フーコーの権力論(1)

 

「権力」にたいする新たなイメージ。

     上から押さえつける権力ではなく、むしろ横や下からひそかに働くような見えない力

     禁止する権力ではなく、むしろたえまない訓練を要求する力

そんな権力の中で、どのような「自由」がありうるのだろうか。

 

『監獄の誕生』(一九七五)原題『監視することと処罰すること』

     一九世紀終わりまで「処罰の時代」

・処罰の時代。残忍な刑罰。見せしめとしての刑罰。「身体」を責めさいなむ刑罰。

Ø 残忍で、不公平で、不連続な権力。

一九世紀以降「監視の時代」

・啓蒙主義の影響で、残忍な刑罰の批判や死刑廃止が説かれるようになる(ヒューマニズム)。「罰せられるべきなのは、身体ではなく、心である」。監獄の改革。

Ø ・「矯正」するものとしての処罰。

Ø ・残忍ではなく、公平で、連続的な権力。

 

○フーコーの発想。一見ヒューマンにみえる転換において、別の種類の「権力」が生まれてきていること。この権力は、監獄だけではなく、兵隊の訓練や、学校、病院などにおいても働いていること。

 

兵隊の訓練。

・「従順な身体」。効率的に働く機械として、鍛え上げること。

・ディシプリン(規律、訓練)の重視。

・効率重視:兵隊の身体をできるだけうまく「活用」すること

学校

・規律の重視

・遅刻・欠席の管理

     ・態度、言葉遣い、「罪を理解させること」

→ 「逸脱」をチェック。ある水準に達しているか、やるべきことをやっているか・・

     「規格化normalisation」。ある水準を決め、それがどれだけ実現されているかをチェックして、児童を配分し、数量化する。「適性」を判断。

 

監獄

「一望監視装置(panopticon)」

フーコーの発想

このような権力のありかたを、監獄の建築のありかたで示したこと。

     個人化

     行動がつねに見えるようにすること。権力は「見えないが、つねに見ている」。

     ・どれだけ悔悛したか。

 

さらなる逆転。この監獄はじつは失敗し、軽犯罪が増加。