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マルコ福音書の研究

  「先ず福音は全世界へ」

 君達は気をつけなさい。人々は君達を裁判所に引き渡し、君達は会堂で打たれ、私のために、総督や王達の前で証言するために立つであろう。そして先ず、すべての国民に福音が宣教されなければならない。人々が君達を連行して引き渡す時、何を語るべきかと前もって心配するな。その時に君達に与えられることを語れ。語る者は君達ではなく、聖霊なのだから。そして兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子供達は両親に逆らい立って死に渡すであろう。君達は、私の名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。  マルコ福音書13章9〜13節

 「終末到来の前兆は何ですか?」4節。人間はいつも物事の前兆を探って、それに備えようと努めます。ガンの検診、地震予知、景気対策など、前兆を調べて様々な予防的な措置を講じます。先頃行なわれた地球サミットも、地球の危機的状況の前兆が多方面に現われてきたので、それに対処するための国際会議でした。
 中世の日本人が末世思想に影響されていたように、新約聖書時代のユダヤ人は終末の到来に深い関心をもっていました。その前兆は、第一に偽キリストの出現と、戦争と地震と飢饉である(6〜8節)。そして第二に、迫害に関するものである(9〜13節)とイエスは答えています。第一のものは一般的な災害で、第二のものはクリスチャンがこうむる苦難です。
 「君達は気をつけなさい」 迫害の試練は必ず来るものであり、信仰をもっていれば必ず耐え得る力を与えられるのであるから、動揺せず、取越し苦労せずにいなさい、と予告されているのです。マルコの時代、キリスト教徒はユダヤ教徒からもローマ当局からも、迫害を受けていました。AD64年のローマ市大火の場合は、ネロ帝によってその原因がクリスチャンであるとされ、多くの者が虐殺されました。キリスト教徒は皇帝礼拝を行なわず、異教の神像に対する祭祀にも参加しなかったので、社会公共の敵と見なされていました。
 「人々は君たちをユダヤ各地にある地方裁判所に引き渡し、君達はユダヤ教の会堂でむち打たれ、わたしの弟子であるということのために、ローマから派遣されてきた総督や、ヘロデ王家の王達の前で証言するために立つであろう」 この迫害の記事の背景はギリシャ・ローマの世界ではなく、パレスチナの地域に限られています。ユダヤ教の中からキリスト教が発生した初期に、ユダヤ教徒によるキリスト教徒迫害の事実をこの記事が語っているのです。きっとパレスチナにあったユダヤ人キリスト教会で、このような説教がなされ、信者を励ましていたのでしょう。使徒行伝を読むと、ユダヤ教の圧力に対して、主の兄弟ヤコブは妥協的であり、ペテロは中立的であり、パウロは対決的であったことがよく分かります。パウロはこの記事の通り、裁判所で裁かれ、会堂でむち打たれ、総督や王達の前で証言いたしました。
 「先ず、すべての国民に福音が宣教されなければならない」10節。この10節の言葉はマルコが挿入したマルコ自身の言葉です。文脈から言えば、9節から直接11節につなげると、主語の「君達は」という二人称複数形で統一され、意味もよく通じます。10節は文脈的には安定が悪いのです。それでマタイは10節の言葉をそこから取り去って、後ろに移動させました(24章9〜14節、10章17〜22節) ルカは、マルコの10節の言葉を省きました(21章13〜14節) しかしマルコが10節の言葉をそこに置いたのは理由があるはずです。それは9節の「証言するため」という言葉に対応させたためです。キリストの弟子であるということで裁判にかけられ、むち打たれ、総督や王達の前に引き出されるのは、決して無益なことではなく、それは聖霊の導きによるのであり、福音を証しする機会を得るためなのだ、と言うのです。そしてその関連から、「そして先ず、すべての国民に…」と続くのです。
 マルコにとってこの「先ず」は意味深長です。教団の中には熱狂的な再臨待望論者がいて、人の子の来臨は今日明日にでもあると説きまわり、信者の心と生活を混乱させていたのです(テサロニケ第二書3・11以下)マルコはそれに対して、戦争や災害や迫害はあるが、「まだ終わりではない」、それは「陣痛の始まり」であり、世の終末が来る前に、キリストの福音は全世界に宣べ伝えられなければならない、と言っているのです。マルコは、イエスの復活と人の子の来臨の間に、中間期として、福音の宣教の期間を考えているのです。それは、主の来臨の遅延が前提とされている考えです。「世の終末の前に福音の宣教はすべての国民に対してなされねばならないということが、マルコの時代においてキリスト教徒の間にすでに認められた教えとなっていた。これはパウロの伝道の単なる反映ではない。世界伝道の思想は早くからキリスト教団に現れ、そして急速に普及していったのである。この際に勿論パウロは"ライオンの分け前"を自分に要求することができる」(ヘンヘン)
 マルコは、主の復活と人の子の来臨との間に、福音を全世界に伝える期間を考えていましたが、その期間はそれほど長いものではなく、やがて世の終末とイエスの再臨はあるものと考えていたようです。しかしルカは、マルコの福音宣教の期間を、教会の歴史を通して聖霊が活動する期間と定めた結果、終末の切迫と人の子の来臨という問題は、歴史の彼方に移された形になりました。更にヨハネは、1世紀の終わり頃に福音書を著し、終末時における人の子の来臨を、「助け主(パラクレートス)」の来臨の中に解消してしまいました(14章16、26節、15章26節、16章7節、7章39節、ヨハネ第一書2章1節)ヨハネは、復活の主イエス・キリストは「助け主」と成られて、弟子達の上に、間に、中に生きておられ、愛による親しい交わりによって、真理と平和と喜びを与えつつ、御業を行ない続けておられる、と語りました。こうして教会の歴史は、世の終末と主の再臨の遅延という最も深刻な問題を克服しました。しかし終末期待は教会の記憶の中に深く根付いているので、それが時折マグマのように噴出して、古代の情熱を発散させることもあるのです。
                      1992年6月28日 礼拝説教

  「憎むべき破壊者」

 憎むべき破壊者が立ってはならぬ所に立つのを見たら(読者よ、悟れ!)その時、ユダヤにいる人々は山に逃れよ。屋上にいる者は下りて、物を取り出すために家に入るな。畑にいる者は、上着を取りに家に戻るな。それらの日には身重の女と乳飲み子をもつ女は気の毒だ! これが冬に起こらぬように祈れ。それらの日は、神が万物を造られた創造の初めから今日までなかったし、今後もないような患難であろう。もし主がその期間を縮めて下さらなければ、だれ一人救われない。しかし主は、その選民のために、その期間を縮めて下さった。その時、「見よ、ここにキリストがいる」、「見よ、あそこだ」と言う者がいても、信じるな。偽キリスト者と偽預言者達が現れて、できれば、選民を惑わそうとして、奇跡や不思議な業を行なう。君達は気をつけよ! 私は君達にすべての事を前もって言っておく。 マルコ福音書13章14〜23節

 太平洋戦争に負けた日本は、1945年から数年間、米国とその連合国の支配を受けました。米国は日本人に大幅な自治を許し、当時の日本人が神聖視していた天皇制には手をつけませんでした。同様に、紀元1世紀にユダヤを支配していたローマ帝国は、ユダヤ人に制限つきながら自治を許し、彼らの宗教には手を触れませんでした。ユダヤ人は律法と神殿を犯されると、命がけで抵抗することを知っていたからでした。
 「憎むべき破壊者」とは一体、誰のことでしょうか? 「第145年、キスレウの月の15日には、王は祭壇の上に"憎むべき破壊者"を建てた」(マカバイ記一書1・54) シリアのセレウコス王朝のアンテオコス4世はヘレニズムに心酔し、自らをエピファネス(顕神王)と称し、彼の支配下の全領域をギリシャ化しようと努めました。BC167年、彼はエルサレムに来て、神殿の財宝を奪い、ヤハウェ礼拝を禁止し、代わりにオリュンポスの主神ゼウス像を建てて礼拝し、「すべての者が一つの国民となって、各自が自分の習慣に固執することを止めるように」(同書1・41)と布告し、ユダヤ人の安息日順守と割礼の施行を厳禁しました。伝統を重んじるユダヤ人はそれに反撥して反乱を起こし、3年の激闘の末に勝利し、164年に神殿を清めてヤハウェ宗教の祭儀を復活させました。いわゆるマカバイ戦争がそれでした(ダニエル書9章〜12章、マカバイ記一書、二書) ユダヤ人はその神殿の冒涜を「憎むべき破壊者が神聖な場所を汚した」とし、この出来事の中に世の終末の前兆を見て、後代に至るまで繰り返し、世の終末が近づいた時に起こる出来事として語り継いでいました。
 AD40年、自分を神であると信じていたローマ皇帝カリグラは、エルサレム神殿の中に、彼の黄金の彫像を建てることを命じました。ユダヤ人はこれをエピファネス王の再来と考え、この許すべからざる神への冒涜に対し、反乱に至ろうとした時に、幸いにも、カリグラ帝は近臣の手にかかって殺害されたため、危機を免れました。
 これらの歴史的な事件を踏まえて、マルコは終末の前兆として「憎むべき破壊者」の出現を語りました。「読者よ、悟れ!」と書いた時に、彼はカリグラの事件を想起していたものと思われます。マルコは又、「ユダヤ」の地名を上げて、戦乱に逃げ惑う人々の動向を語っていますが、どうもこれは66年〜70年のユダヤ戦争の状況であるらしく思われます。66年、皇帝ネロの時代に、ローマから派遣されたフロルス総督は、神殿の金庫から17タラントの金を略奪しました。それに怒ったユダヤ人は、「貧しい総督にお恵みを!」と言いながら市中を乞うてまわり、総督を笑いものにして抵抗の姿勢を示しました。それを見て激怒したフロルスは、兵士達に市中の略奪と暴行を許しました。それが壮絶を極めたユダヤ戦争の発端でした。その戦争では過激派の熱心党(ゼロータイ)が主導権を握って戦いましたが、エルサレムのキリスト教会はその反乱に加担せず東ヨルダンのペラに移動しました。結局その戦争は、ネズミがライオンに抵抗したようなもので、70年にエルサレムが陥落し、神殿が炎上焼失して、ユダヤ側の敗北に終わりました。
 マルコが福音書を執筆したのは、ユダヤ戦争中か、その直後のことだと言われています。マタイとルカは、その十数年後にマルコ福音書をモデルにして、Q資料(イエスの言葉集)と独自の資料を加え、マルコの記事を手直しして、各々の特色をもたせました。この個所で言えば、マタイはほぼマルコに従っていますが、ルカは大幅に変更を加え、直接ユダヤ戦争と神殿の崩壊に言及しています。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、滅亡が近いことを悟れ…」(21章20〜24節、19章43〜44節)
 マルコは神殿の崩壊とユダヤ民族の滅亡を目の前に見ながら、この患難の時代は終末の前兆ではあるが、「まだ世の終わりではない」こと。戦争、地震、飢饉などが起こるが、それは「陣痛の始まり」であること。キリスト教徒は迫害されるが、それは信仰の証しの機会であり、聖霊の導きの下にあるのだから心配する必要がないこと。「しかし、先ず福音がすべての国民に宣教されねばならない」こと。世の混乱につけこんで「わたしである(エゴー・エイミー)」とメシアを自称する偽キリストが出現したり、「見よ、ここにメシアがいる」「見よ、あそこだ」と言う偽預言者が現れても決して惑わされてはならないことなどを、警告しています。またマルコは、キリスト教団の中にも異なったキリスト理解があって混乱しているので、正しい福音を書き著す必要を感じたのでしょう。「神の子イエス・キリストの福音」(1・1)と彼が書き始めた時に、彼が目指したのは「十字架につけられたイエス・キリスト」でした。十字架なしの安易なキリスト教が横行していたからでした。
 「23節は5節と同じく、よく"気をつけよ"との警告が叩き込まれる。マルコがイエス自身の権威をもって、熱狂的キリスト信仰(ヨハネ第一書4章2〜3節。これは受難の人の子にもはや明確に結びついていないものである)に対して警告しているのは正しい。マルコが8章31節に、明白に神を啓示する最初の言葉を見出したのは、故なきことではなかった」(E・シュヴァイツァー)
                       1992年7月5日 礼拝説教

  「人の子の来臨」

 しかしそれらの日には、その患難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天体は震われる。その時、人の子が大いなる力と栄光をもって雲に乗って来るのを、人々は見る。その時、人の子は天使たちを派遣し、地の果てから天の果てまで、四方から彼の選民を呼び集める。       マルコ福音書13章24〜27節

 「いつそのことが起こるのですか? その前兆は何でしょうか?」4節。その質問に答えて、5節から23節までに、地上での「前兆」をマルコは記しています。偽キリストの出現、戦争と地震と飢饉、クリスチャンの受難と迫害、福音の世界宣教、「憎むべき破壊者」の出現とユダヤ戦争、そして再び偽キリストと偽預言者の出現。それらの前兆を語って、23節で結んでいます、「だから、君達は気を付けていなさい。私は君達に一切のことを前もって言っておく」
 右のことはすべて世の終末に先行する大苦難について黙示的な言葉で語られていますが、それらは原始キリスト教徒にとってすでに経験したことか進行中の出来事です。「 見よ、"ここにキリストがいる!" "見よ、あそこだ!"と言う者がいても信じるな」21節。66〜70年のユダヤ戦争中にそのようなデマが飛んだのでしょうか。マタイの表現はもっと分かり易い。「"見よ、キリストは荒野にいる"と言う者があっても行ってはならない。"見よ、奥の部屋にいる"と言われても、信じるな」(24章26節) キリストはもうすでにこの地上に来ていて、どこかに隠れているのだ、という偽預言者のデマに惑わされてはならない。キリストの来臨は全宇宙的な出来事であって、すべての人の目に明らかに示される事柄であると言うのです。「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである」(27節)
 マルコに戻って今日のテキスト、24〜27節ではじめて未来に起こる終末の出来事が語られています。地上での苦難の時期の後に、天上に徴(しるし)が見られるというのです。
 「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天体は震われる」24〜25節。地上の苦難につづく天上の患難です。これは預言者イザヤが、バビロンの審判を語った時(13・10)と、エドムの審判を述べた時(34・4)の言葉からの引用です。「天のもろもろの星とその星座は光を放たず 太陽は昇っても闇に閉ざされ 月も光を輝かさない」 これは戦塵によって空が覆われるために、天体がよく見えなくなる現象の描写でしょうか。湾岸戦争の時、クゥエートの空がまさにそのようでした。しかし黙示文学ではそのような表現によって、神の行為が語られているのです。現実の世界の出来事ではなく、超越の世界の出来事が詩的に述べられているのです。もし実際に天体の大崩壊が起これば、人類は絶滅してしまい、「四方から選民が集められる」ことは不可能です。これは神が新しい御業を行われることの徴(しるし)なのです。「全宇宙の崩壊が、それ自体として重要なのではない。決定的に重要なことは、ただ人の子の来臨であり、これはただその枠組を与えているにすぎない」(E・シュヴァイツァー)
 「その時、人の子が大いなる力と栄光をもって雲に乗って来るのを、人々は見る」26節。人の子の来臨。これはダニエル書7章13〜14節からの引用です。「夜の幻をなお見ていると、見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、その許に進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配は永遠に続き、その統治は滅びることがない」 ダニエル書の場合、7章の始めに4頭の獣の幻があり、第一の獅子のような獣はバビロンを、第二の熊のような獣はメディアを、第三の豹のような獣はペルシャを、第四の物凄い獣はギリシャを意味していました。それらは歴史上に次々に出現した大帝国でした。そして最後に、「人の子のような者」が登場し、「日の老いたる者」即ち神から、全地の支配権を授けられるのですが、その「人の子のような者」は、明らかにイスラエルを指しているのです。やがて世界は、大帝国の武力によってではなく、神の御意志に従う、人間の心と顔をもったイスラエルによって統治されるという、イスラエル的な理想が黙示文学的表現をもって語られているのです。
 紀元1世紀のユダヤ人は、その「人の子のような者」を、終末時に出現するメシアであると信じていました。しかし福音書記者は、もはや「人の子のような者」とは言わず、はっきり「人の子」と言って、その「人の子」はイエスであると同定しました。そして福音書の読者は、その「人の子」が苦しみを受け、十字架上で死に、3日目に復活して天に挙げられたイエスその人であることを承知していました。従って、終末時に、神の御許から、雲に乗って来臨する人の子を書かなければイエスの福音は完結しないと、マルコは考えていました。
 「その時、人の子は天使達を派遣し、地の果てから天の果てまで(東から西まで)四方から彼の選民を呼び集める」27節。離散したユダヤ人達が再び集められることは、申命記にも記されています。「あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めて下さる。たとえ、天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される」(30章3〜4節) その場所はきっとエルサレムでしょう。離散のユダヤ人たちにとって、聖都エルサレムで神を礼拝することは無上の喜びでした。離散した者が神の御許に集められて交わりを回復するということは、救済を意味しています。旧約の場合、「選民」はユダヤ人に限られていましたが、福音書では、イエス・キリストを信じるすべての人を「選民」と言うのです。神から大いなる力と栄光を授けられた人の子イエスが天から下ってきて、天使たちを全地に派遣し、東西南北の隅々から、苦難に耐え、迫害を忍んで信仰を全うしたクリスチャン達を呼び集め、御許に召し出して下さるのです。しかしそれは、この世の時間の中に起こる出来事ではなく、永遠の時に属する信仰の奥義なのです。「血と肉とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことができない…」(コリント第一書15章50節)
                      1992年7月12日 礼拝説教

  「時の徴(しるし)」

 無花果(いちじく)の木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出てくると、君達は夏の近いことを知る。そのように、君達はこれらのことが起こるのを見る時に、人の子が戸口に近づいていると知りなさい。アーメン、私は君達に言う、これらすべてのことが起こるまでは、この世代は決して過ぎ去ることはない。天と地とは過ぎ去るであろう。しかし私の言葉は過ぎ去ることはない。その日、その時について知る者は誰もいない。天使達も、子も知らない。ただ父だけが知っておられる。
                        マルコ福音書13章28〜32節

 「夏も近づく八十八夜」 日本では新茶が摘まれる頃が初夏の目安にされていますが、パレスチナでは、無花果の葉が芽吹く頃です。「5月末、新葉が開くとその柄のつけ根に、緑色の小果がつき、だんだん大きくなり、8月末に至って正常の果実に成熟する。果実は生食して甘美、乾燥して保存食料となる。…無花果はナザレ村の各戸に必ずあるといってよい。特に貧しい家庭では食糧の一部であった」(大槻虎男著・「聖書植物図鑑」) 無花果はイエスの生活の中に確かに場所を占めていました。
 28〜29節は、4節の弟子達の問い、「どんな前兆がありますか?」に対する答えのように見えます。無花果の木の枝がふくらみ、若葉が出てくると、それは夏の兆しである。同様に、君達はこれらの事件を見たら、人の子の到来の近いことを知れ。夏の兆しと人の子の来臨の接近。自然現象と並行させて神の支配の有様を語る方法は、歴史のイエスの語り口です。マルコはイエスの言葉として伝承されたものの断片をこの個所に置いたのでしょう。難点は「これらのこと」が何を指すのかはっきりしないことです。おそらく5〜23節のことでしょうが、すでに24〜27節で「人の子の来臨」を語っているので、この個所は「後の祭り」のような感じがします。同様な話をルカが伝えています。「君達は、西空に雲が起こると、俄か雨になると言う。そしてそうなる。南風が吹くと、暑くなるだとうと言う。事実そうなる。偽善者よ、君達は天や地の模様を見分けることを知っていながら、どうして今の時を見分けることができないのか?」(12章54〜56節) 君達はこの世において賢く生きる方法を知っているのに、どうしてもっと本質的な世界、人生に意味と価値を与える神の国の動向に対して、盲目でいられるのか。「時」は二重の性格をもっています。今の時を生きている間に、永遠の時に目覚め、悔い改めて新しい生き方を始めなさい、と呼びかけられているのです。私達は「時の徴」に取り囲まれていながら、それに対して鈍感であり、盲目であるのです。終末論の本質は、時の徴を認めて、神に立ち帰る点にあるのです。
 「アーメン、私は君達に言う、これらすべてのことが起こるまでは、この世代は決して過ぎ去ることはない」30節。再び「これらすべてのこと」の内容が不明です。やはり5〜23節を前提として考えているようです。「この世代」とは同時代の人々という意味で、もしこれがイエスの言葉であるならば、彼の同時代の人々の生存中に終末が来るということですから、この預言は当たらなかったことになります。しかしこれはマルコの言葉でしょう。マルコは人の子の来臨が近い将来に確実にあることを、イエスの言葉の権威を借りて語っているのでしょう。同じことは9章1節にもあります。「神の国が力強く到来するのを見るまでは、決して死を味わわない者がここに立っている者の中にいる」 マルコの教団の中で、人の子の来臨の遅延がささやかれ、あせりが生じていた時に、マルコはこの言葉によってその到来がやがてあることを保証したのでしょう。当時の人々は、終末の到来が間近いという期待の中に生きていたのです。
 「天と地とは過ぎ去るであろう。しかし私の言葉は過ぎ去ることはない」31節。この言葉は内容的には30節とは関係なく、ただ「過ぎ去る」という共通の言葉で接続されたようです。31節には、イエスの言葉は永遠不滅の真理であるというマルコの教団の信仰が語られています。マタイ福音書5章18節に似た言葉があります。「天と地とが過ぎ去るまでは、律法の一点、一画も決して過ぎ去らず、すべてが全うされる」 ユダヤ教徒が、律法(トーラー)こそ神の指示であり、永遠に不変不滅の言葉であると信じていたのに対して、キリスト教徒は、律法ではなく、イエスの言葉こそは福音であり、人間を完全な救いに導く神の力であると語ったのです。これで見ると、マタイの教団はマルコの教団に比べて、はるかにユダヤ教色が濃かったようです。「31節をマタイ5章18節と比較するならば、マルコの教団にとってイエスの言葉は、ユダヤ教団にとって律法がもっているような、かの永遠の妥当性をもつことが知られる。それゆえ、31節の言葉は、マルコの時代においてすでにキリスト教化がいかに進展していたかを示している」(ヘンヘン)
 「その日、その時について知る者は誰もいない。天使達も、子も知らない。ただ父だけが知っておられる」32節。世の終末と人の子の来臨はいつあるのか? 人々はそのことに強い関心をもっていたでしょうし、それに対応して偽預言者達は、複雑な計算をして、その日、その時を指し示して、人心の収攬に努めていたことでしょう。それに対してキリストの福音に生きる者は、その日、その時は神の御意(みこころ)のうちにあることであり、明日のことを思い煩うことなく、神を信頼して生きることを心掛けていたのでしょう。「子も知らない」という言葉は、イエスの知識に限界があったとして、彼の神性をめぐって、後世の教会で論争の種(たね)になりましたが、それは見当違いな議論です。単独に「子」という用法は、共観福音書ではこの個所の他にマタイ11章27節(ルカ10章22節)にしか出てきません。単独に「子」という場合は、イエスの「父」に対する特別な関係を示しつつ、「子」として「父」への服従を表わしているのです。「そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたお方に従うであろう…」(コリント第一書15章28節) キリストの再臨と世の終末という大問題もまた、「あなたの御意が行われます様に!」という、主の祈りの中に含まれているのです。
                      1992年7月19日 礼拝説教

  「目を覚ましておれ」

 気をつけよ、目を覚ましておれ。君達はその時がいつであるかを知らないのだから。それは丁度、旅に行く人が家を出る時、僕(しもべ)達一人一人に仕事を与えて責任を持たせ、門番には目を覚ましておれ、と言いつけておくようなものである。だから目を覚ましておれ。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏鳴時(けいめいどき)か、明け方か、君達は知らないのだから。さもないと主人が突然帰って来て、君達が眠っているところを見つけるかも知れない。私が君達に言うことは、すべての人に言っているのだ。目を覚ましておれ。   マルコ福音書13章33〜37節

 「モーセの足跡を訪ねる旅」の一行は、1986年3月28日午前2時50分、聖カテリーナ修道院の裏道からシナイ山頂を目指して登り始めました。身に凍みる寒気の中を防寒服に身を固め、暗闇の中を懐中電灯の明かりを頼りに、石ころだらけの山道を歩くこと2時間半、5時20分に山頂に到着しました。「聖地」を実感せしめる清浄感が辺りにただよい、ユダヤ教徒も、イスラム教徒も、キリスト教徒も、静寂を破ることを恐れて沈黙したまま、思い思いの岩の上に腰を下ろして、まだ明け染めぬ東の空を凝視していました。やがて「神の栄光」を現わす大空のページェントが始まりました。モーセは神と対面したと言う。成程、この場所での出来事ならば、信じることができる。初期のキリスト教徒達は、昇る朝日を仰ぎ見て、「義の太陽」なる来臨のイエス・キリストを礼拝したと言う。心を引き締め、希望と歓喜をもって来たりつつある主を待ち望む姿勢が、クリスチャン・ライフの在り方であると私は思います。
 マルコは13章で世の終末と人の子の来臨を語り、同時代の人々に、イエスの口を借りて、「気をつけよ、目を覚ましておれ」と繰り返し語りかけます。33節の「その時(カイロス)」は、決定的な時、人の子の来臨の時、を意味しています。13章は前兆を求める問いで始まりましたが、結局それには答えが与えられず、まだ終わりではないが、主の来臨は必ずあるのだから、気をつけて、目を覚まして待て、という奨励の言葉で締め括られています。
 34節以下に門番の例話が与えられていますが、首尾一貫していません。原因は34節にあります。この節は、文法的にも文脈的にも乱れているため、翻訳者が苦労する所です。ある貴人がいて、遠い旅に出る時、その僕(しもべ)たちに各自仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には「目を覚ましておれ」と言いつけて出かけます。仕事を割り当てられたのは僕たち全員ですが、目を覚ましておれと言われたのは門番だけのはずです。そして35節以下は、門番だけの話になっています。もはや僕たちは出てきません。僕たちに期待されたのは「忠実」のはずでした。門番に期待されたのは「その時を待つ」ことでした。34節の乱れは2つの話が混在している所から来ています。主人が不在中、僕たちに忠実な働きを期待する話は、マタイではタラントの例話(25章14節)に、ルカではミナの例話(19章11節)に出ています。主人の帰りを目を覚まして待つ例話は、ルカ12章35節に出ています。「腰に帯をし、明かりをつけていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸を叩く時、直ぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきた時、目を覚ましているのを見られる僕たちは、幸いだ」。もし主人が遠い旅に出かけたのなら、門番が何年間も眠らずに目を覚ましているのは、不可能です。無理な命令です。しかし婚礼の宴会に行ったのなら、その晩限りのことですから、門番は用意万端ととのえて、眠らずに主人の帰宅を待つことができます。それで問題の34節は、「それは丁度、ある人が婚宴に出かける時、門番に、目を覚ましておれ、と言いつけるようなものである」とすれば、筋の通った話になります。
 これは一つの黙示文学化された寓話です。恐らく初期の教会の中で語られた話でしょう。イエスの御霊(みたま)が、説教者に語らせているのです。「家の主人」はイエス・キリストを意味し、「門番」は信者を指し、「主人の帰宅」は人の子の来臨を考えていることは確かです。主人の帰宅は必ずある。しかし門番はその時がいつであるかを知らないのだから、その時に備えて、現在を「目を覚まして」待たねばならない。それは自分の計らいによって生きるのではなく、主の御意(みこころ)のままに生きるいのちの在り方です。その人の現在はいつも、未来に対して開かれています。現状維持に固執するのではなく、主の命令が下る時に、いつでもそれに応えて、自分を変革して生きることのできる潔(いさぎよ)い生き様です。主君の命令とあれば、いつでも裸一貫になって、どこへでも赴く覚悟のある自由な生き方です。
 「夕方か、夜中か、鶏鳴時か、明け方か」35節。マルコはここにローマの夜警の4区分を用いています。そしてマルコは巧妙にその4区分を、イエスの受難の出来事の中に適用しています。「夕方」は14章17節に、「夜中」は14章43節以下に、「鶏鳴時」は14章72節に、「明け方」は15章1節に。これはマルコの文学的な手腕です。更にその他、13章9節を14章53節〜15章15節と、13章22〜23節を14章33〜46節、50節、66〜72節と、13章26節を14章62節と、13章32〜33節を14章35〜37節と比較してみれば、マルコが13章の終末論を、14章と15章の「受難する人の子イエス」の序説として書いていることが明白に読み取れます。マルコの記すイエスは、すでに8章31節の「人の子の受難予告」から、十字架への道(ヴィア・ドロロサ)を歩み初めていました。このようにマルコが「受難する人の子イエス」を強調する意図は、十字架ぬきのキリストはすべて偽キリストであって、十字架につけられたナザレのイエスこそ、真の救い主(キリスト)であることを証しするためでした。
 昔も今も、奇跡を行なうキリスト、病気を治すキリスト、御利益を授けるキリストがもてはやされます。しかし十字架のキリストは、躓きです(ガラテヤ5・11)。しかしこの「躓きの石」にけっつまずいて地面に倒され、血を流し、痛みをこらえて、その「躓きの石」を見直す人は、幸いです。「十字架の言(ロゴス)は、滅び行く者には愚かであるが、救いに与る私達には、神の力である」(コリント第一書1章18節)
                      1992年7月26日 礼拝説教

  「受難物語」

 さて、過越祭と除酵祭の2日前になった。祭司長達と律法学者達は、いかなる策略によってイエスを捕えて殺害しようかと考えていた。彼らは言った、「祭の間はだめだ。民衆が騒動を起こすかも知れないから」     マルコ福音書14章1〜2節

 ニサンの月の12日(火)は出来事の多い、長い一日でした(11・20〜13・37)。翌13日(水)の出来事は14章1〜11節に記されています。1〜2節と10〜11節は、神殿の権力者達の策謀にイスカリオテのユダが参加します。受難物語の敵側の準備です。3〜9節は、ナルドの香油の出来事で、イエスの側の準備です。このサンドイッチ方式はマルコのお得意の手法で、それによって物語の流れにアクセントを付け、同時に、時間の経過を示します。これは囲い込み(インクルーシオ)の手法です。A−B−Aという論法によって、真ん中のBを際立たせます。権力者側の敵意に対して、民衆はイエスに好意をもっています。
 14章と15章は受難物語で、一つのまとまった最も古い資料をマルコは用いています。マタイとルカもあまり変更を加えずに、マルコの記述に従っています。その資料は、15日(金)の十字架を中心に、その2日前の13日(水)から2日後の17日(日)までをカヴァーし、特に15日のイエスの最後の日の出来事を、3時間ずつに区切って詳細に報告しています。マルコは彼の福音書の約6分の1を割いてこの最後の1日の出来事を記しています。マルコはイエスの生涯を時間の流れに沿って、ガリラヤの活動期−エルサレムへの道行き−エルサレムでの日々−十字架−復活の順を追って記述していますが、彼の関心の中心はイエスの受難であって、受難から出発して、時間を逆にさかのぼってイエスの伝承を見直すという構想で福音書を編集しています。マルコは三本の道しるべを立てました。ピリポ・カイザリアで、ペテロが信仰告白をした時に、イエスは第一回目の受難予告(8・31〜32)を語り、ガリラヤを通過中に、第二回目の受難予告を告げ、エルサレムに近づいた時に、第三回目の受難予告を話されました。「今、私はエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長達や律法学者達に引き渡される。彼らは死刑を宣告して彼を異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は3日の後に復活する」(10・33〜34)そして14章と15章で、予告されたとおりの出来事が起こります。こうしてマルコは、受難する人の子イエスが真実のキリストであることを主張しているのです。それはマルコの時代に、ユダヤ教徒と一部のキリスト教徒が、雲に乗って天から下ってくる栄光のメシアを待ち望んでいたのに反対して、メシアは先ず苦難を受けた後に栄光を受けるのである。ナザレのイエスは、十字架につけられて殺され、3日後に甦らせられた真のキリストであると証ししているのです。
 「私が最も大事なこととして君達に伝えたのは、私自身も受けたことであった。即ち、キリストが私達の罪のために死んだこと。葬られたこと、3日目に甦ったこと、ペテロに現れ、12人に現れたことである」(コリント第一書15・3〜5) これが初代キリスト教会の最古の信仰告白であり、また使徒パウロの福音でした。イエス・キリストの十字架の贖いの死と復活。その復活の目撃者が使徒と呼ばれた。以前にはキリスト教徒の迫害者であったパウロも、復活の主イエスに出会って使徒とされた。このイエスをキリストと信じる者は、ユダヤ人も異邦人も差別なく、すべての人が神に受け入れられて救われる。そして、復活して天に挙げられたイエス・キリストは、やがて終末の日に再び地上に来られて審判を行ない給う。パウロはイエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝えました。彼は聖霊となられたキリストに満たされていたので、肉におけるイエスの地上の生涯には殆んど興味を示さなかったようです(コリント第一書2・2、第二書5・16)
 それから約1世代後の70年頃のマルコの時代になると、イエスの死と復活の証人だった初期の信仰者は次第に死に絶え、それに反比例して宣教の領域が全ローマ世界へと拡大していきました。そして新しくクリスチャンになった人々は、地上のイエスの生涯に関心をもち始めました。イエスは何を教え、何を行ない、どのようにして十字架につけられたのか? また彼らは戦乱と迫害に苦しみ、他方、偽キリストや偽預言者達が人々を動揺させている。更に、世の終末に出現すると言われているキリストの再臨も遅れている。そのような状況の中でマルコは、イエスに関する口伝や、文書化されていた伝承を集めてこれを取捨選択し、順序づけ、接続詞や編集句を書き加えて、これを一本にまとめ、「福音書」として世に出しました。福音書は、このようにして、マルコが創作した「証しの文学」の1形式なのです。更にその十数年後、マタイとルカが、マルコの作った「枠」に従って各々の福音書を書き、また更に、1世紀の終わり頃、ヨハネは前の3福音書を補うかのように、別の資料を用い、マルコの「枠」を大幅に変更して、彼の福音書を著しました。
 「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1・1) パウロは、イエスの十字架と復活の出来事を、神の救済の行為として「福音」と呼びましたが、マルコは、それを受難と復活に限定せず、地上のイエスの生涯全体に初めて適用したのです。十字架と復活の光の下に、イエスの生涯全体を見渡しているので、イエスの教えも福音であり、彼の行為も福音であり、イエス御自身が福音と同意義(8・35、10・29)にさえ見なされているのです。
 14章と15章はイエスの受難物語です。これはマルコ以前に文書化されていた古い伝承です。イエスの受難を語るためにマルコはすでに3本の道しるべを立てました。そのいずれも「人の子」を主語にした受難予告でした。マルコが語ろうとしているキリストは、受難する人の子であり、世の人はこれに対して盲目であり、弟子達ですら無理解であったが、弟子たる者は悔い改めて、自分の十字架を負って、十字架の主に従うことを勧められているのです。それはパウロも言っているように、「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いから」(ピリピ書3・18)でした。それは今日とても同じ状況です。
                       1992年8月2日 礼拝説教

  「ナルドの香油」 (1)

 それからイエスがベタニヤでらい病人シモンの家にいて、食卓についておられた時、一人の女が、非常に高価な、純粋のナルドの香油(ミルラ)入りの石膏(アラバスター)の壺をもってきて、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。しかしそこに居合わせた数人の者が憤りをもらして互いに言った、「なぜ香油をこんなに無駄使いするのか? これは300デナリ以上にも売れて、貧しい人々に施しができるのに!」 そして彼女を叱りつけた。しかしイエスは言われた、「彼女のなすに任せよ。なぜ彼女を困らせるのか? 彼女は私に美しいことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつも君達と一緒にいるのだから、いつでも良い事をして上げられる。しかし私はいつまでも君達と一緒にいるのではない。彼女はできる限りのことをしてくれたのだ。埋葬のために、前以って私の体に油を塗ってくれたのだ。アーメン、私は君達に言う、世界中で、福音が宣べ伝えられる所ではどこでも、この女(ひと)のしたことも記念として語り伝えられるであろう」
    マルコ福音書14章3〜9節

 今日、8月9日は長崎に原子爆弾が投下された記念日です。47年前のことでした。広島と長崎に原子爆弾が投下され、その甚大な被害に驚いた日本政府は降服を決意し、それを連合国側に通告したことによって戦争が終結しました。もし原爆の投下がなく、戦争を継続していたなら、連合国軍は日本本土に上陸し、日本中が戦場と化して、日本の国は滅亡したことでしょう。そう考えれば、広島と長崎の原爆の犠牲者は、十字架のキリストに準(なぞら)えることができます。彼らの受けた苦しみによって、他の多くの者が救われたのです。現在私たちが享受している豊かさは、彼らの犠牲の上に築かれていることを、決して忘れてはなりません。「彼が打たれし傷によりて、我らは癒されたり」(イザヤ書53・5)
 受難する人の子イエスが真実のキリストである。マルコはそう語っています。そして、その受難物語の冒頭に、ナルドの香油の出来事を配置しました。ベタニヤは、イエスと弟子達の宿泊場所でした。(11・11)。そこにイエスによってらい病を癒されたシモンの家があり、イエスと弟子達はシモンに招かれて食事の席に着いていた時に、突然ひとりの女が入って来ました。彼女は手にナルドの香油の入った石膏の壺をもっていました。「インドの北方ヒマラヤの高地3000メートル位の山地に産するこの草木はゴボウ根をもつ。芽が出る頃の茎と根の芳香成分を絞り、油にとかしたのがナルド油であって、インドの貴族がこれを香料として使った。外国に輸出され、遠路パレスチナに到着したものはアラバスター製の香料壺に入れ封をして、高価に取引された」(大槻虎男著「聖書植物図鑑」) 香油も容器も非常に高価なものでした。彼女は壺の首の部分を壊して、香油をイエスの頭に注ぎかけたので、その芳香は部屋中に広がりました。
 そこに居合わせた弟子達はそれを喜ばずに、憤慨しました。何たる浪費! そのお金で沢山の貧しい人々を助けることができたのに! 何しろ300デナリは大金でした。彼らは彼女を叱りつけました。彼らは道徳的な人達で、その言い分は正しかったのです。「私は君達に命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15・11) ユダヤ教徒にとって施しは、神に喜ばれる善行でした。弟子達は錦の御旗をもっていました。正義は彼らの側にありました。
 だが、イエスの見解は違っていました。彼女のするに任せよ。叱ってはならない。彼女は美しいことを私にしてくれたのだ。この6節の言葉は、「二人のために世界はあるの」という閉鎖的な男女の恋愛感情から出たもののように誤解されるかも知れません。7節の言葉によって、弟子達の正論の誤りが明確にされます。貧しい人々はいつも君達と一緒にいる。彼らに善を施すことはよい。しかし、私はいつまでも君達と一緒にいるのではない。平常の時の行動は、非常時には変えられねばならない。今は貧しい者達よりも私を優先させなければならない。何故なら、わたしの時が来たのだから。断食問答(2・18〜20)の時もそうでした。宗教的な行為として断食をすることに異存はない。しかし花婿が一緒にいる時にその友人達は断食をしないだろう。それは喜びの時なのだから。しかし、花婿が奪い去られる時が来る。その時こそ、彼らは断食して悲しみ嘆くだろう。
 イエスは「その時」(14・41)を明確に意識しておられました。「その時」に対しては、すべての時にあてはまる規範はあてはまらない。その女はイエスの頭に香油を注ぐことによって、知らずして「その時」を啓示したのですが、イエスはそれを神の啓示として受け取り、弟子達は「眠っていた」ので、それを見逃しました。神の啓示は突然、人間の日常性を突き破って入ってきます。その非常時には、平常の時の常識は通用しなくなります。「私はいつまでも君達と一緒にいるのではない。私が去る時が来た。花婿が奪い去られる日が来たのだ。そしてこの女(ひと)は、私のためにできる限りのことをしてくれたのだ」 イエスの受難の時に、彼を喜ばせたのは、この女と貧しいやもめ(12・44)だけでした。マルコはこの女の動機については何も語っていません。行為そのものをして語らしめているのです。それは、罪赦され、救われた感謝に相違ありません。それで彼女は、思いつく限りのよい事を、イエスのためにしたかったのです。それが他人の目には、非常識に映ったのです。聖なる愛の非常識。
 「埋葬のために前以って私の体に油を塗ってくれたのだ」 死体に香油を塗ることは当時の習慣でした。イエスの場合、復活があったので、塗油の機会がなかったのです(16・1)。それで「前以って」という言葉が活きてきます。あるいは彼女の行為は、イエスのメシアとしての任職を象徴していたのかも知れません。
 9節は、福音がすでにローマ世界に宣教されていることを前提にしている言葉です(13・10) 全世界に宣べ伝えられるのは、栄光のキリストではなく、受難のキリストである、とマルコは語っているのです。マルコは、十字架のキリストを宣べ伝えた使徒パウロの後に続いているのです。
                       1992年8月9日 礼拝説教 

  「ナルドの香油」 (2)

 過越祭の6日前に、イエスはベタニヤへ行かれた。そこにはイエスが死人の中から甦らせたラザロがいた。人々はそこでイエスのために夕食の用意をし、マルタは給仕をしていた。ラザロはイエスと共に食卓に着いていた人々の中にいた。その時、マリアは非常に高価で純粋なナルドの香油を1リトラ(約328グラム)持ってきて、イエスの両足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。香油の香りは家中に満ちた。すると弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、「何故この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか?」 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心配したからではなく、彼は盗人であって、財布を預かっていて、その中身をくすねていたからである。イエスは言われた、「この女(ひと)の自由にさせなさい。私の埋葬の日のために、彼女にそれをとっておかせなさい。貧しい人々はいつも君達と一緒にいるが、私はいつも君達と一緒にいるわけではないのだから」
                  ヨハネ福音書12章1〜8節

 「遠き落日」という映画を見ました。野口清吉(英世)とその母の愛情物語です。その母は清吉のために献身的に生き抜きました。清吉も母の愛に応えて、医学の研究に献身的に働きました。献身する人の姿は美しい。クリスチャンは、キリストの愛に応えて献身的に生きる人間です。「主は、私達のために魂(プスケー)(命)を捨てて下さった。これによって、私達は(初めて)愛(アガペー)を識った。それ故に私達も又、兄弟(姉妹)のために魂(命)を捨てるべきである」(ヨハネ第一書3章16節) 清吉にとって、母親はキリストでした。母の愛に目覚めた時に、清吉は左手の火傷のことで母をうらみに思っていた不孝を悔い改めて、新しく生まれ変わりました。「私達がまだ罪人であった時に、キリストが私達のために死んで下さったことにおいて、神は愛(アガペー)を私達に示されたのである」(ローマ書5章8節)
 ある女が感謝に溢れてイエスに香油を注いだ物語は、4つの福音書に記されています。それらは互いに類似と相違点があります。イエスの上に一つの出来事が起こって、その話が人から人へと語り継がれて行くうちに、いろいろ変化が生じて、いくつかの異なる伝承が記録されたことが考えられます。マタイの記事(26・6〜13)は殆んどマルコと一致しています。昔は、マタイ福音書が余りにも完璧なので、それに類似しているマルコ福音書はマタイの要約にすぎないものとして軽視されていましたが、現代の聖書学者の綿密な研究の結果、マルコが最初に書かれ、そのマルコを台本にしてマタイとルカがQ資料(イエス語録)と各々の特殊資料を付加して福音書としたことが分かり、マルコの重要性が見直されてきました。この物語ではマタイはマルコの文章を多少手直ししただけで、大筋は変わりません。ルカの記事は大幅に変化していて、殆んど別の物語のような感じがいたします(7・36〜50) ヨハネは、自分流にマルコの記事に変化を加えながら、ルカの表現も利用しています。
 物語の土地がベタニヤであることは同じですが、その家は、らい病人シモンの家ではなくて、ラザロの家です。11章のラザロ物語のモチーフが続いているのです。マルタは例のごとく甲斐々々しく働いています。そして、イエスに香油を注ぐのは、無名の女ではなくて、マリアになっています。ちなみに、4世紀頃成立したD写本では、ベタニヤのマリアではなく、マグダラのマリアになっています。恐らくルカの記事の「罪の女」(7・37)に引かれたためでしょう。伝承が発展していく過程で、無名の者に名前が付けられたり、その名前が変えられたりすることはよくあることです。
 マリアの行為の動機は記されていませんが、兄弟ラザロを生き返らせていただいた感謝と、彼女個人のイエスに対する愛ではないかと推察されます。当時のユダヤの宴席では、低いテーブルの前に人々が左脇を下にして寝そべり、右手を使って食事をしました。その姿勢ですと、足に香油を注ぐことは可能です。しかし「イエスの両足に香油を塗り、自分の髪でその足をぬぐった」という表現は不自然です。ここにはルカの記事の「罪の女」の仕種が利用されているようです(7・38)「きちんと束ねていない髪は、娼婦にはふさわしいが、良家の女性には恥であると見なされていた。マリアがイエスの頭にではなく足に塗油したことは奇妙であるが、それを髪の毛でぬぐうことは全く考えられない。ヨハネが2つの異なる伝承を不手際にまぜ合わせたか、編集者が、マルコからと同様にルカからの語句を、ヨハネの特殊な記録の中に導入したかのどちらかであろう」(インタプリターズ・バイブル)
 伝承の過程で物語の内容が推移する傾向のあることは、女の行為を咎めた者についても言えます。マルコでは「ある人々」、マタイでは「弟子達」、そしてヨハネでは「イスカリオテのユダ」と変化しています。マリア対ユダ、というヨハネの構図は物語としては劇的になりますが、悪いことは裏切者のユダにかぶせて、他の弟子達が免責されるというのは公正ではありません。6節はヨハネの説明の言葉ですが、ユダに対する敵意が感じられます。それは当時のヨハネの教団のユダに対する感情が反映されていると見るべきでしょう。
 「この女(ひと)の自由にさせなさい。私の埋葬の日のために、彼女にそれをとっておかせなさい」7節。聖書協会訳や新共同訳のように「…とっておいたのだから」という訳も可能ですが、「とっておかせなさい」とも訳せるのです。ヨハネによれば、マリアはその時石膏の壺を壊さず、香油の一部を使ったので、その残りを貧しい人々に施さずに、イエスの埋葬の日まで彼女に保存させておきなさい、という意味になります。マルコと違ってヨハネの記録では、イエスの遺体を十字架から降ろした後、埋葬のための遺体の処置が丁寧になされ、香料もたっぷり塗られたのです(20・38以下)
 今日私達が学んだことは、福音書間の様々な相違を超えて、マリアのように、最上のものを主イエスに献げる、ということです。
 「いとよきものを 君に献げよ」を歌いながら、自分の「ナルドの香油」を、主に献げましょう。               1992年8月16日 礼拝説教

  「ナルドの香油」 (3)

 あるパリサイ人がイエスに、食事を一緒にしたいと願い出たので、彼はそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。すると見よ、その町に罪人である一人の女がいた。イエスがパリサイ人の家に入って食卓に着いておられることを知り、香油入りの石膏の壺を持ってきて、泣きながらイエスの足許に近寄り、涙で彼の足を濡らし始め、髪の毛で拭い、彼の足に接吻して、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で思った、「この人がもし預言者であるなら、自分に触れている女が誰で、どんな女か分かるはずだ。彼女は罪人なのだ」 するとイエスはその人に向かって言われた、「シモン、君に言いたいことがある」 彼は行った、「先生、お話下さい」(36〜40節)
 イエスは言われた、「ある貸し主に二人の負債者がいた。一人は500デナリ、他の一人は50デナリを借りていた。彼らが返済することができないので、彼は二人とも免除してやった。さて、二人の中、どちらの方が彼を余計に愛するだろうか?」 シモンは答えた、「余計に免除された方だと思います」 イエスは言われた、「君の判断は正しい」(41〜43節」)
 そしてその女の方を向いてシモンに言われた、「君はこの女(ひと)を見ているか。私は君の家に来たのだ。ところが君は私の足のために水をくれなかった。しかし彼女は涙で私の足を濡らし、自分の髪で拭いてくれた。君は私に挨拶の接吻をしてくれなかった。しかし彼女は私がこの家に入った時から、私の足に接吻して止まなかった。君は私の頭にオリーブ油を塗ってくれなかった。しかし彼女は香油(ミルラ)を足に塗ってくれた。それだから私は君に言うが、彼女は多く愛したから、彼女の多くの罪が赦されている。少ししか赦されていない者は、少ししか愛さないものだ」(44〜47節)
                        ルカ福音書7章36〜47節

 食事の席で一人の女が香油をイエスに注いだ出来事は、4つの福音書に報告されています。その中、マルコとマタイとヨハネの記事は一つの出来事の変化したものと考えてよいでしょう。その主題は、香油の浪費と埋葬のための塗油でした。今日学ぶルカの記事はどうでしょうか。同じ出来事の伝承の変化した形と考えるか、全然別の事件と見るか。判断が大変難しい。事件の背景は、イエスのガリラヤでの活躍中で、「その町」は多分カペナウムでしょう。イエスを食事に招いた人はシモンという名のパリサイ人で、香油を塗った女は「罪人」と呼ばれていました。多分、娼婦でしょう。その物語の主題は、他の福音書とは異なり、罪の赦しに対する感謝です。これだけ大筋が違っていると、全然別の事柄と考えた方がよさそうですが、イエスの短い公生涯の間に2度も女性から香油を塗られたということは有りそうもないとも思えます。
 今日のテキストのすぐ前に、洗礼者ヨハネとイエスについての世間の評判が書かれてあります。洗礼者ヨハネが来て断食や禁欲的な生活をしていると、「あれは気違いだ」と言い、人の子イエスが来て、神の恵みの賜物である食べ物やぶどう酒を楽しんでいると、「見ろ、あれは大飯食いの大酒飲みだ。おまけに取税人や罪人の仲間だ」と言う。このような悪口でも半分は真実で、二人の生き方をよく活写しています。イエスは確かに取税人や罪人のようには生きませんでしたが、彼らを軽蔑したり差別したりはせず、一緒に食事をしたり、彼らに神の愛と赦しを語ったりされていました。その罪人の実例として、「その町で評判の罪の女」が登場します。
 パリサイ人の家に娼婦が現われる。これは劇的です。パリサイ人の名はシモン。これはマルコの「らい病人シモン」から借りてきた名前のようです。ルカはこの名前と、香油入りの石膏の壺とイエスに香油を塗る場面をマルコの話から借りてきたらしいのです。それは、37、38、46節に出てくる香油の個所を除いても、物語の大筋には影響がないのを見ても明らかです。勿論それを入れた方が話は面白くなります。「罪の女」は無名ですが、4世紀頃成立したエフライム写本(D写本)によると、「マグダラのマリア」と名前が与えられています。「7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(8・2)という記事の影響であると考えます。従来のように四福音書の記事を調和させて読もうとすると、「一人の女」は、「罪の女」であって、「ベタニヤのマリア」であり、彼女は「マグダラのマリア」とも呼ばれていた、と相当に無理をして解釈しなければなりませんでした。
 彼女は、神の赦しの愛の福音をイエスから受け取り、感動の涙にあふれていて、イエスの足許に近寄り、涙で御足を濡らし、髪の毛で拭い、御足に接吻して、香油を塗りました。これは罪赦された魂をもつ娼婦の動作としては自然です。彼女は、できうる限りの感謝を動作で表わしています。パリサイ人はそれを見て、浪費のために彼女を叱るのではなく、イエスに批判の目を向けます。彼はイエスを預言者と見ています。預言者なら、その女の正体が見破れるはずだし、そんな汚らわしい女の接触を拒絶するはずなのに! パリサイ人は本当にイエスを見損ないました。イエスは彼が考えるような預言者ではなくて、罪人を受け入れ、人の内心の思いを察知できる超越者でした。「シモンよ、君に言いたいことがある」とイエスは語りかけられました。
 今日のテキストには、2つの異なる資料が織り合わされています。36〜40節が直接44〜47節aにつながる物語と、41〜43節の譬え話です。その2つは少々意味がずれています。譬え話の意味は、「多くゆるされた者は、多く愛する」ということです。物語の意味は、「多く愛する者は、多く赦される」ということです。その食い違いをルカは、47節bの言葉で調節しています。
 パリサイ人シモンは、イエスを賓客として丁重に待遇せず、貧しい巡回説教者に食事を提供することによって善業を積むことを考えていました。それと対照的に「罪の女」は、最高の持て成しをイエスに献げました。今日私達は、どちらの魂をもってイエスの御前に出ているのでしょうか? 「愛は多くの罪を覆う」(ペテロ第一書4章8節)とは、限りなく真実の言葉です。
                      1992年8月23日 礼拝説教

  「ユダの裏切り」

 それから12人の1人であるイスカリオテのユダは、祭司長達にイエスを引き渡すために、彼らの許に赴いた。彼らはそれを聞くと喜び、彼に金を与えることを約束した。そして彼は、どのようにしてイエスを引き渡そうかと、機会を求めていた。
                         マルコ福音書14章10〜11節

 先日、出会って感動した言葉があります。「私は、人間礼讃の側につく人々も、人間を責める側につく人々も、また、気晴らしをする側につく人々も、いずれも皆、正しくないと思う。私が正しいと認めることができるのは、ただ呻(うめ)きつつ求める人だけである」(パスカル) 私は楽観的な人生観、性善説、人間萬歳主義者ではありません。反対に、悲観的な人生観、性悪説、憂うつな禁欲主義者でもありません。また、瞬間的な快楽を求めて、気晴らしに時を費やすことは、つまらないことだと考えています。ただ呻きつつ、人生の真実と魂の救済を求めて、毎日聖書の言葉と取り組んでいます。聖書が指し示す問題は実に奥が深く、インスタントで画一的な解答が得られるものではありません。苦しみながら忍耐強く求め続けた末、ようやく真実の片鱗を垣間見ることが許されるほどのものです。真実は大変謙虚で内気なので、人目に曝されることを好みません。真実は厚顔無恥とは無縁のものです。真実の伝道者もまた同様です。(マタイ12・18〜21)
 10〜11節は、直接1〜2節に接続しています。祭司長や律法学者達といった神殿の権力者達が、過越祭の前に、一気にイエスを捕えて殺してしまおうと謀議しています。丁度そこへイスカリオテのユダが現れ、イエスを逮捕する手引きを申し出て、権力者達を喜ばせ、褒賞金を約束されます。そしてユダは何食わぬ顔をしてイエスの群れの中に入り、その機会をうかがいます。これが受難史における敵側の準備です。イエスの身辺に危機が迫っています。
 「12人の1人である」という言葉は、ユダの枕言葉のように福音書の中で使用されていますが、ユダ以外では一度だけ、イエスの復活を疑った時のトマスに使われています(ヨハネ20・24) するとこれは、イエスによって12弟子の中の1人に選ばれたにも拘わらず、という否定的な感覚で使われているようです。そのようにイエスの内弟子の1人として親しい交わりの中にあったユダが、何故イエスを裏切ったのでしょうか? マルコはその動機を語っていません。「これは受難史中、最も不明瞭な謎である」(ローマイヤー)
 マタイは、その動機をはっきりさせています。マタイによると、祭司長達の許に行ったユダの方から金の話を持ち出しています。「彼をあなたがたに引き渡せば、いくら下さいますか?」 すると直ちに「彼らは銀貨30枚を彼に支払った」(26・15) マルコによると、褒賞金はユダの密告の後で、権力者側から約束されたのです。ユダは、金銭欲のためにイエスを裏切ったのではないのです。しかしマタイは、ユダの金銭欲のためにしてしまいました。この方が分かり易いし、大衆受けします。しかし不正確になります。ヨハネも、ユダは泥棒で、共同体の金袋から金を盗んでいた、と言っています。(12・6) 貧しい巡回説教者の小さい群れの金袋の中にいくら入っていたというのでしょうか。中身をくすねると言っても、高の知れたものです。そう言えばマタイの「銀30枚」も彼の作文のような気がします。彼はその金額の根拠をゼカリヤ書11章12節の言葉に見出しました(マタイ27章9節参照 マタイの「預言者エレミヤ」は彼の記憶違い) マタイは、ユダヤ人の読者を意識して、しばしば旧約の言葉を引用し、こうして預言がイエスにおいて実現したのだと力説していますが、多少強引な場合もあるのです。
 マタイのように、ユダの裏切りの原因を金銭欲に限定してしまうと、私達はこの問題は解決済みとして、それ以上問題を追求しなくなり、真実が隠されたままに残されます。マルコのように、疑問を疑問のままに残しておくという精神は大切です。ユダに金銭欲は皆無だったとは言いませんが、それが重な原因ではなさそうです。
 ユダはマグダラのマリアを愛していたが、彼女はイエスを慕っていたので、その嫉妬が原因だったとか、ユダはペテロと順位争いをして敗れたので、というような話は空想にすぎません。イエスと神殿当局との対立が決定的となり、イエスの身辺に危険が迫っているのを感じて、ユダは己れの身を守るために強力な敵側に寝返ったことも考えられます。保身のために見方を敵に密告することは、よくあることです。
 ユダは、自分がイエスに裏切られたと考えたのかも知れません。ユダもペテロや他の弟子達と同様に、イエスが支配者ローマに反抗して民族を独立に導く英雄になることを期待していたふしも感じられます(8・32) その時ペテロは激しく叱られましたが、ユダは沈黙を守っていました。ペテロの道とユダの道がここで分かれたようにも思えます。その時弟子達は栄光のキリストをイエスに求めましたが、イエスは受難する人の子の道を明確に示され、弟子達にも主に従って十字架の道を歩くように命じられました。ユダはその時、そんなつもりでイエスに従ってきたのではないのだ、と内心で反抗していたかも知れません。
 12弟子の名簿(3・13〜19)を見ると、ペテロが筆頭で、「裏切り者ユダ」が最後です。そして11番目に熱心党のシモンがいます。熱心党(ゼロータイ)とは、ユダヤの愛国的民族主義者で、ローマの支配に対して武力闘争をもって国を独立に導くねらいをもった革命家達の党派でした。シモンはその党員でした。そしてその次にくるイスカリオテのユダは、イスカリオテ出身の、ということか、カリオテの人(イツシ)という意味か、はっきり分かりません。あるいは熱心党の中の過激派シカリウス(暗殺者、使徒行伝21・38)からきた言葉かも知れません。「ユダは熱狂(ゼロテ)主義に傾いており、イエスの消極的態度に失望したため、イエスに敵対する友人達と連絡を取り、最後にはイエスを行動に駆り立てて、すべてを自分の願う方向に動かそうとした、という想定には可能性がある」(E・シュヴァイツァー) いずれにしろこのようにして、神のキリストの受難劇が進行して行くのです。
                      1992年8月30日 礼拝説教