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マルコ福音書の研究

  「信仰と健康」

 娘よ、あなたの信仰があなたを健康にしたのです。平安のうちに行きなさい。あなたはその難病から全く回復したのです。         マルコ福音書5章34節

 「少しばかりの企み、少しの慎しみ、自分の汚れについての幾分かの物怖じ、そして、すべてにおいてイエスに対する無条件の信頼(ローマイヤー)、しかり、これは信仰の表われであって、この信仰が彼女に健康をもたらしたのであった」(E・シュヴァイツァー)。
 イエスは大勢の群衆に取り囲まれて、ヤイロの家に向かう途中でした。すると12年間もひどい婦人病のために出血が止まらないでいる女がそっとイエスに近寄りました。マルコは「大勢の医者からひどい目にあわされて、全財産を使い果たして、なんの甲斐もなく、却ってますます悪くなって…」と書いています。それに加えて宗教的規定(レビ15・25〜30)により、「不浄の者」とされ、公の集会に出られず、他人との交際も断たれてしまいました。ルカは面白いことに、自身が医者であったためか、医者に批判的な部分は省きました。彼女はイエスの御業をうわさに聞いて、助けを得る最後のチャンスと思い、群衆にまじってイエスの後ろに近付き、「そっとその着物に触り」ました。マタイとルカは「上着の房に触った」と書きました。イエスの上着の四隅には房が縫い付けられていて、その房には青いひもが垂れていました(民数15・38)。イエスは主の戒めを忠実に守る敬虔なユダヤ教徒の服装をしていました。彼女は「せめてこのお方の着物に触れば、病気は治るに違いない」と信じたのでした。聖人の体や着物に触ると病気が治るというのは、当時の民衆の迷信でした(マルコ6・56、使徒行伝5・15、19・12)。日本でも神社やお寺の線香の煙にあたると風邪をひかないとか、力士の体に触るとその力と健康にあやかれるとか、同様な民間信仰があります。
 驚いたことに、彼女に奇跡が起こりました。「すると直ぐに出血が止まって、病気が癒されたことを体に感じ」ました。するとイエスは「自分の内から力が出て行ったことを感じて、群衆の中で振り返り、"私の着物に触れたのは誰か?"と言い」ました。例えてみれば、イエスの体はガソリン・タンクで、ガス欠の彼女はそのタンクからガソリンを盗んだのです。彼女のタンクは満たされましたが、その分だけイエスのタンクは目減りしました。これは本当のことです。子供が安楽でいられるのは、親が苦労しているからです。私が生きていられるのは、植物や動物が私の食べ物になってくれているからです。私が健康でいられるのは、他の人が病気で苦しんでいてくれるからです。日本の経済が黒字の分だけ、他の国々の経済は赤字になっているのです。「君たちは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っている。主は富んでおられたのに、君たちのために貧しくなられた。それは君たちが、彼の貧しさによって富む者になるためである」(コリント第二書8・9)。
 イエスが「窃盗犯」を詮索したのは、取られたものを取り戻すためではありません。弟子達は当事者ではありませんから、イエスの質問の意味が分かりません。「先生、こんなに大勢の人が押し合いへし合いしているのですよ。みんながあなたの着物に触りましたよ」。しかしマルコのイエスはしつようです。「イエスは触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」。すると女は逃れられないと観念して、「震えながら進み出てひれ伏し、すべてありのまま」を白状しました。ここから彼女とイエスの関係は、言葉による人格的な関係へと進みます。
 マタイのイエスは、質問したり、見回したりいたしません。そうする必要がないのです。マタイのイエスは、全知全能の神の子ですから一発で、「イエスは振り向いて、女を見た」。マタイのイエスは彼女の窮状をすべてお見通しですから、彼女から言い訳を聞く必要もありません。実にスッキリしています。物足りない位です。
 「娘よ、あなたの信仰が、あなたを健康にしたのです」。この言葉は恐らくイエスの真正の言葉です。これをどう解釈するか? これはもちろん、信仰があれば医者は要らないという意味ではありません。「あなたが他の何よりも誰よりも、この私イエスの力を信じたから」。マタイのイエスはそう言っておられるようです。しかしマルコのイエスは「信仰」を直(じか)にイエス自身に結びつけるのではなく、天の父なる神に結びつけます。「娘よ、それは私ではない。天のお父様があなたの信仰を見て、あなたを憐れみ、あなたを癒して下さったのです」。
 迷信にもいろいろあります。縁起をかつぐほどの軽い迷信と、この女の場合のように深刻で真剣な迷信と。イエスは後者の迷信を受け入れます。イエスは迷信をもって彼に近付く者の目を、天にいます父なる神に向けさせます。私たちはイエスを通して絶対者なる神に出会い、超越者なる神に結び付けられるのです。そしてイザヤの預言の実現を見るのです。「なんじら目を上げて高きを見よ、誰かこれらのものを創造せしやを思え…疲れたる者には力を与え、勢いなき者には強きを増し加え給う。年若き者も疲れて倦(う)み、壮(さか)んなる者も衰えおとろう。されど主を待ち望む者は新たなる力を得ん。また鷲の如く翼を張りて昇らん。走れども疲れず、歩めども倦まざるべし」(イザヤ書40章)。
 「あなたの信仰があなたを健康にした=癒した」。マルコ福音書には3種類の「癒す」という動詞が使われています。セラペウオー(1・34他)。医術者が治療行為によって人に奉仕する意味の語です。治療子(セラピスト)の語源です。イアオー(5・29)。この女が求めた病気の癒しです。ソーズォー(5・34)。ここで使われている語で、救出する、救済する、死の危険から解放する、重病人を癒す、という意味をもつ語です。イエスが与える癒しは、単なる肉体上の癒しばかりでなく、魂の救済、永遠の救いであることがここで明らかにされています。群衆の中からイエスはこの女一人を探し求め、御前に立たせ、言葉を交わすことによって、迷信の世界にいる彼女を生ける真(まこと)の神との関係に導き入れて、彼女に完全な癒しを与えられたのです。
 「平安(シャローム)の中に行きなさい」
                     1990年11月25日 礼拝説教

  「故郷の人々」

人々「こんなことをこの男はどこから学んできたのか? 何たる知恵がこの男に授けられていることか? それに、彼の手によって行われているこの数々の奇跡の業(わざ)はどうしたことか? この男はあの大工ではないか? マリアの子で、ヤコブとヨセフとユダとシモンの兄弟ではないか? そしてその姉妹たちもここで私たちと共に住んでいるではないか?」
イエス「預言者は、その故郷と、親族と、家族以外のところで、尊敬されないことはない」                     マルコ福音書6章2〜4節

 「マルコは3章6節でイエスに対する拒否をもって第二部を閉じたように、ここにおいても同じくイエスに対する拒否をもって第三部を結んでいる。ただここではイエスを拒否するのは、もはや遠くに立っている権威者たちではなく、彼の同郷人である。マルコ福音書の全体的構成において、神の啓示に対する世の盲目ということに重点が置かれている」(E・シュヴァイツァー)。
 私たちは誰でも、他人(ひと)から誤解されると苦しみ、悩み、傷つきます。そして何とかして正しく理解されたいと努めます。しかし福音書によってイエスの生涯を学んでいると、イエスほど人々によって誤解された人はいないのではないか、と思うほどです。イエスの生涯は悲劇的です。ローマの支配者からも、エルサレムの権威者からも、ガリラヤの民衆からも、故郷のナザレの人々からも、愛する家族からも、そして親しい弟子たちからも、誤解されていて、その誤解が解かれないまま、イエスは十字架上で死ぬのです。そして現在も、イエスは世間の人々からばかりでなく、キリスト教信者や牧師や宣教師からも、誤解されているのです。ですから教会のシンボルである十字架は、イエスに対する人間の盲目を表わしていると言えます。
 ガリラヤ湖周辺の町々村々を巡回して神の国到来の福音を宣べ伝え、病人を治し、悪霊を追放していたイエスは、弟子達を連れて故郷のナザレの町に入り、安息日に会堂で教え始めました。その時の様子はマルコとマタイでは省かれていますが、ルカが伝えています。ルカの編集は独自なもので、ナザレの出来事をイエスの活動の出発点に置いています(4・16以下)。ルカは歴史家で、彼の2巻の書物で、キリストの福音が全世界に広まっていく様子を描いています。ルカ福音書では、イエスの誕生から、十字架の死と復活までを描いていますが、その背景はナザレからエルサレムまでの道行きです。使徒行伝では、エルサレムでの聖霊降臨から、福音が世界の中心都市ローマまで伝えられて行く有様が描かれています。
 ルカが伝える安息日の礼拝の様子は、ユダヤ教のラビの資料と正確に一致しています。最初にトーラー(モーセ五書)の朗読があります。これはいわゆる輪読で、多くの人が朗読者として指名されます。次に預言者(歴史書と預言書)が読まれます。そして信仰を奨励する人が指名されます。ユダヤ教にはキリスト教の牧師や宣教師のような職業的説教者はおりません。礼拝を執り仕切るのはヤイロのような会堂管理者でした。その日イエスが聖書朗読者として立つと、預言者イザヤの巻物が手渡され、それを開いて、「主の霊が私の上にある。貧しい者に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれた。主は私を遣わして、囚人が解放され、盲人の目が開かれ、圧迫されている者が自由にされ、主の恵みの年を告げ知らせるのである」(61・1〜2)と読み上げました。そして巻物を係りの者に返し、席に着いて、「この言葉は、皆さんが耳にしたこの日に成就した」と言いつつ、話を始めました。つまりイエスの話の内容は、この私こそ主に遣わされたメシア=キリストである、というものでした。それを聞いたナザレの人々が、冒頭に記したような驚きの声を上げたのです。
 誤解の原因はどこにあったのでしょうか? それは先入観でした。虚心になってイエスの語る言葉に耳を傾けるのではなく、自分達がイエスのすべてを知っていると過信している点にありました。故郷の人々の驚きから考えると、イエスは決して神童、天才の誉が高かったわけではなく、平凡で静かな人間として彼らの間で30歳位まで生きていました。イエスが急変したのはやはり、バプテスマからでしょう。その時に神の呼び声を聞き、召命を受け、聖霊の力に満たされて福音を語り、奇跡の業を行なうようになりました。故郷の人々は当然その変化の原因を知りませんでした。そこに問題があります。私たちは世間の常識(コモンセンス)に従って物事を判断するのですが、それを絶対化しないで、10パーセント位は、神様が介入されて御業を行なって下さる余地を残しておくことです。それは信仰の知恵です。これは親子の関係、夫婦の関係、友人の関係にとって大切なことです。ナザレの人々の場合、イエスに変化が起きたのは、もしかすると神の御業ではないか、と考える余地があったら、イエスを預言者として受け入れることができたでしょう。彼らがつまずいたのは、イエスの語る言葉よりも、イエスとの肉の関係にこだわったからでした。
 故郷の人々の不信に対するイエスの言葉は、三重の否定になっているので少々理解しにくいのですが、ルカは分かり易く書き直しています。「誠に、私は言う、いかなる預言者も、その故郷では歓迎されないものだ」(4・24)。この言葉はイエスのオリジナルではなく、ことわざの引用でした。「預言者は自分の故郷では受け入れられず、医者は自分を知る人々に癒しを行わない」(新約聖書外典トマス福音書31節)。
 デンマークの哲学者キルケゴールは、「私は右手に福音を、左手に哲学をもって差し出したら、世間の人々はその右手で哲学を受け取ってしまった」と行って嘆きました。同様に、奇跡を求める人々に、真の奇跡である信仰を求めたイエスは誤解され、拒絶され、石をもって故郷を追われて、ナザレ伝道は失敗に終わりました。もう一人の「誤解の人」パウロは書きました、「十字架の言葉(ロゴス)は、滅び行く者には愚かですが、救われつつある私たちには、神の力なのです」(コリント第一書1・18)
                   1990年12月2日 待降節礼拝説教

  「弟子たちの派遣」

 それからイエスは12人を御許に呼び寄せ、二人一組にして遣わされた。そして、汚れた霊を制する権威を彼らに与え、杖一本のほかは、パンも袋も何も持たず、帯の中にお金を携えず、ただ足にサンダルを履き、「二枚の着物を着るな」と命じられた。
                         マルコ福音書6章7〜9節 

 時が迫っています。アメリカのブッシュ大統領がイラクのフセイン大統領に対して、1月15日までにイラク軍をクウェートから撤退させなければ、サウジアラビアに待機させている20数万のアメリカ軍と多国籍軍に総攻撃の命令を下す、と警告を発しているのです。戦争か? 平和か? 世界は固唾を呑んで成り行きを見守っています。原因は富と権力の問題です。富める小国クウェートを貧しいが軍事力のあるイラクが侵略したのです。イラクはクウェートの油田を所有することによってオペックの石油価格を操作し、アラブの盟主になってイスラエルを攻撃したいのです。国連はイラクの暴挙を非難しています。世界中が恐れと不安の思いで1月15日を見守っています。
 上落合教会の山形直氏が昨年の降誕節に漢詩を私に贈って下さいました。伝道の書(コーヘレト)について話し合い、池田裕著「旧約聖書の世界」をお貸ししたのが縁になりました。その詩に訓読略解をつけて下さいました。
 嘲る勿れ杞憂天蓋(きゆうてんがい)(空)を懼(おそ)れることを、誰が乾坤(けんこん)(天地)の(至)極なる(安)泰を保証するや、無涯(限)を計測し望空たることを識る。(万物のすべては)形と影と(共に互に)転じ旋(めぐ)りて委(ゆっくり)と(傍点始まり)変だつ(傍点終わり)(身ぐるみ抜け替え)するのみ。「杞憂は取り越し苦労のこと。由来は杞の国のある人、天空の崩落がおこることを心配しつづけたあまりに死んでしまったとのこと」
 天空が今にも落下してくるのではないかと不安をもち、取り越し苦労をしている人を見て嘲笑してはいけない。天地が絶対に安泰であると誰が保証できるのか。無限を物差しで計るとそれは虚空であることがわかる(又は、無限を物差で計ることは、空しきたくらみであることを識るのみ)、すべてのものは形と影、生と死、興隆と衰退、平和と戦争を繰り返しつつ、ゆっくりと変化進展してゆくだけだ。
 この十数ヶ月の世界情勢はまさに天蓋が落ちてくるような出来事の連続でした。中国の天安門事件、ソ連と東欧諸国の革命的変化、ベルリンの壁の崩壊と東西ドイツの再統一、イラクのクウェート侵攻と湾岸危機。また個人的な経験としても、肉親の死や難病の宣告などは天蓋落下の経験です。そのような社会的、個人的経験を踏まえて、いつなんどき、その災難がわが身にふりかかるか知れないと感じ、人々は不安におびえ、取り越し苦労をしています。そしてその防御策として、お金を貯め、保険に入り健康法を試し、新興宗教に群がり、初詣に押しかけます。私たちはそういう人々の行為を笑うことはできませんが、その努力は五十歩百歩で、不安を完全に拭い去ることはできません。「天地の安泰なることを誰が保証できるのか?」
 イエスの時代の人々を動かした原因も、不安と恐れでした。世の終わりと神の審判(さばき)の日の切迫です。救いの保証を求めてきた群衆に向かって洗礼者ヨハネは、「蝮の子らよ、迫ってきている神の怒りから逃れられられると、誰がお前たちに教えたのか…斧(おの)がすでに木の根元に置かれている」と叫びました。ヨハネは人々に、罪の悔い改めと、断食と祈祷とを実行させて、神の審判の日に備えることを教えました。つまり、来るべき暴風に備えて、身を低くして抵抗を少なくする方法です。
 イエスは12弟子を呼び寄せ、二人一組にして伝道に遣わします。「汚れた霊を制する権能を彼らに与え」ました。今まで学んだように、人間のあらゆる病気や不幸や罪の原因は、サタンの許から遣わされてくる諸々の悪霊の仕業であると信じられていました。それで、人々の上に覆いかぶさるその悪霊という名の暗雲を、聖霊の風によって吹き払えば、人々の上に青空が広がり、神の光と愛が豊かに注がれるのです。「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのであれば、神の国(支配)はすでに君たちのところに来ているのだ」。マルコは派遣された弟子たちの業を3つにまとめました。福音の宣教と、悪霊の追放と、病気の癒しです(6・12、13)。マタイは天の国到来のしるしとして「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病人を清め、悪霊を追い払いなさい」(10・8)と記しています。イエスは弟子たちに、イエスと同じ業を行なえるほどの権能を与えられたのでした(11・4)。実際にはどれほどのことが行なわれたかは分かりませんが、相当の成果はあったようです(ルカ10・17)。
 イエスは弟子たちの持ち物を厳しく制限しました。食べ物、着物、袋、お金、一切の余分な所有を禁じました。ただ野獣から身を守るための杖と、蛇やさそりから足を守るためのサンダルの着用を許しました。イエスは彼に従う者たちに、天の父なる神の御配慮を信頼して、「空の鳥」や「野の花」のように生きることを求めました(マタイ6・25以下)。「空の鳥を見よ、蒔かず刈らず倉に収めず、しかるに汝らの父は、これを養いたもう」。もちろんイエスの時代と現代とは実情が違いますから、文字通りこれを実行することはできません。当時ユダヤ教徒の町ではどこでも、旅人のために食べ物や衣服の世話をする人がいました。同様にキリスト教の巡回伝道者は、どこの教会に行っても、衣・食・住の提供を受けられたはずです。社会的、文化的、宗教的相違を無視して、これをそのまま実行することはできません。しかし基本は変わりません。無所有が信仰者のあるべき姿です。「何を食べ、何を飲み、何を着ようかと明日のことを思い煩う」ことは、神を知らない人の取り越し苦労です。天の父はそれら一切のものを私たちが必要としていることを御存知なのだから、それを天の父の御配慮にゆだねて、まず何よりも神の支配と神との正しい関係を求めて、日々を平安(シャローム)のうちに過ごしなさい、とイエスは告げられます。イエスの弟子たちは、イエス御自身のように自由に生きることを求められているのです。
                       1991年1月6日 新年礼拝

  「洗礼者ヨハネの疑念」

 さて、ヨハネは牢の中でキリストの業について聞いた時、弟子たちを送って、尋ねさせた。「あなたが来(きた)るべき方ですか、それともほかの方を待つべきですか?」 イエスは彼らに答えた。「行って、君たちが見聞きしていることをヨハネに告げなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人は清まり、耳しいは聞こえ、死人は生き返えり、貧しい人は福音を聞いている。わたしにつまずかない人は幸いだ」。
                         マタイ福音書11章2〜6節

 洗礼者ヨハネが牢に入れられた原因は後で(14・1以下)語られます。ガリラヤとペレア地方の領主ヘロデ・アンテパスが、腹違いの兄ヘロデ・ピリポの妻ヘロデアと不倫を犯し、ナバテア人アレタス王の娘であった自分の妻を離別し、ヘロデアと再婚したことを「律法違反である」として、洗礼者ヨハネによって公然と非難されたので領主ヘロデはヨハネを、死海の東にあるマケラスの要塞に監禁したのです。
 荒野で育ち、荒野の大地を自由に駆けめぐっていた荒野の預言者ヨハネが、籠の鳥のように、狭苦しい要塞の牢の中に繋がれているのです。彼の唯一の希望は、ナザレのイエスにかかっていました。イエスが一日も早くキリストの御業を行なってくれることでした。「私は悔い改めるために、水で君たちをバプテスマしている。しかし、私の後から来る人は私よりも力あるお方で、私はその人のサンダルを脱がせて差上げる値打ちもない。そのお方は、聖霊と火とによって君たちをバプテスマなさるであろう」(マタイ3・11)。ヨハネにとっての「来るべきお方」は、終末の日に神から遣わされる審判者メシアでした。メシアは木を調べて、良い実を結ぶ木を残し、そうでない木を斧で切り倒し、火に投げ入れる。また、箕(み)を手に持って、打ち場の麦を振い分け、麦を倉に納さめ、殻を火で焼き捨ててしまう。終末の日にメシアに滅ぼされる者の中には、彼を捕えた不義不倫の領主ヘロデとヘロデア、エルサレムの宗教的、政治的指導者や大商人、ローマの総督や軍司令官なども含まれていたことでしょう。とにかく、ヨハネの呼びかけに応えて悔い改めのバプテスマを受けない人は皆、メシアの裁きに耐えず、地獄の火の中に投げ込まれてしまうだろう、とヨハネは考えていたことでしょう。彼はそのメシアの業をイエスに期待していました。「ヨハネは牢の中で(傍点始まり)キリストの業(傍点終わり)について聞いた時」とマタイは書きましたが、(傍点始まり)イエスの業(傍点終わり)と書かずに(傍点始まり)キリストの業(傍点終わり)と書いた所に、そういう意味と同時に、自分の期待が外れたのではないかと思っているヨハネの疑念が暗示されています。
 ヨハネはその疑義をただすために、弟子たちをガリラヤのイエスの許に送りました。「来るべき方はあなたですか、それとも他の人を待つべきですか?」。これがヨハネの問いでした。深刻な質問です。もし「来るべき方」がイエスでないとすれば、ヨハネの働きは無為であったばかりでなく、彼は偽預言者になってしまいます。しかし、もしイエスが「来るべき方」であるとすれば、ヨハネの期待している「キリストの業」と、イエスの行なっている業との間に大きな隔たりがあることになります。
 その質問に対してイエスは肯定も否定もせず、ただ君たち自身がここで見たり聞いたりしていることをヨハネに報告しなさいと言いました。「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人は清まり、耳しいは聞え、死人は生き返えり、貧しい人は福音を聞いている」。ヨハネの大きな期待に比べて、イエスの業は何と細やかなことでしょう。世界の大革命や社会の大改造ではなく、社会の片隅に打ち捨てられた病人、精神と身体の障害者、死者、貧乏人などの許に行って、そこで一人一人の人間を看取るイエス。「見よ、私が選んだわが僕(しもべ)、わたしの心に適う愛する者…彼は争わず、叫ばず、その声を大路で聞く者はない。彼が正義に勝ちを得させる時まで、痛められた葦を折ることもなく、煙っている燈心を消すこともない」(マタイ12・18)。
 イエスの業は此の世的には目立たないものでしたが、実は、終末の日にイスラエルに臨む至福の状態として預言者イザヤによって語られているものでした(29・18〜19、35・5〜6、61・1)。その預言の中には、イエスの業として挙げた6項目の中、らい病人の清めと死人の蘇生の2つはありませんが、この福音書を編集したマタイは、8章と9章に記したイエスの10の奇跡物語の中にすべてを含ませています。終末は、ヨハネが期待した通りではないけれども、イエスの到来と共に確かに来ているのだというのが初期のキリスト教団の信仰でした。
 「貧しい人は福音を聞いている」は注目すべき言葉です。「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私を捕えた。私を遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために」(イザヤ61・1)の預言を受けています。終末の至福の最大の特徴は、神と共にある祝福であり、福音=喜ばしい音信(おとずれ)を与えられることにあります。この言葉は又、「幸いなるかな、霊において貧しい者」(マタイ5・3)に通じています。神を信じないでは生きられない「貧しい者」は、天の国を受けるのです。
 洗礼者ヨハネの終末観と、初期のキリスト教団の終末観との間にはズレがあります。それは「十字架と復活」以前のものと以降のものとの間の相違です。ヨハネは、彼の後に来るべき方が来る。それは終末をもたらし、世界を裁くメシアであると考えていました。ヨハネはそれをイエスに期待していた、と福音書は述べています。初期のキリスト教団は、来るべき方はナザレのイエスである。地上のイエスは終末の預言者として働き、十字架上で死に、復活し、昇天した。今や天的存在者になったイエスは、やがて間もなく人の子として雲に乗って再臨してくる、と信じていました。しかし再臨もなければ、世の終りも来ませんでした。そこでイエスの時代を過去のものとし、今は教会の時代であり、イエスは聖霊として、教会を通して御業を継続させていると解釈されるようになりました。確かに再臨と世の終わりはまだ来ていないけれども、イエスの御心が行われている所に、神の支配と至福の喜びがクリスチャンの交わりにおいて、現実となっているのです。
                      1991年1月13日 礼拝説教 

  「連帯と競合」

 汝(なんじ)ら何を見んとて荒野に出(い)でし、風にそよぐ葦なるか。さらば何を見んとて出でし、柔かき衣を着たる人なるか。見よ、柔らき衣を着たる者は王の家に在り。さらば何を見んとて出でし、預言者を見んとてか。然り、われ汝らに告ぐ、預言者よりも勝る者なり。「見よ、我はわが使者を汝の前に遣わす。彼は汝の前に、汝の道を備えん」と記されたるは此の人なり。アーメン、われ汝らに告ぐ、女の産みたる者のうち、バプテスマのヨハネより大いなる者は起らざりき。されど天国にていと小さき者も、彼よりは大(おおい)なり。
マタイ福音書11章7〜11節

 1月17日午前8時30分、米軍及び多国籍軍がイラクのバグダッドに空襲をしかけたことにより、湾岸戦争が始まりました。この戦争が短期で終結するか長期化するかは予断を許しませんが、いずれにしろ、すっきりとした解決は望めません。「アラブの問題はアラブ人に任せろ」と言っても、アラブ諸国に問題の処理能力はありません。イラクが敗れたとしても、イランやシリアやエジプトなどがアラブの主権の座をねらって、手ぐすねをひいています。アラブ諸国は、連帯と競合の関係にあります。
 洗礼者ヨハネの弟子たちがイエスの伝言をもって帰ってゆくと、イエスはヨハネを称賛し始めました。ここは余りにも名文なので、文語訳に手を入れて冒頭に上げてみました。イエスは群衆に向かって語り始めました。君たちはあの時、ヨハネの呼びかけに応えて荒野に出て行ったのは何のためか? まさかヨルダン川の川辺で風にそよいでいる葦を眺めるために行ったのではあるまい。では何のために行ったのか? まさかそこで、しなやかな衣を着て、ぜいたくに暮らしている人を見に行ったのではあるまい。そんな人間は王宮にいるものだ。では何を見るために出かけて行ったのか? 預言者か? その通り! 君たちに言っておくが、預言者以上の者である。彼ヨハネこそは、預言者マラキによって預言された者である。「見よ、わたし(神)はあなた(メシア)より先に使者(ヨハネ)を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」。真実にかけて君たちに言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現われなかった。彼こそは、律法と預言者の時代の最後に立つ人であり新しいメシアの時代の幕を開ける預言者なのだ。
 マケラスの要塞の牢獄につながれていた洗礼者ヨハネに聞かせたいほどの称賛の言葉です。もし彼がこれを聞いたならば、彼は満足して死ねたでしょう。「イエスは、死に直面している洗礼者を救うことを、御父がイエスの使命となさっていない、ということを確信していた。しかし当時イエスは、御自分のできることをヨハネになさった。つまり、彼はヨハネの職務と仕事の偉大さを民たちに証しした。そして彼らが洗礼者に対して反対したため、自らに招いた罪を民衆に突きつけたのである」(シュラッター)。これはヨハネに対する称賛の言葉であると同時に、目の前にいる民衆に対する非難の言葉でもあるのです。
 君たちが荒野に出て行ったのは葦を眺めるためだったのか? 葦はどの方向から風が吹いてきても、それに逆らわずに従う。君たちも時流に乗るために、一時の流行としてヨハネの許に駆けつけたのか? 君たちは風にそよぐ葦のようではないか? ヨハネはそんな人間ではなかった。彼は誰の顔をも恐れず、パリサイ人やサドカイ人をも「蝮の末裔よ」と呼び、領主ヘロデをも「律法を犯した姦夫よ」とののしった。彼こそは再来のエリヤである。君たちは高価な着物に身を包み、ぜいたくに暮している人間を崇め、憧れている。そして自分自身も柔かい着物を着たいという欲望を募らせている。ヨハネを見よ、彼は堅い着物を身につけていた。彼は地上の栄華を少しも望まず、ひたすら神の命令に忠実であった。君たちが荒野で見出したのは、きらびやかな衣を着た王などではなく、らくだの皮で身を包み、それを無造作に皮ひもで結んでいた神の預言者であったのだ。いや、預言者以上の者だった。何故なら彼は他の預言者によってその到来を預言されていた者だったのだ。私はあえて言う。彼ヨハネこそは、およそ女から生まれた者のうちで、最も偉大な人物なのだ。
 イエスは洗礼者ヨハネを、神の国の福音のために共に労し、共に戦う唯一の友と評価し、彼に強い連帯感を感じられたことでしょう。又、ヨハネの運命の中に、御自身の運命をも見ておられたことでしょう。現代の聖書批評学者は殆んど一致して、10節の引用文と11節の後半は、初代教会の加筆であるとしています。その箇所を飛ばして読むと、ヨハネ称賛のイエスの言葉が大変スッキリといたします。
 「見よ、わたし(神)は使者(ヨハネ)を送る。彼はわが前に道を備える」(マラキ3・1)。ヨハネの教団は、洗礼者ヨハネこそが神ご自身が到来するための道を備えるメシアであり、再来のエリヤ(マラキ3・23)であると主張していたことでしょう。それに対して初代キリスト教団は、ヨハネをイエスの先駆者と位置づけていましたので、マラキの言葉を変更させて引用しています。「見よ、わたし(神)は(傍点始まり)あなた(傍点終わり)(イエス)(傍点始まり)の前に(傍点終わり)使者(ヨハネ)を送り」(マタイ11・10)。11節後半も同様の考えからの加筆です。「しかし、天国で最も小さな者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大である」。ドイツの聖書学者シュニーヴェントはこう註釈しています。「ヨハネは"来るべき者"の先駆者である。それは彼の最高の栄誉でもあり、また彼の低さでもある。2つの思想は11節の著しい言葉において合一されている…キリスト集会が自らを神の国として表し、最小のキリスト者でも洗礼者ヨハネよりも大きいと主張していると言われる。…神の新しい世界、変えられた世界がある。そしてこの世界にはただ変えられた人間だけが入って来るのである。"血肉は神の支配を継ぐことはできない"。女から生まれた単なる血肉の人間は神の支配の中に入って行くことができない。女から生まれた者の中で最大の者さえもできない。神の支配には新しい実存が、新しい誕生が必要である(ヨハネ3・3以下)…」。
                      1991年1月27日 礼拝説教

  「暴力で天国を奪う者」

バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天の国は暴力にさらされており、暴力をふるう者達は天の国を奪い取っている。         マタイ福音書11章12節

 この言葉を福音書の中から取り出して、今、亡命中のクウェート人に読ませるならば、天の国と彼の祖国の運命を重ね合わせて考えて、涙を流すことでしょう。サダム・フセイン大統領とイラク軍によって、クウェートは暴力をもって奪われました。又、いまソ連軍によって制圧されているバルト三国の人々も、同様な思いをもつことでしょう。1月13日と20日の「血の日曜日」の弾圧によってゴルバチョフ大統領は、天安門事件の最高責任者[トウ]小平氏と同じ独裁者の道を歩き始めました。
 この言葉をどう解釈するか、という質問をある姉妹から受けているのですが、実はこれは聖書学者泣かせの言葉の中の一つなのです。「この言葉の正確な意味はもはや解らなくなってしまった」(ブルトマン)。この言葉が本来もっていたはずの情況から切り離されてしまっているので、初代教会の段階ですでにその解釈が困難になってしまったようです。この言葉はマルコ福音書にはなく、Q資料にあったものをマタイとルカがそれぞれの福音書に取り入れたのですが、ルカはマタイとは全く違った文脈の中で、ずっと分かり易い形に直して、載せています。「律法と預言者とはヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音は告げ知らされ、だれもが力ずくで(暴力的に)そこに入っている」(16・16)。ここでは、洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の所に立っています。律法と預言の旧い時代はヨハネの出現をもって終わりを告げ、今や、イエスの出現と共に福音と実現の新しい時代が到来した。「時は満ちた。神の支配は近づいた。君たちは悔い改めて福音を信ぜよ」。その時、救いを求めてイエスの許に殺到して来たのは、宗教的、政治的権力者や学者などではなく、病人、身体障害者、精神病患者、らい病人、貧乏人、賎業にたずさわる者など、いわゆる「地の民」と呼ばれて差別され、軽蔑されていた人たちでした。そういう人々が、丁度すし詰めの満員電車に力ずくで乗り込もうとして奮闘する者のように、イエスの許に押しかけて来たのです。「幸福(さいわい)なるかな、霊的に貧しき者(神を信じないでは生きられない者)、天国は彼らのものなり」。ルカの言葉は、以上のような意味をもっています。
 マタイの言葉は、解釈がもっと困難で、複雑です。それで問題点をよく整理しているエルサレム・バイブルの脚注を利用して、御一緒に考えてみましょう。暴力を、よい意味に解釈する場合と、わるい意味に解釈する場合とがあります。
 (1)暴力的なまでに、奮闘努力して神の国を求めよ。信仰は確かに、神様から無償で授けられる賜物ですけれども、その反面、「力を尽くして狭き門より入れ!」と言われているように、生半可では決してキリストの十字架の道に従って行くことはできない。またイエスの当時、パリサイ派の人々は、イスラエルの民が完全に神の律法を実行した時に神の国が実現する、と信じて律法厳守に励んでいました。
 (2)文字通り、暴力を行使してでも、神の国を積極的に来らせよ。熱心党(ゼロータイ)の人々のやり方がこれでした。武装蜂起して、支配者ローマの枷を壊し、抵抗運動を促進し、イスラエルに危機を招来させれば、神は天からこれを見そなわし、その時こそ万軍の主として、その全能を発揮して敵を殲滅(せんめつ)して下さり、勝利の後には、神が王として直接の支配をして下さるに違いない。これはユダヤ人過激派の聖戦思想の論理でした。
 (3)此の世を支配している宗教的、政治的権力者や悪霊共などというサタンの勢力が暴力をもって神の支配を阻止し、福音のために働く者たちを迫害し、神の支配を横取りしている。洗礼者ヨハネが出て、天の国が近づいたから、罪を悔い改めてバプテスマを受け、神の審判(さばき)の日に備えよと説教し、義の道を示したのにも拘らず、宗教的、政治的指導者たちは彼に従わず、領主ヘロデ・アンテパスは彼をマケラスの牢獄につないでしまった。次いでイエスの出現と共に神の支配は到来したのだが、此の世の権力者達や悪霊共が激しく抵抗し、その御業を奪い去ろうとしている。神の国はそのように暴力をもって犯され、人々に踏みにじられたものとして地上に存在している。
 (4)神の国は、此の世の権力者達や悪霊共のあらゆる反対にもかかわらず、暴力的なまでに力強く、前進し続けている。
 以上、4つの解釈のうち、(2)と(4)は明らかに的外れです。ルカと共に(1)を支持する人は多数おります。私としては、洗礼者ヨハネの受難や、主イエスの十字架を考え合わせて、(3)の解釈が一番妥当であると考えています。
 ユニークなのは「アフリカの聖者」アルバート・シュヴァイツァーの解釈です。彼は「生命の畏敬」の思想によって、蠅や蚊を殺すことにも反対した心優しい人でしたが、聖書解釈はかなり過激でした。彼はこの問題に関して、「イエス伝研究史」の中で大変詳しく論じています。「アーメン、君たちがイスラエルの町々を回り終わらないうちに、人の子は来るであろう」(マタイ10・23)。「その当時イエスは、終末の患難の端緒をつくり、それによって御国をどうにかして招来せしめることを考えていた。約束された動乱は起こらなかった」。これが最初の期待外れとなった。次に「イエスがピリポ・カイザリアへの途上で表明する受難の秘密において、他の人々に対するメシア来臨に先行する患難は廃棄され、放棄され、イエスだけに集中され、実際、患難がエルサレムにおけるイエスの受難と死の時に終わるというふうに変えられる。それはイエスに生じた新しい認識である。イエスは他の人々に代わって苦しみを受けなければならない…御国が到来するために」。これも又期待外れに終わり、「わが神、わが神、何ぞ我を見捨て給いし」と言って絶望のうちに死ぬ。イエスが最高の苦しみを受ける瞬間に起こるものと期待していた神的介入は、幻滅に終わったのである。
 徹底的に父なる神への信頼と服従に生きる神の子イエス・キリスト。これが福音書の描くイエスの全体像です。A・シュバイツァーの解釈は的が外れています。
                       1991年2月3日 礼拝説教

  「預言者の悲哀」

 この時代を何に例えるべきだろうか。それは、町の広場に座り、互いに声をかけ合い、私達は君達のために笛を吹いたが君達は踊らなかった、弔いの歌を歌ったが君達は胸を打たなかった、という子供達に似ている。ヨハネが来て、食べたり飲んだりしないでいると、彼は悪霊につかれていると言う。人の子が来て、食べたり飲んだりすると、見よ、彼は大飯食いの大酒飲み、取税人と罪人の仲間だ、と言う。しかし知恵の正しいことは、その業が証明している。      マタイ福音書11章16〜19節

 湾岸戦争の真っ最中です。日本では米国から軍事費負担分として要求されている90億ドルの支出をめぐって議論が闘わされています。イラクは論外として、米国にも支援諸国にも、正義の姿が見出せないやりきれなさが私たちの中にあります。
 預言者は、神の義に立って預言をします。「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」(アモス5・24)。バプテスマのヨハネは偉大なる義の預言者でした。彼は荒野で育ち、荒野の食物を食べ、荒野の生活者の衣服を着ていました。そして荒野で主の召命を受けました。「神の言葉が荒野でザカリアの子ヨハネに降った」(ルカ3・2)。彼は「荒野で叫ぶ者」となり、彼の叫び声は都市の生活者や町々村々の住民の耳を打ち、心に響き、その結果、人々は大群衆となって、ユダの荒野にいるヨハネの許にぞくぞくと出て来ました。彼は到来する義による神の審判を宣べ伝え、民衆にも、政治家や宗教家にも、取税人や兵士にも、悔い改めてバプテスマを受け、正しい生活に励むように教えました。「ヨハネは善人であって、ユダヤ人たちに、徳を実行して互に正義を求め、神に対しては敬虔を実践して、洗礼に加わるように教え勧めていた」(ヨセフス)。そして彼の許に止まって彼の弟子になる志望者達には、断食と禁欲の道を教えました。ヨハネは終に、ガリラヤとペレア地方の領主ヘロデ・アンテパスの姦淫の罪を公然と非難したことにより、ヘロデによって逮捕され、マケラスの牢獄に幽閉されてしまいました。
 ナザレのイエスは別のタイプの預言者でした。彼はヨハネからバプテスマされた後、直ぐにヨハネの許を離れ、しばらく荒野で孤独の瞑想生活を送りました。その後ガリラヤ地方に現われ、喜びに満ち溢れて、「新しい時代が来た、神の支配が到来した、君たちは悔い改めてこの福音を受け入れ、神の支配の中に入りなさい」と説き始めました。そして彼は弟子達を呼び集め、彼らと共にガリラヤの町々村々をめぐり歩き、神の福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追放しました。病気の癒しと悪霊の追放は、神の支配の到来のしるしでした。彼は洗礼者ヨハネとは全く違って断食や禁欲を行なわず、人々との交わりを愛し、招かれれば共に食べ、勧められれば共に飲みました。人々は不思議に思って彼に尋ねました、「ヨハネの弟子達とパリサイ派の弟子達は断食をしているのに、何故あなたの弟子達は断食をしないのですか?」 断食の励行は信仰生活の証しだと思っているのです。イエスの信仰の在り方はそれとは異なりました。「これは婚礼の席です。この人達は神の国の宴席に招かれているのです。このような喜びの時には、断食はふさわしくありません」(マルコ2・19)。イエスと共に談笑し、飲食をしている人々は、社会から不可触賤民として軽蔑され、差別をうけている取税人や罪人、売笑婦や貧乏人などでした。彼らは神の恵みから落ちこぼれ、律法から断罪されていた人々でした。しかし、世にも不思議なこの会食の席を、福音書は「メシアの饗宴」として表わしているのです。ここにキリストの福音による救済の様子が描かれているのです。私たちは聖人君子のように成って救われるのではない。イエスの呼びかけに応えて御許に集い、イエスのおられる所に一緒に居させていただくだけでよいのです。
 ユダヤ教の律法が社会体制になっていた当時にあっては、イエスの思想と活動は反社会的なもの、危険なものと見られ、権力的な体制側の反撥が日増しに強化されていました。イエスに対する非難と中傷の声は次第に高まってきました。
 イエスはその時代の人々を、子供達の遊びに例えました。数人の子供達が出て来て、陽気な調子で笛を吹き、広場に座っている他の子供達に向かって、「ねえ、お嫁入りごっこをしようよ」と誘いかけます。しかし誘いを受けた子供達は「嫌だよ」と言うだけです。それじゃぁ、というわけで今度は、沈んだ調子で挽歌をうたい始め、「ねえ、お葬式ごっこをしようよ」と誘いかけます。しかし今度も、「嫌だよ」と言って断ってしまいます。
 この例えによって、当時のユダヤの社会が2人の終末的預言者、ヨハネとイエスをどのようにあしらったかが語られます。挽歌をうたったのはヨハネで、陽気な曲を吹いたのはイエスでした。ヨハネが現われて、禁欲に徹して飲み食いをしないと、あれは普通じゃぁない、悪霊に取りつかれて気が狂っているのだと悪口を言い、あんな者は相手にするなと言って敬遠し、イエスが出て来て、普通人と同じように飲み食いをしていると、預言者気取りでいるくせに少しも預言者らしくしていない。税金取りや罪人など、あんな汚らわしい連中の仲間になって、大飯を食い、大酒を飲んでいる。実に嘆かわしい次第だ、あんな者は呪われよ、と言って非難している。世間が神の預言者を受け入れないことは、先週学んだ「暴力を受ける天の国」と一対になっています。この世における神の国の運命は、マケラスの牢獄で首を切られたヨハネと、ゴルゴダの丘の上で十字架刑に処せられたイエスの姿の中にはっきりと現わされているのです。「ヨハネは禁欲の道を、イエスは自由の道を提供したが、民衆はそのいずれの道をも行くことを欲しなかった」(E・シュバイツァー)。
 「しかし知恵の正しいことは、その業が証明している」。ルカは「その業」を「その子供達」と解釈しています(7・35)。その「知恵」とはヨハネとイエスの業のことで、「その子供達」とは、イエス・キリストの福音を受け入れた取税人や罪人達のことを意味しています。
                      1991年2月10日 礼拝説教 

  「洗礼者ヨハネの最後」

 そこでヘロデ王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持ってくるようにと命じた。衛兵は出て行き、牢獄で彼の首を斬って、それを盆に載せ、持ってきて少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子達はそのことを聞き、やってきて、遺体を引き取り、それを墓に納めた。              マルコ福音書6章27〜29節

 数日前、イラクの首都バグダットの防空壕に多国籍軍のミサイルが命中し、数百人の市民が犠牲になりました。又、サダム・フセイン大統領は2月15日、イラク軍のクウェート撤退とその条件を提案しました。政治家達は政治ごっこをし、軍人達は戦争ゲームをし、マスコミ関係者達は報道合戦をし、一般庶民だけが犠牲になって悲しみ苦しんでいます。その陰で笑いが止まらないほど大儲けをしている軍事産業や石油産業の資本家達がいます。「この世全体が悪い者(サタン)の支配下にある」と喝破しているヨハネの言葉の正しさが、これによって証明されています。
 今日の学びはマルコ福音書6章14〜29節ですが、そこに2つの物語があります。14〜16節は、ヘロデ王がイエスの評判を聞き、人々がイエスは洗礼者ヨハネの再来だとか、エリヤだとか、預言者の一人だとか言っているのを耳にし、ヘロデ自身がヨハネを殺害した後ろめたさをもっていたので、「あのヨハネが生き返ったのだ」と言っている話です。ここに「ヘロデ(傍点始まり)王(傍点終わり)」とありますが、正しくは「四分領主(テトラールケース)」で、領土の4分の1を治めるにすぎない領主のことです。ヘロデ大王の死後、王妃マルタケの長男アケラオが民族統治者(エトナルケース)に任命されてユダヤとサマリヤを治め、次男アンテパスが四分領主とされてガリラヤとペレアを治め、別の王妃クレオパトラの息子ピリポが四分領主とされてテラコニケとその他の地方を治めていました。
 この「ヘロデ王」はアンテパスのことで、彼は父ヘロデ大王にあやかって「ヘロデ」と自称していました。しかし実は更に別の王妃マリアムネ2世の息子にヘロデという名の人がいました。彼は父大王に対する反逆の嫌疑のため領地をもらえず、妻ヘロデアと娘サロメと共にローマで暮していました。アンテパスとヘロデアが不倫関係になったのはローマでのことでした。アンテパスは既に妻としていたナバテア人の王アレタス4世の王女と離縁し、ヘロデアと再婚しました。娘を傷つけられたアレタス王は軍隊を派遣し、アンテパスの軍隊を手ひどく打ち負かしました。洗礼者ヨハネも又、他の方法でアンテパスを攻撃しました。彼は公然と領主とその妃を「姦夫姦婦」と呼び、律法違反のかどで激しく非難しました。「兄弟の妻を犯してはならない」(レビ20・10)。そのために洗礼者は領主夫妻の怒りを買い、逮捕されて、死海の東岸にあるマケラスの要塞の地下牢に監禁され、殺害されてしまいました。その後、イエスの活動がガリラヤ地方で評判になり始めた頃のアンテパスの気持をマルコが伝えています。「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」(16節)。
 17〜29節にはヨハネ殺害の経緯(いきさつ)が過去の出来事として語られています。これはマルコ資料で、マタイは例によってマルコに沿って物語を進めながら、短縮し、変更させています(14・3〜12)。ルカはアンテパスの言葉だけを伝えて(9・9)、物語を省きました。マルコに沿って物語を要約すると、アンテパスはヨハネを預言者として尊敬し、恐れていたが、ヘロデアはヨハネに恨みをもち、殺害の機会をねらっていた。するとよい機会がきた。アンテパスの誕生日に祝宴が開かれ、高官や将校やガリラヤの有力者達が招かれ、宴たけなわになった時、ヘロデアの娘サロメが出て来てダンスをして宴席を大いに盛り上げた。喜んだアンテパスは「欲しいものを言ってみよ、褒美を与えよう、願いとあらば国の半分でも与えよう」と誓った。娘は母と相談し、母の入れ知恵で、「ヨハネの首を」と願い出た。領主は大いに困惑したが、客の前で誓った手前、止むを得ずヨハネの首を斬らせてそれをサロメに与え、彼女はそれを母に渡した。ヨハネの弟子達は師の受難を聞き、師の遺体を引き取ってそれを墓に納めた。
 この物語は史実であるかフィクションであるか、聖書学者の間で意見が分かれています。私は、この物語はヨハネ教団の中で生まれ育った「ヨハネの受難」の伝説を、マルコが福音書の中に取り入れたのではないかと考えています。その理由は、この物語の中にキリスト教的な色彩がないこと、アンテパス−ヘロデアの関係はアハブ王−イゼベル王妃の関係(列王記上19〜21章)に似ていること、エステル書の影響(5・3、7・2)が見られること、王女が人前でダンスをすることはあり得ないこと、四分領主が領土を自由に与える権限は無かったこと、宴会の場所はガリラヤの首都ティベリアの宮殿でありながら、ヨハネの監禁場所は、ヨセフスによると、そこから直線距離にして150キロも離れたマケラスの要塞であったことなどです。ヨセフスは、アンテパスのヨハネ殺害は、領主がヨハネの影響による社会騒乱を未然に防ぐためだったとしています。
 マタイはこの物語を記した直後に、一寸した微笑ましいミスを犯しました。14章3〜12節でこの物語を過去に起こった出来事として語っておきながら、つい物語の中に引き込まれてしまって、13節に「イエスは(傍点始まり)これを聞くと(傍点終わり)、舟に乗ってそこを去り」と書いてしまいました。これではイエスの退去の原因が、ヨハネの受難のニュースが伝えられたためであったかのような錯覚を読者に起こさせます。時代錯誤です。
 その後領主アンテパスはイエスの存在を警戒し始めました。それを察知したパリサイ派の人々が来て領主の殺意をイエスに告げると彼は「行ってあの狐に告げよ…」(ルカ13・32)と言いました。ヘロデ大王は狂暴で、その息子アンテパスは狡猾でした。更にその後イエスの裁判の時に、その「狐」は興味本位にイエスにいろいろ質問しましたが、イエスは彼を問題にされず、沈黙を守り続けました(ルカ23・6以下)。
 マルコがヨハネの最後を記した理由は明らかです。先駆者ヨハネの運命は救世主イエスの運命の予表であり、両者は連動して神の御業を行なっているということです。
                      1991年2月24日 礼拝説教 

  「パンと魚の奇跡」 (1)

 イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、緑の草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、2匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。
                         マルコ福音書6章39〜41節

 「石油のために血を流すな」と、湾岸戦争に反対している人々は叫んでいます。この戦争は正義のための戦争ではなく、現代世界経済の中心である石油の権益を守るための戦争です。私たちはこの戦争から目を逸(そら)さず、これに注目して、そこから教訓を得れば、戦費負担金90億ドルの月謝は安いものです。この戦争を注視してこの世の正体を見極めることにいたしましょう。それは、奪い合う人間の姿です。
 その反対に、分け合う人間の姿が今日の聖書個所に示されています。「美しい春の夕べに、ガリラヤ湖畔の静かな場所に、人々はグループになって緑の草の上に座わり、弟子たちはその間を行きつ戻りつ、パンと魚とを配って歩いている」(ウエルハウゼン)。イエスはパンを手に取り、目を天に向けて、「主なる我らの神、世界の王なるあなたはほむべきかな。あなたはパンを地から生ぜしめ給う」と唱えて創造の神をほめたたえ、その御業に与(あずか)れる恵みを感謝し、丸い形の大麦のパンを裂いて弟子たちに渡し、弟子たちはそれを魚と共に人々に配って歩いている。野外の夕食会であるため、希望する者は誰でもその食事に与ることができた。人数に制限はなかった。男も女も子供も、取税人も罪人も、貧乏人も身体障害者も、ユダヤ人も外国人も、誰でも自由に参加することができた。その時、天の国が地の上に現実となってその姿を現わしていた。
 私はこの教会の愛餐会が大好きです。礼拝が終わると、女性たちがいそいそと食事の準備をする。男性たちもお手伝いをする。当番を決めたり、会費を集めたりしないで、一つの家族のように食べ物を自由に持ち寄り、皆でそれを分け合って感謝して楽しむ。希望者は誰でも自由に参加することができる。私たちはここで、主の家族として、貴重な経験を分け合っているのです。
 マルコの記述に従って学びを進めましょう。イエスは故郷のナザレで伝道した後、12弟子たちを二人一組にしてガリラヤの町々村々に福音伝道のために派遣いたします。マルコは、時間の経過を示すための手段として、洗礼者ヨハネの殉教の記事を差し挟みます。派遣された弟子達が帰ってきて、伝道の成果をイエスに報告します。イエスは弟子たちの労をねぎらい、人里離れた場所に行って食事や休息をとらせるために舟で対岸に向かいます。しかしそれを見た群衆は湖岸沿いに走って先回りして行き、イエスの一行の到着を迎えます。イエスは意向を妨げられたことを腹立たしく思わず、却って深い同情に動かされます。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、多くのことを彼らに教え始められた」。人々がイエスに求めたものはパンではなく、心の糧であり、生命の言葉でした。
 「羊飼いなき羊の群」というテーマは、イスラエルの全歴史に関わる運命を表わしています(民数27・17、列王上22・17、ゼカリヤ10・2)。バビロンの捕囚地で、主はエゼキエルに語りました、「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病める者を癒さず、傷ついたものを包んでやらなかった…彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、散り散りになった…」(34章)。政治的指導者も宗教的指導者も、民衆を食いものにするが、彼らに愛の保護を与えることをしない。それ故、神御自身がイスラエルの牧者となって、「わたしの群を養い、憩わせる」と言われました。
 ここで「羊飼いなき羊の群」が語られているのは、主イエスが「良き羊飼い」であるというマルコの信仰(原始キリスト教会の信仰)が語られているのです。そこでイエスが語られた教えの言葉をマルコは記していませんが、イエスは神の国の到来の喜びについて力をこめて語り、聴集は時の経つのを忘れて聞き入っていたことは確かです。イエスの語る一言一言が魂の糧となり、生きる力になりました。いつの間にか時間が過ぎ、夕暮が近づいていました。それに気がついてイエスに注意を促したのは弟子たちでした。無理もありません。彼らは伝道旅行から帰ったばかりで、食事と休息を与えられていませんでした。彼らはイエスに近づき、「ここは人里離れた所で、時間もおそくなりました。人々を解散させて下さい。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と提言しました。これは全く常識的な考えです。しかしイエスの答えは意外でした。「君たちが彼らに食べ物を与えなさい」。弟子たちは驚き、当惑しました。「それはできません。200デナリものパンを買ってきて、彼らに食べさせるのですか? 第一そんな大金はありません」。「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とイエスは命じました。弟子たちは確かめてから、「5つあります。それに魚が2匹」と答えました。イエスと弟子たちが持っていた食べ物は僅かそれだけでした。しかしイエスにとってはそれで十分でした。時は春。緑の草があり、草の間に白、黄、赤、紫の花が一面に咲いていました。そこに人々は組に分かれて整然と座りました。イエスは進み出てパンを取り、天を仰いで感謝の祈りを捧げてパンを裂き、弟子たちに渡し、彼らはそれを魚と一緒に、人々に配り始めました。人々は食べて満腹しました。食べ残したものを集めると12の籠に一杯になりました。供食された人数は女と子供を除いて、男五千人でした。パンと魚の食事は、貧しい人の日常の食事でした。この供食は全く自然に行われ、これが大奇跡であったことを、人々は全く知りませんでした。
                       1991年3月3日 礼拝説教 

  「パンと魚の奇跡」 (2)

 イエスは「人々を座らせなさい」と言った。そこには沢山の草があった。そこに座った男の数は約五千人であった。するとイエスはパンを取り、感謝を捧げて、それらを座っている人々に分け与えた。魚も同じ様にした。人々は欲しいだけ食べて、満腹した。                        ヨハネ福音書6章10〜11節

 イエスが5つのパンから五千人に夕食を与えた場所は、ルカは「ベッサイダ」であったと言い、ヨハネは「ガリラヤ湖の向こう側」即ち湖の東岸であったと記していて、その場所を特定することはできません。伝統的には、カペナウムの近くにタブガという場所があり、そこに4世紀頃「増殖教会」が建てられ、その教会の床に描かれた「パンの籠と2匹の魚」のモザイクが今でも残っています。
 この奇跡は、4つの福音書に共通に記された唯一の奇跡です。よほど初期のキリスト教会にとって印象深い奇跡物語であったに違いありません。パンを増殖したというこの奇跡は、「石を変えてパンにせよ」と言うサタンの誘惑を拒否した物語と矛盾しないかという問題があります。イエスはパリサイ派の人々が来て「天からの徴(しるし)」を求めた時に、その不信仰を心の中で深く嘆いて、徴を行なうことを拒否いたしました(マルコ8・11〜12)。イエスは自分の身分証明のためのデモンストレーションとして奇跡を行ないませんでした。それは全く健全な在り方です。しかしこの奇跡は、人々の必要に対する同情の余りに行なわれたものです。そして、パンと魚を食べた民衆は、それが大奇跡であることを全く知らずに普通の夕食として食べたのでした。これは注目すべき点です。「自分のパンを心配することは利己的行為だが、他人(ひと)のパンを配慮することは宗教的行為である」(N・ベルジャーエフ)。
 パンの増殖がいかにして行なわれたかという問題に対して4人の福音書記者は全く沈黙しているところから、様々な解釈が生まれてきます。(1)パンは実際に殖えたのである。イエスの力によって、過去に一回だけこの奇跡が行なわれたのである。(2)この奇跡は聖餐式を表わすものであって、人々はごく少量の食べ物をいただいたのだが、心満たされて帰って行ったのである。(3)イエスが自分のパンを人々に分け始めたところ、それを見た人々は、各自所有していたお弁当を隣人たちに分け合い始めたのである。イエスの愛の感化によって、自己中心的な人々が、喜んで自分の所有を他人に分け与えるものに変えられたのである。どの解釈も説得力がありません。
 奇跡を大別すると3種類になります。(1)治癒奇跡。(2)悪魔祓いの奇跡。(3)自然に対する奇跡。その中、(1)と(2)は、誇張されてはいますが、科学的医療が未発達であった古代においては、カリスマ的な能力をもった宗教家たちが病気の治療や悪魔祓いを行なって、それなりの効果もあったことは、理解できます。(3)の奇跡が現代人にとって最も受け入れ難いものです。これは自然の法則に逆らって行なわれる奇跡だからです。イエスが命令すると嵐が治まり、イエスが祈るとパンが増殖するという種類の奇跡です。その種の奇跡の場合、聖書に書かれたそのままのことが起こったのだと考える必要はありません。物語の背後に何かの出来事があり、それが変形されたり、誇張されたりして、今ある形になったのです。
 パンと魚の奇跡の場合も、人々を納得させるような合理的な説明はできません。奇跡によってパンが与えられた事跡は、まず、イスラエルの民がエジプトを出発して荒野の旅に出た時に、神は民の必要に応じて「天からのパン」を降らせました(出エジプト記16・4以下)。また、預言者エリヤの時代に大旱魃があった時、シドンのサレプタのやもめとその家族が、エリヤの奇跡によって養われました。「主がエリヤによって告げられた御言葉の通り、壺の粉は尽きることなく、瓶の油も無くならなかった」(列王上17・16)。更に、預言者エリシヤが奇跡によって百人の人々を養ったことがありました。「人々に与えれ食べさせなさい。主は言われる。"彼らは食べきれずに残す"」そしてその通りになりました(列王下4・43)。
 このような旧約の事跡を踏まえて、マルコは、イエスはエリヤよりもエリシヤよりも偉大であると語り、ヨハネは、彼はモーセよりも優れていると証ししているのです(ヨハネ6・32)。それによって福音書記者達は、イエスは欲すれば5つのパンで五千人を養うことができるお方である、と物語っているのです。彼らは、イエスの復活を経験した者としての立場から見ています。イエスの復活によってすべてが一変した。隠されていたものが明らかになり、神の奥義が示され、旧約時代の預言が成就し、希望が現実となった。イエスは大能の神の御子であり、父なる神の創造の御業に参与されたお方である(ヨハネ1・1〜5)。初代教会の人々は、「イエスは復活して今、我らの主として生きておられる。主イエスは人間の歴史の主であるとともに自然界をも支配しておられる。それ故に、彼が命じれば嵐は静まり、彼が欲すればパンは増殖する」と信じていました。彼らは、復活のイエスにはそれができるが、地上のイエスには不可能だったとは決して考えませんでした。復活のイエスは地上においても同じイエスであり、彼が欲すれば自然法則を破って何事でもおできになる、と信じていました。それでその事に無理解であった弟子達は厳しく責められました(マルコ6・52他)。現代でも古代の福音書記者達と信仰を同じくする信者達もいます。しかし、自然科学の教育を受けて育った現代人はつまずきを感じるのです。復活の主イエスの全能は信じるが、イエスが地上で生きていた時には、彼は自然法則の下にあり、我らと同じく人間としてのあらゆる制約の下にあったに違いないと思うのです。「己れを低くしたイエス」(ピリピ2・7)を信じて、現代に課せられた重荷を負って生きることも又、許されているのです。弟子のトマス(ヨハネ20・25)は現代人の代表です。主イエスは古代人の信仰と現代人の要求とを認めて下さっています(同20・29)。主に叱られつつも、主を信じ、主を愛して誠実に歩んで参りましょう。
                      1991年3月10日 礼拝説教