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マルコ福音書の研究

      「 聖霊を受けよ 」

 イエスは再び彼らに言われた、「平和が君たちに! 父が私をお遣わしになったように、私も君たちを遣わす」 そう言いながら彼は彼らに息を吹き入れて言われた、「聖霊を受けよ。誰の罪でも、君たちが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、君たちが赦さなければ、そのままに留まる」
ヨハネ福音書 20章21〜23節

 エルサレムのある家の一室で、ユダヤ人の目を恐れて、すべての戸を締め、鍵をかけて、弟子たちは潜伏していました。外部世界の圧力を恐れて、狭苦しい内部世界に閉じ籠るという状況に私たちも追い込まれることがあります。病気、事故、災害、失敗、失業そして死。今日の私たちにも多くの恐れと不安があります。私たちの生命と生活を脅かす様々な要因があり、それらを突き詰めて考えると、心は不安と恐れに満たされます。そういう時に、「シャローム!(平安あれ!)」と言って、復活の主イエスが私たちを訪れて下さると、不安と恐れが消滅して、平安と喜びに満たされる、という信仰的な経験が私たちにはあるものです。しかしその恵みに留まるだけではその信仰は不十分なのです。
 「父が私をお遣わしになったように、私も君たちを遣わす」 復活の主イエスに出会い、平和と喜びを与えられた者は、平和の使者とされて、世に送り出されるのです。父なる神は、神の子イエスをこの世に遣わされました。「神はその独り子を与えたほどに、この世を愛された。それは御子を信じるすべての者が滅びることなく、永遠の生命を得るためである」(3・16) それと同様に、いま天的存在者と成られた復活の主イエスは、御自身の御業を継続させるべく、弟子たちを世に遣わされるのです。この21節の言葉は、「大祭司の祈り」(17章)の成就です。「あなたが私を世に遣わされたように、私も彼らを世に遣わしました」(17・18) すべてのクリスチャンは、主イエスの愛と平和のミッション(使命、天職、特別任務)を与えられているミッショナリー(伝道者、宣教師)なのです。使徒パウロも同様に勧めています。「食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべてのことを、君たちは神の栄光のためにしなさい」(コリント第一書10・31)
 [そう言いながら彼は彼らに息を吹き入れて言われた、『聖霊を受けよ』…」 復活の主イエスは弟子たちに役割を与えるだけではありません。いわゆる「仏つくって、魂入れず」ではありません。重大な使命を遂行する力も与えて下さるのです。「霊の賜物を分け与えることによって、最後に、訣別説話の約束(14〜16章)が実現される。聖霊がここでは、息吹によって媒介されるが、これは恐らく創世記2章7節を暗示していよう。創造の時、最初の人(アダム)に生命の息が吹き入れられたように、弟子たちはここで、世界伝道の使命を遂行するため、聖霊という何物にも優る賜物を受けるのである。復活の主は、ルカ福音書24章49節のように、聖霊を約束するだけではなく、聖霊を今、弟子たちに与えるのである。既に訣別説話(14・15以下)において告げられたように、復活の主が、その間に天的な様相にかえった神人として現われる時、復活節と五旬節(聖霊降臨日)と伝道の命令とが、同時に起こるのである」(シュルツ) 物事を客観的、歴史的に捉えるルカは、復活の後、イエスは40日間、弟子たちの間に現われてから昇天し、その10日後、即ち復活日から数えて50日目に、弟子たちの上に聖霊が降臨して、彼らは世界伝道に派遣された、と使徒行伝に記しています。他方、ヨハネは、主観的、実存的に信仰体験を把握しているのです。それでヨハネにおいては、復活と聖霊の授与と伝道命令とが同時に起こるのです。復活の主イエスとの出会いこそが、決定的瞬間なのです。このことはパウロの回心の状況(使徒行伝9章)を考えれば明らかです。パウロは自分自身の信仰体験から重大な真理を引き出しました。「聖書に『最初の人アダムは(神に息を吹き入れられて)生きた魂(人間)と成った』と書いてある。しかし最後のアダム(主イエス)は、(弟子たちに息を吹き入れて)生命を与える霊と成った」(コリント第一書15・45) すると二種類の人間がいることになります。この世に生を受けて、自分が生きるだけで精一杯な人と、復活の主イエスに出会い、主から生命の息を吹き込まれて、自らの生き様によって他者に霊感を与えて止まない人と。後者に成った人こそ、神の国(支配)の中に生きている人です。ペテロ、ヨハネ、パウロ、マリア、マルタ…「彼らは死んだが、信仰によって今もなお語っている」(ヘブル書11・4)
 「聖霊をうけよ。誰の罪でも、君たちが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、君たちが赦さなければ、そのままに留まる」 世界伝道への派遣に際して、それを遂行するための力として弟子たちに与えられるものは聖霊ですが、この場合、聖霊は罪赦しの権威と結びつけられています。このような考えはヨハネに於てはここ以外に見られないため、ある学者は、編集者が持ち込んだものと考えています。これと同じ意味内容の言葉は、マタイ福音書に二個所でてきます。その16章19節には、天国の鍵がペテロに与えられ、彼が地上で繋ぐことは天でも繋がれ、地上で解くことは天でも解かれる、と語られています。これによってペテロが使徒職の首席であり、歴代の教皇がその後継者として、罪赦しの権威を持つ、とローマ・カトリック教会は主張しています。しかし、同じマタイの18章18節には、すべての弟子たち、あるいは教会員にそれが与えられているのです。つまり、教会が宣教する福音を真剣に受け止めてこれを信じる者は救われ、信じない者はそのままの状態に置かれる、という意味です。とにかく聖霊の賜物を罪赦しの権威と結びつける考えは、旧約的、ユダヤ教的、マタイの教団的なものであって、ヨハネ的なものではありません。
 「誰でも渇く者は、私の所に来て、飲みなさい。私を信じる者は、その腹から活ける水が川となって流れ出るだろう」(7・38)とイエスは大祭の日に叫ばれました。それをヨハネは説明して「これは、彼を信じる者が受けようとしている聖霊について言われたのである。即ち、イエスはまだ栄光を受けていなかったので、聖霊がまだ与えられていなかったのである」(7・39)と言っています。復活の主イエスを信じる者は、聖霊の賜物を与えられて、復活の生命に生かされるのです。すると罪と死の束縛から解放される。そのことを罪の赦しとも、罪の世からの救いとも言うのです。この福音を宣べ伝えましょう。
                 一九九三年一一月二一日 礼拝説教

      「コミュニケイション」

 十二弟子の一人でデドモ(双子)と呼ばれていたトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。そこで他の弟子たちが「私たちは主にお目にかかった」と言うと、彼は言った、「私は、彼の手に釘跡を見、私の指をその釘跡に、私の手を彼の脇腹に差し入れてみなければ、決して信じない!」                                             ヨハネ福音書 20章24〜25節

 愛すべき人物、トマスの登場です。キリスト教界では「疑い深いトマス」と言って、彼の評判はよくありません。しかし私はトマスに親しみを感じます。ちなみに、私の神学生時代のあだ名は、「異端者」でした。トマスも私も、孤独でした。
 12弟子の中、イスカリオテのユダは、既に背教していましたから、残りは11人でしたが、復活日の夕方の集会で復活の主イエスにお目にかかれたのは、10人でした。トマスが不運にも欠席していました。トマスの欠席理由は何だったのでしょうか? 病気であったのか、落ち込んでいたのか、分かりません。とにかく、トマスの欠席を心配していた10人は彼に会いに行って、復活の主に出会った喜びを伝えました。その10人は、あの晩の集会の経験をトマスに話しました。ユダヤ人の目を恐れて、すべての戸にかんぬきを下ろして、暗い密室の中で息を秘めて話し合っていた時に、復活の主イエスが「シャローム!」と言いながら現われたこと。その時彼らは平安と喜びに満たされたこと。主が彼らに息を吹き入れ、聖霊を与えて、世界伝道という新しい使命を授けて下さったことなどを、深い感動と共に目を輝かしながら、彼らは語りました。
 彼らは、彼らの喜びをトマスにも分け与えて、彼を励ましたかったのです。果たしてトマスは喜んだでしょうか? 彼らの善意はトマスに伝わったでしょうか? いいえ、皮肉なことに、彼の落ち込みは一層深くなってしまいました。他の10人は聖霊に満たされて喜んでいたのに、彼だけは虚無感に苛まれて、仲間と一緒に喜べなかったのです。満腹した人たちから、御馳走はうまかったぞ、と語られても空腹な人間は「くそ面白くもない」と思って、御馳走にありつけなかった自分の不運を嘆く人に似ています。
 「私は、彼の手に釘跡を見、私の指をその釘跡に、私の手を彼の脇腹に差し入れてみなければ、決して信じない!」 これは凄い言葉です。トマスの反感の強さ、孤独の深さがうかがえます。トマスは気性の激しい男でした。イエスが決死の覚悟でベタニヤ村のラザロの所へ行こう、と言われた時に、トマスは仲間の弟子たちに「私たちも行って、先生と一緒に死のう」と言いました(11・16) また、決別説話の時に、イエスが「私がどこへ行くのか、君たちには分かっている」と言われた時に、トマスは「主よ、どこにおいでになるのか、私たちには分かりません」(14・5)と発言しました。トマスは情熱家で、物事の白黒をはっきりさせないと気が済まない人でした。もしも善意で穏やかな人がトマスの立場に立ったら、他の人たちと一緒に喜べるかも知れません。あるいは、「私も主にお目にかかって、主の復活を信じたい!」と願うでしょう。「〜しなければ決して信じない!」というのは相当のヘソ曲りです。それだけトマスの心の闇が深かったのでしょう。
 なぜトマスは躓いたのか? それはコミュニケイションの問題です。これは原始教会で生まれた伝承のようです、ヨハネは23節を彼の福音書の結語として、そこで筆を置いてもよかったはずです。イエスは弟子たちに復活の御姿を見せ、平安と聖霊を与え、罪赦しの権威を与えて世界伝道に派遣する。23節は立派な結語になります。しかしその場合、他の福音書にある、弟子たちの疑いのモチーフがヨハネの福音書には無いことになります。「そして彼らは、イエスに会ってひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(マタイ28・17)ヨハネは、他の福音書の「疑う者」を、トマスに代表させて、具体的な挿話にしました。この挿話は、集会の欠席を戒めるために原始教会の中で生まれた伝承であるかも知れません。ある日曜日の夕拝で、会衆が霊的に高揚して、復活の主イエスの臨在(プレゼンス)がありありと参加者全員に実感されて、大きな恵みの経験をもち、「主イエスは生きておられる」という信仰の確信が得られた。集会が終わって、一人の仲間が欠席していて、その恵みの経験を共有できなかったことに気付いた。それで彼を訪問してその恵みの経験を分け合おうとして話をしたけれども、話はこじれてしまった。コミュニケイションが成り立たなかったこういうことはよくある経験です。これは、主の来臨がいつあるのか、私たちには分からないのだから、「目を覚ましていなさい」(マルコ13・32以下、マタイ24・36以下)という警告的教訓と同じ種類の戒めです。トマスはその日の集会に欠席したため、「バス」に乗り損なってしまったのです。
 キリスト教は、言葉の最も深い意味で、コミュニケイションの宗教です。唯一の神御自身の中に、父と子と聖霊のコミュニケイション、即ち、愛の交わりがあります。その愛の交わりの中に招き入れられることが、人間の救いなのです。神は人間(アダム)を、御自身の似姿に創造されました(創世記1・27) その目的は、人間との親しい交わりをもって喜びを分け合うためでした。男(アダム)に妻イヴを与えたのも愛のコミュニケイションのためでした。しかしアダムとイヴは神の愛の支配からの自由を求めて、神の御前から逃亡した結果、罪の奴隷になってしまいました。アダムとイヴの間にも欺瞞と争いが生じました。彼らは自らの赤裸の姿が恥ずかしくなり、有り合わせの物で裸を覆い、神の目を避けて姿を隠しました。 英語で出席のことをプレゼントと言います。目の前に存在している、という意味です。反対に欠席をアブセントと言います。離れている、不在であるという意味です。「あなたは、私の前に歩み、全き者であれ」(創世記17・1)と神はアブラハムに命じました。神の御前にプレゼントであることが、信仰生活なのです。アダムとイヴは、アブセントでした。それで、御前から失踪したアダムを探し求めて神は叫びました、「アダムよ、お前はどこにいるのか?」 そのように、人間を探し求める神の御心が肉体をとってアダムの世界に来られたお方が、イエス・キリストなのです。しかしアダムの末裔たちは、彼を拒絶しました(ヨハネ1・9以下) イエス・キリストの十字架は、今も尚、神の愛と人間の罪の象徴として、全世界の中心に立っています。私たちは復活の主に名前を呼ばれた時に、「プレゼント!」と答えられる者に成りましょう。
                 一九九三年一一月二八日 待降節礼拝説教

      「 懐 疑 と 信 仰 」

 八日後、弟子たちはまた家の中にいた。トマスも一緒であった。戸はみな閉められていたのに、イエスが入って来て、彼らの真ん中に立ち、「平和が君たちに!」と言われた。
それから彼はトマスに言う、「君の指をここに当てて、私の手を見なさい。君の手を伸ばして、私の脇腹に差し入れなさい。不信仰者に成らず、信じる者に成りなさい」 トマスは答えて言った、「わが主よ、わが神よ!」イエスは彼に言う、「君は私を見たので信じたのか? 幸いなるかな、見ることなしに信じる者は!」
                            ヨハネ福音書 20章26〜29節

 イエスの復活の知らせを持って来た教友たちに、「私は、彼の手に釘跡を見、私の手を彼の脇腹に差し入れてみなければ、決して信じない!」と言い放ったトマスは、科学的に物事を実証しなければ何事も信じられない現代人を代表しています。民衆の大部分が、終末の切迫とメシアの来臨と死人の復活を信じていたイエスの時代のユダヤ人にとってさえも、イエスの復活の知らせは信じ難い出来事でした。まして、科学の時代を経て、実証的に物事を考える教育を受けた現代人にとって、復活を信じることは容易ではありません。
 復活の問題を深く突き詰めて考えたことのない多くのキリスト教の伝道師たちが、「トマスのような懐疑家にならないで、早く復活を信じなさい。信じる人は幸いです」と説教するのを聞くと、私は反論してみたくなります。彼らは、「〜しなければ決して信じない」と言う25節のトマスの言葉に対して、27〜28節を飛ばして、いきなり29節の「見ないで信じる者は幸いだ」という言葉をもってきて、人々に信じることを急(せ)かすのです。その結果、深く物事を考える人は失望し、軽信家だけが教会で幅を利かすことになります。「直ちに信ぜよというのではない。疑うだけ疑っていいのである。疑う心もまた信仰の一つの作用である。何故なら『宗派我』は疑いの所産でなく、軽信の所産だからである。軽信はやがて狂信となる。自分の信仰と言う時、同時にその信仰のいかに不安定であるかを絶えず疑っておるべきである。懐疑と信仰は相対立するものではない。むしろ軽信こそ信仰の敵である」(亀井勝一郎) 私たちは誠実に疑う精神を決して手離してはなりません。それこそが真の求道心なのです。誠実な懐疑は、真理から送られてきた招待状なのです。「あたら短き青春の歳月を 希望よ 不安よと 無にするな とか? 我は抗議せん、愚かな見当違いよ! むしろ懐疑こそ 尊しとせん。低級な連中は懐疑を持たず ただ存在するのみ。すでに完成完了せしものは、神の火花に心騒がせることもなし」(ラビ ベン・エズラ」 R・ブラウニング著) 誠実な懐疑のない所に、発見の深い喜びは生じません。トマスは深い懐疑に沈んでいました。復活の主イエスはトマスの場まで下りて行き、トマスの要求を百パーセント受け止めました(27節)。するとトマスは、自分が要求した生体実験を放棄して、「わが主よ、わが神よ!」と叫んで、主の前にひれ伏しました。
 高橋誠兄の「メンフィス便り」6号に、彼の経験の範囲内でのアメリカの教会の批判が書かれてあります。「学問や科学に強いコンプレックスと、危機感(知恵をつけると信仰を失うと思っている)を持っている人が多い」 この事実は多くの日本の牧師や信者にも見られます。「疑うだけ疑っていい」のです。聖書の啓示する真理は、人間の懐疑によって崩壊するようなものではありません。むしろ、科学的学問的な懐疑の精神によって探求されればされるほど、御言葉(ロゴス)の真理は輝きを増してくるのです。むしろ誠実に疑わないで、聖書の言葉を丸呑みすることによって、真理は見過ごされ、埋没されてしまうのです。私は若い時からそう感じていましたが、山本七平先生との出会いによって、それを明確に知ったのです。山本先生の身証(生きた証)は、私の精神の解放でした。その後、れい子奥様から山本書店発行の「歴史の中のイエス」(ガーリヤ・コーンフェルト著)を頂きました。その序文に「…しかし実際には、福音書や使徒たちの書簡が最終的に編纂された時点の時代背景は、イエスが生きていた当時とはかなり異なっていたのである… イエスに関する文書資料は、歴史のイエスが与えた衝撃やその教えを含んでいるとはいえ、ゴルゴダの丘に十字架が立てられた時からずっと後の時代の見解や神学をはっきりと反映している」とあるのを読んで、飛び上がらんばかりに驚き、それでは福音書を全面的に読み直さなければならないと決意して始めたのが、四年前から続けてきたマルコ福音書の研究でした。
それ以来、近代、現代の批判的聖書研究者の学問的成果を大胆に取り入れ、多くの謎を解き明かして来ました。それに同意できず、従来の保守的、護教的、無難な聖書解釈を好む人は、去っていきました。悲しいことですが、止むを得ないことと考えています。
 「八日後」は、次の日曜日です。日曜日が「主の日」としてキリスト教徒の礼拝日になったのは、イエスの死の直後のことではありません。ですからこの物語はずっと後の原始教会で成立した伝承なのです。トマスのように集会に欠席すると、復活の主が来られた時に、その恵みに与かることができないぞという警告と、それでもトマスを見捨てず、彼の懐疑に真正面から応えている復活の主の姿が、ここに語られているのです。迷える羊を探し求めてこれを見出だす善き羊飼いの姿と重なります。八日後の礼拝には、トマスも出席していました。そこに再び復活の主が姿を現されました。「二人または三人が、私の名において集まっている処に、私はそこで彼らの真ん中にいる」(マタイ18・20) マタイはこの言葉を彼の教会規則(18章)の中に記しているのです。復活の主イエスは、信者の礼拝と交わりの中においでになる。これは原始教会以来の伝統的信仰です。復活の主がおられない礼拝は、それ自身が矛盾です。
 「戸がみな閉められていたのに、イエスが入って来て、彼らの真ん中に立ち」とヨハネは再び書きました。彼はここで信仰の本質を語っているのです。人間はいかに知恵と能力(ちから)を尽くしても、復活信仰に達することはできない。トマスの疑問に答えることはできない。ではどうして復活を信じることが可能なのか? それは復活の主御自身が、あらゆる人間的条件を超越して、主の方から来て、私たちと出会って下さる、ということなのです。「神には不可能なことはありません」(ルカ1・37) 受胎告知を受けた乙女マリアは、天使のその言葉を受け入れました。
                 一九九三年一二月 五日 待降節礼拝説教

      「わが主よ、わが神よ!」

 イエスはトマスに言う、「君の指をここに当てて、私の手を見なさい。君の手を伸ばして、私の脇腹に差し入れなさい。不信仰者に成らず、信じる者に成りなさい」 トマスは答えて言った、「わが主よ、わが神よ!」
                      ヨハネ福音書 20章27〜28節

 伝承は発展するものです。30年前暗殺されたJ・F・ケネディ大統領の側近者たちは、ケネディの実像とケネディ神話との間のズレの大きさに驚いています。同じことは復活のイエスについても言えるのです。例えば、弟子たちの疑いのモチーフにおいても、共観福音書では、「疑う者もいた」とか、「信じなかった」とか、繰り返し語られています。しかし共観福音書より後に成立したヨハネ福音書(一世紀末)に於ては、「疑う者」や「信じない者」が、トマスという特定の一人物に集約されて語られているのです。そして、イエスの有体的な復活を目立たせる構成になっています。「私は、彼の手に釘跡を見、私の指をその釘跡に、私の手を彼の脇腹に差し入れて見なければ、決して信じない!」と言ったトマスに対して、復活のイエスは、トマスの要求を百パーセント受け止めて、27節の言葉をもって答えているのです。それは当時、ヨハネの教会が、主の復活に対する人々の疑いを克服するために、「そのような疑いはイエスの直弟子の中にもかつて生じたことであるが、その疑いは復活の主御自身によって、誤りであると証明されたのである」(ヘンヘン)と主張したのだ、と考えられます。
 その傾向は更に敷衍(ふえん)されます。二、三世紀頃、エジプトで成立したとされている「使徒たちの書簡」(外典)にはこういう言葉が載っています。「その時、主は私たちに言われた、『来い、恐れるな、私はかつて君たちに私の肉と死と復活について語った彼だ。私がそれであると知るために、ペテロよ、君は指を私の手の釘跡に入れよ。トマスよ、君は私の脇腹の槍傷に入れよ。アンデレよ、君は私の足が地に着いているかどうかをよく見よ。預言書に幽霊の足は地に着かないと書いてある』 私たちは本当に肉で復活されたかを知るために、彼に触った。そして私たちは平伏して、不信仰であった罪を告白した」(9章以下の大略) これは、イエスの肉体的な復活の確かさを強調するために、その頃の教会で語られた説教であるように思われます。
 このように、イエスの復活が客観的な確かさで語られるということは、信仰の衰弱を証明しています。聖霊の主イエスが身近に感じられなくなるにつれて、説教は大声になり、表現は大袈裟になります。復活の主イエスに出会った、という聖書の中の最も古い記録は、謙虚でつつましやかな表現で語られています。「母の胎内にある時から私を聖別し、御恵みをもって私をお召しになった方が、異邦人の間に宣教させるために、御子を私の内に啓示して下さった時…」(ガラテヤ書1章15〜16節) パウロはここで自分の大切な秘密を、そっとささやくように語っています。次に挙げるコリント第一書15章の、パウロが「この福音」(1〜2節)と呼んでいるものは、主の復活後、数年以内にパウロが先輩の使徒から受けたものです。その中で、「…聖書に書いてある通り、三日目に甦ったこと、ケパに見られ、次に十二人に見られ、その後、五百人以上の兄弟たちに同時に見られたこと」(4〜6節)と言っています。これは原始教会の最古の信条ですが、その「ケパに見られ」が、ペテロが墓の中で「これを見て信じた」(ヨハネ20・8)に対応し、「次に十二人に見られ」が、密室の中に顕現された出来事(同20・19〜25)に対応しています。そして「五百人以上の兄弟たち」に対する同時顕現は、恐らくペンテコステの集会(使徒行伝2章)のように、大聴衆が霊的に高揚し、今この場に復活の主イエスは臨在(プレゼンス)したもうという霊的経験を共有したのでしょう。ペンテコステの集会の記事の中には、有体的な復活のイエスの顕現は全然なく、聖霊の降臨とイエスが復活されたという証言があるだけです。これが原始教会の最初期の頃の現状でしょう。30年代頃の霊的活力に燃えていた最初期のクリスチャンたちには、肉体的な復活の証拠なるものは全然必要がなかったに違いありません。
「兄弟たちよ、私はこのことを言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことができない」(コリント第一書15・50) これが50年代に書かれたパウロの復活観です。目に見え、手で触れる形の客観的な復活体の証拠を必要とするようになったのは、初期の頃のクリスチャンが亡くなり、二代目、三代目になって、霊的信仰の炎が衰えて、教会の信仰が形骸化してきた証拠であると私は考えます。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは移ろい変わる。しかし、見えないものは永遠に存続する」(コリント第二書4・18)
 あるいは、一世紀末頃のヨハネ系の教会では、聞く、見る、触る、という表現が流行していたのかも知れません。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの…(ヨハネ第一書1・1以下) これは、キリストの復活の確かさを表現するための修辞的な表現と解釈した方が健全であると思います。霊なる神は肉眼では見ることのできない存在ですが、神との交わりの親密さを表現して、「モーセは主が顔を合わせて知られた者」(申命記34・10)と言われています。
 トマスは答えて言った、「わが主よ、わが神よ!」28節。トマスは復活の主イエスの実存に圧倒されて、懐疑が氷解し、自己の卑小さを認識し、己を主の前に投げ出して、信仰を告白するのみでした。「自分の不信を超然と乗り越えたこの突然のイエスの出現に圧倒された余り、彼は、ただ『私の主よ、私の神よ』と言ってこの復活の主の臨在(プレゼンス)を讃美・礼拝することしかできず、イエスの身体検査を放棄する。こうしてトマスは、ヨハネ共同体を代表して、イエスの神性に対する信仰としてのその復活信仰を、告白しているのである」(シュルツ) ヨハネは、「初めに言葉(ロゴス)があった。その言葉は神と共にあった。言葉は神であった… そしてその言葉は肉体と成って、私たちの間に居住した」と、ロゴス讃歌で彼の福音書を書き始め、今この福音書の締め括りの時に、他ならぬ懐疑主義者トマスをして、イエスの主権と神性とを証しさせているのです。誕生において人間と成った永遠の真理の言葉=ロゴスが、その復活において再び天上の栄光の御座に復帰されるのです。
                 一九九三年一二月一二日 待降節礼拝説教

      「 信じる者の祝福 」

 イエスはトマスに言う、「君の指をここに当てて、私の手を見なさい。君の手を伸ばして、私の脇腹に差し入れなさい。不信仰者に成らず、信じる者に成りなさい」 トマスは答えて言った、「わが主よ、わが神よ!」 イエスは彼に言う、「君は私を見たので信じたのか? 幸いなるかな、見ることなしに信じる者は!」
                      ヨハネ福音書 20章27〜29節

 「『トマスの不信』の物語では、八日後に、トマスが弟子たちと一緒にいる所に、不意にイエスが出現するのである。ところが面白いことに、弟子たちがトマスを非難しないだけでなく、イエスも彼を非難しないのである。もちろん『お前のような奴は、弟子の資格はない。破門だ』などとは言わないで、いきなり手を差し出す。『指をここに入れろ、手を見ろ、手を伸ばして脇に入れろ…』と言い、最後に有名な『見ずして信ずる者は幸なり』と言う。…『トマスの不信』を表明する権利は、人間の基本的な権利である」(山本七平)山本先生の論旨は、日本の社会では、「トマスの権利」は守られない、というのです。教会でも「トマス」を異端視しないで、復活の主が直接「トマス」に語りかけられるまで、静かに祈りつつ待ちたいものと思います。人間にできることは、それだけです。
 「君は私を見たので信じたのか? 幸なるかな、見ないで信じる者は!」29節。この言葉の解釈は、容易なようで、なかなか難解なのです。前半では、トマスの信仰が評価されています。彼の信仰告白「わが主よ、わが神よ!」は、マグダラのマリアの「私の先生!」よりも優れています。しかし後半では、それでも見て信じる信仰は十分なものではなく、本当の信仰は、見ないで信じる信仰である、と言われています。「見ずして信ずる信仰」とは何か、という問題です。復習してみると、トマスは自分の眼で見なければ信じられないと主張しました。トマスは、仲間の皆が復活の主を信じたのだから、私も信じることにしよう、などとは考えません。確り自分の足で立っています。「個」を確りと保っています。仲間たちもさすがに、トマスの立場を尊重して、彼を非難いたしません。主イエスも彼を非難しないで、彼の要求を百パーセント聴き入れて、御手の釘跡と脇腹の槍跡とを見せて、触って見ろ、と言われます。するとトマスは自分の不信を恥じ入って、主の前にひれ伏し、信仰を告白します。「わが主よ、わが神よ!」という信仰告白の言葉は、「信じる」ことを主題にして書かれたヨハネ福音書の末尾を飾るに最も相応しい言葉であると思います。が、ヨハネはそう考えないで、29節を付け足しているのです。
 見て信じた者はトマス一人ではありません。ペテロとヨハネは、空の墓と整頓されて置いてあったイエスの衣服を「見て信じた」のでした。マグダラのマリアも、最初は復活の主を庭師と見間違えましたが、主から名前を呼びかけられて信じました。ユダとトマスを除く十人の弟子たちも、密室の中に顕現された主イエスを見て信じたのでした。ですから28節までの段階では、すべての者が見て信じたのであって、見ないで信じた人は一人もいなかったのです。では、一体、見ないで信じる祝福された者とは誰のことでしょうか?
 「トマスの懐疑は、奇跡を見ることなしに信ずることの出来ない、人間の平均的挙動の代表的なものである。人間の弱さが奇跡を容認するように、弟子たちの弱さが復活者の出現を容認するのである。本質的には、復活者の出現は必要がないのである。本質的には、復活者を見たことが初めて弟子たちを、イエスが語った言葉を信ずるようにと動かすということであってはならないのである。イエスの言葉自体が、それだけで、彼らを確信させる力を持たなければならないのである。従ってマリアの物語と同様にトマスの物語もまた復活物語の価値に対する独特の批判が存在する。復活物語はただ相対的な価値を要求することが出来るだけだということである。イエスのこの批判的な言葉(29節)が復活物語の締め括りをなしているとすれば、聴衆も読者も、復活物語をそれに相応しい評価以上に評価しないようにとの警告をそこから受けるのである。復活物語は、人が自分自身でそれを体験したいと願ったり、体験することを期待するような出来事の物語ではない。それはまた、他人の経験がイエスの復活の現実性を保証してくれるような、自分の体験に替わり得る代用物でもない。復活物語はむしろ宣教された言葉として受け取るべきである。復活物語において語られている体験は、その宣教の中で、主イエスとの交わりをもたらすための象徴的な絵姿を表現しているのである。その交わりにおいては、父上の御許に行かれたお方が、彼に属する者たちと共にいますのである」(ブルトマン) この解釈の言葉に出会うまで、私に40年かかりました。トマス的探求心をもって問題を問い続けたブルトマンにこの優れた解釈を与えたのは他ならぬ「真理の霊」(15・26)であると思います。
 ブルトマンは、復活の主の顕現物語の上に、イエスの言葉を置いています。その場合、言葉といっても、情報としての言葉ではないのです。そうではなく、啓示としての言葉であって、人間が意思的に求めても決して得られないが、得られる時には、人間の都合に拘わりなく、否でも応でも、向こうから来てしまうものなのです。使徒パウロはそれを「啓示された」(ガラテヤ書1・16)と言っています。私たちはその啓示の言葉を各自の魂の中に受け取るのです。「しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めるのか? 聞いたことのない者を、どうして信じるのか? 宣べ伝える者がいなくて、どうして聞くことがあるのか? 遣わされなくて、どうして宣べ伝えることがあるのか?『ああ麗しきかな、よき音信(おとずれ)(福音)を告げる者の足は!』…」(ローマ書10章14〜15節)
 ヨハネは28節で終わっているトマス物語伝承に、29節を付加して彼自身の信じる信仰、即ち、見ずして信ずる信仰を証しているのです。「私が父の御許から君たちに遣わそうとしているパラクレートス(助け主、慰め主、弁護者)、即ち、父の御許から発生して来る真理の霊が下る時、彼は私について証しするだろう。君たちも証しせよ。君たちは初めの時から私と一緒にいるのだから」(15・26) 見ることなしに復活の主イエスを信じる根拠は、パラクレートスにあるのです。日々、パラクレートスに導かれ、教えられ、励まされ、力づけられて生きている人こそ、「見ることなしに信じる」祝福された人なのです。
                 一九九三年一二月一九日 待降節礼拝説教

      「 生命を得る道 」

 このほか、この書物に書かれていない多くの徴(奇跡)を、イエスは弟子たちの前で行なった。しかし、以上のことを書いたのは、君たちが、イエスはキリスト、即ち、神の子である、と信じるためであり、そう信じて、彼の名において生命を得るためである。
                        ヨハネ福音書 20章30〜31節

 新年、明けましておめでとうございます。私たちの福音書の学びは、今年で5年目に入ります。そして今回が一九九講目になります。第一講は90年1月7日で、「初めと終わり」という主題で、テキストは「神の子イエス・キリストの福音の初め」(マルコ1・1)と、「以上のことを書いたのは…」(ヨハネ20・31)という今日の聖書個所でした。丸4年かけて福音書の世界を一周して、今日、振り出しに戻ったような感じがいたします。さあ今年も、ピリピ書3章13〜14節の、パウロの言葉に励まされて前進し続けましょう。
 「人の子が栄光を受ける時が来た」(12・23) ヨハネの描くイエスが「栄光」と言う時、それは受難と十字架と復活を意味しています。十字架上の最後の言葉にしても、マルコの描くイエスは絶望的絶叫、「わが神、わが神、何故わたしを見捨てられたのか?」(15・34)で事切れるのですが、ヨハネの描くイエスは、「成し遂げられた」(19・30)と静かに言って、大満足の中に息を引き取られるのです。従って、イエスは既に栄光を受けていたのですから、ヨハネ福音書には、イエスの昇天は必要がないのです。
 30〜31節はこの福音書が書かれた目的の言葉です。これは結語ですからこの福音書は本来ここで終わっていたのです。従って、21章は後の付加です。ヨハネは30節で「もっと多くの徴」と言っています。イエスが行われた多くの奇跡の中から、ヨハネは七つを選んで収録したのです。「水をぶどう酒に変える」(2章1〜11節) 「熱病の子供の癒し」(4章46〜54節) 「難病の男の癒し」(5章1〜9節) 「五千人の給食」(6章5〜13節)「湖上の歩行」(同19〜21節) 「盲人の開眼」(9章1〜7節) 「ラザロの蘇生」(11章1〜44節) 以上、七つの徴はすべて12章までに記されています。それらは弟子たちのみならず、一般の人々の前で行われた奇跡ですが、それらを目撃しても人々は、ただ表面的に驚嘆するばかりで、それらを行なったイエスが神の子キリストであることを悟らなかったのです(12・37) いわばイエスは大衆伝道に失敗して、13章以下は専ら、弟子たちの教育に意を注がれたのです。
 30節の言葉は、より誇張した言い方で21章25節にも書かれています。この書き方は伝統的なもので、後期ユダヤ教の文書にも類似したものが見出だされます。「ユダが行なった様々の業績、彼の戦い、その大胆さ、その偉大さは、余りにも多すぎて書き尽くすことができない」(マカバイ記一書9章22節) 「いかに多くを語っても、決して語り尽くせない」(シラ書43章27節) ヨハネは多くの徴から、七つを抜粋して記したのです。
 31節。「本福音書の目的は明らかに教義的であって、イエスがキリストで神の子であることを読者に信じさせることにある。イエスが神の子であることを信仰において認め称えることこそ、ヨハネによれば、信仰の始めであり終わりなのである。そのような信仰に、イエスの名のゆえに永遠の生命が与えられることは、本福音書において再三再四起こったとおりである」(シュルツ) 31節にヨハネ福音書の三つの鍵言葉が記されています。「イエス」と「信じる」と「永遠の生命」です。
 復活の主イエスに出会って、疑い深いトマスでさえも「わが主よ、わが神よ!」と叫んで、信仰を告白いたしました。「イエスを信じる」ということを主眼にして書き続けて来たヨハネにとって、このトマスの告白は、彼の福音書の末尾を飾るに最適な言葉であるはずですが、ヨハネはそれで満足せず、29節の言葉を付け加えて、それを結論にいたしました。即ち、28節までは「イエスを見たので、信じた」信仰でしたが、29節はそれより一歩踏み込んで、「見ることなしに信じる」信仰を称揚しているのです。イエスの直弟子たちは復活の主の目撃者(証人)になったのですが、それ以後のクリスチャンたちは、福音を聴聞するだけで、「見ることなしに」信じたのでした。そういう人達こそ、本当に祝福されているのだ、とヨハネは言っているのです。何故なら、彼らは地上を歩むイエスに会っていないが、聖霊に成られた主イエス(パラクレートス、14章16〜21節)に出会い、その影響によって信じることが可能になったのだから、と言っているのです。ヨハネは彼が受け取った伝承から、イエスの有体的復活の記事を彼の福音書に記載しましたが、その信仰(見たので信じる信仰)を批判して、彼が本当に伝えようとしていた信仰の真髄、即ちパラクレートス(14章26節、15章26節、16章7〜15節)と共に生きる信仰を伝えているのです。パラクレートス(助け主、慰め主、弁護者)とは、肉体のイエスとは「別の姿のイエス」(アナザー エゴー オヴ ジーザス)、真理の霊として、生命の細道を歩く者に、聖書の言葉の真意を開示して導き励まし、信仰の生涯を全うさせ、終には永遠の御国へと導き入れて下さる聖霊の主イエスのことなのです(ヨハネ第一書2章6節)。
 ヨハネはイエスを先ず「ロゴス」として紹介します。「初め言(ロゴス)があった」 そのロゴスは「神と向き合っていた」 そのように神との親しい交わりに結ばれていたロゴスは、神性を有していた。そしてロゴスによって神は万物を創造された。ロゴスの内に生命があった。その生命は人間を照らす光であった。その光は暗闇の中に今も尚、輝き続けているのだが、暗闇に住む世の人々は、その光を理解しなかった。「ロゴスは肉と成って、私たちの間に」移住して来られた。「私たちはその栄光を見た。それは誠に父の独り子の栄光であって、恵みと真理とに満ちていた…  いまだかつて、神を見た者はいないが、父の御懐(みふところ)にいる独り子なる神、このお方が神を開示されたのである」 そしてこのロゴス・イエスを受け入れ、その御名を信じた人々には、神の子と成る資格を授けて下さった。
 ヨハネ福音書の終わりから初めを読み直して見ると、三つの鍵言葉の謎が解けてきます。「イエス」とは誰か。「信じる」とはどういうことか。「永遠の生命」とは何か。ヨハネの言う永遠の生命とは、時間的に永続するいのちのことではなく、主イエスによってこの世にもたらされた神との親しい交わりを通して受け取る、神の生命のことなのです。それは即ち神の国(支配)とも呼ばれています。
                  一九九四年 一月 二日 新年礼拝説教

      「湖畔に立つ主イエス」

 その後、イエスはテベリア湖畔で、再び御自身を弟子たちに現わされた。彼は次のように顕現された。シモン・ペテロと、「双子」と呼ばれたトマスと、ガリラヤのカナ生まれのナタナエルと、ゼベダイの息子たちと、他の二人の弟子とが、一緒にいた。シモン・ペテロが「私は漁に行く」と言うと、彼らは「私たちも一緒に行く」と言う。彼らは出て行って舟に乗ったが、その晩は何も取れなかった。夜明け頃、イエスが岸辺に立っていた。だが弟子たちには、イエスであることが分からなかった。するとイエスが言う、「子供たちよ、何も食べる魚が無いのだろう?」 彼らは答えた、「ありません」 彼が言った、「舟の右側に網を打って見なさい。獲物があるから」 彼らが網を打つと、魚が多すぎて、もう網を引き上げることができなかった。
                      ヨハネ福音書 21章1〜6節

 「神よ、変わり得ぬものを受け入れる静けき心、変わるべきものを変え得る勇気、その両者を見分け得る知恵を我らに与え給え」(ラインホルト・ニーバー) 昨年はこの小さい教会にも大きな変化がありました。その試練を通して学んだことは、不変と変化、の問題です。不変なるものにのみ目を止めていると、世の中の変化に対応できず、教会が化石になってしまいます。だからといって、変化にのみ目を向けていくと、教会の本来の使命を見失ってしまいます。それで今年は、ニーバーの祈りをモットーにして、新しい変革を遂げていきたいと希望しております。
 「本福音書記者はその福音書を20章30〜31節で正式に完結したのであって、21章は、後で付加された付録であろう。これは、ヨハネ福音書のこれ以外のいくつかの個所でも認められた教会の編集に拠るものと思われる。この際見逃がしてならないのは、この付録の部分とこれ以外の部分とが、用語の点でも文体の点でもかなり一致していることである。もっとも21章には、ここだけしか出てこない単語も沢山見出だされるけれども。もっと重大なのは、何よりも次のような内容の相違である。2節で突然「ゼベダイの息子たち」が挙げられるが、これはこれまで全20章を通じて全く言及されなかったものである。ヨハネの記事では復活の主はエルサレムでしか現われないのに対し、ここでは弟子たちのガリラヤ滞在が自明のことのように語られている。いや、20章29節で、今後復活の主が重ねて現われることはないであろう、それはもはや信仰にとって必要でないのだから、と荘重に宣言されたのに対して、21章1節以下ではまたもや復活の主が現われ、まるでその前に言われた事が無効であるかのように思われるのである。更に奇妙なことには、弟子たちは、20章21節によれば伝道者としてはっきり任命されたはずなのに、ここでは漁師として表わされている。21章22節は、本福音書の他の個所では殆んど例証されない黙示文学的終末期待を、はっきり示しており、そして最後に24節では、愛弟子が本福音書の著者であるとされる。
以上のようなわけで、21章が別人の手による付録で、教会の編集に基づくものであることは、疑うことができないのである」(シュルツ)
 伝統的な通説では、ヨハネ福音書の著者は十二弟子中のヤコブの兄弟ヨハネであり、彼はこの福音書では「主の愛弟子」と同定されていますが、実際は「熟慮と思索と観想の産物であり、複数の人の手が加えられた作品」(石川康輔)であります。きっと21章を付加した人は、20章のエルサレムでの顕現物語だけでは不十分だと思って、ガリラヤでの顕現物語伝承をその後に付け加えたのでしょう。その場合、20章の物語と接続させるために、1節と14節を編集句として書き入れました。それでも、シュルツが指摘するように、20章と21章の間には大きな矛盾が残っています。福音書はどれも、一人の作者が首尾一貫して書いた物語ではなく、様々な伝承や伝説をよせあつめ、編集句で繋ぎとめているパッチ・ワークなのですから、そうなるのは当然です。
 弟子たちがここで、元の漁師に戻っている点が考えさせられます。イエスと共に過ごした貴重な経験は無駄になってしまったのでしょうか? 彼らは「人間を生命の中に漁る」(ルカ5・10)キリストの漁師になるはずでしたのに、ここではモトノモクアミの、魚をとる漁師になっているのです。彼らはイエスの十字架に躓いたのです。カリスマ的な能力のあるイエスに従って行けば、イエスの名声が上がるにつれて、自分たちもその恩恵に与かることができると考えて、弟子になったのです。ところがそうはならないで、イエスは死刑囚として処刑されてしまったのですから、彼らの当ては全く外れて、挫折してしまったのです。しかしイエスは彼らを見捨てません。「たとい、私たちは不真実であっても、彼は常に真実である」(テモテ第二書2章13節) ここがキリスト信仰の困難な所です。一度つまずいて、全く自我が打ち砕かれないと、本物のクリスチャンには絶対に成れないのです。一度自分に死なないと、復活できないのです。彼らが元の漁師に戻ったということは、彼らは徹底的に挫折を味わったということを意味しています。その上で、復活の主に出会って、再び召し出された時に、今度こそ彼らは本物のキリストの弟子になるのです。復活の主イエスに出会った人は、その人自身が復活するのです(11章25〜26節)
 「私は漁に行く」というペテロに元気はありません。「私たちも一緒に行く」と応えた他の弟子たちにも元気はありません。彼らの努力も空しく、その夜は不漁でした。しかし不漁がよかったのです。もし大漁だったら、彼らはイエスと再会することは無かったでしょう。「夜明け頃、イエスは岸辺に立っていた」 ここが物語の転換点です。
 「だが弟子たちには、イエスであることが分からなかった」 朝もやが立ちこめていたので分からなかったのではありません。エマオへ向かう元弟子たちや、マグダラのマリアが復活のイエスを見損なったと同様に、彼らの眼が遮られていたのがその原因でした。
 イエスが「子供たちよ」と呼びかけているのは奇妙ですが、これはまだ西も東も分からない「信仰の幼児」という意味の愛情表現です。またこの場合の「魚」は、獲物としての「魚(イクスス)」ではなく、食物としての「肴(サブミリオン)」です。つまり弟子たちはお弁当をもっていなかったのです。信仰を失い、不漁で空腹。最低の状態でした。「舟の右側に網を打ってごらん」 右側はラッキー・サイド(マタイ25・33)です。その通りにすると、大漁になりました。
 この物語は、わたしたちがこの一年を生きる「道しるべ」です。
                  一九九四年 一月 九日 礼拝説教

     「不思議な大漁」

 するとイエスが言う、「子供たちよ、何も肴が無いのだろう?」 彼らは答えた、「ありません」 彼が言った、「舟の右側に網を打ってごらん。獲物があるから」 彼らが網を打つと、魚が多すぎて、もう網を引き上げることができなかった。するとイエスの愛弟子がペテロに言う、「主ですよ!」 主、と聞くと、シモン・ペテロは裸だったので、上着をひっかけ、湖に飛び込んだ。他の弟子たちは、陸から余り遠くない二百ペキス(約百メートル)ほどの所にいたので、魚の網を引いて、舟でやってきた。
                      ヨハネ福音書 21章5〜8節

 20世紀末、大激動の時代です。米ソの冷戦構造が崩壊した後、まだ新しい世界秩序ができていない、いわば、世界的規模の戦乱の時代です。その中で日本は、大不況という厚い壁にぶつかって、沈滞ムードが社会全体を覆っています。こういう時にクリスチャンは、元気一杯でいなくてはいけないのです。「年若き者も疲れて倦み、壮んなる者も衰え弱る。されど、主を待ち望む者は、新たなる力を得ん。また鷲の如く、翼を張りて昇らん、走れども疲れず、歩めども倦まざるべし」(イザヤ書40章) 「神の言葉を食べて生きる」(マタイ4・4)ということは、聖書の言葉を深く学ぶことによって、真理が啓示され、霊感を受けて、希望が湧き出で、力に溢れて、生かされて生きることを言うのです。
 弟子たちは漁に出て、夜通し網を打って働いたが、全くの不漁で、雑魚一匹とれなかったが、イエスの指示に従って網を打った所、沢山の魚が網にかかったという奇跡物語は、この個所の外に、ルカ福音書5章1〜11節にも出ています。その両者は、大筋では似ていますが、相違点も多くあります。その両者の関係をシュルツに聞いてみましょう。「教会の編集によって第三の顕現物語(1〜14節)に改作された元の伝承は、ルカ福音書5章1〜11節の奇跡的な大漁物語に、一番近い並行記事を持っている。この二つの伝承を綿密に比較すると、ヨハネ福音書21章にある方が、多分、より古い形を保っているであろうということが判明する」 つまり、不思議な大漁物語という一つの原伝承があって、ヨハネもルカもそれぞれの目的に合うように原伝承を改作して用いているのだが、ヨハネの記事の方に、比較的余計に原伝承の形が残っていると、シュルツは言っているのです。
 最古の福音書であるマルコ福音書には、ペテロの召命物語の中に大漁の奇跡の記事はありません。イエスはガリラヤ湖畔を歩いていた時、ペテロとアンデレの兄弟が湖で網を打っているのを見かけました。そこでイエスはその二人に、「さあ、私について来なさい。君たちを人間を漁(すなど)る漁師にして上げよう」と声をかけると、「直ぐに彼らは網を捨てて、彼に従った」(1・18)のです。イエスは彼らに、私に従って来れば、魚を獲る漁師である君たちを、福音によって人間を神の生命の網の中に救い取る、魂の漁師にして上げよう、と約束されたのです。ここに魚を獲る漁師と、人間の魂を捕らえる漁師(福音伝道者)の対比があります。ルカは、ペテロの召命物語に、奇跡的な大漁物語を導入して、印象的な召命物語に改作しました。淡々と物語るマルコの記事に比べて、ルカの記事は読者に強烈な印象を与えます。「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足許にひれ伏して、『主よ、私から離れて下さい! 私は罪深い男です!』といった」(5・8) ペテロはその時、すべてを見通しておられる超越的な全能者の前に自分が引き出されたような戦慄を覚えたのです。これはすべてのクリスチャンが信仰生活の中で経験する証しの言葉です。こういう内的な経験を一度も持ったことがないという人は、たとえその人が牧師であっても宣教師であっても、信用できません。その経験を、「復活の主イエスとの出会い」と言うのです。マルコはここで事実を語り、ルカは信仰を証ししているのです。
 他方ヨハネは、この奇跡的な大漁伝承を、ペテロの再召命の方に導入して、第三の顕現物語にいたしました。面白いことに、岸辺に立つ不思議な人物の指示に従って行動した結果が大漁になったのを見て、その人物が復活の主イエスだ、と最初に気付いたのはペテロではなく、愛弟子の方でした。「主ですよ!」との愛弟子の驚きの叫び声を聞くと直ぐに、ペテロは上着をひっかけて、湖に飛び込み、舟よりも早く、岸辺にいる主の御許に行きました。愛弟子が直観的であるのに比べ、ペテロは行動的でした。ここにもまた、ペテロと愛弟子の競合関係(20章2〜10節)が見られます。道端に落ちている財布の場合、その発見者と、実際の拾得者の、どちらに優先権があるのか判りませんが、とに角、ここではペテロの優先権が示されているのと同時に、愛弟子の地位も確保されているのです。この二人の競合関係によってヨハネは何を読者に告げようとしているのか、今日では誰も明確な説明を与えることはできません。恐らく、一世紀末頃の小アジア地方に存在したヨハネ的な教団と、ローマを中心に活動していたペテロ的な教団の性格と地位の関係を表現しているのかも知れません。
 この後、岸に上がった弟子たちは、イエスが用意された朝の食事をした後、ペテロが呼び出されて、イエスから愛の試問を受けるのですが、その三度目の質問の時にペテロは、「主よ、あなたはすべてのことを御存知です」(21・17)と告白します。この告白は先程語ったルカ福音書の「主よ、私から離れて下さい! 私は罪深い男です!」(5・8)によく対応しています。その両方の聖書個所は、ペテロに与えられた啓示の瞬間に、彼が深い畏怖の念に打たれて、信仰を告白した真実の言葉です。
 不思議な大漁の出来事は、果たして、ペテロの最初の召命の時にあったのか、それとも、彼の背教後の、再召命の時にあったのか。この点について私は総合的な立場をとってその両方を受け入れ、ペテロの最初の召命の時に経験した不思議な大漁の出来事を、主は、ペテロの挫折と背教の後、改めて召命を与える時に、以前と同じ経験を再現して立ち直らせた、という信仰的解釈が一番よいと思います。破綻してしまった愛の関係を修復しようとする時、最も効果的な方法は、最初の関係を再現してみることです。「君は初めの愛から離れてしまった。そこで君はどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて、初めのわざを行いなさい」(ヨハネ黙示録2・4) 今度こそ、このシモンという名の男は、本物のペテロ(岩)になるでしょう。
                  一九九四年 一月一六日 礼拝説教

      「湖 畔 の 会 食」

 彼らが陸に上がって見ると、炭火がおこしてあり、その上に一匹の魚と、パンがあった。イエスが彼らに言う、「今とった魚をもってきなさい」 シモン・ペテロが舟に乗って、網を陸に引き上げると、百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。そんなに多くいたが、網は破れなかった。イエスは彼らに言う、「さあ、朝の食事をしなさい」 弟子たちは、主であることが分かっていたので、「あなたはどなたですか?」と敢えて尋ねる者はなかった。イエスは来て、パンを取り、彼らに与え、魚も同じようにされた。イエスが死人の中から甦った後、弟子たちに現われたのは、これで三度目である。
                        ヨハネ福音書 21章9〜14節

 キリスト教は、何よりも、親しい交わりの宗教です。神が人間との親しい交わりを回復するために、この地上に御子イエス・キリストを派遣されました。「神はその独り子を与え給うほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3・16) 神の側からそのように握手を求められたのに、人間はその差し伸べられた御手を払い除けました。その象徴が、イエス・キリストの十字架です。「十字架の上に 我は仰ぐ、わがため悩める 神の御子を。妙にも貴き 神の愛よ、底いも知られぬ 人の罪よ」(讃美歌二六二番)
 弟子たちがゲッセマネの園で、イエスを見捨てて逃亡し、ガリラヤに帰って、元の職業の漁師に戻りましたが、復活の主イエスは、弟子たちよりも先にガリラヤへ行き、そこで網を張って、彼らを待ち構えておられました。それとは知らずに弟子たちは、自分の思いに従って行動したのですが、主イエスの愛の網に、見事にかかってしまいました。今日学ぶ湖畔の会食は、主イエスと弟子たちとの、親しい交わりの回復を意味します。
 さて、湖に飛び込んだペテロは先に岸辺に着いたはずですが、それについては言及されず、魚の入った網を引いて舟で来た弟子たちが上陸して見ると、地面に炭火がおこしてあり、その上に一匹の魚がのせてあって、傍らにパンもありました。これらは主が準備されたものでした。するとイエスは彼らに、今とった魚を何匹かもってくるように命じました。ご自分が用意された一匹の魚では七人の弟子たちと一緒に食べるには足りない、と思われたからかも知れませんし、または、主が準備されたものに、弟子たちの勤労の実を加えることに意味があったのかも知れません。
 すると弟子たちが皆で行って網の中から魚をとって来た、と書いてあれば問題はないのですが、ペテロ一人が舟に乗って、網を陸に引き上げて、取れた魚を数えて見ると、百五十三匹もの大きい魚が入っていて、しかも、網が破れなかった、というのです。6節を見ると、「魚が多すぎて(七人がかりでも)網を引き上げることができなかった」のに、ここではペテロが一人で網を引き上げた、と言うのは実に不思議です。またガリラヤ湖には「大きな魚」といえるような大魚はいませんし、百五十三匹という半端な数にも、また魚でいっぱいの網が破れなかったというのにも、何か意味がありそうです。
 実は、これは実際に起こった出来事を描写したものではなく、この書物が書かれた当時の教会の現実を、象徴的な表現で物語っているのです。「おびただしい数の魚と破れない網というこの二つのことは、象徴的な意味にしか解することができない。多量の魚は、人間をとる漁師たる使徒達の説教と働きとによって将来獲得さるべき多数の信徒を象徴するものであろう。いずれにしてもこの数がなぜ一五三なのか、ヒエロニムスの時以来多くの説明が提案されたけれども、正確に解明することはできない。多量の魚にも裂けなかった網は、教会が非常に多くの人間を、そして何よりも多種多様な人間を容れることになっても、常に一体であり続けることの象徴である。そして最後に、この漁師の仕事をペテロが一人でなし遂げるのは、偶然ではない。彼は、すべての人を包含するこの普遍的教会の指導者なのである」(シュルツ)
 ここに初代教会から発展するカトリック教会への道が明確に見られます。最古の福音書であるマルコ福音書には、ペテロとアンデレ兄弟の召命の時にイエスは、「私は君達を、人間をとる漁師にして上げよう」(1・17)と言われました。その直後に召命をうけるヤコブとヨハネ兄弟にも同じ言葉を語られたに違いありません。ここではペテロはまだ特別な地位を与えられてはいません。ところがルカ福音書になると、その言葉がペテロ一人に向けられているのです。「恐れるな、今から君は人間を生け捕りにする漁師になるのだ」(5・10) ここでは既にペテロだけに物語の焦点が当てられ、他の仲間達は背後に押しやられて居ます(9〜10節) この傾向はヨハネ福音書になると更に進んでいるのです。七人掛かりで引き上げることができなかった多量の魚の入った網を、ペテロが一人で引いてきたのです。ペテロは既に大教団の首長の座を得ているのです。一五三匹の魚とは、その頃の教会の数であったかも知れませんし、当時知られていた人種の数であったかも知れません。主イエスからペテロが教会を委ねられるということは、21章15節以下のエピソードでも、更に強調されています。その上、マタイ福音書16章18節になると、ペテロの地位は決定的です。「君はペテロだ。私はこの岩(ペトラ)の上に私の教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。私は君に天国の鍵を上げよう…」 この傾向の延長が、カトリック教会なのです。
 その教会の権威主義に対する強いプロテストの声が新約聖書の中にこだましています。声の主(ぬし)は「使徒達の中で最小の者、使徒と呼ばれる値打ちのない者」(コリント第一書15・9)と自己紹介しているパウロです。「パウロ、使徒、人々(の選出)によらず、人(の任命)にもよらず、イエス・キリストによって」(ガラテヤ書1・1)直接使徒の職を委ねられた、と彼は自覚しており、イエス・キリスト以外の一切の人間的権威を認めないのです。彼はペテロの地位を相対化しています(同書2・7) 使徒パウロこそ、最初のプロテスタントです。
 ガリラヤ湖畔でのパンと魚の貧しい漁師の朝食は、教会の聖餐式を象徴化しているのです。聖餐式において、復活の主イエスは食卓の主(あるじ)として弟子たちと共にいまし、生命の糧(かて)をもって養って下さるのです。「私は天から下って来た生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう…」(ヨハネ6・51)
                   一九九四年 一月二三日 礼拝説教

      「主イエスとペテロ」

 朝食を済ますと、イエスはシモン・ペテロに言う、「ヨハネの子シモン、君はこれらにまさって私を愛(アガパオー)しているか?] ペテロは言う、「はい、主よ、私があなたをお慕い(フィオレー)していることは、あなたがご存知です」 イエスは言う、「私の小羊を飼いなさい」 二度目に再びイエスは言う、「ヨハネの子シモン、君は私を愛(アガパオー)しているか?」 彼は言う、「はい、主よ、私があなたをお慕い(フィオレー)していることは、あなたがご存知です」 イエスは言う、「私の羊の番をしなさい」 三度目にイエスは言う、「ヨハネの子シモン、君は私を慕って(フィオレー)いるか?」 ペテロは三度目は「君は私を慕って(フィオレー)いるか?」と言われたので、悲しくなった。そこで彼は言った、「主よ、あなたはすべてのことをご存知です。私があなたをおお慕い(フィオレー)ていることを、あなたはご承知です」 イエスは言う「私の羊を飼いなさい…」
                      ヨハネ福音書 21章15〜17節

 キリスト教は愛の宗教である、と言われています。そのことに間違いないのですが、同時にそれは大変誤解され易い定義です。新約聖書はギリシャ語で書かれましたが、ギリシャ語には「愛」を表現する語が四つあります。先ずエロースです。これは主として男女の愛、異性間の愛を表わす語です。ギリシャ神話のエロースは、ローマ神話ではキュウピッドで、これは恋愛の神です。新約聖書にエロースという語は使われていません。それはつまり、キリスト教はエロースの愛の宗教ではない、ということです。次に、ストルゲーという語がありますが、これは肉親の愛を表わす語です。自分の親を愛する、自分の子や孫は可愛いい。それは自然の情ですが、狭い愛です。そしてこの語も新約聖書には使われていません。キリスト教はストルゲーの愛の宗教ではありません。三番目はフィリアですが、これは英語のフレンドの語源になっている語で、友愛、友情を表わす美しい語です。フィラデルフィアという名のアメリカの都市は、「兄弟愛」という意味をもっています。また、フィロソフィーは知恵を愛するという意味で、哲学と訳されています。ソクラテスは真のフィロソファー(哲学者)でした。また、フィリアは「接吻」という意味もありますから肉体的な愛情を含んでいますが、それ以上の意味をもっています。この語はどちらかというと、人間的な暖かい愛情を表わす場合に使われています。父、母、息子、娘に対する愛(マタイ10・37)、イエスのラザロに対する愛(ヨハネ11・3、36)、一度はイエスの愛弟子に対する愛(ヨハネ20・2)、また例外的には、御父の御子に対する愛(ヨハネ5・20)にも使われています。
 新約聖書で最も多く使われているのは、アガペーの愛です。アガペーという名詞形で約一二〇回、アガパオーという動詞形で一三〇回以上でてきます。「フィリアは自然発生的愛、人情、友愛、愛情、親愛の情。これに対しアガペーは主体が価値判断、道徳的判断によって対象を積極的に選び尊重する愛」(ギリシャ語小辞典 織田昭編) フィリアが自然的、感情的な面が強いのに対して、アガペーは理性的、意志的に、深い考慮を払って、多数の中から一つを選び出すという選択的な面が強いのです。価値ありとして選び、尊ぶ愛。「君たちが私を(愛して)選んだのではない。私が君たちを(愛して、多数の中から)選び出したのだ」(ヨハネ15・16)
 フィリアの愛は感情的なものですから、嫌いなものを好きになれ、と命令することは無理です。それに対してアガペーの愛は、理性的、意志的なものですから、命令(戒め)になるのです。「あなたは心を尽くし、魂をつくし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。…あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マルコ12・29〜31)一般に日本人は命令としての愛を理解できません。この種の愛を知らないのです。
 愛の食い違い、を私たちはよく経験します。人によって価値判断の基準が違うことがその原因なのです。親の勧めるものを子は喜ばないし、師の尊ぶものを弟子は軽んじるのです。学校、職業、結婚相手などを選ぶ場合に、よく衝突が起こります。以前、「エデンの東」というアメリカの映画を見ましたが、それは父親と母親と二人の息子の各々が、各々に対する愛の食い違いを底の底まで味わうという悲劇的な物語でした。
 ベタニア村のマルタとマリア姉妹が兄弟ラザロのことで、イエスに使いを送りました。「主よ、あなたが愛(フィオレー)しておられる者が病気です」 しかし、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛(アガパオー)しておられた」(ヨハネ11章3〜5) 記者ヨハネは、愛の食い違いを見事に描いています。周囲の人々も、イエスが涙を流すのを見て、「御覧なさい、どんなにラザロを愛(フィオレー)していることか!」(36節)と言っています。それに対してイエスは「心の中で憤慨」するのです。アガペーの愛は人々に理解されないのです。
 さて、主イエスとペテロの愛の問答です。イエスがペテロにアガペーの愛を要求しているのに、ペテロは最後までフィリアの愛で答えています。高い愛の要求に対して、低い愛で値切っているのです。ペテロの心に、三度主を否認したこだわりがあるからです。彼はここで己れの弱さを味わい尽くしています。イエスは、ペテロの値切りに応じます。イエスは、ペテロが自信をもって「あなたのためには命を捨てます」(13・37)と強い決意を披瀝した時に、彼を信頼なさらず、彼が己れの弱さを味わい尽くして謙虚にされた時に、彼を信頼して、ご自分の嗣業(しぎょう)をペテロの手に委ねます。「私の羊を飼いなさい」
 ここで学ぶべきことは、私たちは元来アガペーの愛を持ち合わせていないのだ、ということです。「愛されたことのない人は、愛することを知らない」と言われています。その通りです。イエスが来て、私たちにアガペーの愛を示して下さるまで、私たちはそれを知らなかったのです。「主は、私たちのために命(魂)を捨てて下さった。それによって、私たちは(初めて)アガペーの愛を識った。それ故に、私たちもまた、兄弟のために命(魂)を捨てるべきである」(ヨハネ第一書3・16) 信仰生活は、主イエスとの親しい交わりを通して、アガペーの愛を学ぶ生活です。それは人間的な甘い愛ではなく、十字架の、厳しい愛です。「私よりも父や母を愛する(フィオレー)する者は、私に相応しくない。私よりも息子や娘を愛する(フィオレー)者は私に相応しくない。また自分の十字架をとらずに私に従ってくる者は、私に相応しくない」(マタイ10・37〜38) この意味で、キリスト教は愛(アガペー)の宗教であるのです。
                  一九九四年 一月三〇日 礼拝説教