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「イエスの教えと癒し」

「平和を造り出す者たち」

「あなたたちはこの世の光である」

「世の光」



 「イエスの教えと癒し」

*説教と癒しの始め(マルコ1:21−28) 

 21:そして彼らはカファルナウムに入る。また、彼はすぐに安息日に会堂に入り、教え始めた。すると人々は、彼の教えに仰天し通しだった。なぜならば、彼は律法学者たちのようにではなく、権能ある者のように彼らを教え続けたからである。 
 23:そして、すぐに彼らの会堂に穢れた霊に憑かれた一人の人がいて、叫びだして言った、「ナザレ人イエスよ、お前は俺たちと何の関係があるのだ。お前は俺たちを滅ぼしに来たのか。俺はお前が何者か知っているぞ、神の聖者
だ」。そこでイエスは彼を叱りつけて言った、「口をつぐめ、この者から出ていけ」。すると穢れた霊はその人に引きつけを起こさせ、大声を挙げながら彼から出ていった。
 27:すると皆の者は肝をつぶし、論じ合って言った、「これはいったい何事だ。権能を持った新しい教えだ。彼が穢れた霊どもに言い付けると、霊どもですら彼に従うのだ」。そこで彼の噂はすぐにガリラヤ周辺の地一帯の、いたるところに広まった。                     佐藤研訳
並行箇所:ルカによる福音書4:31ー37節

§異文化、異時代を理解しようとすること

 先月の第三日曜日は、ナイジェリアに帰国にするピーター・チュクウ兄弟の送別礼拝でした。ピーターは無事に帰国し、家族や親戚、そして近隣の人々に暖かく迎えられて、とても良い帰郷をすることができたそうです。先週は、会社の設立のための登記も終わり、新しいパスポートも取れたそうですから、再会も以外と早い時期に実現するかも知れませんね。皆さんのお祈りと友情とにとても感謝していると伝えて欲しい、とEメールに書かれていました。
 さて、私がピーターと知り合った頃、彼の歴史的な時間に対する観念や、素朴で純粋な信仰に接し、大変大きなカルチャー・ショックを受けたことを昨日のことのように思い出します。自分が生まれる前はずっと昔なので、50年前と言われても、2000年前と言われても、ピンと来ない、お父さんが何才か、ということについても、昔は年を数える習慣がなかったからわからない、と言っていました。礼拝での聖書の学びの中で、紀元前の具体的な年号がでてきたりすると、いつも驚きの声を挙げていました。彼はなかなか賢いので、こうした歴史観や科学的なものの考え方の積み重ねが、産業や教育の発展にとって大変大きな意義を持っていることを感じ取っていました。
 また、聖書を読んでいると、聖書の中に入り込んで、今自分がその場面にまさにいるかのような読み方をします。奇跡もそのまま受け入れ、病気についても、信仰と祈りによってすべて文字通り治せると考えていたようです。
 私のテネシー州留学中にも、教会で病気の癒しを行っている場面に遭遇したことが何度かあります。牧師はお祈りをしながら、オリーヴ・オイルをつけた右手の平を、病気の人の額に押しつけ、気合いをいれると、多くの場合、その人は失神してしまいます。精神的な問題が根にある病気のいくらかは、こうした昔ながらのシャーマニズム的な癒しが効果的なのでしょう。そして、もう一つは、自分が治るんだ、良くなるんだ、という強い意志と暗示によって快方に向かっていく人々もいるようです。
 しかし、中には非常に極端な人々がいて、病院に行くことは、神が癒してくれることを信じないことだ、といって病院へ行くことを禁止するような人々もいるのは困ったものです。また、重い病気や障害を負った人やなかなか治らない人がいると、その人自身に原因を求めて「信仰が足りない」とか、何か罪を犯した報いだ、などと考えることは、全く間違っています。
 さて、今私たちが読んでいるマルコによる福音書には、病気の癒しや悪霊を追い出すエピソードがたくさん出てきます。イエスの奇跡の中の多くが病気の癒しです。今日は、この癒しのエピソードが、どうしてたくさんマルコによる福音書に取り上げられたか、ということについて考えていきたいと思います。

§律法学者たちのようにではなく、権能ある者のように彼らを教え続けた

 今日の聖書箇所は、大きくわけて3つにわけることができます。21−22節、23−26節、27−28節です。まず最初の21−22節は、イエスがカファルナウムのシナゴーグで教えている場面です。

「そして彼らはカファルナウムに入る。また、彼はすぐに安息日に会堂に入り、教え始めた。すると人々は、彼の教えに仰天し通しだった。なぜならば、彼は律法学者たちのようにではなく、権能ある者のように彼らを教え続けたか
らである。」マルコによる福音書1章21−22 

 カファルナウム(ナホムの村)はガリラヤ湖の北にある漁村で、イエスが活動の拠点にしていた場所です。ナザレ出身のイエスが、ナザレではなく、この小さい村で活動をはじめた理由を、ルカによる福音書4章16節以下は、郷
里で拒否されたイエスが命からがらカファルナウムにくだっていったエピソードが紹介しています。
 マルコによる福音書の特徴として、イエスが「教えた」こと、その教えに人々が「仰天し通し」だったことを繰り返し表現しているのにかかわらず、その教えの内容はあまり書かれていない、ということが挙げられます。その内容
は、15節の「時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」を「教え」の内容として読者が補って読むことを期待している(大貫隆)と捉えることができます。「律法学者たちのようにではなく、権能ある者のように彼らを教え続けた」については、律法学者たちが、過去の学者達の言葉を根拠に自分の説を正当化しようとする(「ラビ・ベンザカイはこういった...)のに対し、イエスは自分の言葉で力強く語っていることを示しています。例として、マタイによる福音書の「山の上の説教」の一部と、ヨハネによる福音書の一部を紹介します。

 「お前は、お前の隣人を愛するであろう、『そしてお前の敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せよ、そしてあなたたちを迫害する者のために祈れ。」
                   マタイによる福音書5:43ー44

 「アーメン、アーメン、あなたに言う。人は上から(天から/新たに)生まれなければ、神の王国に入ることはできない。 ヨハネによる福音書3:3

 このイエスの姿勢は、人々には大変な驚きだったことでしょう。イエスの厳しくも澄んだ眼の視点が、私たちに希望を与え続けています。

「事実を事実としてありのままに見るときに、当然言うべきことが確信を持って生まれてくる。他者の権威にすがるのではなく、しかしまた自分の主観を絶対化するのでもなく、事実をありのままに見るが故にほかに言いようがない
、という当然の確信なのである。イエスは『然りを然りとし、否を否とする』人である(マタイによる福音書5:37)」(田川健三)

§癒しの伝説

「そして、すぐに彼らの会堂に穢れた霊に憑かれた一人の人がいて、叫びだして言った、『ナザレ人イエスよ、お前は俺たちと何の関係があるのだ。お前は俺たちを滅ぼしに来たのか。俺はお前が何者か知っているぞ、神の聖者だ』。そこでイエスは彼を叱りつけて言った、
『口をつぐめ、この者から出ていけ』。すると穢れた霊はその人に引きつけを起こさせ、大声を挙げながら彼から出ていった。」

 イエスの癒しの伝説は、イエスの生前から伝説化して広がっていたようです。穢れた霊に憑かれた人の言葉は、列王記上17:18(「神の人よ、あなたは私とどんなかかわりがあるでしょうか。あなたは私の罪を思い起こさせ、
息子を死なせるために来られたのですか。」)を基に作られ、また、「神の聖者」は「ナジル人」(ナジル人は「ぶどう酒」を断ち、頭髪を剃らず、死体の汚れを避け、不浄の食べ物を摂取しないことを誓った。cf.民数記6章)を意訳したもので、ナザレ人イエスと、ナジル人をならべて語呂合わせにしているという説(E.シュヴァイツアー)が有力です。
 物語全体はヘレニズム世界の悪魔払い物語の定型パターン:
「悪霊が自分を祓おうとする神的霊能者をいちはやく嗅ぎ分け、その名を唱えることによって相手を支配しようとするのに対して、神的霊能者の側でもその悪霊の名前を呼び、沈黙を命ずるという、ヘレニズム世界の悪魔払い物語の定型パターン」(大貫隆)というのは、興味深いところです。

 マルコによる福音書4章で、暴風に対してイエスが黙るように命令している場面がでていますが、これも同様の理由からです。

「すると激しい暴風が起こる。そして大波が舟の中まで襲って来始め、たちまち舟が水で満杯になるほどであった。しかしイエス自身は、ともの方で枕をして眠っていた。そこで彼らは彼を起こし、彼に言う、
『先生、私たちが滅んでしまうというのに平気なのですか』。すると彼は起きあがり、風を叱り、海に命じた、『黙れ、口をつぐめ』。すると風は収まり、大きな凪が生じた。」マルコによる福音書4:37−39

 マルコはこうした奇跡物語をなぜ積極的に取り入れ、この奇跡物語と、「権能を持った新しい教え」とを結びつけようとしたのでしょうか。「イエスの実際の活動と思想的な活動とが同一の次元にあって分かち難く結びついている
、ということを言いたかったのであろう。」(田川健三)という説明はなかなか説得力があります。
 それまでの社会通念に囚われず、弱い者、虐げられたものに共感し、手を差し伸べて共に歩むイエスの姿を当時の伝説風にセンセイショナルに表現したマルコ。現代の私たちは、マルコの施した伝説の衣を着たイエス像から、実際のイエス像を追い求めます。
 そして、そこに浮かび上がってくるイエスの姿はさらにまばゆく、私たちの前に輝きます。
 
 

2002年2月17日

 「平和を造り出す者たち」

 

*マタイによる福音書5章3〜12節

Blessed are the poor in spirit
For theirs is the kingdom of heaven
Blessed are they that mourn
For they shall be comforted
Blessed are the meek and lowly
For they shall inherit the earth
Blessed are they, seekers after righteousness
Who are hungry and thirsty, they shall be filled
Blessed are the merciful
For they shall obtain mercy
Blessed are the pure in heart
They shall see God
Blessed are the peace makers
For they shall be called the Children of God
Blessed are they, which are beaten down
Who are persecuted for righteousness sake,
Theirs is the Kingdom of Heaven
Blessed are ye
When men shall revile you and persecute you
And shall say all manner of evil against you falsely for my sake
Rejoice and be exceedingly glad for great is your reward in Heaven
For so persecuted they the prophets which were before you

幸いだ、乞食の心を持つ者たち、
(霊に於いて乞食である者たち/自分に誇り頼むものが一切ない者の意)
   天の王国はその彼らのものである。
幸いだ、悲嘆にくれる者たち、その彼らこそ、慰められるであろう。
幸いだ、柔和な者たち、その彼らこそ、大地を継ぐであろう。
幸いだ、義に飢え渇く者たち、その彼らこそ、満ち足りるようにされるであろう。
幸いだ、憐れみ深い者たち、その彼らこそ、憐れみをうけるであろう。
幸いだ、心の清いものたち、その彼らこそ、神を見るであろう。
幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。
幸いだ、義のゆえに迫害されてきた者たち、天の王国は彼らのものである。
幸いだ、あなたたちは。人々が私のゆえにあなたたちを罵り、迫害し、あなたたち
に敵対して、あらゆる悪しきことを言うときは。
喜んでおれ、そして小踊りせよ、あなたたちの報いは天において多いからである。
実際、彼らは、あなたたち以前の預言者たちをも、そのように迫害したのである。
並行箇所:ルカによる福音書6章20〜23節
  佐藤研訳「新約聖書.マルコによる福音書/マタイによる福音書」岩波書店

 

 
§なぜ、戦争を起こす人々は、「神」を見方につけようとするのか

 今日の聖書箇所は、「山の上の説教」から選びました。これから数ヶ月間、この山の上の説教を読み、聖書の学びを進めていきたいと思います。
 昨年9月11日の同時多発テロ事件から半年が経ちました。この間、アメリカ主導のアフガニスタンの爆撃は未だに終わらず、難民問題も大変深刻になってしまいました。パレスチナとイスラエルの関係の問題も、テロと報復の悪循環がさらに加速して、問題は大きくなるばかりです。私たちの愛する主イエスが歩かれ、数々の教えと信仰の種を蒔いてくださったその地域で、2000年近く経った今も、平和が訪れていない、そして最も小さい者、虐げられている者たちが苦しみ、死の恐怖とともに生活している、というのはとても悲しいことです。和平を推進したイツハク・ラビン元首相は、当時「和平プロセスは、テロなどなかったように進めていく。テロに対しては和平プロセスなどなかったかのように、厳しく対応する。」という言葉を遺しています。この言葉には、テロと報復の悪循環を断ち切る強い意志と勇気があらわれています。しかし、今は、和平への道を、シャロン首相率いるイスラエルが、軍事行動を活発化することで閉ざしてしまっています。
 パレスチナに住む人々、戦場と化した町々に住む人々も、彼らの子供達も、アフガニスタンで家を追われた人々も、そこで寒さと、食料や薬品がないために死んで行かざるを得ない子供達も、私たちと同じように、神から生を受けた人間であることに変わりないはずなのにもかかわらず、現代の世界は、欧米や先進国の人の命は重く、そうでない国の人の命は軽く見がちです。
 アフガニスタンで軍事行動を続けているアメリカのブッシュ大統領のように、敵と味方をはっきり分け、自分たちの側に立たない者は悪だ、そして神と、神にある正義が自分たちの側のみにあるというような主張が、キリスト教とが大多数を占めるといわれる米国の世論にも受け入れられてしまうところに大きな問題を感じます。しかし、無邪気に遊び、私たちと同じ人間であるイスラムの子供達は、本当に悪でしょうか?ブッシュ大統領の戦争に反対する人々は悪でしょうか?
 ボブ・ディランというフォーク・シンガーが、’60年代のはじめに、'With God on Our Side'(神が私たちの側に付いていてくださるので)という歌で、戦争を、神や正義によって正当化しようとする姿勢を、皮肉を込めて批判しています。

「私は生まれてから今までで、ロシア人たちを嫌えるまでに成長しました。
また戦争が起きたら、私たちが戦わなくてはならない相手は彼らです。
彼らを憎み、恐れ、逃げ、隠れることを私たちは勇気を持って受け入れました。
神がわたしたちの側についてくださるのですから。」('With God On Our Side')


神を持ち出し、神の権威で自分達の主張をコーティングすることで、批判や、疑問を消し去ろうという意図を暴いていますね。
 今から30年ほど前、高校生だった頃、ゴスペル・ミュージックに触れ始めた頃に買ったクリスチャン・ロック・ミュージックのレコードで、こういう歌詞の歌に出会いました。「人々はもう、宗教について語り合いません。ただ主を讃美したいのです。」これでは、私たちは、ソクラテスが教えてくれたような、吟味する、ということがなくなってしまいます。しかし、宗教や民族主義を利用して人々の心の懐柔を図ろうとする人々は、私たちに隷属、盲信を求めようとします。
 「君が代」を押しつけようとする人々の同じようですね。しかし、これはイエスの福音によって目を開かれた私たちが選ぶ道ではありませんね。主イエスは、わた
したちが、人間社会の既成の規範や習慣ではなく、神が一体何を求めておられるのか、本当に大切なのは何か、を考えるようにしてくださいました。 
 イエスは、王様が偉かったり、金持ちが偉かったり、といったこの世の価値観を覆してしまわれました。「幸いだ、乞食の心を持つ者たち、天の王国はその彼らのものである。」最も小さい者たち、女性、子供たち、貧しい人々、謙虚な人々にとって、なんと勇気づけられることばでしょうか。
 ニグロ・スピリチュアルに、'I'd like to live the life I sing about in my
song'「私が歌の中で歌う通りの(主にある)人生を送りたいのです」という歌がありますが、それはとても純粋な心の動きでですね。

 

§「幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。」

 さて、平和についても、数々の考え方があります。パックス・ロマーナというのは、ローマの支配下に於ける平和、つまり、非常に大きな軍事力と国力を持った国の支配下で、隷属することによって得る平和。この価値観は、現在はパックス・アメリカーナ、アメリカの支配下に於ける平和、という考え方に引き継がれていきます。先日、ベトナム戦争の泥沼状態に悩んでいた当時の米国のニクソン大統領が、側近であったキッシンジャー氏にベトナムでの核兵器の使用についての意見を求める会話のテープが公開されました。「核兵器の使用に何か問題でもあるのかい?抵抗を感じるかい?」結局、このときは幸い核兵器は使われませんでしたが、アメリカは今でも、こうした武器を交渉や取引を有利に運ぶために使っています。
 アメリカ製の拳銃に、「ピース・メイカー」という名前のものがあります。銃の名前が「平和を造り出す者」とは!これは保安官の銃の恐怖による社会秩序の維持、ということでしょう。パックス・アメリカーナと同じ価値観ですね。
 しかし、イエスの平和には、武器は出番がないようです。マタイによる福音書5章38節以下を読んでみましょう。

 

*マタイによる福音書5章38〜42節

「目には対して目を、また歯に対しては歯をと言われたことは、あなたがたも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、悪人に手向かうな。むしろ、あなたの右の頬に平手打ちを加える者には、もう一方の頬をも向けてやれ。また、あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせてやれ。またあなたを徴用して、1ミリオン(千歩)行かせようとする者とは、一緒に2ミリオン行け。あなたに求める者には与えよ、そしてあなたから金を借りたいと思う者には背を向けるな。

 この徴用とは、ローマ軍が、被支配地域の住民に、必要に応じて、強制労働を課すことです。これでは、腕力の世界の価値基準では、まったく勝ち目がなさそうですね。しかし、それどころか、暴力を使う種類の人々と全く同じ土俵に乗っていないのです。もう一カ所、マタイによる福音書26章50〜52節を読みましょう。これは、ゲッセマネの園で祈るイエスが、祭司長や律法学者らによって捕まってしまう場面です。

*マタイによる福音書26章50〜52節

 そのとき、彼らは近寄り、イエスに手をかけ、彼を捕らえた。そこで、見よ、イエスと共にいた者たちの一人が、手を伸ばして自分の剣を抜いた。そして大祭司の僕を打ち、その片耳を切り落とした。
 そのときイエスは彼に言う、「あなたの剣をもとのところに収めよ。『剣を取る者は、剣に滅びる』からである。」

 この『剣を取る者は、剣に滅びる』は、当時から、言われていた言葉であったろうということですが、心に残りますね。
 主イエスの平和主義は徹底していて、さらに、驚くべき教えが続きます。

*マタイによる福音書5章43〜45節

 お前は、お前の隣人を愛するであろう、『そしてお前の敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せよ、そしてあなたたちを迫害する者のために祈れ。そうすればあなたたちは、天におられるあなたたちの父の子らとなるであろう。

 私たちには、これらの言葉を味わうだけでなく、意味をよく考える、という課題が、神様から与えられています。
そして、日々、求める者に、主は少しずつ、春の花が少しずつ咲いていくように、私たちに福音の意味を示してくださいます。
 コリント人への第一の手紙16章13節から14節をお読みします。

「あなたがたは目覚めていなさい。信仰において堅く立ちなさい。雄々しくありなさい。力強くありなさい。あなたがたのすべてのことが愛においてなされるようにしなさい。」 コリント人への第一の手紙16章13ー14節

 

2002年3月17日

 「あなたたちはこの世の光である」

*マタイによる福音書5章13〜16節

 あなたたちは大地の塩である。しかしもしその塩が愚かにも味を失ってしまったら、何によって塩漬けされうるであろうか。もはや何の役に立たず、外に投げ棄てられ、人々に踏みつけられることになるだけであろう。
 あなたたちはこの世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
 人々はともし火をともした後、それを枡の下に置きはしない。むしろ燭台の上に置く。そうすればそれは、家の中にいるすべてのものを照らすのである。このように、あなたたちの光が人々の前で輝くようにせよ。そうすれば彼ら
は、あなたたちの良い行ないを見て、天におられるあなたたちの父を讃(ほ)め称(たた)えるであろう。      佐藤研訳

並行箇所:1.大地の塩:マルコ9:50,ルカ14:34-35
2.世の光:マルコ4:21、ルカ8:16、11:33

 

§「出会い」

 先週の礼拝の折に、6年あまりにわたってこの教会に通われた張椿永兄が、5月のはじめに韓国に帰られること、そして、帰国する前に洗礼を受ける決心をされたことを伺いました。長年、共に礼拝を持ち、親しく交わった張さん
が釜山に帰られて、日曜日の朝ごとにお会いできなくなるのは、私たちにとってもとてもさびしいことですが、とても仲睦まじい奥様の崔さんや娘さんの宇淀さん、そして息子さんらのおられる故郷へ帰られるということを想うと、自分のことのように嬉しく思います。
 そして、今日、このお話しの後に、高橋秀良牧師より洗礼を受けられます。私たちの心の思いとしては、張さんはずっと以前から敬愛する主にある兄弟でしたが、この教会で洗礼を受ける決心をされたということは、私たちにとっても特別に嬉しいことです。
 張さんがこの教会に来られたのは、語学留学で来日しておられた娘さんが、日本語の勉強のために日本の教会に通いたいというので、この教会を見つけ、ひとりで出席するのは心細いという娘さんと一緒に出席されたのがはじめでした。宇淀さんが帰国した後、奥さんの崔さんも来日され、共に礼拝を持ちました。奥さんの韓国語の美しい響きのお祈りは、いまでも耳に残っています。張さんが、韓国や日本の文化や、歴史や、軍隊経験や、現代の様々なできごとについて話してくださった理知的で説得力のある語り口も、ユーモアたっぷりのお話しも、私たちはいつも懐かしく思いだすに違いありません。また、1月にナイジェリアに帰ってビジネスマンになったピーター兄弟も、張さんを尊敬していて、彼の設立した会社の名前に張さんの名前を加えたほどです。
 さて、話しは変わって、教会ですが、教会にも様々なタイプの教会があります。カトリックにプロテスタント、そしてプロテスタントの教会の中でも、それぞれの教会の個性は様々です。この教会は、といえば、とても家庭的な小さな教会です。そして、聖書を、近代、現代の聖書研究の成果を踏まえて、しっかり読んでいく。疑問点、矛盾点もしっかり捉えて吟味し、主イエスの福音の本質に迫ろう、という姿勢を持つようになりました。護教的な姿勢がないことや、様々な信仰の背景を持つひとびとが一緒に礼拝できる、自由(リベラル)な雰囲気も特徴だと思います。毎月第一日曜日の聖餐式では、希望する人はだれでも聖餐を受けられますし、礼拝の間に献金袋もまわってきません。
 わからないことがある人を、信仰が足りない、と捉えることもありません。聖書の研究では、わからないことだらけです。人生の道のりでも、どう考えて良いかわからないことだらけです。主の助けが必要なこと、主にある兄弟姉妹のアドヴァイスや支えが必要なことを恥じることは必要ありません。イエスはマタイによる福音書で、
「丈夫な者に医者はいらない、いるのは病んでいる者である。そこで、行って、私の望むのは憐れみであって、犠牲ではない(ホセア書6章6節参照)ということが何であるか学んで来い。なぜなら、私は義人どもを呼ぶためではなく、罪人たちを呼ぶために来たのである。」(マタイによる福音書9章12節)

と言ってくださっています。そして、主は、マタイによる福音書7章7〜8節で、
「求めよ、そうすればあなたたちに与えられるであろう。探せ、そうすればあなたたちは見いだすであろう。叩け、そうすればあなたたちは開けてもらえるであろう。なぜなら、すべて求める者は手に入れ、また探す者は見いだし、また叩くものは開けてもらえるだろうからである。」(マタイによる福音書7章7〜8節)

とも言ってくださいました。そして、私たちは長年にわたって求め続け、主が少しずつ、少しずつ答えを与えてくださる喜びを知るようになります。
 私たち一人ひとりが、神様に個性や、それぞれの課題や指名を与えてくださっているのと同じように、この教会も、長い歴史の中で、主の導きによって、今のような性格を持つようになりました。

 
§「あなたたちは大地の塩である。」

 そして、この教会と張さんが引き合わされたのも、主のAmazing Grace(驚くべき恵み)です。私たちは、主の前に誠実に、謙虚に生きていくなら、他の人のようになる必要はありません。主に与えられた性格や、課題を持ちつつ、主が私たちを用いてくださいます。釜山においても、張さんの信仰によって新しく目が開かれる人が、きっと生まれることでしょう。
 今日お読みした聖書箇所と同じように「塩」が出てくる、マルコによる福音書9章49〜50節をお読みします。

 「たしかに、すべての者は火によって塩づけられるであろう。塩は良いものだ。しかし、塩気のないものになったなら、あなたたちは何によってそれを味つけるだろうか。だからあなたたちは、自分の中に塩を持ち、お互いに平和をなすがよい。」

 「自分の中に塩を持ち、お互いに平和をなすがよい」というのは素晴らしいですね。この49節の最初の部分はとてもわかりにくいところです。
「すべての者は火によって塩づけられるであろう。」の背景にはレビ記2章13節が
あります。(佐藤研、山我哲雄)これは、神様への供え物について記したものです。

「あなたはまた、あなたのすべての穀物の供物の捧げ物に塩を加えなさい。あなたはあなたの神の契約の塩をあなたの穀物の供物の上から決して欠かしてはならない。」

 塩(岩塩)は古代の代表的な保存料であることから、(永続する)友情や契約の徴を指します。一緒に食事をすることを、「塩を分け合う」という表現をしたそうです。一方、火は、悪いことや苦難を示し(ニュー・インタープリ
ターズ・バイブル)、49節は、苦難を通して主の契約が与えられる、という意味で捉えることができるかもしれません。これを頭に入れて先ほどの50節を読むと、大分味わいが深まりますね。
 「幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう」(マタイによる福音書5章9節)
 現在、イスラエル、ヨルダン川西岸地域は想像を遙かに超える暴力が蔓延しています。テロと軍隊。2000年前にはサマリア地方の一部であったジェニンでは、イスラエル軍が若い男性だけ家の中に残るように指示を出してから、街中を戦車と戦闘ヘリコプターからのミサイルで破壊し尽くした疑惑がもたれています。
『剣を取る者は、剣に滅びる』(マタイによる福音書26章52節)という言葉の通り、シャロン首相率いるイスラエル軍も、過剰な暴力の行使によって、滅びのへの道を降っているように思えます。イスラエル、パレスチナ双方にあって、平和を求めている人々、平和を造り出そうとしている人々、苦しみの中にある人々のためにお祈りいたしましょう。
 では、マタイによる福音書5章13節と比較してみましょう。

 「あなたたちは大地の塩である。しかしもしその塩が愚かにも味を失ってしまったら、何によって塩漬けされうるであろうか。もはや何の役に立たず、外に投げ棄てられ、人々に踏みつけられることになるだけであろう。」

 マタイによる福音書では、あなたたち(使徒達)が大地の塩である、と表現しています。マタイによる福音書はこの「大地(ゲース)」という言葉を、「大地に住む者達、人間」、「世界」という意味で用いていますので、使徒た
ちをこの世界に住む人たちに与えられた塩だ、という意味になります。そして、14〜16節の「世の光」に続き、同じメッセージを強調します。

 「あなたたちはこの世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
 人々はともし火をともした後、それを枡の下に置きはしない。むしろ燭台の上に置く。そうすればそれは、家の中にいるすべてのものを照らすのである。このように、あなたたちの光が人々の前で輝くようにせよ。そうすれば彼ら
は、あなたたちの良い行ないを見て、天におられるあなたたちの父を讃(ほ)め称(たた)えるであろう。」

 この春休みの間、毎月第三日曜ごとに共に礼拝し、讃美をしているゴスペル・ミュージックを愛する兄弟姉妹が所属しておられるトーキョー・ヴォイス・オヴ・プレイズと、坂上さんや原さんが指導しておられる川崎スターライツ・ゴスペル・クワイア、そして神田のオアシスのグループの練習に参加させていただきました。
 若い兄弟姉妹が、精一杯讃美の指導をすると同時に、メンバーの人々の魂を導こうと、懸命に努力し、悩み、話し合い、祈っておられる姿を目の当たりにして、とても感銘を受けました。そして、練習の参加者の多くが、とても純粋に神様を求めていることにも、感激しました。主は、ここでも素晴らしい出会いを下さいました。
 「あなたたちはこの世の光である。」私たちは、キリストの福音に触れ、一人ひとりが神様に新しくされます。そして、主にある兄弟姉妹が、世界中にいて、主イエスのブドウの木につながっているということは、素晴らしいですね。最後にコリント人への第二の手紙5章17−18節をお読みして、お祈りいたします。

「もしもある人がキリストのうちにあるのなら、その人は新しく創造された者なのである。古きものは過ぎ去った。
見よ、新しくなってしまったのである。しかし、すべてのものは、キリストをとおして私たちをご自身に和解させ、そして私たちに和解のための奉仕を与えられた神からでている。」
    

 
2002年4月21日



 「世の光」

 

*マタイによる福音書5章13〜16節

 あなたたちは大地の塩である。しかしもしその塩が愚かにも味を失ってしまったら、何によって塩漬けされうるであろうか。もはや何の役に立たず、外に投げ棄てられ、人々に踏みつけられることになるだけであろう。
 あなたたちはこの世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
 人々はともし火をともした後、それを枡の下に置きはしない。むしろ燭台の上に置く。そうすればそれは、家の中にいるすべてのものを照らすのである。このように、あなたたちの光が人々の前で輝くようにせよ。そうすれば彼ら
は、あなたたちの良い行ないを見て、天におられるあなたたちの父を讃(ほ)め称(たた)えるであろう。           佐藤研訳

並行箇所:1.大地の塩:マルコ9:50,ルカ14:34-35
2.世の光:マルコ4:21、ルカ8:16、11:33
 
 

§聖霊降臨日(ペンテコステ)

 
 今日は聖霊降臨日、イエス・キリストの復活から数えて五十日目、ペンテコステです。ペンテコステ(五旬節)は「50番目」という意味で、ユダヤ教の「過越の祭りの安息日の翌日から満七週数えたその翌日すなわち五十日目に行われる(レビ記23:15〜16)」七週祭(出エジプト記34:22)という収穫祭の呼び名だった(荒井献)のが、弟子達の上に聖霊が降った、という使徒行伝2章に記されている事件を記念して、キリスト教の記念日になっています。

*使徒行伝2章1〜14節
 そして、五旬節の日が満ちて、皆の者が一団となって共に集まっていた。すると突然、烈風吹きすさぶがごとき音響が天から湧き起こって、彼らが座っていた家全体を満たした。また、火のごとき数々の舌が分かれて彼らに現れ、その一人一人の上にとどまった。すると、皆の者は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、異なる言葉で語り出した。
 さて、エルサレムには、天の下のあらゆる国々出身の信仰深いユダヤ人たちが住んでいたが、この音が起こったので大勢の人々が集まってきて、その一人一人が、自分の国の言葉で皆が話しているのを聞いて、あっけにとられた。
そこで彼らは驚き怪しんで言った、「見よ、話しているこの人たちは皆ガリラヤ人ではないか。それなのに、私たちがそれぞれ、私たちの生まれた国の言葉で聞くとは、いったいどういうことなのか。私たちはパルティア人とメディ
ア人とエラム人、またメソポタミア、ユダヤとカッパドキア、ポントスとアシア、フリュギアとパンフィリア、エジプトとリビア地方ーキュレネに沿うーに住む者、またここに寄留しているローマ人、ユダヤ人と改宗者、クレタ人とアラビア人なのに、あの人々が私たちの言葉で神の大いなる業を述べるのを聞くとは」皆の者は驚き、惑って、互いに語り合った。「これはいったい、どういうことなのだろう」。しかし、他の者どもはあざ笑って言った、「彼らは新酒に酔っているのだよ」。          荒井献訳

 

 使徒行伝では、これを期に、イエスの十字架による死の後、立ち直れないでいた弟子達が、生まれ変わったかのように、力強く福音の伝道を開始します。私たちも、信仰生活にあって、聖書を読み、教会に通い、祈り、学ぶなかで、「あっ、わかった!」と叫びたくなるような、素晴らしい時が与えられます。まさに、いままでの自分とはもう違う、まったく新しくされる思いです。
 さて、二年前のペンテコステの朝には、私たちの家族に、そしてこの教会に、新しい命があたえられました。その時生まれた香菜は、元気に育っています。この子が生まれた瞬間に、母となった妻も、父となった私も、いままでと
はまったく違う存在にされたことを感じました。大変大きな責任を背負ってしまったわけです。
 このように、イエス様のブドウの木につらなって、聖書の学びを謙虚に続けていると、人生のなかの様々なできごとをも生き抜く力が与えられます。

*コリント人への第一の手紙13章4−7節
 愛は--寛容であり、親切である--愛は。愛は妬まず、愛は自慢せず、高ぶらず、ふさわしくない振る舞いをせず、自分自身のものを求めず、苛立たず、悪しきことを企まず、不義を喜ばず、しかし真理を共に喜ぶ。愛はすべてを忍
び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。                         青野太潮訳

 

 という言葉も、机上の、観念上の言葉から、生活の中で意味を実感する言葉に変えられてしまいました。
 子供達はこの世界の光ですね。イースターの象徴のたまごのように、あふれんばかりの生命力や、未来への希望を体現しています。現在の日本は、経済的にも、時代の空気としても、とても元気がありませんが、その大きな理由のひとつは、子供が少ない、ということです。では、子供はどれくらい減っているのか?1955年(昭和30年)には、大人100人が50人の子供を育てていた、ということは、人口の3分の1が未成年者だった、ということになります。これが1999年になると大人100人が17人しか子供を育てていないのです。これは人口の約7分の1です。そして、この比率は減る一方です。これは大きな問題ですね。
 アメリカ英語の慣用表現で、When do you start a family?(あなたたちはいつファミリーをはじめるの?)という言い方があって、これは実際は、「子供はいつごろ欲しいの?」ときいているわけですが、結婚したり、start a familyする、ということがとても難しい、あるいはとても難しいと思わされてしまう社会には、やはり大きな問題がありますね。
 さて、子供達は大きな喜びをくれますが、その喜びの中に、寝る、起きる、食べ物を食べる、歩く、遊ぶ(活動をする)、人と接して特別な絆を築く、驚く、喜ぶ、悲しむというような生きることそのものの意味や喜びを私たちの心の中によみがえらせてくれるということがあります。
 ここに私が’80年代の後半に出会ったレバノンの詩人、カリール・ジブランの作品、「預言者」(至光社)があります。毎年アメリカへ夏休みホームステイ・トゥアーを引率していた頃で、私が滞在していた家の本棚から見つけて読み始めたら惹きつけられ、一気に読んだ思い出があります。この中で、「あなたは、あなたの子供のようになろうと努力することはできても、彼らをあなたのようにさせようとはできません。」という一節があって、理解できなかったことを記憶にとどめておりました。しかし、子供と接して、人間としてごく当たり前なこと、先に挙げた喜び、長年の生活の中で失っていたり、色あせていた感動や神様への感謝を新たに感じる心を与えられました。
 この「預言者」では、アームスタファという預言者が、愛する人々との別れに際し、促されるままに、彼らに最後の言葉を残します。その中で、赤ん坊を胸に抱いている女性が、子供達について話して、と頼む場面があります。その部分を訳したものをお読みします。

*「預言者」より、「子供たちについて」
あなたの子供たちは、あなたのものではありません。
彼らは、命、それ自身が追い求めている命が産んだ息子や娘たち。
あなたを通ってこの世に生まれてきます。
しかし、あなたから生まれ出たのではありません。
 
彼らはあなたと一緒にいても、あなたのものではありません。

あなたは子供たちに愛を注ぎこむことはできますが、あなたの考え方を注ぎ込むことはできません。彼らは、自分たちの考え方を持っているのですから。
あなたは彼らの身体をあなたの家に住まわせてあげることはできますが、彼らの魂を住まわせておくことはできません。
彼らの魂は、明日の家に住んでいるのですから。
そしてその明日の家には、あなたは行くことができません、たとえ夢の中でも。
彼らのようになろうと努力することはできても、彼らをあなたのようにさせようとはできません。命は、後ろへ戻っていくことはなく、昨日と共にとどまっていることはできないのですから。

あなたは、あなたの子供たちが、生きている矢として放つ弓。
その弓を射る方は、無限の道につけられた印を見て、
力一杯、主の矢が速く、遠くに富んでいけるように、弓であるあなたをしっかり引きます。
その弓を射る方が、あなたという弓を引くのを喜びとしましょう。
主は、飛んでいく矢を愛しておられるのと同じように、
ここから動かない、弓をも愛してくださっているのですから。

 親を、神様が子供という矢を飛ばすためにつかう弓にたとえたのも興味深かったですね。子供は親の持ち物ではなく、神様から預けられて、愛情を注ぎながら懸命に育てる。子供は神様から与えられた光を光らせて懸命に生きる。
アメリカの人種差別撤廃への運動、’50年代から’60年代までの公民権運動でよく歌われた、ニグロ・スピリチュアル、'This Little Light Of Mine'を思い起こします。
 

Oh, this little light of mine,     この私の小さな光を
I'm going to let it shine       私は輝かせます

For God gave to us,         神様が私たちにくださったのですから
we're going to let it shine      私たちは輝かせます

 

 マタイによる福音書5章15、16節をお読みして、今日のお話しを終わります。


人々はともし火をともした後、それを枡の下に置きはしない。むしろ燭台の上に置く。そうすればそれは、家の中にいるすべてのものを照らすのである。このように、あなたたちの光が人々の前で輝くようにせよ。そうすれば彼らは、あなたたちの良い行ないを見て、天におられるあなたたちの父を讃(ほ)め称(たた)えるであろう。 

2002年5月19日