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「狭い門を通って入りなさい」

「牧人のいない羊」

「何が人を汚すか」

「イエスの癒し」



 「狭い門を通って入りなさい」

*マタイによる福音書7章7〜14節

 求めよ、そうすれば与えられるであろう。探せ、そうすればあなたたちは見いだすであろう。叩け、そうすればあなたたちは開けてもらえるであろう。なぜなら、すべて求める者は手に入れ、また探す者は見いだし、また叩く者は
開けてもらえるだろうからである。
 あるいは、あなたたちの中で誰が、自分の息子がパンを求めているのに、石を彼に与えるような人間であろうか。あるいは、魚を求めているのに彼に蛇を与えるであろうか。だから、もしあなたたちが悪人であるにもかかわらず自分の子供たちには良い贈り物を与えることを知っているとすれば、天におられるあなたたちの父はなおいっそう、彼に求める者にさまざまの良いものを下さらないであろうか。
 だから、あなたたちが人々からして欲しいと思うことのすべてを、あなたたちも人々にせよ。まさに、これが律法と預言者たちにほかならない。
 狭い門を通って入れ。なぜならば、滅びへと導く門は広く、その道は広大である。そして、そこを通って入って行く者は多い。しかし、命へと導く門はなんと狭く、その道はなんと細いことか。そしてそれを見いだす者はわずかで
ある。        佐藤 研 訳

並行箇所:ルカによる福音書 11:9〜13,6:31,13:23〜24

 
*ルカによる福音書13:22〜24
 そしてイエスは、町から町へ、村から村へとめぐり行きながら、教え続け、エルサレムに向かって歩を進めていた。
 するとある者が彼に言った、「主よ、救われる者は数少ないのですか」。すると彼は彼らに対して言った、「狭い戸口を通って入るよう、必死に努めよ。なぜならば、私はあなたたちに言う、多くの人が中に入ることを求めるが、それができないからだ。 
   


§「求めよ、そうすれば与えられるであろう」

 今日は、大変嬉しい日です。私たちのこの教会に一年以上通っておられる横田敏子姉妹が洗礼を受けます。横田さんとの出会いは、一昨年、英語学園に通っていて、川崎スターライツ・ゴスペル・クワイアにも参加していた看護師
の鈴木さんが、このクワイヤと私たちを結びつけてくれたことから始まります。クリスマスに一緒にコンサートをした後、横田さんと伊藤さんは、ずっとこの教会に通い続けています。そして、このクワイアの指導者の坂上さんや原
さんの働きを通じて、私たちは数多くの友を得、松永さんにも出会うことができました。
 普通なら、「いやあ、縁というのは不思議なものだね」ということになりますが、こうした一つひとつの出会いの背後に、神様の働きを感じます。素晴らしい恵み(Amazing Grace)ですね。
 そして、出会った後、ずっと教会に通い続ける、ということも、実は大変なことです。教会は、信仰を持って共に歩んでいく人々のとても大切な共同体、コミュニティー、家族です。こうして、主イエスのブドウの木に共に連なる
ことになった横田姉妹を歓迎します。

 
*コリント5:17
 「もしもある人がキリストのうちにあるのなら、その人は新しく創造された者なのである。古きものは過ぎ去った。見よ、新しくなってしまったのである。」
                        
 まったく新しい者に作りかえられてしまう。
 特に、日本にはこれを難しくしている要素がたくさんあります。その一つは、南部バプティストをはじめとする、アメリカのキリスト教、キリスト教徒を自認する人々の多くの価値観が、十字軍以来ほとんど変わらない拡張主義、
帝国主義に留まっていること。そして、それがキリスト教の姿であると受け取ってしまうこと。またもう一つは、豊臣秀吉のキリシタンの禁教以降、400年余にわたって、キリスト教は邪教だ、というような偏見があり、今も残っていることが挙げられます。「権力の支配の影響より、文化の支配の影響はずっと長く残る」と言った歴史家がいましたが、その通りで、豊臣秀吉の支配はすぐ終わってしまいますが、踏み絵を踏まされて植え付けられた価値観の影響は今も残ります。余談ですが、数年前に「フランシスコ・ザビエル展」に行った際、ある発見をしました。「踏み絵」は、取り締まる側が造ったのではなく、踏み絵に使われていたマリヤ像、イエス像は、信者が持っていたものを取り上げて使ったのだそうです。小学校で使った社会科の資料集以来、私は「踏み絵」の写真に「踏み絵」と書かれていたのをただそのまま受け取っていましたが、これは適切ではありませんね。「『踏み絵』として使われた、信者から没収したイエス像、マリヤ像」とでも書いてくれていればその心が通じるのに、と思います。
 こういうことが重なって、日本人の中のクリスチャンの割合は、1%と言われていて、実質的には更に少ない、という見方もあります。
 にもかかわらず、教会での学びやクワイアで歌う歌を通して、イエスの福音に出会い、神に出会い、神の愛に出会い、深い喜びを知り、この道を一生の道として選ぶようにされたことは、かけがえのないことです。

*マタイによる福音書7:7
 求めよ、そうすれば与えられるであろう。探せ、そうすればあなたたちは見いだすであろう。叩け、そうすればあなたたちは開けてもらえるであろう。なぜなら、すべて求める者は手に入れ、また探す者は見いだし、また叩く者は
開けてもらえるだろうからである。

 

§「黄金律」

 この後、マタイによる福音書5章からはじまる「山の上の説教」の、総まとめの一言が続きます。「黄金律(ゴールデン・ルール)」として知られる箇所です。
 

*マタイによる福音書7:12
 だから、あなたたちが人々からして欲しいと思うことのすべてを、あなたたちも人々にせよ。まさに、これが律法と預言者たち(旧約聖書の教え全体)にほかならない。
 
 律法や様々な規定がたくさんあるなかで、非常に完結に大切な教えがまとめられています。これはまさに愛と平和の言葉ですね。イエスと同時代(少し前50BC~20AD)のパリサイ派の指導者のひとり、ヒレルもよく似た言葉を残しています。

*ヒレル:「あなた自身にとっていやなことは、あなたの隣人に対してもしてはならない。それは律法全体であっで、あとのものはそこから推し計られるものにすぎない」(「ユダヤ人イエス」ダヴィド・フルッサー著より)

§「狭い門を通って入れ」

 さて、ここまで教えを語っていた「山の上の説教」は、読者に決断をせまります。

 
*マタイによる福音書7:13
 狭い門を通って入れ。なぜならば、滅びへと導く門は広く、その道は広大である。そして、そこを通って入って行く者は多い。しかし、命へと導く門はなんと狭く、その道はなんと細いことか。そしてそれを見いだす者はわずかで
ある。

 ローマ時代にローマが造ったエルサレムの大通りの様子を描いたイラストがありますが、まさに広い門、そして誰もが通る広い道です。

 「『狭い門から入りなさい』という勧告は、誰でもが入りやすく、また実際にも選ぶであろう広い門を否定している点において、言い換えれば、世の日常性からの脱出を目指している点からして、イエスらしい言葉であると思う。」(山下次郎)

 ここでは「二つの道の教え(両道訓)」という形態を取っていて、私たちに「狭い門、命へと導く門」を選択することをせまります。「狭い門」は、5章からここまで語られた、山の上の説教で話された生き方をすることを指しています。そして、それが簡単ではないことを表現しています。例えば、同じように二者択一をせまる部分でに以下の箇所があります。

 
*マタイによる福音書6:24
 誰も二人の主に兼ね仕えることはできない。なぜなら、一方を憎み、他方を愛するからである。あるいは一方の世話はするが、他方はこれを軽蔑するからである。神とマモン(富)とに兼ね仕えることはできない。
 

 また、「狭い門、命へと導く門」と、この後に続く「善い実を結ぶ良い木」(15〜20節)、「天の父の意志を行う者」(21)、岩の上に家を建てる人(21)が対応していて、反対に、「広い門」、「悪い木」、「口先だけ
の信仰の人」、「砂の上に家を建てる人」が対応しています。
 
 ここでの「狭い門」は、日本語で、人気が高くて入学するのが難しい大学などを表すために比喩的に使われる「狭い門」とは意味が違うことがわかります。「命へと導く門はなんと狭く、その道はなんと細いことか。そしてそれを
見いだす者はわずかである。」とは、先ほど述べた日本の状況のようですね。しかし、日本だけではなく、どこでも門は狭いようです。
 
 ちょうど、先月、イースターの時に学んだように、イエスご自身は、派手で目立つ、人々を驚かすような奇蹟のパフォーマンスで人々の心を捉えようとはしませんでした。政治的な指導者にもならず、それどころか、一生の締めく
くりは、十字架上での刑死です。世の中の価値観とは正反対です。最も小さい者とともにあり、私たちと共に最後まで歩んでくださる姿。最後に聖書を二箇所お読みして、今日のお話しを締めくくります。

*ガラテヤ人への手紙3章27節
 「実際、キリストへと洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない。まさにあなたがたすべては、キリストにおいて一人な
のだからである。」

*コリント人への第二の手紙 4章13〜18節

 私は信じた。それゆえに私は語った、と書かれている言葉のように、同じ信仰の霊を持っているので、私たちもまた信じ、それゆえに語りもする。その際私たちは、主イエスを死者たちの中から起こした方は、イエスと共に私たちをも起こされるであろうし、あなたがたと共に神の前に立たせて下さるであろう、ということを知っている。実際、すべてのことはあなたがたのためであり、その恵みが、より多くの人たちのために増し加わり、神の栄光に向けて感
謝を満ち溢れさせるためである。
 それゆえに私たちは失望することはない。むしろ、たとえ私たちの外なる人は朽ち果てても、しかし私たちの内なる人は、日ごとに新たにされるのである。なぜならば、私たちの一時的な軽い患難は、卓越した仕方で、私たちに永
遠の重みに満ちた栄光を造り出してくれるからである。その際私たちは、見ることのできるものにではなく、むしろ見ることのできないもの目を注ぐ。見ることのできるものはしばらくの間のものであり、他方見ることのできないものは永遠にあるのだからである。           青野太潮 訳
 

                        2003年5月18日 

 「牧人のいない羊」


*マルコによる福音書6:45〜56

 そこで彼は、すぐにその弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸のベトサイダの近くへ渡らせた。そしてその間に、彼自身は群衆を解散させた。そして群衆に別れを告げ、祈るために山に行った。
 さて、夕方になった頃、舟は海のただ中にあり、彼自身は一人陸にいた。そして弟子たちが船を漕ぐのに苦しんでいるのを見ると―というのも、彼らにとっては逆風だったからである―、夜の第四更の頃(夜をローマ式に四つに分け、そのうちの第四の部分。午前3時頃から午前6時頃までを指す)、彼は海の上を歩みながら彼らのところにやって来る。そして彼らのかたわらを通り過ぎようとした。そこで、彼が海の上を歩んでいるのを見た彼らは、「化け物
だ」と思い、大声を挙げた。というのも、皆が彼を目にし、動転してしまったからである。しかし彼はすぐに彼らに語りかけた。そして彼らに言う、「しっかりしろ。私だ。もう恐れるな」。そして彼らのもとに来て舟に乗り込んだ
。すると風が萎えた。そこで彼らはなおいっそう心の中で正気を失うほど驚いた。なぜなら彼らは、パンのことに関して悟ることがなく、その心が頑なになってしまっていたからである。         佐藤 研 訳
並行箇所:マタイによる福音書14:22〜33
     ヨハネによる福音書 6:16〜21 
 
 
§牧人のいない羊

 先日、学生時代の友人と話していて、卒業してから20年が経ってしまったんだ、ということに気付きました。私の通った大学、明治学院は、所謂ミッション・スクールと呼ばれる、宣教師によってはじめられた学校の一つでした。多くのミッションスクールと同じように、門には
'TRUTH SHALL MAKE YOU FREE'(真理はあなたがたを自由にする)
と書かれていました。

 
*ヨハネによる福音書8:31〜32
「あなたがたが私のことばに留まるなら、あなたがたは本当に私の弟子である。そして真理を知るようになり、その真理があなたがたを自由にするであろう」。
 

 こうした校風のせいか、気の合う友人達の中に、親や祖父母がクリスチャンの家族に育った人が数多くいました。
 彼らのほとんどが幼少時代に教会や日曜学校に通った楽しい思い出を持っていましたが、小学校の高学年から中学に入る頃に教会との別れを経験している例が数多くありました。この年代は、社会と自分とを盛んに比べて常識や社会
通念を培おうとする時期で、自分の家族の持つ価値観、友人たちや学校の先生達の価値観、教会で育んだ価値観の中から、自分の価値観を造り上げようとする発達段階の一つだと思います。
 そういう友人の何人かから教会から離れてしまった理由を聞きましたが、その理由はなかなか頷けるものでした。
 聖書の物語を通じ、正直であることや、正しいこと、良心に従って行動することを大切に思って成長します。そしてある日、聖書に書いてある奇蹟物語の数々をそのまま受け入れられなくなっている自分に気付くのです。例えば今日
のテキスト、ガリラヤ湖の水の上を歩行したという箇所。これをまじめに読んで、このまま信じられない(受け入れられない)ことに悩み、教会の人に相談すると、「もっと祈れば信じられるようになるよ」とか、「心を赤ん坊のよ
うに純粋にして読んでごらん、きっと信じられるようになるよ」というようなことを言われて、心に傷を負い、楽しかった子供時代の「おとぎ話の世界」との別離を経験するのです。そのまま信じられないことは自分が悪い者だから
なのではないか、と思ってしまう人もいます。これは非常に残念なことです。
 そして、こういう友人の多くは今も変わらず非常にいい人で、日本の社会、とりわけ効率主義や競争社会やお酒のつきあいなどに同化しようとするが馴染めず、悩んでいる人も少なくありません。まさに、「牧人のない羊のよう」です。私たちから見れば、こういう人こそ福音を必要としているのに。私は、このような友人の中で一人でもこの教会の群れに加わる人が現れることをずっと祈っています。
 

*マルコによる福音書6:34

 さて、イエスは舟から出て来ると、多くの群衆を目にした。そこで、彼らに対して腸がちぎれる想いに駆られた。
なぜならば、彼らは牧人のない羊のようだったからである。そこで彼は彼らに対してさまざまに教え始めた。 

 

 幸いなことに、私はこの教会で育ち、疑問を持つことは何にも間違ったことではなく、その疑問こそが、考え、勉強して、ある真実(とても大切な神様からのメッセージ)に到達するきっかけになるのだ、ということを知って育ちました。これは懸命に身につけようとしていた科学的思考の姿勢そのものです。さらに幸いなことに、現代は18世紀末から始まった文献批判的な聖書学が年々進み、私たちの理解を助けてくれます。今日のテキストを学ぶ上でも、文書編集史・文書様式史の研究(例えば、「むかしむかし」で始まったら、おとぎ話がはじまるんだなあ、とわかるような文書様式)が大きな助けになります。

*マタイによる福音書7:7

 求めよ、そうすれば与えられるであろう。探せ、そうすればあなたたちは見いだすであろう。叩け、そうすればあなたたちは開けてもらえるであろう。なぜなら、すべて求める者は手に入れ、また探す者は見いだし、また叩く者は開けてもらえるだろうからである。

 自分以外の者を演じることなく、そのまま神に受け入れられ、新しくされて、希望のうちに歩くことができる喜び!

 

§弟子たちが船を漕ぐのに苦しんでいる

 さて、「五つのパンと二匹の魚」のお話しの時に触れたとおり、福音書に出てくる奇蹟物語は、治癒奇蹟、悪鬼払い、自然奇蹟の三つに分類することができます。自然の法則に反する、現代の人々が聞いたら、そのままでは信じられないような奇蹟物語です。マルコによる福音書には、四つの自然奇蹟が報告されています。
 ・暴風を静める(4:35〜)
 ・五つのパンと二匹の魚(そして、七つのパンで四千人に食べさせる奇蹟)
 ・湖を歩く(6:45〜)
 ・無花果の木を呪って枯らす(11:12〜)
 そして、特徴としては、このすべてで、奇蹟を目撃しているのはイエスご自身と弟子達だけで、今日の「湖を歩く」箇所でも、同様です。

 この箇所の前半に、大変印象的な箇所があります。弟子たちだけを先にベトサイダ(「漁夫の家」という意味の村)へ送ります。

*48節:弟子たちが船を漕ぐのに苦しんでいるのを見ると―というのも、彼らにとっては逆風だったからである― 弟子たちがガリラヤ湖で嵐に遭い、自分たちだけではどうしようもなく、苦労している情景が目に浮かびます。こ
のイメージはちょうど、動かし難い現実の理不尽な事の成り行きに翻弄されて怒りのやりばがないところに置かれてしまった人間の姿に重なります。
 例えば、先日終わりをむかえたイラク戦争。一方的に攻撃を加えた米軍は(ひた隠しにしようとしていますが)、
 湾岸戦争の時の使用量をはるかに超える500トンにも及ぶ劣化ウラン弾(DU)をイラクに投下しました。原子炉の使用済み核燃料の廃棄物として得られる非常に重い劣化ウランを使うと、戦車の分厚い壁も、地中深く掘られたシェルターも、頑丈な鉄筋コンクリートの壁も打ち抜くことができる、という軍隊側にしては「利点」があるのでしょうが、劣化ウラン弾の多くはすでに爆発して微粒子として空気中に漂い、放射能汚染を今後引き起こし続けることになります。この劣化ウランの放射能の半減期は45億年ということなので、イラクの地に住んで水を飲み、野菜や小麦を食べ、牛や羊や山羊のミルクを飲み、空気を吸って生活する人は、数十億年にわたって非常に高いガンや白血病、そして奇形などの高い発生率に苦しむことになります。
 劣化ウランを使った武器を開発する科学者たちなら当然知っているこうした問題があるにもかからわず、これを正義の名の下に躊躇なく使う非常に大きな力の前で、それでも正気を保ち、復讐心に燃えてテロリストになることもせず、しっかりと立って主に指し示された道を歩んでいく、というのは決して人間だけでできるものではありません。このようなときに、主がかたわらにいてくださるのだ。しかし、弟子たちはそれに気付かない。

*マルコがこの自然奇蹟の物語りで言おうとしていることは、(中略)イエスが地上に在った時には、その本質は世の人の眼には隠されていた。しかし、イエスは親しい弟子だけには、時として、その本質を啓示されたのだというこ
とである。(山下次郎)

 さて、この奇蹟物語には、「海(湖)の上を歩く」と「弟子たちのかたわらを通り過ぎようとした」という表現が出てきます。これらは双方とも、神(もしくは神に匹敵する存在)を表す表現です。

「海(湖)の上を歩く」
*ヨブ9:8  神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる
*詩篇77:20  あなたの道は海の中にあり/あなたの通られる道は大水のなかにある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。

「弟子たちのかたわらを通り過ぎようとした」
*出エジプト12 主の過ぎ越し

 そして続きは、また、弟子たちがここでもイエスを理解することができない、という箇所です。

*49〜52 そこで、彼が海の上を歩んでいるのを見た彼らは、「化け物だ」と思い、大声を挙げた。というのも、皆が彼を目にし、動転してしまったからである。しかし彼はすぐに彼らに語りかけた。そして彼らに言う、「しっ
かりしろ。私だ。もう恐れるな」。そして彼らのもとに来て舟に乗り込んだ。すると風が萎えた。そこで彼らはなおいっそう心の中で正気を失うほど驚いた。なぜなら彼らは、パンのことに関して悟ることがなく、その心が頑なにな
ってしまっていたからである。

 あわてふためく弟子たちに向かってイエスが言ったのは、「しっかりしろ。私だ。もう恐れるな」この「私だ」は、エゴー・エイミー(εγω ειμι)。これは「旧約聖書以来、新約聖書時代のユダヤ教においても、神の啓示
の定式言辞となっていた」(シュタウファー)。

 マルコでは、弟子達は最後まで心が頑ななままですが、並行箇所のマタイによる福音書14章22節以下では、ペテロも舟を下りて水の中を歩き、弟子たちは「まことにあなたは神の子です」と告白します。


*マルコは「啓示に対する盲目」と「真理に対する頑なな心」とをイエスの当時のパリサイ人や弟子たちに見ていただけでなく、むしろ彼の時代のエルサレム教会そのものに見ており、これを批判して止まなかったのである。(田川
建三)

 マルコはこの奇蹟物語に、イエスが批判した、因習や規定を守ること中心のパリサイ人たちや、イエスの死後、異邦人を排除する方向性を示し、保守化していくエルサレム教団への批判が表れています。パウロがペテロ(ケファ)に対して直接批判している箇所を見てみましょう。

*ガラテヤ人への手紙2:11〜12
 ところがケファがアンティオキアにやって来たとき、私は彼に面と向かって反対した。というのは、彼は責められるべきであったからである。なぜならば、(主の兄弟)ヤコブのもとからある者たちがやって来る以前には、彼は異
邦人たちと食事を共にしていたのに、彼らがやって来た時には、割礼の者たちを恐れて彼は退きはじめ、自らを引き離しはじめたからである

 すでに、パウロの手紙集や、福音書が書かれた当時から、福音の質がゆがめられ、保守派の巻き返しにあい、それに対して怒りの声をあげる姿が浮き彫りになってきましたね。

*ガラテヤ人への手紙2:15
 私たちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人出身の「罪人」ではない。しかし、人は律法の業によっては義とされず、イエス・キリストへの信仰によってのみ義とされるということを知って、私たちもまたキリスト・イエス
を信じたのである。

                          2003年6月1日  

 「何が人を汚すか」

 

*マルコによる福音書7:1〜23

 1.さて、彼のもとに、ファリサイ人たちと、エルサレムからやって来た幾人かの律法学者たちとが集まる。そして彼らは、彼の弟子のある者たちが不浄な手で ― ということは手を洗わないで ― パンを食べているのを見た。
(というのも、ファリサイ人たちつまり全ユダヤ人は、父祖たちの言い伝えを守り、手を念入りに洗わずには食事をしないのである。また市場から戻ったときも、沐浴をせずには食事をしないのである。またその他多くのことを遵守すべきものとして伝承から受けついでいる。杯や壺や銅の器や寝台を水に浸して洗うことなどである。)そこでファリサイ人たちと律法学者たちは、彼にたずねる、「なぜ、お前の弟子たちは父祖たちの言い伝えに従って歩まず、不浄な手でパンを食べているのか」。6.すると彼は彼らに言った、「イザヤはお前たち偽善者について、みごとに預言したものだ。次のように書いてある通りだ、すなわち、
  この民は唇で私を敬うが、
  その心は私からはるかに隔たっている。
  彼らは、私をいたずらに敬うに過ぎない、
  人間のさまざまな誡めをしょうこりもなく教えとして教えながら。
 お前たちは神の掟をなおざりにして、人間たちの言い伝えにしがみついているのだ」。また彼は彼らに言った、「お前たちは、自分たちの言い伝えを主張するためなら、神の掟をもみごとに反古にする。というのは、モーセがお前の父とお前の母とを敬えと言い、父や母を呪う者は必ず死ぬべしと言ったにもかからわず、お前たちは次のようなことを言っている、『もし人が父や母に対し、「あなたに差し上げるはずだったものは、コルバン(供え物の意)となります」と言えば、父や母に対して、何もしなくてよろしい』、と。こうしてお前たちは、自分たちが伝えてきた言い伝えで、神の言葉を台無しにしているのだ。またお前たちは、この類のことを数多く行っている」。
 14.そして再び群衆を呼び寄せ、彼らに言った、「あなたたちは皆、私の言うことを聞いて、悟れ。外から人間の中に入ってきて彼を穢すことのできるものは何もない。むしろその人間から出ていくもろもろのものが、その人間を穢すのだ」。
 17.そして彼が群衆から離れて家に入ると、彼の弟子たちはこの譬えについて彼にたずねた。そこで彼は彼らに言う、「あなたたちもまた、そのように悟りがないのか。すべて外から人間の中に入ってくるものは彼を穢しえないことがわからないのか。なぜならば、それは彼の心の中に入るのではなく、腹の中に入って便所へと出ていくからだ」
。こうして、すべての食物を彼は清いものとした。また言った、「人間から出てくるもの、それが人間を穢す。なぜならば、人間の心の中からこそ、悪いもろもろの想いが出てくる。つまり、淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、奸計、好色、嫉妬、涜言、高慢、無分別などだ。これらすべての悪は、中から出てきてその人間を穢すのだ」。        佐藤 研 訳
  並行箇所:マタイによる福音書15:1〜20
     

§「愛の力」

 
 最近再び新聞の一面にイスラエル/パレスチナ問題がよくのぼるようになりました。イスラエルによる、過激派ハマス幹部の暗殺や、空爆、そしてハマスによる自爆テロ...いったいいつまで続くのだろう、と頭を抱えてしまいます。今月4日に、ヨルダンのアカバで、イスラエルのシャロン首相、パレスチナ自治政府のアッバス首相、そしてアメリカのブッシュ大統領が会談して、新たなパレスチナ独立に向けての和平構想が打ち出されました。もしかすると、これは一歩前進の兆しか、と思う次の瞬間にその希望がうち砕かれるのは、全くいつものパターンで、双方が平和に共存する、という解決を望まない勢力の力がいかに強いかを知らされることになります。「剣を取る者は、剣で滅びる」(マタイ26:52)という方向に双方が突き進んでいるようで、残念でなりません。
 パレスチナの指導者に、インドの独立運動の指導者、ガンディーのような愛と非暴力による世界の変化を説く人が出てくることを願わずにはいられません。経済力と軍事力を背景とする現代の暴力的な世界秩序の価値観に取り込ま
れずに独立を果たすには、私にはこの愛と非暴力とでたたかうことしかないように思われます。
 そして、ガンディーら、愛と、人間的な社会秩序を追求して行く人々の急先鋒は、私たちが日々福音書を通して学んでいるイエスです。「幸いだ、貧しい者たち」という言葉と共に、「罪人」と言われる人々と食事をし、女性達とも一緒に旅をする。「あなたたちの敵を愛せよ、そしてあなたたちを迫害する者たちのために祈れ」という、驚くべき愛の姿を提示する。また今日のテキストのように、それが非人間的だと思えば、宗教的な戒律をも否定してしまう。そして、最後は十字架での死を迎えます。
 
 
§守ればそれでいい、という規則に対する批判

 さて、新共同訳のマルコによる福音書の7章には、「昔の人の言い伝え」という小見出しがついています。1節から13節までには「言い伝え(παραδοσιν)」という言葉が頻繁に出てきますが、これは、「口伝律法」と言って、律法学者たちが、「聖書の規定を目の前の時代に於いても通用するように解釈し直したもの」(佐藤研)を指します。ということは、当時のユダヤ人が非常に大切にしていたもので、「昔の人の言い伝え」という言葉から受けるような、過去の、今としてはもう大切ではなくなってしまった、風化してしまったような、というイメージとはかけ離れたものです。
 先週、この近くの小学校でプール開きの行事があったそうです。小学生たちに、プール開きって何するの?と訊くと、「校長先生がプールの四隅にお酒をかけるの。○○小学校の伝統なんだって。」これを聞いた私はいささか驚いたと同時に、伝統文化への無批判な回帰が道徳教育の中に盛り込まれていたりする現状とこの行為が結びついてしまって失望を感じたのですが、この背景には、こうした祭礼・儀式をしないと、プールに棲む霊が怒って悪さをするかもしれない、という半ば風化した言い伝えがあって、まあそんな事はないと思うけれど、でももし祭礼をしなくて、事故が起きたら祭礼をしなかったせいだ、ということになるかもしれないからやっておこうか、生徒達には、「君たちの安全を祈願するためだよ」って言えば、安全を考える教育的機会になるかもしれない、というような感覚があって、これは厄年だから、といって神社でお祓いをしてもらったり、川崎大師で自動車にお祓いをしてもらってシールを貼ったりする人々のメンタリティーと同じ、昔からの言い伝えの恐怖に心が縛られてしまって本質が見えなくなっている姿です。
 しかし、このマルコによる福音書の箇所は、こういうものとは大きく違います。パウロが、「人は律法の業によっては義とされず、イエス・キリストへの信仰によってのみ義とされるということを知って、私もまたキリスト・イエスを信じたのである。」(ガラテヤ人への手紙2:16)と言っていますが、これは、当時の人々が、戒律をしっかり守って暮らすことこそが救いの道だと思っていたことを、イエスに倣って覆してしまっているのです。

 マルコによる福音書7章1〜5節をもう一度お読みしましょう。

 研究者の中には、この手を洗わないで食事をする弟子達の行動を、当時「異邦人のガリラヤ」と言われたガリラヤの地域性と重ね合わせて考える人がいます。北イスラエル王国が紀元前722年に滅亡したあと、数々の占領を経験
して異邦人が多く移り住み同化していく中、紀元前140年にハスモン家を中心とする勢力がシリヤを倒して新しいユダヤ独立国ができたときに、ガリラヤ地方にもエルサレム発の新しいユダヤ教とその口伝律法が入ってきてこれを守る義務が課せられるけれど、なかなか指導者たちが望むようには、人々の意識は変わらず、食事の前の清めの儀式としての手洗いもなかなか定着しないので、このことがまた「異邦人の同様のガリラヤ」という蔑称的な呼び方を招いた、という意見ですが、なかなかうなずけます。このことがまた、戒律よりも、その心を大切にする人々の姿勢とも関係があると考えられます。
 この食事の前に清めのために手を洗う、という口伝律法の聖書の中での根拠は、レビ記15章11節が挙げられますが、文脈上、すべての人に対して言っているわけではなく、特定の病気の人に対しての指示です。

 
*レビ記15:11
 漏出(淋病や尿道の炎症による膿汁の分泌か)のある者が水で両手をすすがずに誰かに触れたならば、後者は自分の着物を洗い、水で沐浴しなければならない。その者は夕方まで穢れる」山我哲雄訳

 3節に「ファリサイ人たちつまり全ユダヤ人は」という表現があります。紀元70年にローマ軍によってエルサレムが陥落したあと、神殿の勢力だったサドカイ人は滅び、クムラン教団ではないかと思われるエッセネ派も滅ぼされてしまうため、ユダヤ人にはファリサイ人しか残っていない、という状況が生まれます。そこで、これがマルコによる福音書が70年以降に成立したという根拠の一つだとする人々もいます。
 さて、イエスのファリサイ人と律法学者に対する返答は大変厳しいものでした。食事の前に手を洗わない者がいることを非難した彼らは、イエスに祭儀的な浄め全体を非難されてしまいます。こうした宗教的な戒律が、だんだん元の意味を忘れられ、それを行うかどうか、という問題にすりかえられてしまっていました。それを行う者は正しく、行わない者は義とされない、という具合に。また後述するように、自分に都合の悪いことはしなくてもいいような抜け道を造ってしまう:まったく神のほうを向いているのではなく、人間の勝手な思惑を正当化するような権威を造り上げようとする者たちを偽善者(マルコによる福音書でこの言葉が使われるのはここだけ)として厳しく非難します。
 マルコによる福音書7:6〜13をもう一度お読みします。


 7節と8節では、口伝律法の人間の思惑によってできていった規則を「人間の誡め」と、そして「お前の父と母とを敬え」(出エジプト20:12)というような根元的な掟を「神の掟」として区別しています。

 コルバン:「あるものについて、『これはコルバンである』と宣言すると、それは実際に神に供えられなくても、神への供え物すなわち聖なる物として、本来の目的に使うことができなくなる。通常はコルバンの誓いをなした当人がそれによって束縛されるが、ときには、この誓いは他の人のある物の使用を不可能にするために用いられた。(「ミシュナー」ネダリーム8:7)
他の人 ー両親の場合もあり得るー に対する怒りから、性急にコルバンの誓いをなし、後で後悔することも少なくなかったと言われる。」(川島貞雄)

 何か都合のいいような、問題のある制度ですね。人間の都合で神の言葉を骨抜きにしてしまう事は許さない、という強い意志が伝わってきます。
 そして、14節以下は、旧約聖書の食物規定に対する批判です。 

 
「あなたたちは皆、私の言うことを聞いて、悟れ。外から人間の中に入ってきて彼を穢すことのできるものは何もない。」(15節)
 は、申命記(14:3〜21)やレビ記(11:1〜45)にある、食物規定を全く否定してしまっています。これは驚くべきことです。そして、
「外から人間の中に入ってきて彼を穢すことのできるものは何もない」
 には、食べ物だけに留まらず、女性や病人、異邦人などに触れても穢れると思っている人々に、そんなことはないのだ、という意味が含まれています。これは人間社会にとって、大変大きな意識変革です。
 しかし、このような大胆で急進的な主張には、初期の教会のなかでも戸惑う声がでてきてしまいます。特にパウロが激しく批判している義の兄弟ヤコブを中心とした、エルサレム教会の人々のユダヤ教への回帰傾向、保守化傾向で
す。それはマタイによる福音書にも表れています。

*マタイによる福音書5:17〜20
 私が律法や預言者たち(旧約聖書全体)を廃棄するために来た、と思ってはならない。廃棄するためではなく、満たすために来たのである。なぜなら、アーメン、私はあなたたちに言う、天と地が過ぎ行くまでは、律法の一点一画も決して過ぎゆくことはなく、すべてが成るであろう。したがって、これらの最も小さい掟の一つですら破棄し、そのように人々にも教える者は、天の王国において最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これらの最も小さい掟を行ない、そのように人々にも教える者、その者こそ天の王国においては大いなる者と呼ばれるであろう。たしかに私はあなたたちに言う、あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ人たちのそれにまさっていなければ、あなたたちは決して天の王国に入ることはないであろう。

 これはイエスの主張と、全く矛盾するものです。
 さて、パウロは、イエスの心を受け継ぎ、コリント人への手紙10章25節以下で、

 あなたがたは市場で売られているすべてのものは、良心のゆえに吟味することをしないままで、食べなさい。なぜなら、地とそれに満ちているものとは主のものであるから。もしも信者でない者のうちの誰かがあなたがたを招待し
、あなたがたもそこに行きたいと願うなら、そこであなたがたに提供されるものは、すべて良心のゆえに吟味することをしないままで食べなさい。(コリント人への手紙10章25〜27節)
 

と書いています。
 私たちは、このように一つのまとまった本のように見える聖書のなかから、イエスの大胆で斬新なメッセージと、彼の弟子達でありながら、保守化してしまった人々のメッセージの両方を読みとることができます。そして、私たち
が選んで大切に受け継ぐ福音は、どちらか、しっかり明らかにされています。

 
*ガラテヤ人への手紙5:13〜16
 実際あなたがたは自由へと召されたのだ、兄弟たちよ。ただその自由を、肉へと向かう機会のために用いず、むしろ、愛を通してあなたがたは互いに仕え合いなさい。というのも、全律法は一つの言葉において、すなわち、あなた
の隣人をあなた自身として愛するであろうとの言葉において、満たされてしまっているからである。しかし、もしもあなたがたが互いに噛み合い、喰らい合うとするなら、あなたがたは互いによって滅ぼされないように注意していな
さい。
 私は言うが、あなたがたは霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲望に満たされることはないであろう。  
 
                                                    
  2003年6月15日  



 「イエスの癒し」

 
*マルコによる福音書7章24〜37節

 
24:さて、イエスは立ち上がって、そこからテュロスの地域へ行った。そして一軒の家に入り、誰にも知られまいとしたが、隠れていることはできなかった。案の定、穢れた霊に憑かれた小娘をもつ一人の女が、彼のことをすぐに聞きつけ、やって来て、彼の足もとにひれ伏した。この女はギリシャ人で、シリア・フェニキアの生まれであった。そして彼女は、自分の娘から悪霊を追い出してくれるように彼に頼んだ。そこで彼は彼女に言った、「まず、『子
供たち』を満足させなさい。というのも、『子供たちのパンを奪って子犬たちにやるのは、よくない』というからだ」。すると彼女は彼に答えて言う、「主よ、テーブルの下の子犬たちでも、子供たちの食べ屑にはありつきます」。
そこで彼は彼女に言った、「そう言われてはかなわない。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出ていった」。そこで彼女は自分の家に帰ってみると、子供は床に伏してはいるものの、悪霊はすでに出ていってしまっているのに気がついた。
 31:さて彼は、再びテュロスの地域から出て、シドンを通ってガリラヤの海に至り、デカポリス地域のただ中に来た。すると人々は、彼のところに耳が聞こえず、舌もまわらない一人の者を連れてきて、この者の上に手を置いてくれるように彼に乞い願う。そこでイエスは、彼を群衆から離して一人にし、自分の指を彼の両耳に入れ、唾をつけて彼の舌に触った。そして天を仰ぎ見て嘆息し、彼に言う、「エッファタ」。これは「開け」という意味である。するとすぐさま彼の耳は開かれ、舌のもつれも解けてまともに話した。そこで彼は、このことを誰にも言わないように彼らに命令した。しかし、命令しようとすればするほど、彼らの方はなおいっそう、イエスの行ったことを宣べ伝え出した。そして、とてつもなく仰天しながら言い続けた、「彼がこれまでやったことは、すばらしいことばかりだ。耳の聞こえない者たちを聞こえるようにし、口の利けない者たちを話せるようにさえするのだ」。    佐藤 研 訳
    並行箇所:マタイによる福音書15:21〜28、29〜31
     
 
§「癒し」

 松永さんと原さんが、カリフォルニア州オークランドで行われた、エドウィン・ホーキンズ、ウォルター・ホーキンズ兄弟らの主催するゴスペル・ワークショップに参加し、松永さんは先日1日に帰国されました。遠く離れたところに住む人々とも共に讃美をすることができ、心が通い合えるのは、大きな喜びです。
 アフリカン・アメリカンのコミュニティーは、白人中心のコミュニティーとは大分雰囲気が違います。どちらかというと日本人のコミュニティーと似たところがあります。それは、シャイで、最初とっつきにくかったりするのですが、一度心が開くと、しっかりコミュニティーの中に入れてくれます。ただ日本と違う習慣はハグ(抱擁)で、心が通った人たちと、よく抱擁します。南部以外の白人社会では、特に親密でない限り、ハグは非常に軽い、形だけのものですが、アフリカン・アメリカンのコミュニティーのハグは力一杯のものです。まさに他者との一体感なのだと思います。
 そういった教会の中で、今も病気の癒しを行っている教会が数多くあります。激しい礼拝で気持ちが最高潮に達した後、牧師が手にオリーブ・オイルをつけ、その手を癒しを希望する人の額において祈り、気合いを入れて気絶させ
るという型式が多く見られます。これは、おそらくかなり古くから行われていることなのだと思います。
 実際、「病は気から」といわれるように、精神的な問題と病気が結びついていることがよくありますし、心の病気ならなおさらですが、これで元気を快復して元気になる人たちもかなりいます。
 ここまでで挙げた癒しは、社会的・宗教的習慣や風習から得られる癒しです。
 また、実際に病気は治らなくても、祈りや他の人々との交流を通して魂の安らぎを得る人々もいますが、これは私たちも信仰生活で経験することですね。
 聖書を学び、福音に触れる喜び。また、神が共にいます、という実感ほど私たちを元気にしてくれるものはありません。今回と次回とは、イエスご自身の癒しの記事から、イエスの癒しの意義を探ります。

§イエスの癒し

 さて、癒しに油が使われることや、病気の人々のために共に祈ることについては、ヤコブの手紙に以下のような記述があります。

*ヤコブの手紙5章14〜15節
 あなたがたの中で病気の人がいれば、教会の長老たちを呼びなさい。長老たちは主の名において彼に油を塗り、彼のために祈りなさい。信仰のうちになされる祈りは弱り果てた人を救い、主が彼を起こして下さるであろう。彼が以前に罪を犯していたとしても、その罪は赦されるであろう。それゆえ、互いに自分の罪を告白し合いなさい。そして癒されるため、互いのために祈り合いなさい。
 

 この箇所が、先ほど触れた多くの教会で行われる癒し行為や、カトリックなどで広く行われている告白の根拠となるところです。パウロはこうした癒しの能力を、(神から与えられた)癒しの賜物(カリスマ、cf.コリント12
:28など)と呼びました。
 「彼が以前に罪を犯していたとしても、その罪は赦されるであろう。」とあるのは、当時の考え方として、病や身体の障害などは、モーセの律法を犯した罪に対する罰だと考えられていたことを反映しています。以下のヨハネによ
る福音書での弟子たちの言動もこれを反映しています。

*ヨハネによる福音書9章1〜2節
 そして通りがかりに、生まれながら盲目の人を見た。彼にその弟子たちがたずねた、「ラビ、盲目で生まれたからには、誰が罪を犯したのですか。この人ですか。それともその両親ですか」。
 

 これに対してヨハネによる福音書で描かれるイエスはこう答えています。

*ヨハネによる福音書9章3節
 イエスが答えた、「この人が罪を犯したのでも、その両親でもなく、この人において神の業が顕れるためである」。
 

 ヨハネによる福音書のイエスは、この障害は罪に対する罰だということをしっかり否定しています。では、マルコによる福音書ではどうでしょうか。

*マルコによる福音書2章5〜7節
 するとイエスは彼らの信仰を見て、中風の者に言う、「子よ、あなたの罪は赦される」。ところがそこに律法学者たちのうち幾人かが座っていて、自らの心の中で思いめぐらしていた、「なぜ、こいつはこのようなことを語るのか
。こいつは神を冒涜している。神お一人のほかにいったい誰が罪を赦すことができようか」。
 

 イエスは病気や障害の原因と考えられていた罪が赦されることを宣言します。これには大変大きな意味があります。歴史的に実際に存在したイエス(以下、史的イエス)は、最古の福音書であるマルコによる福音書に多く反映され
ているように、一人の人間でした。そのイエスが行ったことは、
「本来神だけに保留されているはずの『罪の赦し』を一人の人間が行ってしまうというタブー違反にほかならなかった」(大貫隆)
 ことになります。これが先ほどの律法学者の「なぜ、こいつはこのようなことを語るのか。こいつは神を冒涜している。神お一人のほかにいったい誰が
罪を赦すことができようか」という反応の理由です。
 さて、マルコによる福音書の中で、癒しと説教が密接に結びついていることを再確認したいと思います。

*マルコによる福音書1章21〜28節

 21:そして彼らはカファルナウムに入る。また、彼はすぐに安息日に会堂に入り、教え始めた。すると人々は、彼の教えに仰天し通しだった。なぜならば、彼は律法学者たちのようにではなく、権能ある者のように彼らを教え続けたからである。 
 23:そして、すぐに彼らの会堂に穢れた霊に憑かれた一人の人がいて、叫びだして言った、「ナザレ人イエスよ、お前は俺たちと何の関係があるのだ。お前は俺たちを滅ぼしに来たのか。俺はお前が何者か知っているぞ、神の聖者
だ」。そこでイエスは彼を叱りつけて言った、「口をつぐめ、この者から出ていけ」。すると穢れた霊はその人に引きつけを起こさせ、大声を挙げながら彼から出ていった。
 27:すると皆の者は肝をつぶし、論じ合って言った、「これはいったい何事だ。権能を持った新しい教えだ。彼が穢れた霊どもに言い付けると、霊どもですら彼に従うのだ」。そこで彼の噂はすぐにガリラヤ周辺の地一帯の、いたるところに広まった。

 特に27節とその前を比較してみましょう。「これはいったい何事だ。権能を持った新しい教えだ。」この「権能を持った新しい教え」が文脈のなかで何を指すかと言えば、穢れた霊に憑かれた人の癒しです。ということは、彼の癒し自体が新しい教えだと言っていることになります。ルカによる福音書に興味深い記述があります。


*ルカによる福音書11章20節
 しかし、もし私が神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の王国はお前たちの上にまさに到来したのだ。

 神の王国の到来の証明として、「私が神の指によって悪霊共を追い出」すことが挙げられています。神の支配のもと(神が共におられて)で、男も女も子供も、老いも若きも、ユダヤ人も異邦人も、健康な人も、病気や障害を持っているひとも、貧しい人も、みな神の前に等しくあり、食事を共にし、すべての食べ物は清く、安息日でも助けるべき人がいるときは迷わず助ける、というイエスの「神の王国像」に、悪霊を追い出すこと、病気や障害がある人びと
を癒すことが組み込まれています。罪や悪という、人間たちの間に厳然としてあるもの、それがなくなってしまう(終末:今までとは全くかわってしまう)神の王国が来るのだ、もう始まっているのだというメッセージです。
 そして私たちは、子供のように喜びに満ちてこの神の国に入るよう、招かれています。
 

*マルコによる福音書10章13〜16節

 さて、人々は、彼のところに子供たちを連れて来ようとした。彼に触ってもらうためである。しかし弟子たちは、彼らを叱りつけた。だが、イエスはこれを見て激しく怒り、彼らに言った、「子供たちを私のところに来るままにさ
せておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはない」。

 そして彼は、子供たちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。

 さて、次回はマルコによる福音書7章24節以下を学びます。ここでは、癒しが行われる場所が、ガリラヤからでて、フェニキアのテュロス(ツロ)です。そして、癒しを受ける少女も、ユダヤ人ではなく、ギリシャ人(おそらく
ギリシャ語を話すシリア・フェニキア人)です。また、27節の
「まず『子供たち』を満腹させなさい。というのも、『子供たちのパンを子犬に与えてやるのは、よくない』というからだ」
 というような、非常に意味が取りにくく、解釈の意見が大きく分かれる表現がたくさん出てきますし、イエスがなぜ、癒しを行うのに消極的なのか、ということについても考えていきましょう。

                                                       2003年7月6日