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マルコ福音書の研究

  「茶番狂言」

 さて兵士達はイエスを宮殿、即ち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そして彼に紫の衣を着せ、彼らが編んだ茨の冠をかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。それから彼らは葦の棒で彼の頭を叩き、唾を吐きかけたかと思うと、彼の前にひざまずいて、彼を拝んだりした。こうして彼を嘲弄したあげく、彼らは紫の衣をはぎ取り、彼の衣服を着せた。それから彼らは、イエスを十字架につけるために引き出した。マルコ福音書15章16〜20節

 能の合間に狂言が演じられるように、今日の聖書個所は、裁判と処刑の合間の、兵士達の演出による茶番狂言です。主役イエスは、無言劇(パントマイム)を演じさせられます。ピラトはイエスを指して言いました、「見よ、この人を(エツケ・ホモ)!」(ヨハネ19・5)
 「ピラトは群衆に満足を与えようと思い、バラバを釈放して、イエスを鞭打った後、十字架につけるために引き渡した」(15節) 数の力で圧力をかける群衆。その圧力に屈して群衆におもねる総督ピラト。義人の犠牲によって自由にされる罪人バラバ。罪人の身代りとして十字架に引き渡されるイエス。15節の言葉によって、マルコは多くのことを私達に語りかけています。
 金属片のついた皮の鞭で囚人を打ち据える鞭打ちの刑は非常に残酷なもので、普通十字架につける前に行われました(ヨセフス「ユダヤ戦記」2・306) この刑罰は名誉あるローマ市民にはなされず(使徒行伝22・25以下)、奴隷や属州民に対してのみ行われました。ピラトによって死刑の判決が下され、鞭打たれた後、イエスは十字架につけられるためにローマ兵達に引き渡されました。有罪を宣告された囚人には人権はありません。裁判中待たされていた兵士達にとって、引き渡された囚人は、いいおもちゃになります。処刑までのひと時、囚人をいじめることはいい気晴らしになります。まして今日の囚人はユダヤ人の王を気取った男です。その男をからかって愉快なひと時を過ごそうじゃあないか。彼らは部隊(スペイラ)(二百〜六百人)の全員を集めました。余興の始まりです。彼らは無邪気な遊びが深刻な罪になるとは夢にも思いません。
 先ずイエスの衣服をはぎ取って、王が着る紫の衣を着せかけます。もちろん手近にそんな高価な紫の衣などあるわけがありません。兵士用の赤い外套(マタイ27・28)で代用させます。器用な兵士が茨で冠を作り、イエスの頭にかぶらせます。そして王笏の代りに葦の棒(マタイ27・29)をイエスの右手に持たせます。さあ、王様が出来上がったぞ。立派なものだ。皆で万歳を唱えよう。「ユダヤ人の王、万歳!」 これは恐らく、ローマに凱旋する皇帝を迎える時に唱えた言葉をもじったものでしょう。「勝利者皇帝カイザル万歳!」 そうしてからイエスが手に持つ葦の棒を取り上げてそれで彼の頭を打ち叩いたり、唾を吐きかけたり、ひざまずいて拝んでみたりして、さんざん嘲弄虐待いたしました。
 「さて面白い並行現象がある。アグリッパ王がエジプトに来た時、ならず者達は彼を嘲るために、カラバという白痴の者を捕え、王冠と王衣と王笏で飾りつけた後、彼に臣下の礼を尺くして"マーレー"(主よ)と呼びかけたという(フィロン、フラックスヘの反論36〜39) ローマの承認しているユダヤ人の王(アグリッパ)に対して、反ユダヤ的動乱が起こった時そういう嘲笑が行われたことは、侮辱と嘲笑に引き渡されたイエスと、エジプト人が残念ながら捕まえることのできない王(アグリッパ)を代表させられたあの白痴との両者が、いかに相互に近い関係にあり、またいかに惨めな役割を演じなければならなかったか、ということを我々に想起させる」(E・シュヴァイツァー)
 ローマの兵士達は何の考えもなしに、ただ面白半分にその茶番狂言をイエスに演じさせて楽しんだのですが、その行為を通して神の摂理が行われつつあったのだ、とマルコは語っているのです。「わたしは打とうとする者には[ホオ]をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(イザヤ50・6)。「主の僕の受難」の預言が、イエスにおいて現実となったのです。それはイエス御自身も、エルサレムに上る途中で預言されたことでした。「人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して彼を異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾を吐きかけ、鞭打った後、彼を殺す」(10・33〜34) 人の子イエスが「主の僕」として受難することが神の定めであり、イエス御自身もそれを預言されていました。今それが現実となっているのです。人間の行為と神の摂理とは、表裏一体となって、歴史が進行して行くのです。
 イエスを侮辱虐待した記事はこの個所の他に、14章65節にも出て来ます。それは深夜の最高法院の裁判でイエスに死刑の判決を下した後、「それから、ある者達はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、"預言せよ(言い当ててみよ)"と言い始めた。また下役たちは、平手でイエスを打った」。この場合は、最高法院の議員が数人でイエスに暴行を加え、下役たちもそれに倣ったようです。このように、最高法院で死刑を判決した後のイエスに対する暴行と、ピラトの裁判の後のイエスに対する侮辱との記事は、並行関係をもっています。「"唾を吐きかけ""打った"というのは、イザヤ書50章6節から由来したのかも知れない。そこではこれは、神の僕たる者を懲罰することと結合されている。これらの事項がまずピラトの法廷の場面に持ち込まれ、そこから次に大祭司による尋問の場に取り入れられたのであろうか? …マルコ福音書10章34節は『異邦人』が嘲弄し、唾を吐きかけ、鞭打つことを予告している」(E・シュヴァイツァー)
 どちらかと言うと史実としての可能性は、最高法院の議員とその下役たちによる暴行よりもピラトの配下の兵士たちによる嘲弄虐待の方が大であるにも拘らず、ルカ福音書は後者の虐待の記事を省き、前者の暴行の記事(22・63〜65)のみを載せて、ローマ当局に対する気遣いを見せています。「イエスの生涯は、私の見る所では、イエスが第二イザヤの"主の僕"の影の中に立っていたことを知らなければ、理解できないものである」(マルチン・ブーバー)
1993年1月24日 礼拝説教

  「クレネ人シモン」

 それから兵士達はイエスを十字架につけるために引き出した。そして彼らは、アレキサンデルとルポスの父であるクレネ人シモンが田舎(野良)から出て来てそこを通りかかったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
マルコ福音書15章20〜21節

 1月20日、アメリカ合衆国第42代大統領として46歳のビル・クリントン氏が就任しました。彼の双肩には悩める世界の重い十字架が置かれます。また同じ日に、銀幕のプリンセス、オードリー・ヘップバーンが天に召されました。彼女は晩年、ガンに侵されながらもユニセフの活動に参加し、エチオピア、ソマリアなどの難民のために尽力しました。その葬儀は、スイスの田舎の小さい教会で簡素に行なわれました。
 最高法院での徹夜の裁判、ピラトの尋問、兵士達による嘲弄、暴行、虐待、鞭打ちなどのためにイエスはしょうすいし切っておられたので、両脇を兵士に支えられて外へ引き出されました。20節は、官邸の外へとも、エルサレムの外へとも読めます。ユダヤの習慣では、処刑は都の外で行なわれました(ヨハネ19・20、ヘブル13・12)
 死刑囚は刑場まで十字架を運ばされました。この場合よく絵画で見るように、十文字の木ではなく、その横木だけを担がされたのです。柱はすでに刑場に立てられていました。イエスが自分で横木を運ぶことができないと見た兵士は、偶然そこを通りかかったユダヤ人を徴発しました。当時ローマ人は、いつでもユダヤ人を使役に駆り出したものでした(マタイ5・41) その男の名は、クレネ人シモンでした。クレネは北アフリカの地中海沿岸、現在のリビアの都市ベンガジ付近にありました。当時、離散のユダヤ人達が多くそこに住んでいました(使徒行伝2・10、6・9、13・1) シモンは過越祭のためにエルサレムに巡礼に来ていたのか、都の郊外に住みついていたのかよく分かりません。アクロスという語は、野原、畑、田舎という意味をもっています。彼は都に住んでいて、野良仕事に行き、その帰り道にこの現場に来たのか、それとも郊外に住んでいて都に出て来たのか。前者でしたらその日は過越祭の日ではあり得ないことになりますから、多分、後者でしょう。とにかくシモンはたまたまその現場に通りかかって、イエスがローマ兵達に引き出されるのを見てしまったのです。そしてローマ兵と目が合って悪い予感がした瞬間、「おいお前、これをこの男の代わりに担いで行け!」と言われてしまいました。彼は自分の不運を嘆いたことでしょう。しかし彼はこのようにして、イエス・キリストに出会ったのです。
 「アレキサンデルとルポスの父であるクレネ人シモン」 イエスの死後、約40年を経た後、シモンの二人の息子は確かにクリスチャンとしてマルコとその読者である教会に名前が知られていました。アレキサンデルという名前はこの個所の他に新約聖書に4回出てきますが、いずれも別人です。ルポスは、ローマ書16章13節に出てきます。「主にあって選ばれたルポスと、彼の母によろしく。彼の母は、私の母でもある」 原始教会は今日の日本の教会のように小さい共同体でしたので、同一人の可能性はあります。もしそうだとすると、ルポスとその母(シモンの妻)は使徒パウロと大変親しい関係にあり、ローマ書が書かれた当時は、ローマ教会に在籍していました。強(し)いられた十字架は、恵みの源になりました。主の不思議な御業です。
 マルコ福音書15章21節のクレネ人シモンの記事は、伝承の初期の段階のものです。「21節には神学的に何かを述べようとする意図は見られないし、たとえばイエスの弱さとか、虐げの下に打ちのめされて力尽きていたという叙述はない。人々がその当事者をまだ知っている間だけ関心があるような個々の事項は、後になると消えていく。まず二人の息子の名前が(マタイ27・32、ルカ23・26)消滅し、次に田舎から来たということも(マタイ27・32)消えている」(E・シュヴァイツァー)
 「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえて十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」(ルカ23・26) ルカにとって、シモンの二人の息子の名前は関心がないのでこれを省き、マルコの「十字架を担ぐ(アイロー)」を、「十字架を背負う(フエロー)」と動詞の表現を変え、「イエスの後ろから」という言葉を付け加えて、「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従って来なさい」(ルカ9・23)の言葉を読者に思い起こさせています。つまりルカは、マルコの史的記述を文学的表現に書き直して、読者に対してイエスの御後に従う者の姿を絵画的に示し、これを模範にするようにと勧めているのです。
 「イエスは自ら十字架を背負って、されこうべ(へブル語ではゴルゴダ)という場所に出て行かれた」(ヨハネ19・17) ヨハネの描くイエスは、権威ある神の子です。クレネ人シモンに代わって十字架を担いでもらう必要がなく、自らこれをゴルゴダまで背負って行かれました。ヨハネのイエスにとって、受難の時は、栄光を受ける勝利の時(12・23、32)なのです。ここでは、イエスの人間的な弱さは消え去っています。ヨハネがクレネ人シモンの記事を省いたもう一つの理由は、当時流行していたグノーシス主義の仮現論(ドケテイズム)の論拠を奪うためであったかも知れません。これは霊と肉を分離させる二元論で、天的存在者たる神の子キリストは、罪に汚れた肉をとって来たのではなく、ただ仮りに人間の姿をとって現われたのだ。実際に十字架上で殺されたのはイエスではなく、クレネ人シモンであったと主張したのです。マホメットも仮現論を信じていました。「(背信の徒は)"我々は、メシアにしてマリアの子、イエスなる神の使徒を殺したぞ"などと言った。彼らはイエスを殺したのではなく、ただ見極めがつかなかっただけのこと…」(コーラン4・156) ヨハネは仮現論に反対して「言(ロゴス)は肉(サルクス)と成った」と書きました。生老病死は肉における苦しみです。肉のゆえにこそ罪との闘いがあるのです。肉をとらない観念神キリストに、人間を救う力はありません。十字架につけられたキリストこそ、人間を完全に救う神の力、神の知恵なのです。
1993年1月31日 礼拝説教

  「十字架の道行き」

 大勢の民衆と悲しみ嘆く女達が、イエスに従った。イエスは女達の方を振り向いて言われた、「エルサレムの娘達よ、私のために泣くな。むしろあなた達自身とあなた達の子供達のために泣きなさい! なぜなら、見よ、こう言う日が来るからだ、"不妊の女と、子を産はなかった胎と、乳をふくませなかった乳房は幸いだ!"と。その時、人々は山に向かっては"我々の上に崩れ落ちよ!"と言い、丘に向かっては"我々の上に覆いかぶされ!"と言い始める。生木でさえもこうされるのならば、枯木は一体、どうされるのだろうか?」ルカ福音書23章27〜31節

 総督ピラトの官邸からローマ兵達に監視されて、イエスが引き立てられ、その後ろからクレネ人シモンが十字架の横木をかついで行き、イエスに同情を寄せる大勢の民衆とやじ馬と、悲しみ嘆く女達が歩いて行きます。「ほかにも二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために引かれて行った」(32節)。この道行きは「悲しみの道行き」(ヴィア・ドロローサ)として知られています。この部分はルカの特殊資料です。その道行きには、二つのコースが考えられます。伝統的なコースは、神殿の北にあるアントニア要塞にピラトの官邸があったとして、そこを起点にして南西に約五百米歩いて、当時城壁の外にあったゴルゴダの丘まで行くコースです。13世紀以降、カトリック教会はそのコースに14個所の行列祈[トウ]所を設け、聖金曜日には多くの巡礼者達が十字架を担いでそのコースを行進します。他のコースは、ピラトの官邸が上の町西方のヘロデの宮殿にあったとするもので、そこを起点にすると北東に約五百米進んで、現在聖墳墓教会のあるゴルゴダの丘に行くことになります。最近の学者の意見では、後者のコースの方が有力です。
 イエスは、悲しみ嘆く女達の方を振り向いて、「エルサレムの娘達よ」と語りかけます。これは「ガリラヤから従って来た女達」(49節)と区別している言葉です。この悲しみ嘆くエルサレムの女達は、死者のために泣く職業的な「泣き女」ではなく、イエスに心から同情して泣いているようです。とすれば「この女達の同情は我々の主に対し、その茨の道に最後の花一つをまいた」(ランゲ)行為で、イエスの心は砂漠でオアシスに出会ったような感じでしたでしょう。イエスと婦人達の交流を描く時、ルカの筆はますます冴えてきます。
 「私のために泣くな」 今彼女達はイエスに降りかかった災難に同情して、イエスのために悲しみ嘆いているが、それはイエスが神の御計画に従って自ら選んだ道(18・31以下)であるから嘆く必要はない。本当に悲しみ嘆くべきは、自分達自身とエルサレムの恐るべき運命に対してである。エルサレムはイエスの悔い改めの警告を拒んだために、やがて破局を迎えることになる。ルカはこれまでも度々エルサレム崩壊の預言を記してきました(11・50〜51、13・34以下、19・41以下、20・9以下、21・20以下) そしてそれら一連の預言の総括としてここにイエスの最後の悔い改めの呼びかけを記しています。
 「見よ、人々がこう言う日が来る。"不妊の女と、子を産まなかった胎と、乳をふくませなかった乳房は幸いだ!"と」 現代日本ではもうそんなことはありませんが、古代イスラエルでは、不妊は女の恥とされていました(1・25) しかし、その裁きの日には運命が逆転するのです。飢えに泣くわが児、虐待されるわが児の姿を見なくて済むのですから、子供を産まなくてよかった、というのです。「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、その時は、滅亡の近いことを悟れ。…その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民には神の怒りが臨み、彼らは剣の刃に倒れ、また捕えられて諸国へ連行されるであろう」(21・20以下) この記事は恐らく、19章42〜44節の記事と共に、第一次ユダヤ戦争(66〜70年)の悲惨な情景を見たルカの描写です。ヨセフスも「ユダヤ戦記」の中でローマ軍に包囲されたエルサレム城壁内の悲惨な状況を詳細に伝えています。「…飢えに苦しむ者が熱心に望むのは、ただ死であった。彼らはこのような恐ろしい事件、(マリアという女が自分の子を殺して調理して食べた事件)を聞いたり見たりせずにひと足先に死んで行った者たちを祝福した」(6・3・4) エルサレムの女達は今、ゴルゴダに引かれて行くイエスに同情して泣いているけれども、本当に悲しむべきは、やがて来たるべき自分達自身とその子達の運命に対してである、とイエスは預言されているのです。29節は、ホセア書9章14節の言葉を受けています。「主よ、彼らに与えて下さい。子を産めない胎と枯れた乳房を」 エルサレムの女達はイエス個人のために泣き、イエスはエルサレムの運命のために泣かれました(19・41)
 30節の言葉は、ホセア書10章8節の預言を受けています。「その時、彼らは山に向かい、"我々を覆い隠せ"、丘に向かっては、"我々の上に崩れ落ちよ"と叫ぶ」 神に背いたイスラエルが、アッシリアに侵略されて、死を願い求めるほどの悲惨を味わうというホセアの預言と、イエスの福音に耳を傾けず、悔い改めの呼びかけに対して十字架をもって報いるエルサレムの運命が重ね合わせられております。ルカの読者はこの記事を読んで、70年に起きたエルサレムの大崩壊の記憶を新たに思い起こしたに違いありません。
 「生木でさえもこうされるのならば、枯木は一体、どうされるのだろうか?」 ことわざを例えに用いています。神の裁きは「火」にたとえられます(3・9) 生木は燃えにくいが、枯木はよく燃えます。そのように、義人イエスが十字架につけられるほどの苦しみを受けるのならば、罪人たちが受ける運命やいかに、という意味です。
 「私について来ることを望む者は、自己を否定し、毎日、自分の十字架を背負って、私に従って来なさい」(9・23) ヴィア・ドロローサを歩くのは、ただ主イエスお一人ではなく、私たちすべての者が呼びかけられているのです。個人個人に小さい十字架が与えられており、また、全世界に大きい十字架が与えられています。その十字架の道を通って、勝利の復活に至るのです。
1993年2月7日 礼拝説教

  「ゴルゴダ到着」

 そして彼らはイエスをゴルゴダ、訳せば「されこうべの場所」、という所へ連れて行った。それから没薬(もつやく)を入れたぶどう酒をイエスに差し出したが、彼はこれをお受けにならなかった。マルコ福音書15章22〜23節

 ヴィア・ドロローサの出発点が神殿北方のアントニア要塞であったのか、上の町西方のヘロデの宮殿であったのかは確定できませんが、到着点のゴルゴダの丘が、現在の聖墳墓教会の中にあったことは、ほゞ間違いないようです。「新約聖書が前提するゴルゴダは、『都に近い』(ヨハネ19・20)、当時城壁の外にあった処刑の場所である。墓が一つある庭が近くにあった(同19・41)。これらの条件を満たしているのが今日の聖噴墓教会の場所で、こゝがコンスタンチヌス帝の時代からゴルゴダとされている。いわゆるキリストの墓から40m離れた4.5mの丘が十字架の丘とされている。」(現代聖書大辞典) ゴルゴダとは「されこうべ」という意味の地名で、アラム語でグルゴルター、ヘブライ語でグルゴーレツト、ラテン語でカルヴァリアといゝます。当時の石切場の一部で、ドクロの形をした高さ13mの岩山があり、その場所の低い所で処刑が行われたようです。現地に行っても見学者にはこれを見分けることが困難です。「1976年、巡礼に来たフランス人神父かバシリカ(教会堂)の中を丁寧に見てまわった後で、そこに住むフランシスコ会の神父であり学者でもあるヴィアニ・デラランデ司祭に『だけど、ゴルゴダはどこにあるのですか?』と尋ねたという話があるが、現状をかんがみれば、それも驚くには当らないだろう。…秩序立った美しさを欠き、ごてごてした装飾の山と醜悪な建物の寄せ集めとしか形容できないこの教会は歴史的に重要な聖堂というには余りにも不適切と言わざるを得ず、人々の困惑をまねくばかりのものになっている。…実際、この迷路さながらの教会の中で、ゴルゴダの同定は極めて困難であり、その存在を確かめるには、考古学者の鋤と、鍛えた観察力、そして発掘物についての十分な知識と解釈力の助けが必要である。しかし、ゴルゴダは実在する…」(「歴史の中のイエス」 ガーリヤ・コーンフェルト著)
 ゴルゴダの処刑場に到着して、イエスは没薬を入れたぶどう酒を差し出されましたが、意識的にそれを拒まれました。処刑されようとする者に麻酔の役目をする飲み物を与えることは、ユダヤ人の習慣でした。「強い酒は没落した者に、酒は苦い思いを抱く者に与えよ」(箴言31・6) この憐みの習慣を行なおうとしたのは、「嘆き悲しむ女達」(ルカ23・27)であったかも知れません。イエスはそれを飲みませんでした。それは御父より与えられた苦難を底の底まで味わい尽くすお覚悟を表わしています。その心をヘブル書の記者はこう解釈しています。「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者達を助けることができるのである(2・18)。「主の受けぬ試みも主の知らぬ悲しみも うつし世にあらじかし いずこにも御跡(みあと)見ゆ」(賛美歌532番) 私は今際(いまわ)のきわには安楽死したいと思うのですが、それはどうも信仰的な考えではないようです。しかし苦痛に呻く患者に麻薬を与えることは、ユダヤ人の習慣のように、人道的な処置だと思うのです。それで、「すべては御意のまゝに」と祈って、我慢ができない程の苦痛が来たならば、主に許しを乞いて、麻薬で眠らせていたゞく、というのはどうでしょうか。取越し苦労かも知れませんが。
 「そして彼らはゴルゴダ、即ち頭蓋骨の場所と呼ばれる所に来た。そこで彼らはイエスに苦味を混ぜたぶどう酒を飲むために与えた。そして彼はそれを味わった時、飲もうとはされなかった。」(マタイ27・33〜34) マタイはマルコの「没薬」を「苦味」に変えました。没薬にも苦味はありますが、香料としての苦味です。マタイの「苦味」はギリシヤ語のコレーといって、胆汁や苦よもぎの苦味です。イエスはそれをなめてみて飲まなかった、むしろ飲めなかったのです。マタイのこの変更は、旧約の預言の成就を目指していると考えられます。「人は私に苦いものを食べさせようとし、渇く私に酢を飲ませようとした」(詩篇69・22) これは信仰の義人が敵対者達に虐待された時、神に助けを求めた詩の一節です。マタイはこの節の対句を二分して、前半行の「苦味」については34節に、後半行の「酢」については48節に記して、この通り旧約の預言が二つ、この場所で実現していると言っているのです。こゝではマルコの語る「憐みの飲み物」は、虐待のための「悪意の飲み物」に変えられ、イエスは渇きをいやすために味わってみたが、それはひどい飲み物だったので、ロを閉ざされたというエピソードに変えられています。
 これと同様なことをマタイは21章2節と7節で行なっています。「この上もなく奇妙なのは、2節、特に7節で、一頭の雌ろば及びその子ろばに言及されている点である。マタイは4〜5節でゼカリヤ書9章9節を成就すべき言葉として引用し、捜入した。そのゼカリヤ書9章9節では、言葉通りに理解するなら、事実一頭の雌ろばと、一頭の子ろばに言及がある。しかしこれは、ヘブライ人が同じ事柄をしはしば二重に表現するために過ぎない。要するにマタイは、マルコがこの預言の個所をほのめかしているのを意識的に取り上げ、同時にそれが全く言葉通りに──イエスがどのようにして二頭のろばに乗ったかをうまく思い描くことは不可能であるが(例えば順次それらに乗ったというのであろうか)──成就した、と強調したのである」(E・シュヴァイツァー) 因(ちな)みにマルコの並行記事では一頭の子ろばが出てくるだけです。(11・2)
 「憐みの飲み物」か、「悪意の飲み物」か。御父の定めに従って受難する人の子イエスを思う時に、マタイよりもマルコの方が遥かに深い真実を描いていると考えます。体を十字架に釘付けされるという耐え難い苦痛を受けようとしている死刑囚に、人々が少しでもその痛みが和らげられるようにと「憐れみの飲み物」として没薬入りのぶどう酒を差し出した時に、イエスは意識的にそれを飲むことを拒まれたのです。それはゲッセマネの園での決意(14・41b〜42)の延長線上にある行為でした。
1993年2月21日 礼拝説教

  「ユダヤ人の王」

 それから彼らは彼を十字架につける。そしてとるべきものをくじ引きで決めて、彼の衣服を分配する。時は第三時(午前九時)であった。そして彼らは彼を十字架につけた。そしてその罪状書きとして「ユダヤ人の王」と書きつけてあった。マルコ福音書15章24〜26節

 イエスの生涯を登山にたとえれば、十字架は山の頂上に到達したということです。十字架はキリストの福音の山頂に立っています。福音を信じるクリスチャンの観点に立てば、十字架の出来事は歴史上最大の事件であるはずです。にも拘らずマルコの記述は簡潔です。「彼らは彼を十字架につける」 これ以上簡略に表現することはできません。キリストの福音は、誇大広告とは無縁のものです。 もっともマルコがこの箇所で同じ文章を二度くり返しているのは、その事実を強調するためか、あるいは異なった二つの伝承をつなぎ合わせているためです。しかし私達は十字架刑がどういうものであるかを知る必要があります。
 「罪人(ざいにん)は先ず容赦なく鞭打たれる。それから彼は彼の十字架の横木をひきずって町を通り、処刑場に行く。そこにはすでに十字架の縦杭が垂直に地面に打ち込まれている。そこで彼は裸にされる。それから人々は横木の上に腕を広げた彼を釘付けにし、その横木を十字架の縦杭の上に高くひき上げ、地上から二、三メートルの所で彼を縛る。そして人々は罪人の足を十字架の杭に確りと釘付けにする。また更に十字架刑にされている者の頭の上に、判決理由を述べた一枚の板を取付ける。磔刑はキケロによれば『最も残酷で、最もひどい死刑である』。人々は犯罪者に対して憐れみを覚えると、彼らは脛骨を折ったり、脇腹を槍で突いたりして彼の苦痛を和らげる(死期を早める)。もしそれが行われない時には、不幸な人は苦しい状態で何時間も、しばしば何日間も木にかけられている。そして終に衰弱、窒息、うっ血、心臓破裂、虚脱、ショックなどで死がやってくる。更に彼はその時間中ずっとどうしようもないままに、彼を襲ってくる猛獣や禽獣のえじきにされる。彼は自分の傷口にとまるはえやあぶを防ぐことができない。要するに、十字架刑は古代における裁判所の最も凶悪な発明であり、人間が人間の残忍性によって蒙ることのできる拷問のうちで最も苦痛に満ちたものである。この意味において十字架は人類の苦難の──いや、それだけでは十分でない──ユダヤ人の苦難の──しかし究極においては、聖徒たちの苦難の象徴なのである」(E・シュタウファー)
 見張り番の兵士達が役得として罪人の衣類を受け取ることは、ローマの習慣であったかも知れません。しかし彼らがイエスの衣服をくじ引きにして分配したということは、その時旧約の預言の一つが実現したのだ、と原始教会によって解釈されました。「彼らは互いにわたしの衣服を分け、わたしの着物を籤引きにする」(詩編22・18)
 ヨハネはこの詩句の前半行と後半行を二分して解釈し、四人の兵士達がイエスの上着を四つに分けて各自が受け取り、下着は一枚の布でできていたので、くじ引きにした、と詳細にかいています。(19・23〜24)
 「時は第三時、(午前九時)であった」 この時刻を、ヨハネ福音書19章14節の、ピラトの判決があった「時は第六時(十二時)頃であった」と調和させることは不可能です。ヨハネは、イエスは「神の小羊」(1章29、36節)として、過越の小羊が神殿で屠殺される時刻に殺された、と証ししているのです。マルコは、イエスの最後の日を三時間ごとに区切って(15章1、25、33、34、42節)、その日の出来事を通して刻一刻、神の御意思が正確に実現しつつあるのあるのだ、と表明しているのです。ヨハネは神の小羊としての、イエスの贖(あがな)いの御業を強調し、マルコは、神はすべての日と時間の主でいまし給う、と語っているのです。
 十字架上の罪状書きは四福音書によって様々です。「ユダヤ人の王」(マルコ)、「これはユダヤ人の王イエス」(マタイ)、「これがユダヤ人の王」(ルカ)、「ナザレ人イエス、ユダヤ人の王」(ヨハネ)。四つに共通である「ユダヤ人の王」、即ちマルコのものが原形であるようです。ローマ総督ピラトによって「ユダヤ人の王」として裁かれ、死刑の判決を受けたということは、イエスは反ローマ運動の政治的反逆者であるとレッテルを貼られたことを意味しています。また「ユダヤ人の王」と言う表現の中に、支配者ローマ人の侮辱的な感情が暗示されているかも知れません。ユダヤ人自身がメシアを指して言う場合には「ユダヤ人の王」とは言わず、「イスラエルの王」(15・32)と言いました。
 しかしこの侮蔑的なひびきのする「ユダヤ人の王」というイエスに付けられたタイトルを逆手にとって、原始教会の人々は、イエスこそ「ユダヤ人の王」であり、メシア(キリスト)であり、救い主であると、彼らの信仰を告白したのです。ピラトがイエスのことを「ユダヤ人の王」(1、9、12)と言い、そのように罪状書きに書かせ(26)、兵士達がイエスに向かって「ユダヤ人の王、万歳」(18)と叫び、ユダヤ教の指導者たちがイエスを侮辱して「メシア、イスラエルの王」(32)と言い、処刑の責任者であった百人隊長が、イエスの死に方の一部始終を見て「本当に、この人は神の子であった」(39)と感嘆した、とマルコは記しました。悪意からであれ、善意からであれ、人々はイエスをそのように証ししている、あなたはどう思うか、とマルコは読者に問いかけているのです。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私達は東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2・2) マタイは、イエスが誕生された時に東方の賢者達が、「ユダヤ人の王」=神のメシアを礼拝するために献上品をもってやって来た物語を、彼の福音書の初めの部分に書きました。そしてイエスの生涯の最後の日に、十字架上の罪状書きとして、「これはユダヤ人の王イエス」と書きました。世の人々が極悪人として十字架上に処刑したイエスを、「ユダヤ人の王」(32)、「異邦人の希望」(12・21)、「神の子キリスト」(16・16)と告白しているのです。読者であるあなたはどちらの側につきますか、と問われているのです。
1993年2月28日 礼拝説教

  「自分を救えない《救い主》」

 そして彼と共に、彼らは二人の強盗を、一人を彼の右に、一人をその左に、十字架につける。そして通りがかりの人々は、その頭を振りながら、彼を罵って言った、「へへえ、神殿を壊して三日で建てる奴、十字架から下りて来て自分自身を救え!」同様に祭司長達も律法学者達と一緒になって嘲って言った、「他の人々を彼は救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王なるキリストよ、われわれが見て信じるために、今十字架から下りて来い」 そして彼と共に十字架につけられた者達も、彼を罵った。
マルコ福音書15章27〜32節
 歴史的事実という小さい核があって、その後、それに関する解釈や説明が付け加えられ、思想が組み立てられ、教えが宣べ伝えられ、伝説が生まれ、物語が作り出されて、後世に伝えられてゆく。イエスの受難物語もその様な過程をたどって成立いたしました。「イエスが二人の犯罪人の間で十字架につけられたことは、最古の報告に属するが、また確かに歴史的事実である。これはむしろ、教団にとって都合の悪い報告であった。この記事に一つの神学的関心があったとは見えない。後の筆記者に至ってはじめて、イザヤ書53章12節の『彼は咎ある者の中に数えられた』という預言がここで成就したのだという注釈を28節に挿入したのである。ルカにおいてはこの二人の強盗は、みじめな人にイエスは愛を注いでその魂の看取りをする方だということ、及び神の愛を受ける人と拒否する人の相違を描写するための題材となっている。ペテロ福音書13節では、自分の罪を告白する敬虔な強盗が兵士に向かって、罪を犯した者は当然罰を受けるという説教をしたことになっており、模範という趣旨をより鮮明に示している」(E・シュヴァイツァー)
 ここでは三種類の人々が、十字架につけられたイエスを侮辱、嘲笑しています。ゴルゴダの処刑場は城壁の外側の、道の傍らにあったので、大勢の通行人が十字架上のイエスを目撃しました。彼らがイエスを嘲りからかう姿は、詩篇22・7の言葉が下敷になっています。「すべて私を見る者は、私をあざ笑い、唇を突き出し、頭を振り動かして言う…」 哀歌2章5節には通行人への言及があります。「道行く人は誰も彼も、手を叩いてあなたを嘲る。…あなたに向かって口笛を吹き、頭を振ってはやし立てる」 信仰の義人が迫害を受ける、というのは旧約聖書の主題の一つです。受難物語では、それがイエスに集中しているのです。「あの豪華な神殿を破壊して、それをわずかの三日で再建できるほどの超能力の持ち主だと言うのなら、いま十字架から、『エイ、ヤッ』と気合いをかけて下りて来て、自分を救うぐらい朝飯前にできるはずだ。それができないのなら、お前は大ぼらを吹いていたのだ。神聖なるお宮を冒涜したのだから、十字架につけられるのは仕方があるまい」 この神殿への言及(29)は14章58節の言葉と対応しています。確かにこの言葉は、ユダヤ教当局者の立場から見れば、許すべからざる冒涜です。しかしマルコは、イエスを神の子と信じるクリスチャンの立場から書いていますから、この通行人の態度こそ、神の子に対する冒涜だ、と言っているのです。29節を直訳すると、「通行人たちは(傍点始まり)彼を冒涜して(傍点終わり)、頭を振り動かし…」となるのです。そこには真に神聖なるものは何か、というユダヤ教とキリスト教の思想的対立が現わされているのです。
 また、祭司長達が律法学者達と一緒になってイエスを嘲笑します。「イスラエルの王なるキリスト」(32)という言葉は、14章61節の言葉と対応しています。それは最高法院で、イエスに死刑判決を下す理由とされた言葉です。「ざまぁ見ろ! 人々を救うとお前は言った。だがお前には自分を救う力もないではないか? お前が救い主だと言うのなら、先ず自分自身を救え! われわれが見て信じるために、いま十字架から下りて来い!」 奇蹟をやって見せろ、そうしたら信じてやる。これは世の常識です。一応筋が通っている言い分です。しかしそれは不信仰の論理です。それが叶えられた時に、人々は自由な信仰が得られなくなるのです。神の子イエスに奇蹟を行う力がありました。しかし彼は自らの自由意志から、その力を使用されなかったのです。その理由の一つは、御父の御意志を優先させたからです。(14・36) もう一つは、イエスに従う者が、強制的な力によって従わさせられるのではなく、自発的な自由の愛をもって従うことを望まれたからです。この世の宗教の教祖、霊能者、霊媒、魔術師、詐欺師などは、自分の超能力を見せつけて、信者を服従させます。人々は彼を現人神(あらひとがみ)、生き仏として祀り崇め、彼の託宣に一喜一憂し、彼の指示に戦々恐々として従います。
 「奇蹟をやって見せろ、そうしたら信じてやる」 以前、私達はそれと同じ声を聞きました。そうです。荒野のサタンの声です。「お前が神の子だと言うのなら、それを証明して見せろ。さあ、この神殿の屋根から飛び下りてごらん。神は愛するわが子の危機を決して見過ごしにはなさらず、直ちに天使に命じて、お前の体を空中で支え安全に地上に到着できるようにして下さるに違いない」(マタイ4・6) 「あなたの主なる神を試みてはならない!」 これが神の子イエスのお答えでした。わが身は十字架につけられていても、主なる神を試みないで神の御旨に服従する。それが御父に対するイエスの愛でした。
 イエスは自らを高くする道を選ばれず、自らをこの世の最低のところまで落とし、最低のところにいる人々の「友」と成られたのです。十字架にはりつけにされて処刑される者こそ、この世の最低の者たちです(ピリピ書2・8) しかし実際にイエスと共に十字架につけられた二人の強盗たちは、イエスの愛を知って感謝したでしょうか? 「そして彼と共に十字架につけられた者達も、彼を罵った」(32b) 彼らは「クレネ人シモン」と違って、イエスと共に十字架につけられるという運命によって与えられた救いの恵みの機会を、不信仰によって放棄してしまいました。こうしてイエスは、十字架において、徹底的に見捨てられるという孤独の道を歩まれるのです。受難物語におけるイエスの最大の苦しみは、見捨てられるという点にあるのです。
1993年3月7日 礼拝説教

      「悔い改めた犯罪人」

 処刑されている犯罪人の一人がイエスを罵った、「お前はメシアではないか。自分自身とおれ達を助けろ!」 するともう一人がそれに答えて、たしなめて言った、「同じ刑罰を受けていながら、お前は神を畏れないのか。おれ達は自分たちがやった悪事相応の報いを受けているのだから、これが当然なのだ。しかしこのお方は間違ったことを何もなさらなかったのだ」 そして言った、「イエス様、あなたが御国の権威をもっておいでになる時、私を憶えていて下さい」イエスは言われた、「アーメン、私はあなたに言う。今日あなたは私と一緒にパラダイスにいるであろう」
                        ルカ福音書 23章39〜43節
 先週学んだマルコのテキストには、「一緒に十字架につけられた強盗達も、イエスを罵った」とありました。イエスは弟子達から、ユダヤの権力者と群衆から、ローマの支配者と兵士達から、一緒に十字架につけられた強盗達から、そして最後には最愛の御父から、見捨てられたのです。そして読者も又、「われらも彼を尊まざりき」(イザヤ53・3)と心中深く思って、罪を悔い改めるのです。マルコの受難物語におけるイエスの最大の苦しみは、見捨てられる、という点にあるのです。
 ルカは、クレネ人シモンの個所で、マルコの記事を修正して、「十字架を背負ってイエスに従う」信者の原型をシモンの姿の中に示したことを、私達は学びました。そして恐らくこの個所でも、マルコによれば、イエスと共に十字架につけられた強盗達もイエスを罵ったのだが、もしその時にイエスを信じたらどうなるだろうか、というルカの敬虔な思いが、改心した犯罪人の物語を創作させたのではないか、と私は想像するのです。その時、ルカの思いの中に「キリストと共に十字架につけられる」(ガラテヤ2・19,ローマ6・6)というパウロの言葉があったのではないか。「キリストと共に十字架につけられる」ことも又、信者の原型であるのです。
 受難物語において、マルコは徹底的に暗いイエス像を描いています。イエスは神に見捨てられて、絶望して死ぬのです。対照的にルカは、十字架のイエスの上に天からの光がさしている明るい絵を描いています。ルカの関心の一つは、罪人の悔い改めでした。「私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」というマルコ(2・17)の言葉に、ルカは「悔い改めさせるため」(5・32)という言葉を付加しました。ルカ伝15章は、罪人が悔い改めて神に立ち帰る三つのたとえ話です。
 それで何故ルカが、マルコの「強盗(レーステース)」を「犯罪人(カコウルゴス)」と書き改めたのかということも納得されます。彼らは普通の盗賊ではありません。「彼らは犯罪者というよりは熱心党の者達(ルカ10・30)と解されるべきである。彼らもまたイエスと同様、反逆者としてくるしい刑死に遭わねばならなかった」(レングストルフ) 熱心党員は暴力的な反ローマ革命家で、その活動資金を得るためには強盗もはたらいたことでしょう。ゲッセマネの園にいるイエスを逮捕するためにやってきた神殿警備隊に対してイエスは「まるで強盗(れーすてーす)でも向かうように、剣と棍棒をもって私を捕らえに来たのか」(マルコ14・48)と言われました。イエスは熱心党員ではありませんでしたが、為政者達からは同様な危険人物として扱われました。
 二人の犯罪者の中の一人はイエスを罵りましたが、他の者は彼をたしなめて、イエスは罪がないのに十字架につけられたのだと言い、イエスに向かって、「イエス様、あなたがメシア王として来られる時に、私を憶えていて下さい」と乞いました。これは最早クリスチャンの信仰告白であり、祈りでもあります。罪なき神の子イエスが罪人に代って贖罪の死を遂げること、彼が復活し、昇天して、やがてメシア王の権威をもって再臨し、世界の審判者になることを、この人はすでに知っているかのように話しています。これは原始教会の信仰告白なのです。ルカは、イエスは最後まで罪人を悔い改めさせて御国へ招き入れ
る救い主であると、説教しているのです。恐らく原始教会の信者達は、このように祈って(42節)、死の眠りについたことでしょう。
 「アーメン、私はあなたに告げる。今日、あなたは私と一緒にパラダイスにいるであろう」ユダヤ教では、すべての死者は陰府(よみ)に下るのです(詩篇63・9、88・4〜12)そこで最後の審判を待って、天国行きの者と地獄行きのものが決定されます。しかしここでは、今日、直ちにその罪人は楽園に入ることを約束されています。「〈今日〉が特別に強調されている。イエスは今日すでに存在している希望の救いを、はるか未来の時点に対立させているのである。恐らく、キリストと共に生きる者は、キリストの中に現存している御国に今、与(あず)かっているのであり、またそれ故に、死後の生命の具体的な観念について思いめぐらすことなしに、パラダイスにおけるキリストとの交わりの中へと死んで行くのである
ことが強調されるべきである。神と共にある完成した生命の絶対的な異質性は、もはや人の子の来臨の日までの時間的な隔りによって表現されるのではなく、地上とパラダイスとの場所的な差異によって表現されている」(E・シュヴァイツァー) 同様に、いつ神の国が到来するのか、とパリサイ人に質問された時に、神の国は目に見える形で来るのではない。見よ、神の国は君たちの直中に実在しているのだ」(ルカ17・21)とイエスは答えました。この言葉を語るイエスは歴史のイエスではなく、すでに御国の主である神の子キリストなのです。
 ルカは「今日」を強調する特長があります(2章11節、4章21節、5章26節、19章5節、9節、23章43節)その「今日」は、歴史における特定の日を指す今日であると同時に、いつの時代にも妥当する普遍性を帯びている今日なのです。紀元30年に隣で十字架にかけられている罪人がイエスから語られた「今日」は80年代のルカの時代においても「今日」であり、今この言葉を学んでいる現代の私達の「今日」でもあるのです。哲学者キルケゴールはそれを「同時性」と呼びましたが、それは時間的、空間的な距離を超えて、イエスと信者とを一つに結び合わせる霊的、宗教的な経験なのです。聖霊がそのことを可能にす
るのです。

                    一九九三年 三月一四日 礼拝説教

      「 暗 闇 と 絶 叫 」

 それから第六時(正午)になった時、暗闇が全地の上を覆い、第九時(午後3時)にまで及んだ。そして第九時に、イエスは大声で叫んだ、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ?」 これを翻訳すると、「わが神、わが神、何故わたしを見捨てられたのか?」という意味である。
                       マルコ福音書 15章33〜34節
 「私は狂気の王国の中で、ユダヤ人達がその歌(アニ・マアミン=私は信じる)を歌うのを聞いた。彼らは自分が死の入口に近づいているのを知っていた。そんな所で、彼らはどうしてメシアの出現を信じられたのか。彼らはどうして待ち続けることができたのか。分かっていたはずなのに… ホロコースト(焼き尽くす供物=大量虐殺)について考える時、必然的に次のような疑問に直面する。神はどこにいたのか、神は何を知っていたのか、神はなにをしていたのか、と」(エリ・ウィーゼル)        
 私達は今、受難物語の中核に立っています。「それから彼らは彼を十字架につける… 時は第三時(午前九時)であった」。マルコは三時間ごとに時間を区切って、十字架の出来事を報告しています。午前九時から正午までの三時間は、通行人達と、神殿権力者達と、一緒に十字架につけられた強盗達から嘲弄と侮辱を受けます。イエスは沈黙を守っています。正午になると暗闇が全地を覆って、午後三時にまで及びます。真昼の暗黒です。「太陽は、光を失い」(ルカ23・44) これは日蝕であった、と解釈する人もいます。しかし過越祭は満月に祝われます。満月の時には日蝕は起こらないのです。また、春アラビヤ砂
漠から吹き寄せて来る熱風(シロッコ)が、砂塵を巻き上げて太陽を暗くした、と説明する人もいます。
しかしそれでは「全地」が真っ暗にはなりません。これは自然現象ではないのです。古代人は偉人や英雄の死には天変地異が起こると信じていました。BC44年3月15日にジュリアス・シーザーが暗殺された時、正午から夜まで太陽が光を失った、と書かれました。神の子の死に、天は悲しみ、地は嘆いたのでしょう。マルコはアモスの預言の成就を語っているのです。「主なる神は言われる。その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。…独り子をなくしたような悲しみを与え、その最後を苦悩に満ちた日とする」(8章9〜10節) 聖書では、奇跡は神の御業のしるしなのです。人間が自分達の都合や欲望によって、無力に見えるイエスを勝手気ままに取り扱っているが、それを通して神が御意を行っておられることを、マルコは示しているのです。「アモス書8章9節に告知されている暗闇は、このイエスの死の波紋がいかに広く波及するかということを示している。大地だけではなく、全宇宙にまで及ぶというのである。即ち、終りの日に起こると13章24節の語ったことの一部が、ここで生起したのである。こう語ることによって、イエスの死はすでにこの終末的出来事の光の中に置かれることになった。来るべき全世界の破滅すらも、狂暴な偶然もしくは人間の狂気の業にゆだねられるのではなく、キリストの十字架の下におかれる。つまりそれは、あらゆる審判を経由しつつも、世界に対するその恵み深き肯定を表明された神の意志の下に置かれる、ということにほかならない」(E・シュヴァイツァー)イエスの十字架の死において終末がすでに到来している、あるいは、彼の死の中に終末の出来事の本質が啓示されているのです。マタイはそれを更に顕著に記しています(27章51〜53節)
 「我が神、我が神、何故わたしを見捨てられたのか?」 マルコはこの言葉を先ず当時のユダヤ人の日常語であったアラム語で書き、次にそれをギリシャ語に翻訳しています。出来事をリアルに伝えるためです。マルコによると、これが十字架上で語られたイエスの唯一の言葉であり、臨終の言葉です。すべての人間に見捨てられたイエスは神にも見捨てられたと感じ、絶対の孤独の中に、絶望の叫びを上げて絶命するのです。ヨルダン川でのバプテスマの時や、山上の変貌の時には天からの御声が聞こえて来ました。「お前はわたしの愛する子、心の喜びである」(1・11、9・7) しかしここ十字架では、神は完全に沈黙を守っておられます。神も忍び泣きされているのでしょうか?
 この十字架上の絶叫に対する完全な説明は誰にもできません。完全に納得ができる解釈を私は聞いたことがありません。「わが神、わが神…」という言葉は詩篇22篇の冒頭の言葉であるのだから、イエスはそれを口にすることによって、その詩全体の精神を謳ったのである、その最後は神への賛美で終わっている、と説明する人もいます。しかし十字架上でそのような悠長なことを考えられるものでしょうか? 私は、この言葉はマルコの解釈であろうと思います。
 「イエスは大きな叫び声を上げて、息を引き取られた」37節。マルコによると、イエスは十字架上で二度、大声で叫びました(34節と37節) 物語は単純な方から複雑な方へと拡大する傾向にあるので、37節の短い方がオリジナルではないかと考えられます。マルコは、彼らがイエスを十字架につけた時刻(第三時)を25節に記し、次に真昼の暗黒が起こった時刻(第六時)を33節に記しました。そして次の時刻(第九時)は臨終の時刻のはずですが、そうではなく、それは「エロイ、エロイ…」と叫ばれた時刻でした。それは本当は臨終の時刻のはずではないか。その時刻第九時が33節と34節に二重に記されています。
それで元来の物語は、33節と37節と40〜41節ではなかったかと考えるのです。第六時に暗黒になり、それが第九時まで続いて、その時イエスが大声を上げて息を引き取る。婦人たちが証人として、遠方から見守っていた。こう考えると、イエスは十字架でひと言も語られず、最後に言葉にならない叫び声を上げて死なれたことになります。それでは何か物足りないので、「十字架上の七聖言」が福音書の記者達によって書き込まれたのではないか。十字架上で沈黙を守って、最後に絶叫して絶命されたイエス。
「では一体、神はホロコーストの時にどこにいたのか?」それは分かりませんが、少なくとも「十字架のイエス」は、確かにそのような不条理な死を死んでゆくすべての人の傍らにおられるのです。      
                     一九九三年 三月二一日礼拝説教

       「 最 後 の 言 葉 」
 この後、イエスはすべての事が成し遂げられたことを知り、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々はこのぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に付けて、イエスの口許に差し出した。イエスはそのぶどう酒を受けて、「成し遂げられた」と言われ、頭を垂れて、霊(息)を引き渡された。
                        ヨハネ福音書19章28〜30節
 今朝は当教会の召天者記念礼拝です。12名の信仰の先達を記念して、主の御名を崇めます。川崎教会号という名前の乗合いバスが、一九四八年以来走り続けています。始発駅で乗った人は現在一人も残っておりません。その次の駅で、橋爪佐和代姉と私は乗車いたしました。そして現在まで多くの人々が途中乗車をしたり、途中下車をしたりして来ました。一駅だけで下車した人もいれば、しばらくの間、道連れになった人もいます。今朝私たちが記念している人々は途中下車したのではなく、バスから天に召されて行かれたのです。この人達はすでに善き羊飼いなる主イエスの御許にいるのですから、私達が心配する必要
はありません。又、途中下車した人々の中で信仰を保ち続けている人々についても、安心していられます。しかし教会から離れて世の中に埋没してしまい、信仰を失った人々のことを思う度に、心が痛みます。十字架の福音という貴重な宝を、価値なきもののように捨ててしまったのですから。この宝に相応しい魂の高貴さを失ってはなりません。低俗な魂は、この宝を正しく評価することができないのです。残念なことです。
 私達は、天に召された人の墓前に立って、どのような感慨をもつでしょうか。ここにアルバート・シュヴァイツァーの言葉があります。「私は自分の少年時代を振り返ってみるごとに、自分がどれほど多くの人達に対して、彼らが私に与えてくれたものや、彼らが私に及ぼした人間的感化を、感謝しなければならないかということを、切に思うのである。しかし、それと同時に、自分が少年時代に、そうした人達に対して実際に感謝したことが、どんなに少ないかを省みて、後ろめたい気持ちになる。私が、自分の身に受けた好意や寛大が私にとってどれ程の重要性を持っているかを、直接申し述べないうちにどれほど多く
の人達がこの世を去ってしまったことだろう! 私は幾度も墓前に立っては、感動を込めて声低く、かつて彼らが生きていたとき私の口が言うべきはずであった言葉を、ひとりつぶやいた。…こういうわけで、私達は誰でもためらうことなく、口に出さない感謝を口に出す感謝たらしめるように努めなければならない。そうすればこの世の中には、善事をなす力も明るさももっと増えてくる。それから又、私達はめいめい自ら心して、世の中の忘恩についての辛辣な言葉を、自分の世界観の中に採り入れないようにしなければならない。泉となって溢れ出ない水が、地下には沢山流れているのである。その点については安心し
て差支えない。しかし自分自身は、水の流れ出る道を見つけて泉となり、人々が感謝への渇きを癒すことができるようにしなければならない」
 「あなた達は、互いに愛を負い合うことの外は、何物をも負い目があってはならない」(ローマ書13・8) 私達はいかに多くの愛を、先に天に召された人々や、今ここにこうして一緒に信仰の道を歩んでいる人々に負っていることか! それらは私達の人生の宝です。それを失ったら、私達の人生は空虚なものになってしまいます。
 人の死に方について考えてみましょう。たいした苦しみもなく安らかに眠った人。苦しみ悶えて死んだ人。不慮の事故に遭ったひと。早死にした人。長寿を全うした人…。 人の死に方は様々ですが、どのような死に方をしてもよいのです。できれば痛みや苦しみは少なく、と願うのは人情ですが、ありのままを受け入れるほか致し方ありません。釈迦は八十歳の長寿を全うして、大往生を遂げました。ソクラテスは不当な裁判によって死刑を宣告され、悠然として毒杯を干して死にました。イエスの場合はどうでしょう。彼は十字架につけられたのだから、最も苦痛に満ちた死に方をされたはずです。しかし四つの福音書の報告は、かならずしもそうではないのです。四つの福音書は三様のイエスの最後を伝えています。
  「わが神、わが神、何故わたしを見捨てられたのか?」(マルコ15・34、マタイ27・46)イエスの最大の苦しみは、十字架の激痛ではなく、すべての人に見捨てられ、神に見捨てられたと感じる苦悩でした。イエスは、孤独と絶望の中から激しく神を呼び求めて、絶命されたのです。神を愛し、真理を語り、正義を行ったイエスが、人間のみか、神にも見捨てられるという、誠に不条理な死に方で死んでいかれたのです。
 「父よ、あなたの御手にわたしの霊をゆだねます」(ルカ23・46) ルカは、マルコの記事を大幅に変更して、幼児が「神さま、お休みなさい」とお祈りをして、スヤスヤと眠るように、安らかに父の御胸に憩うイエスの姿を描きました。ルカは心の優しい人でした。ルカの描くイエスは、罪人の友、女性の理解者、異邦人の救い主でした。ルカはマルコと は違った角度から、主イエスを見つめているのです。
 「成し遂げられた」(ヨハネ19・30)
ヨハネはここで、栄光のキリストが凱旋する姿を描いています。「イエスの最後の言葉は、マルコーマタイにおけるような神に見捨てられた叫びでもなければ、ルカにおけるような、敬虔なユダヤ人が就寝前に祈る平和な夜の祈りでもない。そうではなくて、『成就した!』という凱旋の言葉である。そのあと眠るかのように頭を垂れ、自ら進んで霊を渡す、というのもそれにふさわしい。この世から終に別れて行く救済者は、父に任せられた業を勝利のうちに成し遂げたのである。今こそ彼は、自分の出て来た天的な光の世界に帰り行くのである」(S・シュルツ)
 これら三様のイエスの臨終の言葉の源は、言葉にならない絶叫(マルコ15・37)でした。
その絶叫の響きを、マルコとルカとヨハネは、異なる受け止め方をしているのです。各々の相違の間に漲っている緊張を安易に解消させようとしてはなりません。真実は、その中にあるのです。
                    一九九三年三月二八日 召天者記念礼拝

     「百人隊長の信仰告白」
 しかしイエスは大きな叫び声を上げて、息を引き取られた。すると神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスに向かって立っていた百人隊長は、彼がこうして息を引き取るのを見て、言った、「本当にこの人は神の子であった!」
                       マルコ福音書 15章37〜39節
 3月28日朝、飯島正久先生の御夫人、瑛子奥様が天に召されました。葬儀は、御意志により御遺族のみで行われました。瑛子奥様は、静かに、人に知られぬように、主の御業に専心されたクリスチャンでした。川崎教会説教プリントの2月7日号「十字架の道行き」まで、奥様のタイプで作られたものでした。いかに多くの「愛の負い目」を、私達は頂戴したことでしょう! 深い感謝と共に、奥様の上に平安を、先生の上に御慰めを、お祈りいたしましょう。
 「わが神、わが神、何故わたしを見捨てられたのか?」というイエスの断末魔の言葉の意味の深さを計り知ることは到底できませんが、ユダヤ人作家エリ・ウィーゼルの言葉にそれに迫るものを見出だしました。「…時の経過とともに、私は現代人が経なければならぬ二重の問題に気づくようになった。絶対最高の審判者に対して、私が『何故アウシュヴィッツの発生を許したのか』と問う権利を有するように、主もまた、われわれに問う権利を持つのである。『何故お前たちは私の創造物を破壊したのか。一体いかなる権利で、死を称える祭壇を造るために、生命の木を切り倒したのか』と。その時、光に包まれた孤独
の神の姿が脳裡に浮び、涙が湧き上がってくる。神を求めて、そして神のために泣くのだ。あまりの激しさに神もまた――タルムードによると――泣き始め、人と神の涙は、二つの悲しい孤独が互いの存在を求め合い、一つになろうとするように、合流して一つになるのである」 アウシュヴィッツ、広島、長崎、ソマリア、旧ユーゴなど、人間の最も悲惨な経験の中に、人間の罪と神の悲しみの象徴として、今も尚、主イエス・キリストの十字架は立っているのです。
 イエスが大声を上げて絶命された時、二つの出来事が起きました。神殿の至聖所の幕が上から下まで真二つに引き裂かれたことと、処刑の責任者であったローマ軍の百人隊長がイエスの最後の一部始終を見て、「本当にこの人は神の子であった!」と感嘆して、信仰を告白したことでした。
 「聖なる空間」であるエルサレム神殿の至聖所の前に、重い幕があり、その幕を通って入ることのゆるされた者は、大祭司のみでした。大祭司は、年に一度、自分と民の罪のための犠牲獣の血を携えて、幕を通って至聖所に入り、罪の赦しを神に乞い求めました。(レビ記16章11〜19節、ヘブル書9章と10章) 神殿とゴルゴダの間の距離は数百米ありました。イエスが絶叫したときに神殿の幕が裂けたというのは、物理的な事柄ではありません。それは二つの事を意味します。神殿の崩壊と神殿祭儀の終息です。「未来に起こるべき神殿の崩壊を告げているはずの徴(門が跳ねたこと、鳴動や叫喚など)は、ユダヤ教の資料の中にも報告されている。しかしマルコ伝15章38節は、未来の出来事の預言であるばかりでなく、イエスの死においてすでに成就した終末の記述である。即ち、11章17節、13章2節、15章29〜30節に従って、イエスの死において神殿の祭儀の終りを指示するものである。より正確に言えば、神の現存する場所から祭司以外の者、特に非ユダヤ人を排除する掟が終息したこと(エペソ書2章13〜14節)を指示するものである」(E・シュヴァイツァー) イエスが死なれた時に神殿の幕が上から下まで引き裂かれたという記述は、キリスト教的解釈でした。「兄弟達よ、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いて下さったのです」(ヘブル書10章19〜20節) ユダヤ教ではアロン―ザドクの血統や、政治的権力者の思惑で大祭司が選ばれ、彼が年に一度、犠牲獣の血を携えて至聖所の幕を通って「神に会見する」ことを許されていましたが。イエスは自らが過越の小羊となって十字架上に血を流し、すべての人の罪の贖いの御業を成し遂げられたのだから、新しい契約の大祭司なる主イエスを信ずる者はユダヤ人も異邦人も、男も女も何らの
差別なく、「はばかることなく恵みの御座(至聖所)に近づく」(ヘブル書4章16節)ことが可能にされたのです。イエスが絶命された時に、神殿の至聖所の前の垂れ幕が上から下まで真二つに引き裂かれたという表現には、そのような福音的な意味内容が含まれているのです。
 「本当にこの人は神の子であった!」
これが処刑の現場責任者であり、イエスの最後のすべてを目撃していたローマ軍の百人隊長の感嘆のことばでした。「異邦人であるローマの百人隊長がイエスを神の子と認めて、それを告白したというのは驚くべき奇跡である。マルコは38節において、イエスの死の際に神殿の幕が裂けたという奇跡を報告した。その意図がユダヤ教の時代が終わって、万国の人々に開かれたイエス・キリストの時代が始まったことを告げることにあったとすれば、39節は同じく、ユダヤ人ではなく、異邦人がイエス・キリストを神の子と信じ、告白する時が来たことを告げようとしているのであろう。イエスの死によって、新しい時代が到来
したというのである」(リールマン)
 マルコは39節の百人隊長の「イエスは神の子であった」という信仰告白によって、大きなインクルージオ(囲い込み)の手法を使っています。ユダヤ教の指導者達(32)とは対照的に、異邦人の百人隊長は、十字架上で死んだイエスを神の子と告白しました。こうしてイエスの公生涯は、彼を神の子として宣言する天の声(1・11)で始まり、彼を神の子と告白する百人隊長の信仰告白で終わっています。その真ん中にペテロの信仰告白(8・29)が配置されています。そしてイエスが神の子キリストであるというその内容は何かというと、三度の受難予告(8・31、9・31、10・33〜34)がそれです。イエスは、受難し殺され、復活する。それが神に定められた神の子キリストの道である、というのがマルコの福音の根本思想なのです。

                   一九九三年 四月 四日 棕梠聖日礼拝