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マルコ福音書の研究

  「盲人バルテマイの救い」

 それから彼らはエリコに来た。そしてイエスと弟子達と大勢の群衆がエリコから出て行く時、テマイの子、バルテマイという盲人の乞食が道端に座っていた。彼は、ナザレのイエスだと聞いて、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい!」と叫び始めた。そこで多くの人々は彼を叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます叫び続けた、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい!」 そこでイエスは立ち止まって、「彼を呼べ」と言われた。彼らはその盲人を呼んで言った、「元気を出せ、立て、お前をお呼びだ」 すると彼は衣服を投げ捨て、跳び上がってイエスの許に来た。イエスは彼に答えて言われた、「君は私に何をして欲しいのか?」 盲人は彼に言った、「私の先生(ラボーニ)、再び見えることです」 そこでイエスは彼に言われた、「行け、君の信仰が君を救った(癒した)」 すると直ぐに彼は再び見えるようになり、その道を進んで行くイエスに従った。             マルコ福音書10章46〜52節

 イエスの一行は、終にエリコに到着しました。エリコは、いわばエルサレムの門前町で、エルサレム神殿に勤務する祭司が多く住んでいました。その辺りは海面下250メートルほどの低地であるため、亜熱帯性気候で、オアシスがあり、樹木が豊かに生い茂っています。エリコは昔から「なつめやしの町」(申命記34・3)と呼ばれていました。エリコからエルサレムまでは約27キロ、横浜−東京間程度の距離で、ユダの荒野の谷間、ワジ・ケルトに沿って、相当きつい登り坂になっています。
 イエスの一行には、イエスと弟子達と、ガリラヤからついて来た人達(15・41)と、大勢の群衆がいました。彼らは過越祭をエルサレムで祝うために旅をして来た巡礼者で、途中で道連れになった人達でした。恐らくイエスの一行はエリコで一泊して、町から出て行こうとした時に、道端に座っていた盲人で乞食のバルテマイの傍らを通り過ぎたのでしょう。バルテマイというのは、テマイの子という意味ですから、「テマイの子、バルテマイ」というのは妙な言い方です。彼はかねてから奇跡の人イエスの評判を聞いていたのでしょう。これこそ千載一遇のチャンスと考えて、大声で「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい!」と叫び始めました。「ダビデの子」というのは、ダビデ王の子孫というばかりでなく、当時のユダヤ人の間では、救世主(メシア)の別名でした。ダビデに対する神の契約(サムエル記下7章12節以下)によって、ダビデ王朝は永遠に続くと預言されていました。この預言は、ダビデ王朝が滅びた後も、終末論的な期待の中に生き続けていました。それで原始キリスト教団は、イエスこそダビデの子であり、ダビデ契約を実現するメシアである、と信じていました。それで、イエスをダビデの子と呼ぶのはクリスチャンの信仰告白なのです。マルコはこの称号を、この個所でしか使っていません。次に、盲人は「ダビデの子イエスよ」と信仰を告白していながら、そのあと「私の先生」(51節)と人間的な尊敬語で呼びかけるのは、調和しません。E・ベストはこのように説明しています。「それは物語の中で伝承の発展があったことを示す明らかな証拠である。"ダビデの子"という称号の使用は明らかに本来的なものではない。物語の現在の形からは特に来るべき"ダビデの子"が奇跡を行なうという期待は何もないからである。この称号は物語が伝承されている間にユダヤ人キリスト教団によって付加されたに違いない」。「私の先生」と言う呼びかけの言葉は、この盲人はイエスが偉大な奇跡の人であることを知っていて、彼の力によって「見えるようになること」を切望したのですから、マルコ以前の古い伝承を示している、と学者は指摘しています。
 「行け、君の信仰が君を救った(癒した)」52節a。その信仰とは何でしょう。「ダビデの子よ」と告白したことか。イエスの奇跡力を信じたことか。熱心に頼み続けたことか。いまひとつ納得できません。ここでは、このイエスの言葉によって目が見えるようになったと書いてありますが、これと同じ言葉が語られている「長血の女」(5・34)の物語には、信仰と癒しの関係が記されています。それで原(もと)の奇跡物語においては、何らかの治癒を語る記事がその前にあって、その盲人が開眼した後にイエスはこの言葉を語られたのであろう、と推測されます。ここで言う信仰とは、イエスの奇跡力に対する信頼です。同じ「信仰」という語を使っていても、十字架以前のこの段階では当然、「私達がまだ罪人であった時、キリストが私達のために死んで下さったことにより、神は私達に対する愛を示して下さった」(ローマ書5・8)、その神の愛に対する献身的な信仰とは、まだ程遠いところにあります。
 「彼は再び見えるようになり、その道を進んで行くイエスに従った」52節b。この言葉によって、8章27節から始まる「受難に向かうイエスの道」シリーズをマルコは締め括っています。その道の最後に、この盲人の開眼物語を配置したのはマルコでした。彼は、その道シリーズの直前にも、ベッサイダの盲人の開眼物語(8章22〜26節)を配置しました。マルコは、ベッサイダの盲人の開眼物語によって、第1部「ガリラヤ内外でのイエスの活動」を閉じ、今また、バルテマイの開眼物語によって、第2部「受難へ向かうイエス」にピリオドを打ちました。「マルコがこの出来事を取り上げた時、彼はそこに存在する象徴的な意味を知っていたものと思われる。即ち、肉体の視力の回復は精神的な洞察力の創造であるということを。しかし彼は52節bを加えることによって新しい象徴的意味を導入した。"見る"ということは、イエスと共に十字架の道を行くことである。強調点はもはや信仰を見出した弟子に置かれているのではなく、イエスに従ってイエスの道を行く弟子に置かれている。即ち、主題は弟子の道であり、その弟子の道は、苦難の道である」(E・ベスト)
 エリコの乞食、盲目のバルテマイは、イエスに目を開けて戴いて、イエスに従ってその道を進みました。マルコはそう書き記すことによって、彼の福音書の読者にも、バルテマイと同様に、イエスに従って十字架の道を歩くように勧めているのです。
                    1992年1月26日 礼拝説教

  「エルサレム入城」

 一行がエルサレムに近づき、オリブ山に沿うベテパゲ及びベタニヤまで来た時、彼は弟子の2人を派遣して言われた、「向こうの村へ行きなさい。そこに入るとすぐに、まだ誰も乗ったことのない子ろばがつないであるのを見るだろう。それを解いて、連れてきなさい。もし誰かが、"なぜそうするのか?"と言ったなら、"主がお入り用なのです。直ぐにここへお返しになります"と言いなさい」 そこで彼らは出かけ、子ろばが表通りの戸口につないであるのを見たので、それを解いた。すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばを解いてどうするのか?」 彼らはイエスに言われた通りに話すと、許してくれた。そこで彼らは子ろばをイエスの許に連れてきて、その上に自分の上着を置くと、イエスはその上に乗られた。すると多くの人々が上着を道に敷き、他の人々は野原で切り取ってきた葉のついた枝を道に敷いた。そして前に行く人々も、後に従う人々も共に叫び続けた、「ホサナ、主の御名において来たるお方に祝福あれ! 我らの父ダビデの来るべき王国に祝福あれ! いと高き所に、ホサナ」                    マルコ福音書11章1〜10節

 イエスの一行は終に聖都エルサレムに到着しました。その日は、ニサンの月の10日、日曜日でした。ここからマルコ福音書の第3部が始まります。記者マルコは、この第3部の「最後の週間」を目指して、第1部と第2部を語ってきたことは明らかです。「ガリラヤの春」と言われている活動期。ピリポ・カイザリアから、十字架を目指して歩みを進めるエルサレムへの道行き。その途上での3度に渡る受難予告。そしていよいよユダヤ人が全世界の中心地と信じていた聖都での1週間が始まるのです。これからマルコは、日記をつけるように、日付けと事件とを書き記します。マタイとルカは、マルコの「枠」を忠実に守っています。第1日〜第3日の出来事は11章〜13章に記され、第4日〜第6日の出来事は「受難の記事」として14章〜15章に記され、16章は復活に関する記事です。
 さてイエスの一行がエリコからユダの荒野の中の上り坂の道を歩いて、オリブ山腹にあるベテパケとベタニヤ付近まで来ました。そこからオリブ山頂に登ると、急に視界が広がって、ケデロンの谷間の向こう側に、城壁に囲まれた神の都エルサレムがパノラマ状に望見できます。ベタニヤ付近は安息日に許された距離の範囲内にあったので、そこで旅装を正して、エルサレムに入るつもりでした。
 今日のテキストで学者は、1節aと8〜10節を古い第1資料、1節b〜7節を新しい第2資料と考えています。第1資料によると、イエスの一行がベタニヤ付近にさしかかると群衆が、恰も王に対して敬意を表すように、イエスの前に上着を敷いて彼の歩く道を造りました(列王記下9・13)。その場合、イエスは徒歩でした。第2資料は聖者伝説的になっています。重要な場面には聖者は乗り物に乗るのです。イエスは未来を予見する投資能力をもっていて、弟子達に子ろばの調達を命じます。すると、すべてがイエスの言う通りに事が運んだという話で、これは14章12〜16節にある最後の晩餐の部屋を調達する話とよく似ています。メシアが子ろばに乗ってエルサレムに凱旋するという情景はゼカリヤ書9章9節に預言されており、イエスがその通りにされたことは、その預言を実現したものであると証ししているのです。メシアは平和の王として、軍馬ではなく、庶民や女の乗り物であるろばに乗るのです。しかも聖者の乗り物に相応しい未使用の子ろばに乗って来るのです。
 ガリラヤの預言者として尊敬されていたイエス(マタイ21・11)がエルサレムに近づいた時に、ガリラヤからの巡礼者として従ってきた群衆が、昂揚した精神状態になって、自然発生的に来るべきメシアとその王国を讃美する歌を歌ったとしても不思議ではありません。「ホサナ、主の御名において来るお方に祝福あれ!」 これは詩篇118篇25〜26節の引用ですが、自由に変形させています。ホサナは、ホーシーアンナというヘブライ語からギリシャ語への音写で、「主よ、お救い下さい」という意味の神への呼びかけの言葉です。しかし時の経過と共にそれが転意して、神をほめたたえる歓喜の叫びになりました。この詩篇の言葉は元来、都詣での巡礼者達を、エルサレムの住民達が歓迎して呼びかける歌声でした。「主の御名において来る者達に祝福あれ! 我らは主の家(神殿)からあなたを祝福します」 しかしマルコ福音書では、この歌声はエルサレムの住民からではなく、イエスに従って来た巡礼者達から湧き上がってきたのです。そしてここでは「主の御名において来るお方」は、唯一の人=メシアを指しています。これはイエスに対する讃美の歌声のように思われますが、そうではありません。イエスはメシア=キリストであるということは、この福音書の読者には始めから明らかにされていますが、弟子達にも民衆にもそれは秘密にされていました。悪霊達はそれを知っていました。弟子達が初めてその秘密を発見したのは、ピリポ・カイザリアでのペテロの信仰告白においてでした。「あなたこそメシア=キリストです」(8・29)。しかし民衆はその秘密を知らないままでいるのです。民衆はメシアの到来を待望していましたが、彼らの中にいるイエスがそれだとは気付いていないのです。ですからこの「ホサナ」は、来るべきメシアに向けられているのです。しかしマタイ福音書では民衆の讃美は、直接イエスに向けられています(21・9〜11)。
 「我らの父ダビデの来たるべき王国に祝福あれ!」 これは詩篇からの引用ではなく、民衆の願望の声であり、政治的なダビデ王国の再現を夢見ているものです。イエスは神の国を宣教したのであって、決してダビデの王国ではありませんでした。これはペテロの失敗(8・27〜33)の再現です。マルコはここで再び、イエスに対する正しい期待と偽わりの期待について語っているのです。盲人乞食バルテマイは、イエスに眼を開けられて、十字架の道を行くイエスに従いましたが、「ホサナ」を叫ぶこの群衆は、盲目のままでいるのです。
                      1992年2月2日 礼拝説教

  「枯れた無花果(いちじく)の木」

 翌日、一行がベタニヤを出る時、イエスは飢えた。そこで、遠くから葉の茂ったいちじくの木を見て、身がなっていないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。そこで彼はその木に言われた、「今後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」 弟子達はこれを聞いていた。
 翌朝早く、一行が通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこでペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらん下さい。あなたが呪われたいちじくの木が枯れています」      マルコ福音書11章12〜14節、20〜21節

 よく分からない話です。これは誰が考えてもイエスの側に無理があります。彼は空腹を満たそうとして葉の茂ったいちじくの木に近寄って見たが、実がついていなかった。いちじくの季節ではなかったのですから当り前です。しかしイエスはその木を呪って立ち去った。翌朝そこを通りかかると、その木は根元から枯れていた。見当違いをしたのは他ならぬイエスだったのに、カンシャクを起して木に八ツ当りして、木を枯らしてしまった。可哀想に!
 矛盾があります。イエスは、子ろばの調達の時には透視能力を使っていながら、なぜここではそれを使わないで、その木に近寄って肉眼で確かめて見なければ分からなかったのでしょうか。しかもその直後には、木に呪いをかけて枯らしてしまうという超能力を使っているのです。「マルコはこの短い情景を伝承から受け入れた。なぜなら13節bの知ったかぶりをした注釈の背後に存在する食い違いは、この物語が同一人の手になることを信じ難くしているからである。誰も、一つの物語がそれ自身に矛盾していることを示すために物語を書いたりはしない」(リールマン) 学者は次のように推理しています。この伝承は、当然いちじくの季節の話であったが、時を示す言葉はなかった。マルコはこの伝承をここに持ち込んだ時に、12節を付けて情況を設定した。しかし、そのために季節外れということが起こってしまったので、13節bの注釈を加えねばならなくなった。そもそもマルコがこの話をここに持ち込んだことが、失敗だったのである。
 マルコはこの話を、神殿粛清の事件の前と後に分けて、サンドイッチ状に記していますが、マタイはそれを変更させて、エルサレム入城の直後に神殿粛清の事件を記し、その翌朝、いちじくの木を呪うと、その木はたちまち枯れてしまったと書いて、イエスの呪術力を強調しています(21・19)。ルカはこの話を省きました。彼はギリシャ・ローマ世界にキリストの福音を広める目的をもっていましたので、迷信的要素の濃い伝承を採らなかったのです。
 この話は外典や偽典に多く見られる荒唐無稽な類の話で、福音書全体のイエスに似合わないものです。イエスがエルサレムへの旅の途中、サマリヤ人の村に入った時に村人から宿泊を拒絶されました。ヤコブとヨハネが憤慨して、「天から火を下して、この村を焼き払いましょうか」と尋ねた時に、イエスは彼らを振り返り、強く戒められて、別の村へ行きました(ルカ9・51〜55)。「この物語はイエスの心と全く矛盾している。イエスは、かつてサマリヤ人が滞在を拒んだ時にも、彼らを罰することを欲しなかったのである。イエスは、自分を痛い目に会わせた腰掛けをぶつような子供ではないのである。彼は、木が罪を犯すことのできる人格ではないことを知っている。そんなにも多くの注解者が、このような問題性をどれだけの無関心さと盲目さで受け取ったかは驚きに値する。そう反省するならば、我々はここでは後の時代の伝説の領域に入りこんでいることを知る。この伝説の立場からすれば、木がその主に要求された果実を提供しなかったことは、たとえ無花果の季節がどうであれ、主権者を侮辱した罪を犯したことになるのである」(ヘンヘン)。
 この伝説の発生についてはいろいろな説があります。ベタニヤとエルサレムの間の道端に一本の枯れた無花果の木があったが、後に、イエスが呪って枯らしたのだという伝説が生まれた。また、ルカ福音書13章6〜9節に、実を結ばない無花果の木のたとえ話がある。ぶどう園の主人が、そこに無花果の木を植えて実のなることを楽しみにしていたが3年待っても実をつけなかったので、作男にその木を伐り倒せ、と命じた。しかしその作男は木に対する愛情をもっていたので、もう一度ベストを尽くして世話をしてみますから、どうぞもう1年待って下さい、と執り成しの願いをした。同様に、実を結ばない無花果の木であるイスラエルに対する神の怒りとイエスの執り成しを語りつつ、葉ばかり茂って実を結ばない神殿礼拝や律法主義を批判したのである。
 「12〜14節の記事は20〜21節で完結する。マルコはこういう手法を好んで用いるので、彼はおそらく意図的に、イエスが無花果の木を呪われた話を、神殿粛清の枠として用いたのであろう。実のなる季節ではないのに、イエスが無花果を求め、実が一つもないからといって、その木を呪われたというのは、奇妙な話である。その上これは、エルサレムで行われた唯一の奇跡であり、そもそも彼が呪ったという奇跡は、これ以外に存在しない。この話の背後には、無花果をまだ収穫できぬうちに神の国が到来すると期待していた、一つの黙示思想の言葉がひそんでいたのであろうか。だがこの期待は2、3ヶ月もたたぬうちに、その誤りが実証されたはずである。それよりもむしろ、この呪いの言葉は始めから、実をもたらさぬイスラエルもしくは律法学者や祭司達に対する反対意志を表明するための、預言者の行った象徴行為に類する一つの徴(しるし)と解されていたのである(エレミヤ8・13、ヨエル1・7、ミカ7・1他)。そうだとすれば、ルカ福音書13章6〜9節に似たようなイエスの言葉に基づいて、この物語が成立し、彼の威嚇の厳粛さを強調するため、語り伝えられていった可能性がある」(E・シュヴァイツァー)
 ああ、よかった。イエス様は無花果の木を呪って枯らしてしまうようなお方ではなかったと知っただけでも、よい学びができました。大収穫でした。御一緒に感謝の祈りを捧げましょう。
                       1992年2月9日 礼拝説教

  「神殿の粛清」

 それから彼らはエルサレムに来た。イエスは神殿に入り、神殿の庭で売り買いしていた人達を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを投げ倒し、また誰も器物を持って神殿の庭を通るのを許されなかった。そして彼は教えて言われた、「"わたしの家はすべての国民のための祈りの家と呼ばれるべきだ"と書いてあるではないか。しかるにお前達は、これを強盗の巣窟にしてしまった!」 すると祭司長達や律法学者達はこれを聞き、どうにかしてイエスを殺そうと企んだ。民衆が皆、彼の教えに驚嘆していたので、彼を恐れていたからである。  マルコ福音書11章15〜18節

 マルコの日付けによると、この事件はイエスのエルサレム入城の翌日、ニサンの月の11日(月)のことです。マタイはこれを、エルサレム入城の直後の出来事として記しています。(21・12〜17) ヨハネは、共観福音書の構成とは異なり、神殿粛清の事件をイエスの公生涯の初期に置いています(2・13〜22) ヨハネ福音書のイエスは、数回エルサレムに行っていますが、大祭の度に都詣でをするのは、敬虔なユダヤ教徒の習慣に適っています。しかしマルコ福音書のイエスは、都詣でをする巡礼者の一人として上京したのではなく、そこで「受難する人の子」として上京したのです。
 マルコは無花果の木の出来事を、神殿粛清の前と後とに分けて記しています。つまり「サンドイッチ」を作ったのですから、その両者には深い関係があるのです。
 イエスの一行のエルサレム滞在中の宿泊場所は、エルサレム近郊のベタニヤ村でした。彼らは期間中、そこを往復します。現在、オリーブ山から神殿の丘を眺めると、中央に黄金のドーム(オマール・モスク)の建物があり、その左手に銀のドーム(エル・アクサ・モスク)の建物が見えますが、イエスの当時には、その辺りにヘロデ神殿の「王の柱廊(ハヌヨード)」があり、それから内側に「異邦人の庭」がありました。そして「王の柱廊」の地下にドーム型の天井をもつ広いホールがありました。多くの注解者は、神殿粛清事件の場所を「異邦人の庭」としていますが、近年その場所の発掘に当ったB・マザール教授によると、それは「地下のホール」であったと言っています。「…重要なことはサンヘドリンの集会が王の柱廊で開かれたことである。また王の柱廊の地下では両替商や祭儀用の物品を扱う商人たちの営業も認められていた。王の柱廊は、一般の人々の眼には、仕切りの壁の向こう側にある神聖な区域とは区別されていたはずである。しかし、このような"近代化"の傾向は、厳格な宗教観念をもった一部の人々を苛立たせた。一方では、多くの人々が王の柱廊を"半ば神聖な地域"と見なしたが、その者達はそうした一連の変化、とりわけ礼拝の行為の場所で商売が営まれることを苦々しい思いで見ていたに違いない」 (B・マザール「エルサレムの発掘」)
 イエスが両替商人の机をひっくり返したり、鳩の商人の腰掛けを投げ倒したり、縄でむちを作って羊や牛を追い出したり(ヨハネ2・15)、祭儀用の器具を運ぶことに抗議したことは、敬虔なユダヤ教徒としての宗教的感情の発露の行為だったのでしょうか。イエスは、世俗的な商業主義や、その背後に潜んで利得を貪る祭司階級に反対して怒りを発し、神殿における礼拝を正しい姿に戻そうとしたのでしょうか。しかし、一時的な義憤に駆られてこのような粛清を行ったとしても、祭司階級や御用商人の存在と深い関わりをもっている神殿宗教の本質に少しのダメージをも与えることはできなかったでしょう。イエスはそのような「改革者」ではなく、更にラディカルな革命家でした。マルコが神殿粛清の記事の前後に、無花果の木の出来事を記した意味がそこにあるのです。
 無花果の木は、実際の木ではなくて、それはイスラエル宗教の象徴でした。「主は言われる、わたしが集めようとした時、ぶどうの木にぶどうは無く、いちじくの木にいちじくは無い」(エレミヤ8・13) 葉ばかり茂って果実のない無花果の木は、イエスが見た神殿宗教の姿でした。その見解は、マルコの見解であり、原始キリスト教団の、ユダヤ教に対する批判的見解であったかも知れません。そしてイエスの言葉によって無花果の木が根元から枯れたということは、神殿宗教の消滅を意味していました。それは弟子の一人が、ヘロデ神殿を見て「先生、見て下さい。何と驚くべき石、何と素晴らしい建物なのでしょう!」と言った時に、イエスは「君はそれらの大建造物を見ているのか。それらが跡形も無く崩されてしまう日が来るだろう」(マルコ13・1〜2)と言われたことと符合します。
 「わたしの家はすべての国民のための祈りの家と呼ばれるべきだ」17節a。これはイザヤ書56章6〜7節からの引用ですが、そこでは、エルサレム神殿で祭儀を守り、祈りを捧げるのは、ユダヤ人のみではなく、すべての異邦人も同様に行うようになる日が来るという預言の言葉ですが、ここではその意味を自由に変更して、神の家は、神に犠牲を捧げるための場所ではなく、神に祈りを捧げるための場所であるべきであり、しかも、ユダヤ人のみではなく、すべての国民のための場所であると言っているのです。更にこの問題を先に進めれば、「君達が、この山でもエルサレムでもない所で、父上を礼拝する時が来る…本当の礼拝者が、霊と真理とをもって父上を礼拝する時が来る。そうだ、今その時は来ているのだ」(ヨハネ4・21以下)とイエスが言われているように、もはや地上には特定の聖所は無く、イエスの名において父上を礼拝する真の礼拝者が存在するその場所が、聖所になるのである、と言うのです。
 「しかるにお前達は、これを強盗の巣窟にしてしまった!」17節b。これはエレミヤ書7章11節からの引用です。「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前達の目に強盗の巣窟と見えるのか。その通りだ。わたしにもそう見える、と主は言われる」
 このような根源的(ラディカル)な真理を語るイエスに対し、民衆は感動し、驚嘆して彼に賛同する雰囲気になり、他方、神殿祭儀の権力をもつ「祭司長達と律法学者達」といったユダヤ議会(サンヘドリン)の議員達は、危険を感じて「どうにかしてイエスを殺そうと企んだ」のでした。
                      1992年2月16日 礼拝説教

  「信仰の力」

 するとイエスは答えて彼らに言われた、「神に対する信仰を持て! アーメン、私は君達に言う、誰でもこの山に向かって、"起き上がれ、そして海の中に飛び込め"と言い、心の中で疑うことなく、言ったことは必ず起こると信ずるならば、その通りに成るであろう。この故に私は君達に言う、君達が祈って求めるものはすべて、すでに頂戴したものと信じなさい。そうすればその通りに成るであろう。また、君達が立って祈る時はいつでも、誰かに対して恨み事があるならば、赦しなさい。それは天にいます君達の父上も、君達の過ちを赦して下さるためである」
                         マルコ福音書11章22〜25節

 マルコの日付けによると、イエスはニサンの月の10日(日)にエルサレムに入城され、11日(月)に無花果の木を呪った後、神殿の粛清を行なわれました。そしてその翌朝、即ち12日(火)の朝、イエスの一行は神殿に向かう途中で、前日イエスに呪われたあの無花果の木が根元から枯れているのを見ました。先週学びましたように、葉が茂っていながら果実のない無花果の木を、豪壮な大建築と、大勢の参拝者で賑わう神殿宗教の象徴(シンボル)であると考えると、イエスの神殿粛清の行為を、大和言葉で「宮清め」と訳すのは、不十分かつ不適切であることが分かります。「宮清め」では、お宮のお祓いかお掃除ぐらいの語感しかありません。イエスの意(こころ)は、神殿宗教の全面否定(13・2、ヨハネ2・19)にあったはずですから、神殿の粛清(パージ)(追放)と言わねばなりません。
 神殿の祭儀に必要な犠牲獣や鳩を参拝客に売る商人や、国外からの巡礼者のために外国の貨幣を、神殿の献金や税金に通用するユダヤの貨幣に交換する為替商人に対して、許可や認可の権力を持っていた神殿当局は、さすがにイエスの行為の本質を見抜いていました。「祭司長達や律法学者達はこれを聞いて、イエスをどのようにして殺害しようかと謀った」(11・18)。そう考えると、この神殿粛清事件は、ユダヤの政治的、宗教的権力に対する、イエスの命がけの挑戦であったことが分かります。後に、裁判の時に、この事件がイエスの有罪の決め手にされました(14・58)。 ペテロが、根元から枯れた無花果の木を見て、イエスに言いました、「先生、ごらん下さい。あなたが呪われた無花果の木が、枯れています」21節。「するとイエスは答えて彼らに言われた…」22節、とマルコはつないでいますが、その接続があまりうまく行っていません。ペテロの言葉に対して、イエスは「彼らに」答えています。また、それ以後の「信仰の力」についての言葉は、マタイでは弟子達がテンカンの子供から悪霊を追い出すことができなかった時(17・20)にも使われていますし、ルカでは弟子達が「私共の信仰を増して下さい」と願い出た時(17・5)に使われています。マルコはこの個所に、22〜25節の「信仰の力」を語っている資料の断片を貼り合わせたのでしょう。そしてマルコがそれによって読者に語りたかったことは、「神に対する信仰を持て!」22節b、ということだったと考えます。この「信仰」こそ、イエスが、葉の生い茂る無花果の木(神殿宗教)の中に探し求めても、見出すことのできなかった「果実」だったのでしょう。「わたしが集めようとした時に、ぶどうの木にぶどうは無く、いちじくの木にいちじくは無い」(エレミヤ8・13)。そしてこの信仰がなければ、たとえ神殿の大祭に参拝者が数十万人、数百万人集まったとしても、所詮は葉ばかり茂って、その中に果実のない無花果の木に等しいでしょう。そのような「無花果の木」に、神の御意(みこころ)を自(みずか)らの意として生きているイエスが、呪いをかけて、根元から枯らしてしまったとしても、不思議ではありません。バブル経済、バブル企業、バブル宗教、バブル政治に湧いている現代日本のバブル社会の中に、「呪われた無花果の木」を私達は見逃してはなりません。信者の数や会堂の立派さを価値の基準にしているキリスト教会も又、同じ呪いの下に置かれています。世間の評判や富の多さを追い求める個人も又、同様です。「私は君達に言う、神は速やかに裁いて下さるであろう。しかしながら、人の子が来る時、果たして地の上に信仰を見出だすだろうか?」(ルカ18・8)
 聖書の言う「信仰」は、世間にありふれているようなものではなく、高価な宝石よりも稀少なものです。「アーメン、私は君達に言う、もし君達に芥子粒(けしつぶ)ほどの信仰があれば、この山に向かい、"ここからあそこへ移れ"と言えば、移るであろう。そして君達に不可能なことは何も無くなるであろう」(マタイ17・20)
 「固き心の一徹は 石に矢の立つためしあり」と昔の歌にありましたが、それは信念の強さをたとえたものです。しかしここで言う「山を移すほどの信仰」の力の源は人間の信念や念力にあるのではなく、全知全能の神にあるのです。「動かざること山のごとし」 日本では、山は不動のものの代表です。聖書の世界でも同じです。しかし、不動の山と言えども、それが神との交わりの障害になるならば、取り除かれねばなりません。「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。大いなる山よ、お前は何物か、ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば、見事、見事と叫びが上がる」(ゼカリヤ4・6〜7) バビロン捕囚から帰還した人々は、ゼルバベルの指導の許に第二神殿の再建に励みました。その際、山を切り通して巨石を運搬することに成功した時の言葉がここに記されています。紀元前6世紀末期のことでした。武力によらず、権力によらず、神の霊に励まされた信仰によって、山が平らにされ、巨石が運ばれたのです。その事跡が、「山を移すほどの信仰」という表現を生み出したのかも知れません。「マルコにとっては、この呪いが神殿粛清の枠になっているのだから、23〜25節は呪いの力を説明するのではなく、むしろ"祈りの家"という言葉の説明になっているのである。これによってマルコは、愛によって生きる信仰を、奇跡的な信仰の業績に対置しているコリント第一書13章2節に、きわめて接近している」(E・シュヴァイツァー)
                      1992年2月23日 礼拝説教

  「権威をめぐる論争」

 イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老達が来て言った、「何の権威で、これらのことをするのか? 誰がそれらをする権威をあなたに与えたのか?」 イエスは言われた、「では、一つ尋ねるから、私に答えなさい。そうしたら、何の権威で私がこれらのことをするのかを言おう。ヨハネの洗礼(バプテスマ)は天からのものだったのか、それとも、人からのものだったのか? 私に答えなさい」 彼らは互いに論じ合った、「もし"天から"と言えば、"では何故ヨハネを信じなかったのか?"と言うだろうし、もし"人から"と言えば…」 彼らは群衆を恐れていた。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで彼らはイエスに答えた、「私たちは知らない」 そこでイエスは言われた、「では私も、何の権威でこれらのことをするのかを、あなた達に言わない」        マルコ福音書11章27〜33節

 「ヘロデの神殿をまだ見ぬ者は、麗しきものを見たとは言えぬ」 これは当時のローマ世界での流行語でした。それは紀元前20年頃に着工され、その10年後に落成したのですが、その後も工事が続行し、紀元64年に完成されました。実に84年の歳月をかけて、豪華絢爛たる大神殿が出現しました。「先生、ごらんなさい。何という見事な石、何という立派な建物でしょう!」(13・1) 紀元30年頃、まだ工事続行中の神殿を訪れたイエスの一行中の一人の弟子が驚嘆の声を上げました。「この神殿を建てるのに、46年もかかっているのだぞ。なのにあなたは3日間で、それを建て直すと言うのか?」(ヨハネ2・20) これは、イエスの論敵の言葉です。
 「君はこれらの大建造物を見てそう言うのか? やがて、ただの石ころだらけの場所に化してしまうであろう」(13・2) これは先の驚嘆の声を上げた弟子に対するイエスの言葉です。この大神殿が完成したのが64年で、ユダヤ人がローマに反乱を起こしたのが66年。そして70年にはエルサレムは陥落し、神殿は炎上焼失してしまいます。イエスの預言通りになりました。今ではわずかに神殿の西壁の石だけが、当時の栄光の面影を見せています。色即是空。
 大神殿ができると、そこで毎日盛大な祭儀が行なわれ、大祭日には国内国外から数十万人という参拝者や巡礼者が集まります。又、神殿の「王の柱廊」では最高法院(サンヘドリン)が開かれて、そこは政治の中心地でもありました。宗教と政治と商業が結託したら、どういうことになるか。これは、サタンの3つの問い(マタイ4・1〜11)の問題です。イエスが無花果の木を呪って、これを根元から枯らしたエピソードと、荒縄をつくって神殿を打った事件は、神殿宗教に対するイエスの裁きを表わしています。「わたしの家は全ての国民の祈りの家と呼ばれるべきだ、と聖書に書いてあるが、それをお前達は強盗の巣窟にしてしまった」(11・17)。イエスは神殿宗教を改革しようとしたのではなく、それを打壊して、御自身の復活体の上に、「生ける新しい神殿」(ヨハネ2・21、コリント第一書3・16〜17、6・19)を建てようとされたのです。
 神殿粛清の翌日、イエスが神殿の境内を歩いていると、最高法院の議員達がやってきました。「祭司長達」は神殿貴族の家柄であるサドカイ派の人々です。彼らは神殿祭儀を司る権力者で、与党でした。「律法学者達」はパリサイ派の代表で、各地にある会堂を中心にして、民衆に律法を教えたり、律法の判例に従って裁判をしたりしていた人々で、野党でした。「長老達」は、平信徒の代表で、昔ながらの伝統や慣習を重んじる「おじいさん」でした。マルコはこの三者によって、宗教的、政治的権力の座である最高法院のすべてを代表させているのです。
 「あなたは何の権威、何の資格、誰の許可を得て、あんなことを行なったのか?」と、彼らはイエスに尋問しました。イエスの神殿粛清の行為には、人間的な権威や資格や許可の裏付けが何もありませんでした。イエスは神の御指示によってのみ行動する、独立独歩の自由人でした。それはいわば、「聖なる衝動」に駆(か)られて行った行為でした。彼らはイエスにその資格を問うことによって、彼は答えに窮するだろうと考えていました。しかしイエスは彼らと同じレベルの人間ではありませんでした。本当は、彼らは「何の権威によって」と問わないで、イエスの行為そのもの、彼の主張そのものを真剣に受け止めて、その中にある真理を問うべきだったのです。
 イエスは彼らの問いに直接答えず、反問することによって、彼らを真理の前に立たせようとされました。「ヨハネの洗礼は、天からのものだったのか、それとも、人からのものだったのか? 答えなさい」 彼らにとってバプテスマのヨハネも又、始末に負えない自由人でしたが、ヘロデ・アンテパス王によって殺されていました。民衆は洗礼者ヨハネを預言者と信じ、殉教者と崇めていました。イエスを追い詰めたつもりの彼らは、逆に追い詰められてしまいました。「天から」と答えれば、イエスは「私もそうだ」と言ってくるかも知れない。何しろ民衆はイエスを「ガリラヤの預言者」と認めているのだから。あるいは、「では何故、ヨハネを信じなかったのか?」と突っ込まれるかも知れない。ヨハネは終末の預言者として「悔い改め」を宣教したのに、彼らはそれに応えず、神殿の権威に依り頼んで、昔ながらの儀式を行なってそれで足れりとしていたのです。「では、もし人から」と言えば…。それはヨハネを信じている民衆を敵にまわすことになる。その時、彼らの前に2つの道がありました。イエスの真理を認めて悔い改める道がその1つ。しかし彼らが選択したのは他の、救われない方の道でした。「私達は知らない」
 「彼らは、知らぬというところにしか留まることができなかった。つまりこれは、一切決断を回避し、すべてを未解決にしておこうとする人間の態度であって、そういう人々には、神がイエスにおいて、直接その前に立ち現れたとしても、御自身を彼らに与えることはできないのである」(E・シュヴァイツァー)
 「では私もあなた達に言わない」 イエスの沈黙は無言の裁きです。恐るべきかな。
1992年3月1日 礼拝説教

  「二人の息子の譬」

 「あなた達はどう思うか。ある人に二人の息子がいた。先ず長男の所に行って、 "息子よ、ぶどう畑へ行って働いてくれ"と言った。しかし彼は考えて、"いやです"と言ったが、後から悔いて、出かけた。次に次男の所に行って、同じ様に言った。しかし彼は考えて、"はい、主よ"と言ったが、行かなかった。この二人のうち、どちらが父の意志を行ったか?」 彼らが「長男です」と言うと、イエスは言われた、「アーメン、私はあなた達に言う、取税人と売春婦とはあなた達より先に神の国に入る。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示した時、あなた達は彼を信じなかったが、取税人と売春婦とは彼を信じたからだ。しかしあなた達は、それを見たにも拘らず、後から悔いて彼を信じようとはしなかった。」       マタイ福音書21章28〜32節

 この譬は、マタイの特殊資料です。マタイは「権威をめぐる論争」を殆んどマルコ福音書から借用しましたが、少し変えました。マルコの「イエスが神殿の境内をぶらぶら歩いていると」(11・27)という表現を、もっと品位をもたせて、「神殿の境内で教えておられると」と変更させました。それによって、最高法院の議員たちの「何の権威でこのようなことをしているのか?」というイエスに対する尋問は、神殿の境内で教えを説くイエスの資格を問う意味に変わりました。正式な学校を卒業して、教師の資格をもち、高徳な人物のみが、神殿の境内で教えを説くことができたのです。
 「権威をめぐる論争」は、イエスの「それなら、何の権威でこれらをするのか、私も言わない」という言葉で終わっていますが、マタイは「あなた達はどう思うか」とイエスが言葉をつないで、反撃に出たように記しています。今日のテキストの28節b〜31節aは、真正のイエスの言葉であると学者達は見ています。
 話の内容は簡単ですが、写本の問題があります。聖書の原本は残っていませんが、かなり信頼できる数種類の写本が残っているのです。今日のテキストは写本によって3種類の相違が見られます。聖書協会訳ですと、父親の依頼に答えて、長男は「はい」とよい返事をしたが、行かなかったのです。次男は「いやです」と答えたが、後で思い直して、行ったのです。そして父の望みを叶えたのは、次男でした。これはヴァチカン写本に依っています。新共同訳ですと、長男と次男の態度が反対になっています。父親の言葉に対して、長男は「いやです」と答えましたが、後で心を変えて、出かけました。次男は調子よく「はい」と返事をしたが、結局は行かなかった。父の願い通りにしたのは、長男でした。これはシナイ写本とエフライム写本に依っています。3番目のはベザ写本ですが、これは奇妙な話です。話の進行は第2のものと同じで、長男は「いやです」と言って行ったのですが、次男は「はい」と答えて行かなかったのです。ところが、「この二人のうち、どちらが父の意志を行ったか?」とのイエスの質問に対して、神殿の権力者たちは「次男です」と答えたのです。この場合、彼らはイエスの予想を裏切って、わざと反対の返事をしたことになります。そうすると31節b〜32節のイエスの言葉は、譬の解釈ではなくて、彼らに対する叱責の言葉になります。この説は今日支持されておりません。問題は第1と第2とでは、どちらが原形であるかですが、学者の意見は分かれています。写本の権威では第1の方が有力ですが、今日では大体、第2の方が正しいとされています。理由を上げると(1)長男がすでに「行く」と言ったのだから、次男に頼む必要はなかったはず。(2)次男が「いやです」と言っておいて、後で悔い改めて「行った」話を最後にした方が話の筋がよく通るので、そう訂正したと考えられる。(3)最初にユダヤ人(長男)、次に異邦人(次男)とした方が、キリスト教的救済史の順序に適っているので、原始教会によってそのように改められた。とにかく第1が第2に書き変えられたと考えるよりも、その反対の方が事実らしいと言うのが、今日の学説になっています。それで新共同訳は、シナイ写本の説をとっています。
 「父−息子−ぶどう畑」という構成において、神と人間との関係が語られています。面白いことに、父の要請に対して、「はい」と言ってその通りに行えば一番よいのですが、そういう例はありません。ユダヤ社会のエリート達は、神から与えられた律法を熱心に守ることによって、最初神に対して「然(しか)り」と言ったのですが、彼らはイエスを拒絶しました。マタイによれば、イエスに対する「否(いな)」は、神に対する「否」と等しいのです。従って彼らは最終的に神に対して「否」と言ったのです。取税人や売春婦達は、神の律法を守らなかった。これは最初の「否」でしたが、彼らはイエスの福音を受け入れて、イエスをキリストと信じました。彼らは神に対して最終的に「然り」と言ったのです。「イエスとの関係において、人間の神に対する真の関係が生ずる。これがこの譬の隠れたキリスト論的な面である。その際に、イエスに対する"否"において、結局神に対する"否"であることが明らかとなる義人の"然り"と、イエスに対する"然り"において、結局神に対する"然り"であることが明らかとなる罪人の"否"とが考えられていることに疑問の余地はない。しかし、譬の主眼点はそこにあるのではない。その関心事はむしろ、罪人が最初の"否"から決別して、服従への道を行くところにある」(ウエーダー) このように解釈すると、この譬は、ルカ福音書18章9〜14節の「二人の祈り」の譬と全く同じ内容のものであることが分かります。人間社会の評価と神の評価とは、全く逆転しているのです。「取税人と売春婦とはあなた達よりも先に神の国に入る」とは、全く驚くべき言葉です。ユダヤのエリート対取税人・売春婦というこの関係は、原始教会時代になると、ユダヤ人対異邦人の関係になります。そしてそれは、パウロのローマ書とガラテヤ書の世界です。
 「イエスの言葉は極めて慰めに満ちている。即ちそれは、自分でそう思っていない人達の中に、本当に服従に生きている人達がいると言う。このようにしてこの譬は、取税人と売春婦、また読者に対する招待である」(E・シュヴァイツァー)
                       1992年3月8日 礼拝説教

  「悪しき小作人の話」

 ある人がぶどう園を造り、垣根を巡らし、酒ぶねを堀り、塔を立て、小作人にこれを貸して、旅に出た。収穫の時期になったので、ぶどう園の収穫の分け前を受け取るために、小作人達に一人の僕(しもべ)を送った。すると彼らは彼を捕えて打ち叩き、手ぶらで帰した。そこで再び他の僕を彼らに送ったが、彼らはその頭を殴り、侮辱した。そこで更にもう一人の僕を送ったが、彼らはこれを殺した。その他、なお多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。彼にはまだ一人、最愛の息子がいた。「私の息子なら、彼らは敬うだろう」と言って、最後に息子を送った。しかしあの小作人達は互いに語り合った、「これは跡継ぎだ。さあ、彼を殺そう。そうすれば財産は我々のものになる!」 そして彼を捕えて殺し、ぶどう園の外に投げ棄てた。ぶどう園の主人はどうするだろうか? 彼はやって来て小作人達を殺し、ぶどう園を他の人達に与えるであろう。              マルコ福音書12書1〜9節

 福音書の編集者マルコは、「権威をめぐる論争」の次に、この「悪しき小作人の話」を置いています。「では私も、何の権威でこれらのことをするのかを、あなた達に言わない」。そこでイエスは論敵に対して解答を拒否したのですが、「イエスは譬で彼らに話し始められた」のです。即ち、直接的な言葉では答えられなかったが、譬を用いて答えられているのです。イエスが神の子であることはまだ秘密として人々の目に隠されているのですから、「神殿の粛清は、神の権威によってしたのだ」と明白に答えるわけにはいかないので、譬という形式を用いて答えているのです。その結果、神殿の権力者達は、イエスの言葉の意味をはっきりと理解した(12・12)のです。彼らは理解したけれども、イエスを信じなかったばかりか、イエスを殺害した(8節)のです。マルコはそう言っているのです。
 「わたしは歌おう わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。 わたしの愛する者は 肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を除き 良いぶどうを植えた。 その真ん中に見張りの塔を立て 酒ぶねを堀り 良いぶどうが実るのを待った。 しかし 実ったのは酸っぱいぶどうであった」(イザヤ書5・1〜2) このぶどう畑の所有者はヤハウェで、「良いぶどう」はイスラエルであり、またユダの人々でした。彼らはヤハウェの期待に背いて、甘いぶどうから酸っぱい野ぶどうに変質してしまいました。神の愛と期待に対してイスラエルは裏切りと背信で報いました。神の心は二律背反します。怒りをもって滅ぼそうか、未練愛着をもって呼び戻そうか。預言者達が神から遣わされます。彼らは神の怒りと裁き、愛と赦しを叫びます。「悪しき者はその道を捨て、邪(よこしま)な人はその思いを捨てて、主に帰れ!」 しかしイスラエルは罪を悔い改めないばかりか、預言者達を侮辱し、迫害し、殺害してきました。それが出エジプト以来のイスラエルの歴史でした。それを現代の学者は「申命記的歴史観」と呼んでいます。その歴史解釈は、バビロン軍によって破壊されたエルサレムと神殿の廃墟の中から確立された思想でした。その思想家達が、申命記から始まり、列王記で終わる膨大な歴史書を編集したのです。従って、旧約聖書を読む者は、知らず識らずのうちに申命記的歴史思想の「洗礼」をうけることになるのです。
 そのような視点からこの「悪しき小作人の話」を読むと、その意味が納得できます。イエスの当時、このようなぶどう園経営が行われていたのでしょう。その所有者は、権力者か富裕の外国人で、不在地主でした。小作人は契約に従って、一定の年貢を納めねばなりませんでした。しかしこの小作人達は地主の使者に対して、乱暴狼藉を働きます。物語の背景に、ガリラヤの熱心党(ゼロータイ)の反乱を読み取る学者(エレミアス)もいます。この地主の忍耐は異常です。最初の僕に対する小作人達の乱暴な仕打ちで、不穏な情勢が分かりそうなものなのに、繰り返し使いの者を送ります。そして最後にはそのような悪人共の巣窟に、護衛も付けずに、最愛の独り息子を遣わすのです。しかしマルコはここで、人間の物語ではなく、神の物語を語っているのです。「悪しき小作人達」の中にいる「神の独り子」の運命を描いているのです。「しかしこの所有主は人間ではなくて、神御自身である。そして神は人間のようには行動されない。ここで語り手はこの点を明らかにしている。神は何よりも息子を使いに出したことがそれを示しているのだが、理解を絶する忍耐を示される。しかし、小作人はこの神の忍耐に対して、その度し難い悪意を頑として変えないことによって、不可避の必然性をもって、裁きを自分の上に自らもたらす。神は実際、全くの極限まで勧誘を続けられたのである。しかし今や、神は徹底的に打ち据え給う」(ヘンヘン)
 この譬はイザヤ書の「ぶどう畑の歌」を下敷きにして語られていることは明らかですが、「ぶどう畑の歌」では、所有主の期待に背いたのはぶどう畑そのものでした。しかしこの譬では、それは小作人でした。この譬では、ぶどう園の所有者は神、小作人はイスラエルの指導者、派遣される僕は預言者、最愛の独り息子はイエス・キリストを指して語られています。そして更に、イエスの殺害と遺棄にまで言及されています。そのことを考え合わせると、すでにここでは、イスラエルの背信行為と神の裁きという申命記的歴史観が述べられているばかりでなく、はるかにそれを超えて、神の忍耐と愛、イエスの死と復活(10〜11節)、福音がユダヤ人から離れて異邦人に与えられること(9節)までを含むキリスト教の救済史観まで語られているのです。
 イエスの活動の初期にすでに、安息日の掟を破ったという理由で、パリサイ派とヘロデ党の人々はイエスの殺害を謀議(3・6)していました。この時点でイエスは御自分の死を予感されていたと考えられます。しかしこの譬にはマルコの思想が語られているのです。マルコは、つい40年程前に現実に起こったイエスの出来事を読者に想起させているのです。イエスは神の最愛の独り子であって、悪者たちの手にかかって殺害されたが、神は彼を復活させて、「隅の首石(おやいし)」となさった、という福音がそれです。
                     1992年3月15日 礼拝説教

  「隅の土台石」

 「あなた達はこの聖書の言葉を読んだことがないのか、"家を建てる者達が捨てた石、まさにこの石が隅の土台石になった。主によってこのことが起こったのだ。それが私達の目には不思議に見える"という言葉を?」 彼らはイエスを逮捕しようと企てたが、民衆を恐れた。彼がこの譬を、彼らに当てつけて語られたことを理解したからである。そこで彼らは、イエスをその場に残して立ち去った。
                         マルコ福音書12章 10〜12節 
 忠臣蔵の大石内蔵助は、平素は「昼行灯(ひるあんどん)」などと呼ばれて馬鹿にされていましたが、一旦お家の大事が起こった時には、一躍、義士たちの中心人物になりました。10節の引用文の解釈も同様で、大工たちが役立たずの石として捨てたその石が、建物に無くてはならぬ隅の土台石に据えられた、という諺です。
 今日の聖書個所は、12章1〜9節の「悪しき小作人の話」の結末の部分で、マルコの教団のキリスト論がイエスの言葉として語られているのです。これは11章27節から始まる「権威をめぐる論争」の続きで、イエスの論敵は「祭司長、律法学者、長老たち」というユダヤ教の指導者達でした。
 「家を建てる者達が捨てた石、まさにこの石が隅の土台石になった。主によってこのことが起こったのだ。それが私達の目には不思議に見える」 これは詩篇118篇22〜23節の「七十人訳」聖書からの引用です。この詩はハレル(賛美)の歌として知られている一連の詩(113〜118篇)の最後のもので、感謝の詩です。ユダヤ教の祭りにはよく朗唱されていたもので、例えば過越の食前に113〜114篇が歌われ、食後に115〜118篇が歌われました。「彼らは、さんびを歌った後、オリーブ山へ出かけて行った」(マルコ14・26)
 その詩の中の諺の部分は、敵対する異教の諸国によって卑しめられていたイスラエルが、神に選ばれ、御業のために用いられたことを感謝して神を賛美するために語られたものでした。建築資材としては無役なものとして大工達が捨てて顧みなかった石を、神が拾い上げて、尊い神殿の基礎石としてお用いになった。イスラエルは実にその石であった、というのが出エジプトの建国以来の彼らの歴史解釈でありました。
 イエスの十字架と復活を経験した原始キリスト教団の指導者たちは、その詩篇の言葉を、キリスト預言の言葉として再解釈いたしました。これは彼らの霊的発見で、その発見によって彼らは、「産みの苦しみ」(ヨハネ16・21)を通して、新生を遂げたのでした。彼らはこう信じました。神は、ユダヤ教の指導者たち(悪しき小作人たち=大工たち)が殺害して、「園の外に捨てた」(12・8)ナザレのイエスを復活させ、キリストとしての栄誉をお与えになった。それは人間の目には不思議に見えるが、新生を経験した者には、それこそが神の御業の徴(しるし)なのである。
 イエスの、エルサレムの「最後の週」から数ヶ月後、場所も全く同じ神殿の「王の柱廊(ハヌヨート)」で、ユダヤ最高法院(サンヘドリン)の議会が招集されました。議題は、イエス・キリストの名によって、生まれつきの足なえの男を癒して、エルサレム中に騒ぎを巻き起こしたペテロとヨハネの処置でした。彼らは議会の真ん中に立たされ、尋問されました。「お前達は、一体、何の権威、誰の名によって、このことを行ったのか?」 ペテロは力強く答えました。「皆さんにも、全イスラエルの人々にも聞いていただきたい。この人が救われ、健康になって、皆さんの前に立っているのは、あなた達自身が十字架につけて殺し、神が死人の中から復活させられたナザレ人、イエス・キリストの名によるのです。このお方こそ、"あなた達家を建てる者に捨てられたが、隅の土台石になったその石"なのです。このイエスによる以外に救いは無い。私達を救い得る名は、この名の外には、天下の誰にも与えられていないのです」(使徒行伝4章5〜12節)ここではルカがこのように記していますが、それと同じ内容のことをマルコは「悪しき小作人の譬」に、「大工たちに捨てられた石」の諺を付け加えて、こう語っているのです。「イエスは、神の子の権威によって神殿を粛清したのだが、あなた達"悪しき小作人"が彼を殺害し、都の外に捨てたのだ。しかし神は、イエスを甦らせて、彼をキリストとして立て、彼を信じる者を、ユダヤ人、異邦人の別なく、救い給うのである」 マルコが暗示(ヒント)として記しているところを、ルカは明白に語っているのです。「君たちは、使徒達や預言者達という土台の上に建てられており、キリスト・イエス御自身が隅の親石なのである」(エペソ書2・20) パウロの教会論の書として知られている本書においても、教会の基礎は、使徒達や預言者達が小さい土台石であり、キリスト・イエスが最も大切な隅の親石とされています。それらの上に建物全体が建てられて、「神の家族」という「聖なる神殿」即ち教会が存在しているのです。
 「主の御許に来なさい。主は、人々に見捨てられたが、神に選ばれた、貴重な、生きた石なのです。君達も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(ペテロ第一書2・4〜5) この手紙の著者はこの後、イザヤ書28章16節を引用して、それをキリスト預言の言葉としています。「見よ、私はシオンに、選ばれた尊い石、隅の親石を置く。これを信じる者は、決して失望することはない」
 マルコは「悪しき小作人の譬」の中で、頑迷なイスラエルの指導者に対する神の忍耐と愛を象徴的に語り、御子の死にまで言及していますが、更に詩篇118篇22〜23節を引用しつつ、御子の受難と復活を付け加えて、「悪しき小作人の譬え話」を完成させたのです。「この譬え話は、預言者達の辿った運命と同じく、イエスの辿る受難の道も、イスラエルの不信によるものと説明しており、従ってこれは悔い改めへの招きである。原始教団は、10〜11節によって、人間の拒絶に対し、神は復活の勝利を収め給うという確信を、本来の問題として付け加えた。そして最後にマルコは、始めと終わりにつけた編集句によって、イエスの使信は、それに自分を委(ゆだ)ねた人によってのみ理解され得るということを、強調したのである」(E・シュヴァイツァー)
                      1992年3月22日 礼拝説教 

  「納税をめぐる論争」

 それから彼らはイエスの言葉尻を捉えさせるために数人のパリサイ人とヘロデ党員を派遣した。彼らは来て言った、「先生、私達はあなたが誠実で、誰をも気にしない人であることを知っています。あなたは人の顔色を見ず、真実に神の道を教えておられます。皇帝(カイサル)に税金を納めることは、律法に適っていますか、それとも適っていませんか? 納めるべきですか、否ですか?」 イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜ私を試すのか? デナリ銀貨を持ってきて見せなさい」 彼らが持ってくると言われた、「これは誰の肖像と銘か?」 彼らは言った、「皇帝のです」 そこでイエスは言われた、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」 彼らはイエスに驚嘆してしまった。              マルコ福音書12章13〜17節

 イエスがエルサレムの都に入って3日目、即ちニサンの月の12日(火)に、イエスとユダヤ教指導者達との間に5つの論争が行われたとマルコは記しています。権威について、納税について、復活について、掟について、ダビデの子についての論争です。
 今日の問題はその第2の、納税についての論争です。ローマ帝国は、その属国や征服国に人頭税(ケーンソス)を課しました。男は14歳、女は12歳以上、65歳までのすべての者はローマ政府にその税金を納めねばなりませんでした。ユダヤの地は、太主アケラオが紀元6年に廃位されて、シリアの総督クレニオがユダヤの地の人々に人頭税を課すための人口調査を実施した時に、熱心党(ゼロータイ)の指導者、ガリラヤのユダが反乱を起こしましたが、ローマ軍に鎮圧されました(使徒行伝5章37節)。神のみを唯一の支配者と信じ、他の何者にも服従しないというのが、イスラエルの伝統的精神でした。
 政治と宗教が正面衝突するこの人頭税の問題は、ユダヤ人にとって実にやっかいな問題でした。熱心党は過越的な反対派でした。その対極がヘロデ党でした。これはヘロデに従う者達のことで、福音書では、ヘロデ・アンテパスの手先のことです。彼はガリラヤとペレアの領主で、洗礼者ヨハネを殺害し、イエスをつけ狙っていました。彼はイエスに「あの狐」(ルカ13・32)と呼ばれた男です。ローマの威を借りた狐でした。それで、ヘロデ党は当然、納税賛成派です。パリサイ派には幅がありました。熱心党に近い者からヘロデ党寄りの者までいましたが、大多数は民衆と共に、心情的には納税に反対だが、現実的には納税もやむ無しと考えていました。ちなみにイエスの弟子達の中にも、取税人上がりのマタイがいたり、熱心党員のシモンがいたり、もしかするとイスカリオテのユダは、暴力的過激派シカリ(短剣)党員であったかも知れません。イエス様も大変でした。
 ユダヤ当局は数名のパリサイ人とヘロデ党員をイエスの許に送りました。14節aの、彼らのイエスに対する賛辞は本心からであったでしょうか。もしそうだとすれば、彼らは自分の良心よりも利害や立場を優先させる卑劣漢です。もし、イエスの油断を誘うためのお世辞であったとすれば、自分の言葉を平気で裏切る詐欺師です。いずれにしても、イエスとの真の対話は成立するはずもありません。そのために、権威論争の場合と同様、この場合もイエスはまともにお答えにはならず、大きなクエスチョン・マークを残されたのです。
 ローマ皇帝への貢税は、モーセの律法に適っているかどうか。これは律法の解釈の問題であると同時に、政治問題でもあります。イエスが「適法」と言えば、イエスを支持している民衆を失望させることになります。「違法」と言えば、ローマ権力への反逆になります。これは真理を問題にする真剣な質問ではなくて、言葉の罠でした。「デナリ銀貨を持って来て見せなさい」 デナリはローマのコインで、労働者の1日の賃金でした。イエスはデナリを持っていませんでしたが、彼らは持っていました。つまり彼らはデナリを使用することによって、皇帝の支配を認めていた人達でした。「これは誰の肖像と銘か」 それにはティベリウス帝の肖像と、「神聖なるアウグストゥス(高貴なる者)の子、皇帝にして大祭司なるディベリウス」と刻印されていました。持ち物にその所有者の名前が書いてあるようなものです。「皇帝のものです」彼らは不承不承に答えました。「皇帝のものは皇帝に返しなさい」 他人の所有物はその人に返せ。当然の真理です。これに異議を唱えることはできません。人頭税を課せられたから屈辱的な気持で納めるというのではなく、皇帝が所有物の返却を求めるのならば、返してやれというのです。
 「神のものは神にお返しせよ」 皇帝のものに対してはデナリ銀貨がその論拠になっていますが、神のものに対しては説明がないので、これはパズルです。人頭税と対比して、神殿税を納めなさいということでしょうか。神殿税の納入の問題については、マタイが面白い記事を載せています(17章24節以下) 魚の口から取り出された銀貨は、ギリシャのドラクマ銀貨でした。もし「神のもの」が神殿税を意味しているとすれば、「あなた達は本当に、神のものを神に返しているか?」という、神殿当局者に対する痛烈な批判になります。マルコは一連の論争の締め括りとして、レプタ銅貨2枚を捧げた貧しいやもめの記事を載せて、「神のものを神にお返しする」者の模範を示しました(12章41節以下)。
 しかし別の意味にも受け取れます。デナリ銀貨に皇帝の像と銘が刻んであるように、あなた達自身には神の像と銘が刻印されてあるのだ。「神は御自身に象(かたど)って、人間を創造された」(創世記1章27節) だからあなた達自身を神にお返し致しなさい。
 「ここでは皇帝の支配する国家的領域と、神の支配する宗教的領域との間に、一つの境界線を設けようとしているのではない。第1の命題は、第2の命題によって完全に支配されている。なぜなら、何が本当に皇帝に属するものであり、どこに皇帝に対する忠誠の限界があるかということを、一体だれが決定するのかと問い返すならば、それは神御自身以外にはないからである。従って、イエスの答に従うとしても、そのつど新しく生起する問題に対して、人は常に繰り返し神の意志を尋ねなければならない」(E・シュヴァイツァー)
                       1992年4月5日 礼拝説教