*説教と癒しの始め(マルコ1:21−28) 21:そして彼らはカファルナウムに入る。また、彼はすぐに安息日に会堂に入り、教え始めた。すると人々は、彼の教えに仰天し通しだった。なぜならば、彼は律法学者たちのようにではなく、権能ある者のように彼らを教え続けたからである。 §異文化、異時代を理解しようとすること 先月の第三日曜日は、ナイジェリアに帰国にするピーター・チュクウ兄弟の送別礼拝でした。ピーターは無事に帰国し、家族や親戚、そして近隣の人々に暖かく迎えられて、とても良い帰郷をすることができたそうです。先週は、会社の設立のための登記も終わり、新しいパスポートも取れたそうですから、再会も以外と早い時期に実現するかも知れませんね。皆さんのお祈りと友情とにとても感謝していると伝えて欲しい、とEメールに書かれていました。 §律法学者たちのようにではなく、権能ある者のように彼らを教え続けた 今日の聖書箇所は、大きくわけて3つにわけることができます。21−22節、23−26節、27−28節です。まず最初の21−22節は、イエスがカファルナウムのシナゴーグで教えている場面です。 「そして彼らはカファルナウムに入る。また、彼はすぐに安息日に会堂に入り、教え始めた。すると人々は、彼の教えに仰天し通しだった。なぜならば、彼は律法学者たちのようにではなく、権能ある者のように彼らを教え続けたか カファルナウム(ナホムの村)はガリラヤ湖の北にある漁村で、イエスが活動の拠点にしていた場所です。ナザレ出身のイエスが、ナザレではなく、この小さい村で活動をはじめた理由を、ルカによる福音書4章16節以下は、郷 「お前は、お前の隣人を愛するであろう、『そしてお前の敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せよ、そしてあなたたちを迫害する者のために祈れ。」 「アーメン、アーメン、あなたに言う。人は上から(天から/新たに)生まれなければ、神の王国に入ることはできない。 ヨハネによる福音書3:3 このイエスの姿勢は、人々には大変な驚きだったことでしょう。イエスの厳しくも澄んだ眼の視点が、私たちに希望を与え続けています。 「事実を事実としてありのままに見るときに、当然言うべきことが確信を持って生まれてくる。他者の権威にすがるのではなく、しかしまた自分の主観を絶対化するのでもなく、事実をありのままに見るが故にほかに言いようがない §癒しの伝説 「そして、すぐに彼らの会堂に穢れた霊に憑かれた一人の人がいて、叫びだして言った、『ナザレ人イエスよ、お前は俺たちと何の関係があるのだ。お前は俺たちを滅ぼしに来たのか。俺はお前が何者か知っているぞ、神の聖者だ』。そこでイエスは彼を叱りつけて言った、 イエスの癒しの伝説は、イエスの生前から伝説化して広がっていたようです。穢れた霊に憑かれた人の言葉は、列王記上17:18(「神の人よ、あなたは私とどんなかかわりがあるでしょうか。あなたは私の罪を思い起こさせ、 マルコによる福音書4章で、暴風に対してイエスが黙るように命令している場面がでていますが、これも同様の理由からです。 「すると激しい暴風が起こる。そして大波が舟の中まで襲って来始め、たちまち舟が水で満杯になるほどであった。しかしイエス自身は、ともの方で枕をして眠っていた。そこで彼らは彼を起こし、彼に言う、 マルコはこうした奇跡物語をなぜ積極的に取り入れ、この奇跡物語と、「権能を持った新しい教え」とを結びつけようとしたのでしょうか。「イエスの実際の活動と思想的な活動とが同一の次元にあって分かち難く結びついている 2002年2月17日 |
*マタイによる福音書5章3〜12節 Blessed are the poor in spirit 幸いだ、乞食の心を持つ者たち、
今日の聖書箇所は、「山の上の説教」から選びました。これから数ヶ月間、この山の上の説教を読み、聖書の学びを進めていきたいと思います。 「私は生まれてから今までで、ロシア人たちを嫌えるまでに成長しました。
§「幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。」 さて、平和についても、数々の考え方があります。パックス・ロマーナというのは、ローマの支配下に於ける平和、つまり、非常に大きな軍事力と国力を持った国の支配下で、隷属することによって得る平和。この価値観は、現在はパックス・アメリカーナ、アメリカの支配下に於ける平和、という考え方に引き継がれていきます。先日、ベトナム戦争の泥沼状態に悩んでいた当時の米国のニクソン大統領が、側近であったキッシンジャー氏にベトナムでの核兵器の使用についての意見を求める会話のテープが公開されました。「核兵器の使用に何か問題でもあるのかい?抵抗を感じるかい?」結局、このときは幸い核兵器は使われませんでしたが、アメリカは今でも、こうした武器を交渉や取引を有利に運ぶために使っています。
*マタイによる福音書5章38〜42節 「目には対して目を、また歯に対しては歯をと言われたことは、あなたがたも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、悪人に手向かうな。むしろ、あなたの右の頬に平手打ちを加える者には、もう一方の頬をも向けてやれ。また、あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせてやれ。またあなたを徴用して、1ミリオン(千歩)行かせようとする者とは、一緒に2ミリオン行け。あなたに求める者には与えよ、そしてあなたから金を借りたいと思う者には背を向けるな。 この徴用とは、ローマ軍が、被支配地域の住民に、必要に応じて、強制労働を課すことです。これでは、腕力の世界の価値基準では、まったく勝ち目がなさそうですね。しかし、それどころか、暴力を使う種類の人々と全く同じ土俵に乗っていないのです。もう一カ所、マタイによる福音書26章50〜52節を読みましょう。これは、ゲッセマネの園で祈るイエスが、祭司長や律法学者らによって捕まってしまう場面です。 *マタイによる福音書26章50〜52節 そのとき、彼らは近寄り、イエスに手をかけ、彼を捕らえた。そこで、見よ、イエスと共にいた者たちの一人が、手を伸ばして自分の剣を抜いた。そして大祭司の僕を打ち、その片耳を切り落とした。 この『剣を取る者は、剣に滅びる』は、当時から、言われていた言葉であったろうということですが、心に残りますね。 *マタイによる福音書5章43〜45節 お前は、お前の隣人を愛するであろう、『そしてお前の敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せよ、そしてあなたたちを迫害する者のために祈れ。そうすればあなたたちは、天におられるあなたたちの父の子らとなるであろう。 私たちには、これらの言葉を味わうだけでなく、意味をよく考える、という課題が、神様から与えられています。 「あなたがたは目覚めていなさい。信仰において堅く立ちなさい。雄々しくありなさい。力強くありなさい。あなたがたのすべてのことが愛においてなされるようにしなさい。」 コリント人への第一の手紙16章13ー14節
2002年3月17日 |
*マタイによる福音書5章13〜16節 あなたたちは大地の塩である。しかしもしその塩が愚かにも味を失ってしまったら、何によって塩漬けされうるであろうか。もはや何の役に立たず、外に投げ棄てられ、人々に踏みつけられることになるだけであろう。 並行箇所:1.大地の塩:マルコ9:50,ルカ14:34-35
§「出会い」 先週の礼拝の折に、6年あまりにわたってこの教会に通われた張椿永兄が、5月のはじめに韓国に帰られること、そして、帰国する前に洗礼を受ける決心をされたことを伺いました。長年、共に礼拝を持ち、親しく交わった張さん と言ってくださっています。そして、主は、マタイによる福音書7章7〜8節で、 とも言ってくださいました。そして、私たちは長年にわたって求め続け、主が少しずつ、少しずつ答えを与えてくださる喜びを知るようになります。 そして、この教会と張さんが引き合わされたのも、主のAmazing
Grace(驚くべき恵み)です。私たちは、主の前に誠実に、謙虚に生きていくなら、他の人のようになる必要はありません。主に与えられた性格や、課題を持ちつつ、主が私たちを用いてくださいます。釜山においても、張さんの信仰によって新しく目が開かれる人が、きっと生まれることでしょう。 「たしかに、すべての者は火によって塩づけられるであろう。塩は良いものだ。しかし、塩気のないものになったなら、あなたたちは何によってそれを味つけるだろうか。だからあなたたちは、自分の中に塩を持ち、お互いに平和をなすがよい。」 「自分の中に塩を持ち、お互いに平和をなすがよい」というのは素晴らしいですね。この49節の最初の部分はとてもわかりにくいところです。 「あなたはまた、あなたのすべての穀物の供物の捧げ物に塩を加えなさい。あなたはあなたの神の契約の塩をあなたの穀物の供物の上から決して欠かしてはならない。」 塩(岩塩)は古代の代表的な保存料であることから、(永続する)友情や契約の徴を指します。一緒に食事をすることを、「塩を分け合う」という表現をしたそうです。一方、火は、悪いことや苦難を示し(ニュー・インタープリ 「あなたたちは大地の塩である。しかしもしその塩が愚かにも味を失ってしまったら、何によって塩漬けされうるであろうか。もはや何の役に立たず、外に投げ棄てられ、人々に踏みつけられることになるだけであろう。」 マタイによる福音書では、あなたたち(使徒達)が大地の塩である、と表現しています。マタイによる福音書はこの「大地(ゲース)」という言葉を、「大地に住む者達、人間」、「世界」という意味で用いていますので、使徒た 「あなたたちはこの世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 この春休みの間、毎月第三日曜ごとに共に礼拝し、讃美をしているゴスペル・ミュージックを愛する兄弟姉妹が所属しておられるトーキョー・ヴォイス・オヴ・プレイズと、坂上さんや原さんが指導しておられる川崎スターライツ・ゴスペル・クワイア、そして神田のオアシスのグループの練習に参加させていただきました。 「もしもある人がキリストのうちにあるのなら、その人は新しく創造された者なのである。古きものは過ぎ去った。 |
*マタイによる福音書5章13〜16節 あなたたちは大地の塩である。しかしもしその塩が愚かにも味を失ってしまったら、何によって塩漬けされうるであろうか。もはや何の役に立たず、外に投げ棄てられ、人々に踏みつけられることになるだけであろう。 §聖霊降臨日(ペンテコステ) *使徒行伝2章1〜14節
使徒行伝では、これを期に、イエスの十字架による死の後、立ち直れないでいた弟子達が、生まれ変わったかのように、力強く福音の伝道を開始します。私たちも、信仰生活にあって、聖書を読み、教会に通い、祈り、学ぶなかで、「あっ、わかった!」と叫びたくなるような、素晴らしい時が与えられます。まさに、いままでの自分とはもう違う、まったく新しくされる思いです。 *コリント人への第一の手紙13章4−7節
という言葉も、机上の、観念上の言葉から、生活の中で意味を実感する言葉に変えられてしまいました。 *「預言者」より、「子供たちについて」 あなたは子供たちに愛を注ぎこむことはできますが、あなたの考え方を注ぎ込むことはできません。彼らは、自分たちの考え方を持っているのですから。 あなたは、あなたの子供たちが、生きている矢として放つ弓。 親を、神様が子供という矢を飛ばすためにつかう弓にたとえたのも興味深かったですね。子供は親の持ち物ではなく、神様から預けられて、愛情を注ぎながら懸命に育てる。子供は神様から与えられた光を光らせて懸命に生きる。 Oh, this little light of mine, この私の小さな光を For God gave to us, 神様が私たちにくださったのですから
マタイによる福音書5章15、16節をお読みして、今日のお話しを終わります。 2002年5月19日 |