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「新しい生命」
「光の子として歩みなさい」
「主イエスの蒔いた種」
「愛の大きさ」


 「新しい生命」 高 橋 誠

「光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」
              エフェソ信徒への手紙5:8〜9

1.香菜の誕生

  6月11日の朝9時55分、私たちの娘、香菜が生まれました。病院から教会に誕生を知らせる電話をした時は、聖霊降臨日(ペンテコステ)の礼拝がはじまる前でした。  
 この日の午前3時、私がちょうど仕事を終えて就寝しようとしていた時に、寝室から綾子の声が聞こえました。「破水した!」早速病院に連絡して分娩待機室に到着したのが3時30分。検査や診断の後、「おそらく生まれるまでは12時間から15時間かかるだろうから、お父さんは一度帰って寝たほうがいい」ということになり、家に帰って3時間ほど休息した後、9時にのんびりと二人分の朝食を買って分娩待機室に着くと、ベッドは空っぽでした。不思議に思っていると、看護婦さんが血相かえて分娩室から飛び出してきて、「あっ、高橋さん?どこへ行っていたのよ!奥さん一人でがんばってるわよ!」
  綾子はすでに分娩台にのぼって、ラマーズ法教室で練習した呼吸法で、懸命に痛みと戦っていました。出産に立ち会うことで私にできることは、元気づけることと、陣痛の合間にリンゴ・ジュースを飲ませること。一緒に呼吸す
ること。いきむときには肩を支えて手助けをすること。しかし、何より、妻と神様から授かったこの子を思って祈り、この子がこの世に生を受けるその瞬間に立ち会って証人となること。
  そのうち、陣痛の間隔がどんどん狭くなっていくのが感じられます。「今度陣痛が来たら、おへそをしっかり見て、思いっきりいきむのよ。...はい、息をすって、いきんで!」という助産婦さんの合図に合わせて、顔を真っ赤にしていきむこと10回、20回...「ほら、髪の毛が見えてきたよ。」と助産婦さんが指さすところを見ると、赤ちゃんの頭が見えていました。これで私の役割が一つ増えました。いま見えていることを、綾子に実況中継をすること。そう、赤ちゃんを産もうとしているお母さんには生まれかけの赤ちゃんの頭は見えないのです。「頭が出てきたよ!」ー「本当?」ここで、ようやく産婦人科の当直医が悠々と部屋に入ってきて、いきむ様子を見ると、「うまい!上手だ!」と声をかけると部屋の隅の椅子に座り、時々アドヴァイスをくれます。私は相変わらず実況中継役で、「もう頭が半分出た、もう少しだ!」そしてついに香菜が誕生します。9時55分。頭が出た後は、身体全体がスルッと出てきて、最初は小さな声で、そして少しずつ力強く泣き始めました。安産でした。とはいえ、この産みの苦しみを共にする前の「安産」と言う言葉の響きと、それを目の当たりにした後の「安産」の示す意味とは、かけ離れているように思えます。「おめでとう、元気な女の子よ。」と看護婦さんが綾子に声をかけると、綾子は「良かった、良かった。」心からの安堵が感じられます。すぐに赤ちゃんをお母さんのお腹の上に乗せてくれて、つい先程までお腹の中にいた香菜とのはじめての対面をします。「わっ、重い!」と綾子が言い、二人で香菜を抱きかかえました。
この瞬間に、この子がひとりの人間としての人生がはじまったことを思い、神様に感謝しつつ、親としてこの子を守り、光の子として光の中を歩いていけるように導いていく責任を受け入れました。どんなに重い責任でも、神様の前
で、決して逃れられない責任を、「御心のままに」と受け入れるという大きな経験です。
  かなり前になりますが、アレックス・ヘイリー作の「ルーツ」という映画の中で、主人公が誕生したときに、西アフリカのマンディンカ族の父親が夜空に生まれたばかりの赤ちゃんを高々と掲げて祈る場面があり、大変感動した思い出があります。これは、おそらく彼らの習慣なのでしょうが、こうした素晴らしい習慣を継承している人々は幸せだと思います。そして私たちも信仰によって、生まれた子供が決して私たちの所有物ではないこと、ましては自分たちが「つくった」ものなんかでは決してなく、神様から授けられた者、預けられた者だということを知っていることはまさに大切なことだと思います。そして、どこにいても神様に祈りを捧げられるこということも大きな恵みです。イエスが弟子達に「父よ、」と呼びかけて祈りをはじめることを教えたときから(ルカ11:1〜、cf.マルコ14:36、ローマ8:15,ガラテア4:6)私たちは祈りによって、神様に直接親しく話しかけることができるようになりました。
  また、この子が母胎を出た瞬間に思い起こしたことは、昨年の10月27日、病院で妻が妊娠を確認した時のことでした。超音波断層法の機械の超音波映像で、大きさ3ミリの胎児を確認し(その写真もくれました)、しかも心
臓の鼓動まで確認できる医療技術に感心しました。しかし、こうして生を受けた胎児が、母の胎内で育ち、誕生し、家族や親戚や教会をはじめとするコミュニティーの人たちの中で成長して、光の子として歩む...この一つひとつの
段階を神によって生かされていることこそが、大変な奇跡なのだと思います。この奇跡を知ったら、世の人がエンターテインメントとして関心を寄せる超常現象の類の奇跡など、いかに虚しい物かと思います。
  知識としての人間の誕生と、実際その証人になっての認識の変化は、知識と、経験としての生(せい:生きることの喜びや悲しみなど)の実感との大きな違いです。余談ですが、これは先週3チャンネルで放送していた'GOOD WILL
HUNTING'(グッド・ウィル・ハンティング)という映画の主題となっていて、とても良く描かれていました。
  香菜は生まれて今日で7週間になります。いままで元気に育ち、起きているときはキョロキョロとまわりを見ている様子です。お母さんの声のする方を見たり、歩いているのを目で追っているような素振りも見せます。先日、綾
子が「よいしょ。」と声をかけて香菜を持ち上げると、すぐあとに「よいしょ。」と言ったように聞こえました。本当はどうだったのでしょうね。
  まさに幸せ一杯の表情で寝ている姿を見ていると、心が洗われるような気持ちになります。

2.見かけと実際と

  見かけ、あるいはカンバンと実際とは、まったく違うということは私たちの身の回りにたくさんあることに気づきます。自由民主党が、自由とも民主主義ともかけ離れた存在なこと、朝鮮民主主義人民共和国がまったく民主主義
ではないこと、先日のNHK番組「聖地エルサレム」でも描かれていたように、エルサレムの聖墳墓教会の内部で縄張り争いに骨身を削る修道士達が、いかに荘厳な祈りを唱えても、イエスの精神からどんなに遠いところで生きてい
るか、ということも、私たちが理解できるのは、イエスの精神を学び続けていることによって、見えなかった目が、少しずつ見えるようにされているためだと思います。
  1990年代と2000年代の日本は、バブルの崩壊を通じて、様々なボロが出てきてしまって、もし今、JAPAN AS NO.1(日本が世界一に)などという本を出したら、誰にも見向きもされないでしょう。それでも、医療などはかなり進んでいるのではないか、と思うのは自然のことだと思います。しかし、実際は大きな問題を抱えている、ということの一例を香菜を通しての経験からお話ししたいと思います。
  まず第一に、私たちが産婦人科を選ぶときに、結局、産婦人科を選ぶときには、自分たちが大切だと思うことを箇条書きにして、それを実行している、あるいは認めているかを病院にひとつずつ電話で質問して答えてもらう必要
があることに気づきました。綾子の妊娠以来、産婦人科に関する、特に昭和30〜40年代の悲惨な経験を語ってくれた女性の多かったことは、本当に驚きでした。こうした悲惨な問題と相通じる現代の問題、すなわち個々の人間を
大切に扱おうとする心の欠如です。
  有名な病院に通って、いざ出産という時になって、夫も出産に立ち会いたい、といっても断られてしまう、ということが多くあるそうです。横浜のみなとみらい地区にある警友病院では、「この病院はそういうシステムになって
いない」と断られたという人がいます。また、入院中に母乳をあげる時間だけしか赤ちゃんに会うことができず、母乳の時間が決められていたり、生後2時間以内に初乳を飲ませないために(先日の新聞記事で、ほとんどの大学病院
でこれを行っていないと指摘されていました)母乳の出が良くなくなり、お母さんがガッカリしつつ人工栄養に切り替える、という例を多く聞きます。病院の作業効率と、ミルク会社の売り上げの方が、お母さんたちの心や、子供の
健康より、優先されているように思えてなりません。人間として大切なこと、心に関わることがなおざりにされたら、どんな技術も虚しいものです。これから産婦人科を探す可能性のあるかたは、是非以下のことを確認してから病院
を決めることをおすすめします。

・自然分娩での出産を目指し、ラマーズ法の講習会などがある。
・何か問題が起きたら、24時間いつでも相談でき、必要なら診てもらえる。
・出産に夫が立ち会うことを認めている、あるいは奨励している。
・母乳で育てることを奨励し、生後2時間以内に初乳を飲ませる。

  病院を探しながら、こうしたことを実行している病院がいかに少ないかを実感しました。人間の心に関する問題ではこの日本という国はなんと遅れていることか、とつくづく思います。幸い、私たちはこれらの点について積極的
な病院と出会えたことは、嬉しいことでした。この産婦人科で働くお医者さんも看護婦さんも助産婦さんも、ほとんど、それぞれのお母さんと赤ちゃんと良く知り合っているのも良いことだと思います。

  第二に、いま、この幼い香菜が抱えている問題についてもお話しさせて下さい。連日の猛暑と、体質のせいもあってか、湿しんがひどくなった香菜は、7月4日から8日まで入院を勧められ、入院しました。その最終日の耳鼻科
の検査で、深刻な院内感染問題の代表ともいえる、MRSA(メシチリン耐性黄色ブドウ球菌:METHICILLIN-RESISTANT STAPHYLOCOCCUS AUREUS)が香菜の鼻の粘膜から検出され、外耳の湿しんによってただれた部分に日和見感染(本当は弱い菌が、弱くなっているところにつけ込んで住み着いてしまい、問題を起こすこと)してしまっていることが判明しました。この菌が脳に入ったりしてしまったら、ほとんどの抗生物質が効かないために、死んでしまうほどの危険な菌です。幸い、香菜のMRSAは両耳の外耳と、鼻の粘膜に留まっていて、鼻では問題を起こしてはいないために、耳鼻科で根気よく外耳を消毒液で洗うことで、今のところ大事には至らないようです。また、普通の生活をしているひとに、この菌がついて大きな問題を引き起こすこともなく死んでしまうほどの、普通の状態では弱い菌なのだそうです。
  医師は、インフォームド・コンセント(情報公開原則)によって、質問をすると答えてはくれるようにはなったものの、院内感染の可能性が限りなく100パーセントに近くても、決してそうとは言い切れないということから、責任は認めようとしません。問題のあった可能性を認め、感染の原因の可能性を洗い出してこそ、明日につながる経験とできるものを、と歯がゆい思いです。不安と怒りで押しつぶされそうな私たち親の心を救うのは、祈りと、正しい情報を集めてこの病原菌について理解を深めることでした。これにはインターネットが非常に役に立ち、情報が少ないと言われるこの菌について、一晩でアメリカ政府のCDC(疾病の抑止および予防センター)の医療従事者と患者向けの詳細な解説から、日本の志のある医師たちの手記など、A4版の用紙34枚分も集め、読むことができました。インターネット以前では考えられない成果です。

  私たちは、主に守られて大きな喜びを得ました。と同時に、このほんの数週間で大きな親としての試練をも経験することになりました。そして今も、どんなときにも私たちと共に歩み、導いて下さるパラクレートス(同伴者)な
る主を思い、讃美を捧げて私の証を締めくくります。

IT IS WELL WITH MY SOUL
words by Horace G.Spafford(1828-88)
music by Philip Bliss(1838-76)

1. When peace like a river attendeth my way
When sorrows like sea billows roll,
Whatever my lot, Thou has taught me to say,
It is well, it is well with my soul

平和が、まるで川のように私の歩む道に付き添っているときも、
悲しみが海の大波のようにうねっているときも、
私の運命がどんなものであったとしても、
あなたは私にこう言うように教えて下さいました:
みこころのままに、私の魂はその現実を受け入れます、と。

* It is well with my soul
It is well, it is well with my soul

私の魂はそれを受け入れます
みこころのままに、私の魂は喜びで満たされています

2. Though Satan should buffet,
Though trials should come,
Let this blest assurance control,
Thou Christ hath regarded my helpless estate
And hath shed His own blood for my soul!

サタンが攻め進んで来ても
試練の時が来ても
この祝福に満ちた確信が何よりも勝っていますように
キリストであるあなたが
私のどうすることもできないほどの窮状に心を止めて下さり、
私の魂のあがないとして、主ご自身の血を流して下さいました。

3. My sin, oh, the bliss of this glorious thought
My sin not in part, but the whole,
Is nailed to the cross, and I bear it no more,
Praise the Lord, praised the Lord, o, my soul

私の罪は、ああ、この素晴らしいみこころのこの上ない喜びよ、
私の罪は、部分的にではなく、全体が
十字架に釘付けされて、私はもうこの罪の重荷を負うことがありません
主を讃美しなさい、主を讃美しなさい、ああ、私の魂よ

4. And Lord, haste the day when my faith shall be sight,
The clouds be rolled back as a scroll:
The trump shall resound and the Lord shall descend
'Even so,' it is well with my soul

そして主よ、私が信じていることが実現する日を早く来させて下さい
雲が巻物のように巻き取られてしまう日を
トランペットが鳴り響き、主が天から降りてこられる(この世が終末を迎える)その日を
「たとえそうであっても」私の魂は喜びで満たされています。


この歌の作詞者、ホレイシオ・スパフォードは、シカゴで成功していた弁護士でした。五人の子供に恵まれ、幸せに暮らしていた時に、息子を突然死で失います。その後まもなく1871年のシカゴの大火で財産を失います。彼は妻と4人の娘達を元気づけようと、イギリスで行われる伝道集会に彼らを連れていくことにしますが、急用ができたため彼らを先に船で送って、あとからすぐに合流することにしました。しかし、彼らの乗った船は大西洋の真ん中でイギリス軍艦に攻撃され、沈んでしまったため、彼の4人の娘を含む226人が死亡、妻は奇跡的に救助された数少ない人々の一人でした。妻を迎えに行く船がちょうど娘達の乗った船が沈んだ場所あたりにさしかかったとき、スパフォードは神から力強い慰めを受け、「悲しみが海の大波のようにうねっているときも...みこころのままに、私の魂はこの現実を受け入れます」という歌を作ることができたのだそうです。
(Gwendolin Sims Warren 'Ev'ry Time I Feel the Spirit'Henry Holt and Co.より)

 

 「光の子として歩みなさい」  高 橋 誠


  あなたがたは光の子として歩み、―光のもたらす実はあらゆる善、義、真実にあるのだから―何が主の気に召すことなのかを吟味しなさい。暗闇の不毛な行いに加担せず、むしろ逆に、反駁してやりなさい。彼らによって隠密になされていることは口にすることさえ醜悪なのだから。しかしすべてのものは反駁されれば、光によってあらわにされる。事実、すべてあらわにされるものは光(*1)である。それゆえ、こう言われている。
 
起きあがれ、眠れる者よ。
立ち上がれ、死人たちの中から。
さればキリストが汝に光輝くであろう。
 
  あなたがたは自分たちがどのように歩んでいるのか、知恵なき者のようにではなく、知恵者のように歩んでいるか、この点を正確に見きわめなさい。この時をあますところなく活用しなさい。今の日々は悪しきものだから。それゆえ、無分別にならず、主の御心がなんであるかを理解しなさい。酒に酔わず―酒に放蕩の原因がある―、むしろ霊に満たされて、詩篇、賛歌、そして霊的な歌をもって互いに語り合い、主に向かってはあなたがたの心で歌い、讃美し、いつも、すべてのことについて私たちの主イエス・キリストの名において父なる神に感謝しなさい、キリストへの畏敬をもって互いに従属しあいつつ。  
*1:(太陽に対する月のように)逆に光を放って「立ち現れる」こと。(保坂高殿)

1.「愛にあって歩みなさい」

 先日、聖書に出てくる花々の写真集を見ていますと、綾子が、「香菜ちゃんの名前を考えていたとき、私この本を見ていたのよね。」と懐かしそうに言いました。「女の子だったら、やさしい花の香りのような名前がいいなあ。」
と彼女が言ったのをきっかけに、名前を二人でしっかり決めようと言うことになりました。香菜が生まれる前、妊娠7ヶ月ごろ、3月の末ごろのことでした。この時に私の頭に浮かんだのが、エフェソ人への手紙5章1節と2節でし
た。

「だからあなたがたは、神に愛された子として、神の模倣者になりなさい。そして、愛にあって歩みなさい。キリストもまた私たちを愛し、私たちのために御自身を、神への良い香りとなる献げ物、生け贄としてささげられたように」
 
 このエフェソ人への手紙は、聖書の研究者たちによって、パウロ自身が書いたものではなく、パウロに近い人がおそらくパウロの死後に書いたものの一つと考えられています。「神の模倣者」という表現も新約聖書の中に、ここ一
カ所だそうですが、これは「神に似せられて新しく創造されたものとしてのクリスチャン」という、パウロ以降の新しい考え方を提示していると考えられます。
 さて、あっという間に、「香」という字を使うことに決まりました。「香」と合う音とふさわしい意味の漢字を考えるうちに、「カナ」という名に惹かれました。そして、また私の頭には、一昨年、ガリラヤ湖畔のティベリアから
ナザレに向かう途中で立ち寄った町、カナの風景が蘇ってきました。カナはヨハネによる福音書2章でイエスが最初の奇跡を行う、「カナの婚礼」のあのカナです。もっとも、当時のカナの町は、こことは少し離れたところにある遺
跡の可能性が高いのですが。いろいろ考えて、「な」には「菜」を当てることになりました。おいしそうな名前になりましたね。(あれ?シャンサイ?)
 そして、私たちは、ひとりの人間の誕生を目の当たりにすることになります。すると、不思議なことに、身近なひとびとが経験してきた生と死が、大変な現実味を持って私たちの心に迫ってくるように感じます。そしてまた、多く
の人たちがご自分の子を育てたときの苦労話、また失ったときの悲しみを語って下さいました。主が私たちに香菜を遣わして私たちを教育して下さっているんだ、と感じます。香菜が生まれてほんの4ヶ月ですが、もう彼女が私たち
の生活の中に存在しないなんて、あるいは存在しなかったなんて考えられないほどです。
 これはちょうど、私たちがイスラエル、パレスチナ、ヨルダン、シナイ半島を旅した後に、聖書の地名の方向感覚や位置感覚が生まれただけでなく、聖書を読む度にその場所の人々、風景、地形、植生、空気の臭いなどがよみがえ
り、現実的に感じるようになったのとよく似ています。
 またニュースでイスラエル・パレスチナの紛争でけがをした人、殺された人の話しを聞いても、最早私たちにとって、それはただの統計の数字ではなくなります。私たちが出会った人々の顔が彼らに重なります。陽気で人なつっこいヤセル少年とそのお姉さん達、ミントティーとアラビック・コーヒーを飲みながら親しく話合ったマヘールさん夫妻の額に刻み込まれた悲しみ...が見知らぬ被害者に重なります。また、映像で見た12才の息子をかばいながら、撃ち合いに巻き込まれて打たれてしまった父親を自分と重ね合わせてしまいます。そして、リンチで殺されてしま
ったイスラエル兵とも...。これは、私たちが張さんやピーターのお陰で、韓国やナイジェリアがとても身近に思えるようになったこととも同じ気持ちです。
 イエスは私たちに「良きサマリア人」のたとえ話(ルカによる福音書10:25〜)によって、民族の差別や偏見から解き放ち、私たち皆を「隣人」として下さいました。これは本当に大きな恵みです。にもかかわらず、現実の社
会では依然として紛争や問題が絶えません。これは本当に残念なことです。

 

2.アル・ハラーム・アル・シャリフとシェルム・エル・シェイク
 

 先週、イスラエルとパレスチナの紛争の調停のための国際会議が、エジプトのシェルム・エル・シェイクで行われている、というニュースがありました。これからの和平への努力が実ることを祈ります。この場所はシナイ半島の南
端、イスラエルの南端の町、エイラットから約200キロのリゾート地です。現在エジプトのヴィザなしで、イスラエルから行けるのはこの町か、シナイ山(モーセの山)まで。昨年私たちは、ベドウィンのタクシーでエイラットか
らシャルム・エル・シェイクのちょうど半分ほどのところから右に曲がり、シナイ山をめざしたことを思い出しました。
 連日のように報道されている、リクード党党首のアリエル・シャロンという狂信的な民族主義者の行いによって火蓋が切られたパレスチナとイスラエルの紛争では、多くの人々の血が流され、更に多くの人々の心が引き裂かれ、悲しみと、怒りと、嫌悪感とが、あの美しい土地を支配してしまっています。長年にわたって払われてきたイスラエルとパレスチナの和平への努力は、まるで先日の礼拝説教「黙示録の世界」で読んだ、ヨハネの黙示録11章で底なしの淵から上がってきた獣に殺されてしまう二人の証人(エリアとモーセ)のように、殺されてしまうのでしょうか。
それともまだ希望があるのでしょうか?私は希望に賭けますが、その道のりは大変厳しいものになることは間違いありません。 
 イェルシャライムと発音されるエルサレムは、平和の町、という意味です。また、エルサレムを指すアラビア語、アル・クッズは、「聖なるもの、聖なるところ」また神殿の丘をさすアラビア語はアル・ハラーム・アル・シャリフ
(高貴な聖域)です。私たちの見た神殿の丘は、平和なオリーブの畑、オリーブの木の下で一心に祈る人、楽しそうに散歩をする女性達、静かな祈りの場であるアル・アクサ・モスクと黄金のドーム...。そこが戦場のようになって
しまうとは!残念でなりません。将来、名前の通りの平和の町が実現することを願って止みません。
 イスラエルとパレスチナは、民族主義国家の持つ致命的な問題を代表しているように思えます。イスラエル政府のアラブ系市民やパレスチナ人に対しての政策は、残念ながら、聖書の民であり、またヨーロッパで数々の差別と迫害
、そして殺戮を経験してきた人々の取るべき方向性とはかけ離れてしまっています。
 そして、問題としては、自国民、自分と同じ民族の死については、悲しみを共有するが、他民族ならば構わない、あるいはピンと来ないという人たちがまだ多いことです。自分と同じ立場の人が困っているのでなかったらピンと来
ない。これは日本に於いても大きな問題です。現在、多くの外国人が日本で暮らしていますが、この人達の市民権、人権は守られているとは到底言えません。そして、ほとんどの人々がこういった問題の存在すら、認めていないのが
実情です。想像もつかないのかもしれませんね。戦時中、日本の占領下でアジア各国の人々がどんなに苦しんだか、ということについても、その痛みを共有するための私たちの想像力が試されています。日本軍が中国で「三光政策(
殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)」などという政策を実行した、という恐ろしくも基本的な史実でさえ、ほとんど知られていないと言うのはどういうことしょう。歴史に学んで普遍的な価値観さぐる、などという発想は浮かん
でこないのでしょうか。学校教育の中で(道徳教育)、「日の丸・君が代」を押しつけたり、「日本人としてのあり方」(どうして「人間としてのあり方」じゃないんでしょうか?)「我が国の文化社会の個性」(どうして「世界の
様々な価値観」じゃないんでしょうか?)「民族国家と運命共同体」(...)「自然のなかでの集団生活」などを強調していた’80年代の臨時教育審議会の答申以来、教育改革国民会議中間報告まで、急速に戦前の価値観に戻ろうと
しているのが日本の教育の実態です。
 もう一つだけ、問題点を指摘させて下さい。現在施行されている臓器移植法に於いてですが、15才未満は臓器提供ができません。ということは、心臓移植が必要な乳児・幼児は、臓器移植をあきらめるか、外国で移植を受けるか
という選択を迫られます。この15才未満は臓器提供ができない、という根拠が何なのか、ずっと知りたかったのですが、先週やっとわかりました。なんと、法律で遺言を残せるのが15才からと決まっているので、その年齢以下の
子供の意志表示は、遺言として認められない、というではありませんか。一方で、この法律の壁のせいで、難病の子供達が死んでいっている、というのに。私は死海文書やユダヤ教について勉強する中で、彼らの安息日の行動規定に
対しての頑なさを不思議に思ったりしましたが、身近にもっと深刻な問題があったとは。

私たちの愛するイエスが現代の日本を視察したら、どんなに怒って悔い改めを求めることでしょうね。偏狭な民族主義や官僚主義が蔓延する現代の私たちが、まるで八方ふさがりのような状況にあるときにも、イエスは、実に明快な言葉を下さっています。まさに愛から生まれた言葉、私たちを生かして下さる言葉です:

 

「すべての掟の中で、第一のものはどれでしょう?」
イエスは答えた、
「第一のものはこれだ、聞け、イスラエルよ。我らの神なる主は、一なる主である。そこでお前は、お前の神なる主を、お前の心を尽くし、お前のいのちを尽くし、お前の想いを尽くし、お前の力を尽くして愛するであろう。第二のものはこれだ。お前は、お前の隣人をお前自身として愛するだろう。これらより大いなる掟は存在しない。」
マルコによる福音書12章28b〜31

聖書の引用は、「新約聖書翻訳委員会訳」を使用しました。

2000年10月22日礼拝証し 日本キリスト会川崎教会
 

 
JUST A CLOSER WALK WITH THEE

traditional
arranged by Kenneth Morris

Just a closer walk with Thee
Grant it, Jesus, if you please
Daily walking close with Thee
Let it be, dear Lord, let it be

I am weak and Thou art strong
Jesus Keep me from all wrong
And I'll be satisfied as long
as I walk close to Thee

When my feeble life is o'er
Time for me won't be no more
Guide me gently, safely o're
to Thy shore, dear Lord,
to Thy shore

あなたのもっと近くを歩かせてください
もしよろしければ、イエス様、
私のこの願いを聞き入れてください
毎日あなたの近くを歩かせてください
そうさせてください、愛する主よ、そうさせてください

私は弱く、あなたは強い
イエス様、あらゆる間違ったことから私を遠ざけてください
そうしてくだされば、私は満足です
あなたのそばを歩いている限り

私のもろく短い一生が終わるとき、
もう時間が残されていないとき
私を静かに、安全にあなたの王国の岸へ導いてください、
愛する主よ、あなたの岸へ

 

 「主イエスの蒔いた種」  高 橋 誠


 *穢れに関する論争 ーマルコによる福音書7章1〜16節

 さて、彼のもとに、ファリサイ人たちとエルサレムからやって来たいく人かの律法学者たちとが集まる。そして彼らは、彼の弟子のある者たちが不浄な手で −− ということは手を洗わないで −− パンを食べているのを見た。
 
(というのも、ファリサイ人たちつまり全ユダヤ人は、父祖たちの言い伝えを守り、手を念入りに洗わずには食事をしないのである。また市場から戻った時も、沐浴せずには食事をしない。またその他多くのことを遵守すべきものとして{伝承から}受けついでいる。杯や壺や銅の器[や寝台]を水に浸して洗うことなどである。)
 

 そこで、ファリサイ人たちと律法学者たちは、彼にたずねる、「なぜお前の弟子たちは父祖たちの言い伝えに従って歩まず、不浄な手でパンを食べているのか」。すると彼は彼らに言った、

「イザヤはお前たち偽善者について、み
ごとに預言したものだ{次のように}書いてある通りだ、[すなわち]
 
この民は唇で私を敬うが、
その心は私からはるかに隔たっている。
彼らは、私をいたずらに敬う{に過ぎない}
 
人間の{さまざまな}戒めを{しょうこりもなく}教えとして教えながら。
 お前たちは神の掟をなおざりにして、人間たちの言い伝えにしがみついているのだ」。

また彼は彼らに言った、「お前たちは、自分たちの言い伝えを主張するためなら、神の掟をもみごとに反古にする。というのは、モーセがお前
の父とお前の母とを敬えと言い、父や母を呪う者は必ず死ぬべしと言ったにもかかわらず、お前たちは{次のようなことを}言っている、『もし人が父や母に対し「あなたに差し上げるはずだったものは、コルバン(供え物の意){
となります}」と言えば、父や母に対して、何もしなくてよろしい』、と。{こうして}お前たちは、自分たちが伝えてきた言い伝えで、神の言葉を台無しにしているのだ。またお前たちはこの類のことを数多く行っている」。
 そして再び群衆を呼び寄せ、彼らに言った、「あなたたちは皆、私の言うことを聞いて、悟れ。外で人間の中に入ってきて彼を穢すことのできるものは何もない。むしろその人間から出て行く{もろもろの}ものが、その人間を穢
すのだ。」
佐藤 研 訳

 

1.問題の本質を考える

 今から九日ほど前、5月11日金曜日に、ハンセン病患者に対する(らい予防法に基づく)隔離政策などをめぐる国の責任が問われた国家賠償請求訴訟の判決が熊本地裁で出されました。1907年から、何と1996年まで生き
続けた「らい予防法」の違憲性が認められ、原告が勝訴しました。自由と尊厳を奪われ、生きる権利を奪われ、家族の恥になるという理由で名前も奪われた人々です。憲法で保証されている基本的人権を考えれば、これ以外の判決は
考えられません。しかし、薬害エイズ訴訟の判決をはじめ、納得できない判決を伝えるニュースを暗澹たる気持ちで聞くのに慣れている私は、この当たり前の判決が出されたことに驚きました。この事実に、一条の希望の光を見て良
いのかどうかを考えさせられてしまう日本の司法の現状は、どう考えても憂うべきものです。賠償額は、請求の約1割にとどまりました。一人あたり1,400万円ほど。どんなにつましい生活をしたとしても、十年はもたない程の
額です。一生自由と尊厳を奪われ続けた人々へ充分な生活の保障にも足りないものでした。国は、療養所での生活を終生保証しているじゃないか、という人がいるかもしれませんが、それでは彼らの基本的人権を回復することにはなりません。かつて隔離された療養所という名の収容所に、そのまま一生住んでいていい、と言われて嬉しい人はいるでしょうか?元患者の多くは、今のままの生活を余儀なくされるのが実情です。にもかかわらず、厚生労働大臣は「控訴して和解の道をさぐる」という発言をしています。
 この問題は、法律と社会によって、いかにひどい差別や人権侵害が起こり得るか、という問題を投げかけています。法律や、法律の適用が、適切に行われているかをしっかり監視し、本来あるべき姿に引き戻していくような、司法
のあり方が必要なのだと思います。そして、その基本となる精神が必要です。
 これは全く人ごとではありません。学校や職場のいじめ問題からはじまって、就職問題では、男女の差別、年令による差別がいまでも当たり前のように横行しています。これは明らかに憲法違反です。また、学校では、国旗国歌法
の影響で、国歌斉唱時に起立しなかった先生たちが大勢処分されています。これも明らかに憲法違反です(cf.十九条:思想及び良心の自由は、これを侵してはならない)。また、結婚式で、〜家と〜家との婚礼というのも、「婚姻
は、両性の合意によってのみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有する」(二十四条)という精神からは、ほど遠いのです。私たちも結婚式の後のパーティーをした会場のホテルに、〜家と書かないように、何度も念を押しまし
た。
 「そんなことを言ったって実際日本ではずっとこのように行ってきたんだし、憲法を厳密に捉えたのでは実情に合わない」というのが私の経験から、多くの人が口にする反論です。しかし、この実情は、社会の因習や現状維持に向
いているのであって、決して個人の尊厳や達成すべき理想に向いているのではありません。
 公民権運動家として大きな働きをした、マーティン・ルーサー・キング牧師が次のような言葉を残しています(これは映画「ドライヴィング・ミス・デイジー」の主題になったものです):

 

「中略)(社会を腐らせてしまうのは)悪い人々のひどい言葉や暴力的な行動ではなく、良い人々のぞっとするような沈黙と、うやむやな態度なのです。私たちの世代は、闇の子らの言葉や行動だけを悔い改めるのではなく、光の子
らの恐れや無関心(無気力)をも悔い改めなくてはなりません。」

 

2.主イエスの蒔かれた種
  
 さて、今日の聖書箇所は、ユダヤ教の戒律によって「清い」か「穢れている」かを判断するという価値観をもった人々が、イエスと弟子たちに、戒律を破る根拠を正しているものです。この価値観は今でもほとんどそのまま受け継がれています。食物規定はコシェル。また、例えば安息日の家庭礼拝用ワインに、もし異教徒である我々が触ってしまったら、そのワインは穢れたものになって飲めなくなってしまうのだそうです(p.36みなみななみ「すごいぞイスラエル」)。
 しかし、イエスは「外から人間の中に入ってきて彼を穢すことのできるものは何もない。むしろその人間から出て行くものが、その人間を穢すのだ。」と、この戒律自体の意義を否定してしまわれました。
 私は、宗教上の戒律などをしっかり守って生きる人々の良さや偉さに、そして伝統的な精神をしっかり継承している人々に敬意を払うものですが、宗教、民族による明らかな差別が宗教の名で無批判に続けられることには賛成でき
ません。キリスト教にとっても宗教改革は必要だったと思います。また、聖書の一字一句まで神の言葉なので否定や疑問を呈してはならない、というようなファンダメンタルな束縛をやぶり、聖書を批判的に(学術的に)読んでいっ
てイエスの精神を突きつめて研究をする、ということが進むようになることも、必要不可欠だと思っています。
 では、聖書の時代のこの記事の根底にも、あるいはパレスチナ人との問題に明け暮れる現在のイスラエルに、明らかな差別があった、あるいは、あるのでしょうか?共に食卓に着くことが許されていなかった「穢れた者」「罪人」
とはどのような人々を指したのでしょうか?
 
 「『罪人』とは、ユダヤ教的律法主義の立場からすれば、必ずしも常に、モーセの律法を守り得ない者という一般的な意味で用いられたとは限らず、むしろ、比較的定義がはっきりした概念でもあった可能性がある。つまり、異邦人がまずその典型であり、ついで職業的な理由から異邦人との接触が避けられない者(取税人!)、あるいは、やはり職業的な理由から、律法に定められた大小・軽重さまざまな禁忌に違反せざるを得ないような者(羊飼いなど)、さらには、最近の学説によれば、現代で言う刑事犯に相当する概念であった。(p120,大貫隆「リーフ・バイブル・コメンタリー・シリーズ:マルコによる福音書」)

 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である。」(レビ記19:18)という神の命令にもかかわらず、人間的な視点で、あるいは階級的に人を明確に差別して彼らの社会の秩序を維持しようとする者たちに対し、イエスはこう宣言しています:

 「丈夫な者に医者はいらない、いるのは病んでいる者だ。私は『義人』どもを呼ぶためではなく、『罪人』たちを呼ぶために来たのだ。」(マルコ2:17c)

 律法遵守がすべてとなってしまったファリサイ派の人々に対し、彼らの社会の価値観をひっくり返してしまいました。イエスは生まれや宗教、階層などの違いによる差別を撤廃してしまい、弱い人々、「地の民」と呼ばれた民衆と共に歩まれたのです。

 余談になりますが、聖書の記事が、その記事が書かれた時代を反映して書かれているという一例が、このテキストの中にも見いだせます。
 3節を、新共同訳では「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆」と訳しています。これは「ファリサイ派とユダヤ人は皆」の「と」にあたるκαιというギリシャ語の接続詞をわかりやすいようにという意図で訳されたもので
すが、佐藤研の訳のようにκαιを「つまり/すなわち」と捉え、「ファリサイ人たちつまり全ユダヤ人は、父祖たちの言い伝えを守り...」とすると、西暦70年のエルサレム神殿崩壊の折りに、サドカイ派とエッセネ派が滅ぼされ、ファリサイ派しかいなくなってしまった時代、マルコがこの福音書を書いたと思われる70年以降の時代背景が表出していることになります。(cf.p.32新約聖書翻訳委員会訳「マルコによる福音書」)

 
3.「隣人とは」

 ここでまだひとつ気になる言葉が残っています。先に引用したレビ記の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」の「隣人」とは、同胞、同民族を指すのではないか。イエスはここでも、「隣人」の垣根を取り払ってしまい
ます。「善きサマリア人」として知られているルカによる福音書10章25〜37節を読んでみましょう。

 

*サマリア人によって親切にされた人の譬 ールカによる福音書10章25〜37節

 ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った、「先生、私は何をしたら永遠の命を嗣げるのでしょうか」。イエスはしかし、彼に対して言った、「律法には何と書かれているか。あなたはどのように読んでいる
か」。すると彼は答えて言った、「お前は、お前の神なる主を、お前の心を尽くし、お前のいのちを尽くしつつ、お前の力を尽くしつつ、お前の想いを尽くしつつ愛するであろう。また{お前は}お前の隣人をお前自身として{愛す
るであろう}」。するとイエスは彼に言った、「あなたはまともに答えた。それを行ないなさい、そうすれば生きるだろう」。しかし彼は、自らを義としたいと望んでいたので、イエスに言った、「私の隣人とは誰ですか」。
 イエスは{この問いを}取り上げて言った、「ある人がエルサレムからエリコにくだって行く途中、盗賊どもの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎとり、{彼を}めった打ちにした後、半殺しにしたままそこを立ち去った。すると偶然にも、その道をある祭司がくだって来た。しかし、その人を見ると、{道の}向こう側を通って行った。また同じように一人のレビ人も[現れ、]そのところへやって来たが、{その人を}見ると、道の向こう側を通って行った。
さて、あるサマリア人の旅人が彼のところにやって来たが、{彼のあり様を見て}断腸の想いに駆られた。そこで近寄ってきて、オリーブ油と葡萄酒を{彼の傷に}注いでその傷に包帯を施してやり、また彼を自分の家畜に乗せて宿
屋へ連れて行って、その介抱をした。そして翌日、二デナリオンを取り出して宿屋の主人に与え、言った、『この人を介抱してやって下さい。{この額以上に}出費がかさんだら、私が戻ってくる時あなたにお支払いします』。この
三人のうち、誰が盗賊どもの手に落ちた者の隣人になったと思うか」。
 すると彼は言った、「彼に憐れみ{の業}を行なった者です」。するとイエスは彼に言った、「行ってあなたもまた同じ様にせよ」。  (佐藤 研訳)

 

 私のテネシー留学中に、この「善きサマリア人」のサマリア人を、多くのアメリカ人の友人たちが「隣人」と解して読んでいることに気づきました。「サマリア人」という名が、ただイメージ的に受け取られるに留まっていたので
す。加えて数年前、友人の犯罪をとめなかった少年を、ニュースが「悪しきサマリア人」と呼ぶのを聞き、言葉の意味をしっかり捉えることの大切さと、そうしなければどんなに大きな意味を見失ってしまうかを、ひしひしと感じました。
 このたとえ話の主人公は、旅人なので「(ユダヤ人にとって被差別民族である)サマリア人によって親切にされた人の譬」(cf.荒井献「聖書の中の差別と共生」など)と呼ぶ方が正確ではないかという人も出ています。
 祭司やレビ人が、戒律を重んじ、自分が穢れることを恐れるばかりに、瀕死の人を見捨てるなら、彼らが求める清さとは一体どんな意味があるというのでしょう。 
 民族や属性をすべて取り払った「隣人」。神をまっすぐに見つめるイエスはここで、「行ってあなたもまた同じ様にせよ」と言うことによって、人間社会の常識や私たちの価値基準を縛る壁を取り払ってしまいました。
 さて、イスラエルを旅行すると、このたとえ話の舞台、エルサレムからエリコに降っていく道がどんなところかを肌で感じることができるようになります。標高差1000メートル。ユダの荒野の太陽が照りつけるあの暑さ。その
暑さは次第に増していきます。徒歩で一日の行程だったといわれるこの道は、見渡す限りの砂漠の丘。丘の斜面には山羊がつけた無数の縞模様。そして現在、そこはヨルダン川西岸、パレスチナ自治区です。もしイスラエルの人々が
、パレスチナの人々を「隣人」と認め、愛することができれば、現在続く戦争状態は終わり、単民族支配による民族国家を樹立してそれを頑なに守るという愚かな考えは消え去るだろうにと思えて、残念でなりません。 
 私たちの多くが、日本国憲法をちっともわかっていないで暮らしているのが問題であるのと同じように、聖書の民イスラエル人の多くが、預言者イザヤや、イエスの聖書理解に達していないのは残念なことです。
 パレスチナやイスラエルの隣人たちに一日もはやく平和が訪れるよう、祈りましょう。
 そして、わたしたちも謙虚に聖書を学び続けましょう。

 
「主よ、あなたの教えを読み解く力をお与え下さい、保守的な偽善や、利己的な権威主義から遠ざけ、正しい道にお導き下さい。」

2001年5月20日 礼拝 日本キリスト会川崎教会

 「愛の大きさ」   高 橋 誠


 
§罪の女の塗油 〜ルカによる福音書 7章36節 〜50節

 さて、ファリサイ派のうちのある者が、自分と共に食事をしてくれるようにとイエスに依頼した。そこでイエスは、そのファリサイ人の家に入り、食卓に着いた。すると見よ、その町の罪人であった一人の女が、彼がそのファリサ
イ人の家で食事の座に着いていると知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、後方から彼の足もとに進み出、泣きながら、涙で彼の両足を濡らし始め、自分の髪の毛でそれをいくども拭き、さらには彼の両足に接吻し続け、またく
り返し香油を塗った。しかし、イエスを招待した例のファリサイ人はこれを見て、自分の中で言った、「万が一にもこの人が預言者であったなら、自分に触っているこの女が誰で、どんな類の女か知り得たろうに。この女は罪人なの
だ」。するとイエスは答えて、彼に対して言った、「シモン(注:このシモンは、ペテロとは別人)よ、あなたに言いたいことがある。」。するとシモンは言う、「先生、仰言って下さい」。「ある金貸しに、二人の債務者があった
。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオン借りていた。彼らが返済できないので、金貸しは二人とも帳消しにしてやった。そこで、彼らのうちどちらが、彼をより愛するだろうか」。シモンは答えていった、「思うに、よ
り多く帳消しにしてもらった方でしょう」。するとイエスは彼に言った、「あなたの判断は正しい」。そこで彼は、例の女の方を振り返り、シモンに言った、「あなたにはこの女性が目に入るか。私はあなたの家に入ってきたが、あ
なたは両足にかける水を私にくれなかった。しかしこの女(ひと)は、涙で私の両足を濡らしてくれ、その髪の毛で拭いてくれた。あなたは、私に接吻しれくれなかった。しかしこの女(ひと)は、私が入って来た時から私の両足に
接吻するのを止めようとしない。あなたは私の頭をオリーブ油で拭いてはくれなかった。しかしこの女(ひと)は、香油で私の両足を拭いてくれた。このために、私はあなたに言う、この女(ひと)の罪はたとえ多くとも赦されてい
る。それは、この人が多く愛したことからわかる。少ししか赦されない者は、少ししか愛さないものだ。」そこで彼は彼女に言った、「あなたの罪は赦されている」。すると、一緒に食事の席についていた者たちが自分たちの中で言
い始めた、「罪すらをも赦すとは、この者はいったい誰だろう」。すると彼はその女に対して言った、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安らかに歩んで行きなさい」。
(佐藤研訳)
 

1.「主がこれを必要とされているのです。」

 今日お読みした聖書の物語は、四つの福音書すべてに収録されています。
・マルコ 14:3−9 ・マタイ 26:6−13
・ルカ  7:36−50 ・ヨハネ 12:1−8
 そして、ルカによる福音書以外の三つの福音書は、この物語の舞台をベタニアとしています。ベタニアで思い出すのは、ラザロ、マルタ、マリヤのエピソード(ヨハネによる福音書11章)や、マルコによる福音書11章(他にマ
タイ3:1−11,ルカ19:28−40、ヨハネ12:12−19)の、イエスがエルサレムに入場する準備の場面です。

−−さて、彼らがエルサレムに、つまりオリーブ山のふもとのベトファゲとベタニアに近づく時、イエスはその弟子たちの中の二人を遣わし、彼らに言う、「あなたたちの見ているあの向こうの村に行くのだ。するとその中に入るとす
ぐに、つながれている一頭の子ろばを見つけるだろう。その背にはまだ誰一人乗ったことのない子ろばである。それをほどき、連れてくるがよい。          マルコによる福音書11章1−3節

 ベタニアは、エリコからエルサレムに向かうときに通る村で、あとほんの
3キロ足らず、オリーブ山を越えたらエルサレム、という場所にある村です。丘の斜面に家々が並び、それらの家は外から見ると普通の建物に見えますが、
家の中は洞窟です。パレスチナ・アラブの住民たちは今も、その洞窟で暮らしていますが、真夏でもひんやりとしていてとても住み心地良さそうです。地下には紀元前一世紀にはもうあったといわれている、雨水をためる貯水池も見られます。ユダの荒野、砂漠を歩いてエルサレムへ向かっていた人々がベタニアを見ると、きっと大きな安心を感じたことだろうと思います。
 さて、この子ろばのように、私たちはひとり一人、人生の歩みを進めていくうちに、主によって選び取られ、主のご用に用いられます。友人や家族に手を差しのべること、歩みを共にすること、悩みや苦しみを分かち合うこと、導
くこと、子供達を育てること...。主イエスの福音を求める人々の、良き隣り人となること。「主がこれを必要とされているのです」(マルコ11:3)と、選び取られていることが自覚できる人生は素晴らしいですね。先日、長年
勤めた神田の古書店を退職し、イスラエル旅行から戻られた水島明兄が、「ちいろば」という聖書研究や哲学専門とした古書店を開かれました。バブル崩壊後、多くの専門書店が姿を消し、大きな本屋さんの品揃えも、地道な良い本
について言えば、どんどん悪くなってきています。先日も東京駅八重洲口にある、改装したばかりの丸善に立ち寄った際、キリスト教書コーナーが川崎の有隣堂より小さくなっていたのを見てがっかりしました。未だに大部数売れる本、センセーショナルな話題で買わそうとするような本ばかりが大事にされているような世の中にあって、「ちいろば」のようなまじめで意義深い本屋さんが生まれたことは、大変嬉しいことです。これからの水島兄と「ちいろば」
の歩みを祝し、お祈りを続けたいと思います。

 

2.イエスの平等観

 さて、今日のお話の題は、「愛の大きさ」としました。今日の聖書箇所、7章47節「この女(ひと)の罪はたとえ多くとも赦されている。それは、この女(ひと)が多く愛したことからわかる」という部分から取りました。ここ
で、イエスは、この人がどのような身分か、どのような過去を持っているか、戒律を守っているかなど一切問わずに、彼女があらわさずにはいられないでいる愛情の大きさだけを見て、こういわれます、「あなたの信仰があなたを救
ったのです。安らかに歩んで行きなさい。」今日は、聖書を通してイエスが私たちに教えてくださっている愛の大きさと、「あなたの信仰があなたを救った」ということについて考えていきたいと思います。
 この女性は、マルコとマタイでは、「一人の女」、このルカでは「その町の罪人であった一人の女」、そしてヨハネでは、ラザロとマルタの妹「マリア」となっています。ちなみに、このできごとがあった家の主人も、マルコとマ
タイは、「らい病人シモン」、ルカは「ファリサイ派にうちのある者・シモン」、ヨハネではラザロとされています。そして、このエピソードは、ルカ以外では、エルサレム入場と、イエスの苦難と十字架への歩みの序曲として使われ、香油を塗られることを、埋葬の準備と位置づけています。また、話しの締めくくりも、この女性の赦しではなく、後の世にイエスの福音と共に「この女(ひと)自身が行ったこともまた、その記念に語らえる」(マルコ14:9
)ことを記して締めくくっています。
 しかし、ルカのこの箇所の編集意図は、他の福音書とは違っています。このエピソードがルカの福音書では7章という、大分はじめに近い部分にあり、この家の主人、シモンが「自分の中で言った」ことも、この女性の素性や行い
も何もきかないのにわかっていて、しかも、彼女の罪を赦す宣言までしてしまうことを描写しています。イエスが旧約聖書に出てくる預言者以上の存在だということを表現し、8章25節からくり返される(その他は9章9節と18
節)問いかけ、「この人はいったい、誰だろう」を読者が読んだときに、その答えを、読者が察する手がかりとして、このエピソードが使われているようです。(New Interpreter's Bible,vol.IX参照)
 このエピソードにも、イエスが、求めてくる者を排除しない、男、女も、子供も、病人も、社会の道徳や律法に於いて罪人とされている人も、まったく差別しない、受け入れる姿勢が現れています。これは、大変大切で押さえてお
くべきポイントです。このような徹底した平等の考え、人間本意の考えはイエスからはじまったと言えると思います。
 Let them come! 子供たちを受け入れるイエスの姿はどのように私たちの心に響くでしょうか。

ーさて、人々は、彼のところに子供たちを連れて来ようとした。彼に触ってもらうためである。しかし弟子たちは、彼らを叱りつけた。だがイエスがこれを見て激しく怒り、彼らに言った、
 
「子供たちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはない。」そして彼は、子供たちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。 
         〜マルコによる福音書10章13−16節
  
 そして、もう一つは徹底した平等観です。

ー「しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せよ、そしてあなたたちを迫害する者たちの為に祈れ。そうすればあなたたちは、天におられるあなたたちの父の子らとなるであろう。なぜならば父は、悪人たちの上に
も善人たちの上にも彼の太陽を昇らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さるからである。...」
              〜マタイによる福音書5章44−45節
 

 

 「父は、悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を昇らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さる」とは!イエスが教えて下さる神の愛は、すべての者に注がれているのです。行いが良いひとには良いことが、行いが悪い人には悪いことが起こる、という因果応報の考え方が今も多くの人たちが持っているにもかかわらず、力強くこの言葉を語られます。当時のイスラエルに於いても、病気や良くないことは、その人かその親の罪の報いだと考えられていていたのですが、イエスはこのような考え方を完全に否定されました。 

3.「あなたの信仰があなたを救ったのです。安らかに歩んで行きなさい」
 

 さて、善い行いをして人生を過ごしても、不義を行って人生を過ごしても、神が同じように太陽を昇らせて下さるなら、「この宗教を信じたら、幸せになれるよ」なんていう宣伝がまったく意味をなさないことになります。戒律や、行動の規定によって、救いを得ようと言う姿勢、私たちはこの戒律を守っているから救われているけれど、他の人たちは罪のうちにあるから神様から救われることはない、などという考えは、イエスによってまったく否定されてしまいます。
 'FARTHER ALONG'(もっと遠くへ歩みを進めていけば)という古い讃美歌があります。一見不公平に思える、徹底した神が下さる平等、「父は、悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を昇らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さる」に悩む気持ちが素直に表現されています。

 
 
 'FARTHER ALONG'
 

Tempted and tried thus, oft' made to wonder
Why it should be thus all the day long
While there are others living about us
Never molested though in the wrong

誘惑を受け、試練を受けて、このようによく考えさせられる
一日中、どうしてこうなんだろうと
私たちのそばには、不正をしながら、
決して悩まない人たちが暮らしているのに
 

When death has come and taken our loved ones
It leaves our home so lonely and drear
Then do we wonder why others prosper
Living so wicked year after year

死が訪れて私たちの愛する人を連れていくと、
家庭はとても悲しく、寂しくなる
そして私たちは考える、なぜ他の人たちは
何年も何年も悪い生活を送っているのに栄えているのだろうと

 
Farther along we'll know all about it
Farther along we'll understand why
Cheer up, my brother
Live in the sunshine
We'll understand it all by and by

やがていつか、私たちはしっかりわかるときが来る
やがていつかなぜだか理解するときがくる
兄弟よ、元気をだして、光の中に生きなさい
私たちはすべて理解するでしょう,もうすぐに
(この歌詞はDOC WATSONが歌ったものから。)

 

 「やがていつか理解するときがくる/兄弟よ、元気をだして、光の中に生きなさい/私たちはすべて理解するでしょう,もうすぐに」私たちにも、わかるときが近づいてきたように思えます。
 果たして、たとえこの世の成功が手に入ったとしても、悪や不義の人生を歩みたいでしょうか?イエスの福音に触れた者、イエスの愛に出会った者にとっては、そのようなものは意味がなくなってしまいます。まわりの人々と、また、主にある兄弟姉妹たちと、イエスからいただいた愛を分かち合いつつ、神の愛の中に生きていくことを、切望せずにはいられないのではないでしょうか。こういう気持ちになったときに、イエスの下さる一言が大変大きな意味を
持って迫ってきます。

「あなたの信仰があなたを救ったのです。安らかに歩んで行きなさい」

 

2001年6月17日、日本キリスト会川崎教会礼拝説教より