前のページに戻る



マルコ福音書の研究

     「ペテロの最後」

 「アーメン、アーメン、私は君に言う。君が若かった時には、自分で帯を締めて、思いのままに歩きまわっていた。しかし老年になると、手を伸ばすことになる。すると、他の者が君に帯し、君の欲しない所へ連れて行くであろう」 イエスがこう言われたのは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現わすかを示すためであった。こう話してから彼に言われた、「私に従って来なさい」
                      ヨハネ福音書 21章18〜19節

 愛の試問によって、キリスト教はアガペーの愛の宗教であることを学びました。そのアガペーの愛の中で、フィリアの愛は復活するのです。フィリアの愛は、一度否定された後、肯定されるのです。フィリアの愛の中に、エロースの愛も、ストルゲーの愛も包含され、一度燔祭(はんさい)に捧げられて(創世記22・2)、再び戻されるのです。友愛、肉親の愛、男女の愛、すべての人間の愛が、十字架を通って、甦るのです。人間的な愛の死と復活。
 愛の試問は終わりました。現代の聖書学者の大勢は、記者ヨハネはアガペーもフィリアも混同して用いているのであるから、それを厳密に区別して訳出する必要はないと考えて、15〜17節の問答をすべて「愛」の一語に統一して翻訳していますが、私たちが吟味したように、それは間違った判断です。それでは本文の微妙なニュアンスが損なわれてしまい、読者を誤解に導きます。イエスが三度もくどくどと同じことを尋ねたからではなく、三度目は、ペテロが用いたフィリアの愛で尋ねたので、彼は悲しんだのでした。このようにしてイエスによって現わされた神の愛と、人間の愛の本質が明らかに対比されているのです。カナの結婚式の時の奇跡のように、人間が準備する水(人間的な愛)を、主イエスは良質のぶどう酒(アガペーの愛)に変えて、至福の喜びを人々に与えて下さるのです。
 「私の羊を飼いなさい」 復活の主イエスは、新しい共同体(教会)の指導をペテロに委任することによって、彼の心にわだかまる罪責感を拭い去り、共同体の中での彼の地位を回復させます。愛の試問の結果は、文句なしの合格ではなく、条件つきの合格でした。私たちも又、立派な信仰のゆえに恵みの場を与えられているのではなく、それは主の憐れみの愛によるのです(エペソ2・7〜9)
 「アーメン、アーメン、私は君に言う」 この言い方は大切なことを言う時のイエスの口ぐせでした。「アーメン」はヘブライ語の「然り」「その通り」という意味で、普通は祈りの末尾に言われるのですが、イエスはそれを冒頭に持ってきたのです。それによって当時の偽善的な宗教家の祈りを痛烈に批判したのかもしれません(マタイ6・5) それですから聖書協会訳のように「よくよく言っておく」としたり、新共同訳のように「はっきりいっておく」と訳したりしないで、イエスの口調をそのままにしておく方が力強いし、深味も感じられるのです。
 「君は若かった時には…、しかし老年になると…」 これは恐らくペテロの殉教を当時の格言を用いて予告したものでしょう。「これは恐らく格言的に言い古された言葉──若い時には人の助けは要らぬ、まだ元気なのだから。年をとれば急に弱くなり、老いぼれて人の助けを頼りにする──が元になって作られたものであろう」(シュルツ) 18節の謎めいた格言的言葉の解釈を19節がしています。ペテロが殉教の死を遂げたという伝承は、ヨハネの教団の人々には周知のことでした。「どんな死に方で」とは恐らく十字架の死を暗示しているものと考えられます。クレメンスの第一の手紙の中に、ネロ帝によるキリスト者の迫害の記事があり、その中にペテロとパウロへの言及があります。「…ねたみと羨望により最大の義の柱たちが迫害され、戦って死に至った。われわれの眼前に優れた使徒たちを描くことにしよう。ペテロは不正なねたみによって一つや二つではなく、多くの苦難を忍び、そしてこのような証しを立てた後、栄光の所に行った。パウロはねたみと争いによって忍耐の報賞を示した…」(原典新約時代史) エウセビオスの「教会史」によれば、パウロは斬首され、ペテロは磔刑に処せられたということです。
 ヨハネ福音書によれば、イエスにとって十字架は「栄光の時」(12・23)でした。十字架を通してイエスは天に挙げられ、父なる神の右に座すのです。しかし理性ではそれを承知していながら、本能では不安なのです。「今、私の魂は動揺している。私は何と言うべきか。父よ、この時から私をお救い下さい」(12・27) 十字架の過程には、このような内心の葛藤を味わわねばなりません。これは多少に拘らず信仰生活の中で味わう経験です。これを厭い避けるようでは本物の信仰は得られません。祈りつつ、耐え忍ぶことが肝要です。歴史のイエスが先ずこうして十字架の道を歩まれた後、復活のキリストがペテロに、同じ十字架の道を歩くように命じておられるのです。「私に従って来なさい」
 ここで再び18節の格言的な言葉に戻ると、その意味がはっきりしてきます。「若い時には…」とは、信仰が来る以前には、自分の欲望の赴くままに、あれか、これか、と迷いつつ歩き回っていた。しかし「老年になると…」、即ち信仰が来て、その信仰が君を拘束し、君の欲しない所=十字架へ導いて行くであろう。神の愛(アガペー)が結晶して人間イエスと成りました。そして神の愛は、この世では茨の冠を載せられて、十字架に付けられます。しかし、人が復活のイエスに出会って、彼の中に神の愛を発見すると、その愛に魅せられて、その人もまた、十字架の道を歩み始めるのです。「かくも驚嘆すべき かくも神々しき愛は 私の魂を 私の生命を 私の一切を 要求する」(アイザック・ウォッツ)
 「私は、愛がいささかでも確かな手ざわりで触れることができるのは、こうした狂気においてであるように思えてなりません。まことの愛は、いわゆるキレイごとの世界では感じ取れないもののようです」(「牧歌」四二二号 飯島正久) これは十字架の愛に献身する人生の証言です。「彼はこれらの自著から得た収益を殆ど山本書店につぎこみ、余り売れそうもない聖書学関係の書物や論文集の出版の費用にあてた」 これは山本七平先生について述べた中沢洽樹氏の言葉です。
 愛の口頭試問は終わりました。次にくるのは愛の実地試験です。「私の羊を飼いなさい」そして善い羊飼いに成りなさい。「善い羊飼いは、羊のために生命(プシケー)(魂)を捨てる」(10・11) これはペテロだけでなく、すべての主の弟子に告げられている御言葉です。
                  一九九四年 二月二〇日 礼拝説教

     「愛弟子の最後」

 ペテロが振り返ると、イエスの愛していた弟子がついて来るのが見えた。この弟子はあの食事の時、彼の胸に寄りかかって、「主よ、あなたを裏切るのは誰ですか?」と言った者である。ペテロは彼を見ると、イエスに言う、「主よ、この人はどうなるのでしょうか?」 イエスは言う、「たとえ私が来る時まで彼が生き存えていることを私が望むとしても、君と何の関係があるのか? 君は、私に従って来なさい」 それで、この弟子は死なないのだ、という言葉が兄弟たちの間に広まった。しかしイエスは、彼は死なないのだ、と言ったのではなく、「たとえ私が来る時まで彼が生き存えていることを私が望むとしても、君と何の関係があるのか?」と言われたのである。
                       ヨハネ福音書 21章20〜23節

 近頃、臨死体験者や霊能者の言葉によって、人間は死後も生き続けるものだという考え方が出て来たことは興味深い。しかしそのことと福音が語る復活とを混同してはならないと私は考えます。なぜなら、福音の語る復活は、ひとえに人間の主イエスに対する愛の問題と深く関わっているからです。主イエスと私との愛の関わりを真剣に問題にすることなしに死後の生(いのち)について考えることは、すべて空しいものです。そのことを私たちは愛の試問(15〜17節)と、それに続くペテロの最後に関する御言葉(18〜19節)から学びました。 ペテロは主イエスの御手から殉教の死を賜りました。ペテロにとって十字架刑は、主からの愛(アガペー)の賜物でした。ペテロは殉教の死を遂げることによって、神の栄光を現わし、真に生きる者と成るのです。「自分魂(プスケー)(命)を可愛がる(フィオレー)者は、それを失い、この世で自分の魂(命)を憎む者は、それ(自分の魂=自己自身)を保って、永遠の生命(ゾーエー)に至るであろう」(12・25) 復活とは、救いを得て、永遠の生命に与かることに外なりません。
 「私に従って来なさい」 主の命令を受けたペテロがそうしようとしてふと見ると、あの愛弟子がイエスの後ろから歩いて行く姿が見えました。ここで記者は13章23節を振り返って愛弟子の説明をしています。その個所の用語、「イエスの愛しておられた弟子はイエスの胸もと(懐)にいて…」(25節)は、1章18節の、「神を見た者はまだ一人もいない。ただ父の胸もと(懐)にいる独り子なる神だけが、神を現わしたのである」という言葉によく似ています。恐らく、イエスと愛弟子との関係の親密さを表現しているのでしょう。イエスとペテロの間にいた愛弟子がペテロの質問をイエスに取り次ぎます、「主よ、あなたを裏切るのは誰ですか?」 イエス・愛弟子・ペテロという、その位置関係がここでも再現しています。ペテロは命じられて従う気になったのですが、愛弟子は言われなくても主の後ろに従って行ったのです。
 この物語の記者は「私に従って来なさい」という主の言葉を二重の意味で使っています。信仰的な意味では、イエスが歩んだ通りに十字架の道を歩む、ということで、そのことは時間空間を超えて、すべてのクリスチャンに求められている生き方です。しかしここの情景では、信仰的な意味を内包しながら、その言葉は文字通り具体的、空間的な意味で、イエスの後ろからついて行く、ということです。ここでも又、ペテロと愛弟子は競合関係にあります。イエスの後ろから黙ってついて行く愛弟子の姿が気になって、ペテロは主に愛弟子の将来を尋ねてみたくなりました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか?」この言葉には、主はすべてを見透しておられ、すべてを御意志のままに導かれるという信仰が前提とされています。復活の主イエスは全能者なのです。
 ペテロの質問に対するイエスの答えは難解です。「たとえ私が来る時まで彼が生き残っていることを私が望むとしても、君と何の関係があるのか? 君は私について来ればよいのだ」 イエスの言葉に冷たいものを感じます。信仰者の生き方の基本がここに示されています。信仰の問題は、究極的には、人それぞれなのです。親と子、兄と弟、姉と妹、夫と妻、友と友とが、直接的な関係で結びつき、運命を共にすることは許されません。ペテロはここで余計なことを尋ねてしまったので、お叱りを受けたのです。死ぬ時はひとりで死ぬのと同様に、主の御前に立つ時も一人であるのです。そこに個人の自覚と責任が生じてきます。主の御手から受けた人生を担って行くのは、自分一人なのです。お互いに愛し合い、助け合うことは大切です。しかしそれはあくまでも隣人としての範囲に止(とど)まるのです。主によって単独者とされた者同士が、一期一会の機会が与えられた時に隣人愛が実行されるのですが、人生の基本は孤独の道を歩む、ということです。問題はその孤独の道を仕方なしに歩むのか、それとも、主の御手から授けられた愛の賜物として感謝しつつ、覚悟を決めて歩むのか、という点に信仰の有無が問われるのです。
 「この愛弟子を見たペテロはすぐ、『この人はどうなるのでしょうか』という簡単には分かり難い問いを発する。つまりこれは、あなたは彼にどういう運命を与えたのかということである。イエスの答えによって、愛弟子はペテロのように殉教死を共にするのではなく、復活した主の来臨の時まで生き存えるのだ、ということがはっきりさせられる」(シュルツ) ペテロは殉教の死を遂げることによって神の栄光を現わし、愛弟子はこの世に生き存えることによって復活の主イエスの証しをなして神に栄光を帰することが、復活の主によって与えられた両者の人生なのです。
 22節のイエスの言葉が原始教会の人々の間で誤解されて広まっていることを記者は23節で指摘し、訂正しています。主の愛弟子は主イエスの来臨の日まで生き存えて死ぬことはない、と預言されたのではなく、「たとえ…であっても」という条件文で語られたのだ、とダメを押しているのです。わざわざそのような訂正の言葉が述べられている理由は、恐らく、主の愛弟子が非常に高齢になるまで長生きしているのを見て、もしや彼の生存中に主の来臨があるのではないか、と人々は期待していたのでしょう。しかしやはりそうはならず、主の愛弟子は主の来臨に会うことなく、平安のうちに死んで行ったのです。
 主の愛弟子はヨハネである、という伝統的な理解を受け入れれば、イエスの相弟子としていつも仲良しコンビを組んでいたペテロとヨハネであっても、その後半生は全く違った道を歩みつつ、各々が神の栄光を現わす証人として生きた、と語られているのです。
                  一九九四年 二月二七日 礼拝説教

      「ヨハネ福音書の結語」

 これらのことについて証言し、これを書いたのは、この弟子である。私たちは彼の証言が真実であることを知っている。しかしイエスがなさったことは、その他にもまだ沢山ある。もしその一つ一つを書き記すならば、全世界もその書かれた書物(巻き物)を収容することはできないであろうと、私は思う。
                      ヨハネ福音書 21章24〜25節

 「私は、あなたがたの所に一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲って下さいませんか? 亡くなった妻を葬ってやりたいのです」(創世記23・4) アブラハムは妻サラを埋葬するために、ヒッタイト人の地主エフロンに頼んでマクペラの洞穴を銀四百シェケルで譲り受けました。現在その場所はヘブロン市内にあり、アブラハムの霊廟として大きな建物がたてられており、イスラム教徒とユダヤ教徒が共通の礼拝所として使用しています。去る2月25日、イスラム教徒が礼拝をしている最中に、一人の過激派のユダヤ教徒が自動小銃を乱射し、50人以上のパレスチナ人を撃ち殺した事件が起きました。ヘブロンはアラビア語でエル・カリール(友)と呼ばれています。神の友アブラハムにちなんで名付けられたその土地での両教徒の争いは、私たちの心を大変に痛めます。
 さて、21章24〜25節は、この福音書の二番目の結論の言葉です。最初の結びの言葉は20章30〜31節にありますが、21章を付加した人は重複を承知の上で、もう一度、結びの言葉を記しています。24節が、21章全体を理解する鍵の言葉です。「この節は、21章の語り手がなぜこの弟子と彼の運命にこのように関心をいだくのかを明らかにしている。この福音書の編集者が呼び出したこの弟子、最後の生き残った目撃者であり、その証言は、私たちが知っているように真実であるこの弟子が、自身でこの福音書を書いたのである。語り手はこの場所に来るまでは守っていた抑制を、『これらのことを書いたのは、この弟子である』という言葉をもって取り払う。ここに呼び出された愛弟子は、目撃者であるばかりではなく、また福音書そのものの著者なのである」(ヘンヘン)
 24〜25節はヨハネ福音書の最終的編集者の言葉です。彼は「主の愛弟子」を師と仰ぐ立場にいます。それで、21章23節までは、主の愛弟子が書いたものとして、その証言を権威付けています。そしてこの福音書の読者は、ヨハネの共同体(教会)の人々です。そうすると、なぜ、ペテロと主の愛弟子の競合関係がくり返し語られているのかという疑問が解けて来ます。ヨハネの共同体の師であり、真実を語る証人として信望を寄せられていた主の愛弟子は、主イエスより後継者として全教会の指導を任せられたペテロと比べて決して遜色のない人物であり、ペテロが殉教の死を遂げた後は、その後継者と成って主の証人として働き、長寿を全うして主の御許に召されたのである、と言外に語っているのです。問題を整理しますと、20章29節までを編集した人が、20章30〜31節の第一の結語を書いた。21章1〜23節を付加した人が、21章24〜25節の第二の結語を書いている。そして彼は、この福音書全体は「主の愛弟子」によって書かれたのである、としているのです。そして教会の伝統は、主の愛弟子はゼベダイの子ヨハネであると理解してきました。即ちゼベダイの子ヨハネが、ヨハネ福音書を書いたのである、と。しかし現代の批判的聖書学者の多くは、恐らく、エペソ教会の長老ヨハネが主な著者であろう、と考えています。私は後者の意見の方に分があると思っています。「ヨハネ福音書の著者問題というのは難問であって、昔から多くの議論がある。しかし、最近においてはこの著者問題は学者の関心事ではなくなってしまった。その理由は、以前においては、福音書の著者が誰であるかは、その福音書を理解する上で最も重要なことであると考えられていた。しかし現在では、テキストの語る所を学問的に吟味して、テキスト自体から理解するという方法がとられることになったので、著者問題はもはや重要ではなくなったのである」(山下次郎)
 古代のユダヤ人は、名目上の著者と実際上の著者が違っていても、少しもかまわなかったのです。名目的には申命記の著者はモーセですが、実際にはそれよりずっと後世の思想家の筆になるものです。詩篇の多くはダビデの作とされていますが、実際は、多くの無名の信仰者が詠んだものです。古代人は著作権を主張したり、本を書いて有名になろうというような自我意識は無かったのです。従って、書いたものに署名をすることは極めて希でした。特に信仰をもつ作者は、自分の書いたものが、多くの人々に読まれて神の御名が讃美され、人々の信仰が励まされることをのみ願っていたのでした。その伝統的な精神は、現代の聖書解釈者たちにも受け継がれており、かくいう私自身も浅学非力ながら、日々に努めている一事なのです。「徒労に賭ける」という決心が無ければ、日本におけるキリストの福音伝道などできるわけがありません。一人の本物の日本人クリスチャンが生まれることは、本当に希なのです。それは神の奇跡的御業という外ありません。急流の中に立っている一本の棒杭のような覚悟と緊張をもたなければ、圧倒的な世俗の潮流に抵抗して立ち続けることは不可能です。「千人は汝の左に倒れ、万人は汝の右に倒る。されどその災いは汝に近づくことなからん」(詩篇91) 信仰は神の恵みの賜物なのです。しかしまた、人の目に「徒労」と見える所に、神の栄光が現わされるのですから、誠に不思議です。
 25節は「壮大なる誇張」です。これは20章30節よりも大風呂敷です。「この福音書の著者は、広大な大洋からほんの一杯の水を汲み取って描き、無数の星座から、あの星、この星と選んで、キリストの中にあるものを指し示したに過ぎないと感じて、壮大なる誇張をもって筆を置いたのである」(インタプリターズ・バイブル) 成程、客観的に見ればこれは壮大なる誇張です。しかし主観的に考えれば、全くこの著者の言う通りなのです。私たちがマルコ福音書を学び始めてから四年以上になります。その間、多くの発見や新知識を得たのは事実です。しかしそれで私たちは福音の専門家になったわけではありません。「神の奥義なるキリストの知識」(コロサイ書1・7)の、ほんのわずかを知り得たに過ぎません。私たちはまだ素人で、初心者なのです。しかしそれは残念なことではなく、感謝すべきこと、喜ぶべきことです。その学ぶ喜びは天国へ行っても継続されるのです。
 「生きて学ぶは、いかに善きかな!」
                  一九九四年 三月 六日 礼拝説教

      「主イエスの復活観」

 復活はないと主張しているサドカイ人達がイエスの許に来て尋ねた。「先生、モーセは私たちのためにこう書きました。『ある人が妻を残して死に、子が無い場合、その弟が兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』(申命記25章5節) さて、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとり、子がなくて死に、次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同じくし、こうして七人とも子を残さずに死に、最後にその女も死にました。復活の時、彼らが甦ると、その女は誰の妻になるのでしょうか? 七人共、その女を妻にしたのです」
 イエスは言われた。「あなた達は聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのだ。彼らが死人の中から甦る時には、めとることも嫁ぐこともなく、天にいる天使のようになるのだ。死人の復活については、あなた達はモーセの柴の篇で、神がモーセに言われたことを読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』(出エジプト記3章6節)と書いてある。神は死人の神ではなく、生ける者の神である。あなた達は大変な思い違いをしている」
                      マルコ福音書 12章18〜27節

 死は、古代人にとっても現代人にとっても、冷酷なる現実です。他人だけではなく、自分の最愛の肉親も、そして自分自身も、必ず死ぬ日が来るのです。私たちが死を忘れていても、死は私たちを忘れてはくれません。今日、「死の準備教育」が唱えられています。実は聖書の学びは最も適切な死の準備教育なのです。私たちがイエス・キリストの十字架の死と復活について詳しく学んできたのは、それが自分の死と復活とに深く関わりをもっているからなのです。「死は勝利に呑み込まれてしまった。死よ、お前の勝利はどこにあるか? 死よ、お前の刺は、どこにあるか?」(コリント第一書15・55) 復活の主イエスのみが死に対するこの勝利の歌をうたわしめて下さる力をもっておられます。
 さて私たちはこれまで、新約聖書、特に福音書の中から、イエスの復活についての様々な記録を学んできました。そして発見したことは、大別して二つの信仰的な流れが対立関係にあるということです。イエスの肉体的な復活を強調し、それに復活の根拠を置く信仰と、霊のからだに甦り、聖なる霊と成って信じる者の内に生きて働き給う主イエス・キリストに復活の根拠を置く信仰と。即ち、見て信じる信仰と、見ずして信じる信仰と。今日は、主イエス御自身は「復活」をどのように考えておられたか、について学びます。
 「元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらはみな、存在すると主張している」(使徒行伝23・8) これで見ると古代のユダヤ人も現代の日本人も、復活と死後の存在を信じるか、信じないかということについては、全く相違がないように思えます。いやむしろ、自分の信じる立場をはっきりさせていたという点で、古代のユダヤ人の方が勝れていたとすら思えます。
 「サドカイ人は、霊魂は肉体と共に消滅するという教義を信奉している。彼らは、書かれた律法以外の何ものにも従うことを認めない…」(ヨセフス) サドカイ人とは、モーセ五書のみを唯一の権威として信奉していた神殿の上級祭司や富裕の地主階級の人々から成るユダヤ教の一派閥でした。神への信仰は現世限り、来世も復活もない、という現実主義的な考えは、古代イスラエル宗教の中にありました。それに対して、終末の日のメシアの来臨、死者の復活、最後の審判という観念的な信仰は、後期ユダヤ教の中に現われてきます。イエスの時代には、知識階級であり、民衆の教師でもあったパリサイ人は、民衆と共に終末時の復活信仰を共有していました。
 さて、サドカイ人がやってきました。復活信仰というものが、いかにナンセンスであるかを示すために、一つの難問を用意して来ました(18〜23節) これは当時サドカイ人がパリサイ人に対して問うていた質問でしたが、パリサイ人は既にその答えを出していました。即ち、その女は、復活の時には、長男の妻になると。これは常識に適った解答でした。優先権の問題です。しかし恐らく、律法の言葉を盾にとって迫るサドカイ人は、その常識的なパリサイ人の解答で屈服させられなかったことでしょう。
 「あなた達は聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのだ」 これは驚きです。サドカイ人もパリサイ人も、聖書の専門家のはずです。「神の力を知らない」とは、信仰が無いというのと同じです。生きた信仰なしで聖書の言葉を解釈しても、それは見当違いな方向に行ってしまいます。その点、古代も現代も変わりありません。
 「死人の中から甦る時には、めとることも嫁ぐこともなく。天にいる天使のようになるのだ」 これはパリサイ的復活観に対する批判です。復活の時の生(いのち)を、この世の生の延長のように考えている点に、彼らの間違いの原因があるのです。この世は肉体の維持と存続に最大の注意を払います。即ち、衣食住の問題と、結婚して子孫を残すという問題が最大の関心事であるのです。しかし、死者が復活して霊的存在(天使)になると、肉の束縛から解放され、この世の思い煩いから自由にされますから、純粋にアガペーの愛のみで神に仕え、隣人たちとの交わりを喜び楽しむことができるのです。パリサイ人は、死者の肉体が復活してこの世に現われてくると考えたのに対して、主イエスは、肉体が霊体に昇華し、死ぬべきものが不死なるものに変質を遂げるのである、と言われたのです。
 「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」 これが、復活はない、と考えていたサドカイ人に対する批判です。その三人の族長は、モーセに対する生ける神の証人でした。目に見えない生命の神は、その存在を証明するための証人を必要とします。死者は証人として失格です。生きている者のみがその資格をもっています。従って、アブラハムもイサクもヤコブも、神と共に生きている者です。生ける神を信ずる者は、神と共に永遠に生きる者です。復活を否定する者は、生ける神に対する信仰を否定するものです。
 「神は死人の神ではなく、生ける者の神である」 従って、生命の神から離れている者は、たとえ肉で生きていても既に死人であり、神を信じて生きる者は、たとえ死んでも、復活の生命を与えられて生き続けるのです。これが主イエスの復活観です。
                  一九九四年 三月一三日 礼拝説教

      「パウロの復活観」

 私が君たちに最も大切な事として伝えたのは、私自身も受け継いだことである。即ち、キリストは聖書に従って、私たちの罪のために死に、かつ葬られ、聖書に従って三日目に起こされたこと、そして彼はケパ(ペテロ)に見られ、それから十二人に見られたのである。その後彼は五百人以上の兄弟たちに同時に見られた。その中のある者は既に眠ったが、大部分の者は今も尚、生存している。その後彼はヤコブに見られ、それからすべての使徒たちに見られ、そして最後に、いわば未熟児のようなこの私にも見られたのである。実際、私はかって神の教会を迫害したので、使徒と呼ばれる値打ちのない者である。しかも尚、神の恵みによって、私は現にある通りの者である。そして神の恵みは私にとって無駄にならず、却って私は彼らすべての者よりも多く働いた。もちろん働いたのは私ではなく、私と共にある神の恵みなのである。
                     コリント第一書 15章3〜10節

 映画「シンドラーのリスト」を見て感動しました。金儲けと女とパーティーが大好きという、かなりでたらめなドイツ人、オスカー・シンドラーという名前の男が、ホロコーストの恐怖に直面しているユダヤ人達と関わるようになり、ごく自然に、ユダヤ人も自分と同じ人間であると考え、私財を投じ、身の危険を冒して、終に千人以上のユダヤ人の命を救った物語です。監督のスピルバーグ自身もユダヤ系アメリカ人で、幼い頃「人々の腕に刻まれた数字(収容所の囚人番号の入れ墨)で数を覚えた」経験をもつた人です。
 一つの事件が起こり、それに関わった人々の魂の中に一つの体験としてそれが沈潜している。するとある時、一人の霊感をうけた人物が現われて、人々の魂の底で眠っていた体験を掘り起こし、枝葉を整え、秩序を与え、想像を加え、生命を吹き込んで、一つの作品として世に問う。それが現代においては映画であり、古代においては福音書であった。そう考えると、福音書は本当に「キリスト劇」の傑作です。私たちはそのドラマを見て、泣き、笑い、感動し、霊感を吹き込まれ、生命を受けて生きているのです。
 キリキヤ州タルソ市出身の若いユダヤ人サウロ(パウロのユダヤ名)は、律法学者ガマリエル一世の門下生として、律法の勉学と実践に精進していました。当時ユダヤ教の中に変な連中が現われて、世間を騒がせていました。彼らは数年前、十字架にかけられて処刑されたナザレのイエスが復活してキリストに成ったのだ。イエスこそはユダヤ人が待望していたキリストなのだ。人々は彼を十字架にかけて殺してしまったが、神は彼を甦らせて、キリストとしてお立てになった。さあ、キリストの救いに与かりたい人は、罪を悔い改めてバプテスマをうけ、この交わりに加わりなさい、と勧めていました。その連中の中には過激な者もいて、神殿の礼拝も不必要、律法の励行も関係なし、ただナザレ人イエスをキリストと信じて彼に依り頼むだけで救われる、と言いふらしていました。
 律法の実践に人一倍熱心であったパリサイ派の学徒サウロは、その「気違いたち」の鎮圧にのり出し、彼らを見つけ次第、男も女も縛り上げて、連行していました。ステパノという男を石打ちの刑にして殺した時の責任者はサウロでした。ある日「気違い連中」を追って、シリアのダマスカス市の郊外まで来た時に、その「気違い達」の首領である復活のイエスに出会ってしまったのです。するとサウロは、その時その場で、人生の一大方向転換を行ない、それ以後は最も過激な、復活のキリストの証人として、ローマ世界を馳けめぐり、終にローマで殉教の死を遂げたのでした。「パウロの回心」もルカによってドラマ化されて使徒行伝の中に描かれています。
 その回心の瞬間にパウロは何を見たのか? 確かに、肉体で復活した主イエスではありませんでした。「母の胎内にある時から私を聖別し、恵みをもって私を召し出されたお方が、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子を私の内に啓示して下さった時…」(ガラテヤ書1:16) 復活の主イエスとの出会いは、パウロの内奥の霊的経験でした。
 「私は自由な者ではないか? 私は使徒ではないか? 私たちの主イエスを見たではないか? 君たちは主にあって、私の働きの実ではないか?」(コリント第一書9・1)というパウロの主張を支える基盤は、彼の魂の中で起こった復活の主イエスとの出会いという霊的経験でした。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことができい」(同12・3) これも又、「主イエスを見る」ということの別の表現です。
 これとは反対に、パウロは肉的な経験を重んじませんでした。「私たちは今後、誰をも肉によって知ることはするまい。かってはキリストを肉によって知ったとしても、今はもうそのような知り方をするまい」(コリント第二書5・16) これは昔、生前のイエスと知り合い、可愛がってもらったというような経験は、何ら信仰とは関係がない。大切なのは、今、復活のキリストと生きた関係の中にあるかどうか、ということです。「キリストの愛が私たちに強く迫っている」(同5・14)
 今年も復活節が近づいてきました。復活というと人々は必ず、死人が生き返って、墓の中から出て来るものと想像し、そんな不合理なことは有り得ない、と否定します。クリスチャンも、理性的には承認し難いが、神の力は人間の理性を超えているので、聖書に書いてある通りの出来事が起こったと信じざるを得ない、と思っています。それで誰もが復活について語ることを遠慮します。イースターが、教会の中でも外でも、クリスマスほど人気がないのは、そこに原因があるものと思います。しかし、キリストの復活なしにキリスト教は有り得ないのです。復活の福音を宣教しない教会は、キリスト教会ではありません。そこで私たちが論証してきた成果が力を発揮します。福音書の中でイエスの肉体的な復活を強調している記事は後世の伝説的な資料であって、健全な信仰が基準とすべき歴史のイエスに近い古い資料はすべて、復活の主イエスの霊的な顕現として証言されています。
 冒頭のテキストにある通り、復活のキリストは「人々によって見られた」のです。裏切り者の弱いペテロが原始教会の第一人者に成ったのは、復活の主イエスに出会ったためであり、キリスト教徒の迫害者であったパウロが、回心後は、十字架と復活の福音を携えて異邦人の使徒としてローマ世界を馳けめぐったのも、その原因は、復活のキリストとの霊的、人格的な出会いにあったのです。
                  一九九四年 三月二〇日 礼拝説教