0.それは一冊の本から始まった

 年末のある日、本屋でふらふらと一冊の本を手にした。その名も「AT互換機を256倍使うための本」である。

 これが実におもしろい本であった。怪しいカードをあさっては動かす話、「廃人」と化してしまう話など・・・ボードなどの形でどんどん工夫できるAT互換機の世界は、「コンピューターという完成品」とか知らなかった中で、実におもしろそうだった。
 J3100EVSを使っていたので、「AT互換機として使える」とも知り、linuxやOS/2をCD-ROMでインストールしてみてはいた。でも、この486sx20RAM8Mのマシンではどうも・・。やはりいじれるコンピューターというのはおもしろそうだ・・。
 

 こうして、年末のある日、秋葉でATのミドルタワーを買った。手に持つとずっしりときて、すぐに手のひらが真っ赤に腫れた。電車で持ち帰るのは大変だったが、ケースをまずは据えた。FDDのベゼルがないので、ケースについたいた蓋を削って、ベゼルを自作したりした。
 そして、年明けの1月4日。さっそく秋葉に出かける。MBには、GIGA−BYTEの486VF、I/OのVLでのビデオカード、16MのRAM、420MのHDDなどを買って帰った。OSは前年に買ったOS/2 2.11J。これでWINos/2も快適に動くので、楽しみは倍増した。CD−ROMは98につないでいたSCSIとJ3100用にしていたパラレル=SCSIのMiiniSCSIを使ってつないでインストールした。
 KUMA−1と名付けたこのケースは、今も現役である。CELERON667を750Mで動かして、まだ数年は使えるだろう。

  が、これは始まりにすぎなかった。すでにすぐ近くに「PC−バイキング」が開店していた。SB−16−MCDをつけたり、CPUをUPしたりから始まって、いろいろな細工が始まった。町田のACCには、帰りに毎日のように顔を出した。CPUは5x86となり、やがてもらいもののMUGENにJUNKの486MBを組み込んだKUMA−2を建造。これはRBBSとしてMSYSを稼働した。さらに、仕事で使うために特価品を組み合わせたKUMA−3。P5化にあわせて組んだKUMA−4・・・と続いた。

 気がついてみたら、SAGAMI内ではすっかり「廃人」扱いとなり、モバイルもThinkPad530から535へと本格化。インターネットにWEB。パケットでのSPG−NEWSも持ち歩いての読み書きの日々。やがて家庭内LANにISDNルーターをおいて、快適な日々かやってきた。