パート 2

我らのヒーローが今明かす、ストレンジ・ブティック、プレス発言そして 東への旅

 

V ジョン・ヘイニーが加入する事になった経緯は?またチャーリー・Xとは何があったのですか?

B:メロディ・メーカー誌に載せた募集欄をジョンが見て、僕ら がアート・アタックの最後のギグに行き、彼と逢ったんだ。ジョンはトニー・ポッツや最初のマネージャーとなる奴(ポールなんとか)と一緒にスクット(空き家に勝手に住む)に住んでた。練習をそこでやってたんだけど、隣にザ・モーターズ、向いにワイアーとザ・メンバーズの面々が住んでた。そのうちワイアーと親しくなり、後に同じ、チャーミングなペテン師マネージャーを持つ。1980年のバンド写真の多くはコリンの奥さんが撮ったものなんだ。 チャーリーはほんの一過性なもので、1978年に彼とデモを録ったけど、それがリリースされているかどうか思い出せない(混乱するため)! どうしようもない奴だったから、僕らが追い出したんじゃないかな、サイモンも同じく。

V ストレンジ・ブティックの後に解散すべきだったと後悔した、というのは本当ですか?

B:僕らが言った?それはないと思う絶対に。確かにビジネス面では問題も多かった。ちなみに、ディンディスクと決別(どっちみちクビになってたかもしれないけど、実際は辞めた)した時、僕らイギリスの最大無契約バンド(時々スージー(バンシーズ)達と譲り合いながら)だったんだ。そのへんのチャートバンドよりずっと多くの客を集め、ライブハウス の動員記録を頻繁にぬりかえたにもかかわらず、レコード会社はなかなか決まらなかった。そして音楽業界はあっという間にチャートバンド スタジアムバンドにしか、興味を示さなくなってしまった。もちろん、その多くは、数年で潰れていったので、影でほくそ笑んでたけど。

V あなた方バンドが技術、製作面において満足する事は無かったのではないでしょうか?特にエライジブル・バッチェラーズは。

B:満足するバンドのほうが少ないと思う。曲が出来上がるといつだって「そうじゃなくて」。

V 一度ミュージカルのプランもありましたね?このメモリーズ・オブ・レッチド・ウィークエンドは後のロスト・ウィークエンドの発想源となったのではないで しょうか? この先S・ウェルでのツアー/フィルム/ステージの予定は?

B:うん、ミュージカルはよく考えていた。S・ウェルでも何かしてみた いね、そのうち。

 

V 「エニグマティック(不可解な)」このイメージは、どの程度自分達(もしくはレーベル/elレーベル社長マイク・オールウェイ)によって作られたものだと考えていますか?

B:僕らとしては全く。マイクは彼から見えた物を盛り立てていったという感じだったが、彼はそれを僕ら全員にやろうとしたんだ。

V リーチ・フォー・ユア・ガンのイントロは印象的ですが、何か苦労はありましたか?

B:覚えてない、ただ、そこらの民族音楽から使ったんだ。

V:イースタン・アイ (ロンドンのアジア人社会を取り上げたTV番組)で、あなたは、父親が学校を中退させたがっていたと、言っていましたが。 

B:あれは冗談。本当は僕の大学進学を希望してたし、その他もろもろ も。

V:何かであなたはビートルズの初期インタビューが好きという記事を読んだことがあります。 

B:おかしい(かつ超現実的な)インタビュー、当時やってたからね。サイトに は全部は載せきれなかったけど、たまに誰かが載せてくれてるみたい。非協力的と言われてた事に関して言えば、殆どのインタビューが始める前 から書かれていたもので、僕らは用意された事を言わなかったからジャーナリストに嫌われてた。実際には、礼儀もわきまえてたし、時に楽しんだ ということ以外、思い出せない。僕ら、音楽業界に溶け込んでいなかったから、書くのが難しかっただろうし。殆どのジャーナリストは、個人的興味でなく、彼らの仕事の一貫として、 インタビューをこなしているわけで、僕らは彼らの仕事を増やしてやっただけさ。70年代後半から 80年半ば頃までは、同様に断定不可能なバンドが多くいたけど、その後減っていき、もともとあった物か、新しい物(ブロンディなど) というカテゴリーのいずれかに当てはまっていった。その新しい物がニューウェーブだったんだ。最初はプレスも好んで取り上げていたが、他に興味が移って しまうと、僕らを無視した。例えば他のバンドがもっとチャート指向なものや、反政治的なものへ変わっていったら、僕らを芸術家気取りと酷評したんだ。 僕らはただ、今までどおり、始めた時から変わる事なく続けただけだけど。パンクがファッショナブルになった途端、バイブレーターズのすべての曲が2倍のスピードになってしまったし、スクリッティ・ポリッティ(スペル合ってる?)のすべてのアドリブジャムはことごとく同じものだったし、セックス・ピストルズはでっち上げバンドだと誰も言えなかった。僕の周りに自分のスーツを切り裂いた人達が何人いた事か。

V 日本ではどのような歓迎振りでしたか?ビドー!

B:この世のものとは思えない叫び声、今でも覚えているよ。ハード・デイズ・ナイトスタイルで、東京や大阪の街中ずっと僕ら追いかけられたんだ。でも3人組の太めの女の子の時には、速度を落として彼女達が追い付くのを待ってあげなくちゃならなくて、そしてまた逃げた。日本での対応は非常に素晴らしく、そこらの国と比べれば、V.I.P.並の扱いだったよ。

V オーソン・プレゼンスのヒゲ剃りを見る為に日本のファンがお金を払ったというのは本当ですか?

B:サイトに載っているのは殆どが事実。テサロニケの部分でさえ。 本当に居たんだよ、偽坊主ヒゲ付けて本を読んでたお坊さんが。

VM セットの日本盤には歌詞カードが付いています。

B:初期のアルバムには歌詞が入ってなくて、日本で入れたいからと、勝手に入れられてしまったんだ。どこかの気の毒な奴をスピーカーの前に座らせて、そいつが思う僕の歌詞を書き取って。この聴き起こしの歌詞はかなり間違っていて、ザ・ウィアード,ワイルド・アンド....”においてはことごとく、単語という単語まで違っていた。ずっと昔に、そんなことを考えるのはやめていたけど、日本では作詞家としての僕を高く評価してくれているんだ。

(パート3につづく)

 

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