第6回「詩のボクシング」全国大会2006.10.7









第6回「詩のボクシング」全国大会チャンピオ ン

木村恵美

[闘いを終えての感想]

「詩のボクシング」に参加するなど夢にも思わぬ今年の春、私は突然、体の中から言葉が湧いて止まらぬような病的な状態になった。子育てに専念する6年間に 知らずのうちに乾ききっていた感性が言葉という水を求め、止めようもなく暴走した。その中で、誰に聞かせるあてもなく、しかし声に出して読むためにだけ生 まれた私の言葉は、「詩のボクシング」という受け皿なしには存在することのできない表現活動だったのだと、今にして思う。

一つの作品を書き上げる時、私はほとんど文字の上での推敲をしない。自分の周囲に立ち現れた状況と、その中でもがく自分の姿をただありのままに平易な言葉 で書き写すのが精一杯だからだ。そのうえ書き終えるのも早い。起こった出来事が終わってしまえば、もう書くことはなくなってしまうからだ。

一瞬のうちに身に降りかかった事象は私の中に事実として残る。起こってしまった事実はもう変更がきかない。それでも私が後で言葉を推敲することがあるとし たら、それは発音しづらい言葉である時だ。「詩を書く」という活動に自覚を持って取り組んでいる人から見れば、私の作品は言葉を磨くという最も大切な作業 を怠った、とても詩とは呼べないものだと思う。

私は自分の表現活動をジャンル分けされるのが苦手だ。演劇活動をしていた時は、その作品を見た人に「これは演劇なのですか」と尋ねられた。6年前まで中学 校に国語教員として勤め、演劇部の顧問をしていたが、生徒達と共に生み出していたオリジナル劇も、しばしば「中学生らしくない」と評された。

テーマに対する自分の思いをとことん書かせ、そこからセリフを起こし、役は必ずそれを書いた生徒のものにした。劇の完成を目指して繰り返す練習の中で、生 徒の何人かは自分のセリフに取り組むことに苦痛を訴えた。彼らは知っていた。他者によって書かれた言葉を自分なりに解釈することよりも、自分の言葉を自分 で表現することの方が、実は難しいことを。なぜなら、体が正解を知っているからだ。その正解に到達していない自分をどうしようもなく見透かして苦しみ、彼 らは自己と格闘した。

人の心を揺さぶる言葉が生まれる瞬間というのは、そこに平生とは比べ物にならないほど大きなエネルギーが働くことが多い。私にとって詩の朗読とは、その瞬 間、私の中に起こったことを克明に再現することだ。体の中を駆け抜 けたあの衝撃を、再び身の内に起こすことだ。それは最初にその言葉が生まれた時の、更に何倍もの力で意識的に起こす事件なのだ。ステージから降りた私に、 名も知らぬ観客が囁いた。「私、全ての映像が見えました。」どんな賞賛の言葉よりうれしかった。

自分の中から、これしかないという形で出てきてしまった表現を、他の何にも置き換えることはできず、ただもてあましてきた。詩でもない、演劇でもない、ど こにも所属できないコウモリのような私を、初めて「詩のボクシング」が抱きとめてくれた。




「詩のボクシング」全国リングで頂点 元中学校教諭・木村さん
2006.11.14 朝日新聞大阪地方版/香川


ステージ上に設けられたリングで詩を朗読しあい、どれだけ観客の心に届いたかで勝敗を決める「詩のボクシング」。10月7日に東京であった全国大会で、高 松市一宮町の木村恵美さん(39)がチャンピオンになった。木村さんは2人の子どもを育てる元中学校教師で「詩のようなもの」を書き始めたのは今春から。 主婦の日常から生まれた思いが、並みいる強敵をノックアウトした。

隣の席の客にイカリングフライ定食が届いた”

木村さんの詩「イカリング」は、ありふれたレストランの光景から始まる。ほかの客にも次々とイカリングが出され、ハンバーグ定食が食べたかった「私」はイ カリングから逃げ出す。子どもの手を引いて店の外へ出た「私」に追いすがるイカリング。ついに「私」は賞味期限の切れたタルタルソースをポケットから取り 出す……。

「『だから何なの』と言いたくなるような内容でしょう? この詩は朗読でなければ伝わらないんです」と木村さん。

全国大会は各地区大会を勝ち抜いた15人と外国人枠1人の計16人によるトーナメント。2人の「朗読ボクサー」が自作の詩をそれぞれ3分間読み、俳人の黛 まどかさん、漫画家の蛭子能収さんら7人の審判が赤か青の札を上げ、多い方が勝ち。ちょうネクタイ姿のレフェリーが勝者の腕を高く掲げる。

パフォーマンスもOKで、派手な着物をまとう女性や、ランナー姿で走りながら朗読する男性もいる。木村さんはマイクを使わず裸足でひざまずき、客席に手を 差し伸べたり、背を向けたり、体全体を使って思いを表現した。

「勝敗を決められる瞬間はいやでした。でも、自分を表現できた満足感はありましたね」

中学から大学まで演劇部。俳優を目指したこともあったが、「他の人が演じた方が面白いような気がして」断念。89年に母校の中学の教師になってからは、演 劇部で生徒たちと創作劇に挑戦した。特定のジャンルや型にはまるのが嫌で、生徒には、一人ひとりの心の声をそのまま劇にして演じるよう指導した。

00年、出産を機に退職し、子育てに没頭する。「子育ては楽しくてしょうがなかった」。ところが今春、自分の中から言葉がふつふつとわき上がってきた。平 凡な日常生活の裏にある恐怖、衝動……。そこで始めたのがブログ。パソコンにはき出した言葉は、徐々に詩のようなものになった。「我慢していたつもりはな いけれど、何かに渇望していたのかも」

今年5月、公民館に立ち寄った時に「詩のボクシング」の香川大会のチラシが目に付いた。朗読する女性のイラストを見て「これだ」と思った。

木村さんの詩は、2児の母として、妻としての生活と切り離せない題材が多い。浮かんだ言葉をそのままつづり、あまり推敲(すいこう)はしない。例えば“子 どもが生まれたとき、名を付けることを迫られた”という一節のある詩では、子どもに名前を付けることに恐ろしさを感じる親の心の内側がストレートに明かさ れる。

「主婦でありながら、どこかそこに所属しきれないと感じていたのだと思う。そんな自分が、『詩のボクシング』で『ここにいていいよ』って言ってもらえたよ うな気がした。優勝したことでもう出場できないのが残念だけれど、表現活動は続けていきたい」。




言葉が循環するから面白い
2006.11.24 四国新聞

 
リング上で対戦者が言葉と心をぶつけ合い、どれだけ聴衆の心をつかめるかを競う「詩のボクシング」。ことしの全国大会でば高松市の木村恵美さん(三九)が 優勝した。「言葉が水のように聴く人に吸収され、また新しい言葉を産む。詩が循環していくからこそ、面白い」。単語の一つ一つに思いを込めて語る姿が印象 的だった。

大会締め切り寸前、偶然市役所の出張所で申込書を見つけたのが出場のきっかけ。実はその時、「止められないくらい」自分の中から言葉があふれ出ている時期 だった。

大学卒業後、中学、高校の教員となり、演劇部の顧問になった。その当時書きためていた文章を、第二子が幼稚園に上がったことをきっかけにパソコンに打ち込 んでいたら、「十年前の自分」に触発されてしまった。

ブログを立ち上げたら教員や当時の知り合いや教え子からのコメントが寄せられ、またインスビレーションを受ける連歌のような連鎖。「浮かんできた言葉を出 してしまわないと、本当に気分が悪くなっていました。家事もできない状態で、まずいな、と思っていました」。そんな時に、詩のリングが目に入ったわけだ。

ブログから着想を得た独創的な詩は、大会を主催する日本朗読ボクシング協会の楠かつのり代表をはじめ、多くの観客の支持を集めた。最も大切にしているのが 「名付けることに抵抗がある」という作品。子どもと対等につきあいたいと「理性的」に考えながら、名付けることで「所有」し、溺愛しそうな自分がいる。友 人から「議論を呼ぶ作品」と言われた。

自分より重いバックグラウンドを詠む対戟相手もいた。なぜ自分が勝ち進むのか、疑問に思ったが、選手の一人に「あなたほど自分に正直な人はいなかった」と 言われ、腑に落ちた。

育児も一段落し、二十年先を見据えながら、自身の表現者としてのスタンスを模索中。「自分がやるよりも、他人に表現させたい。結局、演劇のようなことを再 開したいんですね」。ビッグタイトルを獲得しても、彼女の立ち位置は変わらない。

こしとしで六年目を迎えた同大会で四国から優勝者が出たのは初めて。これをきっかけに、言葉と心を深める詩の運動が深まることを期待したい。

[メモ]

木村さんは、25日午後2時から高松市片原町の市教委生涯学習センターで開かれる、楠かつのりさんの講演会に参加する。




[ひゅーまん@香川]木村恵美さん40=香川
2006.12.04 読売新聞大阪朝刊


「詩のボクシング」で優勝 木村恵美さん

言葉でつながりあえているから生きていける子 どもが生まれたとき、名を付けることを迫られた。

わが子に名前を付けるときの率直な戸惑いや、日常生活の中の恐怖感をつづった詩を読み上げ、10月、「詩のボクシング」全国大会(東京都)でチャンピオン に輝いた。

「言葉を、人前で披露する苦しさを知った。でも、自分を客観的に見つめられることも実感した」という。 

元中学教諭で2児の母。中学から大学まで演劇部に所属した。きっかけは高松市の公民館で見たチラシだった。

リング上の2人が自作の詩を朗読し聞く人の心に響いたかを競う大会。春から日々の思いをパソコンで書き付けていた。気になり応募した。

君と過ごした時間が/今もこの心をあたためていることを/君は知らない。大会後、知人の講演会で、教諭時代の教え子を思って読んだ。

誰でも、知らない間に人に元気や希望を与えているのだよと。「子供たちに、自分の気持ちを素直に表現できる場を提供したい」。思いは強くなった。




言葉 命の水 「月曜随想」に木村恵美寄稿
2006.12.04 四国新聞


私にとって言葉は水だ。今日から明日へ私を生かす、命の水だ。

台風の影響で10月6日は雨だった。降り立つ東京駅。大量の水に迎えられて、わけもなく安心した。私は東京に受け入れられたと思った。

翌日は晴れ。地図を片手に「詩のボクシング」全国大会の会場に向かう私には、二つの目標があった。一つは、朗読の際には自分の描いた世界の再現に集中する こと。二つ目は、対戦相手をはじめ出場者全員の詩をきちんと聞き、しっかりと受け止めること。どちらの目標にも自分なりに最善を尽くせたと思う。あの雨の おかげだと思った。

水は絶えずその形を変える。蒸発し、また凝結して降り注ぎ、流れ、融合し、この星の上に壮大な循環を描く。体の80%が水でできている私たち人間も、だか らひと時として同じ身体ではいられない。変化する体から出る声も、それに伴って変化する。声で生計を立てている人たちが何よりも体調管理に努めるのは、そ の声をいつも一定に保つ必要があるからだ。

「詩のボクシング」はプロ優位のものではない。むしろ、ことさらには声を鍛えたことのない一般の人々の荒削りな表現が勝ち上がってゆくことがある。その表 現は不安定だ。体調が、精神状態が、そのまま声となって現れ、朗読者はどうしようもなくありのままの自分をさらす。しかし、そこにこそ「詩のボクシング」 の魅力があるのかもしれない。

決勝戦は2ラウンド制で、準備した自作の詩を朗読したあと、その場で引き当てたクジに書かれたお題をもとに即興で詩を詠む。制限時間の3分間に、カッと なった頭の中でテーマと自分の接点を探し、注意深く言葉をつなぎながらひとつの世界をまとめあげる。無いものは出てこない。あるはずのものさえ出てこな い。煮えたぎる頭はその中に満たされていたはずの水をカラッポに干上がらせてしまうのだ。

戦いという形式をとることによって、勝たねば次が聞いてもらえないという絶対的な掟を課された「詩のボクシング」は、それだけで出場者達を追いつめる。追 いつめられた中で私にできたことは、自分が何者であるかを文字によらず声によらず、しかしその双方によって赤裸々に提示することしかなかった。

言葉は(音声を伴う言葉は)聞く者の耳から入りその心に流れ込む。「詩のボクシング」は更に視覚にも訴える特徴を持つ。このとき、何と言う言葉であるか、 どのような声であるか、どのように話すかは別々の観点であるかに見えて、実は不可分の事象なのだ。水の存在が、液体であることとその味と透明であることが 分けられないのと同じだ。どれかひとつが特徴的であるとしても、それだけで評価しようとすると全体性を捉え損ねてしまうのだ。その意味で、文字だけでも音 声だけでも演技だけでも成立しない詩の朗読という表現活動は、どこにも所属できないゆえにどの限界をも軽々と超越するだろう。

「詩のボクシング」とは何か。全国大会を終えてなお、私はそれを簡潔に定義することはできない。それでも、あのリングの上こそが、変化し続ける身体から発 せられる変化し続ける言葉を、変化し続ける観客が受け止め、その表現も評価も水の如く変化し続けながら、良い意味でどこにもジャンル分けされることなく永 遠に私たちの現在(いま)と関わり続ける場であることだけは間違いないと確信する。

誰かの言葉に心揺さぶられるとき。それは、他者と自己との水が呼び合い、循環する一瞬だ。水を飲み、日々小さな生まれ変わりを果たして生きてゆく体のよう に、私たちの心もたくさんの他者の言葉を飲み干すことで刻々と生まれ変わり思索を続けてゆく。言葉は水。一人ひとりの「私」をつくり、互いを潤す命の水な のだ。









準チャンピオン

マハットラリット・マヤ
(ネパール)

[闘いを終えての感想]

私は日本語検定の1級(最上級)を取得したものの、自分の日本語力に決して満足はしていません。そんな私が、「詩のボクシング」に出場することができるだ なんて不可能に近いと思ったとしても不思議ではないでしょう。

奈良大会を観客として観た時、優勝を争うお二人の詩を朗読する達者ぶりや即興には本当に圧倒されました。だから、「詩のボクシング」に初めての参加となる 今回の全国大会では、第一回戦で退場にならないのが私の目標でした。それが準優勝という思わぬ結果になり、そのことをどう受け止めていいのか、実のところ 冷 静ではいられませんでした。

会場を笑わせたものの、即興では上手くいかなかったことが、やはり「詩」をもっと自分のものにすることがいまいちできていない証拠だと素直に反省していま す。

しかし、今回の大会を通じて「詩」に対して私のイメージが少し変わりました。「詩」は文才のある言葉のプロだけのものではない、言葉を自分だけの世界の中 でたらいまわししてもいけない、また、「詩」は漫才のような浅いことでもない、などなど様々なことを思い知ることができました。

生まれ育った文化とはかけ離れた環境での暮らし、素直に「自分らしく」生きることが難しい今、「詩」こそ私を表現できる方法なのだと気がつきました。

今回、私を影で優しく、暖かく支えてくださった方々に心から礼を言わせて頂きます。そして、今大会でのすべての出場者と素晴らしい一時を過ごせたことが、 準優勝というラベル(評価)より、また住民票よりもず〜っと大切なことになりました。

また会える日まで!


東奔西走・奈良新聞 2006.11.7



主催:日本朗読ボクシ ング協会

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