§1.突然降りかかる災難 今年の今までのニュースを振り返ってみると、人の命がある日突然奪われる事件が非常に多かったことを感じます。通り魔殺人事件、小学校での無差別殺人事件、歩道橋の将棋倒し事件、えひめ丸事件、そしてワールド・トレード・センターなどの一連のテロ事件。そしてシャロン現イスラエル首相の愚かな行動によって引き起こされたパレスチナ紛争の中で命を落とした人々。それぞれ、恐ろしい一瞬を境に、今まで元気で普通の生活をし、(私たちの)父であり、母であり、夫であり、妻であり、子供であり、兄弟姉妹であり、祖父母であり、友人であり、隣人であった特別な存在だった人が、命を奪われて亡くなってしまうというのは、その本人や周囲の人々にどんなに大きな悲しみ、喪失感を与えてしまったか、ということを考えずにはいられません。
§2 「牧人のない羊のよう」 さて、今日のテキストのマルコによる福音書が成立したのは西暦66年〜70年の第一次ユダヤ反乱とエルサレム神殿の崩壊後という見方が多く、それ以前であるという意見もありますが、いずれにしても激動と社会不安の時代。エルサレム陥落後だとすると、ローマ軍によって国家が滅亡し、神殿を失い、エルサレムから追い出されたり、戦火によって住むところがなくなって、難民化した人々が多くいたことが考えられます。マルコによる福音書で語られるエピソードの中に、マルコによる福音書が書かれた当時の現在が描き込まれていると思われる部分をいくつか挙げます。 ・「さて、イエスは舟から出て来ると、多くの群衆を目にした。そこで、彼らに対して腸のちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人のない羊のようであったからである。」(マルコ6:34) まるで現在のパレスチナ人たちの状況のようですね。「牧人のいない」と言うことは、厳しい自然環境ではすぐに命の危険につながります。荒廃し、希望を失ってしまったような社会の現状を考えると日本の状況もまさに牧人のい まさに、苦難の時代状況が浮き彫りにされています。その中で、神の福音が読者に語られはじめるのが、マルコに §3 「時は満ちた」 ・さて、ヨハネが獄に引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来て、神の福音を宣べ伝えながら言った、「(定めの)時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。(マルコ1:14-15) バプテスマのヨハネは、宣教の場として、人々が普通に住んでいるところではなく、荒野を選んでいるのに対し、イエスは荒野から宣教のために人々が生活している地域に入っていくのは対照的です。 ・しかし、時が満ちたとき(時=クロノスの充満=プレーローマが到来したとき)、神は、一人の女から生まれ、律法のもとに生まれた自らの子を、送って下さった。(ガラテヤ4:4)(青野太潮訳)注:筆者 そして、次の「神の王国(支配)は近づいた。」これも現在完了形です。「目と鼻の先まで近づいてしまった」(佐藤研)あるいは、「神の国はもうここに来ている」すなわち「メシヤはすでに来られた」(山下次郎)と捉えるこ |
そしてイエスは、ガリラヤの海辺を歩きながら、シモンとシモンの弟アンドレアスとが海で網を打っているのを見た。彼らは漁師だったのである。そこでイエスは彼らに言った、「私の後について来なさい。そうすればあなたたち §1.平和を創り出す者 今日の聖書箇所は、イエスが伝道活動をはじめるにあたって、弟子達を集める場面です。シモンとシモンの兄弟アンドレアス、ゼベダイの子ヤコブとその弟のヨハネという弟子達の核となる二組の兄弟たちが、イエスの「私の後について来なさい。そうすればあなたたちを、人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」と言う言葉を受けて、主に従います。今日は、この箇所を考えていくと共に、主に従う、という意義についても考えていきたいと思います。 「あなたがたはかつて肉において異邦人であり...(中略)約束の根拠となる契約には無縁の外国人で、この世界で希望を持たず、無神者(注:神を持たない者)だった。 「和解」「平和」「赦し」「様々な文化や価値観を持った人たちが共に生きる」といった、今日の大きな課題の答えが与えられているような文章ですね。「敵意を倒壊させ」「ご自身において一つの新しき人に造り上げて平和を創 さて、この箇所には、このパウロの名によって書かれたエペソ人への手紙がコロサイ人への手紙と同様に、パウロではなく、第二パウロと呼ばれるパウロの後継者が書いたとされる根拠のひとつである、パウロとの明らかな考え方の違いがいくつか表れています。「垣根の隔壁」「掟の律法」というように、同じ意味の言葉を二つ重ねる文体や、「掟の律法を自らの肉において無効とする」という考え方、パウロが好んで使った表現、「兄弟達よ」がないことなどですが、もう一つパウロは神が和解の主体と考えていたのに対し、エペソではキリストが主体となっています(保坂高殿)。では、パウロが書いたコリント人への第二の手紙と読み比べてみましょう。 イエスに従うことによって、「新しくなってしまった」私たちは、この世の中の力の論理、数の論理とはかけ離れた価値観を持つことになります。本来なら、戦争を理解するなら、戦争自体を非難することでしょう。 §2 異文化間の相互理解の難しさの一例:二種類の時間の観念と歴史観 混迷の世界にあって、私たちには、先ほど聖書で読んだように、神との和解が必要なのと同時に、異文化間の相互理解、和解が必要です。
§3 「私の後について来なさい」 最初の聖書箇所にもどります、マルコによる福音書の1章16〜20節をもう一度読みましょう。 「この物語では、強制力を持つ言葉の奇蹟だけが働いている。この言葉に直面するや、ここには人間の自由な決断が実現するのか、または神の意志のみが王者の権威をもって支配するのかと問うことは無意味になってしまう。何故なら、この体験の特別さは、ここでこの二つが共存することにあるからである。神の声が命じ、人は正にその声に従うことによって全く自由になる。すなわち、窮極的には、彼が本来欲していたことをなすようになるからである。」 イエスによって、神によって、私たちは本当に進むべき道を与えられて、喜びのうちに人生の旅路を歩んでいくことが許されます。この旅路の道しるべとして、ガイドとして、神が私たちを導いてくださいます。この際、私たちが背景に持っている文化やしきたりに拘わらず、主が指し示してくださった道を歩いていくことができる喜び、これこそがイエスによって与えられた私たちの自由なのだと思います。 「アーメン、アーメン、あなたに言う。人は上から(新しく)生まれなければ、神の王国を見ることはできない」。 2001年11月25日 |
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