*マルコによる福音書1章35〜45節 35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起き上がって出ていき、荒涼としたところへ行った。そしてそこで祈っていた。すると、シモンおよび彼と共にいた者たちがイエスの後を追って来て、彼を見つけた。そして彼に言う、 40 すると、彼のもとに一人のらい病人がやって来て、彼に乞い願い、ひれ伏して言う、「もしあなた様がお望みならば、清めていただけるのですが」。
§Love, Baby, Love サッカーのワールド・カップが行われているこの一ヶ月は、サッカーの話題一色になっているような感じです。ワールド・カップがはじまるころ、英語学園に通う小学生が、「ワールド・カップはじまるね。」というので、「そうだね、サッカー好きなの?」ときくと、「ううん。」と答えてその会話が終わる、ということが何度かありました。 「(社会を腐らせてしまうのは)悪い人々のひどい言葉や暴力的な行動ではなく、良い人々のぞっとするような沈黙と、うやむやな態度なのです。私たちの世代は、闇の子らの言葉や行動だけを悔い改めるのではなく、光の子らの恐 そして、ジャズ・ミュージシャンのルイ・アームストロングは、亡くなる少し前の70才の誕生日記念の録音で、このようなスピーチを残しています。 「あなたたち、若い人たちには、 私たちは家族や隣人を持ち、そして幸せなことに教会をも持っています。教会はもちろん、建物ではなく、神様に連なり、共に集まり、礼拝し、讃美する私たち、主にある兄弟姉妹、家族です。私たちの身の回りの世界から、主か
§「私は望む、清くされよ」 さて、この「らい病」と訳されているギリシャ語レプラは、ギリシャ語訳旧約聖書「70人訳」のレビ記で使われた、ヘブライ語「ツァーラアト」の訳語で、当時は穢れたものとされた皮膚疾患の総称だったとされています。私たちが「らい病」として知るハンセン病は、アレキサンダー大王の軍隊が当方からヘレニズム(ギリシャ)社会に紀元前4世紀に持ち帰ったという説が有力なので、レビ記が完成した時代はバビロン補囚の時代、紀元前6世紀ごろと考えられていますから、レビ記の時代には「ツァーラアト」にハンセン病は含まれていず、イエスの時代には含まれていたであろう、ということになります。
*レビ記13章40〜46節(山我哲雄訳) ある男の頭の毛が抜けて禿になっても、彼は浄い。もし彼の額から髪が抜けて彼が禿げた頭になっても、彼は浄い。しかし、もし後頭部や前頭部の禿げたところに赤みを帯びた白の病変が生じたならば、彼の後頭部や前頭部の禿げ
「らい病」の烙印を押されたら、人間としての社会生活、人生は終わってしまったことを意味していました。本人、あるいは先祖や家族が恐ろしい罪を犯した報いであると捉えられ、一般の人の同情もなかなか得られませんでした *6章11節 *13章9節 聖書を少しずつ読んでいって浮かび上がってくるイエス像には、こんなにもヴァラエティーがあるのか、とつくづく感じますね。しかし、聖書を読み、考 かくして私たちは、信仰によって義とされたので、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和な思いにひたされている。そのイエス・キリストを通して私たちは、信仰によって恵みへと至る路を獲得しているのであ |
*コリント人への第二の手紙 4章13〜18節 私は信じた。それゆえに私は語った、と書かれている言葉のように、同じ信仰の霊を持っているので、私たちもまた信じ、それゆえに語りもする。その際私たちは、主イエスを死者たちの中から起こした方は、イエスと共に私たち
§キリストとの出会い 今日は、松永晃子姉妹が洗礼を受けます。とても嬉しい日であります。私たちの教会と松永さんとの出会いは、4月のはじめに、ゴスペル・ミュージックを通じて出会った坂上さんや原さんたちに招かれて神田のオアシスにお話し 松永さんは、ずっと求め、戸を叩き続けておられたのですね。この時に新たにイエス・キリストとの出会いが与えられたのだそうです。とても嬉しいことですね。松永さんが神様に投げかけたかった質問は、なぜ、最愛の妹さんを原因不明の水の事故で失わなくてはならなかったのか、ということだと伺いました。愛する人との別れ、死別。これは私たちの人生の試練の中で最も大きな試練のひとつです。こういうことに遭遇した場合、私たちは「なぜ?」とい
*ヨハネによる福音書11章32〜35節 なぜ、イエスは「イエスは涙を流した」のかは大きな疑問です。しかし、他の奇跡のエピソードと同様に、悲しみへの深い共感があったのだろうと思います。イエス様は、このように悲しんでいる時にこそ、共にいて下さるかたで *「山の上の説教」の一部、マタイによる福音書5章3〜12節 幸いだ、乞食の心を持つ者たち(霊に於いて乞食である者たち/自分に誇り頼むも
では、このように、主イエスを受け入れた人々は、どうして洗礼を受けるのでしょうか。洗礼そのものは、古代の洪水を表しているといわれています。川が氾濫してすべてを飲み込み、その水が引いた後、その土地は新しく生まれ変わり、肥沃な土壌となります。新しく生まれ変わることを象徴しているのですね。 ガラテヤ人への手紙にとても美しい一節があります。 *ガラテヤ人への手紙3章27節
主の教え、主の愛に生きることを、パウロは、「キリストを着る」と表現しました。 *ローマ人への手紙13章9節・12〜14節 〜その他のどんな誡め(いましめ)も、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(cf.マタイ22:39)というこの言葉に要約されるからである。愛は隣人に対して悪を働くことはない。それゆえに愛は律法の満たされたものなのである。 松永さんは、JESUS IS THE ANSWERを特別な讃美のメッセージとして受け取りました。「イエスこそが答え」。妬みや憎しみではなく、愛を。暴力や権力でなく、愛を。力で押さえつけよう、とか、悔しいからやり返そうとか
*ローマ人への手紙5章1〜3節 かくして私たちは、信仰によって義とされたので、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和な思いにひたされている。そのイエス・キリストを通して私たちは、信仰によって恵みへと至る路を獲得しているのであり、今や私たちはその恵みの中に立ち、神の栄光に与る希望を誇っている。 |
*マルコによる福音書4章1〜9節 1.そして彼は再び、海辺で教え始めた。すると彼のもとに、おびただしい群衆が集まってくる。そのため彼は舟に乗り込んで座り、海上に出た。そしてすべての群衆は、海辺の陸地にいた。 §「言葉を学ぶ」ということ 近頃は非常に頻繁にメディアという言葉を耳にしますが、'media'は'medium'の複数形ですよね、媒体、すなわち、中間、間に入るもの、間を取り持つものということです。言葉は、人と人、社会と人とをつなぐ最大のメディアですね。そして、聖書は、神様と私たちをつなぐ非常に大切なメディアです。言葉を持たない、ということが考えられないほど恐ろしいことであるのと同時に、私たちにとっては、もし聖書がなかったら、というのも考えられないほど恐ろしいことです。
§種を蒔く人 ここまでは、私の英語の先生としてのお話でしたが、私たちの人生の中で、家族や隣人にしっかりとした信仰を伝える、ということを考えるとき、皆さんも同じようなストレスや壁にぶつかることと思います。福音の種蒔きをするときに、思い通りの成果があがらない、伝えたいことが真っ直ぐそのまま伝わらない。私だって未熟じゃないか。 I'm trying, Lord, trying to make a hundred でも、なかなか100点満点は難しいですね。そして、100点満点じゃないのに、100点満点を演じてしまったら、これもまた大きなつまずきです。これに対してPlease
Be Patient With Me(どうか、私を辛抱強く見守ってください)という歌があります。 If you should see me, I'm not walking right もし万一、私がちゃんと歩いていないのを見かけたなら、
これは、’84年にジェシー・ジャクスンというアフリカ系アメリカ人の牧師(彼は自分を田舎の牧師と呼んでいました)が大統領選挙の民主党代表選挙に出て、敗れたときの演説の一部を題材にしてできた歌です。彼は、アフリ *マルコによる福音書4章26〜29節 また彼は言った、「神の王国とは次のようなものだ。すなわち、一人の人が大地に種を蒔き、夜寝て朝起きることをくり返していると、彼自身の知らない間に種は芽を出し、成長する。大地がおのずから実を結ぶのであって、まず *芥子種の譬:30〜32節 また彼は言った、「私たちは、神の王国を何と同じであると言おうか、あるいはそれをどのような譬で表そうか。 これらは、いずれも「神の王国」とはどのようなものか、という問いかけに応えようとした譬です。1章15節の *ヨハネの黙示録3:19〜20 「私は、自分の愛する者たちをこそ、皆叱責し懲らしめる。だから、一所懸命になって、悔い改めよ。ほら、今ここで私は戸口に立って、戸を叩いている。もし、私の声を聞き、戸を開けるならば、私はその者のところに行って客となり、彼と一緒に食事をし、彼も私と一緒に食事をするであろう。」(小河陽訳) |
*マルコによる福音書4章1〜9節 1.そして彼は再び、海辺で教え始めた。すると彼のもとに、おびただしい群衆が集まってくる。そのため彼は舟に乗り込んで座り、海上に出た。そしてすべての群衆は、海辺の陸地にいた。2.そこで彼は、彼らにさまざまの譬えを使
§この世と神の国 「9月11日」が、現代に住む私たちにとって特別な日になってしまいました。昨年の同時多発テロ事件からちょうど一年が経ち、世界は大きく変わってしまいました。私たちの多くが、このテロで亡くなった人たちやその家族に自分たちを重ね合わせて、この事件に思いをめぐらしてきました。 でも、もう私たちは化学物質のチリでできた兵器を持っているよ 偽預言者や偽キリストに対して警戒するようにと聖書にも書かれていますが(例:マルコによる福音書13:21〜22)この偽物にどうも人間は惑わされやすいようです。そして、アフガニスタンで実際起こっているように、アメリカのような、強大な力がもし自分たちにのしかかってきたら、そこにいる一般の人々はいったいどうすればいいのでしょうか。圧倒的な武器、理不尽な攻撃、圧倒的な政治力と支配。この状況を考えると、私たちが高橋秀良牧師とともにここ数年学んできた黙示思想が生まれる土壌がよくわかってきます。この世の価値観をひっくり返してしまう。強い者はわざわいで、弱くて虐げられている者こそが幸いなのだ、と考えてこの状況を理解する気持ちがよくわかります。そして、これはイエスご自身が私たちに与えてくださった福音を理解するためにも大変役立つ考え方です。
§種蒔きの譬 さて、今日の聖書箇所は、前回に引き続き、「種蒔きの譬」です。この譬は、マルコによって、神の王国がどのようなものであるかを表した譬だと受け取られています。(10〜12節参照)「彼は、このような譬えを多く用いな *マルコによる福音書4章10〜12節 この33節と34節は、大分伝えようとしている内容が違いますね。 「農夫が地に多くの種を蒔き、多くの苗を植えるが、時が来ても、蒔かれたものすべてが芽を出すわけでなく、植えられたものがすべて根づくわけでもない。それと同じく、この世に蒔かれた人々がすべて救われるわけではない」。 ここで、種蒔きなど、2000年前のパレスチナの生活について考えてみましょう。この地域の文化が発達したのは、紀元前2000年期半ば頃までに、メソポタミア文明の影響、メソポタミアで確立された小麦の栽培方法や、パンの作り方などが入ってきたことが大きな理由です。ダビデから、現代のパレスチナ人の羊飼いの子や学生や労働者まで、お弁当の基本はパンとヒソプ入りの塩(と家ではオリーブ・オイル)ということは、お弁当の基本が確立されて4000年もそのままだということになります。
2002年9月15日 |