パート1

我らがヒーローの生い立ち、イギリス移住、教育、バンド。その後の彼自身の活動 まで。

-カルカッタからHe's Frank-

 

V:フルネームを教えて下さい

B:ガネシュ・セシャドリ。本当はセシャドリ・ガネシュのはずで、最後のが、僕の名。 父親がバラクリシュナ・セシャドリ、彼の父親がサーディナム・バラクリシュナ ...という具合になるのだけど、おそらく父は西洋人と結婚したので、僕が生まれた時に意図的に西洋化させたのだと思う。

V:家族と生まれた場所は?

B:ヴィシュヌという2つ上の兄が1人。父親はマドラス(近郊) 出身だけどカルカッタで仕事をしていたので、僕はカルカッタ生まれ。父の友人にはヨーロッパ人と結婚した人が多く、国際色豊かな社会だったし、皆、共通語として英語で話 していた。僕はラ・マーティナリ スクールという英語で教える学校に行っていた。ヒンディー語とベンガリ語(カルカッタ地方の言語)も少し教え てたけど、覚えてはいない。父はブラーミン系インド人、母はイギリス系アメリカ人(二重国籍、アメリカパスポート)。アメリカ人の祖父は第1次世界 大戦でソップウェル・キャメル(戦闘機)に乗り、第2次大戦ではオイルタンカー船のキャプテンだった。刻みたばこを噛み、毎日ウィスキーを1本飲んでたよ。

V:家族がイギリスに移ったのはいつ、また何故ですか?

B:出たのは1965年だったはずだけど、イギリスに来る前にモントリオールと ニューヨークに半年程いた。なぜ引越したかは聞いたこともないので知らない。

V:アンディ・ウォレンとの出会い は?

B:アンディと僕は同じ学年で、学年は6つのハウスに分けられてたんだけど、僕達は同じハウスだった んだ。(*注)だから出会いはかなり昔。同じフットボールチームだったり...で、お互い楽器を演奏するようになってから学校の外で会うようになった。バンドをやってた男の子達が多かったから、彼等ともよくジャムってた。他にプロになった奴がいるかどうかは不明だけど。バンドを やってる他の学校の人たちとも会ってた。一度、女の子を”オーディションした事があって、おそらく後にガールスクールを結成した子だと思うけど、僕らの事を、変で、怖くて、 関わりたくない、と言っていたらしい。まあ、ね…。多分、キム・マッコーリフ。(*訳注:ハウスとは全学年を通して作られる班のようなもので、それぞれで活動もし、競い合ったりする)  

V:あなたとアンディは大学には向いてなかった、言っていましたが?

B:僕は学校に耐えられず、17歳で辞めた。この国では17〜18歳で 3〜4つ専攻することになっていて、僕は数学、科学、彫刻をとっていた。アンディは卒業後、ロンドン大学経済学部へ進んだけど1日で辞めてしまった。(多分これは事実だろう)

V:学生時代はどんなものを読み、何 を聴いていましたか?17世紀後期の詩を愛読され、作詞家志望者にも勧めていましたよね。

B:読み書きの習得にもぜひ勧めるよ。なぜって皆、出来ないから。コード譜を見て作曲を学ぶように、詩は少しばかり作詞を学ぶ唯一の方法だった(他の歌詞を見るよりも)。ある時代の詩はリズミカルかつ、繰り返しの連続、など特にリリカルなものがある。芸術家としては顕著でなかったが、スウィフトなどがいい例だろう。この時期の詩からは、特に技術面で多く学んだ。好んで聴いてたのはジェネシス、イエス、ELP、ストローブス etc.リードベリーやビッグ・ビル・ブルーンジー、ウィリー・ マックテルとか色々聴いてた。プログレ卒業後は、えー、ちょっとくそだけどリレイヤーズ やブライアン・サラダ・サージェリーetc.とか。それでこの頃、R'n'R アニマルを買って、そのルートでヴェルヴェッツに入っていった。彼等のあの 単純性とパワーには強烈に感動した。

V:ブラック&ホワイト・ミンストレルズの曲は在学時に録音されたものなのですか?

B:あれは(のちにBWに収録)アンディともう1人学校の友達(ドラム)と録ったもので、純粋な僕は、それを幾つかのレコード会社(ヴァージンを含む)に持っていって。却下。(僕の制服ショートパンツ姿、想像に厳しい)

V:アダム・アントが初めて作ったバ ンド、Bーサイズでは何を担当していたのですか?ギターですか?ヴォーカルですか?曲は誰が書いていたのでしょう?

BBーサイズにはアダムがまだ在籍した時に、ギターとして入り、彼の曲を練習していた。歌は彼1人。彼が抜けてから、より真剣に曲作りするようになった、僕自身でも、アンディやレスターとでも。アダムが再登場(下記 参照)して、どちらでもいい、僕に声がかからなかったでも彼が新しいバンドを結成したでも、覚えてないし。ICAでの彼らの初ギグは、僕が手配したんだ が、僕に諦めさせるための意図的なものだったかどうか覚えていないけど、アント狂信者から、お前にバンドはない、とお告げを受 けて。まあ、反論する気もなかったし。スチュワートは精神病院へ入り、アダムとして出てきたんだ。自分の妻をイブと呼んでね。彼とはいっさい口をきいていない。のちに彼の妻がシンガーのオーディションを受けに来たけど。

V:アンディ・ウォレンはマルコム・ マクラレンがマネージャーに就くまでアンツにいたと思いますが?

B:それが抜けた理由じゃないかと僕は思うけど、もしくは彼等が解散してバンドがア ンツとバウワウワウの2つに分かれた時、戻らなかったか。彼は化粧したり馬鹿げた格好するのに耐えられなかったんだ。

V:レスターがアンツを離れ、あなた とザ・ザービーズ&ザ・エクトモーフスを結成しますがこの時には、後にモノクローム・セットの曲となるものを練習していたのでしょうか?

B:うん。

V:語れるようなギグはありますか?

B:クィーン・エリザベスとクィーン・メアリー大学の。どちらも教師育成学校。ベー スはジェレミー・ハリントン、ドラムは学校で一緒にデモ作った奴で。ジェレミーは抜けて、後にMセットに戻って来る。最初のギグは覚えてないが、特に何も なかったと思う。

V:ラフトレード(RT)との契約は どのようにして?

B:契約はそれほど、むずかしくはなかった。

V:では、その時点でどの程度、真剣 に考えていたのでしょう?長く続けていくつもりでしたか?ただシングル1枚作るチャンス、程度だったのでしょうか?

B:考えた事なかったけど、僕らの初めての取り引きで、バンザーイとかetc.

V:メイヨ・トンプソンが初期のシン グルをプロデュースしていますが、He's Frank(Slight Return)のプロデュースは?

B:メイヨはRTシングルのHe's Frank/Alphavilleをプロデュースしたけど、Slight Returnは、もっと前、1978年に(サイモン・クロフトと)録ったもので、僕らがRTを離れた直後にリリースされたんだ。レスターも僕も古いSlight Returnバージョンのほうが気に入ってる。オフィシャルサイトのディスコグラフィーは正確だと確信しているのでご参考に(それほど自信はないけど)。ジェフ・トラヴィス(ラフトレード社長)は勿論レコーディングには携わっていない。RTシングルのプロデュースは、バンドが3枚、メイヨがst”のHe's Frank/Alphavilleをやった。 

V:これらシングルセッションのスタ ジオでは、あなた方が大体指揮をとっていたのですか?

B:うん。でもメイヨが提案したHe's Frankの再アレンジには従った。

V:ポッツ氏は79年2月、シングル、ザ・モノクローム・セットの頃に参加したのですか?この時点で彼はナイトギャラリー形式のフィルムを創っていたのでしょうか?

B:そうだね、彼とは初めて会った時から友達だったし、彼は練習に使ってた家に住んでたから、周りにいることが多かった。でも、アクラム・ホール が彼のフィルムを使った最初のギグだと思う。それからじゃないかな、彼が参加するようになったのは。正確には覚えてないけど。ナイトギャラリーは1980年初期、ストレン ジ・ブティックのレコーディング終了後(7912月)からリリース前(804月)に作られたもの。当時の僕らの(ロッド・サーリン役)マネージャーはワイアーや他の奴らや、のちにブラーのマネージャーもしたマイク・コリンズというおやじさん。でもナイトギャラリーそのものはライブで使った事はない。これはプロモフィルムとして作ったもので、それをビデオにした…その時はそうならなかったと思うけど。アウトテイクと追加部分を使ってて、ちょうどこの頃から、トニーは自分の作品からではなく、ギグ用としてのフィルムを作り始めた。

V:ギグにフィルムを使うことに不安とかはありませんでしたか?

B:うーん、彼の作品は素晴らしいものも、駄作もある。はっきりいって彼がすることは気にしてなかった、ほとんど彼に任せて たから。

V80年代初期にサンフランスシスコで、XTCを観たのですが、演奏中バンド背後にカラーのフィルムを流していました。

B:僕は1983年にニューヨークで彼等を観たけど、全て僕らの真似で、抽象的なものは全く同一のものだったんだ。彼等、UKでは使ってなかったけど。

V:初期ベーシストの1人ジェレミー・ハリントンの加入の経緯は?

B:正確には覚えてないけど、彼の加入はたぶん1978年の秋かな?とにかく事実上 は、初めてのアメリカツアーの終わり(19799月末)でクビになって、幸運にもフリーだったアンディ・ウォレンがすぐに加わった、彼の初ギグが10月末。ジェレミーは僕らより2週間遅れてアメリカから戻り、クビ。その後アメリカに戻ったのかもしれないけど、どうしてたか知らない。15年間で2度しか会ってなかったけど、ごく最近また連絡を取るようになって、現在はオフィシャルサイトの"other"に載せる彼の記事を待って るところ。PCゲームを送り合ったりしている。彼のクビに関しては、僕としては、悪気はなかった。彼自身がバンドに溶け込めていなかったし、信 頼度も低かったから。

V:初期のギグはパンク中期でした が、観客にどのように対応していたのですか?

B:物の投げつけ/ツバ吐きは、それ程ひどくなかった、長くも続かなかったし。でもうんざりだったね。ツバまみれで戻ってくるもっとひどい奴等もいたよ、まあ、大抵は、それ相応で。

(パート2につづく)

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