前のページに戻る



「時は満ちた」

「私の後について来なさい」



 「時は満ちた」


 *マルコによる福音書 1章14〜20節
 さて、ヨハネが獄に引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来て、神の福音を宣べ伝えながら言った、「定めの時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。
佐藤研訳

 
 

§1.突然降りかかる災難

 今年の今までのニュースを振り返ってみると、人の命がある日突然奪われる事件が非常に多かったことを感じます。通り魔殺人事件、小学校での無差別殺人事件、歩道橋の将棋倒し事件、えひめ丸事件、そしてワールド・トレード・センターなどの一連のテロ事件。そしてシャロン現イスラエル首相の愚かな行動によって引き起こされたパレスチナ紛争の中で命を落とした人々。それぞれ、恐ろしい一瞬を境に、今まで元気で普通の生活をし、(私たちの)父であり、母であり、夫であり、妻であり、子供であり、兄弟姉妹であり、祖父母であり、友人であり、隣人であった特別な存在だった人が、命を奪われて亡くなってしまうというのは、その本人や周囲の人々にどんなに大きな悲しみ、喪失感を与えてしまったか、ということを考えずにはいられません。
 私が好んでよく聴いている’50年代、60年代のゴスペル音楽には、「死
」をテーマにした歌が数多くあります。そのほとんどが、天国での母との再会、その後の父や兄弟、友人達との再会、そしてイエスに直接会って話をする
、そしてもう、別れの苦しみを味わうことがない、という望みが歌われていました。これは、度重なる戦争で友人や肉親を数多く亡くした民衆の経験に基づくものです。19世紀から20世紀のはじめまでのニグロ・スピリチュアル
(黒人霊歌)では「天国へ行く」ことは、現世からの解放、自由を意味していたのと比べると、明らかに人の死を巡る人々の関心が移り変わっていることが表われています。人の魂が消えて亡くならずに(魂は死なず)、天国に残り
、そこで再会を果たすことができるという希望を強く持つに至る人々の心の動きがよくわかります。
 そしてもうひとつ、私たちの多くは、’90年代以降の世界の急速な民族主義の台頭と右傾化を心配し、憂いていますが、今回の同時多発テロ事件以降、これも急速に良くない方向に進んで行っているようです。ジョージ・ブッシ
ュ大統領に同調しない者は、テロリストの側につく者だ、といった表現、そしてアーミテージの「国旗を見せろ」発言、小泉首相をはじめとする与党による強引な、自衛隊派遣法案(テロ対策特別措置法案)の衆議院通過が良い例で
す。朝日新聞の漫画に小泉首相を揶揄して「新釈日本国憲法・私が日本国憲法だ」とありましたが、あまりにもピッタリでしたね。英国でも「反テロ法案」が準備されていますが、固定観念によって、特定の宗教や民族を差別するこ
とを防ぐことに重点を置き、「宗教的憎しみをあおることを禁じる」内容も含まれているということですが、これもなかなか難しく、おかしいことを指摘したり、批判することも難しくなりかねないという危険もはらんでいるようで
す。
 融和や相互理解、理性的な思考、そして平和。これらの実現が大変難しい時代に私たちは生きています。相互理解はとても大切ですが、相手の考えをそのまま鵜呑みにすることではありません。お互い存在を認め合いつつ、しっかり問題を吟味し、批判すべきところはお互いに批判し合って、個人も社会も良く変わっていくのが望ましいありかただと思います。他の人たちも自分たちも同じように、素晴らしいところは認め、間違っているところは指摘し、その吟味の目が同じように向けることができれば(科学的思考態度)、護教的な反動政策や民族による差別などは全くつまらない事と認識されるようになるはずです。教育者の林竹二は「学ぶことは変わること」であると、繰り返し説かれました。あることを学び取ったなら、もうそれまでの自分とは変わることが大切なのです。神の愛、キリストの福音に触れた者は、最早以前とは変えられてしまい、新しい命を与えられています。変わらずにはいられないという経験は素晴らしいものです。

 

§2 「牧人のない羊のよう」

 さて、今日のテキストのマルコによる福音書が成立したのは西暦66年〜70年の第一次ユダヤ反乱とエルサレム神殿の崩壊後という見方が多く、それ以前であるという意見もありますが、いずれにしても激動と社会不安の時代。エルサレム陥落後だとすると、ローマ軍によって国家が滅亡し、神殿を失い、エルサレムから追い出されたり、戦火によって住むところがなくなって、難民化した人々が多くいたことが考えられます。マルコによる福音書で語られるエピソードの中に、マルコによる福音書が書かれた当時の現在が描き込まれていると思われる部分をいくつか挙げます。
 

・「さて、イエスは舟から出て来ると、多くの群衆を目にした。そこで、彼らに対して腸のちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人のない羊のようであったからである。」(マルコ6:34)
・「この群衆に対して私は腸のちぎれる想いがする。というのも、彼らは
もうこれで三日も私のもとにいるのだが、何も食べる物を持っていないのだ。...」(マルコ8:2〜)

 まるで現在のパレスチナ人たちの状況のようですね。「牧人のいない」と言うことは、厳しい自然環境ではすぐに命の危険につながります。荒廃し、希望を失ってしまったような社会の現状を考えると日本の状況もまさに牧人のい
ない羊のようですね。
 「腸のちぎれる想い」という表現は、愛情や憐れみの情が内蔵にあると思われていたことからくる表現で、「憐れむ、同情する」気持ちを表す言葉だそうです。
 以下は、神殿崩壊預言、神殿の丘にローマの王の像(偶像)が建てられることを表している部分、そして神殿崩壊を示唆する部分です。

 
・さて、イエスが神殿から出て行く時、彼の弟子たちの一人が彼に言う、「先
生、ご覧なさい、なんという石、なんという建物でしょう」。するとイエスは彼に言った、「あなたには、これらの巨大な建物が目に入るのか。ここで崩されることなくほかの石の上に残される石は、一つたりともないであろう」。(マルコ13:1〜2)
・さて、あなたたちは、荒らす忌むべきものが立ってはならぬところに立ったのを見る時 ー読む者は悟れー、そのとき、ユダヤにいる者たちは山に逃れよ。(マルコ13:14)
・すると神殿の幕が上から下まで、真っ二つに裂けた。(マルコ15:38)

 まさに、苦難の時代状況が浮き彫りにされています。その中で、神の福音が読者に語られはじめるのが、マルコに
よる福音書の序文の締めくくりと解される1章14〜15節のガリラヤ伝道開始宣言です。

§3 「時は満ちた」

・さて、ヨハネが獄に引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来て、神の福音を宣べ伝えながら言った、「(定めの)時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。(マルコ1:14-15)

 バプテスマのヨハネは、宣教の場として、人々が普通に住んでいるところではなく、荒野を選んでいるのに対し、イエスは荒野から宣教のために人々が生活している地域に入っていくのは対照的です。
 そして短く、歯切れ良く、力強い宣言、「(定めの)時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。
 「時」は、「量的・線分的時間を表す」時:クロノスではなく、ここではカイロス:「時の点を表す」(大貫隆)
流れる時からは区別された救済の時をさし、「時は満ちた」は現在完了形なので、終末的な「救いの時が成就した」(E.シュヴァイツァー)と捉えます。この「満ちる・充満する」という意味のプレーローマは、グノーシス主義で、「神的存在によって満たされた超越的な光の世界を表現するため」(ナグハマディー文書用語解説より)に使われる単語です。
 さて、「救いの時が成就した」という言葉は、救い主の到来を待ち、救いの時が来るのを待つユダヤ教の中では大変ショッキングな言葉であったに違いありません。
 パウロは、カイロスの部分をクロノス(巡ってくる時)としてガラテヤ書でよく似た表現をしています。

・しかし、時が満ちたとき(時=クロノスの充満=プレーローマが到来したとき)、神は、一人の女から生まれ、律法のもとに生まれた自らの子を、送って下さった。(ガラテヤ4:4)(青野太潮訳)注:筆者

 そして、次の「神の王国(支配)は近づいた。」これも現在完了形です。「目と鼻の先まで近づいてしまった」(佐藤研)あるいは、「神の国はもうここに来ている」すなわち「メシヤはすでに来られた」(山下次郎)と捉えるこ
とができます。「メシヤはすでに来られた」とするなら、マルコの世界へのメッセージ、イエスがメシヤで、もう救い主は来られたのだと宣言していることになります。さて、当時からのユダヤ人社会が待ちわびていた救い主は、こ
の世で王となり、指導者となって、征服者をうち倒してよりよい社会を造ってくれる人でしたが、イエスは、この世に神の支配(王国)が打ち立てられると言うのではなく、「人が神の国に入るという言い方を、しばしば用いておら
れる。つまり、神の支配は、人がその中に入っていくことができる空間、もしくは勢力圏のようなものと考えられている」(山下次郎)ことがユニークな点です。
 マタイによる福音書3章1節でのヨハネの「回心せよ。天の王国が近づいたから」の趣旨は回心という条件の後に天の王国があるのですが、マルコのイエスの発言にはそのような制約はなく、無条件に「神の国はもうここに来てい
る」と神の国が私たちに開かれていることも大切な点です。これは民族も身分も性別も年齢もまったく分け隔てなく接したイエスらしい特徴です。
 それは、15節の締めくくり、「回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」がマルコによる編集句であるとする研究と調和します。マルコは1章1節「神の子イエス・キリストの福音の源(はじまり)」とこの15節で挟んで序文を構
成しています。
 ここで訳文が「福音を信ぜよ」ではなく、「福音の中で信ぜよ」となっているのは、福音を、「神の国」と同様に、人が入っていくことができる空間のように捉え、その中にいて、神に(イエスに)全幅の信頼をよせていなさい、
と読むという意見によるものです。
 この混乱と混沌の世界に住みつつも、一般世間、競争社会、闘争社会の価値観とは全くかけ離れた、主による愛と平和の福音の中で、神により頼んで生きられることは、素晴らしいことですね。
 
2001年10月21日 

 「私の後について来なさい」


 *マルコによる福音書1:16−20

 そしてイエスは、ガリラヤの海辺を歩きながら、シモンとシモンの弟アンドレアスとが海で網を打っているのを見た。彼らは漁師だったのである。そこでイエスは彼らに言った、「私の後について来なさい。そうすればあなたたち
を、人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」。そこで彼らはすぐに網を捨て、彼に従った。
 また少し進んでいくと、彼はゼベダイの子ヤコブとその弟のヨハネを見た。その彼らは、舟の中で網を繕っているところであった。そこで彼はすぐに彼らを呼んだ。すると彼らは、その父ゼベダイを雇い人たちと共に舟の中に置き
去りにして、彼の後について行った。
    佐藤研訳
並行箇所:マタイによる福音書4:18ー22、ルカによる福音書 5:1ー11節

§1.平和を創り出す者
 

 今日の聖書箇所は、イエスが伝道活動をはじめるにあたって、弟子達を集める場面です。シモンとシモンの兄弟アンドレアス、ゼベダイの子ヤコブとその弟のヨハネという弟子達の核となる二組の兄弟たちが、イエスの「私の後について来なさい。そうすればあなたたちを、人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」と言う言葉を受けて、主に従います。今日は、この箇所を考えていくと共に、主に従う、という意義についても考えていきたいと思います。
 先日、テレビのニュースに、作家の大江健三郎氏がでていました。そこで彼が若者達に伝えたい言葉として挙げていた中に、「新しい人」がありました。大江氏は、それを聖書のエペソ(エフェソ)人への手紙から採ったパウロの
言葉として紹介していました。偏見や従来の価値観や社会のシステムに縛られた不自由な人間たちが、解き放たれて、新しい世界を作り出していくような業に取り組んでいくような、希望に満ちた人々になって欲しい、という彼の願
いには共感いたします。では、この「新しい人」は、エペソ人への手紙でどのように描かれているのでしょうか。

 「あなたがたはかつて肉において異邦人であり...(中略)約束の根拠となる契約には無縁の外国人で、この世界で希望を持たず、無神者(注:神を持たない者)だった。
 しかし今ではキリスト・イエスにおいて、あなたがた、かつて遠くにいた人々はキリストの血によって近い者となった。事実、キリストは私たちの平和であり、(ユダヤ人と異邦人)両者を一にし、垣根の隔壁を、つまり敵意を倒
壊させた方である、もろもろの戒律の総体であるであるもろもろの掟の律法を自らの肉において無効とすることによって。二人の人をご自身において一つの新しき人に造り上げて平和を創出し、両者を一つの体において十字架を通し
て神と和解させ、こうしてご自身において敵意を抹殺するために。」
          ー エフェソ人への手紙2:11−16(保坂高殿訳)

 
 

 「和解」「平和」「赦し」「様々な文化や価値観を持った人たちが共に生きる」といった、今日の大きな課題の答えが与えられているような文章ですね。「敵意を倒壊させ」「ご自身において一つの新しき人に造り上げて平和を創
出」する、というのは大変大きな思想です。文章は大分理屈っぽくなっているものの、福音書を通して私たちに語りかけてくださるイエスの姿としっかり重なります:「幸いだ、平和を造り出す者たち」(マタイによる福音書5:3
〜)「あなたたちの敵を愛せよ、そしてあなたたちを迫害する者たちのために祈れ」(マタイによる福音書5:43〜)。
 先日、親しいアメリカ人のクリスチャンが、ブッシュ大統領を「真のクリスチャン」だ、と語るのを聞いて、大きなショックを受けました。私には、ブッシュ大統領が、いままで述べてきたようなイエスの価値観を共有してるとは全く思えません。私の日頃の関心のひとつは、「なせ同じ聖書を読み、同じようにイエス・キリストに従っていこうとする人々にこうも違う価値観が生まれてくるのか」という問題です。現在までの私の理解は、その人達が好んで読む聖書箇所や解釈の上での考え方の偏りによるのだろう、ということですが、ここでも自分たちの考えをしっかり吟味して、主に修正していただこう、という謙虚な姿勢が欠かせません。自分たちの考えにちょうど合いそうな言葉を聖書から見つけてきて自己正当化に使おうというなら、そういう人たちは間違っています。ブッシュ大統領のように、やられたらやり返す、という考えで敵意を増長してアメリカ国民を煽ったり、ラムズフェルド国防長官のようにビン・ラディンを「個人的には(生きて捕まえ、裁判にかけるのではなく)殺害するのが望ましい。」という考え方は、決して「真のクリスチャン」の言動や行動とは考えられません。

 さて、この箇所には、このパウロの名によって書かれたエペソ人への手紙がコロサイ人への手紙と同様に、パウロではなく、第二パウロと呼ばれるパウロの後継者が書いたとされる根拠のひとつである、パウロとの明らかな考え方の違いがいくつか表れています。「垣根の隔壁」「掟の律法」というように、同じ意味の言葉を二つ重ねる文体や、「掟の律法を自らの肉において無効とする」という考え方、パウロが好んで使った表現、「兄弟達よ」がないことなどですが、もう一つパウロは神が和解の主体と考えていたのに対し、エペソではキリストが主体となっています(保坂高殿)。では、パウロが書いたコリント人への第二の手紙と読み比べてみましょう。

 
 「もしもある人がキリストのうちにあるのなら、その人は新しく創造された者なのである。古きものは過ぎ去った。見よ、新しくなってしまったのである。しかし、すべてのものは、キリストをとおして私たちをご自身に和解させ
、そして私たちに和解のための奉仕を与えられた神からでている。」
         ー  コリント5:17−18

 イエスに従うことによって、「新しくなってしまった」私たちは、この世の中の力の論理、数の論理とはかけ離れた価値観を持つことになります。本来なら、戦争を理解するなら、戦争自体を非難することでしょう。
 戦争、という考え方になると、最早敵も味方も統計上の「数」でしかなくなってしまうことははっきりしています。兵器を開発するときにも、いかに効率よく相手を殺害するか、またはダメージを与えるか、に焦点がしぼられます。先日、アメリカ軍がアフガニスタンで「デイジー・カッター」という爆弾を使用したと聞きました。半径500メートルに燃料を噴霧し、一気に爆発させるため、その範囲にあるものはすべて焼き尽くし、それに伴って酸素も消費し尽くしてしまうために、穴や洞窟に隠れている人も生き残ることができないのだそうです。さて、それでは、核兵器や生物、化学兵器、そして地雷が非人道的な兵器で、このデイジーカッターは、「人道的な兵器」だなんていうことはあり得ません。兵器は殺傷目的に作られる運命を持って生まれた以上、「人道的な兵器」などというものはありません。
 以前、「DEATH RATIO(デス・レイショー)・戦死者数の経済効率」という言葉を聞いて、驚き、恐ろしい思いをしました。この戦争の効果を経済的に表そうとする統計用語は、敵と味方の軍隊の戦死者の割合を、それぞれの軍隊の軍人一人あたりを養成するのにかかる金額で比較し、投資に見合うようにするには、戦死者の割合は何対何であるのが望ましいか、ということを示すものだそうです。例えばA国の兵士を一人前に訓練するのに二千万円かかるとします、B国は二十万円。すると、A国の兵士ひとりがB国の兵士を百人殺すと採算が取れる、という考え方です。
恐ろしい考え方でですね。まさにひとり一人の人間は、数字に過ぎないのです。
 現実問題として、今日の国際社会において、軍隊を持たないという選択をするとすれば、それは大変危険であるというのも事実である反面、国に軍隊を持つということが、こういう考え方で運営するものの存在を許すということだ
、と言うのも事実です。
 
 

§2 異文化間の相互理解の難しさの一例:二種類の時間の観念と歴史観

 混迷の世界にあって、私たちには、先ほど聖書で読んだように、神との和解が必要なのと同時に、異文化間の相互理解、和解が必要です。
 先日、時間の観念と歴史観について、興味深い意見に触れました(Edward.T.Hall)。二種類の時間の観念と歴史観を持つ人々がいて、一方は、時間を一本の連続した線として捉える(monochronic)人々、他方は、数多くの
時間軸を同時に生きている(polychronic)人々がいて、それぞれが他方を理解することが難しいのです。前者のモノクロニックな人々は、連続した一本線の時間観念を持っていますから、千年前の戦争はその時代のもの、過去の出来事:今とは切り離してただ歴史の一コマとしてとらえ、9時に学校へ行き、3時に帰り、4時に友人に会う、といった時間で区切られたスケジュールを正確にこなしていきます。一方後者のポリクロニックな人々は、千年前の戦争といっても、それは自分が生まれる前ぐらいとほとんど区別がなく、その戦争の痛ましい記憶も、語り継がれて、祖父ぐらいがその災難にあったかのように、大きな同情を抱きます。パレスチナ人たちにとって十字軍の非道な行為は、七百年以上経っても身近なものであり続けます。また、例えば10時と12時にふたつの約束があったとしても、その最初の約束の人と盛り上がって話が進んだら12時の約束はどこへやら。3時間ぐらい遅れても、次の日になっても、約束の相手は驚きも怒りもせず、会えたことを普通に喜びます。約束の時間と、行動の時間という複数の時間の観念があるのです。
 こうした、時間に関する考え方、意識の違いだけを見ても、お互いが理解し合ったり、仲良く暮らしていくのは大変なことですね。しかし、エジプトのサダト元大統領や、イスラエルのラビン元首相などのように、難しい決断をして、過去の遺恨を断ち切り、平和の道を切りひらこうとする人々が生まれます。なぜこのように勇気ある決断、行動ができるのでしょうか。

 

§3 「私の後について来なさい」

 最初の聖書箇所にもどります、マルコによる福音書の1章16〜20節をもう一度読みましょう。
 非常に簡潔なこの物語で気がつくことは、シモンとアンドレアス、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの決断の早さです。しかし、当時の社会にあって、このようにあっさり家族や仕事を離れることは容易ではなかったはずです。当時の
家族像は「家(オイコス)」の経済でなりたっていて、主人を頂点に、妻や子供達が家業を手伝いますが、主な労働力は成人男性です。他にゼベダイは雇い人をも持っていて、日本の家族経営の会社のような形態をしていました。この家族から離れることは、本人が経済的な活動から切り離されるようになるのと同時に、家族も貴重な労働力失うことになります。
 それでも、イエスに従って行ったのはなぜなのでしょう。普通考えたらできないようなことをも、絶対的な引力を持ったイエスや神と出会うことによって変えられ、できるようになってしまう。これが神との「出会い」の力強さな
のだと思います。

 「この物語では、強制力を持つ言葉の奇蹟だけが働いている。この言葉に直面するや、ここには人間の自由な決断が実現するのか、または神の意志のみが王者の権威をもって支配するのかと問うことは無意味になってしまう。何故なら、この体験の特別さは、ここでこの二つが共存することにあるからである。神の声が命じ、人は正にその声に従うことによって全く自由になる。すなわち、窮極的には、彼が本来欲していたことをなすようになるからである。」
(ヘンヘン)

 イエスによって、神によって、私たちは本当に進むべき道を与えられて、喜びのうちに人生の旅路を歩んでいくことが許されます。この旅路の道しるべとして、ガイドとして、神が私たちを導いてくださいます。この際、私たちが背景に持っている文化やしきたりに拘わらず、主が指し示してくださった道を歩いていくことができる喜び、これこそがイエスによって与えられた私たちの自由なのだと思います。

「アーメン、アーメン、あなたに言う。人は上から(新しく)生まれなければ、神の王国を見ることはできない」。
ヨハネによる福音書3:3

2001年11月25日 




 教会原紙


 

 
 
 

 教会原紙