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「人はどれほど理解から遠いか」

「洗礼者ヨハネの最期」

「五つのパンと二匹の魚」

「イエスは墓にはおられない」



 「人はどれほど理解から遠いか」


*マルコによる福音書6章1〜6節

 そして彼はそこから出て行って、彼の故郷の町にやって来る。また、彼の弟子たちが彼に従う。そして安息日になったので、会堂で教え始めた。すると、多くの者がこれを聞き、仰天して言った、「このようないろいろなことがどこからこいつにやって来たのか。それに、こいつに与えられた知恵はいったい何だ。また、その手でなされた、これほどのさまざまな力ある業いったい何だ。こいつは大工職人ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、この地で俺たちのもとにいるではないか」。こうして彼らは、彼に躓いた(注:信じない)ままであった。
そこでイエスは彼らに言った、「預言者は、自分の故郷、自分の親族、そして自分の家以外のところでは、尊ばれないことはない」。そしてそこでは何の力ある業もすることができなかった。ただし、少数の病んだ者たちに手を置い
て癒すことはした。また彼は、彼らの不信仰のために驚き通しだった。そこでまわりの村々をめぐり歩いて教え続けた。

並行箇所:マタイによる福音書13:54〜58
     ルカによる福音書4:16〜30

*マルコによる福音書6章7〜13節

 さて、彼は十二人を呼び寄せる。そして彼らを二人ずつ遣わし始めた。また、彼らに穢れた霊どもに対する権能を与えた。そして彼らに指図して、道中は一本の杖のほかには何も携えないように、パンも革袋も持たず、帯の中には
銅銭も入れず、ただ皮ぞうりをはき、そして、「下着も二枚は身にまとうな」と命じた。そして彼は彼らに言った、「どこでも一軒の家に入ったなら、そこから出てくるまで、そこに留まっているのだ。そしてあるところがあなたたちを受け入れず、あなたに聞き従わないならば、そこから出て行く時に、あなたたちの足の裏のほこりを払い落とし、彼らへの証しとせよ」。そこで彼らは出て行って、人々が回心するようにと宣教した。また彼らは、多くの悪霊を追い出し続け、多くの病人たちに油を塗って癒し続けた。     佐藤 研 訳

並行箇所:マタイによる福音書10:1、5〜15
     ルカによる福音書9:1〜6、10:1〜12

 

§「人はどれほど理解から遠いか」


 私たちのまわりには、様々な常識や言われていることがあって、何気なく信じてしまっていることがたくさんあります。例えば、「イギリスのレストランの食事はおいしくない」とか、「イギリスの食べ物はおいしくない」というのがあります。ヨーロッパの人々は、隣の国や文化の人々と悪口を言いあったり、自慢したりしては楽しんでいるようなところがあるのはおもしろいですね。イギリスのレストランがフランスのレストランのように新しい食べ物をどんどん生み出していかない理由をフランス人に言わせると、「フランス人は食べるために生き、イギリス人は生きるために食べているからだよ」なんていう人がいるそうですが、どうなんでしょうね。
 ただ、イギリス人のように、冗談や皮肉が大好きな人たちが言うことを字義通りに受け取るのはちょっと危険かもしれません。イギリス人自身が、「イギリスのレストランの食事はおいしくない」などと言ったら、その後に続く「
落ち」「そのこころは?」という部分が気になりますね。もし掘り下げて訊ねたら、「家庭料理がとてもおいしいので、外で食事をしようとは思わないんだ」「ロースト・ビーフがとてもおいしいので、他のものを食べようとは思わないんだ」などという応えがきっと帰ってくることでしょう。
 しかし、揚げたてのフィッシュ&チップスという鱈のフライと、フライド・ポテトは本当においしいですし、私たちの食べるカレー・ライスはイギリスのパブの名物です。日本にS&Bカレーというカレー粉がありますが、それは19世紀からあるイギリスのC&Bカレーと社名も缶のデザインもそっくりです。また、スコーンやビスケット、そしてパイやタルトなども多種多様です。ステーキなどの肉は、食べる人が自分で味を調節できるように、塩コショウをしないで出されることが多いので、そのまま食べて、「やっぱりイギリスの食べ物はおいしくなかった」と確認して帰ってくるひとたちもいます。
 このことひとつ取り上げても、常識や一般に信じられていることは、あまりあてにはならないことがあることがよくわかります。
 その点、ソクラテスは違いますね。「ソクラテスほど知恵のあるものはいない」という託宣を受けると、自分がどんなに何もわかっていないか、ということをしっかり自覚している人は自分以外にはいない(無知の知)、だからその分だけ知恵があるのだろう、というように捉えます。謙虚ですね。聖書を読むときも、人生の歩みをすすめるときも、この謙虚さがとても大切です。英語の勉強でもそうですね。わかったような気になっている時には、辞書を引こうとしません。これでは、正しく理解することはできません。
 ’79年に、「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」(エズラ・ヴォーゲル著)という本が出されて話題になりました。「日本が一番に」これは、何でもアメリカが一番でなくては気が済まないアメリカ人の思考の傾向を逆手に取っ
た主張で、アメリカの読者を多数惹きつけ、「傲り」がいかに恐ろしいかを説きました。しかし、この本を読んだ日本人の中には、この本来のメッセージを忘れて(読み飛ばし)、アメリカの日本への敗北宣言の書だと思ってしまいました。ある企業の社長が、「もうアメリカから学ぶことは何もない」と豪語するのが報道されたのも、このすぐ後の’80年代です。ここでも、中身はほとんど問題にされず、題名を勝手に解釈した人が、その勝手な解釈に合う部分を拾い読みしてしまう、ということが起きます。
 さて、2003年の現在、アメリカのジョージ・ブッシュ大統領はイラクを攻撃する理由づけをしようと必死です。ブッシュは「(大統領としてどう行動するか)私はルールや教科書に従うのは好きじゃない。本能(ひらめき)を大事にするんだ。本能(ひらめき)の赴くままを行動に移すのがすきなんだ」と語っていますが、それが全世界を善と悪に分け、その善が自分だという人らしい、大変な傲りが良くあらわれている一言です。しかし、その彼の言葉を信じてしまう人々、喝采をもって支持する人々が以前アメリカ国民の70パーセントを超えているというのも驚きです。

 「例えば9.11の世界貿易センターテロ事件の現場に立つイエスを想像して見るがいい。「さあ、みんな、対テロ戦争だ」とブッシュ大統領と同じことを言うだろうか。イエスは「いや、報復はいけない」とあえていい、興奮する群衆から石を投げられて、退場するのではないか。(中略)(ブッシュが敬虔なキリスト教徒なら)現代のキリスト教徒が、キリストよりずっと後退していることは歴然だ」(なだいなだ)

 というのは、的を射た観察です。ただ、私なら、「石を投げられて退場する」のではなく、「その場ではそこに集まった人々の心をつかみ、後から暗殺される」のではないかと想像します。
 そして、この大統領を強力に後押ししている人々に、アメリカの保守的なキリスト教徒たちがいます。サザン・バプティストを中心にした、ファンダメンタリストたちですが、彼らはこの戦争を強く支持しています。聖書を字義通りに感覚的に読んでいって、その思った通りのことが起こる、と信じています。彼らの指導者たち、ジェリー・パウエルやケイ・アーサーといった人々は、自分たちの考えを「これは私が言ったのではなく、神様がおっしゃたのです」といつも神様の権威付けをして話す話し方をします。そして、これを聞いた人々が自分たちこそが真のクリスチャンで、自分たちが正しいのだと思いこみます。そして、周囲の人たちも、それがクリスチャンなんだと思ってしまいます。大変な傲りです。
 例えば、彼らがヨシュア記11章19〜20節を読んだとします。

 
*ヨシュア記11:19〜20

イスラエルの子らに対して和を講じた町は、ギブオンに住むヒビ人を除いて一つもなかった。こうして彼らはすべて戦いによって獲得した。彼らの心をかたくなにしてイスラエルとの戦いへと向かわせたのは、ヤハウェからでたことであった。それは容赦なく、彼らを聖絶(新共同訳では、滅ぼしつくす)するためであった。ヤハウェがモーセに命じた通り、彼らを滅ぼし尽くすためであった。               鈴木佳秀訳

 
 これを、そのまま現在起こっていることにあてはめ、パレスチナ側が降参しない、では滅ぼし尽くせ、聖書にそう書いてある。これが神の御心だ、というような読み方をします。これに矛盾するような箇所(例えばイザヤ書2章)などは無視します。
 また、「聖絶する、滅ぼす」という言葉が、字義通り殺戮を意味するばかりでなく、象徴的に使って、敗れて捕虜になった者たちが、
「すべての古い所有、所属の絆が切断され、神なきものとなってしまい(中略)勝利した神に献げ尽くされることで「神なきもの」が購われ、新たに神の所有へと移される」(鈴木佳秀)
という意味でつかわれることがあることなども、全く考慮には入れません。
 では、先ほど挙げたイザヤ書2章も読んでみましょう。
 

*イザヤ書2章2〜5節

終わりの日々に、ヤハウェの家の山は、
諸々の山の頂にかたく立ち、
諸々の峰よりもなお高くそびえ、
国々はこぞってそこへと流れてくる。
多くの民が来て言う、
「さあ、上ろう、ヤハウェの山に、ヤコブ
  (注:イスラエルcf.創世記32:29)の神の家(注:エルサレム神殿)へ。
彼(ヤハウェ)はわれらに彼の諸々の道を教えたもう。
そしてわれらは彼の諸々の途に歩むであろう。
まことに、シオンからの教えが、
ヤハウェの言葉はエルサレムから出る」、と。
彼(ヤハウェ)は国々の間を裁き、
多くの民に判決を下す。
彼らはその剣を鋤に、
その槍を鎌に打ち変える。
国は国に向かって剣を上げず、
戦いについて二度と学ぶことはしない。
ヤコブの家よ、われらもヤハウェの光のうちを歩もうではないか」。
   関根清三訳
 

 素晴らしい平和の思想ですね。

 

§故郷で受け入れられないイエス
 

 さて、今日の聖書箇所の前半は、イエスが故郷ナザレに帰って、そこでは受け入れられない、というエピソードです。3節の「こいつは大工職人ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、この地で俺たちのもとにいるではないか」という近所の人たちのセリフは興味深いですね。12年ほど前に、神奈川の私立学校の教員対象の講演会で、外山滋比古が「先生達はなるべく生徒達に実生活を見せないほうが良いです。できれば隣町から川を越えて通いなさい。なぜなら、ほとんどが、生徒に見せられるような実生活を送っていないからです。どこからともなく来て、どこかへと帰っていくミステリアスな存在であったほうがいい」と言うのを聞いて苦笑したことを思い出します。
 外典福音書、トマス福音書の、この記事の並行箇所、ルカによる福音書4章16〜30節に沿って書かれたと思われる記事と、解説を読みましょう。

*トマス福音書31
 イエスが言った、「預言者は自分の郷里では歓迎されることはないものだ。医者は自分を知っている人々を癒さないものである」

 この句は元来、郷里や所有を放棄しつつ宣教活動をしたいわゆる「巡回霊能者」のエートス(引用者注:習慣・風習)を背景として形成された諺である。トマスはこれを「単独者」(注:自立者、血縁的同族関係からおのが身を断ち切って一人で立つもの:荒井/解脱したもの:高橋)を具現して生きるイエスの孤独、あるいは、本来的自己の救済者として受けるイエスの苦しみの意味で解釈するように、われわれに迫っている。(荒井献)
 
 他にも、ヘレニズム文化に、これに似た諺が多くあるそうで、「哲学者の生活は故郷では困難である」というのもその一つです。
 また、「マリヤの息子」という表現は、「ユダヤ人のならわしでは、子供はたとえ父親が死んでも、父親の名によって呼ばれる。父親が知られていない場合だけ母親の名を付けて呼ぶ」(川島貞雄)ということから、中傷する意図で使っていることが考えられます。
 そして、興味深いのは、イエスの兄弟の名前が挙げられていることです。「ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟」「またその姉妹たち」。ガラテヤ書などに登場するエルサレム教会の中心人物の一人、主の兄弟ヤコブを含めて男
の兄弟が4人、名前は不明な姉妹が複数、ということは全部で7人兄弟以上になります。
 並行箇所の、マタイによる福音書13章54〜58節、ルカによる福音書4章16〜30節と比べると、「預言者は、自分の故郷、自分の親族、そして自分の家以外のところでは、尊ばれないことはない」という部分に、マルコによる福音書にだけ「自分の親族」が入っています。その理由として、「それは(この)福音書記者が、しばしば信仰のゆえに親戚や家族と対立せざるをえなかった彼の教会の信徒達の状況を考えたからであろう。親戚や家族との対立
は、信徒だけの経験ではなく、すでにイエス自身が経験したのだと、マルコは言いたいのではなかろうか」(川島貞雄)というのは、説得力があります。

 「躓いたまま」の人々、「また彼は、彼らの不信仰のために驚き通しだった。」混乱の世の中にあって、イエスさまなら、どう思うだろう、と思うときに、今の社会に対してこういわれる姿が目に浮かびます。

 

§弟子達の派遣

 今日のテキストの後半は、弟子を二人ずつ遣わして、「穢れた霊どもに対する権能を与え」「人々が回心するようにと宣教」させる場面です。二人ずつ旅するのは、安全を考えたユダヤ人の旅の習慣ですが、ひとりの宣教の業をもう一人が証人として見るという必要性ももっていたのでしょう。「病人たちに油を塗って癒」すのは、ユダヤ教でも、ヘレニズム文化でも広く行われていたことだそうで、ヤコブの手紙(5:14)にも出てきますが、福音書ではここにしか記述はありません。これは今でも行っている人々がいます。
 「あなたたちに聞き従わないならば、そこから出て行く時に、あなたがたの足の裏の埃を払い落とし、彼らへの証しとせよ。」の、足や服の埃を払うことは、パウロも使徒行伝18章6節でしています。これは、ユダヤ人が旅を終えて、ユダヤ人の地へ入るときに、足や服の埃をおとす風習から、
「その土地を異邦人の地とみなし」、また「宣教者は責任を果たしたので、その土地の者たちの滅亡の責任はそこに住む者たちにあるということを宣言する行為(川島貞雄)」
 というのは厳しくも興味深いですね。

*ガラテヤ人への手紙6章9〜10節
 私たちは、良いことを行ないながら、失望しないようにしようではないか。弱り果てないでおれば、良いことがもつそれ固有の時に、私たちはその実を刈り取るであろうからである。それゆえに、機会あるごとに、すべての者に対して、とくに信仰の同胞に対して、善きことをなそうではないか。

 
                      2003年1月19日

 「洗礼者ヨハネの最期」

*マルコによる福音書6章14〜29節

 するとヘロデ王が彼のことを耳にした。彼の名前があらわになったからである。そこで、ある人々は言っていた、「洗礼する者ヨハネが死人の中から起こされて現れたのだ、だからこそこれらの力が彼の中で働いているのだ」。ほかの者たちは「彼はエリヤだ」と言い、またほかの者たちは「かつての大預言者の一人のような預言者だ」と言っていた。ヘロデはこれを聞いて何度も言った、「わしが首を斬り落としたあのヨハネ、あいつが起こされたのだ」。
 というのも、ヘロデ自身が彼の兄弟フィリッポスの妻ヘロディアのゆえに、人を遣わし、ヨハネを逮捕し、彼を獄に縛りつないだのであった。それは、ヘロデが彼女を娶ったからである。なぜなら、ヨハネはヘロデにくり返し言ったためである、「お前が自分の兄弟の妻を娶るのは、許されることではない」。そこでヘロディアは彼を恨み、彼を殺したいと思ったが、できなかった。なぜならば、ヘロデの方が、ヨハネを義しい聖なる人であると見なして彼を恐
れ、彼を保護したからである。ヘロデは、彼の言うことを聞いてどのようにしたらいいかまったくわからなくなりながらも、喜んでその言うことを聞いていた。
 すると都合の良い日がやって来た。ヘロデが自分の誕生日に宴会を催し、自分の高官たちや、千人隊長たちや、ガリラヤの名士たちを招いたのである。そこで彼の妻ヘロディアの娘が入ってきて、舞を舞ったが、それがヘロデとその同席の者たちの気に入った。王は少女に言った、「欲しい物は何でもわしに願い出よ。そうすればお前にやろう」。そして彼女に固く誓った、「お前がわしに願い出ることは、たとえそれがわしの王国の半分であっても、お前にやるぞ」。そこで彼女は出ていって、その母に言った、「わたしは何を願い出たらいいの」。すると母は言った、「洗礼者ヨハネの首よ」。そこで彼女はすぐに急いで中に入って王のもとに行き、願い出て言った、「いますぐに、洗礼者ヨハネの首をお盆にのせて、わたしにちょうだい」。そこで王は悲しみにとらわれたが、同席している者たちの前で誓った手前、彼女の願いを退けようという気にはなれなかった。そこで王はすぐに刑吏を遣わして、ヨハネの首を斬った。そして、その首を盆にのせて運んで来て少女に与え、少女はそれをその母に与えた。
 すると、ヨハネの弟子たちはこれを聞いてやって来て、彼の死体を引き取り、墓の中に横たえた。          佐藤 研 訳

並行箇所:マタイによる福音書14:1〜12
     ルカによる福音書9:7〜9

 
§「マニフェスト・デスティニー:明白な天命」

 
 アメリカのイラク攻撃が迫っている、という恐れが迫る中、一昨日の国連の安全保障理事会ではアメリカの攻撃が認められなかった、ということで、少しほっといたしました。
「幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう」(マタイによる福音書5章9節)という言葉を、毎日噛みしめています。
 一昨年の9月11日以来、アメリカという大国の拡張主義のあり方や、テロが生まれる背景について考え続けています。そして、アメリカの政治の動向を見ていて、ここまで虚しい気持ちにさせられることが増えたのはいったいい
つか、と思い起こすと、ジョージ・W・ブッシュとアル・ゴア,ジュニアの選挙のフロリダ州での泥沼のような開票作業とその結果でした。
 大統領としての資質に欠け、非常に危険なこの大統領のおかしな言動については、彼の父、ジョージ・ブッシュが大統領だったときの副大統領、クウェイルを遙かに越える関心が寄せられ、ブッシズムズ(Bushisms:ブッシュ哲学、ブッシュ語録)という言葉までできてしまいました。

 You teach a child to read, and he or her will be able to pass a literacy test.
(あなたは子供に読み方を教えなさい、そうすればその子は読み書き能力テストに合格 できるようになるでしょう。)や、

Rarely is the question asked: Is our children learning?
(この問いはほとんど発せられることは珍しい:子供達は本当に学び取っているのか)
 のように基本的な文法の誤りや、misunderstand(誤解する)とunderestimate(過小評価する)をまぜこぜにして、misunderestimate(誤って過小評価する??)と言ってしまったりする。

 また、
I think we ought to raise the age at which juveniles can have a gun.(私たちは子供達が銃を持つことができる時代を育てるべきだと思います)
 というような、何とも物騒な発言、

 そして就任後の行動を垣間見させるような発言、
We'll let our friends be the peacemakers and the great country called America will be the pacemakers.
(ピース・メイカーになるのは友人達に任せて、アメリカという素晴らしい国はペース・メイカーになろうではないか)
 

 また、痛烈な皮肉と取れなくもない、
I want each and every American to know for certain that I'm responsible for the decisions I make, and each of you are as well.
(私はすべてのアメリカ人にしっかりわかっていてもらいたい。私が下す決定に、私は責任がある。ということは、あなたたちひとりひとりもそう〔=私が下す決定に、責任がある〕なのです。)

 などが紹介されています(Jacob Weisberg編Bushisms /More Bushisms)。そして、このような人物とその仲間達が世界を動かそうとしていることに脅威を覚えます。
 しかし、このアメリカが他の人々を征圧して、自国の影響下に置こうとする姿勢は、今にはじまったことではありません。第二次世界大戦時、勝敗はもう決まってしまっていたと言っていい1945年、当時のハリー・トゥルーマン大統領は、原爆投下前に「私たちは神が(原子力)爆弾を、主のやりかたで、主の御心のために私たちが使うように導いてくださるように祈ります」と語っています。
 私たち、クリスチャンにとっては、「主の御心」を行うことはとても大切なことです。しかし、いったい彼らが言う「主の御心」は私たちが思う「主の御心」と同じものなのでしょうか?
 アメリカ・インディアンに対する侵略以来、脈々と続く拡張主義の歴史(cf. Joel Andreas 'Addicted to War'戦争中毒)が、アメリカにはあります。どうも彼らが言う「主の御心」は、アメリカが独立する際に、彼らが北アメリカ全体を支配するようになることが神様から運命づけられているという考えを指すようになります。
 
 「We must march from ocean to ocean.... It is the destiny of the white race.
 私たちは海(大西洋)から海(太平洋)まで進んで行かねばならない。それが白色人種の運命なのだ」(メリーランド州代表ガイルズ)
 
 それがあまりにも明白なので、「マニフェスト・デスティニー:Manifest
Destiny:明白な天命(今は領土拡張主義と解釈されます)」と呼んだこと、この考え方が特に保守的なアメリカのクリスチャンたちによって「キリストの福音」、「主の御心」として捉えられてしまったことが問題だと言えます。
 ある宣教師が、日本の地図と電話帳を見て、教会がまだない地域を探し、そこに移り住んで教会を建てることに情熱を燃やす、という姿を数年前に目の当たりにして、複雑な想いに駆られました。一瞬、とても良いことのように思えるのですが、教会生活は資金集めに奔走し、住宅の一室でもたれる礼拝に通う人たちの気持ちを煽り、その目的が建物としての教会を建てることに主眼が置かれているのを見て、植民地で旗を立てるのとどうちがうのか、と感じました。
 アメリカで、反戦を表明し続けているノーム・チョムスキーは、「米国は世界における、最も過激な宗教的原理主義文化の一つなのだ」と言っています。そして、「大きな力の行使、あるいは力を行使するぞという威嚇は、ふつう威圧外交と呼ばれ、テロの一形態とは呼ばれない。しかし、(中略)そうした戦術を用いているのが大国でなければ、おそらくテロリスト的と呼ばれるであろう目標のための暴力の威嚇、しばしば行使」(マイケル・ストール)であるということは、アメリカの影響に流されないために、押さえておくべきポイントだと感じます。
 これに対して、19世紀の終わりに侵略者達と戦うあるアメリカ・インディアンは、自分たちが死を恐れない理由を、「私は死ぬが、私は死なない」(私の肉体は死んでも、私の精神/意志は子孫や同胞の中に生き続ける)と語ったと聞きました。そしてこうした考え方に当時の騎兵隊は、非常に恐怖を感じ、虐殺に奔ったことが記録に残っています。(Dee Brown 'Bury My Heart at Wounded Knee'「わが魂を聖地に埋めよ」)
 しかし、聖書を読んでいくと、「主の御心」に近いのは、小さく、弱く、へりくだっているものたち、虐げられているものたちです。(マタイによる福音書5章参照)

 

§洗礼者ヨハネ

 自分たちだけを選民と考え、他の人々を見下す人々に対して、洗礼者ヨハネは、こう言っています。

 
*マタイによる福音書3章9〜12節
 そして、『俺たちの父祖はアブラハムだ』などと心の中でうそぶこうとするな。なぜなら、私はお前たちに言う、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ。すでに斧が木々の根元に置かれている。
だから、良い実を結ばぬ木はことごとく切り倒され、火の中に投げ込まれるのだ。
 私はお前たちに、回心に向け、水による洗礼を施している。しかし、私の後に来るべき者は私よりも強い。私はその者の皮ぞうりを脱がす値打ちすらない。彼こそ、お前たちに聖霊と火とによって洗礼を施すであろう。
 彼はその箕を手に持ち、その脱穀場を隅から隅まで掃除し、その麦を倉に集めるであろう。しかしもみ殻は、消えない火で焼き尽くすであろう」。

 ヨハネの問いかけは、本質を突くものです。イエスの弟子達が、ヨハネをイエスの先駆者と位置づけた理由が良く伝わってきます。(違いについては、プリント「旅人イエス」18参照)

 「バプテスマのヨハネの生涯と宣教についての主要な資料は正典福音書である。しかし、そこに保存されている誕生物語は、キリスト教徒がバプテスマのヨハネ教団から引き継いだ伝説である。(中略)ヨハネの使信は、神の最後
の裁きの到来を告知し、悔い改めと回心の比類なき機会を提供した。(彼の後に来るべき「より力あるもの」は本来神であった。後にキリスト教徒がこの言葉をイエスに言及するものと解釈した)ヘルムート・ケスター

 
§「洗礼者ヨハネの最期」

 
*マルコによる福音書6章14〜16節

 するとヘロデ王が彼のことを耳にした。彼の名前があらわになったからである。そこで、ある人々は言っていた、「洗礼する者ヨハネが死人の中から起こされて現れたのだ、だからこそこれらの力が彼の中で働いているのだ」。ほかの者たちは「彼はエリヤだ」と言い、またほかの者たちは「かつての大預言者の一人のような預言者だ」と言っていた。ヘロデはこれを聞いて何度も言った、「わしが首を斬り落としたあのヨハネ、あいつが起こされたのだ」。

 この部分は、洗礼者ヨハネが、イエスの先駆者であったことを思い起こさせます。そして、その後のヨハネの受難と処刑も、イエスが受難し、処刑されることを暗示しています。(川島貞雄)そして、8章31節〜と9章30節〜
に受難復活予告が続き、その間の9章11節〜に、ヨハネをエリヤにたとえて、受難を語る記事があり、11章からのエルサレム入城に先立ち、イエスの歩みの先に、受難と死が待っていることを読者に感じ取らせようとしているよ
うです。
 さて、今日の箇所でヨハネがヘロデ・アンティパスに投獄されている理由は、以下の通りです。ヘロデ・アンティパスはナバテア王国のアレタス王の娘と結婚していたにも係わらず、アンティパスの異母兄弟アリストブロスの娘で
、やはり異母兄弟のヘロデ・ボエートス(マルコ・マタイにはフィリポスと書いてあるが)の妻であったヘロディアを好きになってしまい、彼女を兄弟から奪います。
 ヨハネは、これが近親相姦を禁じる律法(レビ18:16,20:21)に違反することを再三アンティパスに言ったために投獄されることになります。権力の前にも、言質を曲げない姿勢が見られます。さて、ヨセフスは、ユダヤ古代誌で、アグリッパは、ヨハネが持つ民衆への影響力とその危険を考えて投獄したと書いています。ヨセフスのユダヤ古代誌の記述を読んでみますが、その前に、次のような背景があります。
 アンティパスはヘロディアと結婚するために、結婚していたナバテア王国のアレタス王の娘を離縁しようとしたのを感づかれて、妻はアレタス王のもとに逃れます。怒ったアレタスは軍を率いて、アンティパスに戦いを挑みます。

*ヨセフス「ユダヤ古代誌」18-116〜119

 しかしユダヤ人のある人びとには、ヘロデ(アンティパス)の軍隊の敗戦は神の復讐であるように思われたが、確かにそれは「洗礼者」と呼ばれたヨハネになされた仕業に対する正義の復讐であった。というのはヨハネは立派な人
であり、ユダヤ人に正しい生活を送り、同胞に対する公正を、神に対する敬虔を実行し、洗礼に加わるよう教え勧めたのに、ヘロデは彼を死刑に処したからであった。
(中略)ヘロデはヨハネの民衆に対する大きな影響が騒乱を引き起こしはしないかと恐れた。彼らはヨハネが勧めることなら何でもしようという気持ちになっていたからである。そこでヘロデは実際に反乱が起こって窮地に陥り、そのとき後悔するよりも、彼によって引き起こされるかもしれない反乱に先手をうって、彼を殺す方が上策であると考えた。そこでヘロデの疑念のためにヨハネは前述した砦のマカイルスに送られ、そこで処刑された。(秀村欣一訳)

 この処刑に関する、ヘロディアの娘サロメの挿話は、オスカー・ワイルドがこの話を脚色して1893年に発表した作品「サロメ」は広く読まれていますが、歴史的に事実かどうかはわかりません。
 そしてマカイロスの砦は、今のヨルダン、アンティパスが治めていたペレア地方、死海の北東の切り立った山の上、ナバテア王国との境界近くにありました。ナバテア王国の中心都市、ペトラへは、5〜60キロのところにありま
す。遺跡には、城壁、櫓や地下牢が残っているそうです。
 洗礼者ヨハネは、その死後も彼の心を受け継ぐ人たちに影響を遺しました。そしてイエスも、この世の権力と結びついたり、利用されたりすることを避け、ただ、私たちに真っ直ぐ神に目を向けさせようといまも導いてくださいま
す。

 

*マルコによる福音書12章28〜

 すると律法学者たちの一人が近寄って来て、彼らが議論しているのを聞き、イエスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「すべての掟の中で、第一のものはどれでしょう」。イエスは答えた、「第一のものはこれ
だ、聞け、イスラエルよ。我らの神なる主は、一なる主である。そこでお前は、お前の神なる主を、お前の心を尽くし、お前のいのちを尽くし、お前の想いを尽くし、お前の力を尽くして愛するであろう。第二のものはこれだ、お前
は、お前の隣人をお前自身として愛するであろう。これより大いなる他の掟は存在しない。
           
              
            2003年2月16日

 「五つのパンと二匹の魚」

 
*マルコによる福音書6章30〜44節

 さて、遣わされた者たちはイエスのもとに集まる。そして、自分たちがなし、また教えたすべてのことを彼に報告した。そこで彼は彼らに言う、「あなたたちだけで荒涼としたところに行き、少し休みなさい」。というのも、人の
出入りが多く、彼らは食事する間もなかったからである。
 そこで彼らは舟に乗って、荒涼としたところに彼らだけで行った。すると人々は、彼らが去って行くのを目にしたが、彼らがどこへ行くのか多くの人たちにはわかったので、すべての町々から徒歩でそこへいっせいに駆けつけ、彼
らより先に早くそこへ着いた。
 さて、イエスは舟から出て来ると、多くの群衆を目にした。そこで、彼らに対して腸がちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人のない羊のようだったからである。そこで彼は彼らに対してさまざまに教え始めた。
 さて、すでに時も遅くなった頃、彼の弟子たちが彼のもとにやって来て言った、「ここは荒涼としたところで、もはや時も遅くなっています。彼らを解散させてください、そうすれば彼らはまわりの里や村々に行き、何か自分たちの食べるものを買ってくるでしょう」。するとイエスは、彼らに答えて言った、「あなたたちの方で、彼らに食べ物を与えるのだ」。そこで彼らは彼に言う、「私たちの方がわざわざ行って、二百デナリオンも出してパンを買い、彼らに食べさせるというのですか」。すると彼らは彼に言う、「あなたたちの手持ちのパンはどれほどあるか、行って見てくるがよい」。そこで彼らはたしかめて来て言う、「五個です。それに魚が二匹あります」。そこで彼は、彼らに皆を組々に分かれて青草の上で横たわらせるように言い付けた。そこで人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつ集まって席に着いた。そして彼は、五個のパンと二匹の魚を取り、天に向かって目を上げ、神を祝してパンを裂き、彼の弟子たちに渡して人々に分け与えさせた。また二匹の魚も皆に分配した。そこで皆が食べ、満腹した。そしてパン屑を十二の枝編み籠に満ちるほど集めた。それに魚の残りもあった。こうして、パンを食べた者は、男五千人であった。
             佐藤 研 訳
並行箇所:*「五つのパンと二匹の魚で五千人に食べさせる」
       マタイによる福音書 14:13〜21
       ルカによる福音書   9:10〜17
       ヨハネによる福音書  6:1〜15 
      *「七つのパンで四千人に食べさせる」
       マルコによる福音書 8:1〜10
       マタイによる福音書 15:32〜39

§「渇いている者は来なさい」

 世界のニュースを見ていると、まるで世界が宗教や民族ごとに敵対し合っているように見えてしまいます。しかし、中東戦争でエルサレムが東西に分断されてしまい、金網が張り巡らされてしまったときさえ、分断されたパレスチナ人とユダヤ人の住民達は、隣人がパンが足りなくて困っていれば、金網越しにパンを投げ合って仲良く暮らしていたと聞きました。
 宗教や民族の背景が全く違っても、平和に共存することはずっとできたはずですが、国や、宗教や、民族の政治的指導者達のエゴは、この平和を掻き乱して、自分たちの有利なように政治や経済の侵略ゲームを進めたくてしょうがないように見えます。
 アメリカでは、イラクに対する攻撃を認めてくれないフランスに対する反感が高まり、ついに連邦議会の食堂のフレンチ・フライ(イギリスでは同じものをチップスと呼ぶ)をフリーダム・フライと改名して売り始めたそうです。フリーダム(自由)を「自分たちの思い通りに好き勝手に行い、違う考えはすべて排除する」と捉えるなら、アメリカ人の言うフリーダムも、随分地に落ちたものだ、と嘆かずにはいられません。
 ブッシュ大統領が、ホワイトハウスで聖書研究会を開き、演説の度に神を持ち出すことを、昨日の朝日新聞の天声人語は「(キリスト教右派の信仰に)少々深入りしすぎではないかと危惧」すると書いていましたが、できることな
ら私もホワイトハウスの聖書研究会に参加したいと思いました。
 ブッシュ氏と一緒に読みたい箇所は先ず、マタイによる福音書の5章からの山の上の説教ですね。そして、ルカによる福音書10章30〜37節の良きサマリヤ人のたとえ話、そして、マタイによる福音書7章12節: だから、あなたたちが人々からして欲しいと思うことのすべてを、あなたたちも人々にせよ。まさに、これが律法と預言者たちにほかならない。

 マルコの黙示録と呼ばれる、マルコによる福音書13章の神殿崩壊予言と終末前の苦しみの箇所は、ブッシュ氏と私とでは、正反対のメッセージを受け取 ることでしょう。

*マルコによる福音書13章3〜9節

 「誰もあなたたちをだますことのないように、警戒せよ。多くの者が私の名においてやってきて、『私こそそれだ』と言い、多くの者を惑わすだろう。また、あなたたちは戦争のことを聞き、戦争の噂を聞くとき、動転するな。これらのことは起こらなければならない(引用者注:避けられない、の意)。しかしまだ終末ではない。すなわち、民族が民族に敵対して、王国が王国に敵対して、起き上がるだろう。そこかしこに地震があるだろう。これらは産みの苦しみの始まりだ。

 ローマによる侵攻や圧政を背景に生まれたこの箇所は、弱者の視点で書かれています。自分こそが「救い主」だ、と言って、人々を引き連れてローマ軍にゲリラ戦を仕掛けていくような人々に気をつけろ、暴力対暴力がエスカレートする悪循環に陥るな、と。大国による侵攻や迫害は避けられない状況だ、しかし、「耐え抜け!」(13節)まるで、今のパレスチナ人たちに与えられているがごとき、メッセージではありませんか。
 大きな権力と結びついたキリスト教の人々の信じていることは、聖書を謙虚に読んでいく上で浮かび上がるイエスご自身のメッセージとは大分かけ離れてしまっています。良きサマリヤ人の譬えが教えるように、本当の隣人は、同じ民族や、同じ教団、社会学でいう二次的集団(自分たちの意志によってではなく、もともと、あるいは、第三者によって分けられたり集められたりした集団)に属する人を言うのではなく、そのような垣根は関係なく、愛を持ってかかわる人々なのだということは、とても大切なことです。
 
*ヨハネの黙示録22章16〜17節

 私イエスは、諸教会について、これらのことをあなたがたに証言するために、私の使いを遣わした。私はダビデの根また子孫であり、輝く明けの明星である」。
 霊と花嫁も言う、「来て下さい」。これを聞く者も、来て下さいと言いなさい。渇いている者は来なさい、そして飲みたい者は、ただで命の水を飲みなさい。

§五つのパンと二匹の魚

 ガリラヤ湖の北岸、マグダラのマリヤの故郷、マグダラ(ミグダル)から北東へ行き、カペナウム(カファルナウム)のすぐ手前にタブハというところがあり、そこに、パンと魚の教会があります。このパンの奇蹟が行われた、という伝承が残るこの地に、4世紀に建てられ、6世紀の地震で崩れてしまい、7世紀以降は存在すらも忘れ去られていた教会ですが、19世紀に黒い服を着ているカトリックのベネディクト派の修道僧に発見されて再建されました。
今は、4世紀当時のものと考えられているパンと魚の見事なモザイクが教会の床に遺されています。
 このモザイクを模写したタイルが、C教室のテーブルにありますので、興味のある方はご覧下さい。エルサレムに住む、パレスチナ・アラブ人のマヘールさんご夫妻の作品です。このタイルを見るたび、パレスチナの人々に平和が訪れることを祈らずにはいられません。
 さて、福音書に出てくる奇蹟物語は、治癒奇蹟、悪鬼払い、自然奇蹟の三つに分類することができます。五つのパンと二匹の魚の奇蹟は、自然奇蹟に属します。自然の法則に反する、現代の人々が聞いたら、そのままでは信じられないような奇蹟物語です。
 マルコによる福音書には、四つの自然奇蹟が報告されています。
 ・暴風を静める(4:35〜)
 ・五つのパンと二匹の魚(そして、七つのパンで四千人に食べさせる奇蹟)
 ・湖を歩く(6:45〜)
 ・無花果の木を呪って枯らす(11:12〜)
 そして、特徴としては、このすべてで、奇蹟を目撃しているのはイエスご自身と弟子達だけで、五つのパンと二匹の魚の奇蹟でも、パンと魚を食べた群衆は、この奇蹟に気づいていません。しかもイエスが「請われることなしに与えられている」(山下次郎)のも興味深いところです。マルコによる福音書は、自然奇蹟によって、人々を惹きつけ、そして信じさせることは良くないと考えていることが、8章のパリサイ人たちから天からの徴を求められたときの返答にあらわれています。

*マルコによる福音書8:11〜13
 この世代はなぜ徴を要求するのか。アーメン、私はお前たちに言う、この世代には徴は絶対に与えられないであろう。

 では、マルコによる福音書はなぜ、このような奇蹟物語を報告しているのか、考えていきたいと思います。

*6:34
 さて、イエスは舟から出て来ると、多くの群衆を目にした。そこで、彼らに対して腸がちぎれる想いに駆られた。
なぜならば、彼らは牧人のない羊のようだったからである。そこで彼は彼らに対してさまざまに教え始めた。

 「腸がちぎれる想いに駆られた」は、深く憐れむ(cf.1:41)ということです。また、「牧人のない羊のよう」は、リーダーやえさをくれる人に棄てられてしまって、明日の命もわからない羊のようという意味で、民数記27章17節などにも出てきます。


*民数記27章17節
「主の共同体を飼うもののいない羊の群のようにしないで下さい。」

*マルコによる福音書6:35
 さて、すでに時も遅くなった頃、彼の弟子たちが彼のもとにやって来て言った、「ここは荒涼としたところで、もはや時も遅くなっています。彼らを解散させてください、そうすれば彼らはまわりの里や村々に行き、何か自分たち
の食べるものを買ってくるでしょう」。するとイエスは、彼らに答えて言った、「あなたたちの方で、彼らに食べ物をを与えるのだ」。そこで彼らは彼に言う、「私たちの方がわざわざ行って、二百デナリオンも出してパンを買い、
彼らに食べさせるというのですか」。すると彼らは彼に言う、「あなたたちの手持ちのパンはどれほどあるか、行って見てくるがよい」。そこで彼らはたしかめて来て言う、「五個です。それに魚が二匹あります」。

 1デナリオンは、1日分の労働の賃金だったそうです。1デナリオン銀貨は、最初は4.55g。後に3.9g。さらにネロ帝以降は3.41gとだんだん小さくなっていったそうです。200デナリオンは200日分の給料と言うことになります。弟子の反応は、マルコによる福音書に一貫しているように、イエスを理解できない弟子たちの姿を映しだしています。

*6:39〜
 そこで彼は、彼らに皆を組々に分かれて青草の上で横たわらせるように言い付けた。そこで人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつ集まって席に着いた。そして彼は、五個のパンと二匹の魚を取り、天に向かって目を上げ、神を祝してパンを裂き、彼の弟子たちに渡して人々に分け与えさせた。また二匹の魚も皆に分配した。そこで皆が食べ、満腹した。そしてパン屑を十二の枝編み籠に満ちるほど集めた。それに魚の残りもあった。こうして、パンを食べた者は、男五千人であった。

 「横たわらせる」のは、当時の食事の姿勢をとること。イエスは五個しかないパンと二匹の魚を分け与え始めます。
 イエスから教えを受け、食事を共にし、しかも食べ物について心配せず、与えられるままに食べて満足を得る、というのは、神の国を思わせます。この奇蹟物語の背景には、イエスと弟子達、そして誰でも望む人たちが共にした素晴らしい食事ひとときの思い出があるのではないでしょうか。

「男五千人」は、当時、人数は成人男子だけを数える習慣から来ているそうです。スイスでも、20年ほど前まで、選挙権が男性だけだったそうですが、家ごとの代表者という位置づけだったそうです。この近くの比較的大きな町、カペナウムの人口が二千人ほどだったと推定されていることを考えると、この五千人、女性と子供達を入れると一万人以上というのは、大分誇張された人数のようです。
 さて、このように少ないパンが無尽蔵に増える奇蹟物語は旧約聖書にも記録されています。

*預言者エリヤのパンの奇蹟:列王記上17章10〜
 エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持ってきて、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持ってきてください」と言った。彼女は答えた「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中には一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりなのです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでもわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持ってきなさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜなら、イスラエルの神、主はこう言われる。
 主が地の面に雨を降らせる日まで
 壺の粉は尽きることなく
 瓶の油はなくならない。」
 やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉どおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。
             cf.預言者エリシャのパンの奇蹟:列王記下4章

 マルコによる福音書は、生前、弟子達にすら理解されなかったイエスが、実は、私たちの救い主であり、旧約聖書の預言者たち以上に素晴らしい奇蹟を行うことができる、が、奇蹟によって人を惹きつけたりはしないというイエス像を表現しているようです。
 「原始教団の人々は、イエスが復活していま我らの主として生きておられる、主イエスは自然界を支配しておられる主であり、欲すれば五つのパンで五千人を養うことの出来るお方だと信じた。」(山下次郎)ということは充分納
得できます。
 また、ヨハネによる福音書を読むと、私たちにはさらに一歩進んだ、命のパンとしてのイエス像があらわれてきます。

*ヨハネによる福音書6:26〜71
 *32〜35「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。モーセがあなたがたに天からパンを与えたのではない。私の父があなたがたに天から本物のパンを与えつつある。
 神のパンは天から降って、世に命を与えつつあるのだからである」。そこで、彼に向かって「主よ、そのパンをいつも私たちに下さい」と言った。イエスが彼らに言った、「私がその命のパンである。私のところに来る人は、決し
て飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない。

 *47〜50「アーメン、アーメン、あなたがたに言う、信じる人は永遠の命を持っている。私は命のパンである。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べた。そして死んだ。(cf.民数記14:26〜35)これは天から降ってくるパンである、人が食べると死なないように。私は天から降った、活けるパンである。人がこのパンを食べるなら、永遠に活きることとなる。

 活けるパンとしてのイエスの言葉によって満たされる私たち。圧政や難しい時代にあっての無力感や疎外感、閉塞感すら克服して喜びのうちに生きることができる素晴らしさ。私たちも、この群衆とともにいただいた活けるパンで
、人生が変わってしまっているではありませんか。

*マタイによる福音書28章20節 

 私があなたたちに指示したすべてのことを守るように、彼らに教えよ。そして見よ、この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいるのである。

          2003年3月16日



 「イエスは墓にはおられない」

*マルコによる福音書16章1〜8節

 さて、安息日が終わり、マグダラの女マリヤとヤコブのマリヤとサロメは、イエス塗油を施しに行こうとして香料を買った。そして週の初めの日、朝たいへん早く、日の昇る頃、彼女たちは墓行く。そこでお互いに言い続けた、
「誰が私たちのために、墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょう」。しかし、目を上げて見ると、なんとその石がすでに転がしてあるのが見える。というのも、その石はひどく大きかったのである。
 そして墓の中に入ると、彼女たちは白い長衣をまとった一人の若者が右側に座っているのを見、ひどく肝をつぶした。すると彼は彼女たちに言う、「そのように肝をつぶしてはならない。あなたたちは十字架につけられた者、ナザ
レ人イエスを探している。彼は起こされた、ここにはいない。見よ、ここが彼が納められた場所だ。むしろ行って、彼の弟子達とペトロとに言え、『彼はあなたたちよりも先にガリラヤに行く。そこでこそ、あなたたちは彼に出会う
だろう』と。彼がかねてあなたたちに語った通りである」。
 しかし、彼女たちは外に出るや、墓から逃げ出してしまった。震え上がり、正気を失ってしまったからである。そして、誰にもひとことも言わなかった。恐ろしかったからである。

並行箇所:  マタイによる福音書 28:1〜8
       ルカによる福音書  23:56,24:1〜9
       ヨハネによる福音書 20:1〜10 

§「この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいる」

 イラク戦争は、アメリカ軍のほとんど一方的な勝利で終わりを迎えようとしています。しかし、フセイン政権陥落後の治安維持を考えていなかったために、略奪が横行する無法地帯と化してしまいました。病院は全く機能しなくな
り、博物館は空になり、いつ誰から攻撃されるかもしれない、という恐怖にさいなまれて、こどもにまで銃口を突きつけてしまう若いアメリカ軍兵士たちによる犠牲者達が続出する...この責任を記者に問われたラムズフェルド国防長官は、「イラクの人々を解放し、自由にしたんだ。自由、ということは何をするのも自由ということだ。悪を行うのも自由だ。」と大変な剣幕でまくし立てました。これは重大な失言ですが、本音が現れてしまった一言でした。
 以前、ブッシュ大統領の失言集をいくつかご紹介しましたが、一番の失言はこれです。

「しかし、すべてをまとめて考えると、この一年はローラと私にとって素晴らしい1年でした。」(Edited by Jacob Weisberg, 'More George W.Bushisms'訳は筆者)

 何の変哲もないような当たり前の一言に聞こえますが、これが2001年9月11日の連続テロ事件のすぐ後の年の瀬、12月21日に語ったことが問題になります。支持率も落ちて様々な疑惑も浮上し、窮地に追い込まれていたさなか、9月11日のテロのお陰ですべてが解決し、念願の軍の増強など、思うようにことが進むようになったことを、喜んでいる本心が露呈してしまった瞬間でした。
 9月19日にノーム・チョムスキーは「9月11日のテロは、敵味方を問わず最も過酷な、最も弾圧的な者への天の贈り物で、とことん利用されるはずである。実際、すでにそれは始まっていて、軍事化、軍の編成が促進され、社会的民主的事業がひっくり返され、富が社会の狭い部門(セクター)に移され、多少とも意味のある形の民主主義が根本から掘り崩されている。」(山崎淳訳)と語っていましたが、今もまさにアメリカはこの通りの方向に向かっています。
 戦争が良かったか悪かったかは、歴史が語るので、今判断すべきことではない、という言い方をする人たちがいます。戦争によって、イラクの人々が結果的には解放されてよりよい生活ができるようになれば、戦争には意味がある(よかった)という考えがアメリカに広がっています。しかし、これはたとえて言うなら、暴力をふるう夫に悩まされている家族を救うために、その家に押し入って銃を乱射し、夫を殺してしまう、というのと変わりありません。(
「Sling Blade」という映画の主題はこれでした。)その結果はどうあれ、その行為自体が許されないものだ、という視点が必要です。

 さて、今日は、イースターです。今年は、残念ながらイラク戦争の血なまぐさいニュースがたくさん報じられる日々に、復活祭を迎えます。こうしたニュースに接するたびに、ひとりの人間の存在価値を思い、十字架での死をむかえられたイエスと、その復活との意味を考えずにはいられません。このプリントの最後に、私たちがエルサレムで仲良くなったパレスチナ人のこども達の写真がありますが、戦争の恐怖におびえ、あるいは殺されていく人たちは、私たちやこの子達と全く変わらないひとたちです。この混乱と不条理(絶望的な状況)とに満ちた世界にあって、私たちは、イエスの福音と、そのなかで新しく与えられた価値観がなければ、正気を保ってしっかりと足を進めることはできません。

*ガラテヤ人への手紙1:4

「そのキリストは、私たちの罪のためにご自身を与えられた。それは、私たちを現在の悪の世から解放するためである」。

 そして、来月、横田敏子さんが洗礼を受ける決心をされました。横田さんの胸に光る大きな十字架が象徴するように、横田さんの心の中に、神様が住んでおられることを受け入れて、新しい人生の第一歩を踏み出そうとしておられます。


*マタイによる福音書28章20節 

 私があなたたちに指示したすべてのことを守るように、彼らに教えよ。そして見よ、この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいるのである。

§「イエスはここ(墓)にはおられない」

 聖書を読み、福音を学ぶにも、私たちはわからないこと、理解できないことに数々ぶつかります。今日のテーマ、イエスの「復活」も、大変難しい問題の一つです。
 二世紀のラテン教父の一人、テルトゥリアスは
「不条理(理解できないこと)なるがゆえに我信ず」
「神の子は死んだ。それは不合理であるが故に全く信ずべきである。彼は葬られ、よみがえった。それは不可能であるが故に確実である」

という言葉を残しています。残念なことに、キリスト教会の多くが、これと同じような理性的に探求する心を放棄する意識を持っています。しかし、このような護教のための人間の画策を、神様は必要とされていません。私たちは現代の聖書学、文献批判の研究成果の助けを借り、疑問をぶつけながら福音の核心にせまることができる、という大きな喜びを与えられています。

 さて、今日のテキストは、イエスが十字架につけられ、亡くなって、埋葬した後に、マグダラのマリヤら、女性達がお墓を訪問する場面です。イエスの死に打ちひしがれていた人々が、思いもかけないようなできごとに遭遇します。それは、イエスの墓が開き、遺体が消えてなくなってしまっていたのです。何故なのでしょう。
 このマルコによる福音書のテキストでは、白い衣を着た若者が、「あなたたちは十字架につけられた者、ナザレ人イエスを探している。彼は起こされた、ここにはいない。」と語っています。
 「彼は起こされた、ここにはいない」の部分は、新共同訳では「あのかたは復活なさってここにはおられない」となっています。「復活した」にあたる部分は、エゲイロー(起こす)というギリシャ語が受動態で使われているので、(神によって)「起こされた」が正確な訳だと思います。これに対し、「復活」にあたるアナスタシスは、「自ら起き上がること」です。
 こうして、「神はイエスを死者たちの中から起こした」という信仰が生まれます。さて、では復活とはどういうことを指すのでしょうか。肉体的な再生なのでしょうか。それとも別のことを表しているのでしょうか。
 
*ローマ人への手紙10:8b〜10

 言葉はあなたの近くにある、あなたの口のうちに、そしてあなたの心のうちに。これは私たちが宣べ伝えている信仰の言葉のことである。なぜならば、もしもあなたがあなたの口で主イエスを告白し、あなたの心のうちで、神はイエスを死者たちの中から起こした、と信じるなら、あなたはすくわれるであろうから。心によって信じられて義へと至るのであり、口によって告白されて救いへと至るのである。

 マルコによる福音書16章でのメッセージは、亡くなって埋葬されたはずのイエスが、「起こされた、ここ(墓)にはいない」ということです。死者のいるべきところには、イエスはおられない。生きておられる。
 この生と死について、マルコによる福音書に興味深い箇所があります。


*マルコによる福音書12:26

 死人が起こされることについては、あなたたちはモーセの書の『柴藪』のくだり(出エジプト3)で、神が彼にこう言われたのを読んだことがないのか、この私がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。神は死人たちの
神などではなく、生ける者たちの神だ。あなたたちはひどく誤っている。

 「私がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(だということは)神は死人たちの神などではなく、生ける者たちの神だ。(ということは、アブラハムもイサクもヤコブも生きている)「アブラハム、イサク、ヤコブ
は死んでしまった者ではなく復活して生きている者なのだ!」(青野太潮)

と捉えているのです。イエスも同じように生きておられる。これは、肉体の再生としての復活ではないですね。むしろギリシャ思想における魂の不死(魂は
不死である)に通じる考え方です。
 さて、新約聖書の中で、最も古く書かれたのは、パウロの手紙集です。パウロは、復活の主イエスとの出会いを、どう記しているでしょうか。

*コリント人への第一の手紙15:2b〜8

 〜 その福音によってあなたがたは救われるのである。なぜならば、私はあなたがたに、まず第一に、私も受け継いだことを伝えたからである。すなわち、キリストは、聖書に従って(イザヤ書、私の罪のために死んだこと、そし
て埋葬されたこと、そして聖書に従って(ホセヤ書6:2,ヨナ2:1)、三日目に死人の中から起こされていること、そしてケファに現れ、次に十二人に現れたことである。次いで彼は、500人以上の兄弟たちに一度に現れた。
そのうちの大部分は今に至るまで生き残っているが、しかしある者たちは眠りについた。次いで彼はヤコブに現れ、次にすべての使徒たちに現れた。しかし、彼は、すべての者の最後に、ちょうど未熟児のごとき私にも現れたのであ
る。

 具体的には、どのような出会いだったのでしょうか?


*ガラテヤ人への手紙1:16

 すなわち、神の御子を私が異邦人たちのうちに救い主として告げ知らせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされた時、私は直ちに血肉に相談することはせず、またエルサレムにのぼって私よりも前に使徒となった人
たちのもとへ赴くこともせず、むしろアラビヤに出ていき、そして再びダマスコスに戻ったのである。


 「御子を私のうちに啓示することをよしとされた」と表現しています。これは、肉体を持った人間同士として出会ったのではなく、神様がパウロの心、内面に働きかけてイエスとの出会いが実現したことを表現しています。

*ローマ人への手紙 11:15

 私は異邦人達のための使徒である以上、私の務めを光栄に思っているし、いかにして私の同胞に妬みを起こさせて
、彼らのうちの何人かを私は救いたいのである。もしも彼らが投げすてられたことが世界の和解となったのだとする
なら、彼らが受け容れることは、死者たちの中からの命以外の何を意味するだろうか。もしも初穂が清ければ、その
練り粉もまた清いのであり、もしも根が清ければ、その枝々もまた清いのである。

 ちょっとわかりにくい部分ですが、「彼らが(ユダヤ人たちが信仰を)受け容れることは、死者たちの中からの命(死者の復活)以外の何を意味するだろうか」とパウロは言っています。従って、死んでいた者(信仰を受け入れて
いない者)が信仰を受け入れることを、「パウロは死者が起こされる」として表現しています。以下も同じコンセプトです。

*ローマ人への手紙6:13〜14

 またあなたがたは、あなたがたの肢体を、不義の武具として罪に捧げてはならない。むしろあなたがたは自分自身を、死者たちの中から起こされて生きている者として神に献げ、またあなたがたの肢体を義の武具として神に献げな
さい。実際、罪はもはやあなたがたを支配することはないであろう。


 マルコによる福音書は今日の箇所、16章8節で突如終わってしまいます。9節以下は、すべて後世の加筆だ、ということがわかっています。せっかく、主イエスの復活が示されたにもかからわず、この終わり方は、
「しかし、彼女たちは外に出るや、墓から逃げ出してしまった。震え上がり、正気を失ってしまったからである。そして、誰にもひとことも言わなかった。恐ろしかったからである。」


 マルコによる福音書に一貫している弟子達の無理解が、最後まで続いています。
 イエスが教えてくださった福音、これは今、私たちの血となり、肉となって生きているではないか。悲しんでいる
場合か。イエスを死者の中に葬ってしまうつもりか。否、主イエスは私
たちと共に歩んでいてくださるではないか。イエスが下さった教えは、常に私たちと共にあるではないか。死んでいた私たちの心が、主イエスの福音によって、起こされます。
 そして、マルコによる福音書の弟子の無理解に対する鋭い批判は、ドグマ(教理)に陥っていくエルサレム教団に向けられているのと同じように、現代の私たちにも向けられます。「警戒せよ、目を覚ましておれ」(マタイによる
福音書13:33)

*ヨハネによる福音書11:25

 イエスは言った、「私は甦りであり、命である。私を信じている人は皆いつまでも死ぬことがない。あなたはこれを信じるか」。

       2003年4月20日 イースター礼拝