前のページに戻る



「イエスの癒し 2」

「イエスの癒し 3」



 「イエスの癒し 2」

*マルコによる福音書7章24〜37節

 
24:さて、イエスは立ち上がって、そこからテュロスの地域へ行った。そして一軒の家に入り、誰にも知られまいとしたが、隠れていることはできなかった。案の定、穢れた霊に憑かれた小娘をもつ一人の女が、彼のことをすぐに聞きつけ、やって来て、彼の足もとにひれ伏した。この女はギリシャ人で、シリア・フェニキアの生まれであった。そして彼女は、自分の娘から悪霊を追い出してくれるように彼に頼んだ。そこで彼は彼女に言った、「まず、『子供たち』を満足させなさい。というのも、『子供たちのパンを奪って子犬たちにやるのは、よくない』というからだ」。すると彼女は彼に答えて言う、「主よ、テーブルの下の子犬たちでも、子供たちの食べ屑にはありつきます」。
そこで彼は彼女に言った、「そう言われてはかなわない。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出ていった」。そこで彼女は自分の家に帰ってみると、子供は床に伏してはいるものの、悪霊はすでに出ていってしまっているのに気がついた。
 31:さて彼は、再びテュロスの地域から出て、シドンを通ってガリラヤの海に至り、デカポリス地域のただ中に来た。すると人々は、彼のところに耳が聞こえず、舌もまわらない一人の者を連れてきて、この者の上に手を置いてくれるように彼に乞い願う。そこでイエスは、彼を群衆から離して一人にし、自分の指を彼の両耳に入れ、唾をつけて彼の舌に触った。そして天を仰ぎ見て嘆息し、彼に言う、「エッファタ」。これは「開け」という意味である。するとすぐさま彼の耳は開かれ、舌のもつれも解けてまともに話した。そこで彼は、このことを誰にも言わないように彼らに命令した。しかし、命令しようとすればするほど、彼らの方はなおいっそう、イエスの行ったことを宣べ伝え出
した。そして、とてつもなく仰天しながら言い続けた、「彼がこれまでやったことは、すばらしいことばかりだ。耳
の聞こえない者たちを聞こえるようにし、口の利けない者たちを話せるようにさえするのだ」。               佐藤 研 訳
     並行箇所:マタイによる福音書15:21〜28、29〜31
     

 
§「私のところに来て飲みなさい」

 フーテンの寅さんを演じた渥美清が亡くなった時に、葬式をしないように、という遺言がありました。ひとりの素朴な人間だった自分を、持ち上げたり褒め称えたりしないで欲しいという気持ちからだと思いますが、しかし、映画会社は盛大なお別れのセレモニーを開き、列席した近しいはずの人々は、彼が一番して欲しくなかったことを一生懸命にやっていました。
 また、「貧しい人たちの中で、最も貧しいひとたち」のために働くことに一生を捧げたマザー・テレサが’97年に86才で天に召されたとき、カルカッタで彼女と直接ふれ合い、喜びや悲しみを共にしてきたその「最も貧しいひとたち」数千人は、雨の中マザー・テレサの住んでいた家のまわりに立ちつくして、敬意を表しました。
 インドでは国葬となり、盛大なセレモニーが行われました。しかし、国がスポンサーとなって行った大きなセレモニーにはこうした人々は招かれず、参加することはできませんでした。これは、とても象徴的なできごとでした。このセレモニーを進めた人々はきっとまじめに自分たちが知っている方法である偉業を成し遂げたひとに敬意を表そうとしたのだと思いますが、マザー・テレサの心とはかけ離れてしまいました。マザー・テレサを愛した人々なら、彼女の精神受け継いだセレモニーを行うはずでしょうが、世界は多くの場合、そのようには進みません。
 私たちの教会でも聖餐式が毎月最初の日曜日に持たれています。聖餐式は、私たち、神を信じて生きる者たちが、イエスの十字架による死と、復活とを記念して行うものです。
 主が下さった聖霊が、魂が、私たちひとりひとりの中に生きている、ということを再確認、追確認する機会です。「誰か渇いている人があれば、私のところに来ていつでも飲むがよい」。という、ヨハネによる福音書7章37節の言葉の通り、あらゆる人々を招き、分け隔てをしなかったイエスを記念する教会や聖餐式は、やはり分け隔てなく、主の前に集った人たちを誰も阻害することなく、受け入れるべきだと思います。私たちの教会では、聖餐を受けることを望むひとは誰でも、聖餐を受けることができます。しかし、この機会にもし、聖餐を望む人々を選別して、聖餐を受けるに値する人々と、受けるに値しない人々を私たちが分けるなら、イエスのもとに来るこども達を叱りつけて退けた弟子達と同様に、私たちもイエスに大目玉を食らうことになるでしょう。

 

*マルコによる福音書10章13〜16節

 さて、人々は、彼のところに子供たちを連れて来ようとした。彼に触ってもらうためである。しかし弟子たちは、彼らを叱りつけた。だが、イエスはこれを見て激しく怒り、彼らに言った、「子供たちを私のところに来るままにさ
せておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはない」。そして彼は、子供たちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。

 ちなみに、聖餐についての記述は、以下にあります。

*マルコによる福音書14章22〜25節(並行箇所:マタイ26:26〜29、ルカ22:14〜20)

 そして彼らが食べている時に、彼はパンをとり、神を祝してそれを裂き、彼らに与え、そして言った。そして皆、そこから飲んだ。すると彼は彼らに言った、「これは契約のための私の血であり、多くの人のゆえに流されるものだ
。アーメン、私はあなたたちに言う、私はもはや二度と葡萄の木からできたものを飲むことはない、神の王国においてそれを新たに飲む、かの日までは」。

 そして、聖餐についても最も古い記述は、50年代のパウロによるもので、コリント人への第一の手紙10章16〜17節、同じく11章17〜34節です。


*コリント人への第一の手紙10章16〜17節

 私たちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血との交わりなのではないのか。私たちが裂くパン、それはキリストのからだとの交わりなのではないのか。パンが一つであるから、私たちの多くの者は一つのからだなのである。な
ぜならば、私たちすべては一つのパンに共に与(あずか)るからである。
    (パウロ書簡:青野太潮訳)
 

 そして、コリント人への第一の手紙11章17〜34節。ここは今日は読みませんが、全体を読むと、食べるものにも困るほどの貧しい人もいるなかで、富んでいる人たちが集会に食べ物や飲み物を勝手に持ってきて、勝手なときに食べている状況をたしなめている部分が27節以下にあります。これは、多くの場合、洗礼を受けた信者でない者が聖餐を受けるべきではない、という根拠として引かれる箇所です。

*コリント人への第一の手紙11章27節

 かくして、ふさわしくない仕方(18節以下の振る舞いを指す)でパンを食べたり、あるいは主の杯を飲む者は、主のからだと血とに対して罪ある者となるであろう。人は自分自身を吟味しなさい。そして、そのように吟味して、パンを食べ、杯から飲むようにしなさい。

 この箇所は
「18節以下の振る舞いを指しており、しばしば解釈されるように、信者でない者は主の晩餐に与れないという考えを支持する言葉ではない。」(青野太潮)

 そして、全体のコンテクスト(文脈・前後関係)に関係なく、一部を抜き出して特定の宗派のドグマ(教義)にあった行動の根拠にするという、聖書の引き方もまた問題となります。
 イエスが福音書を通じて私たちにもたらした神の国の教えとかけ離れた考え方が、多くの教会でなされる問題の背景は何か。

 
「プロテスタント教会では、パウロの言葉に重きを置きます。(中略)そして、カトリック教会には、パウロの後継の思想を重んずる傾向があり、この思想は牧会書簡、または司牧書簡と呼ばれている、パウロの名によって書かれた
手紙に盛られています。
 いずれにしても、パウロとその後継者の書簡には『愛敵』、つまり敵を愛するという思想は出てきません。これらをドグマの基礎に据える限りは、『汝の敵を愛せ』という思想はあり得ないのです。」(荒井献)
 

 このように、特定のドグマを固定化して吟味や批判を加えないならば、このドグマ自体が偶像になってしまう、ということになってしまいます。そして、このような姿勢こそ、イエスが批判した姿勢でした。

 

§「聖書学によって、史的イエス、人間イエスの姿を追い求めることはなぜ大切か」
 

 私たちがイエスの行いを考えるときはどうでしょうか。イエスを最初から神の子で特別だったので何でもできた、と短絡的に考えてもいいのでしょうか。それとも、ひとりの人間だったイエスがなぜ、どのようにこの新しい教えを教え、数々の言葉を語り、人々を癒したのかを探ることに大きな意味があるのでしょうか。
 英語で、put her/him on the pedestal(その人を胸像の台座に乗せる)という表現がありますが、これは崇めたり、祭り上げたりすることで、その人と自分との平等なつながりを断ち切ってしまう、という意味です。不本意な死を遂げた菅原道真や平将門を祭って神社を造ってしまうのとよく似ています。一種の無力化です。
 私にも似た経験があります。それは、20代中頃の血の気が今より多かった頃に、当時努めていた学校の教頭(この人はカトリックで教義を学んだことがある人だったのですが)たちに、「高橋さんはクリスチャンで寛容の精神の持ち主だ」と吹聴されたのです。すると、この人たちは私を自分たちとは全く違う人間に位置づけ、悩みや迷いがない、特別の存在と思ってしまい、その上、自分で貼った「寛容の精神」のラベルのもと、上司に従順であるはずの人、という人間像が期待されてしまいました。マコトの無力化。もちろん、そのような演技は私にはできませんから、この人たちこの後がっかりすることになるのですが...。
 通常教会で行われる聖書研究と、科学(歴史学・言語学)的な聖書の研究はいったいどこが違うのか。一番大きな点は、前者では、信仰がまず前提、つまりイエス・キリストが神の子であることがすべてのはじまりに来ます。イエスは最初から神に遣わされた救い主だった。すなわち、信仰という色のメガネを通して、聖書を読んでいきます。そして後者では、基準がすべて科学的、つまりすべてが批判、吟味の対象とされ、人間、自然界での科学的常識に照らして、あくまで人間的に判断を下していくという読み方です。
 先日、聖書セミナー「ナザレのイエス」(講師:佐藤研)を受講ました。質疑応答の際に、伝統的な教会内での聖書の読み方をする人々が、講師に、イエスを人間として見ていく事への反発が数多く寄せられ、佐藤はヨハネによる福音書1章14節を引いて次のように反論しました。

*ヨハネによる福音書1章14節

 ことばは肉(サルクス)となって、われわれの間に幕屋を張った。ー われわれは彼の栄光を、父から遣わされたひとり子としての栄光を観た ー 彼は恵みと真理に満ちていた。

 ことば(筆者注:つまり、神)は肉となった、これはサルクスという言葉が使われていますが、これはただの肉体(ソーマ)ではなく、罪の姿(サルクス)となって我々のところに来た、ということを宣言しているのです。まさに
、罪を背負い、悩みを持つ生身の人間として来たのだと。とするなら、私たちは今まで、彼を神、神の子としてのみ見てきたとすると、この人間として苦悩したイエスの姿を見落としていたということになる。(注:佐藤研の発言要
旨、文責は筆者)

 まさにその通りですね。そして、聖書も聖なるものとして、全く吟味を加えないなら、台座にのせてしまったイエ
ス像と同じように、聖書をもまた、人間が無力化してしまうことになります。

 

§シリア・フェニキアの女性の信仰とイエスの癒し
 

 さて、今日のテキストは、シリア・フェニキアの女性の信仰とイエスが彼女の娘を癒す箇所です。癒しが、新しい教えと密接に結びついていることについては、前回お話しいたしました。イエスの癒しは、人々を苦しめる病の克服と、宗教的ドグマによる、罪意識からの解放です。7章18〜19節で、「ユダヤ教の食物規定の破棄を宣言」(川島貞雄)しましたが、これは人々を苦しめる宗教的ドグマからの解放です。来るべき神の国の姿を表しています。
 実際には病も死も避けることはできませんが、神の国はすぐそこにあり、私たちのような小さなものも、神が愛し、受け入れて下さっている、という福音によって、すべてを、死をも主にゆだねることができるということは、病、そして死を克服する、ということです。
 さて、異邦人の土地へと出かけていきます。ここでのイエスは大変疲れている様子で、休息を必要としているようです。
 しかし、穢れた霊に憑かれた娘を持つシリア・フェニキアの女性に見つかり、娘から悪霊を追い出してくれるように頼まれます。ここで問題の、非常に解釈の難しい27節が出てきます。

 
*27節「まず、『子供たち』を満足させなさい。というのも、『子供たちのパンを奪って子犬たちにやるのは、よくない』というからだ」
 

 伝統的な解釈では、マタイのように、ユダヤ人の救いのために来たイエスが、異邦人を救うことをためらっている、マタイによる福音書15章21節以下のように捉えます。マタイ15:24には、マルコにみられる「まず、『子
供たち』を満足させなさい」という部分がなく、「私は、イスラエルの家の失われた羊たち以外のためには遣わされていない。」と続きます。すると、『子供たちのパンを奪って子犬たちにやるのは、よくない』の「子供たち」はユ
ダヤ人を指し、「子犬たち」が異邦人を指す言葉ということになります。「異邦人伝道に消極的なユダヤ人キリスト教徒の立場を表しているように思われる」(川島貞雄)
 違う解釈をすることもできます。マルコの段階では、まだ子供たち=ユダヤ人という図式はできていないのではないかと考える佐藤研は、そのすぐ前を受け、『子供たち』は、イエスが必要としている休息を表している、と取ります。すると、「休息が必要なのに、その休息を無にするのはよくない」という感じになります。
 さて、人間的な、お互いの関係、特に、らい病人や女性たちとイエスの双方向コミュニケーションによって、イエスもまた世界を広げられ、変えられて成長していった、という解釈をするなら、宗教上・社会上・性別上の壁を乗り越えて必死の思いで会いに来る彼女との出会いがなければ、出会うことがなかった(かもしれない)、この女性との心の交流を通じて「異邦人との間を分け隔てる人種的な壁を乗り越えて自分の使命を全うするようイエスを促し、彼女の言葉によってイエスは変えられる」(絹川久子)と捉えることもできます。(「変えられるイエス」cf.マルコ1:40ー41、5:30〜34、7:27〜29)こう考えると、イエスと懸命に会いに来る女性の姿がいきいきとしてきますね。
 さて、信仰によって、これを語るなら、こうした素晴らしい出会いもまた、神によって与えられたものだ、ということになります。イエスは答えます:

*29〜30節「そう言われてはかなわない(筆者注:あるいは、「あなたがそういうので」)。
行きなさい。悪霊はあなたの娘から出ていった」。そこで彼女は自分の家に帰ってみると、子供は床に伏してはいるものの、悪霊はすでに出ていってしまっているのに気がついた。

 マタイによる福音書ではどうでしょうか。

*マタイ15:28「おお、女よ、あなたの信仰は実に偉大だ。あなたの望むように、あなたになるように」。すると彼女の娘は、その時から癒された。

 そして今、私たちも、人種を越えた、社会的な範疇も越えた、イエスの新しい教えに生かされています。

*マタイによる福音書5章14〜16a節
 あなたたちは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
 人々はともし火をともした後、それを枡の下に置きはしない。むしろ燭台の上に置く。そうすればそれは、家の中にいるすべてのものを照らすのである。このように、あなたの光が人々の前で輝くようにせよ。   
      
                                                        2003年7月20日

 「イエスの癒し 3」
 

*マルコによる福音書7章31〜37節

 31:さて彼は、再びテュロスの地域から出て、シドンを通ってガリラヤの海に至り、デカポリス地域のただ中に来た。すると人々は、彼のところに耳が聞こえず、舌もまわらない一人の者を連れてきて、この者の上に手を置いてく
れるように彼に乞い願う。そこでイエスは、彼を群衆から離して一人にし、自分の指を彼の両耳に入れ、唾をつけて彼の舌に触った。そして天を仰ぎ見て嘆息し、彼に言う、「エッファタ」。これは「開け」という意味である。する
とすぐさま彼の耳は開かれ、舌のもつれも解けてまともに話した。そこで彼は、このことを誰にも言わないように彼らに命令した。しかし、命令しようとすればするほど、彼らの方はなおいっそう、イエスの行ったことを宣べ伝え出
した。そして、とてつもなく仰天しながら言い続けた、「彼がこれまでやったことは、すばらしいことばかりだ。耳の聞こえない者たちを聞こえるようにし、口の利けない者たちを話せるようにさえするのだ」。  佐藤 研 訳
    並行箇所:マタイによる福音書15:21〜28、29〜31
    

  
§神の王国と人間の世界

 やっと梅雨が明けて、日本の真夏らしい暑さが到来しました。まだまだこの辺は涼しかった先月29日には、北京の気温が摂氏45度を記録したそうです。しかし、中国の公式発表は36.5度だったそうで、これもまたSARS(重症
急性呼吸器症候群)が広がったときに、北京市が全く根拠のない安全宣言を出した時と同じように、人々の騒ぎが大きくなることを防ごうという姿勢が窺われます。事実よりも、その事実の与える影響のを抑えることの方が大切だと
いう姿勢は、中国に限ったことではなく、日本でも大きな問題であり続けています。小泉純一郎首相の「自衛隊のイラク派遣は、非戦党地域に限る」というのも同様の根を持った問題です。
 やりたいことを成し遂げるためには、表向きの理由がきれいに揃っていればいいという姿勢。この理由が欺瞞であるなら、その責任はしっかり取るべきだ、というのが今、イギリスの国民がブレア首相に大量破壊兵器の問題を誇張
してイラク戦争参戦を正当化してきたことに対する責任を取るように激しく詰め寄っている理由です。日本やアメリカでは、この同じ問題を全く糾弾できていない、ということはとても残念なことです。
 さて、前々回から、イエスの癒しについて学んでいます。イエスが行った癒しは、病によって穢れた者、罪人として宗教的な伝統に基づいて疎外されている者、救いにあずかる希望をうち砕かれた人々もまた、神の王国に入ることができるという、非常に大きな解放でした。

 
*ルカによる福音書6章20〜21節

幸いだ、乞食たち(貧しい者たち)、
神の王国はそのあなたたちのものだ。
幸いだ、いま飢えている者たち、
あなたたちは満腹するだろう。
幸いだ、いま泣いている者たち、
あなたたちは大笑いするだろう。

 
 21世紀に住む私たちは、進歩した現代医療の恩恵の中にありますが、医療に対する不信感も根強く持っています。これから夏風邪の季節がやって来ますが、それがインフルエンザ・ウィルスによるものでも、その他のウィルスによるものでも、多くの場合、お医者さんに行くと抗生物質を処方されます。その時に「一応、抗生物質も出しておきましょうね。」という言葉が添えられることが多いのに気がついている方も多いと思います。
 これをわかりやすく翻訳すると、「抗生物質はバクテリア(細菌)や真菌類などの微生物に対して抗力があるもので、ウィルスには全く効かないけれど、弱った箇所に細菌などがついて気管支炎や肺炎になることもある、という理由から、医師がこれを処方しても不正とは見なされない慣行になっているから、利益を確保するために出しておきましょう。」ということになります。
 この場合、お医者さんの言うとおりに抗生物質を飲んだら、どうなるでしょう。ただでさえウィルス感染によって体調が悪いところへ、全く関係ない強い作用の薬が体内に入るわけですから、食欲不振や胃痛などの症状が現れます。(そして、それも見越して、胃薬も共に処方されていたりします。)
 この他にも、先日、ほとんどの白内障患者に処方され続けてきた目薬に全く効果がないことが発表されましたし、日本でのみ承認されている抗ガン剤には、抗力がないことがわかっているものが多くあることも報道されています。
これはおかしな話しで、ガンを本人に告知しない場合、本人に知られないように医者は抗ガン剤は使いたいけれども、抗力のある抗ガン剤を使ってしまうと、副作用を含めた薬の作用で抗ガン剤の使用が本人にわかってしまうので、
本人にわからないように効かない抗ガン剤を使えば、ガンの治療も(カルテ上、保険の点数上)できるし、告知もしないでいられる、という理由から需要があるのだそうです。これも経済的な理由による不正です。
 ここに挙げたのはほんの少しの例ですが、人間社会では、不正や欺瞞が満ちあふれています。私たちは、この中にあって、多くの怒りや悲しみ、閉塞感、やりきれなさを抱えながら毎日を送ることになります。


*マルコによる福音書 1章14〜15節

 さて、ヨハネが獄に引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来て、神の福音を宣べ伝えながら言った、「定めの時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。

 
 イエスによって招かれていなかったなら、神の王国が提示されていなかったなら、喜びと希望とが与えられていなかったなら、私たちは絶望のうちに潰されてしまっていたかもしれません。マルコによる福音書5章のゲラサの「悪霊に憑かれた人」は、「昼夜を分かたず、墓場や山の中にいて叫び続け、また石で自らを打って傷つけていた」と書かれています。これは現代の精神医学では、「自傷行為」といわれるものです。抗しきれない大きな力や理不尽によって精神的に押し潰された人が、怒りのエネルギーの矛先を自分自身に向けてしまう...。連日のように報道される、テロや、戦争という国家によるテロ、そして凶悪犯罪の被害者を思うとき、私たちにもゲラサの人が得た救いが大きなものだったかが伝わってきます。
 私たちは、この世の中にあって、ここから解放されることが必要な者です。「誰か渇いている人があれば、私のところに来ていつでも飲むがよい」。(ヨハネによる福音書7章37節)と、招かれる必要に迫った者です。

 
*マルコによる福音書2章17節

 「丈夫な者に医者はいらない、いるのは病んでいる者だ。私は『義人』どもを呼ぶためではなく、『罪人』たちを呼ぶために来たのだ」。
 

 今まで、共にマルコによる福音書から現れる、実際に生きた人間イエス、史的イエス像を追って学びを勧めてきました。彼は科学や歴史学から見たら、間違いなく、歴史上に実在したひとりの人間にほかなりません。そして、当時のユダヤ教徒たちの待ち望んでいたメシア(キリストは、そのギリシャ語形)、すなわち「選民イスラエルを異邦人(ローマ帝国)の専制支配から解放すべき王的、戦士的指導者」(大貫隆)ではありませんでした。
 しかし、初期のキリスト教徒たちが、この世のメシア像とはかけ離れた、十字架の死を遂げたイエスを、救い主、キリストと信仰告白したように、私たちの心にも、全く新しい教えによって、この世の価値観を覆し、救いと解放を与えてくれたイエスは、まさに私たちのキリスト(救い主)に他ならないのです。

 

§マルコはユダヤ・パレスチナ地域の地理に不案内?

 
 さて、今日のテキストの最初、31節は、マルコによる福音書を書いた編集者マルコが、ユダヤ・パレスティナの地理をよくわかっていないので、この福音書はローマで書かれた、という仮説の根拠のひとつとされる箇所です。

*マルコによる福音書7章31節:さて彼は、再びテュロスの地域から出て、シドンを通ってガリラヤの海に至り、デカポリス地域のただ中に来た。

 これは、新共同訳では、「デカポリス地方(のただ中)を通り抜け、ガリラヤ湖へやってこられた」と訳されています。デカポリスをガリラヤ湖南東岸と捉えた場合、これでは道順がおかしいことになってしまいます。しかし、デカポリスをダマスカスまで含めた広い範囲の地域を指すとすれば、正しいことになります。ガリラヤ湖を中心に、時計回りにぐるっと半円分まわったことになります。また、「デカポリス地方(のただ中)に来た、ガリラヤ湖を通り抜け」と捉えると、デカポリスはガリラヤ湖南東岸ということになり、上記のような訳になります。いずれにせよ、マルコは特にこの地域の地理に不案内だったわけではない、ということになります。
 現在は、マルコによる福音書は、ガリラヤが非常に大切な役割を果たしている点から、ユダヤ人と異邦人が共に多く住む、ガリラヤ地方や、南シリア(ツロ・シドンやダマスカスも)など、ちょうどここで記述されているあたりで成立したのではないかと考えられています。
 マルコは、7章24節以下に続いて、イエスがここでも異邦人の地を旅し、再び異邦人をも癒したと表現することで、イエスの福音が、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも伝えられるべきものであることを表現しようとしたのでしょう。

 
§「エッファタ」

 
 31節以下の、この箇所も治癒奇跡物語の様式を持っています。
(以下の様式のモチーフは川島貞雄による)

窮状の描写、病人と奇跡行為者との出会い
(すると人々は、彼のところに耳が聞こえず、舌もまわらない一人の者を連れてきて)
治癒の懇願(この者の上に手を置いてくれるように彼に乞い願う)
公衆の締め出し(そこでイエスは、彼を群衆から離して一人にし)
いやしの所作(自分の指を彼の両耳に入れ、唾をつけて彼の舌に触った)
奇跡を行う前の精神的興奮(そして天を仰ぎ見て嘆息し)
いやしの言葉
(彼に言う、「エッファタ」。これは「開け」という意味である)
治癒の確証
(するとすぐさま彼の耳は開かれ、舌のもつれも解けてまともに話した)
秘密保持の命令
(そこで彼は、このことを誰にも言わないように彼らに命令した)
人々の驚き
(そして、とてつもなく仰天しながら言い続けた、「彼がこれまでやったことは、すばらしいことばかりだ。耳の聞こえない者たちを聞こえるようにし、口の利けない者たちを話せるようにさえするのだ」)  

 この中で興味深いのは、ギリシャ語で書かれた本文の中で、イエスご自身が話していた当時の共通語、アラム語の「エッファタ」が含まれていることです。外国語は、その不思議な響きから、魔術的な力を持った神秘的なもののよ
うに捉えられます。私は、お寺でサンスクリット語(梵語)が卒塔婆に書かれるのは、そういう理由によるものだと思っています。この場合、神秘性を保つために意味の開示はあまり行われません。
 しかし、マルコはすかさず、その意味を説明します。「これは『開け』という意味である。」
 同様な例に:

*マルコによる福音書5章41節
「タリタ・クム」、これは訳すれば「少女よ、(あなたに言う)起きなさい」という意味である。

*マルコによる福音書15章34節

「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」これは訳せば、わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか、という意味である。

 があります。マルコは伝承を受けて、癒しの場面でイエスが用いたと伝えられる言葉を、そして十字架上の最期の言葉を、原語のアラム語で記し、その息づかいをも伝えようとしたのでしょうか。そしてまた、イエスが行った癒し
は、単なる魔術的なものではなく、したがって神秘のベールに包まれている必要もなく、率直に神の権威を受け継いで、「開け」と命じた、と言おうとしているのでしょうか。
 「人々の驚き」を表す37節は、創世記とイザヤ書と対応しています。「彼がこれまでやったことは、すばらしいことばかりだ」は、創世記の天地創造の締めくくりの言葉、創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものを
御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」
 そして「耳の聞こえない者たちを聞こえるようにし、口の利けない者たちを話せるようにさえするのだ」は、


*イザヤ書35章5〜6節「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」

 に対応しています。
 マルコの奇跡物語の記述は、マルコの信仰告白です。イエスの行いは、新しい世界を開いてくれた教えは、天地創造のように素晴らしく、イザヤ書で歌われた神の国の到来がまさにイエスのもとで現実になったのだ、という信仰告
白。
 私たちの毎日の生活においても、主に与えられる信仰が、日々新たにされますように。

*コリント人への第一の手紙16章22〜23節
「マラナ・タ(われらの主よ、来たりませ)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。私の愛が、キリスト・イエスにあってあなたがたすべてと共にあるように」

                  2003年8月3日