CHRONICLE
04.2.15(日)
内田樹氏が自らのホームページで「批評的」であることを次のように定義している。
「批評的である」というのは、ひとことでいえば「外に立つ」、ということである。「学術的である」というのも同じことだ。私たちの思考や感覚は、私
たちがそこに嵌入されているもろもろの社会的・文化的な制度によって規制されている。いわば、私たちはその制度によって選択的に何かを
「見せられ」「聞かされ」「思考させられ」「感じさせられている」。
中略
批評的であるというのは、自分自身の視野を限定している、この文化的な「遮眼帯」の輪郭や機能を手探りして、「自分は何を見せられ、何か ら遠ざけられているのか」を知ろうとすることである。ある映画は「よい映画」であり、ある映画は「よくない映画」であるという判定を私たちはす る。だが、その判定はいかなる根拠によってなされているのか。個別的な作品の良否の議論より先に、まず「私はいかなる度量衡を用いて、良 否の判定をしているのか?」「どうしてまた私はその度量衡には汎通性があると信じ込んでいられるのだろう?」という、自分自身がそこに組み 込まれている臆断のパラダイムを問い返すという手続きが必要なのではないか。もちろん、それは「自分の後頭部を自分の肉眼で見たい」とか 、「自分が歩いている姿を上空から俯瞰したい」というのと同じで「むりな望み」なのである。むりな望みではあるけれど、それを望むか望まない かが、批評的であるかないかのぎりぎりの分岐である。自分自身をそこに含む風景の全体を眺望すること。それが学術的であるということ、批 評的であるということのウチダ的定義である。
内田氏は論文を書く作法をここで語っている。が、これはそのまま人生の作法として、僕たちが日常生活を営む際に遭遇する様々な物事に対してどのような姿勢で臨むべきか、臨みたいかが語られているようにも思う。そして、氏が言うようにこれもまた「むりな望み」である。むりな望みではあるけれど、それを望むか望まないかが、decentであるかないかのぎりぎりの分岐であると思う。
99.1.1(金)
人生とは選択と喪失なのだというあたりまえのことを、最近深く納得するようになってきた。若い時期はあれもこれもと欲張って選んだり、あるいは逆に、これだけはと1つのものを一途に追いかけたりしていたような気がする。そして、喪失感も人一倍強く、何かを失った悲しみは長く心の中に尾を引いたものだった。
自分にとって大切なものを全て手に入れたいという欲求が、そのことが不可能な故に、結局人を深く絶望させたり、夢を実現させたいと選んだ道を、自らの非力や怠慢のために、断念せざるを得なくなったりする。少し暗すぎる考え方かも知れないけれど、日常を生きるとはこのような絶望や断念に耐えながらも、自分が選んだ、あるいは選ばざるを得なかった道を歩み続けることであった。そんな風にして、人生はだんだん限定されたものになり、最終的には選択の余地のないものに落ち着く。40才を目の前にして、何か大切なことを選択するのに悩むということは本当に少なくなった。人生を変えるほどの選択をする勇気もない。これまで失ったものが僕の心の奥底に幾重にも重なる陰のようなものを残してはいるものの、選択したものを守らなければならないという一種の責任みたいなものが、暗い夜道で遠くに微かに輝く光のように、僕をその方向へと引き寄せ歩ませ続けている。この先、僕の身にどのようなことが起こりうるのだろうか。人生の折り返し点を通り過ぎて、選択と喪失の問題に心を悩ませることもないのだろうか。あるいは、予想外に大きな選択がその返礼に耐えられないほどの喪失感をもたらすのだろうか。新たに何かを選ぶということもなく、ただ失い続けることだけが残された人生なのだろうか。いずれにせよ、微かな光を頼りにして道に迷わぬように歩み続けるしかない。自分で選び失われずに自分に対して微かな光りを放ち続けているもの、何かを深く共有し通じ合うことができる確かな存在、そのようなものだけを大切にして生きて行くしかない。
98.8.13(木)
私たちが戦後獲得した自由や個人主義が今試練にさらされている。モラルの低下や若者の風俗の乱れは、自由主義が行き過ぎたためだと論ずる者も多い。確かに、駅のプラットホームでたばこを吸う中学生は、法を守っていないだけでなくホームでは終日禁煙という公衆道徳でさえ守れていない。援助交際する女子高生は、売春という違法行為に走りながら、若者ならば大切にするべき恋や愛の問題を軽んじ、自らの魂を傷つけているようにさえ思える。時代錯誤の老学者は、「むかしは良かった」と言わんばかりに戦前のような道徳主義を唱える。若者に直に接する現場にいるものなら、厳格な道徳や規則というような刀を振り回しても、何も切ることはできないということには気づいているはずだ。時代論はもうたくさんである。歴史上のある時代には、その時代の背負っている特殊な状況と限界があって、その中で機能していたシステムもあれば、大きな矛盾や過ちを生み出していたシステムもあるのだ。過去に置いて機能していたシステムを現代に当てはめてうまく行くとは限らない。我々が今生きる現在というものをしっかり見据えて、新たなシステムを構築しなければならない。僕はどのような時代でも、若者の方が年長者よりも利口であると信じたい。だからこそ歴史は様々な問題を、部分的にではあれ乗り越えてこれたのだ。今を生きる我々自身が、人間がこれまで犯してきた過ちを正し、また、我々自身が犯そうとしている過ちを正していかなければならない。そういう意味では現代は決して豊かでもないし、幸福でもないのかも知れない。我々が抱え込んでいる問題は、そう簡単に解決できるようなものではないのだから。自由と個人主義の問題も、非常に難しい問題である。社会学者が難解な理屈を唱えても、駅のホームで座り込んでいる茶髪の若者の耳には届かない。考えてみれば茶髪は別に悪いことではないし、座り込むことも人に迷惑を掛けないようにすればよいことである。このあいだも、電車でピアスをした茶髪の若者が老人に席を譲っていた。人を傷つけてはいけないということ、法律や公衆道徳を守って人に迷惑をかけてはいけないということ、公正さを守らなければならないということを誰かが教えなければならない。茶髪の若者に対してだけではなく、受験勉強さえしていたら良いのだと考えている学生や、大蔵省に勤めている大人に対してでもある。成熟した市民社会の中で、人が最低限守らなければならないことを再確認して、市民のレベルでそれらを守らせるシステムというものを作らなければならないのだと思う。多少厳格なものになっても構わない。国家や権力者のレベルではなく、あくまでも市民のレベルでならば。私たちが獲得した自由は決して間違いではない。ただ、ある一人の自由が、他者に不自由を強いることがあるということを忘れてはならない。そして、そのような自由は許されないのだ。
98.3.30(月)
以前にも引用した西垣通氏が、ある新聞への一年間の連載を終えた。コンピューター屋である氏が、自らも語るように、どちらかと言えばアナログ文化の方へ引きずられながら書き続けた連載の最後のテーマは、やはり、「欠落した暗さの自覚」というデジタル文化への不満であった。現代のデジタル文化に決定的に欠けているのは、アナログ文化の中には澱のようにたまっている「暗さ」だという氏の意見に引きつけられながらも、結局、氏が伝えようとしているのは、デジタルの表面的な豊さの中で見えにくくなっている現代の暗さ、アナログ時代の共同体的な暗さとは比べられない、個人が背負わされた孤独な暗さであるような気がする。
今の若者たちは衣食住足りてみな幸福だ、などと言うつもりはない。実情はまったく逆だ。若者たちは大人たちよりもっと打ちのめされ、もっと不幸なのである。そんな彼らが、仲間から「クライ」といじめられるのを恐れ、涙を隠して明るくおどけている姿を見ると心が痛む。メディアとは人間と人間をつなぐものである。そこに横たわる越えがたい溝に悩みながら、たがいの「暗さ」を手探りで共有していく−この作業を経ていない「明るさ」などすべてニセモノだ。
上の引用文の「メディア」という言葉を「コミュニケーション」という言葉に置き換えたら、語られている内容はデジタルに限られたものではなく、現代の問題なのだということが見えてくる。ポケベル、携帯、インターネットなどの現代的なメディアが僕たちの心をどう繋ぎ止めていくのか、あるいは、それは不可能なのか。僕たちは本当にデジタルの裏に隠された「暗さ」を自覚しなければならない。スマップが歌うスガシカオの次の詩が妙に心に響く。
あの頃の未来に ぼくらは立っているのかなあ...
すべてが思うほど うまくはいかないみたいだ
このままどこまでも 日々は続いていくのかなあ...
雲のない星空が マドのむこうに続いている
あれからぼくたちは 何かを信じてこれたかなあ...
夜空のむこうには もう明日が待っている
98.3.27(金)
人が幸せになれない理由があるとしたら、それは、他人とは違う自分の個性を引き受けていくことができないからなのかもしれない。民主主義はその理念として、すべての人は平等であるという旗を掲げた。あらゆる封建的な制度はこの理念のもとに正され、人はだんだんと制度上は不当に差別されることは少なくなってきた。がしかし、人間が本来的に持っている差はどうなるのだろうか。美醜や優劣の差は、我々が日常下す自然な判断であって制度の問題ではない。美しい入れ物で美味しい物を食べ、競争に勝ったことを喜ぶ心に差別はあるのか。美や勝利の喜びを否定したら、何か人生の大切な根拠が失われてしまうような気がする。僕たちが辿り着いた場所にある悲しみはこういうことだったのだ。僕たちの欲望が僕たち自身を傷つけ、僕たちの喜びが僕たちの寂しさの源なのだ。
現代を被う寂しさは、過去のどの時代にも存在しなかった。近代化以前には、近代化達成による喪失感などというものがあるわけがないから、わたしたちは、現代の問題を、過去に学ぶことができないということになる。今の子供たちが抱いているような寂しさを持って生きた日本人はこれまで有史以来存在しない。
村上龍のこの言葉が心の奥底に突き刺さってくる。国家や会社の目標などというものではもう誤魔化しきれない個人の問題がそこにはあるのだ。
98.1.1(木)
僕や僕の家族に固有の状況があって、つまりは僕自身の背負っている特殊な状況があって、そのことが日常生活の在り方に影響を及ぼすことがある。人と同じように仕事をこなせなかったり責任を果たせなかったりすることがある。そんなとき、他人は物事の背景を理解せずに表面的な現象だけで判断して非難する。何か言葉では表しようもない怒りが僕の心の中に込み上げてくる。障害を持った子供がいるから特別扱いしてほしいというのではない。ただ理解してほしいだけなのである。若い頃ならば、この怒りをどこかにぶつけようとしたのかもしれない。しかし、今の僕は、怒りを抑えるように心の中で自分に言って聞かせる。彼や彼女が僕の置かれている状況を正確には理解していないのと同じ程度に、僕も彼や彼女の置かれている状況を正確には理解していないのだと。僕だって相手のことを十分に理解しないままに傷つけるような言葉を発していることがありうるのだ。このように考えることで僕は心を落ち着かせる。相互理解の不可能性というものが、僕に謙虚な態度と心の平静をもたらす。この考え方は30代後半の僕が最終的に獲得した哲学である。もう10代や20代のように独りよがりな正しさや真理を求めて生きてはいけない。そういうものは人の数だけあるのだ。同様に、不正や間違いも人の数だけある。不完全な人間の独りよがりな正しさは、ただそれを少し裏返しただけで多くの人にとっての痛みにもなり得るのだ。しかし、こんなふうに考えてしまうと、そこにはただ、深い諦めしかないように聞こえるかもしれない。人間の相互理解の不可能性と過誤性は、ただ我々を暗やみの中に閉じ込めてしまうだけなのか。そうだとしたら、なぜ僕はこの2つのことを了解することで心を落ち着かせることができるのか。すべてを理解可能なものと捉え、過ちは犯さぬものと確信した人類は産業革命以降、20世紀末に至る現代までを駆け抜けてきた。そして大きな問題と矛盾に直面して、もしかしたら21世紀で人類も地球も滅亡するのではないかと懸念を抱くに至った。我々はもう一度、産業革命以前の自信もなく過ちも犯す弱い存在にもどらなければならないのかもしれない。そこからもう一度、他者との共存ということを考え直さなければならないのかもしれない。僕がこの年になって得た哲学は、消極的な終点ではなく、もう一度すべてをやり直し始める出発点なのだと思う。
97.9.14(日)
もう、今年の夏も終わろうとしている。人それぞれに様々な感情を抱いてこの時期を迎えているのだろう。人が背負っている状況は、結局、他人にはわからないのだから、この時期に人が抱く感情を一般化して語ることはできない(別にこの時期に限ったことではないが)。が、しかし、何か夏の終わりには人は特別な感情を抱くような気がする。東大の西垣通氏はある文章の中で次のようなことを述べている。
この文章は、人間が神のように他の生命を観察分析し操作統御できるという近代科学技術の思いこみを批判して、我々も弱い不完全な一生命にすぎないんだと言うことの認識を促す文章の締めくくりの一文である。僕は去年の夏の終わりにこの文章を読んで非常に心を動かされた。長年、夏の終わりに感じていた感情の意味が了解されたような気がした。一般化はできないけれど、人が自らの弱さを感じる時期なのかもしれない。そして、秋から冬に向けて、自分の傲り高ぶりを鎮めて、もう一度来年の夏に諸生命の祝祭に参加するために歩み出す時期なのかもしれない。夏とは諸生命の祝祭である。数々の生命が熾烈に生成し、また滅んでいく季節である。だから、夏の終わりは、自分の小ささを知る時なのだ。
97.8.13(水)
インターネット上に開く自分のホームページの中に、何か記録を残していきたい。自分のことや家族のこと、自分をとりまく日常や社会について考えたことなどを。今まで日記などつけたことのない僕がホームページ上に日記を書き続けることなど無理なのかもしれないが、それでも、何らかの形で記録を残していきたい。そう思いながら、様々な人のホームページに公開された個人の日記をのぞいてみた。不思議な気分に襲われた。本来、一人の人間の心の中に秘められているべきことがキーボードを叩く指によって活字に変わり、それが相変わらず個人の日記帳の中に秘められた形で残るのではなく、いきなり全世界の不特定多数の人に公開されてしまうのだ。まるで、孤独な人間の心の堅い殻が打ち破られて四方八方へと拡散していくように。インターネットに代表される現代的なコミュニケーションの手段が抱えているプラス面とマイナス面が一気に了解されたような気持ちになった。コミュニティーを失いコミュニケーション不全症候群と呼ばれることもある現代人が自分の心のまわりに築いた堅い殻を、インターネットというインタラクティブなメディアがいとも簡単に打ち破り、本来は繋がり合う可能性のなかった孤独な心と心を結びつけてしまう。人間は、世界中に分散しているにもかかわらず一つにまとまれる新たなコミュニティーの形態というものを手に入れたのだ。とても素晴らしいことのように思える。が、その反面、非常に大きな危険性もはらんでいるように感じられる。よく言われることだが、今のインターネットブームは性善説で突っ走っている。しかし、不完全な人間は健全である者もいれば病んでいる者もいる。本来繋がるはずのない病んだ魂が一気に繋がり合ってネット上で大きな力を持ってしまうなんてこともあり得るのだ。慎重にならなければならない。僕たち人間が得たこの新たなインターネットという道具は、コミュニケーションの在り方を大いに変える可能性がある。そして、これからの社会の在り方は、思想やイデオロギーではなく、このコミュニケーションの在り方によって大いに左右されるような気がする。僕自身の記録をどう残していくかもう一度考えてみた。日常の忙しさの中で、日記のように頻繁に書き残すことはできないであろう。また、内容面でも慎重にならなければならない。少し大袈裟かもしれないが、クロニクルという形で週に一回でも、あるいは月に一回でも自分の記録や思いを書き込んでいこうと思う。そして、この文章自体が、僕のインターネットに対する今現在の思いを述べた最初の記録とする。