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「主なる神と私たち」

「ガリラヤ湖畔にて」

「主の道を備えよ」

「人はパンだけで生きるものではなく...」

 「主なる神と私たち」  高橋 誠


*エデンの園(その二) 創世記3章1〜24節

 神ヤハウェが造った野のあらゆる獣のなかで、蛇がもっとも賢かった。蛇は妻に言った、「園のどの木からも実を取って食べてはならない、などと神がおっしゃったとは」。妻は蛇に言った、「私たちは園のどの木の実でも食べて
良いのです。ただ園の中央にある木に実からは食べてはならない、これに触れてもならない、死ぬといけないから、と神は言われました」。蛇は妻に言った、「けっして死ぬことはないよ。実はね、あなたがたがそれを食べる日、あ
なたがたの目が開いて、あなたがたが神のように善悪を知るようになる、と神は知っておいでなのですよ」。
 妻が見ると、その木の実はいかにもおいしそうで、目の欲を誘っていた。その木はまた人を聡明(アールーム)にしてくれそうであった。そこで、彼女はその実を取って食べ、彼女と共にいた夫にも与えた。彼も食べた。すると二人に目が開かれ、彼らは自分たちが裸であること(エーローム)を知った。彼らはいちじくの葉をつなぎ合わせて自分たちで腰帯を造った。
 彼らは、その日の風が吹くころ、園を往き来する神ヤハウェの足音を聞いた。人とその妻は園の木々の間に身を隠した。神ヤハウェは、人に呼びかけて言った、「あなたはどこにいるか」。彼は言った、「園であなたの足音を聞き
、自分が裸なので、おそれて隠れたのです」。そこで神ヤハウェは言った、あなたが裸であると誰があなたに告げたのか。わたいが取って食べることを禁じた木から実を取って食べたのか」。人は言った、「あなたが私の伴侶にと与
えて下さった妻がその木から実を取って私に与えたので、私は食べました」。神ヤハウェは妻に言った、「あなたは何ということをしたのか」。彼女は言った、「蛇が私を欺いたのです。それで、私は食べました」。
 神ヤハウェは蛇に言った、
「このようなことをしたがゆえに、あらゆる家畜、野のあらゆる獣の中で、お前は最も呪われる。お前は、一生、腹ばいで歩き、塵を食らうであろう。
わたしはお前と女との間に、お前の子孫と彼女の子孫との間に敵意をおく。
彼はお前の頭を叩き砕き、お前は彼のかかとを噛み砕こう」。
妻に言った、
「わたしはあなたの労苦と身ごもりとを増し加える。苦労の中であなたは子を生む。あなたの想いはあなたの夫に向かい、彼があなたを治めるであろう」。
そして人に言った、
「あなたはあなたの妻の声に聞き従い、食べるな、とわたしが命じた木から取って食べた。大地はあなたのゆえに呪われるものとなった。あなたは、生涯、労苦のなかで食物を得ることになろう。あなたは大地に戻るまで、あなたは顔に汗して、食物を得ることになろう。あなたは大地から取られたのである。あなたは塵だから、塵に戻る」。
 人はその妻をエバと名づけた。彼女が生命あるものすべての母となったからである。神ヤハウェは人とその妻のために皮衣を造って、彼らに着せた。神ヤハウェは言った、「みよ、人はわれらの一人のように、善悪を知るようにな
った。いまにも彼は手をのばし、生命の木からも実を取って食べ、永遠に生きることになるかも知れない」。そこで神ヤハウェは人をエデンの園から連れだし、人がそこから取られた大地に仕えさせた。
 こうして、神ヤハウェは人を追放し、生命に木にいたる道を守るため、エデンの園の東にケルビムと揺れ動く剣の炎を置い       月本昭男訳

§傲りという大きな罪

 現在日本中の教育に関心を持つ人々の間で大きな問題になっている「新しい歴史教科書」、そして、様々な手段を使ってこの教科書を採択させようと動く議員たちからなる「教科書をよくする会」。このような教科書が採択されて
教育に使われる可能性があることに、大きな不安を感じている人たちはたくさんいます。そして、日本政府がかたくなに韓国と中国による訂正要求を拒み続けることによって、隣国との関係が危機的な状態にあることを、私たちは耐
えられない思いで見つめています。国旗国歌法が施行され、すべての18才に集団生活によるボランティア活動の義務化が見当されるなど、自由民主党を中心に大きく右傾化が進む中で、これは決して特殊な人たちの理解に苦しむ行
動ではすまされない問題です。
 また、この教科書に反対している人たち、記述のそこここに見え隠れする歴史認識の危険さに焦点を当てて、個々の問題点を指摘しています。これは大切なことですが、問題の根底にどんな問題があるのでしょうか。問題は、この教科書の著者が、検定前の白表紙版の「はじめに」のなかに、「歴史は科学ではない」と書いていることで明らかです。「歴史」を学ぶことは、科学以外ではありえません。科学でないならおとぎ話です。科学的な考え方、科学的研究態度を身につけることが、公教育では一番大切なことです。
 彼らが主張するように、学ぶべき歴史が、自分たちの一方的な考え方によって、自分の生まれた国や民族がどんなにすぐれていたか、素晴らしかったかを書き連ねて、自国や民族に誇りをもつということなら、それは誇りではなく、傲りだと言えましょう。こういう姿勢のどこが「新しい」のか、「よい」のか、不思議でなりません。文部科学省や日本政府の対応を含め、この傲りこそが大きな罪であることを、聖書を学ぶ私たちはよく知っています。(どんな
問題があるのかを、この教科書を買って読んでみようと思っている人には、これを買うことで経済的に彼らを支援してしまう代わりに、「歴史教科書 何が問題か・徹底検証Q&A(岩波書店)」を読むことをお勧めします。)
 地球規模で科学や研究がすすんでいくこの時代に、国(特に民族国家という考え方)とか、民族とか、そういう垣根は、もういりませんね。一人の人間として、その歴史上のできごとから何を学び取るか、これ以外に歴史を勉強す
る意味はありません。世界的に、社会科学としての歴史の研究・学習は、このように進んでいるので、もう後戻りはできないのです。
 earthling:アースリング(「地球に生きる者たち」、普通は「地球人」と訳す。「地の民」として差別的に使われる場合もある)という言葉を、アメリカの子供番組、セサミ・ストリートなどでよく聞くようになってからかなり経ちます。「地球人」という意味も越え、「地球に生きる者たち」という、人間だけでなく、動物や植物もあわせた表現が使われるようになっているなんて、おもしろいですね。
 さて、今日の聖書箇所は創世記3章、エデンの園からアダムとエバが追放される部分、です。この箇所は、文献批評学的研究で、ヤハウェ資料と呼ばれるもので、ダビデ、ソロモンの時代(紀元前10世紀)に成立したのではない
かと考えられていた、創世記の中でも古い資料です。近年、「ヤハウェ資料に窺われる『罪と罰』、『約束と成就』、あるいは『神の導き』といった歴史観は(バビロン)捕囚期の申命記的歴史記述のそれに近い、とみなされる」(
月本昭男)ということから、バビロン捕囚期ごろ(紀元前550年ごろ)に成立したのではないかと考える学者もでています。

§神に背き、「善悪を知る木」の実を食べてしまった


 では、神の言葉に背いて、アダムとエバが食べた「善悪を知る木」の実を食べてしまったことの意味を考え、神がアダムとエバにとって、そして私たちにとって、どのような方であったかを考えていきましょう。
 「善悪を知る木」とは何を示しているのでしょうか。なぜ禁止する必要があったのでしょうか。「あなたがたが神のように善悪を知るようになる」こと、とすると、人間が神のようになろうとすること、または、王のような権力者
となって神のかわりに人を治めようとする人間の傲りをいましめているのでしょうか。
 2章7節で、神が「アダマー(塵)」から「アダム(人)」を作られた、と韻をふんだユーモアになっているのと同様に、ここでもアダムとエバは、「善悪を知る木」の実を食べて賢くなろう(アールーム)としたら、裸であるこ
と(エーローム)がわかったのです。どうも人生は思い通りにはいかないものですね。
 ずっと後に、パウロは新約聖書でアダムとイエスを対比させ、次のように言っています。

「かくして、一人の人間をとおして罪がこの世界に入り込んだように、そしてその罪をとおして死がこの世界に入り込んだように、そのようにすべての人間の中に死が入り込んだのである。その際、すべての者が罪を犯したのである。」ローマ5:12
「そのゆえに神の栄光を受けるのに不十分だからである。むしろ彼らは神の恵みにより、キリスト・イエスにおける贖いをとおして、無償で義とされているのである。」(ローマ3:24)
「なぜならば、アダムにおいてすべての者が死ぬように、そのようにキリストにおいてもまた、すべての者が生きるようにさせられるだろうからである。」(コリント15:22)」

 パウロは私たちに、神の前に謙虚に立つ心を教えているのだと思います。私たちはみな、神の恵みによって救われるべき罪人であると。そこで彼はアダムとイエスを対比し、人間の父祖であるアダムが神に背いたことにより、罪と
死がもたらされたのに対し、神の恵み、イエスの十字架による贖いによって私たちは義とされ、いのちが与えられると説いています。アーメン!その通りです。
 しかし、教会の時代になり、「原罪(人は生まれながらにしてどんな人も罪を負って生まれてくる)」という言葉が生まれ、いきいきした聖書の記述が教義としてこうした言葉によって説明されるようになっていきます。「罪」と
いう言葉が出てこない、創世記の3章の、この記事の理解をもこの「原罪」という概念だけで済ませることは非常につまらなく感じます。22年前になりますが、私が大学に入ってすぐ、あるヘブライ語文献研究者の教授による「キ
リスト教概説」という授業でこの箇所が授業で取り上げられたときも、この言葉の説明に終始して、失望した思い出があります。
 もっと神と人とのいきいきとした関係が、この記事から伝わってくるはずではありませんか。古代の聖書の民が、どのような感覚でこの物語を読ん
だのでしょう。私たちはそれを知ることはできませんが、いくつかの疑問点を挙げて考えてみましょう。
 先ず、全能の神のはずの神が、どうして蛇や、いいつけを守らないような人間を造ったのでしょうか?ニュー・インタープリターズ・バイブルは、「彼らは選択の自由が与えられている世界に住み、神は、神と人間との関係を決ま
ったかたちに設定してはいない」、「背くことを含め、究極の自由を与えている」と記しています。だとすると、まるで人間の親子関係のようですね。イエスによる放蕩息子(ルカ15:11〜)のたとえ話を思わせます。
 次に、神は「善悪を知る木の実を食べたら死ぬ」といわれたのに、どうして彼らは死ななかったのか。これには諸説あって、「神みずからの言葉どおりに実行しないところに、救済にかかわる深い意味が暗示されている」(新共同
訳旧約聖書注解)、また「食べると死んでしまうのは、生命の木の実のはずなので、元来は一本の木の物語で後から二本の木の物語に編集されたのではないか」(同)。
 そして最後に、果たして、もし彼らがエデンの園から追放されなかったなら、幸せだったのでしょうか?ニグロ・スピリチュアルに、'WALK AROUND HEAVEN ALL DAY'という歌があります。

「私が天国にたどり着いたら、私は歌い、歓喜に酔いしれます。
そこには私をのけもの扱いする人はいません
私の母にもそこで会えます、そして父にも
そして、私たちは天国を歩き回って散歩する他、何もすることはないのです」


 激しい人種差別や奴隷労働のつらさの中でこの歌詞は生まれたのでしょう。しかし、この歌詞を私はどうも歌う気持ちになれません。何不自由ない、労働や勉強の必要ない生活を、求めていないようです。これは人間の本質なのかも知れませんね。1才1ヶ月になる香菜を見ていても、同じことを感じます。こんなに幼い子でも、何もやることがないと、生きていけないのです。もし、遊ぶ相手も、遊ぶ道具も、好奇心を満たすような刺激も、動き回るスペースもなかったら、きっと生ける屍のようになってしまうことでしょう。
 14節以降の神による判決の部分は、「なぜ蛇は嫌われるのか」、「なぜ出産の苦しみがあるのか」、「なぜ、人は食べるために働かなくてはならないのか」などの素朴な疑問に応える、原因物語(原因譚説話)が続きます。しか
し、出産や労働と切っても切れないものは、労苦だけではありません。出産の苦しみの後の非常に大きな喜び、労働によって食物を得る喜びがあるではありませんか。しかし、それは書かれていないのです。
 私は、次のような解釈に出会って、喜びに満たされました。エデンの園からの追放の物語を、人間の自立に求め、積極的に捉えているのです。

 「アダムとエバの楽園追放は全くの悲劇でも絶望でもない。それはむしろ、神の芸術作品としての人が、芸術家であり親である神から自立するためのやむを得ない過程であった。男は親を離れて女と結ばれ、『二人は一体となる』
」。
 「アダムとエバの二人は、たしかに楽園から追い出されたが、それは、彼らの新たな成長と自立のために必要な巣立ちであった。愛の巣立ち、青春の旅立ちである。
 神は、いちじくの葉を腰につけるだけだった二人に、わざわざ『皮の衣』を作って着させた。
『しっかり生きよ。ただし、このわたしのことは常に忘れるなよ』
 エデンの東の方へ向かって歩む二人の前には、明るい光が射していた。『外』の空気を吸っての、二人の新しい生活がはじまったのある。」ー池田 裕「美しくなる聖書」より

 私たちのこの世界での歩みもまた、私たちが生まれたときから神によって送り出されたもの、そして、行き先も、数々の選択も私たちにゆだねられているのですね。「主よ、どうか私たちを、正しい道にお導き下さい。」

 「父が私を愛したように、私もあなたがたを愛した。私の愛のうちに留まりなさい。」
ー ヨハネによる福音書15章9節


2001年6月22日、日本キリスト会川崎教会礼拝説教より

 「ガリラヤ湖畔にて」  高 橋 誠


 
*マルコによる福音書 1章16〜28節

 そしてイエスは、ガリラヤの海辺(ガリラヤ湖畔)を歩みながら、シモンとシモンの弟アンドレアスとが海で網を打っているのを見た。彼らは漁師だったのである。そこでイエスは彼らに言った、「私の後について来なさい。そうすればあなたたちを、人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」。そこで彼らはすぐに網を捨て、彼に従った。
 また少し進んでいくと、彼はゼベダイの子ヤコブとその弟のヨハネを見た。その彼らは、舟の中で網を繕っているところであった。そこで彼はすぐに彼らを呼んだ。すると彼らは、その父ゼベダイを雇い人たちと共に舟の中に置き
去りにして、彼の後について行った。
 そして彼らはカファルナウムに入る。また、彼はすぐに安息日に会堂に入り、教え始めた。すると人々は、彼の教えに仰天し通しだった。なぜならば、彼は律法学者たちのようにではなく、権能ある者のように彼らを教え続けたか
らである。
 そして、すぐに彼らの会堂に穢れた霊に憑かれた一人の人がいて、叫び出して言った、「ナザレ人イエスよ、お前は俺たちと何の関係があるのだ。お前は俺たちを滅ぼしに来たのか。俺はお前を何者か知っているぞ、神の聖者だ」
。そこでイエスは彼を叱りつけて言った、「口をつぐめ、この者から出て行け」。すると穢れた霊はその人にひきつけを起こさせ、大声を挙げながら彼から出ていった。すると皆の者は肝をつぶし、論じ合って言った、「こいつはい
ったい何事だ。権能を持った新しい教えだ。彼が穢れた霊どもに言い付けると、霊どもですら彼に従うのだ」。そこで彼の噂はすぐにガリラヤ周辺の地一帯の、いたるところに広まった。 
ー 佐藤研訳

§「民の心は鈍感になった」

 7月21日に、明石でとても痛ましい事件がありました。11人に及ぶ幼い子供達とお年寄りが亡くなった、明石の花火歩道橋将棋倒し事件です。長さ100メートルほど、幅6メートルの歩道橋に五千人もがひしめき合って身動
きがとれなくなっていたという恐ろしい状況、その場にいた人々の恐怖を考えると、大変辛い思いです。警備や誘導の不備、歩道橋の構造の欠陥などを考えると、これは事故(accident)ではなく事件(incident)と言った方がよいでしょう。さて、このできごとの中で、多くの人々が、倒れた人たちの上をどんどん歩いていってしまった、という驚くべき事実がありました。これについて、ある災害・リスク心理学の専門家が、以下のような解説をしていました。

「群衆は危険を感じると個々の思考や判断を停止し、集団の進む方向に行こうとする。生存するにはバラバラより集団で動いた方がよいという生き物の習性で、一種の自己防衛」「トンネルの入り口の方が出口よりずっと近くても、遠い出口に向かってしまうことがよくある。集団になると後戻りしたがらない」(広瀬弘忠、東京女子大教授、朝日新聞7月23日付朝刊)

 人間には、このような性質もあるのだということを覚えている必要があります。そして、この傾向は、社会全体が閉塞感の中にあるとき、社会が経済的な疲弊にあえいでいるときにも見られます。第二次世界大戦前の日本の軍国主
義化、ドイツのヒットラーの台頭、そしてアメリカも激しい右傾化を経験していました(チャップリンの「独裁者」は反戦的だということで完成当時アメリカでは発表できませんでした)。そして1990年代以降、世界のいたると
ころで起きている排他的で偏狭なナショナリズム運動の台頭、右傾化にもこの説明が当てはまるのではないでしょうか。先週の参議院選の結果や、小泉首相の靖国神社参拝問題をめぐる石原慎太郎東京都知事をはじめとする右翼的な
人々の言動(「反対意見なんて無視すりゃいいんだ」)を見て改めて心配が増しています。このナショナリズム、民族主義の人々の最も大きな問題は、対話による相互理解や問題解決ができない点にあります。預言者イザヤが苦しみ
悩んだ民の頑迷さは、今も変わらないということでしょうか。


  お前たちはいくら聞いても、悟らないであろう。  
また見ることは見るが、認めないであろう。
なぜならば、民の心は鈍感になった、
そして彼らの耳は遠くなった、
また、彼らは自分たちの目を閉じてしまった。
その結果、彼らは目で見るということもなく、
耳で聞くということもなく、
心で悟るということもなく、
立ち帰るということもなくなり、
また私が彼らを癒すこともなくなるのではないだろうか。
マタイ13:14b〜15(cf.イザヤ書6:9−10)

§「私の後について来なさい。そうすればあなたたちを、人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」

 さて、今日は「ガリラヤ旅行記」であります。妻と私がガリラヤ地方へ行ったのは1998年夏。当時のイスラエル首相はネタニエフでした。私は、当時もネタニエフの対パレスチナ強行政策に大反対でしたが(怒りのあまり「彼
が首相の間はイスラエルには行かない」とまで思っていたほどです)、今は同じリクード党の、ネタニエフが足元にも及ばないほど強行で偏狭であり、今回の紛争の火種をつけた張本人である、シャロンが首相になり、イスラエルは
世界最大の民族紛争を抱える国になってしまいました。パレスチナ人に対する人権の抑圧、生活権の侵害、圧倒的な武力による侵略、暗殺などが公然と行われていても、この大きな過ちに気がつかない人が多数を占める、ということは恐ろしいことです。
 このような現代の問題はさておき、イスラエル、そしてガリラヤ地方に私たちを引き寄せるのは、もちろん、ガリラヤがイエスが歩かれ、話され、人々を導いた場所だからです。ここで生まれ育ち(ナザレ)、弟子たちを導き(カ
ファルナウム、ベトサイダ)、民衆と共に生き、「幸いなるかな...」ではじまる山上の説教(マタイ5〜7,ルカ6)をされたところだからです。
 では、当時のガリラヤは、どのような場所だったのでしょう。

ガリラヤ:パレスティナ北部の地で、東はヨルダン峡谷、西は地中海沿岸の平野、北はフーレ湖西の山地、南はサマリアに囲まれる。核はガリラヤ湖(「ゲネサレ湖」、「ティベリアの海」とも言われる。面積170平方キロメート
ルの淡水湖)。この地は、ユダヤ人の観念では、紀元前722/721年に北イスラエル王国が滅んだ後、近隣諸国の民族と混血が行われ、純粋なイスラエル民族ではなくなった、と言われる。「異邦人のガリラヤ」(イザヤ8:2
3[口語訳9:1]、マタイ4:10)と呼ばれ、軽蔑されていた所以である。その後、紀元前2世紀の終り、ハスモン王朝によって再ユダヤ化された。また、パレスチナの中では最も肥沃な土地で、通商業や漁業も栄えた。しかし、
新約当時、民衆の没落が激しく、またパレスチナのユダヤ人総体の中では、依然として差別された民衆の地域であったことは変わらない。(佐藤研)

 大都市ティベリアなどの大がかりな公共工事が終わり、工事の仕事がなくなったことで失業率が増えたにもかからわず、替わりになる産業もないという八方ふさがりの状況は、まるで現代を思わせます。
フーレ湖というガリラヤ湖の北にあった小さな湖は、灌漑と干拓のため、今は無くなってしまいました。ガリラヤ湖の南東にはデカポリス地方が広がり、ヒッポス、ガダラ、ゲラサなどのヘレニズム(ギリシャ文化)都市がありました。ガダラ、ゲラサは、豚の群の滅びと悪霊につかれた人の癒しのエピソード(マルコ5:1−17,マタイ8:2
8−34、ルカ8:26−39)で挙げられている地名です。ユダヤ人と違い、ギリシア文化圏の人々は、豚をも食べていたことがわかります。ちなみに、ユダヤ人が(のちにイスラム教徒も)豚を穢れたものとして食べなかった理由は、良く火を通さないと、有鉤条虫という恐ろしい寄生虫にかかって死ぬ危険があったからだそうです。
 現在も、ガリラヤ湖周辺は、自然が残り、作物が実る、とても美しいところです。ティベリアから北へ15キロほど行くと、ミグダル(マグダラ)という集落が見えてきます。マグダラのマリアの故郷です。そしてさらに15キロ
ほどでタブハという集落につきます。湖畔に五つのパンと二匹の魚の奇跡の教会と、ペテロの召命教会があり、なだらかで広大な丘の上には山上の説教の教会があります。隣の集落は、イエスの活動の中心地のひとつで、今はシナゴ
ーグやペテロの家の教会跡が発掘されているカファルナウムです。ゆっくりイエスの言葉を想い、祈り、讃美するのにとても良い場所です。カファルナウムのペテロの家跡は、ビザンチン時代にまわりを大きく囲まれて大きな教会に
なった部分と、もともとの家のとても小さな部分とが見え、最初は、ほんの数名の信者が礼拝を持っていたことが偲ばれて心を打たれます。そして、それ以上に彼らがはじめてイエスに出会った日を想います。
 イエスは私たちにも言われるでしょうか?「私の後について来なさい。そうすればあなたたちを、人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」(マルコ1:17)
私はそう信じています。
 
 ルカによる福音書(5章1〜11節)で並行箇所を読んでみましょう。

さて、群衆がイエスに押し迫り、神の言葉を聞いていた際のこと、イエス自身はゲネサレト湖(ガリラヤ湖)の畔に立っていた。すると彼は、湖の畔に二艘の舟のあるのを目にした。なお、漁師たちは、それらの舟から陸に上がって、網を洗っているところであった。そこで彼は、舟のうちの一艘、すなわちシモンの舟に乗り込み、陸から少し漕ぎ出でるように頼んだ。そして彼は座って、舟の中から群衆を教えていた。
 さて、彼は語るのを止めたとき、シモンに対して言った、「沖の深いところに漕ぎ出して、あなたたちの網を下ろし、漁をしなさい」。するとシモンが答えて言った、「師よ、私どもは夜もすがら労しても、何も捕れませんでした
。しかし、せっかくのお言葉ですので、私は網を下ろしてみましょう」。そして彼らがこのようにすると、はなはだしい魚の群が捕れ、彼らの網は破れんばかりになった、そこで彼らはもう一艘の舟にいる仲間にも合図を送り、やっ
て来て自分たちを手助けしてくれるように頼んだ。そこで彼らがやってくると、双方の舟が満杯になってしまったので、それらの舟は沈み始めるほどであった。
 そこでシモン・ペトロはこれを見て、イエスの膝元にひれ伏し、言った、「私から離れて下さい。私は罪あるものですから、主よ」。というのも、その捕れた漁のゆえに、肝を潰す驚愕が、彼および彼と一緒にいた者すべてを襲っ
たからである。また、シモンの同業者でっあった、ゼベダイの子らのヤコブとヨハネも同じようであった。するとイエスは、シモンに対して言った、「もう恐れるな。今から後、あなたは人間を生け捕るだろう」。そこで彼らは、舟
を岸に着け、一切を棄てて彼に従った。        ー 佐藤研訳

 ルカは、「人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」という表現を、「あなたは人間を生け捕るだろう」と変更を加えています。一体なぜなのでしょうか。

「人間を捕る漁師」という有名な表現がルカにおいては記されていない。これは漁師に捕獲されることは魚にとっては死んでしまうことを意味するので、魚にとっての救いにはならない、したがって「人間を捕る漁師」という比喩は人間を救うという使命を担った者のあり方を示すものとしては不都合なところがある、という反省があって、捕獲されても生きていることを示すために「生け捕りにするという動詞を用いて、ルカが表現をいくらかなりとも改善しようとした結果であると説明されるのが普通である。ところが日本語訳の口語訳聖書、新共同訳聖書では...(ルカも「人間を捕る漁師」と訳されている)            ー加藤 隆 

 イエスは実際どのように言われたのでしょうね。きっと歯切れのいい、わかりやすい表現でまっすぐ言われたのではないかと思います。
 私たちはここからさらに北に向かいました。山の上の町、ツファットを通り、ダンへ行く道をのぼっていくと、平和そのものに見える道の両側に鉄条網が貼られ、地雷原の赤い逆三角マークが見えます。ヘルモン山の方向を見ると
、看板には「この先、前線」。レバノンとの国境、ヒズボラとの戦闘は今も続いています。目的地は、ピリポ・カイザリア(カイザリア・フィリピ)の遺跡があるバニアス。「あなたたちは私を誰だと思うか」というイエスの問いに対し、ペテロが「あなたこそキリスト、活ける神の子です」と応えた(マタイ16:13−20)といわれる場所です。ヨルダン川の源流、木々が生い茂り、美しい清水が洞窟のあたりから湧きだしている様子は、激しく厳しいユダの荒野の自然とは対照的な、平和に満ちた豊かな自然に囲まれた場所です。ふと妻の綾子を見ると、嬉しそうに清水に手をひたしています。この旅行は大変な暑さの中での強行軍でした。喜びに満たされつつも、ガリラヤ湖地方の夏の暑さは、強い湿気を伴い、体力を吸い取ってしまいそうでした。この時の表情は、暑さと闘う現実の世界から、まるでエデンの園を思わせる楽園に移ったかのような、安心に満ちた表情でした。
 ’60年代の終わりから’70年代の中頃まで、生死の境を越えてベトナム戦争から帰ってきた兵士たちがあいさつ代わりにしていた言葉があります。'Have you found your Jesus yet?'「おまえはもう、おまえのイエス(救い)を見つけたかい?」心に傷を持つ荒くれ男たちが、こう言い合っている姿を思うと複雑な思いがしますが、私には魂の状態のありのままを問う、素晴らしいあいさつに思えます。日々のあいさつで、このように聞かれたら、皆さんはどう応えますか?
 'Yes!'このような混乱の世の中にあっても、大きな安らぎが与えられているのは、なんと素晴らしいことでしょうか。

「あなたたちはこの世の光である。山の上にある町は隠れることができない。人々はともし火をともした後、それを枡の下に置きはしない。むしろ燭台の上に置く。そうすればそれは、家の中にいるすべてのものを照らすのである。」
- マタイによる福音書5章14−15節


 「主の道を備えよ」


 *マタイによる福音書3章1−13節

さて、その頃、洗礼者ヨハネが現れ、ユダヤの荒野で宣教してそして言う、「回心せよ。天の王国が近づいたから」。まさにこの者こそ、預言者イザヤを通して語られた者である、すなわち、
荒野で呼ばわる者の声がする、
「お前たち、主の道を備えよ。主の小径を直くせよ」。
 またこのヨハネは、らくだの毛ごろもから作られた着物を着て、腰には皮の帯を締めていた。また彼の糧はいなごと野蜜であった。そのとき、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン河流域一帯の人々が彼のもとへ出ていき、自らの罪
を告白しながら、ヨルダン河で彼から洗礼を受けていた。
 彼は、ファリサイ派とサドカイ派の者たちの多くが彼の施す洗礼にやって来るのを見て、彼に言った、「まむしの裔め、やがて来るべき怒りから逃れるようにと、誰がお前たちに入れ知恵したのか。ならば回心にふさわしい実を結
べ。
 そして『俺たちの父祖はアブラハムだ』などと心の中でうそぶこうとするな。なぜなら、私はお前たちに言う、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ。すでに斧が木々の根元に置かれている。だ
から、良い実を結ばぬ木はことごとく切り倒され、火の中に投げ込まれるのだ。
 私はお前たちに、回心に向け、水によって洗礼を施している。しかし、私の後から来るべき者は私よりも強い。私はその者の皮ぞうりを脱がす値打ちすらもない。彼こそ、お前たちに聖霊と火とによって洗礼を施すであろう。
 彼はその箕を手に持ち、その脱穀場を隅から隅まで掃除し、その麦を倉に集めるであろう。しかしもみ殻は、消えない火で焼き尽くすであろう」。
                      佐藤研訳
 

§1.「神が我々の側に」?
 

 「肥えた牛を食べて憎しみあうよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい」(箴言15:17)。箴言には、非常におもしろい表現がたくさんありますが、これも大変印象的です。堕落したイタリアの洋服屋さんのグッチ一族の一人が「自転車に乗って幸せでいるよりは、ロールスロイスに乗って泣いている方がよい。これは確かよ。」と言っていたのをテレビのドキュメンタリーで見ましたが、私は自転車にのってニコニコして青菜を食べて愛し合っていたいとつくづく思います。人生は選択の連続ですが、その選択がどうも難しくなってしまっているように思えてなりません。
 9月11日の連続テロ事件以来、世界はテロへの武力による制裁への道を突き進んでしまっています。ひとつの国が、どのように戦争への道を駆け上っていくのか、危険な動きがどのような速さで広がっていくものなのかを、私たちは同じ時代に生きながら目撃することになってしまいました。そしてディレンマにも悩みます。子供の教育と比べて考えても、暴力の連鎖はどんどんエスカレートするので、早く止めなければならないことは明白です。しかし、狂信的なテロリスト集団を相手に、どうこの連鎖を止めるのかは、大変大きな問題です。武力による解決方法を取るのか、平和に道を探るのか、もしそうなら、この世の中でそれは可能なのか。
 私にとっては、戦争への期待が高揚していくのを目の当たりにする経験は二回目になります。前回は1990年の8月、「ペルシャ湾岸紛争」が勃発した時でした。私は高校生のホームステイ・ツアーを引率してカリフォルニア州サンディエゴ郊外のオーシャンサイドという町にいました。私たちのグループのホスト・ファミリーには軍関係者はいませんでしたが、隣町はキャンプ・ペンダルトンという基地の町で、そこでもホームステイのグループが滞在していました。このグループは2人の先生と18の家族すべてが軍関係者の家族で、プログラムの最中にいきなり兵士へのサウジアラビアへの出撃命令が出てしまったのです。
 兵士として出向く家族の死を覚悟して送り出さなければならない人々。泣き叫び、悲しみにくれる妻や子供達。自分の死の恐怖と不安を胸に、旅立っていく兵士達。彼らの様子が、ホームステイ・プログラムの役員たちによって、毎日つぶさに報告されました。私はこの時はじめて戦争が迫ってきて、人々の日常を飲み込んでしまうことを現実として感じたのを、まるで昨日のことのように思い出します。
 その時、このような追いつめられた悲しみの時に、共に居合わせた人々、話し合った人々、気持ちを分かち合った人々が誰彼なく手を取り合って祈る、という経験を何度もしました。信仰や祈りが、生活、人生の中にある、という
ことは何と素晴らしいことだろう、と痛切に感じました。
 他方、いつでも指導者達は「神が私たちの側についておられる」と、自分たちの正当性を主張します。神と宗教が、戦争の動機付けとして使用されます。同じように聖書を読んでると言っても、どの箇所をどのように読むかによっ
て、受け取るメッセージは真反対になりかねません。おそらく、イスラエルのシャロン首相などは、ヨシュア記10−12章あたりの勇ましい、敵を滅ぼし尽くして約束の地に入っていく箇所を自分の生きる指針としているのでしょ
う。
 しかし、預言者イザヤや主イエスに連なる者たちは、イザヤ書2章4−5節に指針を見いだすことでしょう。

「彼(ヤハウエ)は国々の間を裁き、多くの民に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち変える。国は国に向かって剣を上げず、戦いについて二度と学ぶことはしない。ヤコブの家よ、われらもヤハウエの光のうちを歩
もうではないか。」イザヤ書2章4−5節(関根清三訳)

  
 ニグロ・スピリチュアル(黒人霊歌)に「十字架刑」(Crucifixion)というマリアン・アンダースンが歌ったことで知られている歌があります。

 

They crucified my Lord  彼らは私の主を十字架につけた
And He never said a mumbling word そして主は、ひとことも不満を漏らされなかった

They pierced Him in the side 彼らは主の脇腹を槍で刺し通した
And He never said a mumbling word そして主は、ひとことも不満を漏らされなかった

He bowed His head and died 主は頭を垂れて、亡くなられた
And He never said a mumbling word そして主は、ひとことも不満を漏らされなかった

 
 長い間、私はこの悲しい歌がどのような気持ちで歌われていたのかを理解できませんでしたが、奴隷制時代のアフリカ系アメリカ人達が、自分たちの力ではどうにもならない「現在」の状況と、十字架につけられたイエスの苦しみ、悲しみ、死とを重ね合わせて、唯一の救い、神による死後の救いを想う気持ちを表現していたのだと、今は思います。
 混乱と暴力の世界にあっては、武力の行使をしない、という決断を通すと、この奴隷制時代の黒人奴隷の苦しみと同様の苦しみを受ける可能性が出てくると思われます。それでも尚、平和を模索する道を選ぶことができるでしょうか。それとも、「殺せ、一人残らず!」という闇の勢力と同じ価値観で戦うのでしょうか。
 イザヤ書は、私たちにこう語りかけています。「ヤコブの家よ、われらもヤハウエの光のうちを歩もうではないか。」

 
 

§2 「主の道を備えよ。主の道を直くせよ」
 

 「荒野で呼ばわる者の声がする、『お前たち、主の道を備えよ。主の小径を直くせよ』。
 この言葉のように、洗礼する者ヨハネが荒野に現れ、罪の赦しとなる回心の洗礼を述べ伝えていた。」(マルコによる福音書1:3ー4)

 今日の聖書箇所は、マルコによる福音書とマタイによる福音書に於いて、洗礼者ヨハネが登場する場面です。「荒野で呼ばわる者の声がする、『お前たち、主の道を備えよ。主の小径を直くせよ』」この力強い言葉は、イザヤ書4
0章3節から取られたものです。「呼ばわる者の声がする、『荒野に整えよ、ヤハウエの道を。真っ直ぐにせよ、荒地に、われらの神のための大路を。』」この二つを比べると、イザヤ書では「荒野」が道を整える場所であるのに対
し、マタイによる福音書(やマルコによる福音書)では「荒野」がヨハネが呼ばわる場所の説明になって、ヨハネのイメージと符合するように変えられています。
 「このヨハネは、らくだの毛ごろもから作られた着物を着て、腰には皮の帯を締めていた。また彼の糧はいなごと野蜜であった。」この服装は、当時の遊牧民に共通するものだそうですが、列王記下1章8節のエリヤの服装(「毛
衣を着て、腰に革帯を締めた人でした」)を思い起こさせます。メシヤの先駆者エリヤのイメージです。
 また、ルカによる福音書1章では、「ぶどう酒やつよい酒を飲まず」とありますが、これは「ナジル人(聖別された者)」(cf.士師記13,アモス2:11−12,サムエル上1:11,使徒行伝21:23-24)であることを指す表現(前島誠)なのだそうです。ユダヤ人の中で、何らかの誓願を立てたり、両親によってナジル人として神に捧げられ、「ぶどう酒」を断ち、頭髪を剃らず、死体の汚れを避け、不浄の食べ物を摂取しないことを誓った人々。そして、食べ物はいなごと野蜜。これについて疑問視する人たちは、いなごは一年のうち、ほんの短い期間しかいないこと、野蜜も花の咲く期間がとても短いので、花の蜜ではなさそうなため、いなごは放蕩息子のたとえ話に出てきたいなご豆、野蜜はなつめやしの実ではないかと考える人(前島)もいます。
 さて、洗礼者ヨハネは、怒っています。「まむしの裔め、やがて来るべき怒りから逃れるようにと、誰がお前たちに入れ知恵したのか。ならば回心にふさわしい実を結べ。そして『俺たちの父祖はアブラハムだ』などと心の中でうそぶこうとするな。」選民意識、選民思想の中に安住して努力を怠るな。これは現代の我々にも痛烈に響くメッセージです。
 ’80年代に「風が吹くとき(When The Wind Blows)という絵本とアニメーション映画がありました。レイモンド・ブリッグスという、「スノーマン」という作品でも知られている人の作品で、イギリスが核戦争に突入する物語です。核戦争の危機から脱するために、人々はいろいろ工夫するのですが、自分たちが実際には何も核爆発への対処の方法がわからないし、直感で動いているにもかかわらず、「現代の科学的思考で行動するから」大丈夫だと繰り返し自分たちに言い聞かせる姿が印象的な物語でした。
 これは全く人ごとではありません。狂牛病の問題のように、「日本は大丈夫」という神話の上に何もしなかった旧厚生省や農林水産省。「アメリカは正義」だからどんな手段を用いても良い、というブッシュ大統領。これらにも共
通した問題提起でした。
 現代の間違った選民思想や優越感。こうした態度を、ヨハネは厳しく叱責しています。傲りという人間の大きな罪。戦争の大義名分に神を使う人々。’60年代の「風に吹かれて」という日本語の題で知られたボブ・ディランの歌
の一節を思い出します。
 

How many death will it take till he knows / That too many people have died?

人が、もうとんでもなく多くの人々が死んでしまった、ということがわかるまで、
いったい何人死ぬ必要があるっていうんだ?

The answer, my friend, is blowing in the wind / The answer is blowing in the
wind
 
その答えはね、友よ、風となって吹いているんだよ。答えは風となって吹いているんだ。

 この歌の題名「Blowing In The Wind(風となって吹いている)」はイザヤ書40章の「ヤハウエの霊風(いき)」を想起させます。

 
 「呼びかけよ」、という者の声がする。私は言う、「何と呼びかけようか」、と。「総て肉なる者は草、総てその愛は野の花のようだ。草は枯れ、花はしぼむ、ヤハウエの霊風(いき)がその上に吹くならば。この民はまさに草である。草は枯れ、花はしぼむ。だがわれらの神の言葉は、永久(とこしえ)に立つ。」イザヤ書40章6−8節

 砂漠から吹く暑い季節風、ハムシーンを神の息に例えて言ったイザヤ書の言葉。瞬時に草花がドライフラワーになってしまう自然の猛威を表現し、イザヤ書は、神の言葉の大きさと、人間の命の限界、そして神のために働いて死んだとしても、神の言葉「慰めよ、慰めよ、わが民を」(イザヤ40:1=第二イザヤ書のはじまり)という約束は決して死ぬことはない。異郷での捕囚の民に、捕囚の苦しみが取り除かれるという契約が生きているという希望を語っ
ています。
 福音書では、この後、洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼に続き、イエスのガリラヤでの伝道活動がはじまります。

「時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。(マルコによる福音書1:14−15)

 次回は、主イエスのガリラヤでの伝道活動について学びます。

2001年10月 7日 



 「人はパンだけで生きるものではなく...」


 *荒野の試み:マタイによる福音書4章1〜11節

 そのあと、イエスは霊によって荒野に導き上げられた。悪魔の試みを受けるためである。そして彼は四十日四十夜断食し、その後飢えた。すると試みる者がやって来て、彼に言った、
「もしおまえが神の子なら、これらの石にパンになるように命じてみろ」。
しかし彼は答えて言った、
「こう書かれている、人はパンだけで生きるものではない。むしろ、神の口から出て来る一つ一つの言葉で生きるであろう」。
 そのあと、悪魔は彼を聖なる都に連れてくる。そして、彼を神殿の屋根の端に据えた。そして彼に言う、
「もしお前が神の子なら、下へ身を投げて見ろ。なぜなら、こう書かれているからだ、彼はお前のために、御使いたちに指示を与えるであろう、すると彼らは、お前を手で受けとめるであろう、お前がその足を石に打ちつけることのないよう
に」。
 イエスは彼に言った、
「再びこう書かれている、お前は、お前の神、主を試みることはないであろう」。
 悪魔は再び彼をきわめて高い山へ連れて行き、彼にこの世のすべての王国とその栄華を見せる。そして悪魔は彼に言った、
「もしお前がひれ伏して俺を拝むなら、これらすべてをお前に与えよう」。
 そのとき、イエスは彼に言う、
「サタンよ、失せろ。実にこう書かれている、お前は、お前の神、主をこそ伏し拝み、彼にのみ仕えるであろう」。
 そのあと、悪魔はイエスを離れる。そして見よ、御使いたちがやって来て、彼に仕えていた。
佐藤研訳

 

 
§私たちが直面する数々の試み

 
 先週、9月11日火曜日の夜のことを、忘れない、忘れられない人が多いことでしょう。台風15号が過ぎ去った日で、私はちょうど娘の香菜をお風呂に入れたあと、この日でちょうど1才3ヶ月になったことを家族で喜び合い、感謝を捧げ、寝室に送り出して、10時のニュースをつけたところ、ニューヨークのワールド・トレイド・センターが写っていました。この110階建ての建物に飛行機が衝突したもよう、ということで、何が起こったのかを把握しようとしているうちに、もう一機がビルに近づき、ビルに衝突してしまいました。なんという恐ろしいテロなのだろう、と思っていると、次々に入ってくるニュースが大変ショッキングなものばかりでした。国防総省にも飛行機が落ちたこと、4機もの民間航空機のハイジャックと、これらの旅客機を使った自爆テロだったこと、ビルの崩壊...これらのビルの中で、そして旅客機に乗っていてハイジャックに遭遇し、恐怖と絶望の中で亡くなった人たち。救助に当たっていた警官や消防士たち。こうした人々のことを思い、繰り返し短く祈りました。ほとんど言葉にならない祈り。「このひとりひとりが、あなたの子供たち、あなたや家族や隣人たちに愛される大切な存在ではありませんか。」「恐怖を経験した人々、亡くなった人々、懸命に救助しようとした人たち、この人たちの魂に、あなたが平和をあたえてください。」「なぜ、世界は混乱へ、暴力へと進んでいくのですか。」
 そして今、ジョージ・ブッシュ大統領は報復を叫び、アメリカのメディアは、第三次世界大戦の到来を叫んでいます。イスラエルとパレスチナが陥っているような、暴力が暴力を生む地域紛争の悪循環に世界中が巻き込まれようと
しているといっても過言でありません。数年来日本でも議論になっていた、「集団的自衛権」というものの行使が、NATO(北大西洋条約機構)諸国の間で現実味を帯びてきてしまいました。この事件を受け、イスラエルの悪名高きシ
ャロン首相が自分たちを「光の子ら」と称し、敵対するゲリラとパレスチナ人たちをいっしょくたにして「闇の勢力」と呼ぶのを聞き、暗澹たる思いに駆られます。シャロンはイスラエル首相に選ばれ、ブッシュは支持率を急速に上げているのです。私たちにとっても、これらの出来事は大きな試練です。さて、このような危機に、私たちはどのような道を選ぶでしょうか。
 言葉を少しずつ学びつつある香菜は、この一週間私たち夫婦の会話を聞いていて、「たいへん」という言葉を覚えてしまいました。懸命に低い声を出して、「た〜いへん!」と嬉しそうに言う香菜のほほえみを見て、悩みや苦しみ
や怒りの中に生きながらも、人々、そして私たちが、神から大きななぐさめと希望と力とを得て、主とともに毎日を歩む喜びに満たされて人生を進めることができる恵みの大きさ(Amazing Grace!)を思い起こさせられ、久しぶりに心から主に感謝することができました。
 先週の礼拝で、高橋秀良牧師より、以下の言葉を学びました。「何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもその通りにせよ。これが律法と預言者(注:旧約聖書全体を指す)である。」(マタイによる福音書7章12節
)そして、イエスの言葉に先立つラビ・ヒレルの言葉「あなたがして欲しくないと思うことは、人にもしてはならない。これが律法のすべてであり、あとはその説明である。」そして、マタイによる福音書22章37−38節「『心
を尽くし、魂を尽くし、理解力を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』これが最も大切な、第一の戒めである。第二もそれに等しい。『あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ』これら二つの戒めに、すべての律法と預言者と
が掛かっている」。
 今こそ、これらの言葉をかみしめ、私たちがこの精神で歩んでいきますように。主よ、これらの言葉を通じて私たちを支え続けてください。そして、願わくば、この平和をもたらす言葉が、世界に満ちますように。

 

 
§「人はパンだけで生きるものではない」

 
 マルコによる福音書でも、1章12ー13節の「荒野の試み」は、マタイと同じ様に、イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネによって洗礼を受けたすぐ後に書かれていますが、非常に短く3行で終わってしまいます。「すると、霊がすぐに彼を荒野に送り出す。そこで彼は、サタンの試みを受けながら、四十日間荒野にいた。しかし、彼は野獣たちと共におり、御使いたちが彼に仕えていた。」
 13節の後半は、なかなかわかりにくいのですが、「野獣たちと共に」いるというイメージは、「平和の王」を歌ったイザヤ書11章の6−9節「狼は子羊とともに宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子
供がそれらを導く」を読む者に思い起こさせ、「平和の王」とイエスを結びつけています。「御使いたちが彼に仕えていた」も「イエスがサタンの誘惑に打ち勝ったことを間接的に言い表すものに他ならない」(大貫隆)と捉えらることができ、イエスによる救いがもたらされ、イエスがガリラヤでの伝道をはじめる準備が整ったことが暗示されます。
  ここにネゲブ砂漠にパンのような形の石がたくさんころがっている写真があります。(p.55,「遙かなるパン」文:池田裕、写真:横川匡、教文館)やわらかい石が、永年雨季にワディ(雨が降ったときだけに流れる、普段は干上がった川)を流れる鉄砲水に削られて、パンのような形に浸食されたものだと思われます。主イエスは、荒野におられた間に、これらの石を見たでしょうか。
 今日取り上げる、マタイによる福音書4章1−11節と、ルカによる福音書に4章1−13節では、サタンとのやりとりがいきいきと描かれています。断食の後に、サタンはイエスに「もしおまえが神の子なら、これらの石にパンになるように命じてみろ」と言います。イエスは申命記8章3節を引用して、「人はパンだけで生きるものではない。むしろ、神の口から出て来る一つ一つの言葉で生きるであろう。」と応えます。
 この申命記8章は、出エジプト後、荒野をさまよい続けるイスラエル人たちに、神がこう語る箇所です。
 
「今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。(中略)あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(新共同訳)
 
 エジプトで、奴隷として働いたイスラエル人たち。彼らが後にしたエジプトでは、彼らに自由はなかったが、主人の言うとおりにして暮らしていれば、最低限の生活、衣食住は保証されていました。しかし、主は、彼らを荒野に導
き出して四十年、苦難と試練を通して、こうした衣食住の安定供給以上に大切なことがあることを、人々に学び取らせようとしました。
 マタイとルカのテキストでは、荒野での修行にでられたイエスも、心を売ってパンを得るように誘うサタンの甘言をこの申命記8章の言葉で断られたのでした。
 この聖書箇所の歴史的背景に、「後40年のいわゆる『カリグラ危機』ーすなわち第3代ローマ皇帝カリグラがエルサレム神殿に自分の立像の建立を命令したが、時のシリア総督ペテロニウスの諫言によって辛うじて阻止された事
件ーを想定する説が有力である」(大貫隆)と読んで以来、このテキストとこの事件がどのように結びつくのかを考えていました。今日までに私なりに到達した理由は以下の通りです。
 自分たちの信仰の拠り所である、エルサレム神殿に、「ローマ皇帝の意向にそってカリグラ帝の立像を作ることによって得られる繁栄と、ローマに隷属することによって得られる安定」などというものは決して求めない、それでは
エジプトで奴隷の身分でいた先祖たちと同じではないか。断じて断る。私たちは断固として主の戒めを守るというイスラエルの人々の強い意志。その歴史がこの箇所を生んだのでしょう。
 日本国憲法の中で、最近特に大切だなあと思う箇所があります。「十九条:思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」イスラエルの人々は、マタイによる福音書とルカによる福音書のイエスは、その思想及び良心の自由
を守ったのです。

§私たちはサタンの誘惑に屈しないか
 

 今日、最後に触れておかなければならない問題があります。それは、イスラム原理主義、ユダヤ教原理主義、キリスト教原理主義、民族主義系の原理主義など、世界各地での紛争の元凶になっている原理主義についてです。彼らの問題は、自分たちと考えが違う人々、価値観が違う人々を排除することにあります。アフガニスタンのタリバンを例に挙げると、女性の教育を禁じたり、仏教遺跡の存在すら認めないのです。
 この恐ろしい原理主義は、多くの場合は市民の無知、無教養から生まれるものですが、日本では天皇制を擁する人たちや、国旗国歌法を盾に、公立学校で「君が代」を強要する各地の教育委員会や、文部科学省の姿勢、そして「新しい歴史教科書をつくる会」の姿勢、そして小泉純一郎に反対するものを「抵抗勢力」というレッテルを一律に貼って切り捨てるやりかたなどにも色濃く現れていることは指摘しておきたいと思います。
 キリスト教の世界ではどうでしょうか。ここに「キリスト教の歴史」(BL出版)という本があります。アメリカの福音派とカトリックの人々の共同執筆で、この本のハイライトは、「教会一致運動」です。教会がみんなで集まってひとつにまとまる、というととても耳に聞こえが良いのですが、聖書無誤謬論にのっとり、自分たちの価値観(基本教義)からはずれたもの(この中にはダーウィンの進化論も含まれます)を異端と呼んで切り捨ててしまう性格を持っています。彼らから見ると、聖書を科学的に、批判的に読んでいくことによって、「生活の座」を考え、そのテキストがどの時代のどのような事件を背景としているか、といった聖書研究はまったく価値のないものとして、200ページを超えるこの本の中で、ほんの300字ほど触れて退けています。こうした排他的な人々の一致運動というのは、どう捉えれば良いのでしょうか。彼らの姿勢もまさに原理主義です。
 ちょうど聖書の中に、さまざまな書物が入り、相互に矛盾する記述や価値観が入り交じっているのと同じように、多様な考え方の人たちが話し合い、考えを分かち合い、協力しあうことによって人間社会は成り立ち、少しずつ先に進んでいきます。ちょうど故ラビン元イスラエル首相とアラファト議長が握手を交わしたときのように。
 テロリストは言うまでもなく、間違っています。「聖戦」を掲げるウサマ・ビン・ラディン他、テロリスト・グループの指導者たちは魂を悪魔に譲り渡してしまっています。 そして、今度の一連のテロ事件を乗り越えるリーダーと目されるジョージ・ブッシュ大統領は、軍事産業や石油産業の利益を代表する政治家という顔を持っています。彼がもし、サタンに「きわめて高い山へ連れて行」かれて、「この世のすべての王国とその栄華を見せ」『もしお前がひれ伏して俺を拝むなら、これらすべてをお前に与えよう』」と問われているとすれば、即座に飛びついて、「ください!」と言っているようにしか私には見えません。
 「主よ、私たちを誘惑のなかに導き入れないでください。そして、私たちを悪から遠ざけてください。」(主の祈り)

 「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼は罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
レビ記19:17−19

2001年9月16日礼拝説教