雑感:ノンバーバ
ル表現の場としての「詩のボクシング」
雑感:ノンバーバル表現の場としての「詩のボクシング」
楠かつのり
「詩のボクシング」は、声の場です。正確には、声の「言葉」の場です。「言葉」には、それを伝えるための器が必要です。文字の「言葉」の器は紙、声の「言葉」の器は身体ということになります。いずれも、その器を生かした使い方が表現に求められます。この器の違いを正しく認識できていないと、「詩のボクシング」では「パフォーマンスが重視されて言葉(詩)が軽視されている」などという間違った見方をすることになります。逆に正しく認識できていれば、「詩のボクシング」においては、身体を使った表現に対してパフォーマンスという言い方をするのではなく、非言語的な表現、つまりノンバーバル表現という言い方をしたほうがよいでしょう。
ノンバーバル表現とは、相手と対面した時の顔の表情やしぐさ及び身振り手振りを含む態度、動作全般を指します。要するに、「言葉」だけでは分からない、
伝わらない「ことば」があるということです。
人の行うコミュニケーションでは「言葉」を使いますが、心理学の研究結果では、「言葉」が意味するものは5~15%程度、片やノンバーバル表現の意味する
ものは85~95%になるそうです。この結果らかすると、人がコミュニケーションをする時には、言語そのものよりも、人の表情や態度、動作のほうがはるか
に意味を感じさせる力を持っているというとになります。確かに、「熱い」という言葉を発するだけではなく、例えば、沸騰したやかんに触ったとして、その瞬
間
の
表
情や反射動作があるからこそ、その時に感じたやかんの熱さの度合いもより鮮明になるわけです。
余談ですが、心理学では、人の第一印象が作られるのに3分の時間が必要とされるそうです。ということは、「詩のボクシング」で朗読に与えられる3分の
制限時間は、朗読ボクサーの第一印象を形作るには適切な時間であったということになります。ここでは詳しい説明は避けますが、ジャッジ判定において
も3分は重要な時間となっていま
す。
話を戻します。言語はもともと身体を使って体得されるのであって、理屈によって得られるものではありません。このこと
がノンバーバル表現の源にもなっています。その証に声には身体感覚(五感)からもたらされた形容が豊富にあります。視覚的には、野太い声、黄色い声、聴覚
的には、だみ声、金きり声、味覚的には、渋い声、甘い声、触覚的には、尖った声、ざらついた声などと形容されています。そればかりではなく、声は、人の健
康
状態や心理、人柄までも映し出します。
ノンバーバル表現については、日本人と欧米人を比較しても、発想は異なるもののそれぞれに人とのコミュニケーションにおいて必要なものとして重視されてい
ます。むしろ日本人のほうが、ノンバーバル表現をより大切なものと考えており、「言葉」では語らぬ代わりにしぐさや動作で語ろうとする傾向が強いといわれ
ています。
しか
も繊細です。その一例とし
て、挨拶をする上で、欧米人のように顔を見合わせて握手をするやり方と日本人の顔を見合わせないで互いの心を感じ合うようにするお辞儀を挙げることができ
るでしょう。
ところで、この「顔を見合わせない」や「お辞儀をする」ことが、いかにも日本の「語らぬ文化」の表れのように短絡に理解されてしまいがちですが、そうでは
な
のです。「顔
を
見合せない」、「お辞儀をする」ことは一見控え目な行為のように見えながらも、実は非常に能動的、積極的な意味を持っているのです。
芳賀綏氏の著書「日本人の表現心理」(中央叢書)には、日本人のコミュニケーションの特徴がうまく八つにまとめられています。それは、「語らぬ」、「わか
らせぬ」、「いたわる」、「ひかえる」、「修める」、「ささやかな」、「流れる」、「まかせる」です。これら芳賀氏がまとめた言語イメージからすると、日
本人は非常に受動的なコミュニケーションを得意としているように感じられますが、実はその逆で、繰り返しますが、日本人はそれらの言語イメージを支えるた
めのノンバーバル
表現
をコミュニケーションの中で能動的、積
極的なものとしてしっかりと価値化しているのです。
とはいうものの、芳賀氏の指摘する「日本人の表現心理」も今や大きく変わろうとしています。その背景には、日本的な村落共同体の崩壊にはじまり、その崩壊
の
一因となった核家族という捉え方にも大きな変化が現れていることが挙げられるでしょう。さらには、現在の日本に起こっている犯罪の内容
につい
て、こ
れまでのように「語らぬ」、「わからせぬ」、「いたわる」、「ひかえる」、「修める」、「ささやかな」、「流れる」、「まかせる」といった受動的な行動パ
ターンでは捉えられない状況が進んでいることを挙げることもできるでしょう。
だからこそ、やや大袈裟にいえば、現代の日本人を知る上でもあるいは現在の「日本人の表現心理」を知る上においても、リングに立つ朗読ボクサー
たちの身体を使った表現は(単なるパフォーマン
スじゃないかとケチをつけないで)もっと注目されてしかるべきものだとわたしは思っているのです。もちろん、朗読表現の可能性を探る上においてもですが。
そういえば、歌人の俵万智さんにジャッジを引き受けてもらった時、朗読ボクサーたちの表現をパフォーマンスとは言わずに「日本人離れした表現」と評してく
れたことがありました。彼女は、パフォーマンスという「言葉」ではくくれないものをそこに感じ取っていたのでしょう。
※下記の集英社文庫ホームページに今回の全国大会のレポートが
掲載されています。
声のパンチ、言葉のパンチ・小山田桐子
------------第六回
「詩のボクシング」全国大会を終えて・
小笠原淳・松本きりり・ささりん・高瀬草ノ介他------------

小笠原淳
出場者のひとりが私の朗読をして、「ほとんどあれは音楽だった」という意味のことを言われた。
私は自らの詩表現の希薄さを暗にほのめかされたような気持ちになってうなだれたが、私は声による言語表現そのものが、音から宿命的に乖離出来ない、それは
むしろ音楽とも言えるべき現象であると信じる人間である。
私はかねてより言葉の意義と発声とが拮抗する瞬間に言い知れぬ快感を憶えてきた。しかし私のそ
の声の試みは、ただホールの上層を風のように滑るばかりで、聴衆の身体に滲みこんでいこうとはしなかった。極端に言うならば、私のようなスタイルの朗読
は、第一に聴き手の子宮や細胞を刺激したり、また呼び覚ましたりするようでなければ成立しがたい。また時には一種の嫌悪をも引き出しうるものでなければな
らないだろう。ホールの上層を無味乾燥な風のように滑るばかりでは塵や芥と何の違いがあろうか。私は声による表現に取り組む者の一介として(極めて末端か
らではあるが)、今回の自己表現を厳しく評価しなければならないと思う。
「詩のボクシング」が、私の自己表現を、声に対する強い意識を、声に対する異常な執着を、育ん
できた。入り口はいつだってどこだって構わないと思う。事実、私の声は楠代表によって生かされてきた。蜘蛛の糸のような微かな希望が私の可能性をいつも繋
ぎとめてきた。今回の結果に当然私は落胆した。“のぞみ”に乗った三時間の帰路が僅か百八十秒に感じられ、車窓の景色の記憶のその殆どを喪失した。終着駅
ではうら寂しい鐘の音が鳴り響くのを聞いた。「ぼくは、永遠に勝利しない」と声に出して呟いてみる。私はもっと滑稽な存在として自己を提示していかなけれ
ばならないはずだ。いずれにせよ、私はどんな時だって、希望を失うわけにはいかないだろう。

「私」を遠ざけるために川柳を吐きつづけて十五年となる。言葉を使うことは名付けのはじまりであり、「私」を語ることは堕落のはじまりである。
劇場の一人称を排除せよ 松本きりり
「詩のボクシング」と出会って、今度は言葉に肉体を持たせる歓びを知った。肉体を持ちえた言葉は、思いもかけぬ方向へと走り出す。言葉になる前の混沌に、
夜中のベランダから飛び降りるまでは行かないが、歩きまわり、転げまわり、時には外に走りに行き、どの部屋もメモだらけになるのだ。「詩のボクシング」以
降、肉体の面白さに味をしめた。
そして今年三月、手術で腹を十センチ切ったのだが、術後の痛み止めをかたくなに断り、肉体の声を
聞くこととした。もちろんメモ持参で。後悔するにはさほど時間はかからず、悶え苦しむ私の所に何度も看護婦は来た。何か素晴らしい発見を望む私はえんぴつ
片手に脂汗たらたら、失神寸前、一晩中うなりたおして、残ったのは真っ白なメモだけであった。なんという肉体の力だろう。思索どころか言葉すら出てこぬ。
人は肉体には勝てない。あさましい精神論や豊かすぎる感情に、私は大きくあぐらをかく。
さて「詩のボクシング」全国大会、である。肉体を痛めつけて、宣言通り四キロ減量しての参加だ。自作の詩は入れ代わり立ち代り、私の肉体に宿り、悪態をつ
き、不眠と食欲不振で苦しめた。まるでエクソシストである。それを一気に吐き出せるかと思うと、またしても武者震い、体は正直である。そうこうするうち
あっという間に試合は終わっていた。結果は不本意だが、不満足ではない。人生いたるところ宝の山ではないかと、リングの外であっぷあっぷである。落ち込ん
でるヒマなんてどこにもないんである。

ささりん
結果は2回戦敗退。見事優勝された木村さんとの勝負で僕自身も気持ち良い、いや、感想の出ないくらいすみきった青の札が並んだフル
マークで敗れた。そこに悔しさは無い。なのに、2回戦を終えた僕はとてつもなく大きな後悔に襲われていた。正直、その落胆からしばらくその後の対戦の様子
や朗読が目に耳に入ってこなかった。
「なぜ、あの会場で一番聞いてもらいたかった作品を出さなかったのか?」
2回戦、木村さんの朗読を待つ間、僕は原稿の入ったファイルを何度も左右にめくった。
「もし勝ち進んだら?を想定し初めから
次はこれって決めていた作品か?」
「応援に駆けつけてくれた学生時代の友
人に聞いてもらいたい、それに日帰りで応援に来てくれた庄司不二朔さんに大会前何度も聞いてもらった新作か?」その選択は焦りと変わり始めた。
そんな中、木村さんは会場の聞き手をどんどん自分の方へ引きつけている。リングにしゃがみ会場の聞き手に手を伸ばし朗読をする姿は、本当にその手で観客を
手繰り寄せているように見えた。その時点ですでに僕は翻弄されていたのだろう。作品を選ぶことさえできなくなっていたのかもしれない。
気づけば、初めからこれって決めていた「ラップタイム」を発していた。迷いの中でスタートをきった僕は、その抜け殻のような自分の体に言葉を声を詰め込む
感覚で叫んでいた。当然、それは聞き手に届かず自分を満たす朗読で終わっていた。マラソンでも迷いの中でスタートを切った時には走れない。同じだった。
“よみたいもの、聞いてもらいたいものを出す”その純粋な行為ができなかった。どこかで結果ばかりが先行していた。何かをやり残した。全うできなかった。
そんな気分で心にポッカリ穴が開いた。
準優勝のラリットさんと大会後に話をした時、彼女はこう言っていた。「私はネパールの戦地の現状を会場の皆さんに一番伝えたかった。だからそれを真っ先に
読んだ。周囲からの勧めなどもあったが、それをやらないといけないと思った。もし1回戦で負けていてもそれがやれれば良かった。」
1作品目の後は、その悲惨さ辛さを感じさせない笑いの渦を会場に巻き起こし勝ち進んだ。“やり残さない”ってことを肌で感じさせてくれた。リングは戦うだ
けの場所ではない。自分の心を伝える場所。自分の心を映す場所。自分の心を磨く場所なんだ。緊張して恐ろしかったリングが名残惜しい場所に変わった。
そんなこんなを浮かべメモ帳に殴り書きしながら帰路を過ごす。悪い…いけない…と思いながらも、これまでずっと朗読の練習に付き合ってくれた妻に愚痴
のような訴えをこぼす。2回戦と同じ抜け殻の自分に言葉
を詰め込む行為だ。いや、それを妻にも手伝ってもらおうとしている。大会を迎えるまで家ではフライパン片手にしゃもじを振り上げゴング音を鳴らし、何度も
何度も3分間を計ってくれた妻にまだ甘えようとしている僕。そんな僕に「なんでそんなに考え込むの?自分だけの大会じゃないのよ!」と妻は強い口調。しか
しその表情は(自分の力が足りなかったかな…)と申し訳なさそうだ。未熟な僕はまた一つ妻から教え
られた。僕は「自己満足」で朗読していたのかもしれ
ない。結果ばかりを気にして自分らしさや周囲を見失っていく人間の例にぴったり当てはまる僕がいた。マラソンでもたくさん失敗しているのに…。
リングって何か?が分かったようで分かっていない、そんな僕の悶々とした時間に飽きた妻は機内の隣席で眠っている。僕以上に疲れた様子だ…それだけ僕に巻
き込まれていたんだな…。用意した5作品の中で唯一、妻の出てくる作品が2回戦でよんだ「ラップタ
イム」。本当は、これがあの会場で一番聞いてもらいた
かった作品なのかもしれない。
高瀬草ノ介
覚悟が足りな
かった。
とは言えると思います。ですが、悲壮な覚悟で臨んでも結果は同じだったでしょう。
今まで参加してきた予選会および本大会で感じることは、場所によって、あるいはその時その時で会場の空気がまるで違うということです。
これは2度経験することになった全国大会でも同じことが言えます。
第4回大会に比べて、今回の全国大会はなんだかとても明るく感じました。もちろんこれは僕自身が感じることであって、それはライティングのせいなのか外の
天気のせいなのか、それともたくさんの人から出るオーラのせいなのかは
わかりません。…ちなみに僕はオーラが見える人ではありません。
とにかく第6回全国大会は、いままで僕が参加した、あるいは見てきた大会の中で、無類の明るい空気を感じた大会でした。この場合の明るいというのは他意は
なく、また暗いのがダメということではありません。 薄暗い景色の中に映える色や光があるように、適度に暗い空気というのは僕は好きです。
第4回全国大会は落ち着いた暗さがあって、その中にいろんな色彩が落ちてて、僕は、そのまま眠りに落ちたかった。
今回の全国大会はたとえて言うなら、真昼の太陽の下。もちろん、朗読ボクサーの言葉は様々で、落ち着いた渋い言葉もあれば、粋のいい言葉、
想像力をかき立てられるような朗読、すでにアートと呼べるような言葉とリズムが一体となった朗読まで、いろんな色があったと思いますが、すべてお日様に見
られてるような感じがした、といえば言いすぎでしょうか?
僕は今回、ある程度の覚悟を持って大会に臨むはずでした。それなりに構成も考えたつもりです。でも、自分を追い込みきれなかった。調整不足も否めません。
せっかく与えられた3分間、納得のいく朗読ができなかったことに関しては悔いも残ります。でも、口惜しくないんです。中途半端に武装した僕の言葉は、明る
い太陽の下、簡単にはぎ取られました。その空気の中では、それにふさわしい言葉があったはずですが、それをその場で生み出す力も自分には無く、また空気を
自分の中に呼び込む力も不足していたに
違いありません。
ただ、自分の用意したものを順番通りにやるだけでした。そして、お日様の下、僕の変な言葉は浮いてしまったかもしれない。あるいは、濃い影の中に閉じこめ
られたのかもしれない。でも、口惜しくもないし恥ずかしくもない。…いや、負け惜しみじゃなく。
もう一度書きますが、これは僕自身が感じることで、他の人は違う感じ方をするかもしれない。けれども、僕は今回こんな風に感じました。お日様はすべてを見
ていて、お日様はすべてを許してくれる、と…言葉で感じたのではなく。そしてこの明るさは、「詩のボクシング」が大きく広がっていくためには必要なも
のかもしれない、と、なんとなくではありますが感じていました。
最後になりますが、今回とてつもない覚悟を持って大会に臨んでいた人がいました。「詩のボクシング」の名リング・アナウンサー、パブロ・サンチェス・松本
さんです。「明日死ぬかもしれない。いや、今この時に大地震が起きてみんな死んでしまうかもしれない。」
文字にしてみると悲壮な覚悟の様に見えますが、それはそれは前向きな、明るい、明るい覚悟でした。こんな覚悟もあるのだな、と僕は嬉しくなりました。
稲垣友美
今回、「詩のボクシング」全国大会に参加させていただき、自身大変よい経験になったと思います。他の人が朗読する時など、自分も観客になったみたいに楽し
く聞かせていただきましたし、勉強にもなりました。
まず驚いたのは、表現には様々な
「かたち」が存在し、それぞれが人の心に働きかけ、心を動かしていけるんだってわかったことです。言葉にはたくさんの可能性があり、奥深いものだと学ばせ
ていただきました。
また、たくさんの朗読ボクサーに
出会うことができ、刺激を受け、詩を朗読することの楽しさを知ることができました。全国大会に参加する直前までは、とても緊張し、「早く終わらせて帰り
たーい!!」と思ってましたが、いざ本番になると、みなさんの詩はどれもすばらしく、おもしろいものばかりだったし、自分が読む時もすごく楽しかったの
で、ぜひまた参加させていただきたいと思うようになりました。私はまだまだ勉強不足で、詩に関することはなんにもわからないに等しいし、ボキャブラリーも
乏しく、他のボクサーのように、深く心に響くような詩はまだまだ創れそうにありません。けれど、今の私だから、この時の自分だからこそ生み出せる言葉や詩
もあると思うので、自分なりのオリジナリティーあふれる詩を、これからも創っていけたらいいなと思います。
最後になりましたが、私にこんな
にすばらしい体験をさせてくださいました楠さんはじめ、日本朗読ボクシング協会の皆様、私を代表に選んでくれた学校のみんな、わざわざ東京にまでついてき
てくださった先生、本当にありがとうございました。全国大会に参加できたことを嬉しく、また誇りに思います。これからも「詩のボクシング」が末永く続いて
いく
ことを願ってやみません。
浦田俊哉
ステージのライトが熱かった。眼差しが熱かった。そして、私の胸の中も熱かった。あのリングに立つ高揚感は、忘れられません。拳を交えた北海道の選手と全
国のチャンプの皆さん、運営された方々、そして、観客の皆さんに、ありがとうと言いたいです。
このリングは憧れでした。言葉と拳、一見すると相容れない感じがしますが、どちらもその源は肉体、そして心。そのぶつかり合いに引き込まれました。もとも
となんでもやりたい性分。ためらっていては機を逃す。チャンスがあれば、いつかあのリングに立とう。そんな私が全国のリングに立てた。憧れが幸せへと変わ
りました。
昨年、上湧別町で「詩のボクシング」復活の報を聞き、すぐに参加の意思表明。そこから朗読ボクサーに変身。もともとへんてこな文章しか書いてこなかった私
は、何度書いても、何を書いてもへんてこ。こうなりゃこれが武器なんだと開眼というか開き直り。あとは声に乗せて精一杯思いを伝えよう。しかし、言葉は肉
体で心。推敲は減量であり筋トレ。聞いてもらえばスパーリング。まさしくボクサーそのもの。とてつもなくとんでもない場所に足を踏み入れてしまったことに
気づく。ここから先は自分との戦いでした。特に、書いた文字と声に乗せた時のギャップに苦しめられました。読むと、行間にこめた機微が逆に伝わらない。う
すっぺらい。書く、読む、書く、読むの繰り返し。「どうやったら伝わる?」の自問自答。そして、頭の中の数少ない引き出しをひっくり返して言葉を探し回
る。あーでもないこーでもないととっかえひっかえ。言葉が
少ないからすぐに行き詰まる。国語教師のくせに。そんな感じで過ごした2年間でした。
いろいろな表現があり、いろいろな感性がある。勝っても負けても新たな発見と感動がある。言葉がおざなりになる悲しい昨今、こんなに素晴らしい場がある。
一朗読ボクサーとして、全国大会のリングに立てたことを、素直に誇りに思います。最後に、今回の出場に際し、上湧別町の方々を始めご声援を頂いた様々な
方々に感謝申し上げ、筆を置きたいと思います。ありがとうございました。
増本大二郎
分からなかったと言いたい。
自分の言葉を表現することの苦しみとは何かって。
分からないとこれからも言い続けるでしょう。
自分の言葉を表現することの苦しみとは何かって。
繰り返されるQ&A…
いえ
Q&Q。
分からないこと許り。
分かってもらわなくとも良いと思って生きてきた、10000日と少し。
自分でも自分のことが分からない。
分かったことは鏡の見方だけ。
16年前に遡る。
それから鏡だけは見るなといつも自分に言い聞かせている。
「詩のボクシング」は僕にとって正に好奇心1号の発生だった。
中心気圧は930hpaはあるか。
その言葉を思い浮かべるだけでもふつふつと心が高揚した。
だが!
4本足の弱虫は、予選大会に出るだけでも3年かかった。
第6回「詩のボクシング」全国大会。
まさか自分がイイノホールのリングに立てると夢にも思っていなかった。
嬉しかった。勘違いをした。宣伝をした。
思い上がりもした。自意識過剰に更に拍車がかかった。
でも最後まで受け入れることが出来なかった。
他者というものを。
無視した訳ではない。
意識しすぎたのでも、ない?
真実は一つだけ。明らかなKO負け。
今でもいたいのといたいのと一緒にとんでいる、僕の意識。
僕の頬は腫れ上がり、それ以上に自分の右手が 左手が腫れている。
言うまい、もう。
ごめんなさいもすみませんも。
全て自分の問題。
でも有難うございますとだけは言わせて下さい。
言葉を磨き、表現を磨き、詩を磨いてきた朗読ボクサー達に。
そんな素晴らしき表現者達の一言一句を聴き逃すまいと真剣に聴いて下さったジャッジのみなさん並びにお客様に。
大会を盛り上げて下さったリングアナウンサーのパブロ・サンチェス・松本さん、そしてレフェリーの薮下秀樹さんに。
色々な面でサポートして下さったスタッフの皆さんに。
そして何より素晴らしいリングを用意して下さった楠かつのり先生に。
分かりません。僕は勝てないかもしれません。
でも負けません、自分には。ぶん殴ってもぶっ倒れない自分になります。
頑なさに磨きをかけて、自意識過剰に油を注いで再び現れます。
まだ手を振りません。両手は次の闘いの為に
グー!!
野坂哲史
このような大会に自分の自己満足を聞いてもらうのは僕にとってよい経験になりました。
「詩のボクシング」をみたこともない僕には、なにもわからない表現の場所だったのですが、表現に制限をかけるルールが無かったので気楽に朗読できました。
さすがに全国大会にもなると、一度神奈川大会を経験しているのにもかかわらず、正直かなり緊張してしまいました。
緊張しながら発した言葉は客に届いたのでしょうか。いや多分届いてないでしょう。
負けをもらった僕の詩はどこかきっと息詰まっていたのでしょう。
しかし、
これからも詩は書きます。
野坂哲史は音楽とrap、詩、表現、芸術、自然、人間、愛と平和と女をこよなく愛します。よろしくお願いします。
中島キット一之
「くやしいっ!!」、とてもくやしい、一回戦、6対1できりり選手に完敗。敗者復活決定の時も私に上がる手はパラパラ。完全な敗退。
「こんな私に何を語れというのか!」というくらいくやしい。なんといってもくやしい。リングネームがくやしい、漢字一文字のリングネームにしておくべき
だったのか…?
「まあ一回戦で敗退でしょう。」などと大会直前に他の選手の前で言っていた自分がくやしい。「敗者がいるから勝者がいる」、「参加することに意義があ
る」、なんて言葉は頭の中から吹っ飛び、ただただくやしさが頭の中にみっちりと詰まっていました。
大会から3日後、車を運転している時にくやしさがピークに達して、「ウォー!ちくしょう!」と大声で叫んでいました。
敗退の理由は滝のようにどわっと流れ出て、「東京人は星空のことなんかわかんねえ!」、「相手が強すぎだ!」、「会場の雰囲気が悪い!」などなど好き勝手
な事を
思っていました。
しかし、時が経つと冷静になるもので、今回のくやしさ(敗退の原因ではなく…)は、自分の殻を破ることがで
き
なかったという普通の結論が出てきました。
観客に訴えるとか、相手に勝つとか以前に自分自身を主張することが出来なかった。自分の中の表現力は最大出力ではなかった。リング上で恥ずかしいなどと考
え殻の中にこもり力のない表現力をさらに絞っていた。
負けることを意識しすぎで、自分の体裁の殻を維持するために無駄に力が入り、結局勝負にもならなかった。そんな不完全燃焼だから、くやしい。
自分の人生の中で、これほど自己表現の力が試されたのはあの時が初めてだったと思います。見栄、虚勢、体裁の殻破って表現力を全開にするのは結構難しく、
その訓練ができていなかったことを痛感しています。
「詩のボクシング」という格闘の場だからこそ教えられたことなのでしょうね。でもどうであれ、くやしいです。
自己表現のスイッチのオンオフと自分の殻の出し入れが出来るように日々鍛錬して、いつの日かまたリングに立ちたいです。
そして、次はちゃんとリングネームに恥じることのない満足できる「勝負」をしたいと考えています。次は勝ちます……?

野崎ターラー
一回戦敗退でしたが、悔しいという気持ちはなく、気分はスッキリしています。おそらくのびのびと詩を読めたからだと思います。ただ、負けたのはそれだけ私
の言葉にみなさんを引き込む力がなかったから、もしくは、私の言葉以上に対戦相手の言葉に吸引力があったからだと感じています。
私にとって詩を書く行為は井戸から水を汲み上げる行為に似ています。日々の生活で、意識からこぼれ落ちるしずくが私の内側にある井戸にたまっていきます。
そこへつるべを投げ入れてヨッコラショと引き上げるのが私にとって詩を書くことなのです。
本当に大変でした。つるべの重いこと…何度投げ出そうと思ったか。お
そらく大会がなければさっさと止めてしまっていたでしょう。でも、井戸の水はウマイのです。それを皆さんにも味わってもらえるよう工夫したつもりでしたが
力不足でした。それでも、内なる井戸から水を汲み上げる行為を促したこの大会に感謝しています。
敗因の分析をひとつ―今回大会に出場して再認識しました。「詩のボクシング」の主役は"声"であり、脇役は"パフォーマンス"だということです。もちろん
両方とも「詩」の中身あってのものですが、声とパフォーマンスをうまく絡めるのが勝因につながるのではないかと思いました。もちろん、観客を圧倒するほど
詩そのものが美味しければいいのでしょうが…。
ともあれ、パフォーマンスを"する"表現もあれば、"しない"のも表現。どちらかといえば、私は後者でしょうか。
これからも、水を汲み続け、その水をこぼさずに皆さんに味わっていただくことが私の目標です。
今回に関しては、大会楽しかったぁというのが率直な感想です。
まあちゃん
ピーター・バラカンさんが、木村さんにあげたその瞬間、私の敗北が決まった。
今回、「詩のボクシング」のジャジに、ピーターさんの名を見つけた時から、私は初恋に似て、ドキドキしおらしくなっていた。TVのない我が家で、家族揃っ
ての楽しみは、土曜の朝、ラジオから流れるピ-ターさんの声と他では聴けないピーターさん独自の選曲の『ウィークエンド サンシャイン』。
ピーターさんのおきまりの第一声、「おはようゴザイマス」を2才の娘から3人の子、夫婦の家族総出の台所で必ず誰かしら真似しにかかる。
ピーターさんの好み、考え、スタンス、憧れてます。そのピーターさんは木村さんを選んだ。ショック!
ミーン、ミーン鳴いている情けない私ではなく、もっと可愛い私をみせたかった。悔やんでも遅いが、はたと気づく。「違うのを読めば良かった!」、選手誰も
が思
うんだな、と。
大会が終わっても、違うのを読まなかった自分が悔しくて、悔しくて。でも、嫉妬しながらも、木村さんのかもし出す緊迫感と表現力は圧倒的だった。
私は、読んでいるだけで、言葉と声が一致してなかった。イイノホールに私の住む峠に吹く風をふかせたかった。だが、ギリギリまであがいても、その詩は完成
で
きずだった。
「詩のボクシング」は、誰もがリングに立てる門戸広き競技である。
詩が書けずとも、そ人とがダイレクトに伝われば勝利する。だからこそ、受け手の反応も真ッ正直だ。未完の詩といえども、長野の山から来ました!、と木
々のあいだをぬう風になりたかった私。
『進研ゼミ』に逃げた自分が悔しい。とは、いえ、ベスト4。自分のいいたいことが伝わる、という喜び。又、聞き手にも、その人と解り合えた喜びがある。双
方向
のこの喜びは、人の根源的な希求である。
わかって、わかりたいという選
手も聞き手も真剣勝負の「詩のボクシング」。
選手みんな、古くからの友にみえて愛おしい。
今、私は峠の我が家に吹く風を感じながら風そのものになる自分をさがしています。
福原智子
勝ちたいと思っていました。
昨年全国大会に出場させていただいて、初戦敗退したわたしはたいそう悔しかったのです。負けて初めてあの場所が、戦いの場だったことを思い知らされまし
た。
朗読ボクサーは、満たされぬものを抱いてリングに戻ってくるのでしょう。
今年もまたあの場所に立ち、勝ち、そして負けたわたしは意外なほどのすがすがしさを味わいました。
掴まれたまま持ち上げられない手首を暖かく感じながら、笑い出したいような気持ちで、仕方がないなあ、と思ったのです。
それは決して諦めではなく、いつのまにか勝敗が彼方に追いやられていたということでした。
伝われ、伝われと思いながら詩を読みました。ひとはひとりひとりです。すべてが伝わるとは思わない。それでも伝われと思った。
大会が終わるといつも、自分が何のためにリングに上がったのかを考えます。
ひとり、詩を呟きたいわけではない。声高に叫びたいわけでもない。勝ちたいわけですらなかったのです。ただ、分かり合いたかったのでした。目の前のあなた
と。
わずかでも、届くものがあればよかったと思えます。
ありがとうございました。
地上のウサギ
「詩のボクシング」全国大会が終わり、選手の打ち上げを抜けて帰っているとき、私はぼーっとしながら電車に揺られていました。
ガタンゴトン、ガタンゴトンと。
原動力が体からごっそりどこかへ持っていかれたかのように力が抜けて動けませんでした。
その時、ぼんやりと頭に浮かんだ言葉がありました。
それは、「カタチ」じゃないんだなあ…と、いう言葉でした。
ぼんやりとだけれども、確実に。
そう思ったんです。
「カタチ」じゃないんだと。
はじめから「枠」というモノからズレたパンチを受け、そして次々とリング上で繰り広げられる闘いを観て、唖然としていました。
開いた口が閉じないくらいに。
「詩」は「カタチ」じゃない。
いろんなモノがあって、いろんな闘いがある。
「カタチ」ではない、と。
何で私はこんな小さな「枠」のことしか書いてないんだろう、と。
実際書けていないのが本当のところなんだけれど…。
でも、キラキラとした発見がありました。
ウサギは鳴きながらぴょんぴょんと跳ねて、そして、ステップアップして…
次の
ジャンプ、来年の「詩のボクシング」に挑みたいです。
ハイジャンプでリングの上にたどり着きます。
郡宏暢
結果は一回戦敗退。
しかし今回、「詩のボクシング」全国大会に参加させていただいたことは、私にとって、とても有意義なものとなりました。
声の言葉による場としての「詩のボクシング」。
声にせよ文字にせよ、いずれもが身体に根ざしていることに違いはないのですが、しかしとりわけ「声の言葉」は、直接、肉体を介在させることから、その
「場」の表現であるということを、まさに肌で感じました。
肉体は、自分にとって最も近しい存在であると同時に、これほど扱いづらいものであるかと、改めて気づかされもしました。
緊張もすれば動揺もする。自分の言葉を自分の声に乗せるということは、それだけでひとつ力を持つものである反面、自らの言葉と肉体の脆弱さを、嫌というほ
ど思い知らされもしました。ライブとは、こういうものなのか…。
しかし、それら、さまざまな印象をひっくるめて、とても楽しい経験となりました。
以来、机の前にすわり、「文字の言葉」を書くときも、そのライブの感覚が、私の肉体の中に残っているような気がします。要するに、机の上で、私はライブを
するのだ。
「声の言葉」と「文字の言葉」というと、二種類の言葉があるようですが、今回の経験は、それを自分の身体の中で、ひとつにつなぎ合わせる大きな契機になっ
た
と感じています。
「声」にせよ「文字」にせよ、そのどちらかだけの言葉で形作られた神話的な世界というのは、いびつだと思う。
そして「詩」の宗教裁判の判事のような顔をしたコチコチの詩人や、たったいま世界で初めて肉体を発見したかのように振舞う若い朗読詩人のいずれにも、私は
なりたくない。
もっともっと飛躍する身体をもって書かれるべき言葉が、私の中に、まだまだあるはずだ、と。
そしていつか、また、「詩のボクシング」のリングに!