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「嵐を鎮める奇蹟」

「悪霊に憑かれた人の癒し」

「少女よ、起きなさい」

「クリスマスの意義」



 「嵐を鎮める奇蹟」

*マルコによる福音書 4:35〜41 嵐を鎮める奇跡

 さてその日、夕方になった時、彼は彼らに言う、「向こう岸に行こうではないか」。そこで彼らは、群衆を岸辺に
残しておいて、彼を舟に乗せたまま、沖へと漕ぎ出す。また、ほかの幾艘かの舟も共にいた。すると激しい暴風が起
こる。そして大波が舟の中まで襲って来始め、たちまち舟が水で満杯になるほどであった。しかしイエスご自身は、
舳(とも)の方で枕をして眠っていた。そこで彼らは彼を起こし、彼に言う、「先生、私たちが滅んでしまうという
のに平気なのですか」。すると彼は起き上がり、風をしかり、海に命じた、「黙れ、口をつぐめ」。すると風は収ま
り、大きな凪が生じた。そこで彼は彼らに言った、「なぜ、あなたたちは臆病なのだ。信仰がまったくないのか」。
そこで彼らは大いに恐れた。そしてお互いに言い続けた、「この人はいったい誰だろう。風や海でさえこの人に従う
とは」。

§ディスコミュニケーションの(意志の疎通がうまくいかない)時代

 先週の火曜日、15日に24年間も北朝鮮に拉致されたまま消息不明になっていた人々のうち、五人が日本に一時
帰国いたしました。もう死んだものと諦められ、お葬式も済み、お墓もある人が帰郷して家族と再会するという出来
事に心を動かされます。そして、北朝鮮の政治的な状況により、市民に言論の自由も、行動の自由も、職業選択の自
由すらないという現実を考えると、思いはまたさらに複雑です。
 恐怖政治や言論統制の下にいる人々との交流、またそのような国との交渉の難しさを感じます。イギリスのブレア
首相が首相に就任してすぐ、イスラエルとパレスチナの紛争を平和的に解決しようと当時のアメリカのオルブライト
国務長官やクリントン前大統領らと奔走していた頃、話し合いで譲歩しあって折り合いをつけていくこと(comprom
ise)の必要性を切々と説いていましたが、北朝鮮ばかりでなく、イスラム原理主義や、ユダヤ教の超保守派(やはり
原理主義)、そしてブッシュ大統領の支持基盤のひとつであるキリスト教根本主義(英語では原理主義と同じfunda
mentalism)などの人々の間では、交渉して妥
協点を見つけて折り合う(compromise)ということが非常に難しく、ほとんど不可能に思えます。
 しかし、今の私たちのように、神様にまもられながら、自由に問題意識を持ち、解決策を模索し、懸命に生きるこ
とができること自体に、大変大きな恵みを感じます。問題になるような宗教やカルトのほとんどは、こうした模索し
たり苦労したりする自由には関心がなく、自分はなにひとつ考えなくていいような間違いのなさそうな「解答」を提
示します。日本にも昔、戸塚ヨットスクール事件というものがありましたが、アメリカでも、気が弱い(と親が思い
こんだ)息子を、銃の使い方を教えるキャンプ(こうしたキャンプの多くは極右組織が運営)に送り込んで自信をつ
けさせよう、などという、困った人たちがいます。
 しかし、飛びつきたくなるような、こうすればうまくいくというような、例えばうまくいっていない人間関係をよ
くする魔法の特効薬をよそに求めること自体が、直接相手と向き合うことを止めてしまう行為だ、ということに、な
かなか人は気付きません。
 パウロが記した、キリストより私たちが与えられた自由についての箇所を二箇所お読みしましょう。

*ガラテヤ人への手紙 3章23〜29節

 信仰が到来する以前は、私たちは律法のもとに閉じこめられて監視されていた。来るべき信
仰が啓示されるに至るためである。かくして律法は、キリストへと至る私たちの養育係となっているのである。それは私たちが信仰によっ
て義とされるためである。しかし信仰が到来したからには、私たちはもはや養育係を必要としない。なぜならば、あ
なたがたは、キリスト・イエスにある信仰をとおして、すべて神の子たちなのだからである。実際、キリストへと洗
礼を受けたあなたがたは、キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、
男性も女性もない。まさに、あなたがたすべては、キリスト・イエスにおいて一人なのだからである。そして、もし
もあなたがたがキリストのものであるなら、それゆえにあなたがたはアブラハムの子孫なのであり、約束による相続
人なのである。

*ガラテヤ人への手紙 5章1節

「キリストはこの自由へと私たちを解き放って下さったのだ。それゆえに、あなたがたは堅く立って、再び奴隷状態
の軛にはまってはならない」

 父親、母親になろうとする人が、不安とその責任に恐れおののくように、また、独立して事業をはじめた人が、経
営の不安と責任を自覚した時のように、パウロは、キリストからいただいた自由の大切さと、それが
どんなに、時に逃げ出したいほど恐ろしいものに感じるために、人々が再び「奴隷状態の軛」に帰っていこうとするかを良く理解し
ていました。

§「この人はいったい誰だろう。風や海でさえこの人に従うとは」

 さて、今日の聖書箇所は、マルコによる福音書4章35節からの「嵐を鎮める奇跡」についてです。ここから6章
6節までは、マルコによる福音書の二つ目の奇蹟物語集です。(ひとつ目は1:21〜45)舞台はこれもまたガリ
ラヤ湖。「向こう岸へ行こうではないか」と言われた後、激しい暴風が舟を襲って沈みそうになっても、イエスご自
身は眠っておられたという場面。
 ここを改めて読んで、一枚の写真を思い出しました。第二次世界大戦のさなか、ドイツ軍によるロンドン空襲で破
壊された図書館を撮った写真ですが、屋根も落ち、瓦礫が散乱する中で、全くなにも起こらなかったかのように、残
っている書架を見ながら、いつもと同じように本を探す人たち。戦争や爆撃という、人間の生活、平和を脅かすもの
に動じない人々。ここに映し出されている人間の魂の静かな力強さを感じます。
 嵐に遭遇した弟子達は、あわててイエスを起こします。「彼は起き上がり、風をしかり、海に命じた、『黙れ、口
をつぐめ』」。この「叱り」と「黙れ」が出てくるのは、1章25節と同じです。

*マルコによる福音書 1章23〜25節
 そして、すぐに彼らの会堂に穢れた霊に憑かれた一人の人がいて、叫びだして言った。「ナザレ人イエスよ、お前
は俺たちと何の関係があるのだ。お前は俺たちを滅ぼしに来たのか。俺はお前が何者か知っているぞ、神の聖者だ」
。そこでイエスは彼を叱りつけて言った、「口をつぐめ、この者から出ていけ」。
 嵐を鎮める奇蹟のエピソードでは、風が、1章23節の穢れた霊と同じ扱いになっています。霊(プニューマ)に
は風という意味もあるのは、「古代においては、空気の動きが霊魂の動きと思われた」(田川健三)というのは興味
深いですね。また、旧約聖書では、嵐や大水が、信仰を揺るがすものの比喩として使われています。

*詩篇69:2 神よ、私を救ってください。大水が喉元に達しました。

 また、旧約聖書では、「人間に脅威をもたらす諸力である荒海や暴風が、神によって鎮められるという表象がしば
しばあらわれ...その際、神が叱りつけることもある」(佐藤研)という例も見ておきましょう。

*詩篇77:17 大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て身もだえし、深淵はおののいた。
*詩篇89:10 あなたは誇り高い海を支配し、波が高く起これば、それを鎮められます。
*詩篇104:7 水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散っていき、とどろく御声に驚いて逃
げていった。
*詩篇106:9 芦の海は主に叱咤されて干上がり、彼らは荒野へ行くように深い淵を通った。
*詩篇107:29〜30 主は嵐に働きかけて沈黙させたので、波はおさまった。

 嵐を鎮める奇蹟のエピソードでは、詩篇で神が風や嵐を叱っていましたが、マルコによる福音書では、イエスがそ
の役を担っています。神の業とイエスの業とを重ねています。
 ここで興味深いのは、当時のユダヤ人の多くが待ちわびていた、ローマの支配からユダヤ人を解放してくれる政治
的・王的メシアの姿と、イエスの姿とは大きくずれているということです。政治的・王的メシア(=神の子)に求め
られていた奇蹟の種類は、石をパンに変えたり、エルサレム神殿の尖塔の上から飛び降りても天使によって守られて
無傷ですむ(cf.マタイ4章、ルカによる福音書4章)というような、超自然的で、「救いの時の接近を告げる『し
るし』の奇跡が求められた」(大貫隆)のに対し、イエスが行った奇跡は、病気の癒しや、今日のテキストのように
、嵐を鎮めて、舟の同乗者たちを助ける、という種類のものでした。
 政治的・王的メシアを求める人たちは、イエスの奇跡を、自分たちが求める奇跡(しるし)だとは思っていなかっ
たらしく、奇跡物語がたくさん続いた後の8章11節以下で、「天からの徴を彼に要求」します。それに対し、イエ
スは「この世代はなぜ徴を要求するのか。アーメン、私はお前たちに言う、この世代には徴は絶対に与えられないだ
ろう」(12節)と応えます。
 
 次の箇所も、イエスがご自分が政治的・王的メシアではないこと、またそういう者を熱望することすら間違ってい
るということを語りかけています。

*マルコ13:21〜23

 そしてそのとき、誰かがあなたたちに、「見よ、こ
こにキリストがいるぞ」とか、「見よ、あそこだ」とか言っても、信じるな。なぜならば。偽キリストらや偽預言者どもが起こり、できるならば選ばれた者たちを惑わせようと、
徴と奇蹟とを行なうだろう。あなたたちはしかし、警戒せよ。私はあなたたちに一切をあらかじめ告げたのだ。

 神の国がもう手に届くところに実はあるんだ、もっとも小さな者こそが救われるんだ、ということを説きながら、
病気の癒しを行っておられたであろうイエスの価値観は、政治的・王的メシアを望んでいた人々とはまったく違って
いました。このことは、戦争での勝利を望む人々とも、まったく価値観が違うことをも意味しているのは明らかです
ね。

2002年10月20日    

 「悪霊に憑かれた人の癒し」

*マルコによる福音書 5章1〜20節

 さて、彼らは海の向こう岸に着き、ゲラサ人たちの地方にやって来た。彼が舟から出てくると、すぐに一人の穢れた霊に憑かれた男が墓場から出てきて、彼に出会った。この男は、墓場を住みかとし、何人ももはや鎖で縛っておく
ことができないほどになっていた。彼はこれまでもしばしば足枷や鎖で縛りつけられていたが、鎖を引きちぎり、足枷を砕き去ってしまい、誰一人彼をおとなしくさせることができなかったのである。また、昼夜を分かたず、墓場や山の中にいて叫び続け、また石で自らを打って傷つけていた。そして、イエスを見ると遠くから走って来て、彼を伏し拝んだ。そして大声で叫びながら言う、「いと高き神の子イエスよ、お前は俺と何の関係があるのだ。神かけてお前に頼む、後生だから俺を苦しめるな」。というのは、イエスが彼に、「穢れた霊よ、この人から出ていけ」。と言ったからである。そしてイエスは彼にたずねた、「お前の名は何というのだ」。すると彼はイエスに言う、「俺の名はレギオンだ。俺たちは大勢だからだ」。そして自分たちをこの地方の外に追い出さないように、彼に懸命に乞い願う。ところで、その山のふもとの当地に、豚の巨大な群れが飼われていた。そこで彼らはイエスに乞い願って言った、「俺たちをあの豚どもの中に送ってくれ。あいつらの中に入るから」。そこで彼は彼らにそれを許した。すると穢れた霊どもは出ていって、豚の中に入った。そこで二千匹ほどのその群れは、崖を下って海へなだれ込み、海中でかたはしから溺れ死んで行った。
 すると、それらの豚を飼っていた者たちは逃げ去り、その町および近くの里にいた者たちにことの次第を告げ知らせた。そこで彼らは、なにごとが起こったのか見に来た。そしてイエスのもとに来て、悪霊に憑かれていた者すなわ
ち「レギオン」を持っていた者が着物をまとい、正気のさまで座っているのを見る。そこで彼らは恐れた。そして、先の出来事を見ていた者たちは、悪霊に憑かれていた者に起こったことについて、また豚の群の最期について彼らに
くわしく話した。そこで彼らは、自分たちの地域から出て行くようにイエスに乞い願い始めた。
 そこで彼が舟に乗ると、悪霊に憑かれていた者は、彼と共にいることを許してくれるように彼に乞い願って止まなかった。しかし彼は彼にそれを許さず、むしろ彼に言う、「あなたの家に行き、あなたの身内の者たちのところに戻
りなさい。そして主が今あなたに何をして下さったかを、彼らに告げ知らせなさい」。そこで彼は出て行って、イエスが自分に何をなしてくれたかをデカポリスで宣べ伝え始めた。そして、あらゆる人々が驚いていた。  佐藤研訳
        並行箇所:マタイ8:28〜34、ルカ8:26〜39

§「穢れた霊に憑かれた人」

 9月の小泉首相の北朝鮮訪問の時から、日本から拉致された人々のこと、そして、大変な閉鎖社会、独裁主義、全体主義の社会である、北朝鮮に住んでいる人々のことを考え続けています。果たして、私が、このような国に拉致されて、外の情報もなにもなく、聖書すらも取り上げられて生きていかなければならなかったとしたら、正気を保っていることができるでしょうか。
 私たちには憲法で、信教の自由、思想の自由や言論の自由が認められていて、それが当然だと思っている社会で暮らしています。実際には、日の丸、君が代が法律によって、学校行事の中で強制されている、というような問題も今、数多く起こっていますし、医療事故、医療過誤や、DV(家庭内暴力)や、ストーカー被害などを含む、事件、事故など、何らかの被害者に仮になったと考えたとき、この国では、本当に人権が守られているのだろうか、と不安に感じることも数多くあります。また、政治家や、大企業、大銀行の重役から役所の職員や学校の先生まで、特に既得権を持っている人たち、安定した地位を確立した人たちによる、status quo(現状維持)、変化や波風を望まない、という空気が、日本には蔓延していることも、行政・財政改革や、銀行の不良債権処理が進まなかったり、教育がいい方向に変わっていかなかったりする大きな理由のひとつです。
 しかし、「キリストはこの自由へと私たちを解き放って下さったのだ。それゆえに、あなたがたは堅く立って、再び奴隷状態の軛にはまってはならない」(ガラテヤ書5:1)というパウロの言葉の通り、私たちは、信仰を持ち、互いに愛しあいつつ、このような社会の中にあってもしっかりと主によって示された道を進んで行き、それぞれ与えられた場所で、語るべきことを語り、するべきことをすることが本当に大切なのだ、ということを痛切に感じます。
 さて、今日の聖書のテキストは、「穢れた霊に憑かれた人の癒し」です。ひとつの奇跡物語としては、共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)の中で一番長いものです。ここで表されている「穢れた霊に憑かれた人」とは、現代ならば、精神疾患を患っている人を指します。こころの病気の治療はとても難しく、専門家の人たちも大変苦労している様子が、「こころの科学」のような研究誌にもあらわれています。現在も尚、大変大きな社会問題のひとつですが、
ここでもカギになる考え方は、どんな人でも、ひとりひとり、生まれたその瞬間からユニークな存在で、親や周りの人たちとの深い愛情、強い絆が必要だ、ということのようです。
 マルコのテキストに戻ると、これは、ここでもイエス様が、他の人にはどうにもできなかった、おそらく、ほとんどの人が接触することも避けていたこの人と向き合って彼を癒す、という「地方民間説話」のひとつです。
 まず、このお話しの舞台ですが、マルコによる福音書では、「ゲラサ人たちの地方」と書かれています。ゲラサの町は、ローマのポンペイウスが紀元前64〜63年頃に北トランス・ヨルダン、南シリア、北パレスチナ地方を支配下に置いたときにできた、ヘレニズム(ギリシャ文化圏)10都市連合、デカポリス(といっても、必ずしも数は十都市ではなかった)のひとつで、異邦人がたくさん住んでいたところです。そのため、多くのユダヤ人からは、穢れた場所として考えられていたり、差別意識を持たれていた場所です。しかし、ここに問題があって、ゲラサはガリラヤ湖に面していなくて、60キロも離れたところにあります。そこで、マタイは舞台を、よりガリラヤ湖に近い、やはりデカポリスのひとつ、ガダラに変えています。また、写本によっては、ガリラヤ湖に面したゲルゲサに舞台を置いているものもあります。「マルコがゲルゲサという村を知らずに、(伝承を聞いて)発音の似ているので、デカポリスのよく知られた町ゲラサにしてしまった」(ダルマン)という意見もありますが、この福音書の編集者「マルコ」はガリラヤ地方の、地元の人と考えられるため、これは疑わしいでしょう。現在では、マルコが、ゲラサの町とはいわずに、「ゲラサ人たちの地方」という表現を、「デカポリスの地方」(20節)と同じ意味で使っていたのだろうと捉えられています。
 いずれにしろ、ユダヤ人から見て、穢れた場所で、穢れた霊に憑かれて、しかも、穢れているとみなされていた墓場に住んでいる人と、イエス様が、向き合います。

「いと高き神の子イエスよ、お前は俺と何の関係があるのだ。神かけてお前に頼む、後生だから俺を苦しめるな」。
というのは、イエスが彼に、「穢れた霊よ、この人から出ていけ」。と言ったからである。(7〜8節)

 「穢れた霊」が、イエスを神の子と呼ぶのは、1章21〜28節を思い起こさせます。以前この箇所を学んだときに、「物語全体はヘレニズム世界の悪魔払い物語の定型パターン:「悪霊が自分を祓おうとする神的霊能者をいちはやく嗅ぎ分け、その名を唱えることによって相手を支配しようとするのに対して、神的霊能者の側でもその悪霊の名前を呼び、沈黙を命ずるという、ヘレニズム世界の悪魔払い物語の定型パターン」(大貫隆)というコメントを紹介しました。ここでも、同じ型式をとっています。
 しかし、物語はここで終わらずに、イエスが穢れた霊に名前をきく場面に移行します。

 そしてイエスは彼にたずねた、「お前の名は何というのだ」。すると彼はイエスに言う、「俺の名はレギオンだ。俺たちは大勢だからだ」。そして自分たちをこの地方の外に追い出さないように、彼に懸命に乞い願う。ところで、その山のふもとの当地に、豚の巨大な群れが飼われていた。そこで彼らはイエスに乞い願って言った、「俺たちをあの豚どもの中に送ってくれ。あいつらの中に入るから」。(9〜12節)

 このレギオンとは、ローマ軍の軍隊の単位で、「一個大隊」に相当する言葉です。歩兵6千人、騎兵120騎という規模です。当時のパレスチナは、シリアに駐屯するローマ軍の支配を受けていました。穢れた霊の名前が、占領者、ローマ人の軍隊というのもおもしろいですね。そして、彼らが中に入りたいと言った、「豚」も異教徒であり、占領者であった、ローマ人を示しています。ユダヤ教では、豚は穢れたものとされ、食べることが許されていませんでした。これは、豚肉には有鉤条虫という恐ろしい寄生虫がいて、しっかり火を通さないとこの虫に感染してとても危険だからできた戒めだと言われています。今でも、イスラム教徒が、アメリカを「豚」とか「犬」と言った場合は、大変な侮蔑の言葉ですが、当時も同様だったことでしょう。
 さて、ユダヤ人たちが食べない豚がなぜ飼われていたのか、ということになると、これはこの地方に住む、ヘレニズム文化の異邦人達が、豚を食べていたから、ということになります。
 この部分では、この「穢れた霊」を追い出す際に、その穢れた霊がローマ軍という名で、それがローマの豚に入って、みんな溺れて死んでしまう、という展開になります。民間伝承らしい脚色ですね。スーパーマンや、水戸黄門のような感じです。これを聞いた人たちは、とても憎いローマがひどい目にあう場面をおもしろがって聞いたことでしょう。

 そしてイエスのもとに来て、悪霊に憑かれていた者すなわち「レギオン」を持っていた者が着物をまとい、正気のさまで座っているのを見る。そこで彼らは恐れた。そして、先の出来事を見ていた者たちは、悪霊に憑かれていた者に起こったことについて、また豚の群の最期について彼らにくわしく話した。そこで彼らは、自分たちの地域から出て行くようにイエスに乞い願い始めた。
 そこで彼が舟に乗ると、悪霊に憑かれていた者は、彼と共にいることを許してくれるように彼に乞い願って止まなかった。しかし彼は彼にそれを許さず、むしろ彼に言う、「あなたの家に行き、あなたの身内の者たちのところに戻りなさい。そして主が今あなたに何をして下さったかを、彼らに告げ知らせなさい」。(15〜19節)

 マルコによる福音書の癒しの奇跡物語のなかで、イエスがこのことを言わないように命令するのではなく、「主が今あなたに何をして下さったかを、彼らに告げ知らせなさい」と宣べ伝えることを命令するのはここだけです。
 また、イエスの福音が宣べ伝えられているのが、ユダヤ人の間ではなく、異邦人のたくさんいる、デカポリス地方だ、というところにもユダヤ人の選民思想に挑む意志が感じられます。
 ここでも、わたしたちは、肉に於いて誇るものはなにもなく、そういったものから自由にされて、ただ、主とともに歩くように、道を示されていることを感じます。

*ガラテヤ人への手紙3章27節
 「実際、キリストへと洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない。まさにあなたがたすべては、キリストにおいて一人な
のだからである。」


*マタイによる福音書28章20節 
 私があなたたちに指示したすべてのことを守るように、彼らに教えよ。そして見よ、この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいるのである。

2002年11月 3日    

 「少女よ、起きなさい」

*マルコによる福音書 5章21〜34節

21 さて、イエスが舟に乗って再び向こう岸へ渡った時、多くの群衆が彼のもとに集まった。そして彼は海辺にいた。すると会堂長の一人でヤイロスという名の者がやって来る。そして彼を見て、その足もとにひれ伏し、必死に乞い
願って言う、「私の小娘が死ぬところです。どうか、おいで下さり、娘に両手を置いてやって下さい。そうすれば娘は救われ、生きることができます」。そこでイエスは彼と共に行った。すると多くの群衆が彼に従い、彼に押し迫りはじめた。

25 さて、ここに十二年もの間、血が流れて止まらない一人の女がいた。多くの医者にさんざん苦しめられて、持っている財をすべて使い果たしてしまったが、何の役にも立たず、むしろいっそう悪くなった。彼女はイエスのことを聞き、群衆にまぎれて後ろからやって来て、彼の着物に触った。「あの方の着物にでもいいから触れば、私は救われる」と彼女は思っていたからである。するとすぐに彼女の血の元が乾き、彼女は自分が病の苦しみから癒されたことを体で悟った。イエスは、自分から力が出ていったことを自らの中ですぐに知り、群衆の中で振り返って言った、「私の着物に触ったのは誰か」。そこで彼の弟子たちが彼に言った、「群衆があなたに押し迫っているのを見ておられるはずなのに、『私に触ったのは誰だ』などと言われるのですか」。しかし彼は、このことをなした者を見ようと、あたりを見まわしていた。一方彼女は、自分に起こったことを知り、恐れ、また戦(おのの)き、やって来て彼のもとにひれ伏して、彼に一切をつつみ隠さず語った。そこで彼は彼女に言った、「娘よ、あなたの信仰が今あなたを救ったのだ。安らかに行きなさい。そしてあなたの苦しみから解かれて、達者でいなさい」。

35 彼がまだ話している時、会堂長の家から人が来て言う、「あなたの娘御は亡くなりました。もはや先生を煩わすにはおよばないのではないですか」。しかしイエスは、彼らが言ったことを聞き流して、会堂長に言う、「恐れるのを止めよ、いちずに信頼しているのだ」。そしてペトロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、誰も彼に従ってくることを許さなかった。そして彼らは会堂長の家に来る。そして彼は、激しく泣いたりわめいたりしている者たちのけたたましい騒ぎを目にする。そこで彼は中に入って彼らに言う、「なぜあなたたちは、うるさく泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではなく、眠っているだけだ」。そこで彼らは、彼をあざ笑い出した。しかしながら彼は、皆を外に追い出し、子供の父母と自分と共にいた者たちだけを連れ、子供がいるところに入っていく。そして子供の手を取って、彼女に言う、「タリタ・クム」。これは訳すれば、「少女よ、あなたに言う、起きなさい」。という意味である。するとすぐに少女は立ち上がり、歩きまわり始めた。十二才だったからである。そこで彼らはすぐに、正気を失うほど驚いた。すると彼は、誰にもこのことを知らせるなと彼らに厳しく命令し、彼女に食事をとらせるよう告げた。

佐藤研訳
並行箇所:マタイによる福音書9:18〜26、ルカによる福音書8:40〜56

§critical thinking(批判的な思考)

critical thinking(批判的な思考)とか、critical study(批判的な研究)という言葉があります。これは、対象をしっかり吟味する考え方や研究を指す言葉で、scientifuc thinking(科学的思考)、scientific study(科学的研究)と言い換えることもできます。しかし、日本語を話す人々の多くが、言葉の定義を考えることなしに、言葉の響きで意味を感覚的に捉えて「議論」しようとするので、その議論は虚しいものになってしまうことが数多くあります。
 「日本語を話す人々の多くが」といいましたが、これは日本人だけの問題ではありません。10年ほど前、私がテネシーのクリスチャン・ブラザーズ(キリスト教兄弟団)大学で近代哲学の授業に出ていたとき、'Conscious'(自覚・意識・認識)についてレポートの宿題が出されたのですが、教授が繰り返、'Conscience'(良心・善悪の観念)と混同しないようにと学生達に注意するのを見て不思議に思っていました。似ているけれど、全然違う言葉を英語で育った人たちが間違えることがあるのか?はたして結果は、レポートを提出した14人のうち、8人までが'Conscience'(良心・善悪の観念)について書いてきて、教授に大目玉を食らっていました。「わかっているつもり」の自分の母語をいかにきちんと捉えていないか。
 話しは前後しますが、日本の学校教育で大きく足りない部分が、この批判的思考、科学的思考を身につけて、自分で考える基礎をつくる、ということです。知識の詰め込み型教育では、ひとつひとつのことがらを吟味していく時間
もなく、興味も湧かないので、知識が丸飲みされるだけ、ということになります。百人一首をスラスラ暗唱する子供達に時々会いますが、彼らにその歌の意味を訊いてみても、ほとんど答えは返ってきません。
 今後、教育基本法に、「国を愛し、伝統文化を大切にする心」を育む、ということがおそらく盛り込まれることになりますが、この一見きれいで何も問題なさそうな「国を愛し、伝統文化を大切にする心」の定義はまったくされず、国の方針に従い、戦争がはじまれば戦争に行くことが国を愛することで、日本の伝統文化、特に天皇制に代表されるタテ社会や神社参拝や神社のお祭りに異議を唱えないことが「大切にする心」だ、という意味で運用される危険をはらんでいます。この点について、「批判的思考」は許さないぞ、ということがあり得るのは、国旗国歌法の運用の仕方を見ると一目瞭然です。
 しかし、人間の作る制度も社会も、完璧で非の打ち所がない、なんていうことはまずありません。イエス様は、批判を加えるべきところには批判を加え、改革するべき点はすぐ改革し、その社会の中で苦しんでいる人がいれば、すぐその苦しみをとってあげる、という姿が、奇跡物語で表されています。


§「タリタ・クム」

 さて、この物語は三部構成になっています。一部と三部が「ヤイロスの娘の蘇生」の物語、そしてこれにサンドイッチのように挟まれて、「長血の女の癒し」の物語が書かれています。マルコによる福音書がよく使う編集方法です。(ここの他に、2:1〜12、3:20〜35、6:6〜31、11:12〜26)サンドイッチのパンの部分のお話しと具の部分のお話しの共通点を浮き彫りにさせて、メッセージを印象づける役割をはたしています。この二つのお話しの共通点は、
1.ヤイロスも、長年病気に悩まされている女性も、懸命に助けを求めていて、ヤイロスも、この女性もイエス様に会いに来て、ひれふして懇願する。
2.両方のお話しに12が出てくる。(ヤイロスの娘は12才、女性が病気を患っていたのが12年間)
3.他の人たちは、イエスの言うことを理解しない。
4.信仰が救いをもたらすことを強調するという点です。
 会堂長は、ユダヤ教徒の集うシナゴーグ(会堂)の運営責任者で、長老達の中から選ばれます。会堂長、ヤイロスの瀕死の少女が亡くなったという知らせを受けても、イエス様は「恐れるな、ただ信ぜよ」と言います。ここに「激しく泣いたりわめいたりしている者たち」が出てきますが、この人達は、この子の死を悲しむ家族かも知れませんが、お葬式に呼ばれて泣くことを仕事にしている、「泣き女」かもしれません。当時、お葬式には笛を吹く人最低2人と、数人の泣き女が必要だったそうです。「子供は死んだのではなく、眠っているだけだ」というイエスさまの言葉を、彼らはあざ笑います。そこでイエスは少女の両親と数人の弟子達だけを連れて少女の寝ている部屋へ行き、「タリタ・クム」(少女よ、起きなさい)と言うと、少女はすぐに立ち上がります。
 この「タリタ・クーム」は、アラム語(メソポタミア方言:田川建三)です。アラム語は、アッシリアの言葉で、当時のパレスチナで日常語として使われていた言葉です。ヘブライ語も日常語として残っていたという説もあります
が、ヘブライ語の単語や表現方法などが混じったアラム語のパレスチナ方言が使われていたようです。ちなみに、アラム語パレスチナ方言では、「少女よ、起きなさい」は「タリタ・クーミ」というそうです。
 新約聖書は、当時のもう一つの国際語、ギリシャ語で書かれていますが、ここにアラム語が使われていることに、どのような意味があるのでしょうか。イエス様が話しておられた言葉だったから、ということもあるでしょうが、カギになる、キーワードだけで使われているところをみると、「『異国語』が異能を持つ、という意味で、奇跡を行う決定的な言葉のみ、アラム語をそのまま残した」(ローマイヤー、クロスターマン、田川)
 このようにアラム語が使われているところは、マルコによる福音書にあと四カ所でてきます。7章34節の「エッファタ」(開け)、14章36節の「アバ」(お父さん)、15章22節のゴルゴダ(髑髏)、同じく34節の「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか)の四カ所です。この中でよく似たコンセプトで使われている7章31〜37節を読んでみましょう。

*デカポリスでの聾唖者の癒し マルコによる福音書7章31〜37節 

 さて彼は、再びテュロスの地域から出て、シドンを通ってガリラヤの海に至り、デカポリス地域のただ中に来た。
すると人々は、彼のところに耳が聞こえず、舌もまわらない一人の者を連れてきて、この者の上に手を置いてくれるように彼に乞い願う。そこでイエスは、彼を群衆から離して一人にし、自分の指を彼の両耳に入れ、唾をつけて彼の
舌に触った。そして天を仰ぎ見て嘆息し、彼に言う、「エッファタ」。これは「開け」という意味である。するとすぐさま彼の耳は開かれ、舌のもつれも解けてまともに話した。そこで彼は、このことを誰にも言わないように彼らに
命令した。しかし、命令しようとすればするほど、彼らの方はなおいっそう、イエスの行なったことを宣べ伝え出した。そしてとてつもなく仰天しながら言い続けた、「彼がこれまでやったことは、すばらしいことばかりだ。耳の聞こえない者たちを聞こえるようにし、口の利けない者たちを話せるようにさえするのだ」。

 これを見た人たちが仰天している点、イエス様がこのことを誰にも言わないように命令している点など、物語の展開もよく似ていますね。
 では、「長血の女の癒し」をもみていきましょう。この人の病気は、婦人科の病気のひとつと考えられます。しかし、旧約聖書のレビ記に書かれているように、異常な出血は穢れたものとして捉えられていました。

*レビ記15:25

 もし生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間が過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様に汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。

 さて、聖書に書いてあることはすべてが疑問を挟む余地のない、完全なもの、と考えている人たちは、こういう箇所をどのように捉えるのでしょう?
 この教えは今でも生きていて、今もゲリジム山の近くに住んでいるサマリア人の女性達も、生理期間中は自分の部屋に隔離されてしまうそうです。また、イスラム教でも、同じような規定があり、ヨルダンで私たちに親切にしてくれた、とても人が良いヨルダン人の青年が教えてくれたのですが、奥さん以外の女性に触れた人はすべて汚れているので、祭司に会いに行き、衣服を洗って、身を清め、日が沈んで清くなるまで待つのだそうです。 ということは、女性達は皆大変だ、ということですが、この女性は病気の苦しみに加えて、12年間ずっと家族と一緒に食事もできないほどの精神的苦痛を得ていたことになります。そして、普通なら、抵抗したり、反抗したり、異議を唱えたりする対象ともならない、宗教的な掟で苦しんでいる人々とともに、イエスが立ち、癒しを与えてくださる姿が、度々描かれるのは、これらのエピソードの中に、イエス様の魂が、生きているのだ、と私は思います。
 絶望の淵の中で、彼女は「あの方の着物にでもいいから触れば、私は救われる」と思う一心で、この女性はイエス様の衣の裾に触ります。「娘よ、あなたの信仰が今あなたを救ったのだ。安らかに行きなさい。そしてあなたの苦しみから解かれて、達者でいなさい」

*ルカによる福音書7章 47〜50節

私はあなたに言う、この女(ひと)の罪はたとえ多くとも赦されている。それは、この人が多く愛したことからわかる。少ししか赦されない者は、少ししか愛さないものだ。」そこで彼は彼女に言った、「あなたの罪は赦されている」。すると、一緒に食事の席についていた者たちが自分たちの中で言い始めた、「罪すらをも赦すとは、この者はいったい誰だろう」。すると彼はその女に対して言った、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安らかに歩んで行
きなさい」。


2002年11月17日    



 「クリスマスの意義」

*ルカによる福音書2章1〜14節

 さて、その頃、カエサル・アウグストゥスから、全世界の戸口調査をせよとの勅令が出た。この戸口調査は、クィリニウスがシリア(州)の総督であった時施行された、最初のものであった。そこで人は皆、戸口調査の登録をする
ために、各自自らの町へと赴いた。そこでヨセフもまた、ガリラヤのナザレという町から、ユダヤの、ベトレヘムと呼ばれていたダビデの町へとのぼった。彼がダビデの家系に属し、その一族だったためである。すでに身重になって
いた、彼の許嫁のマリヤムと一緒に戸口調査の登録をするためであった。しかし、彼らがそこにいるうちに、彼女が産をするに至る日々が満たされ、彼女はその初子の男の子を産み、産着にその子をくるんで、飼い葉桶の中に横たえた。旅籠の中には、彼らのための居場所がなかったためである。

 さて、その地方には、羊飼いたちが野宿をしながら、自分たちの羊の群を夜もすがら見張っていた。すると主の御使いが一人、彼らの上に立ち現れ、主の栄光が彼らを取り巻いて輝いた。そこで彼らは、戦々恐々として恐れた。すると御使いは彼らに言った、「そのように恐れることはない。なぜならば、見よ、私はお前たちに大いなる喜びの福音を告げ知らせる。この喜びは、民全体のものとなろう。そなわちお前たちは産着にくるまり、飼い葉桶に寝ている嬰児を見いだすであろう」。すると突如として、その御使いと一緒に、天の大軍勢が神を讃め称えて言うのであった、

 「栄光はいと高き神に、そして地に平安
  意にかなった人々の間に」。           佐藤 研 訳

 

§平和を造り出す者たち

 今まで、アメリカに行く度に様々なキャンペーン・ソングに出会いました。「選挙に行こう/選挙人登録をしよう」や、「健康保険に入ろう」、「水は貴重、節約しよう」、「飲酒運転はやめよう」というような普通のものから、「
銃は家に置いて外出しよう」だとか、「あなたのミシシッピ州でしょう? さあ、ゴミを拾おう」。そして、「たまごを生で食べるのは止めよう」これは主にアジア系の住民に向けたものですが、生卵なんて食べないと思われている(
人によっては自分たちでもそう思っている)ヨーロッパ系アメリカ人の多くが、クリスマスにエッグ・ノッグという甘〜いミルク味の卵酒を飲みます。一度にたくさん作って、冷蔵庫に入れたままにしてゆっくり飲む人がいるために
この季節にサルモネラ菌中毒が多く出るそうです。
 ’70年代の終わりには'Happy Birthday To You'という歌があり、これはマーティン・ルーサー・キング牧師の誕生日を祝日にしよう、という運動のキャンペーン・ソングでした。これは’80年代半ばに実現し、現在、多くの州で一月の第二月曜日がホリデーになっています。
 さて、こうした中に、'Let's Put Christ Back Into Christmas'(さあ、クリスマスに、キリストを連れ戻そう)という歌がありました。クリスマスをこんなに日本中で祝っているのに、どうしてクリスマスを祝うのかについて考えたり、クリスマスの主人公である、イエスについて思いを馳せたりする人がいかに少ないかをとても不思議に思ってきた私は、こういう内容をキャンペーン・ソングにして歌ったりすることに違和感を感じながらも、この歌の作者に偶然出会ってしまったときに、「私も同感です」と伝えたのを憶えています。でも、このキャンペーン・ソングより、'White Christmas'や'Jingle Bell'、'O Christmas Tree'などの歌の方が、ずっと、クリスマスがもたらしてくれる、愛や思いやり、幸せな気持ち、平和な心を表しているのもちょっと皮肉です。
 しかし、こういう混乱はまだまだあります。'You can't tell the book by its cover.'(表紙だけでは本の中身はわからない)ということわざがありますが、先日、ある友人と電話で話していると、「ブッシュ大統領は、アメリカのキリスト教会代表だっていうじゃないか。それがあんなに戦争したがっているっているのは、どういうことなんだ?」ブッシュ大統領はクリスチャンを自認し、非常に保守的なキリスト教会と深く結びついています。彼のような、暴力的で排他的な二元論(自分たちだけが善、あとは悪)のキリスト教、「アメリカの側に立っている者の他はすべてテロリストに属している」というのは、私たちが聖書を読んで思い描くイエス様の価値観とはかけ離れています。
 むしろ、たった一人であっても、たとえ臆病者と非難されても、戦争の犠牲になる一番小さな存在、弱い存在の事を考えて戦争に反対する。1941年、日本軍による真珠湾攻撃の翌日、下院で対日宣戦決議モンタナ州選出のジャネット・ランキン下院議員がひとりだけ反対票を投じました。こうした、力や勢いを大切にする人間社会の価値観と合わない生き方こそが、イエスの心にかなう生き方なのだと思います。
 第二次世界大戦後に、平和運動で活躍した音楽家に、ピート・シーガーという人がいます。アメリカの国旗、星条旗をはためかせて、国威発揚して、戦争へと誘うのと、以下のような詩によって現状に批判を加える人々と、どちら
が愛国者だと言えるでしょうか。

 
  「破れた国旗」ピート・シーガー作(最終節はジョン・トゥルーデル作)

炎が立ち上る怒りに満ちた町の真夜中、
私は、私の国の国旗が破れて地面に横たわっているのを見た
私は駈け寄り、群衆をかきわけ、
その旗を拾い上げ、大急ぎで安全な場所まで逃げた

それから私はその縞模様の布きれを手に取り、
その汚れを洗い落とそうとベストを尽くした
そしてわかったことは、この旗が嘘を包み隠すことにずっと使われてきたということ
臭いを発し、ツンとした悪臭でたくさんのハエを引き寄せていた

私が熱に浮かされたように、国旗を洗っていると
こう訊ねているかのようなかすれた声が聞こえた:
ねえ、私を少しだけ変えていただけないかしら
私を作ったあなたたちはベストを尽くしてくれたけれど
少しミスも犯したとは思いませんか?

私の青は、良いと思います。空の色ですから
星も、とても高い理想を表すのに適しています
七本の赤い縞模様は、様々な脅威に立ち向かう姿を力強く表しています
しかし、あの白い縞模様は、変える必要がありますよ

白い縞の他に、深く豊かな茶色や、薄茶、そして黒も必要ですよ
それから、周りの縁の部分には、神様の恵みを表す緑がきっとよく似合うでしょう
それから、縞々の部分に切り込みを入れたら、
 そんなにかたくなではなくなるかも知れませんね

目を覚ました私は言った、何とばかばかしい話なんだろう、
どうして古くから伝わる栄光に満ちた旗に手を加えようなんて
 言いだす人がいるだろうか
でも今夜、12時が近づいて、また他の町に炎があがり
再び、この国の旗が、破れて地面に横たわる

みんなが、そっぽを向いている以上、この物語は決して終わることがない
途方に暮れ、また一日を生き抜こうと努力するふりをしよう
今、実際に起こっている現実に、あなたが直面しなければならないときが
きっと来るのだから

 

 私たちが現実の社会に直面するとき、イエスの言葉、生涯が私たちに直接語りかけてくれます。
 
「私があなたたちに指示したすべてのことを守るように、彼らに教えよ。そして見よ、この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいるのである。」(マタイによる福音書28章20節)
 
という言葉が心に迫ってきます。
 マタイによる福音書の「山の上の説教」の一部をお読みしましょう。
 
*マタイによる福音書5章3〜12節

幸いだ、乞食の心を持つ者たち(霊に於いて乞食である者たち/自分に誇り頼むも
のが一切ない者の意)、天の王国はその彼らのものである。
幸いだ、悲嘆にくれる者たち、その彼らこそ、慰められるであろう。
幸いだ、柔和な者たち、その彼らこそ、大地を継ぐであろう。
幸いだ、義に飢え渇く者たち、その彼らこそ、満ち足りるようにされるであろう。
幸いだ、憐れみ深い者たち、その彼らこそ、憐れみをうけるであろう。
幸いだ、心の清いものたち、その彼らこそ、神を見るであろう。
幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。
幸いだ、義のゆえに迫害されてきた者たち、天の王国は彼らのものである。
幸いだ、あなたたちは。人々が私のゆえにあなたたちを罵り、迫害し、あなたたち
に敵対して、あらゆる悪しきことを言うときは。
喜んでおれ、そして小踊りせよ、あなたたちの報いは天において多いからである。
実際、彼らは、あなたたち以前の預言者たちをも、そのように迫害したのである。

 

§この世の中に受け入れられないイエスの姿
 

 そして、イエスご自身も、十字架刑という壮絶な死を迎えます。安息日を守る、ということと、そのときに困っている人を助けることと、どちらが大切か。宗教の戒律を守ることと、困っている人の隣人としてその人を助けること
と、どちらが大切か。本来、神を礼拝する純粋な場であるべき神殿にからむ利権に食いついている人々や体制に対する激しい怒り。伝統や習慣のしがらみから全く自由に、神と人とのつながりだけを見て行動するイエスの生涯を、福
音書でたどっていくと、大きな福音と、この世に受け入れられないイエスの姿が現れてきます。この最たる例が、エルサレム入城から十字架に至る受難です。クリスマス物語の「彼らがそこにいるうちに、彼女が産をするに至る日々
が満たされ、彼女はその初子の男の子を産み、産着にその子をくるんで、飼い葉桶の中に横たえた。旅籠の中には、彼らのための居場所がなかったためである。」という、この世に生まれたイエスにその居場所がなかった、という記
述は、十字架によって生涯を閉じたイエスの生き方に呼応しています。
 人々の望むような、民族的、政治的なリーダーにはならない。これを表している場面に、マタイによる福音書の「荒野の試み」があります。

 
*荒野の試み:マタイによる福音書4章1〜11節

 そのあと、イエスは霊によって荒野に導き上げられた。悪魔の試みを受けるためである。そして彼は四十日四十夜断食し、その後飢えた。すると試みる者がやって来て、彼に言った、「もしおまえが神の子なら、これらの石にパン
になるように命じてみろ」。しかし彼は答えて言った、「こう書かれている、人はパンだけで生きるものではない。
むしろ、神の口から出て来る一つ一つの言葉で生きるであろう」。
 そのあと、悪魔は彼を聖なる都に連れてくる。そして、彼を神殿の屋根の端に据えた。そして彼に言う、「もしお前が神の子なら、下へ身を投げて見ろ。なぜなら、こう書かれているからだ、彼はお前のために、御使いたちに指示
を与えるであろう、すると彼らは、お前を手で受けとめるであろう、お前がその足を石に打ちつけることのないように」。
 イエスは彼に言った、「再びこう書かれている、お前は、お前の神、主を試みることはないであろう」。
 悪魔は再び彼をきわめて高い山へ連れて行き、彼にこの世のすべての王国とその栄華を見せる。そして悪魔は彼に言った、「もしお前がひれ伏して俺を拝むなら、これらすべてをお前に与えよう」。そのとき、イエスは彼に言う、「サタンよ、失せろ。実にこう書かれている、お前は、お前の神、主をこそ伏し拝み、彼にのみ仕えるであろう」。
 そのあと、悪魔はイエスを離れる。そして見よ、御使いたちがやって来て、彼に仕えていた。

 
 この箇所の背景には、後40年の「カリグラ危機」、すなわち、自分たちの信仰の拠り所である、エルサレム神殿に、「ローマ皇帝の意向にそってカリグラ帝の立像を作ることによって得られる繁栄と、ローマに隷属することによ
って得られる安定」などというものは決して求めない、それではエジプトで奴隷の身分でいた先祖たちと同じではないか。断じて断る。私たちは断固として主の戒めを守るというイスラエルの人々の強い意志。その歴史がこの箇所を生んだのだと考えられますが、この記事が生まれる背景には、イエスご自身の妥協を知らない、神と人とを見つめる姿勢が生きています。

*ガラテヤ人への手紙3:26ー28
...あなたがたは、キリスト・イエスにある信仰をとおして、すべて神の子たちなのである。実際キリストへと洗礼を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男
性も女性もない。まさに、あなたがたすべては、キリスト・イエスにおいて一人なのだからである。
 

*レビ記19:17−19
心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼は罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
 
2002年12月15日