神ヤハウェが造った野のあらゆる獣のなかで、蛇がもっとも賢かった。蛇は妻に言った、「園のどの木からも実を取って食べてはならない、などと神がおっしゃったとは」。妻は蛇に言った、「私たちは園のどの木の実でも食べて §傲りという大きな罪 現在日本中の教育に関心を持つ人々の間で大きな問題になっている「新しい歴史教科書」、そして、様々な手段を使ってこの教科書を採択させようと動く議員たちからなる「教科書をよくする会」。このような教科書が採択されて
§神に背き、「善悪を知る木」の実を食べてしまった 「かくして、一人の人間をとおして罪がこの世界に入り込んだように、そしてその罪をとおして死がこの世界に入り込んだように、そのようにすべての人間の中に死が入り込んだのである。その際、すべての者が罪を犯したのである。」ローマ5:12 パウロは私たちに、神の前に謙虚に立つ心を教えているのだと思います。私たちはみな、神の恵みによって救われるべき罪人であると。そこで彼はアダムとイエスを対比し、人間の父祖であるアダムが神に背いたことにより、罪と 「私が天国にたどり着いたら、私は歌い、歓喜に酔いしれます。 「アダムとエバの楽園追放は全くの悲劇でも絶望でもない。それはむしろ、神の芸術作品としての人が、芸術家であり親である神から自立するためのやむを得ない過程であった。男は親を離れて女と結ばれ、『二人は一体となる』 私たちのこの世界での歩みもまた、私たちが生まれたときから神によって送り出されたもの、そして、行き先も、数々の選択も私たちにゆだねられているのですね。「主よ、どうか私たちを、正しい道にお導き下さい。」 「父が私を愛したように、私もあなたがたを愛した。私の愛のうちに留まりなさい。」 |
そしてイエスは、ガリラヤの海辺(ガリラヤ湖畔)を歩みながら、シモンとシモンの弟アンドレアスとが海で網を打っているのを見た。彼らは漁師だったのである。そこでイエスは彼らに言った、「私の後について来なさい。そうすればあなたたちを、人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」。そこで彼らはすぐに網を捨て、彼に従った。 §「民の心は鈍感になった」 7月21日に、明石でとても痛ましい事件がありました。11人に及ぶ幼い子供達とお年寄りが亡くなった、明石の花火歩道橋将棋倒し事件です。長さ100メートルほど、幅6メートルの歩道橋に五千人もがひしめき合って身動 「群衆は危険を感じると個々の思考や判断を停止し、集団の進む方向に行こうとする。生存するにはバラバラより集団で動いた方がよいという生き物の習性で、一種の自己防衛」「トンネルの入り口の方が出口よりずっと近くても、遠い出口に向かってしまうことがよくある。集団になると後戻りしたがらない」(広瀬弘忠、東京女子大教授、朝日新聞7月23日付朝刊) 人間には、このような性質もあるのだということを覚えている必要があります。そして、この傾向は、社会全体が閉塞感の中にあるとき、社会が経済的な疲弊にあえいでいるときにも見られます。第二次世界大戦前の日本の軍国主 §「私の後について来なさい。そうすればあなたたちを、人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」 さて、今日は「ガリラヤ旅行記」であります。妻と私がガリラヤ地方へ行ったのは1998年夏。当時のイスラエル首相はネタニエフでした。私は、当時もネタニエフの対パレスチナ強行政策に大反対でしたが(怒りのあまり「彼 ガリラヤ:パレスティナ北部の地で、東はヨルダン峡谷、西は地中海沿岸の平野、北はフーレ湖西の山地、南はサマリアに囲まれる。核はガリラヤ湖(「ゲネサレ湖」、「ティベリアの海」とも言われる。面積170平方キロメート 大都市ティベリアなどの大がかりな公共工事が終わり、工事の仕事がなくなったことで失業率が増えたにもかからわず、替わりになる産業もないという八方ふさがりの状況は、まるで現代を思わせます。 さて、群衆がイエスに押し迫り、神の言葉を聞いていた際のこと、イエス自身はゲネサレト湖(ガリラヤ湖)の畔に立っていた。すると彼は、湖の畔に二艘の舟のあるのを目にした。なお、漁師たちは、それらの舟から陸に上がって、網を洗っているところであった。そこで彼は、舟のうちの一艘、すなわちシモンの舟に乗り込み、陸から少し漕ぎ出でるように頼んだ。そして彼は座って、舟の中から群衆を教えていた。 ルカは、「人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」という表現を、「あなたは人間を生け捕るだろう」と変更を加えています。一体なぜなのでしょうか。 「人間を捕る漁師」という有名な表現がルカにおいては記されていない。これは漁師に捕獲されることは魚にとっては死んでしまうことを意味するので、魚にとっての救いにはならない、したがって「人間を捕る漁師」という比喩は人間を救うという使命を担った者のあり方を示すものとしては不都合なところがある、という反省があって、捕獲されても生きていることを示すために「生け捕りにするという動詞を用いて、ルカが表現をいくらかなりとも改善しようとした結果であると説明されるのが普通である。ところが日本語訳の口語訳聖書、新共同訳聖書では...(ルカも「人間を捕る漁師」と訳されている) ー加藤 隆 イエスは実際どのように言われたのでしょうね。きっと歯切れのいい、わかりやすい表現でまっすぐ言われたのではないかと思います。 「あなたたちはこの世の光である。山の上にある町は隠れることができない。人々はともし火をともした後、それを枡の下に置きはしない。むしろ燭台の上に置く。そうすればそれは、家の中にいるすべてのものを照らすのである。」 |
さて、その頃、洗礼者ヨハネが現れ、ユダヤの荒野で宣教してそして言う、「回心せよ。天の王国が近づいたから」。まさにこの者こそ、預言者イザヤを通して語られた者である、すなわち、 §1.「神が我々の側に」? 「肥えた牛を食べて憎しみあうよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい」(箴言15:17)。箴言には、非常におもしろい表現がたくさんありますが、これも大変印象的です。堕落したイタリアの洋服屋さんのグッチ一族の一人が「自転車に乗って幸せでいるよりは、ロールスロイスに乗って泣いている方がよい。これは確かよ。」と言っていたのをテレビのドキュメンタリーで見ましたが、私は自転車にのってニコニコして青菜を食べて愛し合っていたいとつくづく思います。人生は選択の連続ですが、その選択がどうも難しくなってしまっているように思えてなりません。 「彼(ヤハウエ)は国々の間を裁き、多くの民に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち変える。国は国に向かって剣を上げず、戦いについて二度と学ぶことはしない。ヤコブの家よ、われらもヤハウエの光のうちを歩
They crucified my Lord 彼らは私の主を十字架につけた They pierced Him in the side 彼らは主の脇腹を槍で刺し通した He bowed His head and died 主は頭を垂れて、亡くなられた §2 「主の道を備えよ。主の道を直くせよ」 「荒野で呼ばわる者の声がする、『お前たち、主の道を備えよ。主の小径を直くせよ』。 今日の聖書箇所は、マルコによる福音書とマタイによる福音書に於いて、洗礼者ヨハネが登場する場面です。「荒野で呼ばわる者の声がする、『お前たち、主の道を備えよ。主の小径を直くせよ』」この力強い言葉は、イザヤ書4 How many death will it take till he knows / That
too many people have died? The answer, my friend, is blowing in the wind /
The answer is blowing in the この歌の題名「Blowing In The Wind(風となって吹いている)」はイザヤ書40章の「ヤハウエの霊風(いき)」を想起させます。 砂漠から吹く暑い季節風、ハムシーンを神の息に例えて言ったイザヤ書の言葉。瞬時に草花がドライフラワーになってしまう自然の猛威を表現し、イザヤ書は、神の言葉の大きさと、人間の命の限界、そして神のために働いて死んだとしても、神の言葉「慰めよ、慰めよ、わが民を」(イザヤ40:1=第二イザヤ書のはじまり)という約束は決して死ぬことはない。異郷での捕囚の民に、捕囚の苦しみが取り除かれるという契約が生きているという希望を語っ 「時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。(マルコによる福音書1:14−15) 次回は、主イエスのガリラヤでの伝道活動について学びます。 2001年10月 7日 |
そのあと、イエスは霊によって荒野に導き上げられた。悪魔の試みを受けるためである。そして彼は四十日四十夜断食し、その後飢えた。すると試みる者がやって来て、彼に言った、
§私たちはサタンの誘惑に屈しないか 今日、最後に触れておかなければならない問題があります。それは、イスラム原理主義、ユダヤ教原理主義、キリスト教原理主義、民族主義系の原理主義など、世界各地での紛争の元凶になっている原理主義についてです。彼らの問題は、自分たちと考えが違う人々、価値観が違う人々を排除することにあります。アフガニスタンのタリバンを例に挙げると、女性の教育を禁じたり、仏教遺跡の存在すら認めないのです。 「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼は罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」 2001年9月16日礼拝説教
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