オートポイエーシス論のポイント

     
  1. 運動の優位
    オートポイエーシス論は、運動の記述から出発して思考することをめざす。
    座標系を前提しない運動=感覚の肌理(きめ)にかきこまれた運動。
  2. 意図とその実現というモデルからの解放
    ・意図や希望、目的や手段、意味のない存在の場において、おのずから生じる秩序。
    ・ただし、神のごとき存在によって、秩序がさだめられるのではなく、行為が継続するなかで、おのずと維持される秩序を問題にする。
    ・意図や目的の概念など無意味だ、と言っているわけではなく、それらは行為の継続によって、あとから作られる二次的なものだということ。
  3. 生命の自己
    「気がついたときには否応なく自己は形成されている」(16)=自己はつねに「遅れ」て生成する
    ・境界としての自己=「システムはみずから自身で自己の境界を形成する」(89)
    「自他の境界こそが自己である」(木村敏)
    マ「システムには入力も出力もない」
    ・入力や出力が問題にならないような場があるマ自己と他者、内部と外部の分離を前提にしないで、経験を語ることはできないのか?
    ・境界=自己と他者の分離に「先立つ」もの。自己と他者があって、境界があるのではなく、境界がまず作動して、そこからおのずと自己と他者が分節されていく(フッサールの現象学的還元を押し進め、さらに先に行こうとする考え方のひとつ)
  4. 場の形成
    「生命はみずから自身の空間のうちへ実現しそこへ住まうのであって、観察者の指定する空間ではじめて自己を形成するのではない」
  5. アフォーダンスと環境
    ・行為と環境の「相即」(119)=環境と行為を結びつける媒介的なものはない。
    ・環境の情報は、行為に即して「与えられる」。「見えている対象のアフォーダンスではなく、見るという行為そのものの相即しているアフォーダンス」(122)
    ・泳ぎ方の例(124)=横泳ぎ風の行為の継続を形成したとき、まさにそのことによってはじめて行為する自己と、それに相即する環境が形成される。
  6. アフォーダンスを越えて(126-)
    ・アフォーダンスは受動か能動か、主観か客観か?
    能動的な行為が継続しているなかで、出会われる受動性。そのとき能動と受動は、一瞬「反転」(メルロ=ポンティ)する。
    この「反転」の場こそが、「知覚の降り立つ場」(荒川修作)なのではないか。

    ・知覚されないもの(重力、光)をどう扱うか。(現象学が「地平」とよんだもの)
    ・環境それじたいの変貌と行為のスタイルの変化。環境が変化するとき、それに対応した自己はいまだ形成されておらず、遅れる。そのとき環境は知覚されない。「反転」そのものは知覚されない。しかしだからこそ、反転は根本的なのではないか。

    ・制作行為。環境そのものを変えるのはどうするか?
  7. 残された問題
    ・心的なシステムとの関係=分裂病論へ
    ・複数のシステムのあいだの関係
    ・政治システムとの関係(例:フーコー『監獄の誕生』取り巻くものとしての権力


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