1) ひとはなぜイメージに魅惑されるのか。イメージ=絵、映画、写真。「現実」を写し取ったもの。コピー。現実に比べると二次的なもの。「絵空事」
=イメージは虚構であることはわかっているのに、なぜイメージに囚われてしまうのだろうか。イメージはたんなる虚構やコピーではなく、なにか積極的なものを持っているのではないか?
2) 自己のイメージに対する意識。
・鏡や写真の中の自己の姿に対する過剰な意識、いごこちわるさをなぜひとは感じるのだろうか。
・見られる自分と見る自分とのくいちがい。自己イメージとの闘い。それは「ほんとうの自分」と「イメージの中の自分」との葛藤なのだろうか。
○ この授業では、こうしたイメージがもつ不思議な力について考えてみたい。まず、「映画」を見る。次にイメージに対する「心理学」「精神分析」(ラカン)、最後に、イメージと権力の関係の問題(フーコー)について考える
・ ひとは映画に何を見るか。筋、作者のメッセージ、映画に現された文化的意味?
=いずれもイメージそのものではなく、映画の背後にあるもので映画を語ろうとしてしまっている。イメージは「言語」と類比的なものと考えられてしまっているのだ。イメージそのものをどのように分析したらよいのか。
・ フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの「映画論」。
映画を「テクスト」と考えることを批判。イメージは「解釈」すべきテクストではない。
イメージの3つの分類(下記参照)
○ ベケット(1906-1989)
ノーベル賞作家。代表作『ゴドーをまちながら』(白水社)
・「存在するとは知覚されることである」(バークリー):存在することは見られることである。見られるものだけが存在している。何か(他人、神)に見られること=わたしたちの存在。
・生まれた瞬間に「見えるもの」となってしまっていること。わたしたちが世界に生まれてきて、世界を見始めると同時に、見える身体をもってしまうこと。
「知覚から逃れることは可能だろうか」
「いったいどうやって知覚し得ぬものになればよいのか」
「どうしたら私たちは私たち自身を追い出すことができるのか」
・筋:「カメラ」(Eyeと呼ばれている)の視線を逃れようとする男の物語
・バスター・キートンというコメディ俳優。
ドゥルーズはこのフィルムを三つの場面に分けている。
主人公はすべての場面で後方から彼を襲うカメラの視線から逃れようとする(公法から45度の角度を越えてはいけない)
1) 壁づたいに歩き、階段を上って部屋に入るまでの場面。そこで彼はほかの人間に遭遇するのだが、なんとか逃げる。
2) 部屋の中の場面。窓、動物、金魚、鏡、物の視線を消し去ろうとする。自分の写真を引きちぎる。
3) 部屋の中でロッキング・チェアに坐って寝てしまう。ついにEyeによって正面から捉えられてしまう。そして・・・
映画の基本的な3要素。
1)「行動」のイメージ:
手法:行為の連鎖を時間軸にそって並べる。歩く、ぶつかる、逃げる。映画の筋を形作るもの。
主体と対象との作用・反作用。
直線的な時間の流れの中で展開する筋。
2)「知覚」のイメージ
手法:カメラの視線と登場人物の視線の「二重化」:「主観ショット」
モンタージュ。
・鏡、動物、神や物のまなざし=見るものを見る。
・見るものと見られるもの、主体と客体のまじりあい。
3)「感情(情動)」のイメージ
・ ついに主体と客体がひとつになってしまう。そのときに現れてくるのが「情動」イメージ。感覚に直接ショックを与えてくるような映像。
・ クローズアップ。顔そのものが生な姿で現れてくる。
・ 運動の停止。死。
・「自己による自己の知覚」
自分の身体を内側からみずから感じること
1)皮膚感覚や触覚のイメージ
はじめの場面において、まぶたと壁が重ね合わされている
皮膚的な感覚。視覚が縮小されるにつれて、触覚が前面に現れてくる。
内部と外部の境界が前面に押し出されてくる。見るものと見られるものとが交差する場。
2)「写真」の場面=直線的な時間の否定
・「記憶」のイメージ。わたしたちはどうしていまこのような私であるのか。どうしてほかのような私ではないのか?イメージの集積。
・ アルバム的な写真。直線的な時間の流れによる過去の再構成。履歴書や年表のような歴史。
・ 主人公はこのような直線的な歴史を抹消しようとする。
・ イメージの抹殺。知覚のイメージの抹殺。とくに起源は抹殺しにくいが、ついにはそれも抹殺されてしまう。断片的なイメージを抹殺することによって、「動的な切片」の流動的な結合を明るみにだそうという積極的な意味も持っているかもしれない(ヴァンニーノ、226)
・ 現在だけ。
・ 揺り椅子の運動。「無のまっただ中にわたしたちを宙づりにする、人間以前の、人間以後の唯一の家具」:往復運動。
3)死と不動化(揺り椅子の停止)のあとで・・・
こうして主人公は死んでしまう。しかしそれで終わりなのであろうか。「ベケットに置いては何一つ終わりはせず、何一つ死にはしない」。絶対的な停止によって、宇宙的な運動が解放される。海の上の浮標。
宇宙的で霊的なるざわめきに達すること。
知覚の二重化に関して
ベルグソン「記憶は知覚と同時に作られる」(『精神のエネルギー』)
・既視感「すでにみた」
・あるイメージは「すでにみた」という印象を伴っている。それもわたしたちの意志にかかわらずにそうなのである。
ベルグソンはあるところで「現在の記憶」について語っている。彼によれば、記憶とはかつての現在の想起ではなく、知覚と同時に作られるものであるという。つまり「見ている」という体験と同時に、それは「すでにみた」という体験をともなっているということである。
つまり、過去のイメージはたんに現在の印象が弱まっているものではない。だとするとなんでそれが「過去」として体験されるかわからないからだ。過去のイメージは写真のようなものではない。なぜなら、写真そのものは現在そこにあるのに、わたしたちがそれを過去として体験するのはなぜなのか。
ある対象が知覚されるときに、それがすでに過去であるのでなければ、その対象のイメージはけっして過去のものとして記憶されることはない。過去は現在と同時に作られる。だからこそ反対に、いわゆる既視感のような知覚が生じることもある。つまり、ある対象が知覚されると同時に、イメージは過去の「しるし」のようなものを刻みつけられている。
既視感とは、この「見ている」「すでに見た」という二重性の一方が弱まってしまったもの。
こう考えるならば、イメージの二重性は私たちの時間体験そのものにも関係しているのかもしれない。記憶のイメージは、すでに現在の知覚に鏡像のように張り付いている。それは知覚の弱いコピーではなく、おそらくは知覚そのものよりもリアルな<記憶>の場をかたちづくっているのだろう。私たちが<現在>と呼んでいるものは、知覚と記憶の二重性のことだ。この二重性のおかげで、イメージはたんに弱まるのではなく、自立して変容したり、ひとを驚かす力を持ったりすることができる。
・ 「鏡像段階」(ジャック・ラカン)
「主体」は見える=見られる関係(「想像界」)で作られる。
・ 「主体」は見えるものと見られるものとの相互作用から作られる。
・ 6ヶ月めの終わりから18ヶ月の赤ちゃんが鏡の前で自分の姿を「自分」だと認める体験。
まだ神経系が未発達で、「寸断された」身体を生きている。感覚は、呼吸、触覚、排泄など。
主体が鏡の像を自分のものとして引き受けることによって主体となる
他者の像によって自分を自分として体験する。
母との視線のやりとり。他者とまなざしを交換し合う。
・ しかしこの先取りはけっして完結しない。「主体の生成には漸近線的にしか合一しない」。メルロ=ポンティの言葉を借りるなら、全体像の先取りはつねに「切迫する (imminent)」にすぎないのだ。その結果身体の現実はつねに知覚の解体にさらされてしまい、それは分身 (double) や身体の解体のファンタスムとして現れることになる。
・自己への攻撃性。同年齢の子供とのシンクロ関係(ぶった子がぶたれたと言う。ぶたれた子につられて泣き出す)シンクロと攻撃性の両価性。
ー 鏡像への同一化が自己を形成
ー 解体のおそれ──分身の幻想
ー 攻撃性(ライバル)
ラカン理論の限界:
感覚そのものに内在する論理を取り出していない。
感覚を「象徴界」に従属させてしまう。
視覚装置としての監獄=近代の主体の誕生
1)これまでの権力は、排除する、抑圧する、隠蔽する、取り締まるなど、否定的な用語で考えられてきたが、むしろ権力とは、主体の内側や、人間と人間の関係、人間と物の関係においてはたらくものなのではないか。
人間の行為を外から禁止したり、強制したりするものではなく、むしろ内側から行為を組織しているのではないか。
2)『監獄の誕生』:監視の時代における身体の訓育と近代精神の誕生
この視点から、フーコーは、監獄などの施設の歴史を研究。
18世紀後半から19世紀前半に監獄が誕生。当時は啓蒙主義の時代であり、人道的なものとして刑罰の緩和がうたわれた。かつては残虐で見世物的な処罰。
同時に近代の「主体」が誕生。主体とは、自由な意志を持ち、公共の場において議論し、まさに主体的にふるまうもの。
しかし、フーコーは、この近代的な主体の成立と同時に、監獄の改革がおこなわれたことを指摘。
一望監視装置。円環上に配置した建物の中心に監視塔をおく。
中央に監視する主体をおく必要がない。
看守=見るが見られない。囚人=体を見られるが、見ることができない。
囚人の身体、建築、光や視線の配置によって、監視の連続性を確保。
囚人は、はんたいに看守の視線を内面化し、自己を管理。
自由でしかありえない。
監獄の理念は、工場、兵学校の身体訓練、病院などに応用される。
碁盤目上の管理。
・抑圧や制裁ではなく、生み出すもの
知と権力の対立はない。
・占有されるのではなく、働くもの。
・上から下にではなく、人と人の間ではたらく
・集中しているのではなく、散乱している
・抵抗の可能性も散乱
・ 見る見られる関係が「主体」を形作っている
・ その関係がさまざまなイメージ空間を形作っている
・ その中で重要な位置を占めるのが「自己イメージ」
・ 「自己イメージ」は「死」に関係している
しかしこれらすべてを何か見えないものが支えている。それが生命である。
(1) 港千尋『映像論』(NHKブックス)
(2) ジル・ドゥルーズ「最も偉大なるアイルランド映画」(『ユリイカ』1996.2
(3) ジル・ドゥルーズ『消尽したもの』(新潮社)
(4) フーコー『監獄の誕生』(新潮社)
(5) ジャック・ラカン『エクリ1』(弘文堂)
(6) ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ジャコメッティ』(パルコ出版)
(7) メルロ=ポンティ「眼と精神」(みすず書房)