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マルコ福音書の研究

  「シモンの姑の癒し」

 イエスは会堂を出ると直ぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家に入って行った。今、シモンの姑が熱病で寝ていた。さっそく人々は彼女のことをイエスに言うと、彼は近寄り、彼女の手を取って起こした。すると熱病は去り、彼女は彼らをもてなした。マルコ福音書1章29節〜31節

 ユダヤ教徒にとって安息日(シャバット)は、光と歓喜の日です。それは金曜日の日没少し前に始まります。主婦はローソクに火をともして安息日の始まりを告げます。安息日の晩餐の前に家族は食卓を囲んで立ち、父親は杯にブドー酒を注ぎ、それを手にもって「キドゥーシュ」を唱えます。「主なる私たちの神、永遠の王、あなたは賛むべきかな。あなたはブドウの実(喜びの象徴)を創造されました」。一同は「アーメン」と言います。父親がパンを祝福し、一同が着席すると、母親が料理を出してきて、食事が始まります。家族は御馳走を楽しみ、シャバット賛歌をうたいます。翌朝は家族そろって会堂へ行き、礼拝を守ります。それから昼食を楽しみ、友人を訪ねたり、散歩をしたり、読書をしたりしてのんびりと時間を過ごし、一週間の労働の疲れをいやします。
 イエスがカペナウムの会堂で不浄の霊につかれた男を癒されたのは、朝の礼拝の時でした。そして会堂を出ると直ぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家に入って行きました。現在カペナウムの会堂の遺跡に隣接して、漁師ペテロの家の遺跡があります。「V・コルボによれば、後一世紀にすでに存在した居住区(インスラ)が、発掘調査の時に、より低い地層から発見された。この居住区内につくられた共同体の小さな集会所は、一世紀以後、その土地のユダヤ人キリスト教徒の礼拝の場所とされ、特別な敬意が払われた。…その土地に伝わる伝承でペテロの家とされる敷地は、カペナウムのユダヤ人キリスト教徒と、後に西方から訪れるキリスト教の巡礼者の信仰の場になった。この神聖な集会所の壁に残された象徴や落書きの彫り込みに彼らの信仰が明白に表現されている」(ガーリャ・コーンフェルト著「歴史の中のイエス」)。
 会堂での礼拝の後、シモンはイエスを食事に招待しました。巡回説教者はよく熱心な信者から食事のもてなしを受けたものでした。イエスがシモンの家に入るとすぐに、シモンの姑が熱病で床についていると知らされました。マラリヤであったかも知れません。イエスはすぐに彼女に近寄り、彼女の手を取って起こしました。すると彼女は起き上がって、イエスの一行をもてなしました。これは完全な癒しが行なわれたという証拠です。イエスの神的な力が彼女を癒したのです。この癒しの情況をルカはもっと派手に記しています。「イエスは近寄って身をかがめ、熱病を叱りつけた。すると熱が去り…」(4・39)。先週学んだ個所でも、イエスは不浄の霊を叱りつけてこれを退散させました。また暴風と荒海とを叱りつけると、風も波も静まりました(マルコ4・39)。つまり当時は、精神病も熱病も暴風もその原因は一つで、悪霊の仕業と信じられていました。それでイエスは神の子の権威をもって悪霊を叱りつけると、不浄の霊は退散し、熱病は去り、暴風は静まりました。これらはすべて一貫して、神の国の福音伝道の御業でした。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の支配は君たちのところに来ているのだ」(ルカ11・20)。イエスがそこにいまして、御言葉を語り、御業を行なうところに、神の支配は打ち建てられ、神の国は現実となっているのです。「神の国は実に、君たちの真ん中にあるのだ」(ルカ17・21)。
 シモンとその家族の親切なもてなし(ホスピタリティ)が、主の御業が行なわれる機会となりました。このエピソードは図らずもシモンが結婚していたことを現わしました。それから約30年後、ペテロは妻を連れて伝道族行をしていたことがパウロの手鹿に書かれています(コリント第一書9・5)。アレキサンドリアのクレメントの書に、「ペテロは妻をもち、彼女が婦人の信者たちの世話をして、夫の伝道を助けた」と記されています。
 「彼女は彼らをもてなした」。これは「給仕をした」という意味の語で、この語によってイエスがシモンの家に行った理由が明らかにされています。当時ユダヤ教のラビたちは、婦人の存在は男の誘惑になるという理由で、婦人が食卓に仕えることを許さなかったのですが、イエスは全く自由で、婦人に対する偏見が全く見られないことは、驚くべきことです。「仕えた(デイアコネイ)」という動詞は継続的動作を示す未完了過去形ですので、イエスはその時からシモンの家をガリラヤ伝道の根拠地とされたのかも知れません。婦人たちがイエスに「仕える(デイアコネオー)」場合に、この語が使われています(マルコ15・41、ルカ8・3、ヨハネ12・2)。これによって食事の準備や給仕や後片付けは、決して卑しい仕事ではなく、尊い愛の業に高められました。
 シモンの姑はこうしてイエスに仕えました。これはイエスの教えに驚いたり(22節)、奇跡を見て驚嘆したり(27節)した人々よりも信仰的に進んでいることを示しています。教えに感心したり、奇跡を見て驚くだけではなく、イエスに仕えるようになること、イエスに従うということは、彼に仕えることである、とシモンの姑は私たちに教えています。
 共観福音書が揃ってこの短いエピソードを記していることから察すると、原始キリスト教会創設にあたって重要な役割を果たした使徒ペテロのなつかしい思い出話として、信者たちはこの話を保存し、伝えたことでしょう。しかし又、このエピソードは短いものながら、奇跡物語の形式を備えています。悪妻に苦しめられている者がいる。イエスが近寄り、手を取って起こす。効果が直ぐに現われて人々は驚く。その者はイエスに従う。この物語には出来事の中核があったに違いない。しかしそれが生のままで伝えられたのではなく、一つの様式をもって奇跡物語として書き改められています。記者マルコが使徒ペテロの思い出話を口述筆記したのではなく、口伝による伝承という経過を経て、現在の形に発展してきているのです。ペテロの姑の癒しの物語は、福音書の性格を知る上で重要な手がかりを私たちに与えています。
1990年7月1日  礼拝説教

  「メシアの秘密」

 夕方になって、太陽が沈むと、人々はすべての病人や悪霊につかれた者を、イエスの許に連れて来た。かくて町全体が門口に集まった。そしてイエスは様々な病気に苦しんでいる大勢の人を癒し、また多くの悪霊共を追い出し、彼らに物言うことを許さなかった。悪霊共がイエスを知っていたからである。マルコ福音書1章32節〜34節

 常識の世界に住んでいる者が、信仰の青空を見上げようとすると、そこに奇跡という雲がかかっていて、その望みを妨げているように見えます。信仰のある人にとっては、奇跡は当り前で、奇跡を行なう能力(ちから)のないイエスに祈る気持は起きません。しかし又、信仰を求めていながらまだ得られない人にとって、奇跡は実にやっかいなもので、天国の門前にいる赤鬼、青鬼のようなものです。奇跡が信仰を生むのか、信仰が奇跡を生むのか。どちらが先か分からない問題の例として「たまごが先か、にわとりが先か」というのがあります。しかしこれは創造の秩序から考えれば、親が子を生むのであって、子が親を生むのではないのだから、にわとりが先なのです。神様がにわとりを造り、にわとりがたまごを生むのです。信仰者の人生観には秩序があります。
 「初めに神が天と地とを創造した」(創世記1・1)。これが聖書の世界観の大前提です。すべてのことはそこから始まります。新約聖書の信仰は、旧約の創造論を受け継いで、「初めに言(ロゴス)(神の子イエス)があった」(ヨハネ1・1)という前提から福音書のイエスの生涯が始まるのです。信仰は人間的思考の所産ではなくて、神の賜物なのですから、奇跡が分からないと言って思い悩むのではなく、信仰を与えて下さいと願い求めることが大切です。そしてその信仰は、復活のキリストに出会うという経験によるのです。生けるキリストに出会って倒される。そして彼に起こされる。すると倒される前の自分と、起こされてからの自分とでは本質的に全く異なっている自分を発見するのです。復活のキリストとの出会いという最大の奇跡を経験すると、他のもろもろの奇跡は、いかにもイエスにふさわしいものに見えてくるから不思議です。
 「夕方になって、太陽が沈むと」。カペナウムの一日の終わりです。イエスはその時までシモンの家にいたことになります。そして夕方になると安息日が終わり、安息日の戒めから解放されて、病人を運び出すことが合法になるのです。人々はこの時を待ちかねていて、すべての病人や精神病患者をイエスのいるシモンの家に連れてきて、門前に市(いち)をなしました。夕暮れ時のガリラヤ湖畔、漁師シモンの家、大勢の病人やその家族や仲間たち、彼らの真ん中で治療に多忙なイエス。一幅の名画を見るようです。イエスは人間の「名医」でした。「丈夫な者に医者は要らない。医者の要るのは病人である。私は正しい人を招きに来たのではない。罪人を招きに来たのである」(マルコ2・17)。
 「悪霊共に物言うことを許さなかった」。イエスに矛盾がありました。隠れて治療してさえも評判は立ってしまうのに、こんなに大勢の人をオープンに治してしまったら、当然うわさはうわさを呼んで、すべての人に知られてしまうでしょう。しかも尚、「人に語るな」と厳しく戒められるのです。「メシアの秘密」と神学者は呼んでいます。イエスはその全生涯を通して「キリスト」という称号を避けました。公生涯の終わり頃、民衆から隔絶した場所で、弟子たちに「わたしは誰か?」と尋ねました。弟子たちを代表してペテロが、「あなたはキリストです」(マルコ8・29)と答えるとイエスは「そのことを誰にも話してはいけない」と戒めました。
 霊的存在である悪霊は弟子たちよりもはるかに敏感にイエスの正体を見破っていました。イエスと共に天の勢力が地上に突入してきた。さあ大変だ、と悪妻たちはその対策に懸命になっているのです。そして局地戦で、一つ一つの拠点が打ち破られていきます。イエスに負かされた悪霊は、弟子たちよりもはるかに勝った称号をイエスに捧げます。「あなたこそ神の御子です」(マルコ3・11、5・7、ルカ4・41)。
 イエスはキリストであり、神の子であると告白することは正しいことです。しかも尚、それは間違っているのです。イエスは弟子達にも悪霊共にもそれを言わないようにと厳しく命じました。病人を癒し、悪霊を追放し、名説教をするイエスを人々は、「メシアが出現した」と言い、「神の子が来臨した」と言って彼を崇めるようになることは明らかです。この世で名声を博し、名誉を得ることはイエスの道ではありません。イエスがなし遂げようとしているキリストの御業は、この世の権力者達から棄てられ、殺されることによって成就されるのです。人々が願い求める栄光のキリストではなく、人々が顔を背ける苦難のキリストです。「あなたこそキリストです」と告白したペテロが考えていたキリストは、栄光のキリストでした。そこでイエスは、十字架と復活のキリストについて語りました(マルコ8・31)。するとペテロはそのようなキリストに反対し、イエスを諫めました。イエスは怒り、「サタンよ、引き下がれ!」と一喝しました。ペテロのキリスト告白は、サタンのそれと同じだったのです。そこにサタンの深慮遠謀が見られます。サタンの手下の悪霊共が、イエスをキリスト、神の子と言いふらすことによって、人々を誤ったキリストへと導き、真のキリストへの道を閉ざそうとする魂胆です。「伝承された称号を鵜呑みにし、イエスにそのレッテルを貼るようなことをするやいなや、人はもはや先入観なしに彼に出会うことができなくなる」(D・シュヴァイツァー)。
 イエスはペテロを厳しく叱責した後、「わたしの後に従って来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい」(マルコ8・34)と命じました。これは他人事(ひとごと)ではありません。私たちはいかなるイエスを信じ、どのようなキリストを宣べ伝えているのでしょうか。「私は君たちの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと決心した」(コリント第一書2・2)。パウロの戦いも又、この点にありました。
1990年7月8日 礼拝説教

  「イエスとらい病人」

 すると一人のらい病人が彼の許に来て、懇願しつつその足許にひれ伏して言った、「もしあなたがその意志をお持ちならば、私を清めて頂けるのですが」。するとイエスは怒りに燃えて、手を伸ばし、彼に触り、言われた、「わたしの意志だ、清くなれ!」するとたちまち[ライ]は彼から離れ去り、彼は清められた。するとイエスは彼を叱りつけ、ただちに彼を追い出して言われた、「気をつけよ、誰にも何も言うな。行って祭司に体を見せよ。そしてあなたの清めのために、モーセが規定したものを、彼らに対する証拠として、捧げなさい」マルコ福音書1章40節〜44節

 「イエス様がどのようなお方なのか、いまだに分りませんが、岩下(壮一)神父が亡くなった直後の顔が鮮かに思い出されます。頬がこけて、ひげが伸びて、深い考えの中に沈んでいるような顔でした。あの顔が私の肩の所に飛びこんてきて、45年間も離れないのです。今ではあの顔がイエス様なのか岩下神父なのか、重なり合ってしまいました。それどころか、無惨で醜いはずの私の顔までが合体して、透明で形がなく、生命体のようなものに変ってしまったような気さえしてくるのです」(「闇をてらす足おと」重兼芳子著 春秋社) この本を読んで、ここに「イエスとらい病人」の現代版があると思い、感動しました。「社会からも家族からも未来からも閉ざされた人々が、いかに生きる希望を見出したか。"不治の病"に呻吟するライ者の友となって己が命を捧げた真の司祭、岩下壮一の面影を、盲目の老患者の証言を通して生き生きと描く感動の力作!」という本の帯の宣伝文句も素直に頷くことができました。
 マルコによればこの物語は、イエスがカペナウムの町を去り、ガリラヤ中を巡回していた間の出来事でした。マタイは、イエスが行なった10の奇跡を、8章と9章にまとめて編集し、奇跡集としました。その最初にこのらい病人の癒しを置き、これをイエスの最大の奇跡として尊重しました。ラビの教えによると、らい病人は生ける屍と見做され、その癒しは死人を甦らせる位に困難なものと考えられていました。らい病患者は「汚れた者」として、家族から離され、神の民からも締め出されました。古代イスラエル人がこの病気をいかに恐れていたかを、レビ記13章と14章のらい病に関する掟が物語っています。「患部のあるらい病人は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、"汚れた者、汚れた者"と呼ばわらねばならない。その症状がある限り、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記13・45、46)。
 らい病の癒しについて旧約聖書には二つの例が記されています。モーセに反抗してらいに犯されたミリアムが、モーセの執り成しの祈りによって癒された事件(民数記12章)と、シリアのナアマン将軍が預言者エリシャにその信仰を示して清められた事件(列王記下5章)とです。らい病の癒しは、神の力が大預言者であるモーセやエリシャを通してのみ発揮された稀な出来事でした。福音書はイエスの権威がモーセやエリシャよりもはるかに上であることを証ししています。聖書は、他の病気については「癒す」と言っていますが、らい病については「清める」と言っています(マタイ10・8他)。古代イスラエル人はらい病を単なる肉体の病気とは考えず、霊魂の病気、罪に対する神の罰と考えました。社会的交際を絶たれた者は宗教的な慰めを求めるものですが、らい病人は「汚れた者」として神の御前にすら出ることができず、深い苦悩の中に沈むばかりでした。「主よ、なぜあなたは私を捨てるのですか? なぜ私にみ顔を隠されるのですか? 私は若い時から苦しんで死ぬばかりです…」(詩篇88・14)。
 このらい病人の癒しの記事は三つの共観福音書にありますから、マルコ資料です。面白いことにマタイとルカは、マルコの記事の難解な個所を省いています。「イエスは怒りに燃えて」(マルコ1・14)。聖書協会訳と新共同訳は共に「イエスは深く憐れみ」と記しています。これは使用した写本の相違で、数から言えば「深く憐れみ」の方が有利なのですが、現代聖書学者の判定基準は一つの見識を示しています。
「"怒りに燃えて"は理解困難であり、"深く憐れみ"ならば意味が通じる。このような場合には、意味の通らない方が原文であって、意味の通じる方が修正されたものだと判断するのが原則である」。なるほど考えてみれば、分かりにくいものを分かり易くすることはあっても、分かり易いものを分かりにくく改めることはありません。孤独で、深い苦悩の中に沈んでいたらい病人にイエスが近寄り、深く憐れみ、み手を伸ばし、彼に触る。この情景は実に感動的ですが、「怒りに燃え」るイエスはまた、別のイメージを与えます。らい病は、神の創造の御業を損なうサタンの仕業であり、人間をかかる悲惨な状態に陥れたサタンに対する神の子イエスの激しい怒り。イエスは天敵を攻撃するように、サタンに対して戦闘を開始します。「わが意志なり、清くなれ!」
 マタイとルカが省いたもう一個所は「イエスは彼を叱りつけ、ただちに彼を追い出して」(43節)の言葉です。このイエスの苛立ちの原因は何でしょう? 福音書のテーマの一つは、イエスに対する人間の無理解です。親しい少数の弟子たちですら、聖霊降臨の経験を得るまで、十字架のイエスを理解していません。まして一般の民衆たちは、奇跡を行ない、病気を治してくれるイエスを崇め敬いますが、世の罪を負って十字架に向かうイエスには無関心です。イエスは病気の治療を使命の一つとして引き受けながらも、神を愛して十字架の道を歩むことを教えるという、真の救済に至る福音には程遠いことを感じて、激しい苛立ちを覚えたのではないでしょうか?
 果たせるかな、らい病を癒されたこの男はイエスの命令を二つとも破りました。メシアの秘密を守るための沈黙の命令と、神殿に行って体を祭司に見せ、捧げ物をして神に感謝し、社会復帰の証明をしてもらうようにとの忠告を無視して、「その男は出て行くと、しきりにこの出来事を言いふらし、ふれまわったので、イエスはもはや公然と町に入ることが出来ず、町の外の寂しい場所におられた」(45節)。
1990年7日15日 礼拝説教

  「中風の人の癒し」

 イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んできた。しかし、群衆に阻まれて、イエスの許に連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床を吊り降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。マルコ福音書2章1節〜5節

 福音書記者マルコは、イエスと律法学者、パリサイ人との論争、衝突の場面を、2章1節〜3章6節にひとまとめにして編集しました。そこには五つの事件が記されています。(1)中風の人を癒す (2)レビの召命 (3)断食論争 (4)安息日に麦の穂を摘む (5)手のなえた人の癒し。これら一連の出来事において、律法学者、パリサイ人のイエスに対する非難と敵意は、次第にエスカレートしていきます。
 イエスはガリラヤを一巡して、またカペナウムのシモンの家に戻ってきましたが、数日もするとそのうわさが広まり、大勢の人々が押しかけてきて、家の中は立錐の余地もなくなりました。そしてイエスが人々に福音を語っていると、四人の男が中風で足腰のきかない人を担架にのせてやってきました。しかし戸口からは入れなかったので、外の階段を上がって、泥と木の枝でできている屋根をはがして穴をあけ、上から

担架にのせたままの病人をスルスルと吊り降ろしました。イエスも人々もびっくりしたことでしょう。イエスはお話を中断させられたことに腹を立てたでしょうか? 非常識な行為をたしなめたでしょうか? イエスは緊張の中にもユーモアを見出せる人でした。その行為を信仰と受け取り、称賛いたしました。「子よ、今あなたの罪は赦された」。これは全く卜ンチンカンな答えのようです。するとそこに居合せた律法学者たちがその言葉を聞き咎めました。「冒[トク]だ! 神お一人のほか、誰も罪を赦す権威をもっていないのに、このイエスという男は、自分を何様だと思っているのか?」と心の中で思いました。イエスは彼らの思いを見透かして、「君たちは何故そんなことに疑問を感じているのか? この中風の人に"罪は赦された"と言うのと、"起き上がって担架をかついで歩け!"と言うのと、どちらが容易だと考えるのか?」と問いました。これも又、禅問答のようです。宗教的な人間ならば、律法学者のように、病気を治すことは構わないが、罪を赦すことは人間には許されていない、と考えるでしょう。世俗的な人間ならば、罪赦しの宣言ならば言葉だけで済むことだから誰にでもできるが、中風を治すことは、結果が誰の目にも明らかになることなので、この方が難かしい、と思うでしょう。ところがイエスには、罪赦しの宣言と病気の治癒とは、コインの裏表のように一つであったのです。
 イエスと人々の問に、考え方のズレがありました。人々の望みは、肉体の病の癒しでした。イエスはあくまでも「魂の医師」でした。彼は、肉体の病がよって来たるところの原因である罪に注目し、まず罪の赦しを与えて神との関係の正常化をはかりました。人間を神から隔てさせている罪という障壁を取り除くことが、イエスの第一の関心事でありました。病は治されても人は又、病にかかります。しかし罪の赦しは、永遠の救いのために有効です。
 イエスと律法学者の間にも、考え方のズレがありました。もしイエスが普通の人間でしたならば、律法学者の非難は全く正しかったのです。しかしもしイエスが、地上における神の代理者であったならば、イエスの罪赦しの権威を認めないことは、神を蔑ろにすることになります。福音書はその立場から記されています。
 「人の子が地上で罪を赦す全権を持っていることを君たちが分かるために」、彼は中風の人に言われる、「君に言う、立って、君の担架をかついで家に帰れ!」。すると彼は立ち上がり、すぐ担架をかついでみんなの前を出て行った(10節〜11節)。
 イエスの奇跡物語のすべてに言えることですが、どのような経過によって治癒が行われたか、と問うことは無意味です。それについて福音書は沈黙しています。その奇跡の意味は何か? これが正しい問いかけです。それに対して福音書は雄弁に答えています。イエスの到来と共に神の支配が地上で始まった、という福音がそれです。イエスの行なう奇跡は、その徴(しるし)なのです。「来るべきお方はあなたですか?」と問う獄中の洗礼者ヨハネに対して、イエスは答えました、「…盲人は見え、足なえは歩き、らい病人は清まり、耳しいは聞え、死人は甦り、貧しい者は福音を聞く」(マタイ11・5)と。これは神の支配の到来を預言したイザヤの預言(35・5)が成就したという宣言だったのです。
 「子よ、君の罪は赦された」における罪は個々の人が犯した罪科という意味ではなく、この時代(エオン)を支配している罪という意味である。この時代においては人は罪(サタン)に支配されており、罪の奴隷であり、神の敵である。「罪は赦された」とは新しい時代(エオン)が今到来したという宣言である。人はサタンの支配から、また罪のくびきから今、解き放たれたのである。中風の人に向かって「起きて担架をかついで歩け」と言うのも、「あなたの罪は赦された」と言うのも、共に不可能な事であるが、新しい時代は不可能が可能となる時代である。病人は癒され、貧しい人は福音を聞かされ、罪人は救われるのである。新しい時代の到来の徴は何か。イエスの行なう奇跡の業である。イエスが今この病人を癒したことは、終末の時が来たことの証拠である。従ってこの人の罪が赦されたことも又、明らかである。律法学者はイエスが救世主(キリスト)であることを信じなかった。(シュミットハルス)
 「聖地」という特別な空間があるように、聖別された特別な時間があります。イエスが地上を歩まれた時には、神が見える形をとって人間の間近かにおられました。
「信仰」も「罪の赦し」もその時には、丁度私たちが言葉を交わし合い、物をやり取りするような関係で存在していました。福音書はそのような特別な歳月の記録なのです。ある神学者は、「時の中心」と言いました。大宇宙に中心的空間があるように、歴史上の「キリストの時」は、全ての中心であったのです。
1990年7月29日 礼拝説教

担架にのせたままの病人をスルスルと吊り降ろしました。イエスも人々もびっくりしたことでしょう。イエスはお話を中断させられたことに腹を立てたでしょうか? 非常識な行為をたしなめたでしょうか? イエスは緊張の中にもユーモアを見出せる人でした。その行為を信仰と受け取り、称賛いたしました。「子よ、今あなたの罪は赦された」。これは全く卜ンチンカンな答えのようです。するとそこに居合せた律法学者たちがその言葉を聞き咎めました。「冒[トク]だ! 神お一人のほか、誰も罪を赦す権威をもっていないのに、このイエスという男は、自分を何様だと思っているのか?」と心の中で思いました。イエスは彼らの思いを見透かして、「君たちは何故そんなことに疑問を感じているのか? この中風の人に"罪は赦された"と言うのと、"起き上がって担架をかついで歩け!"と言うのと、どちらが容易だと考えるのか?」と問いました。これも又、禅問答のようです。宗教的な人間ならば、律法学者のように、病気を治すことは構わないが、罪を赦すことは人間には許されていない、と考えるでしょう。世俗的な人間ならば、罪赦しの宣言ならば言葉だけで済むことだから誰にでもできるが、中風を治すことは、結果が誰の目にも明らかになることなので、この方が難かしい、と思うでしょう。ところがイエスには、罪赦しの宣言と病気の治癒とは、コインの裏表のように一つであったのです。
 イエスと人々の問に、考え方のズレがありました。人々の望みは、肉体の病の癒しでした。イエスはあくまでも「魂の医師」でした。彼は、肉体の病がよって来たるところの原因である罪に注目し、まず罪の赦しを与えて神との関係の正常化をはかりました。人間を神から隔てさせている罪という障壁を取り除くことが、イエスの第一の関心事でありました。病は治されても人は又、病にかかります。しかし罪の赦しは、永遠の救いのために有効です。
 イエスと律法学者の間にも、考え方のズレがありました。もしイエスが普通の人間でしたならば、律法学者の非難は全く正しかったのです。しかしもしイエスが、地上における神の代理者であったならば、イエスの罪赦しの権威を認めないことは、神を蔑ろにすることになります。福音書はその立場から記されています。
 「人の子が地上で罪を赦す全権を持っていることを君たちが分かるために」、彼は中風の人に言われる、「君に言う、立って、君の担架をかついで家に帰れ!」。すると彼は立ち上がり、すぐ担架をかついでみんなの前を出て行った(10節〜11節)。
 イエスの奇跡物語のすべてに言えることですが、どのような経過によって治癒が行われたか、と問うことは無意味です。それについて福音書は沈黙しています。その奇跡の意味は何か? これが正しい問いかけです。それに対して福音書は雄弁に答えています。イエスの到来と共に神の支配が地上で始まった、という福音がそれです。イエスの行なう奇跡は、その徴(しるし)なのです。「来るべきお方はあなたですか?」と問う獄中の洗礼者ヨハネに対して、イエスは答えました、「…盲人は見え、足なえは歩き、らい病人は清まり、耳しいは聞え、死人は甦り、貧しい者は福音を聞く」(マタイ11・5)と。これは神の支配の到来を預言したイザヤの預言(35・5)が成就したという宣言だったのです。
 「子よ、君の罪は赦された」における罪は個々の人が犯した罪科という意味ではなく、この時代(エオン)を支配している罪という意味である。この時代においては人は罪(サタン)に支配されており、罪の奴隷であり、神の敵である。「罪は赦された」とは新しい時代(エオン)が今到来したという宣言である。人はサタンの支配から、また罪のくびきから今、解き放たれたのである。中風の人に向かって「起きて担架をかついで歩け」と言うのも、「あなたの罪は赦された」と言うのも、共に不可能な事であるが、新しい時代は不可能が可能となる時代である。病人は癒され、貧しい人は福音を聞かされ、罪人は救われるのである。新しい時代の到来の徴は何か。イエスの行なう奇跡の業である。イエスが今この病人を癒したことは、終末の時が来たことの証拠である。従ってこの人の罪が赦されたことも又、明らかである。律法学者はイエスが救世主(キリスト)であることを信じなかった。(シュミットハルス)
 「聖地」という特別な空間があるように、聖別された特別な時間があります。イエスが地上を歩まれた時には、神が見える形をとって人間の間近かにおられました。
「信仰」も「罪の赦し」もその時には、丁度私たちが言葉を交わし合い、物をやり取りするような関係で存在していました。福音書はそのような特別な歳月の記録なのです。ある神学者は、「時の中心」と言いました。大宇宙に中心的空間があるように、歴史上の「キリストの時」は、全ての中心であったのです。
1990年7月29日 礼拝説教

  「罪人たちの救い主」

 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った、「なぜあの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのか?」 イエスはそれを聞いて彼らに言った、「丈夫な者に医者は要(い)らない。要るのは病人だ。わたしは正しい人を招きに来たのではない。罪人を招きに来たのだ」
マルコ福音書2章16節〜17節

 現代日本の社会の「律法学者」は誰でしょう? いま学校で教師による生徒への暴力行為が問題とされています。しかし生徒の教師に対する無礼や暴力も相当なものです。ひと昔前には「暴力教室」と言って、生徒の教師に対する暴力事件が流行しました。その時でも暴力教師がいなかったわけではありません。社会の視点が変わっただけで、問題の本質は変わっておりません。現代日本の「律法学者」は、自分は少しも痛みを感じないで、格好よく事件を論評する「学識者」とマスコミ関係者と、それを支持している世論です。みんな「正しい人」ばかりです。
 カペナウムはヘロデ・アンティパスの領地とピリポの領地の境界にあったので、街道筋に関税所がありました。当時、地租と人頭税はローマの役人が取り立てていましたが、領地を出入りする物品、即ち、穀物、織物、宝石、家畜、奴隷などにかけられる関税は、年額を定めて現地人の請負業者に請け負わせていました。彼らは「取税人」と呼ばれていました。取税人は徴収した金額の中から一定額を上納すれば、余分のものは自分の懐に入れられますから、これはうま味のある仕事でした。その代わりユダヤ人社会では取税人の評判は悪く、彼らは強盗、山賊、悪党、人殺しなどと同じ悪人の中に数えられていました。
 「罪人」とはパリサイ派の人々の用語で、律法を守らず、宗教的生活をしていない人々の総称でした。「罪人」の中には、不道徳な者、売春婦、取税人、異邦人、律法の規定を気にしないで生きている一般大衆まで含まれていました。「パリサイ人」とは、分離した者という意味で、律法を尊重し、その規定を厳守する者として、他の汚れた連中から分離し、彼らと一切交際をしない「清い人々」でした。パリサイ人の中から更に専門的にモーセ律法を研究している者が、律法学者でした、今日的に言えば、聖書学者プラス法律家プラス教育者が、律法学者でした。
 ある日、アルパヨの子レビがカペナウムの関税所に座って仕事をしていると、イエスが通りかかり、「わたしについて来なさい」と命じると、彼は直ぐにイエスに従いました。マタイ福音書では(傍点始まり)レビ(傍点終わり)の代わりに(傍点始まり)マタイ(傍点終わり)となっていますが、これは伝承の相違でしょう。レビは12使徒のリストに入っていなかったのでマタイが代わりに入れられたのかも知れません。ちなみに使徒のリストではアルパヨの子は(傍点始まり)ヤコブ(傍点終わり)(マルコ3・18)になっています。ここまでがレビの召命物語で、これはシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの召命物語(1・16〜20)とよく似ています。
 「イエスが家で食卓についていた時こういうことが起った」と語り始める15節以下は、マルコとマタイでは別の物語のようにも受け取れますが、ルカは「レビがイエスのために家で大宴会を催すと」(5・29)と書いて、前の記事の連続にしています。マルコとマタイの場合の「家」は、イエスが定宿にしていたシモンの家かも知れません。とにかく家の中には、イエスと弟子達、取税人と罪人達が大勢いて食事をしていました。律法学者たちがその様子を見て、イエスの弟子達に「なぜあの人は取税人や罪人達と一緒に食事をするのか?」と尋ねました。イエスのような評判の高い教師(ラビ)が、取税人や罪人達の仲間になって、一緒に談笑しながら食事をしていることが理解できませんでした。彼らの言葉は質問というよりは非難でした。
 パリサイ派の人々の思考法は、モーセの律法という物差しで、すべての人間を二つに分類することでした。正しい者と正しくない者、清い者と汚れた者、救われる者と滅びる者、祝福される者と呪われる者。そして自らを清い者、神の側につく者として、他人を見下げ、軽蔑していました。
 「丈夫な者に医者は要らない。要るのは病人だ。わたしは正しい人を招きに来たのではない。罪人を招きに来たのだ」。このイエスの言葉は、パリサイ人にとっては青天のヘキレキ、罪人にとっては大いなる救いでした。この有名な言葉の前半は格言で、当時の人々がよく知っていた言葉でした。後半がイエスのオリジナルです。そう思って読むと、イエスの語り口の歯切れのよさに感嘆いたします。エライ、コワイ先生たちの底意のある言葉に対して、イエスさまはどのようにお応えになるか、と固唾(かたず)を飲んで待っていた罪人達は、歓声を上げたことでしょう。この言葉によってイエスは旗色を鮮明にしました。イエスは常に、弱い者、低い者、小さい者、貧しい者、悲しみ泣く者、悩み苦しむ者、差別迫害されている者の側に立っています。その意(こころ)でマタイ福音書5章3節以下と、ルカ福音書6章20節以下の言葉を読むと、よく理解できます。貧しい者が幸いなのは、彼らがイエスを必要としているからであり、その時、その場に、イエスが共にいて下さるからです。
 この単純明快な言葉に、マタイは「わたしは憐れみを好み、犠牲(いけにえ)を好まない」(ホセア6・6)という言葉を付け加えました。マタイは、彼の福音書の読者であったユダヤ人の理解を助けるために、彼らが親しんでいた旧約聖書の言葉を引用したのでしょう。ルカは、「罪人を招いて(傍点始まり)悔い改めさせるために(傍点終わり)」(5・32)という言葉を付け加えました。ルカは宣教的、教会的です。これはこれでよいのですが、それが極端になりますと、人の顔を見たら悔い改めさせてやれ、という今日の福音派の伝道師たちのような臭味、嫌味がでてきます。彼らの分類法はパリサイ人のそれと同じです。洗礼を受けた者とそうでない者、救われる者と救われない者、キリスト教徒と異教徒、教会内の人と教会外の人。イエスにはそのような差別は皆無でした。イエスは先ず、取税人や罪人の仲間になったのです。
 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」親 鸞
1990年8月5日 礼拝説教

  「断食問答」

人 々「ヨハネの弟子たちとパリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あな
    たの弟子たちは断食しないのですか?」
イエス「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客たちは断食できるだろうか?」
マルコ福音書2章18節、19節

 今年も川崎市役所から教会宛に、広島と長崎の原爆記念日に一分間の平和祈念の黙[トウ]をして下さいと言ってきました。「過ちはくり返しません」という原爆記念碑の言葉を思えば、それは罪の悔い改めの祈りであるはずです。それほどの重大事を、一分間の黙[トウ]で済ませてしまうことは、いかにも日本的です。
 「庶民からえらい人に至るまで皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の深手を手軽に癒して、平和がないのに、"平和(シャローム)、平和(シャローム)"と言う」(エレミヤ6・13)。「平和が大切だ」と人は言います。それは正しい。しかしその平和の内実は何か? 私たちが求める平和は、預言者イザヤとミカの言う「ヤハウェの支配による平和」(イザヤ2章、ミカ4章)です。また、使徒パウロの言う「キリストの十字架によってもたらされた福音としての平和」(エペソ2章)です。平穏無事を願うだけの空虚な平和は直ぐに乱されます。現にイラクのクェート侵略によって全世界が大騒ぎになりました。ヘブライ語のシャロームは、生命と力と喜びに満ち溢れた完全な状態を言うのです。「わたしは平和(シャローム)を君たちに残して行く。わたしの平和を君たちに与える。わたしが与える平和は、世が与える平和とは異なる」(ヨハネ14・27)。
 洗礼者ヨハネの弟子たちは断食をしていました。それは到来する神の審判(さばき)の日に備えての、罪の悔い改めの徴(しるし)としての断食でした。精進潔斉と断食はヨハネの教えでした。パリサイ派の人々も断食をしていました。それは律法に対する熱心を示すための断食でした。断食と祈[トウ]と施し。ユダヤ教徒は、神の前に義を得るために、この三つの善行を積んでいました(マタイ6章)。モーセの律法は年に一度、ユダヤ暦の7月10日の贖罪の日(ヨム・キツプル)に苦行としての断食を規定していました(レビ23・27)。しかしイエスの時代には、信仰熱心な人は週に二度、月曜日と木曜日に断食をしていました(ルカ18・12)。その他に国難の時や、悲しみの日に人々は断食をしました。日本人が広島、長崎の原爆の日を本当に悼み悲しむのならば、一分間の黙[トウ]ではなく、一日、あらゆる娯楽を慎しんで、祈りと断食を励行したらよいと思います。
 マルコとマタイは断食問答を独立した話題として記していますが、ルカは、レビの家での大宴会の最中の出来事として記しています(5・33)。取税人と罪人たちは、イエスの口から出る愛と恵みと赦しの言葉に深く感動し、聖なる喜びに満たされてブドー酒を飲み、御馳走を食べていました。それはまるで結婚式のような華やいだ雰囲気でした。それを疑問に感じた人々がいて質問しました、「ヨハネの弟子たちとパリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか?」 以前、私自身も不思議に思ったことがあります。他の宗教では断食したり、徹夜の祈[トウ]をしたり、滝に打たれたり、火渡りをしたり、信仰の修練としていろいろやっているのに、キリスト教は何もしなくてもよいのか、と。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客たちは断食できるだろうか?」これが福音の解答です。「婚礼の客」とは、花婿の親友たちです。結婚式(神の国の到来)を前にして、花婿なるイエスに、取税人や罪人たちが花婿の親友として招待されているのです。世にも奇妙な一群です。しかしこれがイエスの宗教なのです。神とイスラエルの民とが恋人の愛、夫婦の愛で結ばれるということが、イスラエル宗教の理想的な在り方でした(イザヤ54・5、エレミヤ2・2、ホセア2・16)。イエスは、彼と弟子たちとの関係において、その理想を現実にしていたのです。婚礼の席に、悲しみの徴である断食は不釣合いです。
 現代の聖書学者の多くは、マルコで言えば、19節後半と20節は後世の付加と考えています。二つの理由が上げられます。19節前半から直ぐに21節と22節につなげると、徹底した断食否定の主張となり、大変スッキリした形になります。19節後半と20節の言葉は断食肯定論に傾いており、イエス以後のキリスト教団が早くも彼らの中に再び根を下ろした断食の慣習を根拠づけるために、この言葉を付加したのだろうというものです。もう一つの理由は、「花婿が奪い去られる時が来る」の言葉の中に、イエスの死が暗示されています。しかし、イエスの苦難と死の予告は、ペテロの信仰告白の直後に初めてなされたのです(8・31)。
 「だれも、真新しい(アグナフオス)布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい(カイノス)布きれが古い服を引き裂き、破れは一層ひどくなる。まただれも、新しい(ネオス)ブドー酒を古い皮袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ブドー酒は革袋を破り、ブドー酒も皮袋もだめになる。新しい(ネオス)ブドー酒は、新しい(カイノス)皮袋に入れるものだ」。ここでは「新しい」という形容詞に三種類のギリシャ語が使い分けられています。アグナフォスは、洗濯したことのない、したがってまだ縮んでいないということ、ネオスは、まだ古くなっていない、との意、カイノスは、まだ使ったことのない、という意味です。この二つのたとえは、イエス御自身が生活者であり、庶民の実生活に明るい人だったことをよく示しています。
 断食問題は小さい問題ですが、その意味するところは大きいのです。イエスの新しい福音は、古いユダヤ教とは全く異質なものであり、古い宗教の破れの継ぎ当てになるようなものではありません。断食、祈[トウ]、施しなどの、人間の苦行や善行を積み上げて神の義を贖い取るものではなく、神の義は、イエスに結び付くことによって神の恵みの賜物として無償で与えられるものなのです。それにはいかなる差別もありません。ユダヤ人と異邦人、パリサイ人と罪人、金持と貧乏人、男と女…。キリストの福音はユダヤ教の手直しではなく、全く新しい全体なのです。
「新しいブドー酒は、新しい皮袋に!」
1990年8月12日 礼拝説教

  「安息日の主」

 安息日は人間のためにできたのであり、人間が安息日のためにあるのではない。だから人の子は、安息日の上にも主であるのだ。マルコ福音書2章27節〜28節

 「文字は人を殺し、霊は人を活かす」(コリント第二書3・6)。文字とはこの場合、外側から強制される掟のことです。霊とは、キリストによる神の愛に感動して、内側から自発的に生きる力です。ユダヤ人は律法の民でした。異邦人は律法なき民でした。「もし君達の中で罪を犯したことがない者がいれば、その人が先ずこの女に石を投げなさい」(ヨハネ8・7)。イエスの言葉を聞いて、姦淫の女を取り巻いていたユダヤ人達は一人去り、二人去って、終に誰もいなくなりました。彼らは律法をもつ民でしたから、罪を知っていました。もし彼らが律法のない異邦人だったら、衝動的に石を投げつけたでしょう。もっとも、律法なき民だったら、姦淫の罪を問うこともなかったでしょう。
 「安息日(シャバット)を心に留め、これを聖別せよ」。金曜日の日没から土曜日の日没までの一日が安息日としてモーセの十戒で規定されていました。それが週休制度の起源なのです。「一週間に一日、一切の仕事をしないということは、実はユダヤ民族がもつ素晴らしい独創力の源泉になっている」と科学者糸川英夫氏は安息日の制度を推奨しています。「石油の出る近隣諸国とちがって、イスラエルの土地は、掘っても掘っても、石油どころか水さえ出ない。"だから私たちは頭の中をほじくるしかない"とイスラエルの人達は言う」。安息日を聖別してこれを守る理由を出エジプト記では、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから」と言い、申命記では、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」と記しています。安息日には一切の仕事を止めて、神の恵みの御業を思い、神をほめたたえ、神の言葉を学んで、一日ゆっくり休養する。安息日(シャバット)はユダヤ人のお祭りなのです。
「私達はシャバットを守らねばならない。なぜなら、シャバットがユダヤ民族を守っているからだ」と言って、シャバット賛歌をうたい、輪になって喜び踊り、ぶどう酒を飲み、御馳走を食べてこの日を喜び楽しむのです。
 イエスの一行が安息日に麦畑の畔道を歩いていた時、弟子達は空腹のために麦の穂を摘んで食べていました。その日は安息日の食事に招待されなかったのでしょう。また彼らの財布は、安息日の食事の準備をする余裕がなかったのでしょう。彼らの様子を見ていたパリサイ人達がイエスに「ごらんなさい、彼らは安息日に許されぬことをしています」と言って非難しました。何が安息日の規則違反だったのでしょうか?
 安息日の禁止事項が39条ありました。種まき、収穫、いね打ち、粉ひき、火をつけることと消すこと、パンを焼くことなどです。そしてその39条の「親」の下に、更に39条ずつの「子」があり、総計1521条の禁止事項がありました。元来人間の善と益のために与えられた安息日が人間の重荷になっていました。
 弟子達が他人の畑の麦を摘んだことは、罪ではありませんてした。空腹の場合、畑の麦でも果物でも取って食べることは律法で許されていました(申命記23・25)。弟子達が麦を摘んで殻を取り除いたことが、収穫と脱穀と見なされ、安息日に仕事をしたと解釈されたのでした。
 イエスは、ダビデとその供の者達が危急の場合、祭司だけしか食べることが許されなかった「供えのパン」を食べた事跡を指摘して、その非難に応えました。ところがどうも25節と26節の応答の言葉に、イエスらしい切れ味のよさがありません。それは安息日の掟違反に対する反論ではなく、緊急の場合なら掟を破ることも許されるというものです。それに「大祭司アビアタルの時」というのが記憶違いで、正しくは「祭司アヒメレクの時」(サムエル記上21・2)です。マルコの間違いに気付いてか、マタイとルカはその句を省きました。マタイはその事例だけでは安息日の掟違反の答えになっていないと考えてか、もう一例を付加しました。祭司は安息日に神殿で働くことによって掟を犯しても、咎められないではないか(12・5)。そしてもう一つ、重大な言葉を付加しました。「わたしは言う、神殿よりも大いなる者ここにあり!」
 マタイの記事はキリスト論的です。マルコが暗示しているものをマタイは明示しています。「メシアの秘密」ということから考えると、この言葉はイエスの真正の言葉ではなく、マタイの信仰告白のようです。この場合、神殿に奉仕する祭司は安息日の掟を破ってもよい、同様に、「神殿よりも大いなるお方」に仕えるイエスの弟子達は安息日の規定を犯しても差し支えない、何故なら「人の子は安息日の主である」と解釈されます。しかしそれはすでにイエスを神の子キリストであると信じた者の言い分であって、イエス在世当時のパリサイ人には何のことかさっぱり分からなかったに違いありません。それである学派の聖書学者達は、これはマタイ福音書が書かれた当時(紀元85年頃)のキリスト教とユダヤ教の論争を反映している、と言っています。
 「安息日は人間のためにできたのであり、人間が安息日のためにあるのではない」。マタイとルカは、この言葉は余りにも人間に重点を置き過ぎていると考えてか、この言葉を省きました。しかしこの根元的な、革命的な人間解放の宣言こそ、間違いなくイエスの真正な言葉でしょう。人間そのものの中に神は無限の尊厳を与えられた。神聖な十戒といえども人間の救いと喜びに奉仕するものである、という大胆な発言です。社会的、宗教的な差別と偏見に対して勇敢に戦うイエスの姿がここにあります。「人の子の権威によって神との新しい関係の中へと招き入れられた者だけが、27節を理解する。なぜなら、人間に対する神の意志、残りなくすべてを与える神の意志は、彼(人の子)において現実となったのである」(E・シュヴァイツァー)。「だから人の子は、安息日の上にも主であるのだ」。
1990年8月19日 礼拝説教

  「人の子イエス」

 イエスは、そのなえた手を持つ人に向かって言われる、「立ち上がれ、真ん中に出てきなさい」。彼はそれから彼らに言われる、「人は安息日に善いことをしてよいのか、それとも悪いことをしてもよいのか? 生命を救ってよいのか、それとも殺してもよいのか?」 しかし彼らは黙っていた。そこで彼は怒りに満ちて周囲の人々を見廻し、彼らの心の頑固さを深く悲しんで、その人に言われる、「その手を伸ばせ!」そこで彼が手を伸ばすと、その手は癒された。するとパリサイ人達は出て行き、ただちにヘロデ党の人々と、どのようにして彼を殺そうかと相談した。マルコ福音書3章3節〜6節

 「動物はその飼い主に似る」と言われています。先日、類人猿の優劣を比較して論じているテレビ番組がありました。ゴリラの研究者、チンパンジーの研究者、オランウータンの研究者が出ていましたが、面白いことに、永年つき合って心を通わせている動物に、それぞれの研究者が似ているのです。妻と私は、性格は相当に違いますが、信仰を第一とする点では、暗黙の了解ができています。テレビ番組も好んで見るもの、どうでもよいもの、絶対に見ないもの、の分類はほぼ一致しています。
 仏教徒は釈迦に似るはずですが、日本では釈迦は遠い存在ですので、各宗派の始祖、最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元などの教えを学び、生き方に感化されて、それらの人格に似る者になります。キリスト教徒はイエスの愛に学んで、それをお互いの間で実行することによって、イエスに似る者になります(ヨハネ13・34他)。その場合、いかなるイエス、どのようなイエス像がその教会に伝承されているかということによって、教会の性格が形成されます。
 ある安息日のユダヤ教の会堂に、「片手のなえた人」がいました。ルカは「右手がなえていた」と言っています。ユダヤ人キリスト者が使用していた外典、ヘブル人福音書には「その人は石工だった」と記しています。右手のきかなくなった石工は、生計を立てるために働くことができません。伝承はこのように発展し、変化します。忠臣蔵でも、語り継ぎ、演じ続けられていくうちに、史実が膨らみ、物語が付け加えられて今日の形になりました。当然、イエスの物語を記す共観福音書の間にも、付加、省略、変化の過程が見られます。
 マルコは2章1節から3章6節までの5つの物語によって、イエスと律法学者、パリサイ人との論争が次第にエスカレートして、終に、彼らはイエスを殺害する計画を相談するまでに至る経過を記しています。それは時間や場所に関係なく、マルコの編集方針によるものです。
 イエスが会堂に入ると、片手のなえた人がいました。パリサイ人達はイエスが安息日に治療行為をして掟を破るのではないかと息を殺して見守っていました。その様子を察知してイエスは、「立って、真ん中に出て来なさい」とその男に命じました。そして人々に、「安息日に善を行なうのと悪を行なうのと、生命を救うのと殺すのと、どちらが正しいか(律法に叶っているか)?」と問いかけました。彼らは沈黙を守りました。この明白な真実を認めたくなかったからです。イエスは怒りに満ちて人々を見廻し、彼らの頑固さを深く悲しみ、その男に「手を伸ばせ」と命じると、その手は伸びて、直ってしまいました。するとパリサイ人達は、神の御業を見たにもかかわらず、出て行って、普段は仲のわるいヘロデ党の者達と手を結び、イエス殺害の相談を始めました。
 マタイはマルコの物語に沿って書いていますが、相当に変化させています。安息日の会堂に片手のなえた人がいました。すると人々がイエスに質問します、「安息日に病気をなおすことは正しい(律法に叶っている)だろうか?」。イエスは例を上げて答えました。「自分の羊が一匹、安息日に穴に落ち込んだ場合、これを引き上げてやるだろう。それは安息日の掟の特例として許されている行為だ。ところで、人間は羊よりもはるかに勝れた存在だ。安息日に人を助けることは正しい(律法に叶っている)のだ」。その後はマルコと同じです。
 マタイのイエスは、律法の教師(ラビ)が学生の質問に答えるように、律法の特例を根拠にして、この難問に答えています。マタイにとっては、律法を守るということが大原則なのです。ユダヤ人キリスト者の教会であったマタイの教会は、保守的傾向の強い教会であったことが推測されます。安息日に弟子達が麦穂を摘んだ事件の時も、マタイのイエスの答えは、律法の厳守を原則にしながら、神の憐れみは律法を超えているのだ、という論拠に立っていました。マルコのイエスは律法から自由になって、律法を定められたお方の立場に立ち、「安息日は人間のためにできたのであり、人間が安息日のためにあるのではない」と言い放ちました。マタイは、人間を安息日の上に置くマルコの考えに同調できず、この大切な言葉を省きました。マルコのイエスは、父なる神の御意はこうであるに違いないと確信して、大胆に語り、行なっています。
 もう一つ重大な相違を見逃がすことはできません。マタイとルカは、「彼は怒りに満ち…深く悲しんで…」のマルコの記事を省きました。マタイとルカは一貫して、マルコの記事にある、イエスの人間的な感情の表現を省きました。きっと時代が下ってマタイやルカの頃になると、神の子イエスを崇敬する念が高まり、神の子が怒ったり、憤慨したり、悲しんだり、驚いたり、恐れおののいたりするのは相応しくないと考えてのことでしょう。その結果、カトリック教会の聖像や、ギリシャ正教会の聖画(イコン)のような、人間的な感情を表わさないイエス像になってしまいました。彼ら以前のマルコのイエスは、人の子イエスです。マルコは神の子イエスを信じていましたが、それは隠れた姿にしておいて、不義不正を見ては憤り、偽善を見ては腹を立て、世の罪を見ては深く悲しみ、十字架を前にしては恐れおののく人の子イエスを描きました。
 このように福音書を学んで私たちは、人間的な感情を殺して信仰生活をする必要はなく、人間的な感情を豊かにもちながら、イエスに徒うことが許されていることを知るのです。
1990年8月26日 礼拝説教

   「ガリラヤ湖畔の群衆」

 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が彼に従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダンの彼方、ツロ、シドンの地方からも大変な群衆が、イエスのなさったことを残らず聞いて、彼の許に集まって来た。
                     マルコ福音書3章7節〜8節

 このところ全世界の目は、ソ連、東欧情勢からイラクを中心とする中東へと移りました。欧米人や日本人を人質に取ったイラクのサダム・フセイン大統領を激しく非難して、イギリスのサッチャー首相は「あなたはイギリス人やアメリカ人の女や子供を盾にして、その後ろに身を隠している卑怯者です」と言いました。フセイン大統領はそれに対して「それらの人々は人質ではなく、客人として私たちと一緒にこの国にいてもらっているのだ」と答えました。アラブの世界では欧米流の道徳観は通用しないようです。アラブ人の取り引き方法は約束によると言うよりはむしろ、口実と裏工作によるのです。アラブは一つと言っても、各国の思惑が絡み合って、決して一つにまとまらないのもそのためです。
 イエスはガリラヤ湖畔で神の国の福音を宣言し、弟子達を集め、活動を開始いたしました。今日のテキスト、3章7節〜12節は、マルコのまとめの言葉です。マルコの宣教の神学がここに見られます。洗礼者ヨハネの許に集まった群衆は、「ユダヤの全地方とエルサレムの全住民」(1・5)でした。彼らはユダヤ教の伝統的権威の中心にいる人々でした。その事実によって洗礼者ヨハネは「古い皮袋の中に古いぶどう酒」を容れている旧約最後の預言者であることが示されています。しかし今や新しい時代が到来して、すベてが逆転しています。「神殿よりも偉大なお方」(マタイ12・6)は今、辺境の地、「異邦人のガリラヤ」と蔑まれているガリラヤ湖畔にいて、神の国の到来を語り、病人を癒し、悪霊を追放しています。ガリラヤ中から大勢の人々がぞくぞくとイエスの許に集まってきます。そしてエルサレムやユダヤやその他パレスチナのすベての地方からも大群衆がイエスの許に押し寄せて来ました。マルコの記事によると、聖地の中心が田舎のガリラヤに移り、エルサレムやユダヤはもはや、諸地方の中の一つとして扱われています。
 神の御霊(みたま)は、エルサレム神殿にいますのではなく、ガリラヤ湖畔のイエスの中に宿っています。「病気に悩む人たちは皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」(10節)。了度、電線に触れる者は感電するように、イエスに触れる者は神の力がイエスの身体から出て行って、触れた者を強くしました。
 ヤコブの井戸に水を汲みに来た女が言いました、「私共サマリア人の先祖はこのゲリジム山で礼拝をいたしましたが、あなた達ユダヤ人は、礼拝すべき場所はエルサレムの神殿であると言っています。どちらが本当なのでしょうか?」「婦人よ、私を信じなさい。あなた達が、この聖山でもエルサレムの聖所でもない場所で、御父を礼拝する時が来るのです。まことの礼拝者が、霊と真理とをもって御父を礼拝する時が来るのです。そして今こそ、その時なのです」(ヨハネ4・19以下)とイエスは答えました。昔のサマリア人とユダヤ人の対立関係はそっくりそのまま、現在のパレスチナ人とイスラエル人の抗争関係になっています。そしてその民族的な差別と偏見と憎悪は、すベての者が十字架のイエス・キリストの名において、父なる神の御前にひれ伏す時に精算されるのです。十字架のキリスト抜きの平和運勤はすベて空しいものです。
 全世界の救い主(キリスト)イエスは今、ガリラヤ湖畔にいる、とマルコは語っています。そして、ガリラヤとエルサレムとユダヤと周辺地域に住む人々が大勢、イエスの許に集まってきて、彼に従い、彼の助けを求めています。そしてやがてイエスの福音は全世界に及ぶ、とマルコは見ています。マルコがこの福音書を書いた紀元65年頃には、すでにパウロもペテロもローマで殉致した後で、キリスト教会はローマ世界の多くの場所に存在していました。マルコがここに上げている地名は、この福音書の輪郭に該当しています。ガリラヤ(1章6章)、ツロ、シドン、デカポリス(7章)、ヨルダンの彼方とエルサレム(10章以下)です。サマリアが省かれています。
 「汚れた霊たちは、イエスを見るとひれ伏して、"あなたは神の子です"と叫んだ」(11節)。イエスの許に集まって来たのは人間ばかりではありません。霊的存在である悪霊たちも来ていて、イエスの正体を知っていると言っています。ここでは、天が地に突入し、霊が肉の世界に介入しています。以前、汚れた霊は、イエスを「神の聖者」(1・24)と告白しましたが、ここでは一層明確な「神の子」の称号を用いました。そしてここでも又、イエスは悪震にそれを語ることを厳禁しました。マルコによれば、イエスは初めからすでに神の子(1・1)ですが、その称号は神によって委託された御業(十字架)に基づくものです。奇跡を行なったからその力に驚いて、イエスが神の子だと言うのは、悪霊の信仰なのです。そういう「福音」は決して広めてはならない。そのことはペテロの信仰告白の時に明確になりました。 「あなたこそキリストです」(8・29)と告白したペテロにも、その秘密を語ってはならない、とイエスは戒めました。それからイエスが、神に委託された使命(十字架)について語った時、ペテロが「そんなことを仰しゃってはいけません」といさめると、イエスは「サタンよ、引き下がれ!」と一喝しました。十字架の道に従う者にのみ真の信仰が明らかにされるのです。あの誤解が正された後になって、はじめて神御自身が、ペテロとヤコブとヨハネの三人の内弟子に、高い山の上で、イエスが神の子であることを明らかにされました(9・2以下)。
 神の国の奥義は永途の昔から隠されていて、人間は決してそれを知ることができない、とユダヤ教は教えていましたが、福音は、「その奥義は、君たちの中にいますキリストであり、栄光の望みである」(コロサイ1・27)と語りました。
                       一九九O年九月二日 礼拝説教

     「十二人の召命」

 それからイエスは山に登って、これぞと思う人々を寄び寄せられると、彼らは御詐に来た。そこで十二人を指名された。彼らを身近かにおらせ、派遣して宣ベ伝えさせたり、悪霊を追い出す力を与えるためである。かくて彼は十二人を指名し、シモンにペテロという名を与え、ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネにボアネルゲ即ち雷の子という名を与え、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルバヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党シモン、イスカリオテのユダを召された。このユダはイエスを敵の手に引き渡した者である。                マルコ福音書3章13節〜19節

 イエスは登山がお好きであったというわけではありませんが、福音書には山がよく出てきます。マルコの記事では、イエスは潮畔で民衆に神の国の福音を語り、病人を癒し、そこを去って山に登り、12人を選ばれました。マタイでは、湖畔の活勤の後、山に登っていわゆる「山上の説教」(5章〜7章)をされ、12弟子の選定はずっと後(10章)になる。ルカでは、山に登って12人を選び(6・12)、山を下りて平地に出てから民衆に教えたり、治療を行なったりして、それからいわゆる「平地の説教」(6・20以下)をされている。三福音書の記者たちは、手持ちの資料や伝承を用いて、三者三様の編集をしているのです。マルコにいわゆる「説教」が無いのは、Q資料(イエスの言葉集)を持ち合わせていなかったからです。「われ、山に向かいて目を上ぐ」(詩篇一二一)。山には特別なイメージがあります。山は、神の啓示が行なわれる場所なのです。昔、モーセが山で神の顕現にあい、十戒を授けられ、それを持ち下ってふもとにいる民衆に伝えた事跡(出エジブト記19章)と、イエスが山の上で、又は、山を下って、人々に神の福音を語ったというイメージは重なります。ここでイエスは新しいモーセ、モーセ以上の権威ある者として描かれています。イエスは山の上で12弟子を指名されました。
 12という数は、族長ヤコブの人の息子からイスラエルの12部族が出てきたことに由来していますが、これは又、やがて到来する終末時の支配を意味する「栄光の12の位」(マタイ19・28)とも関係があります。終末は将来に起こる出来事であると共に、新約聖書では、イエスの到来と共にすでに始まっている出来事であるとも、伝えられています。神がヤコブの12人の息子からイスラエルの部族を造り出されたように、イエスは12使徒によって新イスラエル(普遍的な教会)を造り出されるのです。イエスはパリサイ派の人々やクムラン宗団の人々のように、一つの特殊な宗教教団を形成しようとされたのではありません。 イエスはその12人を全イスラエルに派遣します(マタイ10・5)。そしてやがて十字架と復活の後には、その証人を地の果てまでも派遣しようとしております(マタイ28・19)。人は終末時の新しい神の民のはじめなのです。それでイエスは彼らを傍らに置いて教育し、訓練して、やがて彼らを福音の使者として派遣されるお考えなのです。
 さて、三福音書と使徒行伝にある12弟子のリストを見ると、多少の相逢がありますが、大体は一致しています。名前の序列はイエスとの関係の親密度によっています。すベてのリストで、ペテロが筆頭でイスカリオテのユダが最後です。その間に他の10人の名前が大体の序列に従って記されています。これで見ると、後世の教会史家が「12使徒職の制定」と呼ぶような大仰なものではなく、実体はごく素朴で内輪なものだったに違いありません。実際、福音書の中で大事な場面でイエスと一緒にいるのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人か、それにアンデレを加えた4人だけなのです。他の8人は非常に影が薄い存在です。イエスの復活後も同様で、使徒行伝の中で最も活曙するのはペテロです。ヨハネはペテロの脇役として出て来ます。ヤコブはただ一度、ヘロデ・アグリッバ一世のキリスト教徒迫害の時に12使徒の中での最初の殉教者として出てくるだけです(使徒行伝12・2)。パウロの手紙には、彼のエルサレム訪問の時に会った使徒として、ペテロとヨハネ、それに12使徒の中に入っていなかった主の兄弟ヤコブの3人の名前が出てくるだけなのです。それである聖書学者達は、イエスの弟子は最初の4人だけで、12使徒というのは原始キリスト教団の創作ではないか、というほどです。しかしやはりイエスの在世中に12弟子は存在したでしょう。イエスの死後すぐに11弟子が集まったという使徒行伝(1・13)の記事や、パウロが特に12人を区別して記しているのがその証扱です(コリント第一・15・5)。それにしても誠に心許ない小集団です。
 12人の顔ぶれを見ると、中核になる最初の4人はガリラヤの漁師です。彼らは無学な、ただの人」(使徒行伝4・13)でした。その他あと2人も漁師でした(ヨハネ21・2)。また、ローマ政府のために税金を徴集していた取税人マタイがいます。それとは反対に、対ローマ独立運動の戦士集団、熱心党(ゼロータイ)に属していたシモンがいます。イスカリオテのユダというのは、ユダヤのケリオテの出身ということか、「短剣」を意味するシカリ党の党員であったということか、よく分かりません。シカリ党は熱心党よりも更に過激的、暴力的な、ローマの支配に反対する戦闘集団で、結局はその両党の暴発によって第一次ユダヤ反乱が起こされ、紀元70年に国が滅亡してしまうのです。
 実に多士済々というベきか、種々雑多というベきか。 「新しいぶどう酒を容れるための新しい皮袋」としては誠にお粗末な顔ぶれです。一体、こんな寄せ集めの小グループに何ができるというのでしょうか?
 これではまるでドンキホーテです。イエスの聖なる大望に対して、余りにも惨めな現実です。しかしイエスはそれをよしとされました。「これぞと思う人々」を選ばれたのです。それは神の経綸に叶っていました。神は種々維多な逃亡双隷(出エジプト記12・38)を集めて、十戒を与え、契約を結んで、神の民イスラエルを造り出された神でした。 「神は石ころからでも、アブラハムの子らを造り出すことができる」(ルカ3・8)お方です。教会の現状がいかに無力で細やかなものであっても、失望しない理由がここにあります。
                         一九九O年九月九日 礼拝説教