「軍事的に周囲から探知されずに無線で通信を行いたい」という目的で開発されたものである。レーダーもまた、軍事的な目 的で開発されたことはいうまでもない。あるいは今日、すっかりカーナビなどで民生用に利用されているGPSも、 もともとは軍事用途であったし、過去には一部に暗号化がかけられていた。

 軍事的な目的で開発された技術 は、少なくとも当初においては軍事機密としての性格を持つことを意味する。従って、それだけ自由な民間での利用や科学技術的な発展を妨げる面をも持つ。さ らに、軍事的な目的での電波割り当ては、その詳細そのものが軍事機密であるから、より広範な周波数を独占的・排他的に確保しようとするものともなる。

 これは過去の物語ではない。マ イクロ波帯の割り当てでも、現実の免許取得や周波数割り当てにあたって、常に見え隠れするのは、防衛用、あるいは米軍のレーダーや通信システムとの関係で ある。これがすべてに優先することは、電波にかかわる者には半ば常識である。しかし、池田氏は全くこの問題にふれていない。どうしてなのか、私にはどうに もわからない。

 ちなみに日本の場合には、在日 米軍は日本の電波法を超越した存在である。VOAの例を出すまでも無く、治外法権としての存在を持っており、「電波の世界では、日本 はまだ完全な主権国家といえない」との声も聞かれるほどである。あるいは、だからこそ、この問題にふれることは一種のタブーになっているのかも知れない。

BIP通 信万能論は妥当か
 ユビキダス社会…いつでもどこでも誰でも、情報通信がネットワークを通じて可能な社会を言うらしい。池田氏は、その社会において
IP通 信が放送・通信・電話など、すべての通信を支えるものとなる、という。いわばIP万能論である。確かにIP-V6となれば、実際にはIPア ドレスは無尽蔵に近く提供されるし、VoIPを用いたインターネット電話などは、そもそも電話交換機のコストを考えれば効率的で あることもあって、NTTなども徐々にIP通信網に切り替える方向を持って いると伝えられている。

 だがその場合でも、「放送」事 業はやはり無くなることはないだろう。なぜか、それは「放送」という形態が、そもそも一定の地域に住む国民・市民全体に共通の情報を最も効果的に共有させ ることのできる方法だからである。もっとも、それは逆に言えば情報の独占的な統制と操作をももたらしてきた。この点にかかわって、通信が放送の限界を補完 することはできるし、部分的には通信が放送を上回る影響を与えることも可能ではあるだろう。それにもかかわらず、社会全体に一定の情報を認知させる必要が ある限り、放送固有の領域はなくならないと思われる。

 と同時に、その放送の手段とし て、電波という媒体が意味を失うことは考えにくい。それは、電波による放送が上記の目的にてらして適合性を持ち、また、比較的単純な仕組みによって行うこ とができるからである。そうした放送の手段を「非効率的」とするのは、単純すぎるように思われる。

 その点、池田氏もこの点では一 致することだが、テレビ放送のデジタル化には、多くの問題点が指摘できる。テレビのデジタル化は、2011年までには電波の放送では「対応できない地域」が残ることがはっきりとしている。そうした場所には、光ファイバー等を手段とすること がせ検討されているようだ。しかし、そのような事では災害時にどうなるのだろうか。電波によって簡単に情報伝達手段が確保できる現在の放送システムを捨て てはしまうことは、大きな社会的な損失をともなうのではないかと思われる。

市民の視点からの放送の創造を…

 以上のように考えてきて、やは り私は、松田氏の「NHK」の視点へと引き寄せられざるを得ない。放送・通信がもっぱら巨大資本が闊歩する市 場主義の餌食とされることなく、真に公共的な役割を担うものとして再生されることが、何よりも求められているのではないか。

 「電波利権」のへの批判は、電 波行政と放送の民主化とによってこそ、完遂されるのではないか、と私には思われるのである。