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「清くされよ」

「新しく創られた者」

「イエスの招き」

「良い地に蒔かれた種」



 「清くされよ」

 

*マルコによる福音書1章35〜45節

 35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起き上がって出ていき、荒涼としたところへ行った。そしてそこで祈っていた。すると、シモンおよび彼と共にいた者たちがイエスの後を追って来て、彼を見つけた。そして彼に言う、
「皆があなたたちを探しています」。するとイエスは彼らに言う、「この付近の他の村や町へ行こうではないか。そこでも私が宣教するためだ。なぜなら、そのためにこそ私は出て来たのだ」。そして彼はガリラヤ全土にある彼らの
会堂に行き、そこで宣教し、悪霊どもを追い出し続けた。

 40 すると、彼のもとに一人のらい病人がやって来て、彼に乞い願い、ひれ伏して言う、「もしあなた様がお望みならば、清めていただけるのですが」。
 41 するとイエスは、腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られ、手を伸ばして彼に触り、彼に言う、「もちろんだ、清くされよ」。
 42 するとすぐに彼かららいが去り、彼は清められた。
 43 そこでイエスは、彼に対して激しく息巻き、すぐに彼を去らせた。
 44 そして彼に言う、「心して、誰にもひとことも語るな。ただし行って自らを祭司に見せ、あなたの清めのことで、モーセが命じた物を献げてやるがいい。人々のへの証しとなるためだ」。
 45 しかし、彼は去っていくと、そのことをおおいに宣べ伝え始め。またいい広め出した。そのためにイエスは公けに町に入れなくなり、町の外の荒涼としたところに留まっていた。すると彼のところに、いたるところから人々がやって来始めた。
    佐藤研訳

 

§Love, Baby, Love

 サッカーのワールド・カップが行われているこの一ヶ月は、サッカーの話題一色になっているような感じです。ワールド・カップがはじまるころ、英語学園に通う小学生が、「ワールド・カップはじまるね。」というので、「そうだね、サッカー好きなの?」ときくと、「ううん。」と答えてその会話が終わる、ということが何度かありました。
先週、その同じ子供たちはすっかりサッカー・ファンになっていて、試合の様子を楽しそうに話していました。世界でトップレベルのサッカーの試合を毎日見ている彼らは、そのおもしろさを敏感に感じ取ったのですね。
 教育には、素晴らしい人や、考え方や、本、そしてそれらを支えている精神、魂にたくさん触れることがとても大切です。サッカーを広めるのにこんなにテレビが役に立つのなら、なぜもっといい番組を普段からきちんと制作しな
いのか、と怒りたくなります。
 さて、昨年5月に、サッカーで得点が入った瞬間と比べものにならないほど大きなできごとがありました。ハンセン病患者に対する(らい予防法に基づく)隔離政策などをめぐる国の責任が問われた国家賠償請求訴訟の判決が熊本
地裁で出され、1907年から、何と1996年まで生き続けた「らい予防法」の違憲性が認められたのです。日本で国の責任が問われた国家賠償請求訴訟がこのように認められて結審する例は、ごくまれです。’50年代に特効薬
プロミンなどができて、完治するようになったのにかかわらず、ハンセン病患者を社会から隔離し、人生を奪い続けたこの大きな問題が、解決に向けて一歩大きく前進することになりました。では、日本でなぜ、このような問題が起きたのか、これは私たちにも大変大きな課題です。日本では、犯罪や事故や医療過誤等の被害者になったときに、保障やケアがほとんどなく、周りの人々からもなかなか理解が得られずに苦労すると言われています。ここ数日の間にも、精神科の入院患者が殺されてしまったと言っていい事件が2件報道されていました。一件は、拘束具の締め付けによる窒息死、もう一件は、もう暴れさせないために電気ショックを加えた結果、亡くなってしまったのです。しかし、いずれも病院は過ちを認めようとはしていません。
 隣人の苦しみ、苦労を理解するというのは、想像以上に難しい、ということかも知れません。かつて、第二次大戦の頃、ドイツをはじめ、ヨーロッパの国々の人々の多くが、ナチス・ドイツによるユダヤ人の迫害、虐殺があった際
、ユダヤ人の兄弟姉妹たちの苦しみを理解することはできませんでした。「彼らはユダヤ人だから、人種が違うから」「宗教が違う人たちだから」感じ方が違うとでも言うのでしょうか。今、パレスチナの人々がイスラエル軍によって大変苦しめられ、ジェニンでの虐殺が象徴的な事件として報道されています。イスラエル旅行をしたときに出会ったパレスチナ人の兄弟姉妹たちの顔を思うとき、問いかけずにはいられません。どうして隣人の苦しみに、人間はこうも鈍感なのか。
 かつてマーティン・ルーサー・キング牧師が残した言葉が思い起こされます。

「(社会を腐らせてしまうのは)悪い人々のひどい言葉や暴力的な行動ではなく、良い人々のぞっとするような沈黙と、うやむやな態度なのです。私たちの世代は、闇の子らの言葉や行動だけを悔い改めるのではなく、光の子らの恐
れや無関心(無気力)をも悔い改めなくてはなりません。」

 そして、ジャズ・ミュージシャンのルイ・アームストロングは、亡くなる少し前の70才の誕生日記念の録音で、このようなスピーチを残しています。

「あなたたち、若い人たちには、
『ねえ、パパ、なんて素晴らしい世界なんだなんて歌ってるけど、これはいったいどういう意味だい?世界中で起こってる戦争はどうなんだい?それも素晴らしいとでも言うのかい?飢餓の問題や、公害の問題はどうなの?ちっとも素晴らしくなんてないじゃないか』っていう人たちがいるよ。でも、この年をとったパパの言うこともきいてよ。私には、世界はそんなに悪いんじゃなくて、私たちが世界にしていることが悪いんだって思えるんだよ。私が言おうとしていることはね、素晴らしい世界はどんな世界かっていうことを考えて、それを
実現しようとしさえすれば、世界は本当に素晴らしくなるっていうことさ。愛だよ、ベイビー、愛(Love, baby, love.)。それが秘訣さ。」

 私たちは家族や隣人を持ち、そして幸せなことに教会をも持っています。教会はもちろん、建物ではなく、神様に連なり、共に集まり、礼拝し、讃美する私たち、主にある兄弟姉妹、家族です。私たちの身の回りの世界から、主か
らいただいた愛を実践していくことができるのは、大きな喜びですね
 今日の聖書箇所は、らい病人の癒しの場面です。映画「ベン・ハー」でもらい病の癒しのエピソードが取り上げられていました。当時、人間社会から追放され、一般の人々とどんな接触も許されていなかったらい病の患者に対して
イエスは、深く憐れみ(腸がちぎれる想いに駆られ)、手を伸ばして彼に触り、清くされよ、と言われました。これだけでも大変素晴らしい、力強い愛のメッセージです。
 同じエピソードを取り上げたマタイによる福音書8章1〜4節とルカによる福音書5章12〜16節は、マルコによる福音書のこの部分を下敷きにして書き直したものですが、とても単純なストーリーになっています。しかし、マルコによる福音書のこの箇所を読んで理解するのには、大変難しい問題が山積しています。先ず、41節の「深く憐れみ」の部分が、「怒り」となっている写本があること。もし、「怒り」なら、なぜ怒ったのか。43節の「激しく息巻き」あるいは、「息巻いて彼に言い含め」(新共同訳は「厳しく注意して」)「すぐに彼を去らせた」とは、どういうことなのか。深く憐れんだイエスが、清めた後の激しさはどういうことなのか。どうして、「誰にもひとことも語るな」と言ったのか。今日は、この疑問のいくつかを考えていきたいと思います。

 

§「私は望む、清くされよ」

 さて、この「らい病」と訳されているギリシャ語レプラは、ギリシャ語訳旧約聖書「70人訳」のレビ記で使われた、ヘブライ語「ツァーラアト」の訳語で、当時は穢れたものとされた皮膚疾患の総称だったとされています。私たちが「らい病」として知るハンセン病は、アレキサンダー大王の軍隊が当方からヘレニズム(ギリシャ)社会に紀元前4世紀に持ち帰ったという説が有力なので、レビ記が完成した時代はバビロン補囚の時代、紀元前6世紀ごろと考えられていますから、レビ記の時代には「ツァーラアト」にハンセン病は含まれていず、イエスの時代には含まれていたであろう、ということになります。
 では、レビ記にどのような規定が書かれているのでしょうか。13章全体がツァーラアトの規定ですが、その一部を読んで見ましょう。

 

*レビ記13章40〜46節(山我哲雄訳)

 ある男の頭の毛が抜けて禿になっても、彼は浄い。もし彼の額から髪が抜けて彼が禿げた頭になっても、彼は浄い。しかし、もし後頭部や前頭部の禿げたところに赤みを帯びた白の病変が生じたならば、彼の後頭部や前頭部の禿げ
たところにツァーラアトが発生したのである。祭司は彼を調べる。もしその後頭部や前頭部の禿げたところにある病変の腫脹の色が、体の皮膚のツァーラアトの症状と同じように赤みを帯びた白であるならば、彼はツァーラアトの罹
患者である。彼は穢れている。祭司は必ず、彼が穢れていると宣言しなければならない。彼の頭は病変に侵されているのである。
 体に以上の病変があるツァーラアトの罹患者は、自分の着物を裂き、髪をほどいて垂らし、上くちびるを覆って(顔の半分を衣服で覆って)『穢れている、穢れている』と叫ばなければならない。彼の体にこの病変がある限り、彼
は穢れている。彼は穢れたものなので、一人離れて暮らさねばならない。彼の住まいは宿営の外に置かなければならない。

 

 「らい病」の烙印を押されたら、人間としての社会生活、人生は終わってしまったことを意味していました。本人、あるいは先祖や家族が恐ろしい罪を犯した報いであると捉えられ、一般の人の同情もなかなか得られませんでした
。この人たちはどんなに辛かったでしょうね。ちなみに、聖書本文では、他の病気には「癒し」ということばが使われ、「穢れている」とされる「らい病」には、「清める」が使われています。イエス様が「深く憐れんで」(スプラ
ンクニゾーマイ:腸がちぎれる想いに駆られ)すぐに清めてくださる姿は、共感と感動を呼びます。
 ここで先ほどの問題ですが、ここが「怒って」なら、どのようになってしまうのか。二つの異なった読みがあった場合、より難しい方(理にかなっていない方)がオリジナルであろうと考えられています。そこで、ここは「怒って」ほうが、理解し難いので、元は「怒って」だったのであろう、という見方があります。
 しかし、逆に、元は「憐れんで」の方が、43節の「激しく息巻き」と矛盾するので、こちらの方が「難しい読み」だ、という考え方があります。「怒って」は「激しく息巻き」に合わせたのであろう、という意見です。また、(当時、共通語として一般に使われていたと考えられるアラム語(シリア語)の「憐れむ」(エトラハム)と「怒る」(エトラエム)が似ているので、混同されたのだろう(E.ネストレ)という意見もあり、私はこちらの説を採りたいと思っています。
 「腸がちぎれる想いに駆られて」と同様に「怒って」でも、また「激しく息巻き」と同様に「奇跡行為に先だって、内的に激しく興奮、あるいは嘆息する姿」(大貫隆)を表している、と見ることができます。また、このような恐ろしい病気、あるいは、その病気の社会的、宗教的な不当な扱いに激しく怒っている、と捉えることもできます。私としては、この説を採りたいと思います。
 もう一つの見方は、この物語は、ペテロや主の兄弟ヤコブの教会(ユダヤ人クリスチャン)の意向、律法を遵守するイエスの姿を描いている(田川健三)と見る見方です。律法に背いて、一般の人に近づいてきた患者に対して怒り
、清めた後、レビ記14章の規定通りに祭司に見せて、証明してもらい、献げ物を献納するように勧めている、という見方です。しかし、らい病患者に直接触れることによって、律法から逸脱しているイエスの姿勢とは矛盾するように思えます。このような特徴はむしろ、マタイによる福音書にあると思います。(cf.マタイ8)
 それでは、44節以下は、どのように捉えるのか。マルコによる福音書のイエス像の特徴の一つは、奇跡について語らないようにどんなに頼んでも、人々に知れ渡ってしまう、という姿です。これについては、また改めて考えてみたいと思います。そして、44節の後半からの、「ただし行って自らを祭司に見せ、あなたの清めのことで、モーセが命じた物を献げてやるがいい。人々のへの証しとなるためだ」は、この訳のように、そんなことは必要ないけれど、このような宗教的価値観に成り立っている社会の人々にも、正式な証明があれば異論は挟めないだろう、ということなのでしょう。ちなみに、この「証」は、マルコによる福音書であと2カ所、6章11節と13章9節でてきますが、いずれも怒りを表しているような「証」の仕方です。

*6章11節
そしてあるところがあなたたちを受け入れず、あなたたちに聞き従わないならば、そこから出ていく時に、あなたたちの足の裏の埃を払い落とし、彼らの証とせよ

*13章9節
あなたたちは自らよく警戒せよ。人々はあなたたちを地方裁判所に引き渡すだろう。またあなたたちは会堂で鞭で打たれるだろう。また私のゆえに総督たちや王たちの前に立つだろう、彼らに証をするためだ

 聖書を少しずつ読んでいって浮かび上がってくるイエス像には、こんなにもヴァラエティーがあるのか、とつくづく感じますね。しかし、聖書を読み、考
え、勉強を続けていくと、少しずつ、主は私たちに新しい発見、恵みを下さいます。恵みは深まり、私たちの生き方も考え方も、生活も変えられていきます。最後にローマ人への手紙5章1〜3節をお読みして、今日のお話しをおわります。

 
*ローマ人への手紙5章1〜3節

 かくして私たちは、信仰によって義とされたので、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和な思いにひたされている。そのイエス・キリストを通して私たちは、信仰によって恵みへと至る路を獲得しているのであ
り、今や私たちはその恵みの中に立ち、神の栄光に与る希望を誇っている。
   
2002年6月16日    

 「新しく創られた者」
 

*コリント人への第二の手紙 4章13〜18節

 私は信じた。それゆえに私は語った、と書かれている言葉のように、同じ信仰の霊を持っているので、私たちもまた信じ、それゆえに語りもする。その際私たちは、主イエスを死者たちの中から起こした方は、イエスと共に私たち
をも起こされるであろうし、あなたがたと共に神の前に立たせて下さるであろう、ということを知っている。実際、すべてのことはあなたがたのためであり、その恵みが、より多くの人たちのために増し加わり、神の栄光に向けて感
謝を満ち溢れさせるためである。
 それゆえに私たちは失望することはない。むしろ、たとえ私たちの外なる人は朽ち果てても、しかし私たちの内なる人は、日ごとに新たにされるのである。なぜならば、私たちの一時的な軽い患難は、卓越した仕方で、私たちに永
遠の重みに満ちた栄光を造り出してくれるからである。その際私たちは、見ることのできるものにではなく、むしろ見ることのできないもの目を注ぐ。見ることのできるものはしばらくの間のものであり、他方見ることのできないものは永遠にあるのだからである。           青野太潮 訳

 

§キリストとの出会い

 今日は、松永晃子姉妹が洗礼を受けます。とても嬉しい日であります。私たちの教会と松永さんとの出会いは、4月のはじめに、ゴスペル・ミュージックを通じて出会った坂上さんや原さんたちに招かれて神田のオアシスにお話し
に行った時です。私は、原さんのリクエストでJesus Is The Answerを歌いながら歌詞の意味をかみ砕いてお話ししようとしていました。
「聖書に書いてあることで、わからないこと、理解できないことは、わかったふりをしたりしないで、課題にとっておきましょう。そして、祈ったり、本を読んだりしつつ懸命にもとめる人には、その答えを神様が少しずつくださいます。わからなかったら、神様にお祈りして訊ねればいい、求めなさい、そうすれば与えられます、と聖書にも書いてありますよ。」ということをお話しいたしました。
 この聖書の引用は、マタイによる福音書7章7節からです。
 
「求めよ、そうすればあなたたちに与えられるであろう。探せ、そうすればあなたたちは見いだすであろう。叩け、そうすればあなたたちも開けてもらえるであろう。なぜなら、すべて求める者は手に入れ、また探す者は見いだし、また叩くものは開けてもらえるだろうからである。」
佐藤 研 訳

 松永さんは、ずっと求め、戸を叩き続けておられたのですね。この時に新たにイエス・キリストとの出会いが与えられたのだそうです。とても嬉しいことですね。松永さんが神様に投げかけたかった質問は、なぜ、最愛の妹さんを原因不明の水の事故で失わなくてはならなかったのか、ということだと伺いました。愛する人との別れ、死別。これは私たちの人生の試練の中で最も大きな試練のひとつです。こういうことに遭遇した場合、私たちは「なぜ?」とい
う問いを発し続けるほかはありません。
 私がとても好きな福音書の箇所のひとつに、ヨハネによる福音書の11章35節があります。ラザロの死と復活というエピソードの中で、彼の妹マリヤとイエスが話している場面でのたった一言、「イエスは涙を流した」。

 

*ヨハネによる福音書11章32〜35節
 さて、マリヤはイエスのいたところに来ると、彼を見るなり、「主よ、あなたがここにおられたなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言いながら、その足下にひれ伏した。するとイエスは彼女が泣き、また一緒にいたユダ
ヤ人たちも泣いているのを見ると、心の深いところで憤りを覚え(別の訳では、激しく息巻き:治癒の奇跡の物語で治癒する人が精神を集中させることを指すことがある)、かき乱され、そして、「あなたがたは彼をどこに置いたの
か」と言った。彼に言う、「主よ、来て下さい。そして、見て下さい」。イエスは涙を流した。       

 なぜ、イエスは「イエスは涙を流した」のかは大きな疑問です。しかし、他の奇跡のエピソードと同様に、悲しみへの深い共感があったのだろうと思います。イエス様は、このように悲しんでいる時にこそ、共にいて下さるかたで
す。
 そして、キリストとの出会いは、私たちに大きな力を与えてくれます。イエス様が私たちに残してくださった価値観は、この世の価値観とは正反対で、弱く、悲しんでいて、孤独な者こそが幸いだ、という考えです。

*「山の上の説教」の一部、マタイによる福音書5章3〜12節

幸いだ、乞食の心を持つ者たち(霊に於いて乞食である者たち/自分に誇り頼むも
のが一切ない者の意)、天の王国はその彼らのものである。
幸いだ、悲嘆にくれる者たち、その彼らこそ、慰められるであろう。
幸いだ、柔和な者たち、その彼らこそ、大地を継ぐであろう。
幸いだ、義に飢え渇く者たち、その彼らこそ、満ち足りるようにされるであろう。
幸いだ、憐れみ深い者たち、その彼らこそ、憐れみをうけるであろう。
幸いだ、心の清いものたち、その彼らこそ、神を見るであろう。
幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。
幸いだ、義のゆえに迫害されてきた者たち、天の王国は彼らのものである。
幸いだ、あなたたちは。人々が私のゆえにあなたたちを罵り、迫害し、あなたたち
に敵対して、あらゆる悪しきことを言うときは。
喜んでおれ、そして小踊りせよ、あなたたちの報いは天において多いからである。
実際、彼らは、あなたたち以前の預言者たちをも、そのように迫害したのである。
  
 聖書を読みながら、主を受け入れて生活していくと、こうした価値観が私たちの心の中に住み着き、全く変えられてしまいます。

 
*コリント5:17
 「もしもある人がキリストのうちにあるのなら、その人は新しく創造された者なのである。古きものは過ぎ去った。見よ、新しくなってしまったのである。」
                        コリント5:17     
  
§洗礼

 では、このように、主イエスを受け入れた人々は、どうして洗礼を受けるのでしょうか。洗礼そのものは、古代の洪水を表しているといわれています。川が氾濫してすべてを飲み込み、その水が引いた後、その土地は新しく生まれ変わり、肥沃な土壌となります。新しく生まれ変わることを象徴しているのですね。
 イエス様の時代には、悔い改めて、洗礼を受け、新しく生まれ変わることをもとめる洗礼運動がいくつかあり、マンダ教(後にキリスト教グノーシス派の流れに向かいます)、洗礼者ヨハネの運動、そしてイエス様やその後の弟子達の運動が挙げられます。
毎日の生活に埋もれることなく、しっかり光を見据えて、生まれ変わって、意識をしっかりもって生きていくことを人々にもとめたのは、素晴らしいことだと思います。

 ガラテヤ人への手紙にとても美しい一節があります。

*ガラテヤ人への手紙3章27節
 「実際、キリストへと洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない。まさにあなたがたすべては、キリストにおいて一人な
のだからである。」

 

 主の教え、主の愛に生きることを、パウロは、「キリストを着る」と表現しました。
では、自分の心の中で主イエスを受け入れることと、洗礼を受ける、ということはどのようにつながっているのでしょうか?心でしっかり主イエスを受け入れているなら、他に儀式はいらないのではないか、という疑問が湧き起こるかも知れません。
 主イエスを受け入れることと、洗礼を受ける、ということは、結婚にたとえれば、二人が強い愛で結びつき、一生共に生きていくことを誓い合った日と、結婚式との関係に似ています。
 多くの人は結婚式なんてしなくてもいいじゃないか、といいますが、結婚式では、神様の前、出席した人々(証人)の前で誓いを立てます。市役所に結婚届けを出すのとは違い、これは、神様と自分たちの愛する仲間達みんなに認めてもらい、生涯誓いを果たすことを見守ってもらうことの表明になります。
 洗礼式でも、私たちは神様の前、出席している人々の前で誓いを立てることによって、これから「キリストを着て」生きていくことを、共に暮らし、励まし合い、仲間達、愛する家族、子供達の世代にもこの信仰を伝えていく、教会という共同体としっかりつながって生きていくことを誓います。

*ローマ人への手紙13章9節・12〜14節

 〜その他のどんな誡め(いましめ)も、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(cf.マタイ22:39)というこの言葉に要約されるからである。愛は隣人に対して悪を働くことはない。それゆえに愛は律法の満たされたものなのである。
 夜はふけた。日が近づいてきている。
それゆえ私たちは。闇の業を脱ぎ捨てようではないか。そして光の武具を身に着けようではないか。日中におけるように品位ある仕方で、私たちは歩もうではないか。酒宴や泥酔によってではなく、淫乱と放縦によってでもなく、争いや妬みによってでもなくー。むしろあなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。そして欲望をかき立てる肉の思いを抱くことのないようにしなさい。

 松永さんは、JESUS IS THE ANSWERを特別な讃美のメッセージとして受け取りました。「イエスこそが答え」。妬みや憎しみではなく、愛を。暴力や権力でなく、愛を。力で押さえつけよう、とか、悔しいからやり返そうとか
、そのような手法で平和を求めるのではなく、ひたすら主により頼むことで平和を得る。これは十字軍的なキリスト教の押しつけとは全く異なる次元のものです。軍隊なんかなくなってしまいますね。その深い愛を教えてくださるイエスこそが、今日の世界の問題解決の答えなのだ、というメッセージは、とても力強いものですね。
 そしてAMAZING GRACE。
 主がこの小さな私の目をも開き、導いてくださるというすばらしい恵み、共に感謝いたしましょう。最後にローマ人への手紙5章1〜3節をお読みします。

 

*ローマ人への手紙5章1〜3節

 かくして私たちは、信仰によって義とされたので、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和な思いにひたされている。そのイエス・キリストを通して私たちは、信仰によって恵みへと至る路を獲得しているのであり、今や私たちはその恵みの中に立ち、神の栄光に与る希望を誇っている。

 
2002年7月28日    

 「イエスの招き」

 *マルコによる福音書4章1〜9節

1.そして彼は再び、海辺で教え始めた。すると彼のもとに、おびただしい群衆が集まってくる。そのため彼は舟に乗り込んで座り、海上に出た。そしてすべての群衆は、海辺の陸地にいた。
2.そこで彼は、彼らにさまざまの譬えを使って多くのことを教え続けた。そして、その教えの中で彼らに言った、
3.「聞け。見よ、種蒔く人が種を蒔きに出て行った。
4.そして、種を蒔いているうちに、ある種は道端に落ちた。すると鳥たちがやって来て、それを食べてしまった。
5.ほかのある種は、土のあまりない石地の上に落ちた。そして土が深くないために、すぐに芽を出した。
6.しかし太陽がのぼると、焼かれてしまい、根がないために枯れ果ててしまった。
7.またほかのある種は茨の中に落ちた。すると茨が出てきて、その種の息の根を止めてしまった。そして種は実を結ばなかった。
8.またほかのいくつもの種は良い地に落ちた。すると、それらの種は芽を出し、成長しながら、実を結び続けるのだった。あるものは三十倍。またあるものは六十倍、またあるものは百倍もの実をもたらし続けるのだった」。
9.そして言った、「聞く耳ある者は聞け」。

§「言葉を学ぶ」ということ

 近頃は非常に頻繁にメディアという言葉を耳にしますが、'media'は'medium'の複数形ですよね、媒体、すなわち、中間、間に入るもの、間を取り持つものということです。言葉は、人と人、社会と人とをつなぐ最大のメディアですね。そして、聖書は、神様と私たちをつなぐ非常に大切なメディアです。言葉を持たない、ということが考えられないほど恐ろしいことであるのと同時に、私たちにとっては、もし聖書がなかったら、というのも考えられないほど恐ろしいことです。
 さて、ご存知のように、私はずっと英語の先生をしています。今も、ここの高田英語学園と、その他にある看護専門学校でも、英語の授業をしています。私が授業するときに伝えたいと思うことのひとつは、言葉を学習する、ということは、人と人とのコミュニケーションをどのように取るのか、どう意志を伝え、どう理解するのかを考え、その手段を身につけていくことだ、ということです。どう人とつきあっていくのか、またうまくコミュニケーションが取れて、心が通じ合ったら嬉しい、ということ。ちいさい子供達が言葉を喜んで覚えていくのも、この楽しみを知るからでしょう。
 昔の日本の英作文の教科書には、会話の表現で、相手が望むような応えをする例文が多くありました。例えば、Would you mind my smoking here?(私がここでタバコを吸ったら、あなたはいやですか?)という問いには、No, not at
all.(いいえ、全然気にしませんよ。)という応えしか載っていなかったりしたのですが、コミュニケーションの楽しみを重視する授業では、「いいですよ」というような表現の他に、
 ・I'd rather you wouldn't. (私はあなたが吸わないでいてくれたほうがいいなあ)とか、
・I'm afraid, yes.(言いにくいんですけど、いやなんですよ)
・Sorry, you can't smoke here.(残念ですね、ここでは喫煙はできませんよ)
などと、やわらかく、しかもしっかり意志を伝える方法も練習しますし、早口でたたみかけるように理由(それが事実にしろ方便にしろ)まで言って、
 ・Yes, I would. Sorry. I'm allergic to it.(はい、困ります。ゴメンネ。タバコにアレルギーがあるんですよ)
 なんていうとどんな感じか、とか、他に理由をこじつけるなら、あなたならどんな理由をこじつけるかとか、
 ・YES, I WOULD.(はい、いやですね)
と、一言ずつはっきり発音して非常に強く意志を表したりすることなどを、実際にお互いにやってみたりします。言葉自体のニュアンスの違いや、間の取り方によって印象が違ったりすることも肌で感じ取れると楽しいですね。
 この楽しさは、言葉が現実の世界に生きているものだ、ということが感じ取れるからで、こうした喜びを知った人たちは、学ぶ喜びを知るのですが、中学や高校や予備校の英語の先生達で、このことを知らないでいる(あるいは、このことに背を向けている)人たちが非常に多いことに苛立ちを覚えます。
 また、「教える」という仕事は、様々なストレスを負うもので、そのひとつに、限られた時間の中である一定の成果を挙げなくてはならない、という気持ちから、生徒に対して厳しく、時にはヒステリックな対応を取る先生が少なくありません。昨今、すぐに目に見えるある種の結果を求める業績主義が台頭してきて、この傾向はますます深まっているように感じています。
 しかし、人それぞれの能力や関心は様々で、授業の中で生徒諸君に受け入れてもらえる情報量にも大きく差があるのは自明なことです。その人の得たこと、発見したことを一人ずつから聞いたり、確かめたりする余裕を持つと、学
習者に対する評価のありかたは、がらっとかわってしまいます。今年、やっと中学校から消えようとしている相対評価なんかとは相容れない、「喜び」中心の評価。
 先日、夏休みのプログラムの中で小学生たちとポーカーをしていたときに、彼らが、ロイヤル・ストレート・フラッシュとフルハウスとどっちが強いのかを激しく主張し合っていたときに、彼らが私にジャッジを求めてきました。
つい、「知らないけど、どっちにしたって、それができたら嬉しいでしょう?うん、それでいいんじゃない?」と言ったら、そのうちの一人が次の日に、「ポーカーしようよ、いいなあ、先生のポーカー。誰が勝ちかじゃなくて、嬉
しい。できたら嬉しい!いいなあ。」と言ってくれて、私もとても嬉しくなりました。もちろんこういう考え方は、ギャンブラーの間では通用しないのですが、先ほどの「喜び」中心の考え方と通じる、生きる上での方向性にかかわる価値観の変化ですね。そして私の方も、先生が知っている側で、生徒が教えてもらう側、という役割を演じることから脱して、よりよく生きるために共に歩む人に少し近づけたように思えました。

 

§種を蒔く人

 ここまでは、私の英語の先生としてのお話でしたが、私たちの人生の中で、家族や隣人にしっかりとした信仰を伝える、ということを考えるとき、皆さんも同じようなストレスや壁にぶつかることと思います。福音の種蒔きをするときに、思い通りの成果があがらない、伝えたいことが真っ直ぐそのまま伝わらない。私だって未熟じゃないか。
 古くから伝わるゴスペル・ソングに99 1/2という歌があります。

I'm trying, Lord, trying to make a hundred
Ninety nine, ninety nine, ninety nine and a half won't do
私は頑張っていますよ、主よ、100点満点の人になろうと
99点、99点、99.5点じゃだめなんだよ

 でも、なかなか100点満点は難しいですね。そして、100点満点じゃないのに、100点満点を演じてしまったら、これもまた大きなつまずきです。これに対してPlease Be Patient With Me(どうか、私を辛抱強く見守ってください)という歌があります。

If you should see me, I'm not walking right
If you should see me, I'm not talking right
Just remember, God is not through with me yet
When God get through with me,
I'll be what He wants me to be

もし万一、私がちゃんと歩いていないのを見かけたなら、
もし万一、私がちゃんと話していないのを見かけたなら、
神様はまだ私を仕上げておられないのだということを、覚えていてね
神様が私を完成してくださったなら
私は主が望んでおられるようなひとになれるんですよ

 これは、’84年にジェシー・ジャクスンというアフリカ系アメリカ人の牧師(彼は自分を田舎の牧師と呼んでいました)が大統領選挙の民主党代表選挙に出て、敗れたときの演説の一部を題材にしてできた歌です。彼は、アフリ
カ系とユダヤ系住民が共に差別を受けたもの同士として親近感を演出しようと、ユダヤ系住民に使われる蔑称を使ったことであげ足を取られて問題になり、このことを謝る意味でこう発言しました、「このキャンペーン中に、もし
私が誰かの心を傷つける行動や言動をしたとしたら、どうか私の心を非難するのではなく、私の頭(能力)を非難してください。神様は私をまだ、完成されてはいないのですから。」
 親の権威の失墜とか、先生の権威の失墜が問題にされますが、私たちにできることは、神様の前にも、人々の前にも、正直に、そしてベストを尽くすことだけです。英語のことわざに
 ・Honesty is the best policy.(誠実こそが、最良の策)という言葉があります。十誡(出エジプト記20章)の9つ目にも、「汝、その隣に対して偽りの証を立つるなかれ。」とあります。これは国会からひとつひとつの企業や家庭や個人まで、日本の抱える問題を解決するキーワードのひとつですね。
 今日の聖書箇所は、「種蒔きの譬」です。この箇所を題材に、ミレーは「種を蒔く人」を描きました(そのうちの一枚が山梨美術館にあります)。また、絵本作家のエリック・カールは'A Very Tiny Seed'(とても小さな種)という絵本を描いています。マルコによる福音書4章には三つの種に関する譬がありますが、多くの学者が、これらの譬がイエスご自身が実際に言われたことにまでさかのぼると考えています。
 興味深いのは、4節から7節までの種は単数形で、「良い地に落ちた種」だけが複数形で書かれています。「聞け」という、イエスの命令に従ったものの多くが、様々な障害を乗り越えて実を結び、福音が広がっていくことを語っているのでしょう。イエスの、私たちひとり一人に対する深い愛を感じます。切り捨てるためにではなく、私たちと共に歩むために来て下さったイエスの魂を感じることができます。
 この譬には、後に教会が表した解釈(14〜20節)がつけられています。
 また、この続きに、あと二つ「種」に関係する譬が出てきます。

*マルコによる福音書4章26〜29節

 また彼は言った、「神の王国とは次のようなものだ。すなわち、一人の人が大地に種を蒔き、夜寝て朝起きることをくり返していると、彼自身の知らない間に種は芽を出し、成長する。大地がおのずから実を結ぶのであって、まず
茎、次に穂、次にその穂の中に豊かな穀粒を造りなす。そして、実が収穫を許す時になるとすぐに鎌を入れる。刈り入れの時が来たからだ」。

*芥子種の譬:30〜32節

 また彼は言った、「私たちは、神の王国を何と同じであると言おうか、あるいはそれをどのような譬で表そうか。
それは次のような一粒の芥子種のようなものだ。すなわち、大地に蒔かれる時は大地の上のあらゆる種の中で最も小さいが、しかしいったん蒔かれると、芽を吹き、あらゆる野菜よりも大きくなり、巨大な枝を張る。そのため、その陰で、天の小鳥たちが巣を作りうるほどになる。

 これらは、いずれも「神の王国」とはどのようなものか、という問いかけに応えようとした譬です。1章15節の
「時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で(神を)信ぜよ」の後、はじめて神の王国について語っている部分です。「神の王国とは次のようなものだ。すなわち、一人の人が大地に種を蒔き、夜寝て朝
起きることをくり返していると、彼自身の知らない間に種は芽を出し、成長する。大地がおのずから実を結ぶ」
 イエスが教えてくださったことは、私たちが気づいている、いないにかかわらず、私たちひとり一人を常に招き続け、私たちひとり一人の戸口に立ってノックし続けていて下さいます。神の国は、まさにすぐそこ、手に届くところ
にある。素晴らしい福音ですね。

*ヨハネの黙示録3:19〜20

「私は、自分の愛する者たちをこそ、皆叱責し懲らしめる。だから、一所懸命になって、悔い改めよ。ほら、今ここで私は戸口に立って、戸を叩いている。もし、私の声を聞き、戸を開けるならば、私はその者のところに行って客となり、彼と一緒に食事をし、彼も私と一緒に食事をするであろう。」(小河陽訳)    


2002年8月18日



 「良い地に蒔かれた種」

*マルコによる福音書4章1〜9節

1.そして彼は再び、海辺で教え始めた。すると彼のもとに、おびただしい群衆が集まってくる。そのため彼は舟に乗り込んで座り、海上に出た。そしてすべての群衆は、海辺の陸地にいた。2.そこで彼は、彼らにさまざまの譬えを使
って多くのことを教え続けた。そして、その教えの中で彼らに言った、3.「聞け。見よ、種蒔く人が種を蒔きに出て行った。4.そして、種を蒔いているうちに、ある種は道端に落ちた。すると鳥たちがやって来て、それを食べてしま
った。5.ほかのある種は、土のあまりない石地の上に落ちた。そして土が深くないために、すぐに芽を出した。6.しかし太陽がのぼると、焼かれてしまい、根がないために枯れ果ててしまった。7.またほかのある種は茨の中に落ちた
。すると茨が出てきて、その種の息の根を止めてしまった。そして種は実を結ばなかった。8.またほかのいくつもの種は良い地に落ちた。すると、それらの種は芽を出し、成長しながら、実を結び続けるのだった。あるものは三十倍
。またあるものは六十倍、またあるものは百倍もの実をもたらし続けるのだった」。9.そして言った、「聞く耳ある者は聞け」。

§この世と神の国

 「9月11日」が、現代に住む私たちにとって特別な日になってしまいました。昨年の同時多発テロ事件からちょうど一年が経ち、世界は大きく変わってしまいました。私たちの多くが、このテロで亡くなった人たちやその家族に自分たちを重ね合わせて、この事件に思いをめぐらしてきました。
 今も、アメリカのジョージ・ブッシュ大統領は演説のなかで今も、自分たちを光の子らと呼び、闇の勢力に屈しないと言い続けています。テロとの闘いを口実に、イラク攻撃を実現しようとしています。そして、そのイラクでは、湾岸戦争で大量に使われた劣化ウラン弾の放射能にさらされ続けている人々が、ガンや白血病に冒されて苦しみ、奇形で生まれる子供達が激増しています。
 大量破壊兵器をどこの国よりもたくさん持っていて、どこの国よりも多く開発している非常に大きな国が、大量破壊兵器を持とうとすることを理由に小国に制裁を加える、というのは明らかに間違っていますが、圧倒的な力によってその論理を押し通してしまうというのがこの世の流れです。そして、正義の闘いをしている、という主張は、アメリカ国内では未だに多くの人々にアピールしています。
’63年のボブ・ディランの歌に、With God On Our Sideという歌がありました。その中に以下のような一節がありました。

でも、もう私たちは化学物質のチリでできた兵器を持っているよ
もし、それを撃つように強制されたら、俺たちは撃たなくては
ボタンをひとつ押すだけ、射程距離は世界中どこでも
でも、決して疑問を呈したりしないのさ、
神様がキミの側にいたらね   ('WITH GOD ON OUR SIDE'7番)

 偽預言者や偽キリストに対して警戒するようにと聖書にも書かれていますが(例:マルコによる福音書13:21〜22)この偽物にどうも人間は惑わされやすいようです。そして、アフガニスタンで実際起こっているように、アメリカのような、強大な力がもし自分たちにのしかかってきたら、そこにいる一般の人々はいったいどうすればいいのでしょうか。圧倒的な武器、理不尽な攻撃、圧倒的な政治力と支配。この状況を考えると、私たちが高橋秀良牧師とともにここ数年学んできた黙示思想が生まれる土壌がよくわかってきます。この世の価値観をひっくり返してしまう。強い者はわざわいで、弱くて虐げられている者こそが幸いなのだ、と考えてこの状況を理解する気持ちがよくわかります。そして、これはイエスご自身が私たちに与えてくださった福音を理解するためにも大変役立つ考え方です。

§種蒔きの譬

 さて、今日の聖書箇所は、前回に引き続き、「種蒔きの譬」です。この譬は、マルコによって、神の王国がどのようなものであるかを表した譬だと受け取られています。(10〜12節参照)「彼は、このような譬えを多く用いな
がら、人々の聞くことができる程度に応じて、彼らに御言葉を語るのであった。」と33節にあるように、譬は、もともとはわかりやすく、理解を助けるためにつかわれたものです。
 しかし、マルコによる福音書の書かれた時代の教会は、迫害を受けつつ、神の言葉を伸べ伝えて信者を増やそうと努力するなかで、選ばれた存在である自分たちと「外にいるあの者たち」(10〜12節)とをはっきり区別し、誰にでも分け隔てなく教えたイエスとは違って、選ばれた人にそっと教えるという、閉鎖的な性格がでてきます。

*マルコによる福音書4章10〜12節
 さて、彼だけになった時、十二人と一緒に彼のまわりにいた者たちはこれらの譬えについて彼にたずねた。すると彼は彼らに言った、「あなたたちには神の王国の奥義がすでに与えられている。しかし、外にいるあの者たちには、さまざまの譬えでそのすべてが示される。それは次のようになるためだ、
 彼らは見ることは見るが、認めない。
 また、聞くことは聞くが、悟らない。
 にもかかわらず彼らは立ち帰って、赦されることになるかも知れない」。


*マルコによる福音書4章33〜34節
 彼は、このような譬えを多く用いながら、人々の聞くことができる程度に応じて、彼らに御言葉を語るのであった。譬えなしには彼らに語らなかった。しかし自分の弟子たちには、人のいない時に、すべてを解き明かしてやるのであった。

 この33節と34節は、大分伝えようとしている内容が違いますね。
 では、4章1〜9節をもう一度読んでみましょう。
 この箇所は、イエスご自身が言われたことそのものまでさかのぼることができる言葉であろう、と多くの聖書学者が考えていますが、この譬によって、イエスがまさに何を言おうとしていたのかは、わからなくなってしまっている、マルコによる福音書の書かれた時点でもすでにわからなくなってしまっている、という見解でだいたい一致していますが、私たちは懸命にイエス様が何を私たちに伝えようとしたのかを考えていきます。
 13節〜20節にこの譬の解釈が書かれていますが、これはマルコによる福音書の教会が先の言葉に解釈をつけたものです。ダニエル書のような黙示文学のなかで、不可解な夢や幻に続いてその解釈が語られる、という形(ダニエル7:15〜参照)ができあがって、マルコもこの形式を取り入れたのでしょう。(新共同訳聖書注解参照)
 旧約聖書続編に、よく似た文章が出てきます。

「農夫が地に多くの種を蒔き、多くの苗を植えるが、時が来ても、蒔かれたものすべてが芽を出すわけでなく、植えられたものがすべて根づくわけでもない。それと同じく、この世に蒔かれた人々がすべて救われるわけではない」。
(第四エズラ書8章41節)

 
 イエスが言おうとしたのも、こういうことだったのでしょうか?

 ここで、種蒔きなど、2000年前のパレスチナの生活について考えてみましょう。この地域の文化が発達したのは、紀元前2000年期半ば頃までに、メソポタミア文明の影響、メソポタミアで確立された小麦の栽培方法や、パンの作り方などが入ってきたことが大きな理由です。ダビデから、現代のパレスチナ人の羊飼いの子や学生や労働者まで、お弁当の基本はパンとヒソプ入りの塩(と家ではオリーブ・オイル)ということは、お弁当の基本が確立されて4000年もそのままだということになります。
 種の蒔き方もきっとしっかり技術として確立していたことでしょう。「パレスチナでは、冬が雨季で、夏が乾期であるために、雨季の前の冬蒔きと雨季に続いて蒔く夏蒔きがある」(旧新約聖書大事典)冬蒔きでは小麦、大麦、栗、レンズ豆など、夏蒔きではひよこ豆(なんでもつけて食べるペースト状の食品、フムスの原料)、米、瓜など。「夏蒔きの場合は、事前に耕してよく準備し、畝を作って、その中へ種を蒔く。冬蒔きの場合は、耕してない畑に思い切り腕をひろげて種を蒔き、その後耕して土の中に入れる。」(ダルマン、大貫隆)作物を植えるエピソードは旧約聖書にも出てきます。「あなたの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。」(エレミヤ4:3b)当時は蒔いた種の7.5倍の収穫で平年作であったということですから、蒔く種も大切に、無駄にしないように注意していたのでしょうね。
 聖書学者の大貫隆はとても大切な指摘をしています。「マルコ福音書4章3〜8節のイエスの譬えは決して当時の農夫の種蒔きの標準型などではなく、むしろ、実際にはありそうもない点を少なからず含んでいると言わなければならない。それだけにますます印象的に浮かび上がってくるのは、貴重な種が無駄になることを気にしないこの農夫の気前よさ、損失の危険をあえて犯す意志、最後には巨大な実りがあるという楽天性、一言で言えば、非効率的行動である」。
 こう捉えると、この譬えがよりいきいきと聞こえてきますね。神様はどのような人にも分け隔てなく手を差し伸べてくださる。気づかれなくても、拒絶されても、手を差し伸べてくださる。
しかし、主の呼びかけにしっかり応えた者、良い地に蒔かれた種だけが実を結ぶ。この神の国、天の王国像は、

1.「ぶどう園の労働者たちとその主人の譬」(マタイによる福音書20)や
2. 「盛大な婚礼の譬」(ルカによる福音書14:15〜、マタイによる福音書22:1〜)と共通点がはっきり見られます。

2002年9月15日