境界論

1)哲学史における境界=カント、ヘーゲル
人間という限界的存在(フーコー)
理性の限界批判(カント)
人間がみずからに課すものとしての境界。
ハイデガーの「死に向かう存在」
cf. デリダ『アポリア』(人文書院)死という限界。不可能の可能性としての死。
 
境界の物語としてのカフカ
到着するや、いなやみずからを消去する線の記憶(デリダ『盲人の記憶』みすず書房)
 
 
 

入力も出力もない

・システムを規定するのは、外部なのか内部なのか?
本能と学習、遺伝と獲得形質、伝統と進歩。
情報?作動に即してみる限り、情報なる「もの」はない。
 
・オートポイエーシスは、こうした問題は偽の問題である。つまり問題がないところに問題を立ててしまっていると考える。
 
・あるのは境界の行為の作動である。その作動によってそのつど自己がつくられる。同時に他者もつくられる。

境界と自己

・自己とは、自己自身と環境との境界である。すなわち、自己自身と環境との区別が生じる場である。
=「AはAと非Aの境界ないしは区別である」
=キルケゴール「自己とは自己自身に関係するひとつの関係である」
「関係の関係」ヘーゲルの批判。
=ライプニッツ「モナドには、そこから何かが出入りするような窓はない」木村敏=それは窓しかない。まるごと窓。
モナド=精神の統一。不可分の一でありながら、多を表出。
ドゥルーズ=バロックにたとえる。
 
・内部は見えない。窓っていうのは他者が入り込んでしまう。窓があるから自己があるのではなく、窓こそが入り込む他者を作り出す。意識とはスリガラス。
 
自他の勾配。
○他者論のポイント
1)自己の唯一性=交換不可能性
2)他者の「超越」、非対称性。
3)自己と他者の交換可能性=「こころ」を持った他者。「われわれ」(相互主観性)
 
 

問題:

1)どういうかたちで、この自他関係がゆらいでしまうことがあるか。病理学的な事態。
出来事
/自己があたらしいものに遭遇する場。新しいものは、内部でも外部でもない。襞。
/自他の関係が崩壊する場でもある。
 
2)すべては境界であり、アイデンティティなどというものはない、というような相対主義ではない。むしろそこに生起する特異な出来事の記述をめざすもの。自己は、出来事が作り出す場に、つねに遅れて到来する。
 
 
出来事の問題
新しいものが出現する。しかし何が出現するのか。
システムには入力も出力もないのだから、新しい「もの」はどこにもない。
こと=出来事、関係、差異。
 
 
3)入力もなく出力もないシステムは、どのような空間をかたちづくるのか?