*マタイによる福音書7章7〜14節 求めよ、そうすれば与えられるであろう。探せ、そうすればあなたたちは見いだすであろう。叩け、そうすればあなたたちは開けてもらえるであろう。なぜなら、すべて求める者は手に入れ、また探す者は見いだし、また叩く者は 並行箇所:ルカによる福音書 11:9〜13,6:31,13:23〜24
今日は、大変嬉しい日です。私たちのこの教会に一年以上通っておられる横田敏子姉妹が洗礼を受けます。横田さんとの出会いは、一昨年、英語学園に通っていて、川崎スターライツ・ゴスペル・クワイアにも参加していた看護師 *マタイによる福音書7:7
§「黄金律」 この後、マタイによる福音書5章からはじまる「山の上の説教」の、総まとめの一言が続きます。「黄金律(ゴールデン・ルール)」として知られる箇所です。 *マタイによる福音書7:12 *ヒレル:「あなた自身にとっていやなことは、あなたの隣人に対してもしてはならない。それは律法全体であっで、あとのものはそこから推し計られるものにすぎない」(「ユダヤ人イエス」ダヴィド・フルッサー著より) §「狭い門を通って入れ」 さて、ここまで教えを語っていた「山の上の説教」は、読者に決断をせまります。 ローマ時代にローマが造ったエルサレムの大通りの様子を描いたイラストがありますが、まさに広い門、そして誰もが通る広い道です。 「『狭い門から入りなさい』という勧告は、誰でもが入りやすく、また実際にも選ぶであろう広い門を否定している点において、言い換えれば、世の日常性からの脱出を目指している点からして、イエスらしい言葉であると思う。」(山下次郎) ここでは「二つの道の教え(両道訓)」という形態を取っていて、私たちに「狭い門、命へと導く門」を選択することをせまります。「狭い門」は、5章からここまで語られた、山の上の説教で話された生き方をすることを指しています。そして、それが簡単ではないことを表現しています。例えば、同じように二者択一をせまる部分でに以下の箇所があります。 また、「狭い門、命へと導く門」と、この後に続く「善い実を結ぶ良い木」(15〜20節)、「天の父の意志を行う者」(21)、岩の上に家を建てる人(21)が対応していて、反対に、「広い門」、「悪い木」、「口先だけ *ガラテヤ人への手紙3章27節 *コリント人への第二の手紙 4章13〜18節 私は信じた。それゆえに私は語った、と書かれている言葉のように、同じ信仰の霊を持っているので、私たちもまた信じ、それゆえに語りもする。その際私たちは、主イエスを死者たちの中から起こした方は、イエスと共に私たちをも起こされるであろうし、あなたがたと共に神の前に立たせて下さるであろう、ということを知っている。実際、すべてのことはあなたがたのためであり、その恵みが、より多くの人たちのために増し加わり、神の栄光に向けて感 2003年5月18日 |
そこで彼は、すぐにその弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸のベトサイダの近くへ渡らせた。そしてその間に、彼自身は群衆を解散させた。そして群衆に別れを告げ、祈るために山に行った。 先日、学生時代の友人と話していて、卒業してから20年が経ってしまったんだ、ということに気付きました。私の通った大学、明治学院は、所謂ミッション・スクールと呼ばれる、宣教師によってはじめられた学校の一つでした。多くのミッションスクールと同じように、門には こうした校風のせいか、気の合う友人達の中に、親や祖父母がクリスチャンの家族に育った人が数多くいました。 *マルコによる福音書6:34 さて、イエスは舟から出て来ると、多くの群衆を目にした。そこで、彼らに対して腸がちぎれる想いに駆られた。
幸いなことに、私はこの教会で育ち、疑問を持つことは何にも間違ったことではなく、その疑問こそが、考え、勉強して、ある真実(とても大切な神様からのメッセージ)に到達するきっかけになるのだ、ということを知って育ちました。これは懸命に身につけようとしていた科学的思考の姿勢そのものです。さらに幸いなことに、現代は18世紀末から始まった文献批判的な聖書学が年々進み、私たちの理解を助けてくれます。今日のテキストを学ぶ上でも、文書編集史・文書様式史の研究(例えば、「むかしむかし」で始まったら、おとぎ話がはじまるんだなあ、とわかるような文書様式)が大きな助けになります。 *マタイによる福音書7:7 求めよ、そうすれば与えられるであろう。探せ、そうすればあなたたちは見いだすであろう。叩け、そうすればあなたたちは開けてもらえるであろう。なぜなら、すべて求める者は手に入れ、また探す者は見いだし、また叩く者は開けてもらえるだろうからである。 自分以外の者を演じることなく、そのまま神に受け入れられ、新しくされて、希望のうちに歩くことができる喜び!
§弟子たちが船を漕ぐのに苦しんでいる さて、「五つのパンと二匹の魚」のお話しの時に触れたとおり、福音書に出てくる奇蹟物語は、治癒奇蹟、悪鬼払い、自然奇蹟の三つに分類することができます。自然の法則に反する、現代の人々が聞いたら、そのままでは信じられないような奇蹟物語です。マルコによる福音書には、四つの自然奇蹟が報告されています。 この箇所の前半に、大変印象的な箇所があります。弟子たちだけを先にベトサイダ(「漁夫の家」という意味の村)へ送ります。 *48節:弟子たちが船を漕ぐのに苦しんでいるのを見ると―というのも、彼らにとっては逆風だったからである― 弟子たちがガリラヤ湖で嵐に遭い、自分たちだけではどうしようもなく、苦労している情景が目に浮かびます。こ *マルコがこの自然奇蹟の物語りで言おうとしていることは、(中略)イエスが地上に在った時には、その本質は世の人の眼には隠されていた。しかし、イエスは親しい弟子だけには、時として、その本質を啓示されたのだというこ さて、この奇蹟物語には、「海(湖)の上を歩く」と「弟子たちのかたわらを通り過ぎようとした」という表現が出てきます。これらは双方とも、神(もしくは神に匹敵する存在)を表す表現です。 「海(湖)の上を歩く」 「弟子たちのかたわらを通り過ぎようとした」 そして続きは、また、弟子たちがここでもイエスを理解することができない、という箇所です。 *49〜52 そこで、彼が海の上を歩んでいるのを見た彼らは、「化け物だ」と思い、大声を挙げた。というのも、皆が彼を目にし、動転してしまったからである。しかし彼はすぐに彼らに語りかけた。そして彼らに言う、「しっ あわてふためく弟子たちに向かってイエスが言ったのは、「しっかりしろ。私だ。もう恐れるな」この「私だ」は、エゴー・エイミー(εγω ειμι)。これは「旧約聖書以来、新約聖書時代のユダヤ教においても、神の啓示
マルコはこの奇蹟物語に、イエスが批判した、因習や規定を守ること中心のパリサイ人たちや、イエスの死後、異邦人を排除する方向性を示し、保守化していくエルサレム教団への批判が表れています。パウロがペテロ(ケファ)に対して直接批判している箇所を見てみましょう。 *ガラテヤ人への手紙2:11〜12 すでに、パウロの手紙集や、福音書が書かれた当時から、福音の質がゆがめられ、保守派の巻き返しにあい、それに対して怒りの声をあげる姿が浮き彫りになってきましたね。 *ガラテヤ人への手紙2:15 2003年6月1日 |
*マルコによる福音書7:1〜23 1.さて、彼のもとに、ファリサイ人たちと、エルサレムからやって来た幾人かの律法学者たちとが集まる。そして彼らは、彼の弟子のある者たちが不浄な手で ― ということは手を洗わないで ― パンを食べているのを見た。 §「愛の力」 さて、新共同訳のマルコによる福音書の7章には、「昔の人の言い伝え」という小見出しがついています。1節から13節までには「言い伝え(παραδοσιν)」という言葉が頻繁に出てきますが、これは、「口伝律法」と言って、律法学者たちが、「聖書の規定を目の前の時代に於いても通用するように解釈し直したもの」(佐藤研)を指します。ということは、当時のユダヤ人が非常に大切にしていたもので、「昔の人の言い伝え」という言葉から受けるような、過去の、今としてはもう大切ではなくなってしまった、風化してしまったような、というイメージとはかけ離れたものです。 マルコによる福音書7章1〜5節をもう一度お読みしましょう。 研究者の中には、この手を洗わないで食事をする弟子達の行動を、当時「異邦人のガリラヤ」と言われたガリラヤの地域性と重ね合わせて考える人がいます。北イスラエル王国が紀元前722年に滅亡したあと、数々の占領を経験 3節に「ファリサイ人たちつまり全ユダヤ人は」という表現があります。紀元70年にローマ軍によってエルサレムが陥落したあと、神殿の勢力だったサドカイ人は滅び、クムラン教団ではないかと思われるエッセネ派も滅ぼされてしまうため、ユダヤ人にはファリサイ人しか残っていない、という状況が生まれます。そこで、これがマルコによる福音書が70年以降に成立したという根拠の一つだとする人々もいます。
コルバン:「あるものについて、『これはコルバンである』と宣言すると、それは実際に神に供えられなくても、神への供え物すなわち聖なる物として、本来の目的に使うことができなくなる。通常はコルバンの誓いをなした当人がそれによって束縛されるが、ときには、この誓いは他の人のある物の使用を不可能にするために用いられた。(「ミシュナー」ネダリーム8:7) 何か都合のいいような、問題のある制度ですね。人間の都合で神の言葉を骨抜きにしてしまう事は許さない、という強い意志が伝わってきます。 *マタイによる福音書5:17〜20 これはイエスの主張と、全く矛盾するものです。 あなたがたは市場で売られているすべてのものは、良心のゆえに吟味することをしないままで、食べなさい。なぜなら、地とそれに満ちているものとは主のものであるから。もしも信者でない者のうちの誰かがあなたがたを招待し と書いています。 |
松永さんと原さんが、カリフォルニア州オークランドで行われた、エドウィン・ホーキンズ、ウォルター・ホーキンズ兄弟らの主催するゴスペル・ワークショップに参加し、松永さんは先日1日に帰国されました。遠く離れたところに住む人々とも共に讃美をすることができ、心が通い合えるのは、大きな喜びです。 §イエスの癒し さて、癒しに油が使われることや、病気の人々のために共に祈ることについては、ヤコブの手紙に以下のような記述があります。 *ヤコブの手紙5章14〜15節 この箇所が、先ほど触れた多くの教会で行われる癒し行為や、カトリックなどで広く行われている告白の根拠となるところです。パウロはこうした癒しの能力を、(神から与えられた)癒しの賜物(カリスマ、cf.コリント12 *ヨハネによる福音書9章1〜2節 これに対してヨハネによる福音書で描かれるイエスはこう答えています。 *ヨハネによる福音書9章3節 ヨハネによる福音書のイエスは、この障害は罪に対する罰だということをしっかり否定しています。では、マルコによる福音書ではどうでしょうか。 *マルコによる福音書2章5〜7節 イエスは病気や障害の原因と考えられていた罪が赦されることを宣言します。これには大変大きな意味があります。歴史的に実際に存在したイエス(以下、史的イエス)は、最古の福音書であるマルコによる福音書に多く反映され *マルコによる福音書1章21〜28節 21:そして彼らはカファルナウムに入る。また、彼はすぐに安息日に会堂に入り、教え始めた。すると人々は、彼の教えに仰天し通しだった。なぜならば、彼は律法学者たちのようにではなく、権能ある者のように彼らを教え続けたからである。 特に27節とその前を比較してみましょう。「これはいったい何事だ。権能を持った新しい教えだ。」この「権能を持った新しい教え」が文脈のなかで何を指すかと言えば、穢れた霊に憑かれた人の癒しです。ということは、彼の癒し自体が新しい教えだと言っていることになります。ルカによる福音書に興味深い記述があります。
神の王国の到来の証明として、「私が神の指によって悪霊共を追い出」すことが挙げられています。神の支配のもと(神が共におられて)で、男も女も子供も、老いも若きも、ユダヤ人も異邦人も、健康な人も、病気や障害を持っているひとも、貧しい人も、みな神の前に等しくあり、食事を共にし、すべての食べ物は清く、安息日でも助けるべき人がいるときは迷わず助ける、というイエスの「神の王国像」に、悪霊を追い出すこと、病気や障害がある人びと *マルコによる福音書10章13〜16節 さて、人々は、彼のところに子供たちを連れて来ようとした。彼に触ってもらうためである。しかし弟子たちは、彼らを叱りつけた。だが、イエスはこれを見て激しく怒り、彼らに言った、「子供たちを私のところに来るままにさ そして彼は、子供たちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。 さて、次回はマルコによる福音書7章24節以下を学びます。ここでは、癒しが行われる場所が、ガリラヤからでて、フェニキアのテュロス(ツロ)です。そして、癒しを受ける少女も、ユダヤ人ではなく、ギリシャ人(おそらく 2003年7月6日 |