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マルコ福音書の研究

  「湖上を歩くイエス」

 夕方になった時、舟は湖の真ん中にあり、イエスはひとり陸地におられた。そして彼は弟子達が逆風のため漕ぎ悩んでいるのを見て、夜明け頃、湖の上を歩いて彼らの方へ来られ、彼らの傍らを通り過ぎようとされた。しかし彼らはイエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声を上げた。彼らは皆、彼を見て、恐怖に陥ったからである。しかし彼は直ちに彼らに話しかけ、「勇気を出せ、わたしだ、恐れるな!」と言われた。そして彼らの舟に乗り込まれると、風は止んだ。彼らは心の中で驚嘆した。                  マルコ福音書6章47〜51節

 実に不思議な話です。本当にこんなことがあったのでしょうか? 今朝はこの物語の解釈をご一緒に学びましょう。
 五千人の給食の後、イエスは弟子達を急(せ)かせて舟で対岸に向かわせ、ご自分は群衆を解散させて、ひとり祈るために山に登られました。この45節と46節はマルコの編集句で、本来別々にあった五千人の給食の話と、湖上を歩くイエスの話とをつないでいるのです。今日のテキストの個所である47〜51節には、二つの物語が重なっていると言われています。「二つのモチーフがここに混在していることは確かである。イエスは舟の傍らを通り過ぎようとされたことは、彼が嵐を静めるために来られたのではないことを示している。事実、風が収まったという記述は、51節の終わりに後から付け加えられたものに過ぎない」(E・シュヴァイツァー)。
 その混在している二つのモチーフとは、一つは47節と48節b〜50節で、湖上を歩くイエスの話です。他は、48節aと51節で、嵐を静めるイエスの話です。第一の話は、「夕方になった時、弟子達の乗っている舟は湖の真ん中にあり、イエスは陸地にいる。すると夜明け頃、イエスが湖上を歩いて彼らの方へ向かって来たが、彼らの傍らを通り過ぎようとした。弟子達はそれをイエスとは知らずに、幽霊だと勘違いして、恐怖の叫び声を上げた。するとイエスは彼らに声をかけ、"わたしだ、恐れるな!"と言った」。第二の話は、「イエスは山にいて暗闇の湖上で逆風に漕ぎ悩んでいる弟子達を見ている。そして彼らに近寄り、"勇気を出せ"と励まして彼らの舟に乗り込むと嵐は収まり、弟子達はびっくり仰天した」。
 どちらかと言うと第一の物語が主要なもので、第二の物語は編集者によって付け足されたものです。理由は、第一の物語は異教的な物語と余り違わないので、第二の物語を付加することによって福音的な説話にしたのだと推察されます。
 重力の法則に逆らって水の上を歩くことは人間には不可能です。神的なるものが水の上を歩くという話は、啓示の形式としてよく語られています。日本の各地にも、氷結作用によって湖の上に神が通った道ができるという「神渡り」伝説があります。
 暗闇のガリラヤ湖の上に舟を浮かべて弟子達だけがその中にいる。彼らはなにか心細い気持でいる。すると向こうから怪奇なものが近付いてくる。そしてすうっと彼らの傍らを通り過ぎて行く。彼らはてっきり幽霊が現われて危害を及ぼすのではないかと思って恐怖の叫び声を上げる。するとその怪奇なものが戻って来て、「わたしだ、恐れるな!」と叱咤の声をかける。それはまぎれもないイエスの声であった。
 ギリシャ文学にも超人や霊(デーモン)が海の上を歩く物語があります。又、旧約聖書にも同様な言葉があります。「神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる」(ヨブ記9・8)。ヨブが神の力を語っている一節です。「お前は海の湧き出る所まで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか」(同38・16)。神がヨブに顕現し、直接ヨブに語りかけている言葉です。旧約外典には、人格化された知恵がこう語っています。「ひとりで私は天空を巡り歩き、地下の海の深みを歩き回った。海の波とすべての地と、民も諸国もすべて、私の支配下にあった」(シラ書24・5〜6)。
 ガリラヤ湖畔で復活のイエスが弟子達に顕現した物語があります(ヨハネ21章)。するとこのマルコの物語も、復活のイエスの顕現物語ではないかとも思われます。「復活のイエスは弟子達の迷信的な恐怖心を取り除いて、心の平安を与えて下さる。イエスが一緒にいて下されば、幽霊なんか怖くない」という信仰の証であると考えられます。
 マタイの並行記事(14・22〜33)は、マルコの記事を殆んど取り入れていますが、重要な付加と変更を行なっています。幽霊を見たと思って恐怖の声を上げた弟子達にイエスは励ましの言葉をかけます。するとペテロが、「主よ、もしあなたでしたら、私に、水の上を歩いて来い、と命じて下さい」と言います。「来い」とイエスが命じると、彼は小舟から降り、水の上を歩いてイエスの方へ向かいます。しかし彼は強風に気を取られて恐怖心を起こし、沈み始めます。彼が「主よ、助けて下さい!」と叫ぶと、イエスは手を伸ばして彼をつかみ、「信仰の小さき者よ、なぜ疑うのか?」と言います。そして二人が小舟に乗り込むと、風が静まります。すると弟子達は皆、「本当にあなたは神の子です」と信仰を告白し、イエスを礼拝します。
 ユダヤ人は神の御名を呼ぶことを戒めによって禁じられていたので、そのかわりに「主(アドナイ)」と呼びかけました。しかし初代教会のクリスチャン達はイエスを「主」と呼び始めました。(コリント第一書12・3他)。マタイの記事の実際の舞台はもはやガリラヤ湖上の小舟ではなく、迫害に苦しむ初代教会なのです。彼らは迫害という嵐に悩まされています。すると復活のイエスが彼らの方へ歩み寄って来ます。彼はマルコのイエスと違って「通り過ぎよう」とはしません。その超人的な存在に対して弟子達は恐怖心を起こしますが、イエスは彼らに語りかけ、「勇気を出せ、わたしだ、恐れるな!」と励まします。マタイは、困難と迫害に打ち勝つ力はイエスに対する信仰であることを強調します。マルコはこの物語の結論として「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」(52節)と言って、弟子達のイエスに対する盲目を語っていますが、マタイの弟子達は「本当にあなたは神の子です」と告白しているのです。
                      1991年3月17日 礼拝説教

  「神の愛の物語」

 ところがまだ遠く離れているのに、父親は彼を見つけ、哀れに思って走り寄り、その首を抱いて接吻した。息子は父に言った、「お父さん、私は天に対しても、あなたに対しても、罪を犯しました。私はもはやあなたの息子と呼ばれる資格はありません」。しかし、父親は僕(しもべ)たちに言った、「さあ早く最上の着物を持ってきて、この子に着せよ。指輪を手にはめ、履き物を足にはかせよ。あの肥えた子牛を引いてきて屠れ。食べて楽しもうではないか。この私の息子が死んでいたのに生き返り、失われていたのに見つかったのだから」。              ルカ福音書15章20〜24節

 今日は棕櫚聖日で、イエスがエルサレムに入った時に、群衆が棕櫚の枝を手に手に歓呼の声を上げてお迎えした日です。そして、それからの一週間に、イエスの十字架の死と復活という、人類史上最大のドラマが演じられるのです。イエスは何故、十字架につけられて殺されたのか? これが今日の話のテーマです。
 「ああ 天よ、涙の中にパンを味わいし人、悲しみの中に夜を待ち明かせし人、かかる人ならでは なんじ天よ、なんじの力を知る能(あた)わじ」(ゲーテ)。人生には多くの悩みや苦しみがあります。その一つとして、子供に背かれた親の悲しみがあります。放蕩息子と分からず屋の息子をもった父親の心の痛みを語りつつ、イエスは父なる神の愛を語り、泣く者、悲しむ者の傍らに立っておられます。「幸いなるかな悲しむ者、その人達は慰めを受けん」。
 今日のテキストは「放蕩息子のたとえ話」としてよく知られている物語です。ある農業経営者に二人の息子がいました。兄息子は父親と共に黙ってよく働いていましたが、弟息子は毎日の単調な生活に嫌気がさし、都会に出て働いて一旗(ひとはた)上げる望みをもち始めました。そしてある日、彼は父に言いました、「お父さん、僕(ぼく)が相続する分の財産を今くださいませんか。僕は人生を自分の思う通りに生きたいのです」。父がその願いを叶えてやると、彼は財産をすべて金に換えて、遠い国へと旅立ちました。彼は真面目に働くつもりでいましたが、都会にはずるい人間や甘い誘惑が多く、田舎者の彼は終に有り金全部をすってしまいました。すると弱り目に祟り目で、その地方に飢饉が襲い、彼は浮浪者になって街路をうろつく破目になりました。そしてようやく、豚飼いの仕事を得ましたが、空腹でたまらず、豚の餌のいなご豆のさやを食べて飢えをしのぐ有様でした。「落ちぶれて袖に涙のかかる時 人の心の奥ぞ知らるる」。彼は懐かしい故郷の父親の家を思い出しました。記者ルカは「彼は我に返った」と書きました。「本心に立ち帰った」とか「意識を回復した」と訳せる言葉です。アイデンティティーを発見したのです。「こんな僕をお父さんは許してくれるだろうか。そうだ、もうお父さんの息子と呼ばれる資格はないが、日傭い労務者としてなら、受け入れてくれるかも知れない」。そう思うと矢も盾もたまらず彼は家路に急ぎました。
 弟息子が家出をしてから、父親の心に空虚ができました。父親の目は弟息子の姿を求めてさまよいました。そしてある日、まぎれもない息子の姿を発見して、急いで走り寄り、首を抱き、接吻しました。息子はおずおずとお詫びの言葉を出し始めましたが、父親はそれをさえぎり、息子が喜ぶ最善のことをしてやりました。息子に最上の服装をさせ、息子の座(ざ)を与え、大御馳走をふるまい、歌と踊りの祝宴が始まりました。
 他方、兄息子は終日畑に出て働いていましたが、夕暮になり、疲れた体を引きずって家の近くまで来ると、歌や踊りのざわめきが聞こえて来ました。そこで様子を聞いてみると、弟の帰宅と、父の喜びと、祝宴のことが分かりました。兄息子は立腹して、家に入ることを拒みました。すると父親が出て来てなだめ始めました。兄は言いました、「お父さん、ひどいじゃぁありませんか。僕は何年もお父さんのために身を粉にして働いてきました。言いつけに背いたことが一度だってありますか。それなのに、僕には友達と楽しむために子山羊すらもくれなかったのです。ところがあのあなたの息子、汚らわしい娼婦どもとグルになってあなたの身上(しんしょう)を食いつぶしたあのやくざ者が帰ってくると、あなたは取っておきの子牛を屠ってあれに食わせてやりました」。父親は答えました、「わが子よ、お前の言い分は全く正しい。だがなあ、お前はいつだって私と一緒にいるではないか。私のものは全部お前のものなのだよ。さあ、お前の兄弟、お前のたった一人の弟が家に帰って来たのだ。気持良く迎えてやろうじゃぁないか。あの子は死んでいたのに生き返ったのだ。失われていたのに再び見つかったのだ。さあ、お前も機嫌を直して一緒においで。この祝宴をみんな揃って喜び楽しもうではないか」。
 この物語を語っているイエスの前に、二種類の人々がいました。イエスの話を喜んで聴きにきている取税人や罪人達と、そんな連中と親しくつき合っているイエスに批判的なパリサイ派の律法学者達でした。当然、前者が物語の中の「弟息子」で、後者が「兄息子」です。イエスは、父なる神の立場に立って話しています。全能者にして愛のゆえに無力なる神。弟息子の罪を不問にし、兄息子の自己主張を全部認めてしまって、両者を天の国の祝宴に招こうと心を砕く父なる神。こんなに自由で寛大な恵みの神の招きに対して、ある人は尻込みして、「そんなはずはない。気を付けた方がいい」と言い、他の人はついてゆけず、「それなら真面目に宗教的生活を守るのは損ではないか」と不平を言います。人間の宗教と道徳は、イエスの自由の福音を受け入れられず、なんだかんだと言って制限を加えてきました。「罪というのは、この私(イエス)を信じないことだ」(ヨハネ16・9)。その不信仰の罪が、イエスを十字架に追いやったのです。その真理を識った人が証しをして言いました。「神は、独り子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(イエス)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)。
 今日、松井清治兄が主の招きに応えて洗礼を受けます。又、園田俊吉兄がこの交わりに加えられます。御一緒に喜び、感謝いたしましょう。
                    1991年3月24日 棕櫚聖日礼拝

 「同伴者イエス」

 見よ、その同じ日に、弟子達の中の二人がエルサレムから60スタディオン(11キロ半)離れたエマオという村へ行くところであった。彼らはお互いに近頃起こった出来事のすべてについて話し合っていた。彼らが語り合い、論じ合っていると、イエス御自身が彼らに近付いて来て、一緒に歩き始められた。 ルカ福音書24章13〜15節

 今日は主の復活日であると同時に、川崎教会召天者記念日であります。最初の召天者は尾島真治牧師ですが、それから数えて丁度40年になります。40年という数は、モーセの言葉を連想させます。「この40年、あなたの神、主が導かれた荒野の旅を思い起こしなさい」(申命記8・2)。モーセはイスラエルの民に過去40年の荒野の旅を回顧させ、飢え、疲れ、病気、戦いなど、試練の連続とも思える歳月の旅を通して、主は豊かに恵みの御手をもって導き、育んで下さったことを心に留めなさい、と命じているのです。私達の教会もこの40年の「荒野の旅」を回顧して、その中に主の御業を確認し、今日あることを感謝し、旅の中途で天に召された方々を記念することは、意義深いことであると思います。「主の聖徒の死は、主の御前において尊い」(詩篇116・15)。申命記におけるモーセの説教の主題は、「同伴者なる神」でした。
 イエスが復活された日に、大混乱が弟子達を襲いました。イエスの復活を信じるということは、超越的な出来事を信じるという信仰の問題なのですが、弟子達はそれをこの世の常識で対処しようとした所に、混乱の原因がありました。混乱した心を抱えて、二人の弟子達はエルサレムからエマオの村への道を歩いていました。彼らは夢中になって、イエスの出来事について語り合っていました。「二人の聖書学生が道を歩きながらモーセ五書のことを話しておらないならば、焼き殺されるに値する」とユダヤ教のラビは教えました。彼らは世間話ではなく、イエスについて話し合っていたので、復活のイエスは彼らの話に加わられたのでしょう。「この物語はその様式に従えば、創世記にあってよいものである。ここで復活者は最古の伝説における神のように、全く人間の姿をとって(創世記18章)、徒歩旅行者をよそおって、人たちの間を歩き回られる」(グンケル)。「キリストはここで旅人として、知られることなく現われ、彼の秘密に満ちた神性を個々の特徴において啓示する。しかし気付かれるや否や、彼は消え去るのである。この物語の構図は、最古の顕現物語と全く類似している」(ブルトマン)
 その二人は復活のイエスを見ても、あの地上のイエスと同一人物であるとは気付かなかったのです。「二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現わされた」とマルコは報じています(16・12)。ルカは「彼らの目が遮られていて、イエスだとは分からなかった」と記しています。つまりこの旅人イエスはあの地上のイエスと同一であると悟るには、霊的開眼が必要であると言っているのです。
イエス「君たちは、何をそんなに夢中になって論じ合っているのですか?」
クレオパ「お見受けする所、あなたはエルサレムへの巡礼者のようですが、この数日間、都で起こった出来事を、あなただけが御存知ないようですね。ナザレのイエスのことですよ。あのお方は教えにおいても、奇跡においても、全く昔の預言者のように力強いお方でした。私たちはこの人こそイスラエルの解放者に違いないと期待していたのですが、私たちの宗教的指導者と政治的指導者達が彼をローマ人に引き渡して、十字架につけて殺してしまったのです。そして今日で三日目ですから、もう甦って来られるという望みも絶たれてしまったのです」
イエス「ああ、心が鈍っているために、何と物分かりが悪いのでしょう! それでは預言者達の言葉が信じられないのは当然です。キリストは必ずこれらの苦難を受けて、栄光に入らねばならないのです。ごらんなさい、モーセも、すべての預言者達も、聖書全体も、そのことを証ししているではないですか」
 25〜27節のイエスの言葉に、初期キリスト教会の最古の信仰告白が語られています。彼らは十字架と復活というイエスの出来事を、神の「ねばならない」(ギリシャ語のデイ、英語のマスト)として理解しようとしました。彼らはイエスの出来事を経験した時に、その根拠を旧約聖書の中に求めました。彼らはイザヤ書や詩篇などのいくつかの個所に、それに相当する言葉を発見し、イエスの出来事は神の御意志であって、聖書に預言されたものの成就であると確信しました。パウロの手紙の中にも同じ信仰告白が記されています。「キリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてある通り、三日目に甦ったこと、ケパに現われ、次に、12人に現われたこと」(コリント第一書15・3〜5)。彼らは復活の信仰を、ペテロや他の弟子達やパウロが復活のイエスを見たという個人の体験の上にだけ置かず、聖書の預言とその成就という堅固(コンクリート)な基礎の上に置いたのでした。聖書の証言という土台の上に、個人の証言が据えられたという点が重要なのです。
 28〜31節の無言劇の部分が、この物語の原伝承における中核であったと考えられています。一行がエマオに近付きましたが、イエスは尚も先へ行こうとする。だが二人はこの見知らぬ旅人に愛着と尊敬の念が湧いて、無理強いして自宅に連れてきます。そして一緒に食卓に着いて、客人に食前の祝福をお願いすると、彼はパンを取り、神を賛美してパンを裂き、それを手渡した時に、「二人の目が開けてイエスだと分かったが、その姿は消えてしまった」。禅宗では「頓悟(とんご)」ということを重んじますが、ここではそれが霊的出来事として語られています。おそらく初期の弟子達が「復活の主イエスに出会った」と言うのは、この時のような経験であったろうと思います。主イエスの御名の下(もと)に共に集い、御言葉を学び、祈りを共にし、食卓に連なるという親しい交わりの中に、復活の主が同伴者として共におられるという実感は、今日の私達も教会生活の中で得られる経験です。
                     1991年4月1日 復活節礼拝

  「不浄の手」

律法学者「何故あなたの弟子たちは、先祖の言い伝えに従って歩かないで、不浄の手でパンを食べるのですか?」
イエス「よくもイザヤは君たちのような偽善者について預言したものだ。こう書かれている。"この民は口先ではわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らは人間の戒めを教えとして教えて、空しくわたしを礼拝する"。君たちは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」  マルコ福音書7章5〜8節

 神道は祓(はら)いと清めの宗教です。その伝統の中に生きている日本人は不浄に対しては潔癖で、洗濯や入浴、果ては「アサシャン」まで励行しています。しかし心の浄化がなおざりにされている所に、今日の聖書個所と関連する点があります。
 数人の律法学者がイエスの言動を監視するためにエルサレムの議会から派遣されて来て、地元のパリサイ人と一緒にイエスの許に集まりました。彼らはイエスの弟子たちの中で、手を洗わないで食事をする者を見つけて、イエスに詰問しました。
 私たちは今、衛生的見地から食前の手洗いを実行していますが、当時のユダヤ人たちの食前の手洗いは先祖の言い伝えによる、宗教儀式としての行為でした。律法学者とパリサイ人とユダヤ人の多くは、聖書に書いてある成文律法と、先祖の言い伝えである口伝律法の両方を固く守っていました。神殿祭司とサドカイ人は成文律法の権威だけを認めていました。イエスの思想と行動はパリサイ人に近く、サドカイ人からは遠いのですが、福音書のイエスの論争相手は殆んどパリサイ人と、その理論的指導者である律法学者でした。その理由は、サドカイ人は神殿祭司階級でしたので、第一次ユダヤ反乱によるエルサレム神殿の消滅(紀元70年)と共に彼らも又消滅していて、福音書が書かれた時代には、律法学者とパリサイ人を中心とするユダヤ教と、初期のキリスト教とが激しく競合していたからです。第一世紀末頃の伝統のユダヤ教と新興のキリスト教との軋轢(あつれき)が、福音書の記事に反映していると言えます。
 マルコは、その福音書の読者の多くがユダヤ教の慣習に通じていないと判断したので、3節と4節で、入念な手洗いと食器の洗浄について説明を加えています。食前の手洗いは煩瑣(はんさ)な手続きを経て行われるもので、それを厳密に守らなければ、「不浄の手」とされました。不浄の手で食事をする者は聖なる神にふさわしくない不浄な者で、取税人や罪人や異邦人と同じく、救われざる輩(やから)である、と考えられていました。律法学者とパリサイ人は、イエスは宗教の教師であると認めていたので、その弟子たちが平気で不浄の手でパンを食べるのを見て不審に思ったのは当然でした。他方、イエスとその弟子たちは、特別な宗教的訓練を受けていない社会的階層に属していたので、口伝律法の細則を守る習慣を見につけていなかったことでしょう。
 不浄とは、ギリシャ語でコイノスと言います。これはハギオス(聖なる)の反対語で、普通の、世俗的な、汚れた、清めの洗いを済ませていない等の意味をもっています。律法学者とパリサイ人は常に成文律法と口伝律法に従って清浄か不浄かを区別していました。根拠はレビ記11章と申命記14章でした。「わたしは君たちの神、主である。君たちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである」。この言葉に従って、清浄食品と不浄食品がリストされています。ユダヤ教徒は今日も尚、不浄とされている食品を決して食べません。日本人が好んで食べる豚肉、ウナギ、エビ、カニ、タコ、イカ、親子丼などはみんなアウトです。それらを食べる異邦人は不浄の民です。シリア王アンテオコス4世がユダヤ人を迫害した時、豚肉を食べることを拒否して殉教の死を選んだ人々が数百人も出ました(マカバイ記1・62)。
 さて、律法学者の詰問に対するイエスの答えは、かみ合っていません。イザヤ書29章13節の言葉を引用してのイエスの反論は、律法学者の質問には正面から答えず、その「こころ」を衝いています。君たちの宗教というものは、口先だけで神を称え、形だけ厳密に昔ながらの言い伝えを守っていけば足れりとするものだ。単純明快な神の戒めを、複雑怪奇な人間の言い伝えに変えて、それを定規にして、これを祝福し、あれを呪ったりしている。それによって神の戒めは棚上げされ、神の光は厚い雲によって遮断されて、人々の許にとどかなくされている。君たちの宗教は生命ではなく化石である。君たちの罪が、生ける神の言葉を死んだ化石にしてしまった。君たちは全くの偽善者である。「イエスは彼らの偽善を責められた。ヒュポクリテースという語は、興味ある、啓示的な歴史をもっている。それはただ(傍点始まり)答える人(傍点終わり)という意味から始まっている。それから進んで、型にはまった会話において(傍点始まり)答える人(傍点終わり)となり、いわば俳優を意味するようになった。そして終に、舞台上の俳優のみでなく、その人の全生涯がその背後に全く何の真実もなく、芝居するような人を意味するようになった」(W・バークレー)
 律法学者とイエスの論争のこの記事は、ユダヤ教の攻撃に対する初期のキリスト教会の反論を映し出しているのかも知れません。或いは、紀元65年頃のマルコの教会の内部的問題を反映しているのかも知れません。マルコの教会には、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいました。ユダヤ人クリスチャンの中には、ユダヤ教の食物規定を守っていて、異邦人クリスチャンと食卓を共にすることにちゅうちょを感じていた人もあったでしょう。そういう信者に対して、ユダヤ教とキリストの福音の相違を認識させるためにイエスの伝承を利用してマルコがこの論争物語を作ったのかも知れません。それにしてもこの聖書個所のイエスの主張は中途半端です。先祖の言い伝えは守らなくてもよいが、神の律法は大切にすべきことを教えています。しかしナザレのイエスは更にラディカルで、「外から人の体に入るもので人を汚すものは何もなく、人の体から出て来るものが、人を汚すのである」(15節)と言って、すべての食物を清いものとしてしまいました。
 これは旧約律法の全面的否定であって、パウロはその福音を理解した最初の人でした。
                       1991年4月7日 礼拝説教 

  「神の戒め・人間の仕来り」

 何と上手に君たちは自分の仕来りを守るために、神の戒めを蔑ろにしたものだ! モーセは言った、「汝の父と母とを敬え」と、また「父と母を呪う者は死に値する」と。しかし君たちは言う、「もしある人が父か母に対して、"あなたに差し上げるはずのものはコルバン(神への供え物)にします"と言えば、もはや父や母には何もしなくてもよい」と。このようにして君たちに伝えられてきた仕来りによって、君たちは神の言葉を反故(ほご)にしている。        マルコ福音書7章9〜13節

 現在の日本人は、当時のユダヤ人がもっていたような成文律法(トーラー)や口伝律法(ミシュナー)をもっていないので、自由でいいと思っているようですが、そう考えているのは日本人だけで、在日外国人は口を揃えて「日本は閉鎖社会だ」と言っています。それは私たちが硬質な律法こそもっていませんが、実は非常に沢山の軟質な社会通念や仕来りに拘束されているためです。結婚式や葬式の日取りや儀式の中に、古来の禁忌(タブー)や怨霊信仰が数多く見られます。また、天皇制を自由に論議することすらできません。日本の社会が自由だというのは表面的な見方で、実は本質的に不自由社会なのです。キリストの福音は、ユダヤ人に対しては律法からの解放を、異邦人に対しては社会通念や禁忌(タブー)からの自由を与えます(ガラテヤ4・1〜11他)。
 「何故あなたの弟子たちは、先祖の言い伝えに従って歩かないで、不浄の手でパンを食べるのですか?」と言う律法学者・パリサイ人の批判に対して、イエスは預言者イザヤの言葉を引用して、口先だけで神を称え、形式だけ昔ながらの仕来りを守っていればそれで足れりとする律法学者・パリサイ人の偽善性を指摘いたしました。
 次いでイエスはモーセの十戒の言葉を引用して議論を進めます。この場合イエスは、神の戒めと人間の言い伝えとを対立させて、律法学者・パリサイ人は、モーセを通して神から授けられた律法(トーラー)よりも、そのラビ的な解釈にすぎない先祖の言い伝えの方を重視していると攻撃しています。本当に大切に守るべきものは、神の戒めであると言っているのです。
 モーセの十戒によって父母を大切にせよと命じられているが、親不孝の子がいて、老いた親の扶養の義務を免れたいがために、「神への服従の重要性は、父母に対する義務よりも重い」という先祖の言い伝えを盾にとって、「あなたに差し上げるはずのものを、私はコルバン(神への供え物)にします」と言えば、それで親に対する義務を免れてしまう。勿論、コルバンにしたものを神殿に奉納することもないのです。これは極端な例ですが、法律の抜け穴を悪用することは今日でも行われていることです。神に対する畏れの心が全く無くなると、神の言葉や戒めを冗談に使ったり、利益のために利用したりいたします。イエスはそういう罪に対して激怒いたしますが、人間の弱さから犯してしまう罪に対しては非常に寛大です。世の中の宗教家や法律家はそれとは反対に、権力者の大罪は見逃して、弱い者のささやかな過ちを厳しく責め立てます。この問答には、人間を大切にするイエスの余韻が感じられます。しかしイエスは人間至上主義者ではありません。彼の呼びかけを受けた者には、両親も肉親も自分の命すらも省みずに従うことを命じておられます(マタイ10・37、ルカ14・26)。
 イエスの律法に対する態度は、柔軟性があります。律法を超えた自由人の立場からそれを見ています。イエスは決して一概に律法を否定してはいません。先祖の言い伝えすら尊重している場合もあります。「安息日に病気を治すことは、律法で許されているか?」と問われた時に、「自分の所有する羊が安息日に穴に落ちた場合には、手でこれを引き上げてやるではないか。まして人間を助けることはそれ以上に大切なことだ」(マタイ12・9)と言って、モーセ律法の安息日の規定をゆるめた先祖の言い伝えを重んじたことがありました。律法よりも人間が大切なのです。死人の復活については、成文律法のみを保持するサドカイ人はこれを信じませんでしたが、当時の社会通念とも言うべき口伝律法をも重視するパリサイ人はこれを信じており、イエスも又、信じていました(マルコ12・18)。しかし、離婚に関する問題が突きつけられた時には、先祖の言い伝えのみか、モーセの律法をも否定し去っております(マルコ10・2)。この場合、天地を創造し、律法を与えた神の立場に立って、結婚と離婚において低くて弱い立場にある妻の地位を、夫の地位と平等の高さにまで引き上げております。ユダヤ教が支配する当時にあっては、驚くべき見識です。又、山上の説教においても、「"隣り人を愛し、敵を憎め"と言われていたことは、君たちが聞いているところだ。しかし、わたしは君たちに言う、敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5・43)と言って、御自分の権威をもってモーセの律法を大改正しております。つまりイエスは、モーセの律法よりも、先祖の言い伝えよりも、御自分が神の意志を直接に知っているという確信に基づいて発言しておられるのです。宗教的大天才というべきか、神の子の特質を所有していると言うべきか。パウロは彼の回心の経験によってようやく、律法を克服できた最初の人でしたが、イエスは律法を与えた神の立場から易々とこれを乗り超えてしまいます。ヨハネがこのように証する由縁です、「いまだかつて、神を見た者はひとりもいない。ただ父の懐にいます独り子なる神だけが、神を知らしめたのである」(ヨハネ1・18)。
 律法学者・パリサイ人の立場は、当時のユダヤ教の立場を代表しています。神の御心はすべて成文律法と口伝律法の中に表わされている。それ故に、律法を正しく守ることが神の御心を行うことであるとして、律法厳守の立場に立っています。イエスは、生き生きとした神との親しい関係、神を「アッパ、父よ」と呼び、神の愛を全身に満たして生きている関係から、律法学者・パリサイ人の生き方を批判します。そして、律法を厳守することによって、人間が神の前に立とうとする自己義認の罪を激しく非難いたしました。本来善であるはずの神の戒めが、人間の罪の源となっていることを、私たちは見逃してはなりません。
                      1991年4月14日 礼拝説教

  「戒律から福音へ」

 外から人間の中に入って、人間を汚し得るものは何一つない。かえって、人間の中から外へ出て来るものが、人間を汚しているのだ。    マルコ福音書7章15節

 食前の手洗いの問題は、今日の私たちから見ればほんのささいな問題ですが、当時のユダヤ人にとっては重大な問題でした。伝統的な儀式に従って手を洗わないで食事をする者は、不浄な者であると見なされていました。「何故あなたの弟子たちは、先祖の言い伝えに従って歩かないで、不浄な手でパンを食べるのですか?」という律法学者の非難めいた質問から議論が始まって、15節の重大な言葉がイエスの口から出て来ました。
 「この全文の命の根源は15節の言葉である。この言葉がイエス自身に帰せられることには何の問題もない。我々はこの言葉が、いかに革命的で大胆な性格のものであるかを充分はっきりと悟っていない。"外から人間に入ったものは、何物も人間を神との交わりから遮断することは出来ない。人間から出て行くもの、それが人間を神との交わりから遮断するものである"。この言葉をもって、イエスは自分自身を旧約律法の大部分とその精神とに対して、和解し難い対立の中に置いたのである。彼は律法のラビ的解釈に対して異議を唱えるのみならず、律法それ自身に戦いを挑んだのである。旧約聖書が人間を神との交わりから遮断するところの汚れた食物について語ったことのすべてを、イエスの大胆な言葉は払拭したのである。それはイスラエル人の全儀式的敬虔を否定したのである。掟と禁止命令の全体は、この言葉によって無力とされたのである」(ヘンヘン)。
 現代の聖書批評学者の研究によると、私たちが現在「イエスの言葉」として福音書の中に持っている言葉の多くは、伝承の語り手や、諸資料の記録者や、福音書の編集記者や、各地の初期キリスト教団などによって、様々に修正や変更が加えらえてきたものです。しかしその中にも、雲の切れ目から時折、陽(ひ)の光が射し込んでくるように、真正のイエスの言葉、あのナザレのイエスが語ったそのままの言葉が、福音書のあちこちに、光り輝いて見出だされるのです。15節の言葉が正にその中の一つなのです。ギリシャ語本文にしてわずかの23文字。単純明快なるこの23文字が、膨大な成文律法と口伝律法の全体系を根底から覆してしまったのです。偉大なるかな、23文字。
 人間はこの言葉の重要さをなかなか理解できません。「君たちも、そんなに鈍いのか」(18節)。イエスに対する弟子たちの無理解ということがマルコ福音書の主題の一つです。「これは、イエスの言葉を全く理解しないエルサレム教団、イエスの直弟子たちの教団に対する、マルコの痛烈な批評である」(トロクメ)。マルコが繰り返し「弟子たちの無理解」に言及しているのは、そのためであるかも知れません。
 マタイは多少の変更を加えていますが、マルコの枠を守っています(15・1〜20)。しかしルカはこの論争物語を省きました。けれども彼は、使徒行伝の中でこの問題を扱っています(10章、11章)。カイザリア駐在のローマ軍団イタリア隊の百人隊長コルネリオは信仰のある人でした。彼は祈りの中で天使によって、ヨッパに人を送ってそこに泊まっているペテロを招くように告げられました。一方ヨッパにいたペテロは、祈りの時に忘我状態になり、天が開けて、四隅をひもで吊した大きな布が下りて来るのを見ました。その中には、レビ記11章と申命記14章で禁じられている「不浄の食物」が入っていました。「ペテロよ、身を起こして、それを食べなさい」と言う復活のイエスの声が聞こえました。「主よ、それはできません。私は今まで不浄な食べ物を食べたことがありません」とペテロは拒みました。「神が清めたものを、不浄などと言ってはならない」と主は彼を戒めました。そんなことが三度もあって、その入れ物は天に引き上げられました。意識が回復してからペテロはその幻の意味を考えているとコルネリオからの使いの者が到着し、主人の願いをペテロに伝えました。翌日、ペテロは彼らとカイザリアに向かい、次の日にそこに着いてコルネリオに会いました。「ご存知の通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられています。けれども神は私に、どんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、示されました」とペテロは語り、コルネリオの体験談を聞いて「それで、神は人を分け隔てなさらないことがよく分かりました」と言いました。そしてペテロがキリストの福音を語ると、コルネリオをはじめすべての者たちに聖霊が降り、彼らは異言を語り、神を賛美しました。「ペテロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた」。ここで清浄な食物と不浄な食物の問題はそのまま、清浄な人間=ユダヤ人と、不浄な人間=異邦人、という図式になっていることが理解されます。そしてこの問題は後に、原始キリスト教団を二分するほどの大問題になりました。
 イエスの復活後、ペテロをはじめイエスの直弟子たちがエルサレムを拠点にして福音を宣教し始めました。彼らはユダヤ教徒として、ユダヤ教の戒律を守りながら、イエスの十字架と復活の出来事を語り、イエスこそ待望のメシアであると証しいたしました。彼らは異邦人に福音を宣教し、異邦人が神の救いの恵みに与るとは夢にも思っていませんでした。しかしキリストの福音はユダヤ人社会の枠を打ち破り、ギリシャ・ローマ世界の人々が福音を信ずるようになりました。その時、問題が起こりました。「異邦人クリスチャンをユダヤ人クリスチャンと同等に扱うべきかどうか? 異邦人クリスチャンにも割礼を受けさせて、ユダヤ教の戒律を守らせるべきではないか?」イエスの弟ヤコブを筆頭にエルサレム教団の保守派は「然り!」と言い、パウロとアンテオケ教会の改革派は「否!」と言いました。その間に挟まれてペテロは、カイザリアの経験を忘れてしまったかのように、右往左往いたしました。
 「もし義が律法によるとすれば、キリストは無意味に死んだことになる」(ガラテヤ2・21)とパウロは言い放ちました。
                      1991年4月21日 礼拝説教

  「自由のための戦い」

 兄弟たちよ、君たちは自由人になるために召し出されたのだ。ただその自由を、肉(自己中心的欲求)に機会を得させるために用いることなく、愛によって相互に(家来のように)仕えなさい。律法全体の帰する所は、一語である。「汝の隣人を、汝自身のごとくに愛しなさい」。             ガラテヤ書5章13〜14節

 贈り物(北方四島の返還)を持たずに訪日して来たソ連のゴルバチョフ大統領に、日本は土産物(経済援助)を持たせずに帰してしまいました。一つの機会が失われたような空しさが残りました。天来の賜物を得ることなしに、既得権を手離すことは、大変に困難なようです。
 ユダヤ人の既得権は、律法(トーラー)でした。この既得権を手離すことは彼らにとって死活問題でした。「外から人間の中に入って、人間を汚し得るものは何一つない。却って、人間の中から外へ出て来るものが、人間を汚しているのだ」というイエスの言葉は、ユダヤ人の既得権たる全律法の放棄を意味する宣言であることを先週学びました。
 「私はユダヤ教に精進し、先祖たちの言い伝えに対して、誰よりも熱心であった」(ガラテヤ1・14)。パウロはパリサイ派の律法の学徒でした。彼は当時、「ナザレ派」の者たちが、十字架にかけられて殺され、後に復活したと言われているナザレのイエスを信じるだけで、律法を守らない「地の民」(下層の人々)や「罪人」たちが救われると宣伝しているのを聞いて、烈火の如くに怒り、この異端の輩(やから)の絶滅のために奮闘していました。ところが、彼自身がダマスコ市の郊外で復活のイエスに出会い、回心してキリスト教徒になり、異邦人にキリストの福音を宣べ伝える使徒として聖別されてしまいました。
 人間はどうしたら救われるのか、という問題です。当時、大別して5種類の人々がいました。(1)ユダヤ在住のユダヤ教徒。律法学者・パリサイ人がその代表で、彼らは律法を厳守することによって救われると信じていました。(2)離散(ディアスポラ)のユダヤ教徒。キリキア州タルソ市出身の回心前のパウロがその代表です。異郷の地に住むユダヤ教徒として、律法の実行と異郷の風習との間に挟まれて、問題意識を鋭くもっていました。(3)ユダヤ在住のキリスト教徒。ペテロとヤコブを代表とするエルサレム教会の人々。彼らは何の疑いもなく、ユダヤ教の律法を順守しながら、キリストの福音を信じ、これを宣べ伝えていました。(4)離散のユダヤ人キリスト教徒。ステパノやピリポがその代表で、(3)の人々よりも律法に対して自由な態度をとっていました。エルサレムでキリスト教徒に対する迫害が起こった時には、(3)の人々は安全でしたが、彼らは各地方へ逃亡して行きました。(5)異邦人キリスト教徒。ユダヤ人からは異邦人と呼ばれていたすべての外国人で、ユダヤ教の律法や仕来りとは縁がないまま、直接キリストの福音を聞いてクリスチャンになった人々です。今日の私たちもこれに属します。
 「君たちは、かつては真の神を知らず、空しい、偽わりの神々の奴隷になっていた。しかし今では神を知り、いやむしろ、神に知られているのに、どうして卑劣で貧弱な諸霊の支配下に逆戻りしてしまったのか? 君たちは特別な日、月、季節、年などを守っている。私が君たちのために尽くした苦労が無駄になってしまったのではないかと、心配でならない」(ガラテヤ4・8〜11)。キリストの福音は、ユダヤ人に対しては律法と禁止命令の束縛からの自由を、異邦人に対してはあらゆる迷信と禁忌(タブー)の恐れからの解放を与えるものです。復活の主イエスが共にいまして、過去の罪に赦しを与え、将来の不安に救いの保証を与えて下さるのです。
 パウロは第二回と第三回の伝道旅行の途中、小アジアのガラテヤ地方を通り、そこで福音を宣べ伝えた結果、いくつかの教会が生まれました。パウロの伝えた福音は、ユダヤ人と異邦人の罪のために十字架上に死に、復活したイエス・キリストを信じることによって救われるという教えで、聖霊の力と喜びに満ち溢れたものでした。しかしパウロが去った後、ユダヤ人キリスト教徒が現われ、パウロを誹謗し、彼の福音に修正を加えました。パウロはイエスの直弟子ではないので本当の使徒ではなく、エルサレム教会から承認もされていないので、彼の教えは間違っている。キリストを信じるだけでは救いのために十分ではなく、まずユダヤ教徒のシルシである割礼(男性性器の前皮の切除)を受け、偶像礼拝とそれにともなう神殿娼婦との淫行を避け、不浄と決められている食物を食べないよう教えました。ことの本質を弁えなかったガラテヤのクリスチャン達は、彼らの言い分を受け入れてしまいました。ガラテヤ人は、異教徒→キリスト教徒→ユダヤ教徒のコースをたどったことになります。その知らせを伝え聞いたパウロが、恐らくエペソから、54年頃に書き送ったのが、ガラテヤ書なのです。「君たちがこんなにも早く、君たちをキリストの恵みの内へ招かれたお方から離れて、異なる福音へとなびいて行ったことに、私は呆れ果てている」と書き始め、パウロは自分の使徒職は、父なる神とイエス・キリストから直接任命されたものであること、従ってエルサレム教会からは独立したものであること、パウロが受けた福音はユダヤ教の割礼と律法から連続したものではなく、それらから完全に切り離された自由の福音であること、従って人が救われるのは、律法と福音によるのではなく、ただただキリストの福音を信じる信仰によるのであること、従ってキリストの世界の中では、誰も他の人に対して誇り得るものは何もなく、ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由市民、男と女の差別は全廃され、皆等しく神の子の自由と尊厳をもって生きるのであること、この世界では、「これを扱うな、あれを味わうな、それに触れるな」という禁忌と呪詛は全く消滅し、自由人とされたキリスト者に律法があるとすれば、「汝の隣人を、汝自身のごとくに愛しなさい」という、愛の戒めのみが守られるべきことを熱い心と言葉とで書き記しました。
 イエスが教え、パウロが伝えた自由の福音は、その後の人類の歴史上、自由のための戦いの、尽きざるインスピレーションの源泉となって今日に及んでいます。
                      1991年4月28日 礼拝説教

  「エルサレムの使徒会議」

 人間が義と認められるのは律法の実行によるのではなく、ただキリスト・イエスの信仰によるのだと知って、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。それは、私たちが律法の実行によってではなく、キリストの信仰によって義と認められるためです。律法の実行によっては、誰一人として義と認められることはないからです。
                            ガラテヤ書2章16節

 新約聖書は、紀元48年頃に行なわれたエルサレムでの使徒会議について、二箇所に記録しています。使徒パウロが54年頃に書いたガラテヤ書2章1〜10節と、福音史家ルカが90年頃に書いた使徒行伝15章です。この両者の内容は大体同じですが、重要な相違点も見逃がすことはできません。
 ステパノの殉教を契機に引き起こされた迫害によって散らされたイエスの信者達の一部は、シリア北西部の都市アンテオケに逃れて、そこに教会をつくりました。そしてはじめはユダヤ人だけに福音を伝えていましたが、やがて異邦人も福音を信じるようになりました。バルナバとパウロがその指導者でした。新興のアンテオケ教会は成長し、そこで信者達は初めて「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。その教会では、異邦人が異邦人であるまま、つまり割礼を受けないで、キリスト教徒になることができました。そしてそこでは、ユダヤ人も異邦人も一緒に礼拝を守り、共に食事をしていました。初代教会では共同の食事は、地上に神の国の姿を証しするものとして大切な行事でした。「そこではもはや、ユダヤ人も異邦人もなく、奴隷も自由市民もなく、男も女もない。君たちは皆、キリスト・イエスに結ばれて一つの体なのだ」。人々は共同の食事を愛餐(アガペー)と呼んで親しんでいました。人種、言語、身分、性別の障壁を超えて、お互いに主にある兄弟姉妹としての美わしい交わりは、キリストの福音によってこの世界の中に初めて創造されたものでした。新しいぶどう酒(福音)を造られたお方は、新しい皮袋(教会)をもお与えになりました。
 しかしそのような親しい交わりを、横から冷たい目で見ていた人々がいました。ユダヤ主義者=ユダヤ教徒のままキリストを信じるようになった人々でした。彼らは、キリストの福音に与(あずか)るためには、ユダヤ教の割礼と律法が必要不可欠な手続きであると固く信じていました。パウロとバルナバは、キリストを信じることによって人は神から義と認められるのであって、割礼と律法は必要なし、と信じていました。そこで両者の間に大論争が起こり、問題の解決を求めてエルサレムに上り、エルサレム教会の指導者、主の弟ヤコブ、ペテロ、ヨハネ達の意見を聞くことになりました。使徒会議の結果は、パウロ達の主張が認められました。ただ役割分担として、ペテロは割礼と律法を守っているユダヤ人に伝道する使徒とされ、パウロは割礼と律法のない異邦人の使徒とされました。
 使徒行伝は、その議事の進行風景を伝えています。先ずパウロとバルナバが異邦人伝道の成果を報告します。するとパリサイ派からキリスト教徒になった人達=ユダヤ主義者達が反対意見を述べます。そして議論を重ねた後、ペテロが立ち上がり、アンテオケ事件よりも以前に、ペテロがカイザリヤでコルネリオ達に福音を伝えた経験を語り、神はユダヤ人と異邦人の間に何ら差別をなさらなかったので、今更、律法の重荷を異邦人達に負わせるべきではない、と語ります。次にバルナバとパウロが、伝道中に異邦人の間で行われた神の御業について証しします。そして最後に議長役のヤコブが重々しい調子で「兄弟たちよ、私の意見をお聞きなさい」と言って語り始めます。彼は「義人ヤコブ」と呼ばれ、律法を厳格に守っていた保守的な人物で、ペテロがユダヤ当局の迫害を逃れてエルサレムを去った後(使徒行伝12・17)、エルサレム教会の最高指導者になっていました。ヤコブは、パウロとバルナバが主張しているキリストの福音を信ずるのみで人は救われるという問題点に触れないで、ペテロの名前をユダヤ風の「シメオン」と呼んで、彼のカイザリアでの経験を評価し、アモスの預言(9・11〜12)を引用して、「主の御名のために新しい神の民を獲得するのは神の御旨である」と語ります。これは一見問題がないように聞えますが、旧約聖書の原文は「こうしてわが名をもって呼ばれるすべての国を彼らの所有とさせよう」というもので、「すべての異邦人はイスラエルの僕(しもべ)となり、その土地をイスラエルに譲り渡す」(G・シュテーリン)というものでした。ヤコブはアモスの言葉を読み換えたのですが、衣の下に鎧が見えています。そして彼は「神に帰依する異邦人に負担をかけてはならない」と語りながら、「ただ偶像に供えて汚れた肉と、性的乱行と、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように手紙を書き送ろう」と結論づけます。
 ヤコブはペテロと同調して、パウロ達の主張を認めたように聞えますが、このいわゆる使徒通達の規定は、異邦人クリスチャンにとって守るのに困難なものでした。性的乱行の戒めはよいとしても、動物の屠殺はすべて異教の祭儀的儀式と結びついていましたので、市場に売りに出された肉はすべて「汚れた肉」でした。「絞め殺した動物の肉」は、頸動脈を切って血を抜いてしまうユダヤ式屠殺法によらない「血の詰まった肉」のことであり、「血」とは、動物の血でできた食品のことでした。恐らくこの規定は、ユダヤ教に改宗した異邦人信者のための戒めだったのでしょう。キリストの福音はここで大幅に後退しています。異教世界の動物の肉については、ロマ書14章とコリント第一書8章にパウロは全然異なる見解を表わしています。
 この後、アンテオケ教会で、パウロとペテロが衝突いたします。「あなたはユダヤ人でありながら、今まで異邦人のようにやってきたのに、なぜ今更、異邦人をユダヤ化しようとするのか?」とパウロはペテロを非難しました。ペテロが異邦人信者との会食に参加していたのに、ヤコブの許からユダヤ主義者が来た時にこれを恐れて、会食を止め、バルナバやユダヤ人キリスト者達までもこれに倣うのを見て、パウロは烈火の如くに怒り、その偽善を責めたのでした。その後彼はアンテオケを去りました。
                       1991年5月5日 礼拝説教

  「異邦の女の信仰」

異邦の女「私の幼い娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいます。主よ、どうか私の娘からその悪霊を追い出してください」
イエス「先ず、子供たちを満腹させなければならない。子供たちからパンを取り上げて、小犬たちに投げ与えてやるというのは、よくないことです」
異邦の女「その通りです。主よ。けれどもテーブルの下にいる小犬たちでさえも、子供たちのパン屑を食べています」
イエス「その言葉のゆえに願いを叶えて上げよう。お帰りなさい。悪霊はもうすでにあなたの娘から去ってしまいました」
                         マルコ福音書7章26〜29節

 5月6日夜、カナダのテレビドラマ「こころの大地、インディアンの少女アメリアとキャサリン先生の愛の交流」という番組を見ました。開拓時代、政府の方針で、インディアン部落から少年少女たちを強制的に連れて来て施設に入れ、インディアンの言葉を話すことを禁じて英語を押しつけ、名前を取り上げてクリスチャンネームを与え、「母なる大地への祈り」を禁止して「天の父なる神への祈り」を教えて、インディアンを教育して文明化しようという実験施設の話でした。白人は、熱烈な伝道心をもってインディアンをキリスト教化することは神の御心に叶い、善意に動かされて彼らを文明化することは彼らを幸福にすることだと固く信じて行なっていたのですが、それが白人の独善と優越感から出た行為であり、愛と理解に欠け、インディアンの自由と人権を踏みにじる犯罪的行為であったという反省から作られた、勇気と良識のある作品でした。その番組を見ながら、イエス・キリストは確かに、牧師の偽善的、独善的な「父なる神への祈り」よりも、素朴で真剣なインディアンの少女の「母なる大地への祈り」を喜ばれると思いました。
 福音書記者マルコは、イエス・キリストはこの世にあって理解されていないことを繰り返し語ってきました。イエスは愛する家族から誤解され、故郷のナザレの人々に受け入れられず、親しい弟子達の無理解にあい、律法学者・パリサイ人達の敵意の中にいました。「狐に穴あり、空の鳥にねぐらあり、されど人の子には枕する所とてなし」。彼は孤独でした。
 イエスは律法学者・パリサイ人との論争を終えて、ガリラヤを去り、パレスチナの教会を越えて、フェニキアのツロの地方に向かいました。地上のイエスには、積極的な異邦人伝道という意識は無かったようです。「ある家に入り、誰にも知られたくないと思っていた」。伝道のためではなく、祈りと思索と休養のために行かれたのでしょう。しかしそこにもイエスの助けを必要とする人がいました。「汚れた霊にとりつかれた幼い娘を持つ女」がイエスの許にやって来ました。当時、精神病やテンカンなど原因不明の病気は、汚れた霊=悪霊の仕業であると考えられていました。そして悪霊払いは、カリスマをもった宗教家の仕事でした。その女は「ギリシャ人で、シリア・フェニキアの生まれ」でした。彼女はユダヤ教徒でも、キリスト教徒でもなく、間違いなく異教徒でした。彼女はイエスの足元にひれ伏して、娘から悪霊を追い出して下さいと、熱心に頼みました。そして、冒頭に記した会話になりました。異邦の女の願いに対するイエスの言葉は、冷ややかです。休養先で仕事を頼まれたようなもので、機嫌が悪かったのかも知れません。それにしてもひどい言葉です。子供たちとはユダヤ人のことで、小犬たちとは異邦人のことです。人を指して「犬」と呼ぶことは致命的な侮辱です。ユダヤ人は異邦人やキリスト教徒を「犬」と呼びました。「汚れた食物」を食べるからです。この場合は、野良犬ではなく、ペット用の小犬であったとしてもなお、差別感を拭えません。マルコは「先ず」という語を入れて差別感を和らげています。先ず子供たちを満腹させてから、次に小犬たちに残り物を与える。先ずユダヤ人に福音を伝えてから、次に異邦人に伝道する。その順序はパウロの言葉と重なります、「私は福音を恥としない。それは、ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である」(ローマ書1・16)。マタイは、マルコの記事から「先ず」を取り除いて、「私は、イスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」(15・24)とイエスに言わせて、絶対の拒絶を表わしました。この相違は、マルコの教団とマタイの教団の、異邦人伝道に対する考え方の相違を表わしていると言えます。
 「その通りです。主よ。けれどもテーブルの下にいる小犬たちでさえも、子供たちのパン屑を食べています」。この女の答えは見事です。女は、イエスの言葉を全く従順に受け入れて、子供たちの優先権を認めています。決して抗弁いたしません。また強引に娘の治療を願ったりしていません。イエスの言い分を完全に承認した上で、細(ささ)やかな要求をしているだけです。しかし、イエスの言葉を逆用した機知(ウイット)に富んだ女の言葉は、イエスのハートを射止めました。背負い投げ一本、が決まりました。イエスは異邦の女の信仰に負かされました。「その言葉のゆえに、願いを叶えて上げよう」。マタイは、「おお婦人よ、あなたの信仰は大きい」と変更させて、イエスの感動を伝えています。イエスはこの女の信仰から出た機知に感心して、喜んでその願いを叶えて上げました。神の恵みはユダヤ人ばかりでなく、異邦人も受けられるはずだという彼女の信仰に、イエスは全く同意しました。
 ユダヤ教の律法を厳格に守っている律法学者・パリサイ人との律法論争の直ぐ後に異邦の女の信仰の話を置いたマルコの意図は明らかです。神の救いは、律法の実行によっては得られないが、イエス・キリストを信じる信仰によって得られるのだ、と言っているのです。「彼女の信仰は、律法的なるユダヤ教の盲目、然り、弟子たちすら盲目であったのに比べて、ひときわ群を抜いている」(E・シュヴァイツァー)。
 それにしてもこの物語よりも、愛を必要としている人を助けるためには、ユダヤ人と異邦人の区別は全く存在しないと言う「良きサマリヤ人」(ルカ10章)の物語の方が、はるかに革命的で普遍的なイエスの思想を伝えていると、私は思います。
                   1991年5月12日 母の日礼拝説教

  「エパタ」

 ツロ地方からの帰途、イエスはシドンを経て、デカポリス地方を通り、ガリラヤ湖畔に来た。人々は、イエスの許に、耳が聞えず、言語に障害のある男を連れて来て、彼の上に手を置いてやって下さいとお願いした。そこでイエスは彼一人を群衆から連れ出し、指を彼の両耳の中に差し入れ、唾で彼の舌に触れた。そして天を見上げ、溜息をついて「エパタ」と言った。「開け」という意味である。すると彼の耳が開き、障害が治り、はっきりと話せるようになった。イエスはこの事を誰にも言うなと人々に口止めしたが、口止めすればするほど、人々はそれを言いふらした。彼らは魂消(たまげ)て言った、「この人がしたことは何もかも素晴らしい。聾者(ろうしゃ)が聞えるようになり、唖者が話せるようになった」              マルコ福音書7章31〜37節

 イエスは外国旅行をされたことがあるでしょうか? 答えは、然(しか)りでもあり、否(いな)でもあります。マルコとマタイによると、シリア・フェニキア地方へ行かれたこの旅行が、パレスチナを出た唯一の機会でした。ルカは意図的にこの記事を省きました。ルカによると、聖霊降臨の出来事をまって初めて、キリストの福音は異教の国々に伝えられるのです。
 31節にあるイエスの旅程は、難解です。フェニキアのツロからガリラヤ湖畔に帰るために、シドン−デカポリスのコースをとるのです。これは、東京から川崎へ帰るのに、先ず上野へ行き、次に横浜へ行ってから、川崎へ帰るようなものです。メシアの巡回、という考えがマルコにあったのかも知れません。ある学者達は、マルコはパレスチナの地理に不案内だったと言っています。マタイはその不合理を、「イエスはそこを去って、ガリラヤの海辺に行き」(15・29)と修正しました。これなら明快です。
 この物語の興味深い点は、いつもならイエスの一言で、たちまちどんな病気でも癒されてしまうのに、ここでは複雑な手順が踏まれていることです。イエスの許に人々は、耳が聞えないために言語に障害のある男を連れて来て、彼の上に手を置いてやって下さい、と懇願しました。彼らは祝福を求めていたのかも知れないし、奇跡を期待していたのかも知れません。会堂司ヤイロはイエスに、「私の娘が死にそうです。どうか、御手を置いてやって下さい。そうすれば、娘は助かり、生きます」(5・23)と頼みました。やはり、これは祝福と奇跡の両方を求めている言葉です。「手当てをする」という表現があるように、「手を置くこと」は、治療を意味します。霊的能力(カリスマ)が手から伝えられる、と考えられていました。イエスの手は、しばしば病人の上に置かれて、癒しの業を行ないました。(1・31、41、5・6他)
 イエスは耳が聞えず、言葉が不自由なその男一人を、群衆から引き離して、連れ出しました。奇跡は神の御業ですから、人目にふれないように秘かに行われます。奇跡を公開して宣伝に使うのは、人間の仕業です。何事でも、大切なことは秘かに行われるものです。「右手がする善行を、左手に知らせるな」(マタイ6・3)。福音の伝道もそうです。大衆伝道という大掛かりなものを私は信じません。個人から個人へ手渡される、忍耐と時間のかかる、非能率な、人格的な「感染力」を、私は信じます。福音の伝道は神の御業です。私が「この人こそは」と期待した人は皆、教会から去って行きました。そして、全然予期も期待もしなかった人が導かれて来て、ここに居着いて、主に結ばれた兄弟姉妹として、親しい交わりを与えられています。私の伝道は失敗の連続でしたが、神の御業は実現しています。
 イエスとその男は、一対一の関係で向き合いました。イエスは指(きっと人さし指)を彼の両耳に差し入れ、次に指に唾をつけて、彼の舌に触れました。患部に触れることは、治療の手段です。近頃の医者は、機械に頼ることが多く、触診をあまりしなくなったと言われています。唾は、古代では治癒力をもっていると信じられていました。動物は傷口をよくなめます。唾に、洗浄と治癒の力があるのでしょう。
 それからイエスは、天を見上げて、深い溜息をつきました。世の罪を嘆いてのことでしょうか。神の作品の中に、病気や障害という欠陥が現われてきたのは、神に背き、悪魔の支配に屈服した人間の罪の結果と考えての溜息だったのでしょうか。今日も、大は国家や企業の犯罪から、小は個人の不正行為まで、多くの罪が新聞をにぎわしています。今朝も、インドの政治家ラジブ・ガンジー氏の暗殺事件が報道されました。
 そうしてからイエスは、「エパタ」と言いました。するとたちまち、その男の耳が開き、舌のもつれが解けて、はっきり物が言えるようになりました。マルコはイエスが語ったアラム語を、ギリシャ語に訳さないで、そのまま数個所に記しています(5・41、7・11、7・34、15・22、15・34)。このアラム語の不思議な響は、一種の呪文としての効果をもつものと考えられていたのかも知れません。
 これら一連の治療行為の複雑な手順は、当時一般に行われていたカリスマ的治療師の常套手段であったのかも知れません。イエスの奇跡物語の中に、当時の社会状況が反映されているとしても、少しも不思議ではありません。
 イエスはこのことを口外しないようにと人々に命じましたが、口止めすればするほど人々はそれを言いふらした(宣教した)。語るべき時があり、沈黙を守るべき時があるのです。メシアの秘密は、時が来るまで保たれなければならないのに、人々はいつもイエスの禁止命令を破っていた(1・44、5・43)、とマルコは繰り返し記しています。
 「この人がしたことは何もかも素晴らしい。聾者が聞こえ、唖者が話せるようになった」。この言葉は、イザヤ書35章の終末預言を下敷にしています。「そのとき盲人の目は開け、聾者の耳はあくことを得べし。そのとき跛者は鹿の如くにとび走り、唖者の舌は歌うたわん」
 イエスの到来によって、メシアの時代が開始した。イエスの働きの中に、メシアの御業が行われている、と福音書記者は証ししているのです。
                      1991年5月26日 礼拝説教