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マルコ福音書の研究

  「イエスの逮捕」

 人々は、イエスに手をかけて逮捕した。すると、そこに立っていた人々の一人が剣を抜き、大祭司の僕(しもべ)に切りかかり、その耳を切り落とした。するとイエスは彼らに言われた、「強盗に立ち向かうように、あなた達は剣と棍棒を持って私を捕らえに来たのか? 毎日、私は神殿であなた達と共にいて、教えていたのに、あなた達は私を捕らえなかった。しかしこれは聖書が成就するためである」 弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げ去った。マルコ福音書14章46〜50節

 「つながれし罪人を 解き放ちます君を、カルバリに苦しめし 人のつれなさよ。
  住みたまえ、君よ、ここに、この胸に」 (讃美歌124番)
 罪と死との束縛から人々を自由にするためにこの世に来られたイエス・キリストを、この世の権力者達は追っ手を差し向けて、逮捕してしまいました。そしてその時、
「主よ、私は牢獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」(ルカ22・33)と誓ったペテロを始め、弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げ去った、と福音書は私達に伝えております。
 しかしイエスがユダヤの官憲の手にかかって逮捕された時に、わずかに抵抗した人がいました。「そこに立っていた人々の一人」です。弟子の群れには属していない無名の人です。ゲッセマネの園には、イエスと弟子達以外にも人々がいたようです。すると現場の情景はずい分変わったものになります。案外そこは人々で混雑していたのではないか。ガリラヤからイエスについて来た人々(10・46、15・41)や、地方や海外からエルサレムで過越祭を祝うためにやってきた巡礼者達が野宿していたことも考えられます。夜のしじまの中で、そこここに人々が眠っている。イエスはひとり目覚めて、父なる神に熱い祈りを捧げていた時に、突然、敵に襲われて、逮捕されてしまう。弟子達は一散に逃走してしまう。周囲に居合わせた一人の人が、慌てふためいて剣を抜き、敵の一人を負傷させてしまう。そんな情景が想像されます。
 マルコが漠然と「そこに立っていた人々の一人」と書いた所を、マタイは「イエスと一緒にいた者」(26・51)と書き変えました。するとこれは弟子の中の一人と考えられます。ルカは「彼の回りにいた者達」(22・49)と記して、弟子達が抵抗を示したように書いています。「主よ、剣で切りつけてやりましょうか?」。ヨハネに至っては「シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕(しもべ)に切りかかり、その右耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった」(18・10)と書いて、切った者と切られた者の名前まではっきりさせています。伝説が発展するにつれて、話が劇的になり、面白くされているのです。
 「大祭司の僕」 この場合の「大祭司」は定冠詞つきの単数で、「祭司長達」とは区別されています。彼はその年の大祭司カヤパです(ヨハネ11・49)。大祭司がユダヤ議会(サンヘドリン)の議長でした。すると「大祭司の僕」は追っ手の隊長であったとも推測されます。しかし、耳を切り落された追っ手の側も、次節にくるイエスの言葉も、その刃傷について何も言及していないのはおかしいことです。そのためか、マタイのイエスは、その弟子の行為をたしなめます。「剣を納めよ。剣をとる者は皆、剣で滅びる。それとも、私が父に願って、12軍団以上もの天使達を今遣わしていただくことができないと、君は思うか?」(26・52〜53)。前半の「剣をとる者は皆、剣で滅びる」は、「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される」(創世記9・6)と同様に、報復律を教えた言葉です。後半の「12軍団」は、「12使徒」に対応するもので、イエスがそのつもりになれば、無力な12使徒などに頼らなくても、御父にお願いすれば、天使達の大軍が直ちに派遣されて、神殿警備隊など全滅させられてしまうのだ、と言っているのです。ローマの一軍団(レギオン)は六千人の歩兵と120人の騎兵と数百人の補助兵とから編成されていましたから、12軍団は大軍です。つまり人間の力などは到底、神の力に勝てないのだ。しかし、もしイエスがそうしたならば、聖書の言葉(人の子が苦難を受けること。イザヤ書53章、詩篇22篇など)が実現されなくなってしまうではないか、と言っているのです。
 ルカのイエスは、大祭司の僕の右耳を切り落した弟子に向かって、「そこで止めなさい」と語り、「その僕の耳に手を触れて、癒された」(22・51)。敵とはいえ、耳を切り落された人はどうなったのだろうと心配する読者のために、敵をも愛するイエスの姿を示しているのです。しかし、そんな奇跡を目撃した後で、人々はイエスを逮捕することができるでしょうか。素朴な疑問が残ります。
 ヨハネのイエスはペテロをたしなめて言われます、「剣をさやに納めなさい。父が私に下さった杯は、飲むべきではないか」(18・11) いずれにしろ、イエスの逮捕劇は、イエスの敗北のように見えることを通して、神の御意志が行なわれているのだと語っているのです。
 こうして四福音書の記事を比べて見て、マルコの記事に奇跡の要素が少しもないのが、印象的です。「このことは、剣で切りつけたことが後から言及されたとしても、本質的には殆んど不変である。なぜなら、この行為は児戯に類することで、何の成果ももたらさず、むしろイエスの無抵抗を示す徴になっているからである。この出来事はおそらく史実であろう。いずれにせよこの報道には、神学的意図は伴っていない。この述べ方を見ると、偶然そこに居合わせた人々の一人が、イエスを守ろうとしたように見える。つまりイエスは、彼に同情を寄せ、不手際なことをする傍観者以上の人を持たなかったのである」(E・シュヴァイツァー)
 「強盗に立ち向かうように、あなた達は剣と棍棒をもって私を捕らえに来たのか」実際、イエスは強盗に対するようにして逮捕され、強盗の一人として処刑されました。「イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、もう一人は左に、十字架につけた」(15・27) 無私無欲の神の子イエスが、この世の権力者達によって、強盗として取り扱われたことは、世界史の中の皮肉です。
1992年11月15日 礼拝説教

  「弟子達の逃亡」

 「あなた達は強盗に立ち向かうように、剣と棍棒を持って私を捕らえに来たのか?毎日、私は神殿であなた達と共におり、教えていたのに、あなた達は私を捕らえなかった。しかしこれは、聖書が成就するためである」 弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げ去った。ときに、一人の若者がイエスについてきており、裸の上に亜麻布の衣服をまとっていたが、彼らが彼を捕らえたので、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げ去った。マルコ福音書14章48〜52節

 「弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げ去った」。 短い言葉で、さり気なく記されているような文章ですが、その意味するところは実に重いものがあります。イエスは、孤独でした。いざという時に、誰一人、傍らにいてくれる者をもちませんでした。わずか12人の弟子の中、1人は裏切り者として敵側と通じ、8人は性格のはっきりしない者達で、最も信頼していた3人でさえも尻に帆をかけて逃亡してしまいました。わずかに傍観者の1人がイエスをかばって、剣を振りまわしましたが、これも又、イエスの意にそぐわない行為でした。臆病者のクリスチャンと、見当違いの熱狂信者。ゲッセマネの園の中のイエスと同様に、今日の教会の中のイエスも又、孤独であると思います。
 「イエスを引き渡そうとしていたユダも、その場所を知っていた」(ヨハネ18・3)マルコの記事によると、ユダは過越の食事の時には確かに同席していましたが、いつ退出して敵方に走ったかは記されておりません。ヨハネは、食事の最中に、イエスからひと切れのパンを受け取ると、それが合図であるかのように席を離れた、「時は夜であった」(13・30)と印象深く記しました。これでみると、他の弟子達を除け者にして、イエスとユダだけが秘密を共有していて、共同で事を運んでいるように思われます。ユダは、イエスの行先を知っていて、神殿警備隊のガイド役を果たしています。イエスは目覚めていて、祈りの中で、十字架の道を行くことが御父の御意志であることを確認されていました。イエスとユダだけが目覚めていて、事の成り行きを知っていたのです。眠り込んでいた弟子達は、寝込みを襲われました。物音に目覚めた時はすでにイエスは逮捕されていました。「人々は、イエスに手をかけて逮捕した」と、これもマルコは実にあっさりと記しています。神殿の権力者達の計画(14・1)は成功しました。ユダはその役割を果たしました。弟子達は目を覚まして、イエスの逮捕された姿を見ると、恐怖に襲われて一目散に逃走しました。夜の暗闇は彼らの逃亡にとっては好都合でした。50節の言葉は、27節のイエスの預言の成就を語っています。
 「あなた達は強盗に立ち向かうように、剣と棍棒をもって私を捕らえに来たのか?私は毎日神殿であなた達と共におり、教えていたのに、あなた達は私を捕らえなかった」 イエスはここで、彼らの逮捕の仕方に対して抗議しているようです。イエスは毎日、昼日中、ソロモンの回廊で教えていたが、その時彼を逮捕すれば容易にできたはずなのに、なぜ真夜中に、こんなに物々しく完全武装して、凶悪犯でも捕り押さえるようにして彼を逮捕しなければならないのか、と問うているようです。そしてイエスは自らの問いに、自ら答えます、「しかしこれは、聖書が成就するためである」。この自問自答はちょっと奇妙な感じがします。ルカは、預言成就の言葉を省いて、「今はあなた達の時、また、闇の支配の時である」(22・53)と記しました。
 「イエスの非難は、史実としてはこういう形で表明されたのではないであろう。というのは、この反論は逮捕に人を差し向けた責任者に対するものとしては意味をもつが、警官や兵士は、いつ、どのように、彼らを派遣すべきかという決定権を持っているわけではないのだから、彼らに対する非難としては、この言葉は意味をなさぬからである」(E・シュヴァイツァー) イエスの自問自答は、彼の逮捕という出来事に対する原始教会の解釈の言葉でしょう。イエスは8章31節以来、受難の道を歩くことを決意して、度々そのことを弟子達に語っており、14章41〜42節では、最終的にこの決意を明確に表明されました。イエスの逮捕は、十字架への道の一つの道標であるのです。「聖者の言葉が成就するため」とは、換言すれば、「御父の御意志が行なわれること」(14・36)です。マルコはここで、イエスの敗北のように見える逮捕という出来事を通して、神の御意志が行なわれているのだ、と語っているのです。「…キリストが、聖書に書いてある通り、私達の罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてある通り、三日目に甦ったこと」(コリント第一書15章3〜4節) ここにパウロは最も初期の原始教会の信仰告白を記しています。キリストの十字架と復活は、旧約聖書の言葉の実現である、と強調して告白しているのです。
 51〜52節の裸で逃げ去った若者のエピソードは、鮮明な印象を与えるマルコの特殊資料なので、これはこの福音書の著者マルコ自身の姿ではないかと推測されてきました。丁度画家が、作品の片隅に署名するように、マルコは自分の若い時の経験をここに描き入れたのではないか。最後の晩餐の行なわれた二階の広間は彼の両親の家であり、マルコもそこに居合わせたかも知れない。彼は後に原始教会に属し、伝道活動にも徒事した(使徒行伝12章12、25節、15章37、39節)と憶測する人もおります。
 しかし信仰的なロマンを感じさせるその説には、有力な反論もあります。第一にこの福音書の著者は、パレスチナの地理に不案内であるらしいこと(5章1節、7章31節、10章1節、11章1節)。次に「弟子達の無理解」を徹底して書きつつ、直弟子達の教会の中心地であったエルサレムを、終始イエスに敵対した土地として描き、イエスはガリラヤの人で、ガリラヤの民衆に支持されていたと語っている点などです。
「この断片は、目撃者の報告ではないことは明らかである。そこでこれは、12人のグループには属さなかったが、イエスの逮捕の場に居合わせ、後に教団に加わったある若者についての、古い記述が保存されたものであろう」(E・シュヴァイツァー)
1992年11月22日 礼拝説教

  「最高法院(サンヘドリン)の審問」 (1)

 それから彼らはイエスを大祭司の許へ連れて行った。そして祭司長、長老、律法学者たちが皆集まってきた。ペテロは遙かうしろから彼らの後について行き、大祭司の庭の中に入った。そして下役たちの傍らに座り、火にあたっていた。マルコ福音書14章53〜54節

 誰がジョン・F・ケネディを殺したのか? 29年前に起ったこの悲惨な出来事の真犯人は、まだ特定されておりません。誰がナザレのイエスを殺したのか? この事件の真犯人を特定することも、困難を極めます。私たちが最も確実な史実として知っていることは、イエスは、ユダヤ式の死刑である石打ちの刑によって殺されたのではなく、ローマが占領地の反逆者を処刑した方法、即ち十字架刑によって殺されたということです。紀元30年当時、ローマ皇帝ティベリウスからユダヤへ派遣されていた総督は、ポンテオ・ピラトでした。彼はイエスに死刑を宣告し、処刑したことで世界の歴史に名を残しました。しかし福音書によると、背後からピラトに圧力をかけてイエスを殺させたのは、ユダヤの権力者達でした。「マルコは、他の福音書の記者達や、多くの初期の教会の著述家達と同様に、イエスの死の責任を、ローマ人の肩からユダヤ人の肩へ移そうとしている。少なくとも、ユダヤ当局の罪を重くし、ローマ当局の罪を軽くしようとしている、というのは真実である」(インタプリターズ バイブル)福音書が書かれた一世紀の後期には、伝統のユダヤ教と新興のキリスト教は、熾烈な競合、敵対関係にあり、その両者共、支配者ローマ当局に対して、自らが有益無害な宗教であることを訴える傾向にあったからであると思います。
 ゲッセマネの園でイエスを逮捕した神殿警察隊は、エルサレムの西側地区の、裕福な市民の居住地であった上の町にある大祭司カヤパ邸にイエスを連行しました。「そして祭司長、長老、律法学者たちが皆集まってきた」。最高法院の議員が全員、真夜中に大祭司邸に集合してイエスの裁判が行なわれた、とマルコは述べています。この史実性に疑問をもつ学者は多くいます。ユダヤ教の法規によれば、死刑の判決は夜中に下してはいけないこと、唯一回の裁判で死刑を決定してはいけないこと、法廷は安息日と祭日及びその準備の日には開かれないこと、と決まっていたので、マルコの記述はそのいずれにも違反しています。
 ヨハネ福音書には、彼らはイエスを「まずアンナスの所へ連行した」(18・3)とあります。アンナスは紀元6年〜15年の大祭司で、当時は彼の息子達や娘婿達を次々に大祭司職につけていた、大御所的な存在でした(使徒行伝4・6) 大祭司カヤパも彼の娘婿の一人でした。アンナスは退位後、活発に経済活動を行ないました。神殿の丘の上に「アンナスの館」を建てて、神殿の献金用の両替えや金銭の貸付け、犠牲に捧げる動物や、礼拝用の器具類の仕入れや販売の一切を取り仕切っていました。人々はその館をやゆして「アンナスの雑貨屋」と呼んでいました。先ずアンナスによる尋問の後、「アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパの所へ送った」(18・24)とヨハネは記しています。「福音書によるとイエスは大祭司カヤパの家へ連行された。そこでまず前の大祭司アンナスによって、次に大祭司自身によって主宰された非公式の法廷によって尋問された」(アヴィ=ヨナ)。そうするとアンナスはその時、「アンナスの雑貨屋」にいたのではなく、カヤパ邸のどこかに居住場所をもっていたと理解しなければなりません。
 カヤパは紀元18年〜37年の大祭司で、バプテスマのヨハネ(ルカ3・2)、イエス(マタイ26・3、57、ヨハネ11・49、18・13〜28)、使徒達(使徒行伝4・6)の活動した時期の現職の大祭司で、彼らの裁判では重大な役割を果たしました。
 アンナス家の他に、フィアビ家とボエトス家という古い大祭司家がありました。そのような高位聖職者の下にサドカイ派の議員が集まっておりました。彼らは祭司貴族、大地主、有産階級の代表者で、政治的にはカヤパに組していました。彼らは保守主義者で、親ローマ的でした。以上が福音書記者の言う「祭司長たち」です。
 次に「律法学者たち」は、パリサイ派で、議会では与党サドカイ派に対立していました。パリサイ派に二つの流れがあり、敬虔で穏健なヒレル派と、厳格で行動的なシャンマイ派です。シャンマイ派は熱心党やエッセネ派の友であり、ヘロデ党やローマ人の敵でした。アンナスやカヤパは当然、シャンマイ派を危険視し、ヒレル派を支援する政策をとっていました。当時ヒレル派の領袖(りょうしゅう)はガマリエル一世でした。彼は大ヒレルの孫で、優れた律法学者でした。使徒行伝5・34以下の彼の発言は穏健で、非政治的な立場を保っています。彼の弟子にザッカイの子ヨハナンがいました。この人は70年に崩壊直前のエルサレムを脱出し、ヤムニアにユダヤ議会を創設し、恩師の息子ガマリエル二世をその議長に立てました。ヒレル派の議員の中に、秘かにイエスに心を寄せていたニコデモとアリマタヤのヨセフがいました。またガマリエル門下には、若き律法の学徒タルソ出身のサウロも熱心に学んでいました(使徒行伝22・3) サドカイ派が神殿を中心にして権力を掌握していたのに対して、パリサイ派は地方の会堂を拠点にして民衆に律法を教え、教育を施していました。彼らは元来、手工業者の階層によって構成されており、自発的に律法を熱心に学ぶ人たちで、それが高じて専門家になったのが、律法学者たちでした。
 「長老たち」は、地主や資産家の代表で、伝統に忠実な保守主義者でした。いわば昔ながらの仕来りを頑固に守る年寄り達で、あらゆる変化や改革を嫌う人達でした。
 以上がユダヤ議会の議員たちで、同時に最高法院のメンバーでした。彼らはローマの支配下にありながら、ユダヤの行政、立法、司法の三権を掌握していました。70人の議員がいて、その上に大祭司が議長職を占めていました。この権力者たちが一致してイエスを審問しようとしているのです。
 暗闇にまぎれて逃亡したペテロは、イエスを気遣って引き返し、素知らぬ顔をして大祭司邸の中庭に入り込み、下役たちの傍らに座って、たき火にあたっていました。
1992年11月29日 礼拝説教

  「最高法院の審問」 (2)

 祭司長達と最高法院の全員は、イエスを死刑にするために、彼に不利な証言を求めたが、見つからなかった。多くの者がイエスに不利な偽証を立てたが、その証言が食い違っていたからである。すると数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をして言った、「私達は彼が、"私は人間の手で造られたこの神殿を打ち壊し、手で造られない別の神殿を、三日間で建てるであろう"と言うのを聞きました。しかしその証言も一致しなかった。そこで大祭司は立ち上がって真ん中に進み出て、イエスに尋ねて言った、「何も答えないのか? この人達があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか?」 しかしイエスは沈黙を守り、ひと言もお答えにならなかった。マルコ福音書14章55〜61節

 ジョン・F・ケネディ銃撃事件の裁判で、その現場に居合わせた目撃者達の証言は、互いに食い違っていて一致していません。事件の背後に国家的な大組織が、大統領暗殺の意図をもって動いていたことは間違いありません。
 大祭司カヤパ邸で開かれたイエスの裁判においても、彼を有罪にするための証言の一致を見なかった、とマルコは報告しています。この事件の背後にも大組織が動いています。ユダヤの権力とローマの当局です。ユダヤ教の法規(ハラハー)に照らし合わせても、この裁判には違法が目立ちます。「死刑に相当する事件の場合は、無罪判決の理由をもって開始するが、有罪判決の理由をもって開始しない」(サンヘドリン編4・1) これに反してこの夜の裁判では裁く側がはじめから「イエスを死刑にするため」という明確な意図をもって「イエスに不利な証言」を求めていたのですから、公正な裁判ではありませんでした。それでも尚、彼らは複数の証人による証言の一致という規定(申命記19・15)を守ろうと固執していたというのですから、こっけいです。他方、彼らは「偽証を立てるなかれ」(出エジプト記20・16)という重大な戒めを平気で破っているのです。「死刑に相当する事件の公判は昼間に行ない、その翌日の昼間に判決を下す」という規定も破られています。イエスの裁判は深夜に行なわれ、その場で「満場一致で、死刑に相当すると決定」(マルコ14・64)されたのですからこれは違法です。マルコはここで「主の僕の受難」の預言の成就を語っているのかも知れません。「彼は暴虐な裁きによりて取り去られたり」(イザヤ書53・8)
 マルコはこの深夜の秘密裁判の情報をどこから入手したのでしょうか。「どのようにして記者はこれを知ったのかは不明である。ペテロは中庭の遠方にいた。秘密裁判の情報というものは漏れるものだが、多くの学者は、この記事は"偽わりの証しをする者が私に逆らって起こり、暴言を吐いた"(詩篇27・12)というような旧約聖書の言葉の影響の下に、想像によって書かれたものであろう、と述べている。初期の時代には、旧約聖書がまだ教会の唯一の聖書であったので、誰もちゅうちょすることなく、旧約聖書のいろいろな部分の中に受難物語の詳細を探し出して、それはここに預言されている、と言ったように思われる」(インタプリターズ バイブル)
 イエスの逮捕後、大祭司カヤパによる非公式の審問があったことは事実でしょう。それは政治裁判で、初めから判決は決定されていました。政治裁判では法規や判例が無視されることは古今東西かわりありません。
 「私達は彼が、"私は人間の手で造られたこの神殿を打ち壊し、手で造られない別の神殿を、三日間で建てるであろう"と言うのを聞きました」58節。 神殿に対する批判的な言葉は、これに権力と利権の基盤を置いていた大祭司の一味にとっては重大な問題でした。イエスとユダヤ権力の衝突の原因はこの問題にありました。しかし又、このイエスの言葉は、後の原始教会にとっても微妙な問題でした。「神殿についてのイエスの言葉は、教団を極めて困惑させることになった。マルコはこの困惑を、これは偽証だとして解消したのである。マタイは、イエスはただ"三日間で建てることができる"(26・61)と言っただけで、そうすると言われたのではない、としている。ルカはこの神殿についての言葉を除去したが、使徒行伝6章13〜14節のステパノに対する裁判の中では、似たような非難がなされたことを記録している。ヨハネは、この預言を寓意と解しており、イエスの死と復活においてこれが成就した(2・19)と見ている。つまりそれは、この言葉が伝承の中に固く定着し、もはや否定し難くなっていた実情を示すものである。しかし教団の手にこれが届いたのは、多分他との関連から切り離されたイエスの言葉としてであろう。教団は、イエスの告発に対してこれが一つの役割を果たしたことも知っていたと思われる。イエスの神殿粛清とイエスの権威についての問答が、恐らくあの衝突を惹き起したのであるから、これは史実としても蓋然性がある。しかし証人の発言が一致しなかったという記述は、より疑わしい。前もってよく打ち合わせておくことができたはずだから」(E・シュヴァイツァー)
 「人間の手で造られたこの神殿」とは、エルサレム神殿を指していたことに間違いないでしょう。しかし次に来る「人間の手で造られない別の神殿」とは何を意味しているのでしょうか。ヨハネはそれをイエスの復活体である(2・21)と解釈しています。そしてそれは、キリストの復活を基礎としてその上に建てられた共同体、即ち、キリストの体(からだ)なる教会であると、原始教会は理解しています(コリント第一書12章、エペソ書1章、2章)。元来神の所有であった神聖なるべき神殿を、大祭司の一味が強奪して「強盗の巣窟」(マルコ11・17)にしてしまったので、これを打ち壊して、人間の手で造られない、即ち、神の御霊によって造られる別の神殿を再建する、というのです。それが使徒行伝2章の聖霊降臨によって誕生したキリストの共同体(教会)であるのです。エルサレム神殿の崩壊とキリスト教会の誕生とは、イエスの十字架の死と復活の上に基礎づけられているのです。しかし今日のキリスト教会のどこに、その実体が見られるのでしょうか。
1992年12月6日 礼拝説教

  「最高法院の審問」 (3)

 イエスは沈黙を守り、ひと言もお答えにならなかった。大祭司は再び彼に尋ねて言った、「あなたが誉むべきお方の子、メシアなのか?」 するとイエスは言われた、「私はそうである(エゴー・エイミー)。そしてあなた達は、人の子が力あるお方の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見るであろう」 すると大祭司はその衣を裂いて言った、「これ以上の証人が必要であろうか? 諸君は冒[トク]の言葉を聞いたのだ!諸君はどう思うか?」すると彼らは全員一致して、彼は死罪に相当する、と判決を下した。マルコ福音書14章61〜64節

 「最高法院におけるイエスの裁判を記述するに際して、マルコは二重の困難の中にあった。第一に、彼は目撃者の記述を用いることができなかった。第二に、彼はそれについて正確な知識を持たない裁判の過程を記述しなければならなかった。エルサレムの法廷において死罪の際に規定された裁判の過程をマルコは知らなかったのである」(シュルツ) これは極端な意見ではありません。現代の聖書学者の殆んどが同様な意見を述べています。「61b〜62節は、これを真正の裁判の記録として受け入れることは、極度に困難である」(インタプリターズ バイブル)
 マルコはここで聖書(旧約)の様々な個所から、苦難を受ける主の僕(しもべ)の運命に関する記事を寄せ集めて貼り合わせ、一枚のモンタージュ写真を作っています。マルコはイエスについて語り伝えられた様々な言葉や伝説や伝承を集めて配列し、編集句を書き加えて「イエスの公生涯」を記述してきましたが、この夜の秘密裁判に関する資料が欠落していました。これを省いたまま書き進めることはできません。そこで彼は信仰的手段を用いました。「この聖書(旧約)は、わたしについて証しするものである」(ヨハネ5・39) これが原始教会の人々の共通の信仰でした。そこでマルコは、資料の欠落した部分を聖書の中に探し求めて 受難物語を書き進めたのであろうと推察されます。そうすることはマルコの時代の教会にとって必要なことでもありました。ユダヤ教との論争です。ユダヤ教徒にとって、十字架につけられたメシアという思想は忌まわしいものでした。「木にかけられた死体は、神に呪われたものである」(申命記21・23) それで、キリスト教徒が宣べ伝える「十字架のキリスト」は、ユダヤ教徒には「躓き」でした(コリント第一書1・23) しかしキリスト教徒にとっては「神の力」なのです。そこで教会は信者に対しても、ユダヤ教徒に対しても、聖書の預言がイエスの受難において実現したのだ、と証明することが必要だったのです。
 「イエスは沈黙を守り、ひと言もお答えにならなかった」61節a。 イエスは偽証に対して弁解せず、十字架の道を歩くことを固く決意して、すべてを神の御手に委ねます。「彼は苦しめらるれども、自らへりくだりて口を開かず、屠場(ほふりば)にひかれる小羊の如く、毛を切る者の前に黙す羊の如くして、その口を開かざりき」(イザヤ書53・7) 沈黙の主の僕はメシアです。
 「あなたが誉むべきお方の子、メシアなのか?」61節b。大祭司は核心に触れた質問をします。彼はここで、イエスは神の子、キリストなのか、と問うているのです。しかしユダヤ教においては、神の子とメシアとが結びつけられていることは決してなかったのです。キリスト教徒が初めて、イエスを神の子、キリストと告白したのです(マタイ16・16) 従ってここでは史実が記されているのではなく、教会の信仰告白が語られていることは明らかです。
 「私はそうである(エゴー・エイミー)。そしてあなた達は、人の子が力あるお方の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見るであろう」62節。このイエスの答えは奇妙です。相手は偽証を立てても彼を有罪にする決め手が得られなかったのですから、沈黙を守り続けていればよかったのですが、イエスが答えたことによって大祭司の誘導尋問にひっかかって、有罪を決議させる口実を与えた形になってしまいました。「私はある(エゴー・エイミー」は、神顕現の定式です(出エジプト記3・14他) 神の子、キリストに加えて、来臨する人の子の三つの称号は、原始教会がイエスに与えた信仰告白なのです。「大祭司の質問と同様に、イエスの返答もまたキリスト教団の告白から形成されている。なぜならば、イエスに向けられた質問を肯定したばかりでなく、彼は62節を付け加えているからである。この句においては、ダニエル書7章13節からの言葉と、詩篇110篇1節からの言葉が互いに結びつけられている。これは、イエスを神の右に挙げられた油注がれた者(キリスト)と信ずるばかりではなく、また人の子として彼が来臨することも期待している初期の教団の告白と希望とに相応しているのである」(ローゼ)
 マルコはこの大祭司とイエスとの問答において、それまでずっと隠されてきた「メシアの秘密」を初めて、唯一度だけ公開しているのです。悪霊にも弟子達にも語ることを固く禁じてきた「メシアの秘密」即ち、イエスが神の子であり、キリストであり、来臨する人の子であるということがここで明らかにされているのです。しかしそのことがまさに神への冒[トク]であるとして、死刑の宣告に結びつけられているのです。つまりユダヤ教はそれを冒[トク]であり、死罪に値すると判断するのに対して、キリスト教はそれこそ救いの源泉であると信じて、これを福音として宣べ伝えているのです。
 「これ以上の証人が必要だろうか? 諸君は冒[トク]の言葉を聞いたのだ!」63〜64節。大祭司はそう叫んで議決をとり、全員一致でイエスに死刑の判決を下しました。「これ自体が律法違反だが、更にその理由が神を冒[トク]したことになっている。しかし"神を冒[トク]する者は彼が神の御名をはっきり口に出した時にだけ罪を負う"(サンヘドリン編7・5)ので、神名(ヤハウェ)でなく、神の属性を口に唱えただけなら罪にならない。更に、神名を主語と目的語に用いた時にだけ罪を負う、とも定められている。イエスの言葉はどれにも該当しない」(山本七平)
 ここに史的イエスと信仰のキリストが一つに結び合わされています。「イエスはユダヤ教の一番美しい花でした」とインドの聖者ガンジーは語っています。
1992年12月13日 待降節礼拝

  「十字架から降誕へ」

 天使は言った、「恐れるな! 見よ、私はすべての民に向けられている大きな喜びを君達に伝える。今日、ダビデの町に、君達のために救い主が生まれた。このお方こそ、主なるキリストである。そしてこれが君達のための目印だ、君達は布に包まれて飼葉桶の中に寝ている赤子を見つけるだろう」 すると突然、天の大軍勢がその天使の傍らに来て、神を讃美して言った、「いと高き所では、栄光が神にあれ! 地の上には、平和が善意の人々にあれ!」ルカ福音書2章10〜14節

 クリスマス物語は実に美しい物語です。私はそのすべてを、一片の疑いもなく真実の物語として信じています。神の愛をこの世にもたらした神の子、イエス・キリストの誕生に相応しい物語です。このような物語をもたない人は、実に貧しい人です。
 私は釈迦の誕生物語も美しいと思います。特に「誕生の偈(げ)」は素敵です。この人は生まれ落ちると直ぐ、東西南北の四方に向かって七歩づつ歩み、右手を上げて天を指し、左手をもって地を指して、大音声を張り上げて、「天上天下 唯我独尊」と宣言したと言われています。真理の教師釈迦の誕生に相応しい物語です。
 クリスマス物語も釈迦の誕生物語も、キリストや釈迦の生涯の終わりを見た後、信者の中から生まれた讃美の詩なのです。そしてそのような詩は人類の歴史の中に咲いた美しい花なのです。これらの物語を非合理なものとして嘲笑してはなりません。
 私達は今、マルコ福音書から、イエスの生涯の最後の日のことを学んでいます。実は、福音書はイエスの誕生物語からではなく、受難物語から書き始められたのです。福音書の順序としては当然、イエスの誕生−活動−受難と死−復活の順で記されています。それで私達はその順序に従って福音書を読むのですが、そうすると最初に、お伽話のようなクリスマス物語に出会います。しかしこれはお伽話ではなくて、信仰の物語なのです。
 キリスト教は不思議な宗教です。ゼロから出発しました。「わが神、わが神、何ぞ我を見捨て給いし?」と叫んで、イエスが十字架上で息をひきとった時には、この世にクリスチャンは一人もいませんでした。しかしその後、不思議なことに、復活のイエスに出会ったと言う人々が次々に現われて、イエスは本当にキリストであり、神の子であると、大胆に宣べ伝え始めたのです。イエスが敵に逮捕された時には、恐怖に駆られて一人残らず逃亡してしまった弟子達が、別人のようになって、イエスがキリストであることを証しし始めたのです。やがて数年後、キリスト教徒の迫害者であったサウロ(パウロ)が、復活のイエスに出会って回心し、十字架と復活の福音の伝道者に成りました。紀元33年頃のことです。
 新約聖書の中で最も早く書かれたのは、50年代に書かれたパウロの手紙です。その中に初期の教会の最古の信仰告白があります。「私が最も大事なこととして君達に伝えたのは、私自身も受けたことであった。即ち、キリストが、聖書に書いてある通り、私達の罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてある通り、三日目に復活したこと…」(コリント第一書15章3〜4節) その頃の信者達の関心の中心は、キリストの十字架の死と復活のことでした。パウロの伝道の中心は、十字架と復活でした。彼の手紙の中で唯一個所、イエスの誕生に触れたものがあります。「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、お遣しになった」(ガラテヤ書4章4節) 素っ気ないほど簡単な記述です。天使の出現も、羊飼い達も、星に導かれてきた東の博士達もありません。処女マリアから誕生したとも言っていません。すべての人間と同じく「女から」の誕生です。
 四つの福音書の中、最も早く成立したのがマルコ福音書です。65〜70年頃のことです。イエスがガリラヤで活動し始める前の期間を、福音前史と呼んでいますが、マルコの福音前史には誕生物語が無く、バプテスマのヨハネの出現から始めています。マルコの時代にクリスマス物語があったかどうかは分かりませんが、あったとしてもマルコは「神の子イエス・キリストの福音」を書き始めるために、それが必要だとは考えなかったことは確かです。
 マタイ福音書とルカ福音書は、共に80年代に成立しています。その両者共、マルコの筋書きに従って物語を進めていますが、目立った相違は、福音前史にクリスマス物語が付け加えられたことです。マタイ福音書の誕生物語の背景は、ダビデの町ベツレヘムのようです。そこにアブラハムからヨセフまでの系図があり、ヨセフの婚約者マリアが聖霊によって身重になったのです。それを知らないヨセフが秘かに離縁しようと決心したが、夢に天使が現われて、マリアを妻として受け入れ、その子イエスの父親の役目を果たすように命じられます。次に東の国の博士達が来て、幼児イエスを礼拝し、宝物を捧げます。ヨセフは再び夢で天使から、残虐なへロデ王の手を逃れてエジプトに避難するように言われ、聖家族はエジプトへ行き、ヘロデ王の死後、イスラエルに戻りますが、ベツレヘムではなく、ガリラヤのナザレの町に住み着きます。
 マタイの描くイエスが高貴なメシア王的であるのに対して、ルカの描くイエスは庶民的です。ナザレの町の娘マリアとその婚約者である大工のヨセフ。下級祭司ザカリアとその妻エリザベツ。馬小屋と飼い葉槽。羊飼い達の来訪など、貧しい庶民の間に生まれた救い主の誕生物語です。
 ヨハネ福音書は一世紀の終わり頃成立したものですが、ヨハネの描く誕生物語は、抽象画を見ているような感じを与えます。天地創造以前から神と共に存在していた言(ロゴス)が、暗闇の世に光をもたらすために天から下ってくるのです。「すべての人を照らす真正の光が、世界の中に入って来た」 その光は太陽が空から地球を照らすようにして入ってきたのではなく、「その言(ロゴス)は肉と成って、私達の間に天幕(テント)を張って定住した」のです。神である言(ロゴス)が、人間の肉の弱さを負って、私達の仲間として来られたのです。それは罪と死の中に束縛されている私達に自由を与え、神の愛と赦し、平和と喜びの中に招き入れて下さるためなのです。
1992年12年20日 降誕節礼拝

  「ペテロの否認」

 さて、ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中の一人が来て、ペテロが火にあたっているのを見ると、その顔を見つめて言った、「あなたも、あのナザレ人イエスと一緒にいた!」 だが彼は否定して言った、「私は知らない。あなたの言っていることが分からない」 そして前庭へと出て行った。するとその女中が彼を見て、回りに立っている人々に再び言い始めた、「この人は彼らの仲間です」 しかし彼は再び否定した。しばらく後、回りに立っている人々が再びペテロに言った、「本当にあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」 しかし彼は呪って誓い始めた、「私はあなた達が言っているそんな人は知らない!」 すると直ちに鶏が二度目に鳴いた。するとペテロは、「鶏が二度鳴く前に、君は私を三度否認するだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。マルコ福音書14章66〜72節

 ニサンの月の15日の夜中、エルサレム市内の上の町の大祭司カヤパ邸で、邸内の広間では最高法院のすべての議員が集まってイエスを審問しています。他方その中庭では、ペテロが下役達の中にまじって、火にあたっていました。ゲッセマネの園でイエスが逮捕された時には、他の弟子達と共に一目散に逃げ去ったのでしたが、思い直して引き返し、遠くからイエスの後に従って大祭司邸の中庭に入って行き、何食わぬ顔をしてたき火にあたっていました。ペテロはこの時、隠れキリシタンの心境だったでしょう。たき火にあたりながらの下役達の話題は、先程逮捕してきたナザレのイエスのことでした。ぺテロは内心の思いを隠して相[ヅチ]を打っていたことでしょう。するとその屋敷の女中(女奴隷)が、うさん臭そうにぺテロを見て思い当たる所があり、彼に対して「あんたも、あのナザレ人イエスと一緒にいたじゃない?」と言いました。ペテロはあわてて、「知らないよ、お前は何を言っているのだ」と、とぼけて答えました。女中はただ外面的な事柄を問題にしたに過ぎなかったのです。しかしペテロにとっては、ナザレ人イエスの仲間であることを肯定するのと否定するのとでは、信仰を問われる大問題でした。信仰の試練は、多くの場合このように何気ない形でやってきます。「君達は皆私に躓くだろう」(27節)とイエスに言われた時、「たとえ皆が躓いても、私だけは大丈夫です」(29節)とペテロは数時間前に答えました。真正面から敵が攻めてくる場合はある程度覚悟ができるものですが、背後から不意打ちをくらうと、人間は弱いものです。ペテロの場合も、まさかこんな形で試練が来るとは予想外だったことでしょう。ペテロは、おとぼけでその場をしのぎました。
 「これはヤバイぞ」とペテロは考えて、中庭から前庭の方へ出て行こうとした時に、同じ女中が周囲の人々に「この男は彼らの仲間だよ」と言いふらしました。一度逃げ腰になると、浮き足立ってどうにもなりません。「いや違うよ。違うってば」と強くペテロは否定しました。すると今度は周囲の人々が「本当にお前は彼らの仲間だ。その証拠に、お前もガリラヤ人ではないか」と言いました。マタイはそこを、「言葉遣いでそれが分かる」(26・73)と書きました。彼はガリラヤ訛りのアラム語を話していました。ペテロは証拠をにぎられて大慌てで、「俺がうそをついているのなら、俺は呪われてもいい」と誓いながら、「お前さん達の言っているそんな奴のことなんか知るもんか」と答えました。するとその瞬間に、鶏が鳴きました。鶏の鳴き声はペテロにとっての「ニュートンのりんご」でした。彼はイエスの預言(30節)が実現したことに気が付き、すべてをお見通しのイエスの視線を感じて、「申し訳ないことをしてしまった」と痛感し、わっと泣き出しました。面白いことに、当時エルサレムでは鶏を飼ってはいけないという条例がありました。聖都を清潔に保つためでしょう。しかしこの条例は不人気で、あまり守られていなかったようです。
 このような危機の時に、ペテロはなんらかの形でイエスを否認したことは間違いない事実でしょう。マルコの当時、ペテロはすでに殉教の死を遂げており、彼の名は12弟子の筆頭に上げられ、尊敬されていたにも拘らず、四つの福音書にペテロの大失敗の物語が載せられています。しかしこの物語は大変見事に構成されています。ここにも「三度」の法則が適用されています。そして三度の否認は、順を追って強度が増加されています。そして最後の72節がそのクライマックスです。「するとペテロは、"鶏が鳴く前に私を三度否認するだろう"とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した」 これは30節の、イエスの預言の成就を語っているのです。「アーメン、私は君に言うが、君は、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度私を否認するだろう」このように72節は30節と対応しています。
 この物語はペテロの名声を落とすために語り伝えられたのではありません。マルコの時代の信者に対する背教への警告があります。人間の自信は脆いものであり、ペテロですら躓いた。にも拘らず、主イエスはペテロを愛し、豊かな赦しを与え給うた(16・7)、とマルコは告げているのです。更にこの物語は、この夜におけるイエスとペテロを対照させています。イエスは死を[ト]して大胆に告白(62節)しましたが、ペテロは失敗しました。神の子イエスと人間ペテロの間に、これほどの落差があるのです。ペテロは自己の力を過信して失敗し、イエスはすべてを神の御手に委ねて、救いの御業を全うしました。
 「ペテロはただ単に自分の堕落を後悔しただけではなく、かえって、また主によって赦されていたのである。それにも拘らず、ペテロも教会も、その思い出をぬぐい消してしまわなかった。彼らのうち誰もイエスと共に恥を担わなかったのに、弟子たちを"知らない"とは言わない、ただひとりの真実なお方として、彼らはキリストを誉めたたえ、栄誉をキリストに帰したのである」(シュラッター)
 ユダは、神に対して心を閉ざしたために滅び、ペテロは、自分の罪に泣いて神の前に自らを投げ出したために、赦しを受け、救いを与えられました。
1992年12月27日 歳末礼拝

  「ピラトの尋問」

 夜が明けると直ぐに、祭司長達は長老や律法学者達と共に、即ち最高法院全体で決議した後、イエスを縛って連行し、ピラトに引き渡した。するとピラトはイエスに尋ねた、「あなたはユダヤ人の王なのか?」 イエスは答えられた、「あなたはそう言っている」 すると祭司長達は多くのことでイエスを告発した。ピラトは再び彼に尋ねた、「何も答えないのか? 見よ、彼らがいかに多くの罪のゆえにあなたを告発していることか!」 しかしイエスはもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。マルコ福音書15章1〜5節

 謹賀新年。今日からマルコ福音書の学びは四年目に入ります。その間、世の中は大変化を遂げました。そして今年もいかなる変化が訪れるか分かりませんが、人生のひと時をこうして御一緒に、永遠に変わらざるキリストの福音の内容を学び、その豊かな真理を吟味することができるのは、ひとえに主なる神様の恵みによるのです。今日ここにもう一つの「一里[ヅカ]」を立てて、「天路歴程」の旅を続けて参りましょう。
 ニサンの月の15日の夜中に、大祭司カヤパの屋敷で行なわれていたイエスの裁判は続けられて、終に夜明けになりました。この最高法院の裁判をリードしているのは、神殿を本拠にして宗教と政治の権力を握っていた「祭司長達」、即ちサドカイ派でした。彼らは神殿の権威をはなはだしく傷つけたイエスを生かしておくことはできないと考えていました。最高法院はその裁判で、[トク]神の罪という理由をもってイエスに死刑の判決を下しました(14・62〜64) もし当時、ユダヤの国が独立国であったならば、イエスはそこで石打ちの刑に処せられたはずでした。「神を冒[トク]する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す」(レビ記24・16、使徒行伝7・54以下) しかし当時のユダヤはローマ帝国の直轄領にされていて、死刑の執行権はローマ総督の手に握られていました(ヨハネ18・31) そこで彼らは朝になるとすぐ、イエスを縛って、ローマ総督ポンテオ・ピラトの許に連行しました。彼らはその時、一つの謀略を企てていました。ローマ総督府は地中海浴岸の都市カイザリアにありましたが、ピラトはユダヤ教の大祭の時などには民衆の暴動を警戒して、エルサレムに駐在していました。その場所は神殿の北側にそびえ立つアントニア要塞か、上の町の西側にあるへロデ王の宮殿でした。
 マルコによると、ピラトは先づイエスに向かって、「あなたはユダヤ人の王なのか?」と尋問し始め、次に祭司長達が「多くのことでイエスを告発」しました。しかしこれは裁判の手順としては逆なので、ルカとヨハネはその順序を訂正しました。「この男は民衆を惑わし、皇帝に税を納めることを禁じ、自分こそ王なるメシアである、と言っていました」(ルカ23・2) これがイエスに対する彼らの告発の内容です。するとピラトはイエスに、「あなたはユダヤ人の王なのか?」と尋問しました。告発者達は巧妙にも、宗教的な冒[トク]罪から政治的な反逆罪へと問題をすり換えています。ローマの為政者はユダヤの宗教問題には関わりをもたないことが原則でした。しかし、民衆を扇動したり、納税の拒否を呼びかけたり、ローマの支配に反対して王を自称する者は、ローマ総督として重大な関心をもっていました。しかしマルコがピラトの尋問から始めたことにはマルコなりの言い分がありました。「あなたはユダヤ人の王なのか?」。イエスがユダヤ人の王であるということは受難物語を一貫して流れている思想なのです(15章2、9、12、18、26、32、39節)。マルコはその点を強調するために、ピラトの尋問を最初にもってきました。
 「あなたはユダヤ人の王なのか?」 ピラトのこの質問に対する答えは微妙です。この世的、政治的な意味では「ノゥ」ですが、超越的、信仰的な意味では「イエース」なのです。信仰告白という点から見れば、その質問に答えるべきはイエスではなくてピラトなのです。イエスの立場からすれば、「あなたはそう言っている」(2節)としか答えようがありません。これを「そのとおりである」(聖書協会訳)と訳したのでは駄目なのです。その点、新共同訳は正しく訳しています。2節でイエスがそう答えていながら、3〜5節でイエスの沈黙を強調しているのは、矛盾しています。2節と3〜5節は元来別々の伝承であったものをマルコが4節の「再び」という語で結びつけたものでしょう。5節のイエスの沈黙は、14章61節と同様に、「メシアの沈黙」(イザヤ書53・7)を示しています。マルコはイエスが受難するメシアであることを一貫して強調しているのです。
 福音書記者達のピラトの描き方には問題があります。「福音書の受難物語におけるピラト像は、我々がユダヤ資料から得るそれと一致し難いことがしばしば指摘されている。ピラトはティベリウス帝の執政官で反ユダヤ主義者のセヤーヌスの腹心の部下である。ヘロデ・アグリッパは皇帝カリグラへの手紙の中で、パレスチナにおけるピラトの弾圧政治について『買収、暴行、略奪、虐待、挑発、裁判手続きなしの絶え間のない処刑、意のままの最もひどい残酷行為』は日常茶飯事であった、と書いてある」(新共同訳・新約聖書注解) ピラトの残忍さはルカ福音書13章1節の事件にも現われています。それに対してマルコの描くピラトは、ユダヤ人の最高法院で死刑の判決を受けたイエスを尋問してみたが、別に危険人物とも思えないので何とかして釈放しようと努めています。マタイ、ルカ、ヨハネも各々の資料からピラト像を描いていますが、すべて共通して、ピラトがイエスに罪を認めず、彼を釈放しようと努力するが、ユダヤ教の指導者達と群衆との強迫に負けて、致し方なくイエスを十字架刑に引き渡す弱気の総督像にされています。
 フィロンやヨセフスの描く残虐非道の悪総督ピラトの方が実像に近かったことでしょう。ピラトはイエスの裁判においても、もっと積極的な役割を演じたはずです。福音書の記者達がこのようなピラト像を描いた理由は、キリスト教がローマ帝国にとって無害な宗教であることを訴える護教的な目的をもっていたためであると考えます。
1993年1月3日 新年礼拝

  「ピラトとへロデ」

 そこで全会衆が立ち上がり、イエスをピラトの許へ連行した。そして彼を訴えて言い始めた、「我々はこの者が我々の民を惑わし、皇帝(カイザル)に納税することを禁じ、自分がメシア即ち王であると主張していることを見つけました」 ピラトはイエスに尋ねて言った、「あなたはユダヤ人の王なのか?」 イエスは答えて言われた、「あなたはそう言っている」 ピラトは祭司長達と群衆に向かって言った、「私はこの者に罪を認めない」 しかし彼らは増々猛烈に言い張った、「彼は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ中に教えを説いて、民衆を扇動しています」 これを聞いたピラトは、この者はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの領民だと知ると、丁度その頃エルサレムにいたへロデの許へイエスを送った。ルカ福音書23章1〜7節

 イエスの裁判と審問について、ルカの記録から見てみましょう。人々はゲッセマネの園でイエスを逮捕した後、大祭司カヤパ邸へ連行し、そこでひと晩留置しました。その夜裁判は行なわれず、朝になると最高法院の議員が召集され、審問がなされ、[トク]神罪の判決が下されました(22・66〜71) それから彼らは死刑を執行してもらうためにイエスをローマ総督ピラトの許に連行しました。当時ユダヤ人には死刑の執行権がなかったからです(ヨハネ18・31) 彼らはピラトにイエスを告訴しました。理由は三項目でした(23・2) (1)民衆を惑わした罪 (2)皇帝への納税を禁じた罪 (3)メシア王を自称した罪。彼らは巧妙にも問題をすり換えました。神冒[トク]の理由でピラトに訴えても異教徒のピラトの関心をひかないことが分かっていたので、宗教的な理由から政治的な理由へと罪状のすり換えを行なったのです。あの三項目なら、為政者ピラトは重大な関心をもつはずです。
 しかし彼らの当ては外れました。その三項目は罪に当たらないとピラトは判断しました(23・4) 第一の、ユダヤの民衆を惑わしたことについては、イエスをガリラヤの領主へロデ・アンティパスに送って彼に判断させる。第二の、納税拒否の呼びかけについては、それが偽りであることはすでに示されている(20・20) 第三の、イエスがメシア王であるか否かは、ユダヤ人自身に判断をまかせる。ピラトにとってはイエスが宗教的なメシア王であるかどうかについては全く関心がなく、政治的な王を自称したかどうかが問題でした。それでピラトの質問においても(3節)、十字架上の罪状札においても(38節)、「メシア」という告訴理由が消えているのです。ピラトはイエスが政治的な意味で王を自称したのではないことが分かっているのです。
 このような記述の仕方は意図的です。イエスはユダヤ式の処刑方法である石打ちの刑によって殺されたのではなく、ローマが属州の罪人を処刑する方法、即ち十字架刑によって殺されたことは動かし難い歴史的事実なのです。イエスの処刑を命じたのは、ポンテオ・ピラトでした。しかしルカによると、ピラトへの三項目の告訴理由に対して、ピラトは三回の無罪宣言を行なっているのです(4、14、22節) こう書き記すことによってルカは、イエスの死刑の責任をローマ当局からユダヤの指導者達へ比重を移動させているのです。後にルカはペテロに語らせています、「あなた達(ユダヤ人)はこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこのお方を拒んだ」(使徒行伝3・13) 何故ルカはこんなにもローマ人のピラトに気を遣っているのでしょうか。
 バプテスマのヨハネ、イエス、パウロの宣教の時代背景には終末の切迫感がありました。「時は満ちた。神の支配は近づいた。君達は悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1・15) この呼びかけに多くの人々が応じました。パウロも又、「時は縮まっている」(コリント第一・7・29)と語り、世の終末に備えて生きるように忠告しました。明日にでも終末が来ると思えば、人々の生き方は潔(いさぎよ)いものになります。「空の鳥」や「野の花」のように明日のことを思い煩わずに生きられます。それこそ人間の本来的な生き方です。しかし80年代のルカの時代には、主の来臨は遅延し、終末の切迫感は失われています。「ルカによれば、今は『教会の時』であって、これは長く続くことが予想される。もはや近い将来に終末を期待すべきではないという認識が必要であり(19・11)、教会は通常の歴史の時間を歩むのである(2・1、3・1) 従って醒めた目で確りと教会の現状を見なければならない。困難な時代の中で教会が異邦人伝道の使命を果たしながら進むには、キリスト教に対する行政当局の誤解を解き、無用の摩擦を避けねばならない。ユダヤ教はローマから合法宗教と認定されていたのに、キリスト教はまだこの地位を得ていない。そこで当局への弁証が必要となる。著者は、イエスの十字架の死は実は総督ピラトの本意ではなかったと述べ(23・4、使3・13)、使徒行伝においてもローマ側はずっとキリスト教に好意的な認識をもっていたとしている。キリスト教はローマにとって危険な宗教ではないことを史的に証明し、教会はイスラエルの正統な継承者であるということを主張するのである」(新共同訳 新約聖書注解) これは確かに信仰の後退であり、福音が宗教に変質する過程ですが、現代の私達も又、この矛盾に呻き苦しみつつ信仰の闘いを戦わねばならないのてす。このような重大な歪(ひずみ)がすでに福音書の中にあるので、私達がこうしてオリジナル・イエスを探し求める必要があるのです。
 イエスがガリラヤの領民であることを知ったピラトは、このやっかいな問題をへロデ・アンティパスに押しつけようと計り、丁度へロデもエルサレムに来ていることを知り、イエスを彼の許に送ります。ヘロデは以前バプテスマのヨハネを殺しましたが、イエスをも殺すつもりでいました(13・31) イエスをメシアと信じる民衆の暴動を恐れたためでした。このピラトとへロデの政治的な結託を思い起こして、後に原始教会はそこに詩篇第二篇のメシア預言の実現を見ています。「本当にこの都で、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕(しもべ)イエスに逆らいました」(使徒行伝4・27)
1993年1月10日 礼拝説教

  「イエスか、バラバか」

 さて祭りの度毎に、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。ここに、暴動の時、殺人をして投獄されていた暴徒達の中に、バラバという男がいた。群衆が上って来て、いつものようにして欲しいと要求し始めた。ピラトは彼らに答えて言った、「お前達はあのユダヤ人の王を釈放して欲しいのか?」 祭司長達がイエスを引き渡したのは妬みによることを彼は知っていたからである。しかし祭司長達は群衆を扇動して、バラバを釈放して欲しいと願わせた。ピラトは再び彼らに言った、「ではお前達がユダヤ人の王と呼んでいるあの男にはどうせよと言うのか?」 彼らは再び叫んだ、「彼を十字架につけよ!」 ピラトは彼らに言った、「一体彼はどんな悪事をしたのか?」 彼らは激しく、「彼を十字架につけよ!」と叫んだ。ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放して、イエスを鞭打った後、十字架につけるために引き渡した。マルコ福音書15章6〜15節

 紀元30年当時のローマ皇帝はティベリウスでしたが、彼は政治に惓んで、ナポリ湾頭の風光明媚なカプリ島で気ままな生活を送り、政治の実権を近衛長官のセイアヌスに委ねていました。このセイアヌスは反ユダヤ主義者で、彼によってユダヤ人の弾圧が行なわれました。彼の腹心の部下がポンテオ・ピラトでした。ピラトはローマの直轄領ユダヤとサマリヤで強圧的な政策を施行しました。「ある人達が来て、ピラトがガリラヤ人の血を流し、それを彼らの犠性の血に混ぜたことをイエスに告げた」(ルカ13・1) ユダヤ側の資料によると、ピラトはその治世の10年間にしばしば挑発、略奪、虐待、買収、裁判なしの処刑など、様々な残虐行為を行ない、36年にサマリヤ人を虐殺した事件を告訴されて、彼は失脚しました。そのようなピラト像に反して、受難物語の中のピラト像は、ユダヤ人指導者達や群衆の圧力に心ならずも屈服してしまう優柔不断の総督の姿です。
 さて、ピラト官邸での裁判の続きです。ユダヤ当局の告訴とピラトの尋問、そしてイエスの沈黙の後、当時の慣習が持ち出されます。過越祭の度毎に、民衆が望む囚人の一人に特赦を与えるということです。ローマやユダヤの資料にはその実例はありませんが、実際にはあったのかも知れません。7節の「暴徒達」は革命家、扇動者の意味で、武装的反ローマ闘争を行なっていた熱心党員です。バラバの登場です。「父の子(バルアバ)」という意味です。マルコがバラバを悪人として扱っているのに反して、バラバは群衆の間で人気があります。8節によると、群衆はすでにバラバを意中において特赦の要求を出しているようです。それに対抗するかのようにピラトは、「お前達はあのユダヤ人の王を釈放して欲しいのか?」と言います。彼はユダヤ当局の下心を察知していて、イエスを赦そうと努力しているのです。これは心理的な綱引きです。しかしちょっと疑問に思われる点は、イエスの有罪がまだ決まっていないのに、特赦の問題が持ち出されていることです。
 ユダヤ教指導者達もピラトの思いを知って、負けてはならじと、増々群衆を扇動して、.バラバの釈放を要求します。ここでは群衆は完全にユダヤ当局の側についています。それまでマルコは、ユダヤ当局の敵意にも拘らず、群衆はイエスに好意的であった、と記しています(11章8、18、12章12、37、14章1〜2、11など) マルコはここでも、群衆がイエスに反抗的なのは、ユダヤ当局の扇動によるものだとして、その責任をユダヤ当局に負わせています。しかし群衆はイエスに政治的なメシア王を期待したにも拘らず、そうなろうとしなかったイエスに裏切られたという思いがあったのかも知れません。数日前には「ホサナ」を叫んで熱狂的にイエスを都に迎え入れた群衆が、ここでは「ヤツを十字架につけろ!」と叫んでいるのです。物事の真相を深く見極めないで、簡単に周囲の空気に付和雷同する群衆にも大いに責任があります。悪人を支持し、義人を「十字架」に追いやるというのは、いつに変らぬ世の有様です。
 バラバの釈放を激しく要求する群衆の声に圧倒されて、ピラトは「ではお前達がユダヤ人の王と呼んでいるあの男には、どうせよと言うのか?」と尋ねます。絶対の権限をもっているローマ総督ピラトが、ユダヤ当局から告発されているイエスの処分を群衆に尋ねているのも不思議です。ピラトは占領地の民衆の意見を尊重する民主主義者のようです。ピラトの問いに答えて、「ヤツを十字架につけろ!」と群衆が叫びます。裁判の聴衆が刑の種類まで決定していることも不思議です。
 「一体彼はどんな悪事をしたのか?」 裁判長のピラトがユダヤの群衆と対等の立場で議論しています。ここではむしろ記者のマルコが読者に向かってこの問いを問いかけているのかも知れません。読者はこの問いに答えねばなりません。
 「しかし彼らは増々激しく"ヤツを十字架につけろ!"と叫んだ」 もう理性的な論議ではありません。ただがむしゃらに不法を押し通そうとするばかりです。ここでマルコは14章64節の、最高法院での判決の不当性を改めて指摘しているのです。この記事を書き記すマルコの思いの底に、「彼は暴虐な裁判によりて取り去られたり」(イザヤ53・8)という「受難する主の僕」の姿が描かれていたことでしょう。
 終にピラトはイエスを釈放しようとする努力も空しく、群衆の要求に屈服しました。「彼はバラバを釈放して、イエスを鞭打った後、十字架につけるために引き渡した」ローマ総督ピラトにとって、バラバはイエスよりもはるかに危険な人物であったはずです。羊を捕えて、狼を野に放つようなものです。やはりマルコはここで史実を記しているのではなく、信仰を語っているのでしょう。自由にされるバラバと処刑されるイエスを並列させて、ユダヤ当局と民衆とローマ総督の罪と盲目とを際立たせているのです。そして更に、義人イエスが死ぬことによって、罪人バラバが赦されるという贖いの信仰が語られているのです。
 「わが僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った…彼は多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをした」(イザヤ53・11〜12)
1993年1月17日 礼拝説教