材割りは「悪」か?

〜好奇心の芽まで摘まないで〜

えいもん



材割り採集は「悪である」という論調をしばしば見かける。材採集に関する昨今の議論としては、 優勢な論調と言ってよいだろう。

確かに、材割りは、昆虫の生息環境それ自体を破壊しながら昆虫を探し求める採集方法であり、ややもすれば、 現に生息する昆虫のみならず、今後そこで育まれるであろう将来の昆虫にとっても、生息環境の不可逆的な損失を もたらすこととなる。したがって、昆虫の生息環境を保護する観点からは、材割りの罪は大きいと言えよう。

しかし、私自身そのことを十分に認識しつつも、「材割りは悪」という議論には、違和感と抵抗を少なからず 覚えてしまう。

クワガタ採集を含む昆虫採集は、昆虫を自然の中のあるがままの姿において観察し捕捉することに、その意義と醍醐味があると 私は思っている。その意味で、材割り採集は、樹液採集やルッキング採集とともに、昆虫の生態への好奇心を満たしてくれる 採集方法の一つである。私にとってはむしろ、灯火セットによる灯火採集は、自然の中から昆虫を人為的に「引き剥がす」 採集方法のように思えて、実はあまり好きになれない。もちろん、昆虫の生息調査における灯火採集の有用性・効率性は 大いに認めるものであるが、趣味の範囲で行う採集方法としては、自分自身の理想に合わないのである。

必ずしもすべての人に通じることではないのかもしれないが、あるクワガタに興味があれば、そのクワガタが どのような材の中でどのような育ち方をするのか、大いなる関心を抱く方が普通であろう。そのような知識はまた、 その種の飼育面においても役に立つことは間違いない。私は、自然にあるがままの状態を探索する昆虫採集を尊ぶ者として、 材割り採集に対して人々が抱くであろう好奇心まで否定し去ってほしくないと、切に願う。

かと言って、行き過ぎた材採集まで肯定するつもりは全くない。物事には自ずと限度があるものであり、 自然への憧憬や愛情を昆虫採集のベースとする限りにおいては、そこには節度が要求されて然るべきである。 まして、金儲けを企んだり虚栄心を満たすために「数を採る」ことを目的として行う材採集は、もってのほかと言うべきである。 また、朽ち木と言えども他人様の財産である場合には、持ち主の許可なく行う材割りは非難されて当然である。

つまるところ、私が言いたいのは次のようなことだ。「材採集は悪である」という言い方によりその行為を一刀両断に 切り捨てるのではなく、「材採集には節度を持とう」「マナーを守ろう」というような呼びかけにとどめられないものであろうか。 昨今の一部地域の惨状からすればこれでは全く不十分ということであれば、そのような場合には せめて「材採集を我慢しよう」という言い方にならないものか。 「材採集は悪である」という標語が一人歩きすることにより、昆虫採集への健全な好奇心までもがその芽を摘まれるとすれば、 何とも惜しいことであると考える。


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