前のページに戻る



マルコ福音書の研究

  「真の主権者」

 悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世界中の国々とその繁栄ぶりとを見せて、言った。
サタン「これらをみんなあなたに上げましょう、もしひざまずいて私を拝むなら」
イエス「消え失せろ、サタン! "あなたの神なる主を拝礼し、主にのみ仕えよ"と聖書に書いてあるぞ」
 すると悪魔はイエスを離れ、そして見よ、天使たちが近寄ってきて、彼に仕えた。
マタイ福音書4章8節〜11節

 大相撲大阪場所千秋楽の勝負は面白かった。常勝力士千代の富士の力が衰えたため、北勝海、小錦、霧島の三力士による同点三つ巴決勝戦が行われました。近代民主社会では権力の一点集中を防ぐために、司法−行政−立法の三権が分立しています。古代オリエント社会の三権は、神−王−祭司でした。この権力構造は、ジャンケンのように、三つ巴になっていました。
 神は王に勝つ。古代エジプトやアッシリヤの王たちは大変信心深く、ひたすら神々のご機嫌をうかがい、供物や犠牲を奉納したり、豪華な神殿を建てたりしました。王は祭司に勝つ。王は祭司の任命権や解任権をもっていました。祭司は神に勝つ。祭司は立場上、目に見えない神々を自分の欲望を果たすために利用することができました。日本でも、神仏を利用した宗教家は栄達でき、良心的に仕えた宗教家は富貴とは縁遠い存在でした。現代の日本人の殆んどすべてが、神仏とは、愛し仕える対象ではなく、自分の思いを遂げるための手段であると考えています。「主を試す罪」とは、神の力を利用して、神の主権を犯す罪です。
 悪魔の第三の誘惑は、基本的には第二の問題と同じですが、その規模が桁外れに大きくなっています。「男は支配したがり、女は所有したがる」とはよく言ったものです。悪魔はイエスを連れて非常に高い山に登り、眼下に全世界の国々とその栄光とを一望させて、「これらをみんなお前に上げよう」と言いました。最高の支配欲と、最大の所有欲が満たされるのです。何たる誘惑! 「貧しいイエスよ。一体お前に何ができるというのか? この世に神の国を実現させ、人々を幸福にしようというお前の願いは気高いものだ。しかし無力なお前はどうやってそれを実行するのか? この世の富と権力はすべて、わしの手の中に握られているのだ。だからわしと手を結べ。悪いようにはせぬ。わしはお前が好きなのだ。わしはお前をわしの後継者にしてやろう。わしのものはみんなお前のものになるのだ。お前の自由にしていい。この世の富と権力を使って神の国を造ったらどうだ。だからこの世の権力者であるわしの前にひれ伏せ。そんなことは何でもないことだ。この荒野で、他に誰も見ている者はない。これはわしとお前だけの秘密にしておこう」。
 英語の文法に直接法と仮定法とがあります。「私にはお金がない」という言い方は、事実そのままを述べる直接法ですが、「もし私に大金があったら…」と、実際には無いことを有るものと仮定して話を進める言い方を仮定法といいます。サタンの誘惑は仮定法的です。実際には、全世界を一望に見渡せるほど高い山などありません。人工衛星から見ても不可能でしょう。また、世界中の国々がすべて繁栄している、というのもマユツバです。一つの国が繁栄していれば、十の国が搾取されて苦しんでいるはずです。4月2日夜、NHKテレビでマレーシアのスルタン王家の豪勢な生活ぶりを見ましたが、その裏には数十万、数百万の貧しい民衆がいるのです。イスラム教徒がひとりの神アッラーの前に跪拝している姿を見ると感動いたしますが、イスラム教国が少数の富める王族と、多数の貧しい民衆とから成り立っていることを考えると、イスラム教という宗教の仕組みの中に、サタンの支配を認めざるを得ません。問題はイスラム教ばかりでなく、巨大な宗教教団の殆んどすべての中にサタンの仕業が見られることです。数ヵ月前トム・ウィリアムズ氏との話の中に、アメリカのテレビ伝道師の犯罪が問題になった時に彼が「どうして伝道が盛んになり、大勢の信者が集まり、教団が大きくなると、犯罪やスキャンダルが出てくるのだろう?」と疑問を感じておりました。神を信じなくなってしまった現代人は、悪魔の存在を笑います。サタンの誘惑を恐ろしいと思わない人は、すでにサタンの誘惑の虜(とりこ)にされているのです。
 人間の問題の本質を見究めようとすれば、人里はなれた荒野で断食し、瞑想することはよい方法です。しかしそうして考えを透明にすればするほど、現実ばなれして、フィクションの方へ傾くこともありがちです。イリュージョン(幻影、幻想、錯覚)の力は、現実の力と同じ位、強いのです。
 サタンの誘惑に傾きかけたイエスの心を、グイッと反対側に引き戻す力がありました。「あなたの神なる主を拝礼し、主にのみ仕えよ」という言葉でした。これは申命記6章13節どおりの言葉ではありません。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」という申命記の言葉の心をとったものでしょう。「わたしを拝し、わたしに仕えよ」というサタンの言葉に対するイエスの敏感な反応でした。「消え失せろ、サタン!」 イエスは甘い誘惑の声の中にひそむサタンの本性を見破り、一[カツ]しました。するとたちまちサタンの姿は消え去り、イエスの心に大きな平安(シャローム)がきました。福音書記者マタイは「そして見よ、天使たちが近寄ってきて、彼に仕えた」と書いています。
 「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」。これが十戒の第一戒です。その戒めの精神を申命記は、全身全霊を上げて主なるあなたの神を愛せよ、と解釈しました。シェマァーの祈りは、十戒のモーセ的な解釈です。愛の戒めが、サタンの誘惑からイエスを救出しました。こうしてサタンと手を切ったイエスの進路を導くものは、神への信頼のみになりました。神は愛子(あいし)イエスを、十字架の道に導かれました。「わが神、わが神、なんぞ我を捨て給いし!」と十字架上で叫ぶイエスの中に、「我を見し者は、父を見しなり」というイエスの言葉の真実を認める信仰を、私たちはもっているでしょうか?
1990年4月8日 棕梠聖日礼拝説教

  「キリストの復活と人間の再生」

 君たちは、イエス・キリストを見たこともないのに、彼を愛している。いま見てはいないけれども彼を信じており、言い尽くし難いほどの歓喜に満たされている。それは、信仰の実りである魂の救済を刈り取っているからなのです。ペテロ第一書1章8節〜9節

 復活節(イースター)は、古代ゲルマン民族が春分の日に行なっていた春の女神エストラの祭りに由来します。後に、ゲルマン民族にキリスト教が伝えられた時に、義の太陽であり、生命の主であるイエス・キリストの復活を記念するお祭りと重なりました。
 イエスが十字架にかけられて殺され、墓に埋葬されたが、三日目に甦ったことを記念して守るキリスト教徒の祝日が復活祭。その説明に間違いはないのですが、ただそういう言葉だけを毎年繰り返しているのでは、おとぎ話を信じて喜んでいるようで、教会学校の子供たちですら本気にしないでしょう。牧師が聖書のあちこちを引照して、だからキリストの復活は客観的な事実であったと力説してみても、それは自分の顔を鏡に映して頷いているようなもので、他の人は「関係ない」と思うでしょう。ですから私たちはクリスチャンでない人でも、「確かにそうだ」という点を問題にしなければなりません。それで今日は、ペテロに焦点を当てて学びを進めましょう。
 「私に従ってきなさい。君を人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコ1・17)。これはイエスがペテロに語りかけた最初の言葉でした。ペテロはガリラヤ湖で魚を捕る漁師でした。彼はイエスに従って、魚を捕る漁師から、人間の魂を神の言葉の網で生命の中に漁(すなど)る漁師になるのです。彼はガリラヤ湖の北岸にあるベッサイダの町出身、カペナウム在住の、生粋のガリラヤ人でした。いまカペナウムに、二世紀頃建築のユダヤ教会堂の遺跡に隣接して、「ペテロの家の跡」の礎石が残っています。「イエスは(傍点始まり)会堂を出ると直ぐ(傍点終わり)、シモンとアンデレの家に入って行った」(マルコ1・29)。この家は相当に大きくて、ペテロは漁師の網元をしていたようです。彼の本来の名前はシメオン(シモン)といい、「ペテロ」はイエスに与えられたあだ名でした。彼は結婚していました。「シモンの姑が熱を出して寝ていたので…」(同1・30)。
 イエスの弟子の中では、ペテロは傑出した存在でした。彼の名前はつねに弟子たちの名簿では筆頭に置かれていました。「12使徒の名は次の通りである。(傍点始まり)まずペテロ(傍点終わり)と呼ばれるシモン…」(マタイ10・2)。名簿ではイスカリオテのユダが最後でした。
 イエスは決してご自分をメシアであるとは言われませんでしたが、ペテロはメシアの秘密を見抜いた最初の弟子でした。「あなたこそ、メシアです」(マルコ8・29)。
 イエスに愛され信頼されたペテロは、最後に、イエスが反対勢力によって逮捕され、裁判にかけられていた時に、イエスを三度も否認してしまいます。「ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら、"あなたの言っているそんな人は知らない"と言って、誓い始めた」(マルコ14・71)。人間には自分の命を助けるためには何でもやってしまう弱さがあります。いざとなると、「命あっての物種」なのです。自己保存の本能は、生物としての人間の当たり前の姿です。しかしそれを聖書は「罪」と呼びます。愛の神を知って、これを裏切るところに罪が意識されるのです。イエスの愛を受けて、これを裏切ってしまったので、ペテロの心は罪の意識に苛まれ、「外に出て、激しく泣いた」のです。もしイエスの復活がなければ、ペテロとイエスの関係は、ペテロの裏切りで最後でした。その後のペテロが思い遣られます。彼は墓の中にまで重たく沈んだ心を持ち入れたことでしょう。
 「銀や金は私にはない。しかし私が持っているものを君に上げよう。ナザレのイエス・キリストの名において、立ちて歩け!」(使徒行伝3・6)。イエスが十字架上で殺されてから50日ほどたった後、ペテロは神殿の「美しの門」で物乞いをしていた生まれつきの足のわるい男を、イエス・キリストの名によって癒してしまいました。「すると、たちまち、その男は足やくるぶしが確りして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして歩き回ったり躍ったりして神を賛美し…」。
 このペテロの変化をどう考えたらよいのでしょうか? 人間はこれほど変わるものでしょうか? あのペテロとこのペテロの間の、わずか50日間に、一体、何が起こったのでしょうか? 同じペテロです。しかし以前のペテロではありません。生まれ変わって、別人になったペテロです。ここには断絶と連続が見られます。罪の意識は、裏切られた本人が直接、「あなたの罪を赦してあげます」と言ってくれるまで、完全に拭い去られることはありません。
 「最も大切なこととして私が君たちに伝えたのは、私も受けたものです。即ち、キリストが、聖書にある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書にある通り三日目に復活したこと、ケパ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現われ…」(コリント第一書15・3)。これはイエスの死後約20年後にパウロによって書かれた最古の復活証言です。復活のキリストは、誰よりも先ず、罪に苦しみ悩んでいたペテロに出会って彼の罪を赦し、弟子たちの群の羊飼いに任命しました。この出会いによって古いペテロは死んで、新しいペテロに甦ったのです。「今度こそ、主イエスの愛に応えて、命をかけて働こう」と決心したことでしょう。彼はその通りに献身し、殉教しました。彼は本当に「人間を生命に漁る漁師」になりました。
 「神の御業の秘密は、叙述することもできぬし、だれも見ることはできぬということが新約聖書にとっては決定的な点である。復活の奇跡、空虚な墓の発見という不可解な出来事が信仰を生み出すのではなく、信仰は、生ける主がその弟子達と出会われることによって、生まれるのである。この出会いこそ、神の奇跡的行為に対する信仰を支える基盤であり、復活者自身からその生きておられることを示された人だけが、空虚な墓の報告を理解することができる」(E・シュヴァイツァー)。
 信仰は、復活のキリストの御業なのです。
1990年4日15日 復活節礼拝説教

  「復活の主との出会い」

 そして最後に、未熟児として生まれたような私=パウロによって、彼=復活の主イエス・キリストは見られました。私が未熟児というのは、私が使徒達の中で最も小さい者で、以前、神の教会の迫害者だったので、使徒と呼ばれる値打ちもない者だからです。しかし神の恵みによって私はわたしなのです。つまり私は使徒なのです」
コリント第一書15章8節〜10節

 先週はペテロに焦点を当てて、キリストの復活について学びましたが、今日はパウロに焦点を合わせて、更にこの大切な問題の核心に迫りたいと願っています。
 パウロは不思議な人物です。彼は生前のイエスに会っていないようです。生前のイエスと関わった弟子達が第一世代のクリスチャンなら、彼は第二世代のクリスチャンの先頭に立っています。彼は最初、第一世代のクリスチャン達の迫害者として登場します。彼は丁度、ハワイ生まれの日系二世のように、キリキヤ州タルソ市出身のユダヤ人で、和魂洋才ならぬ、ヘレニズムの教養のあるヘブライズムの信仰の持ち主でした。彼は律法を専門的に学んでユダヤ教のラビになる希望をもってエルサレムに行き、パリサイ派の大学者ガマリエルの弟子になり、勉学においても修業においても、最も熱心な学徒として評判のある者でした。
 その頃、ユダヤ教の中から異端的な新興宗教が現われました。十字架上で刑死したナザレのイエスが復活したと言いふらし、彼こそが待望のメシアであると教えて多数の信者を集め、洗礼や共同の食事を行ない、その中には最早、律法も神殿も必要がなくなったと教える者まで出はじめた、というのです。
 熱心な律法の学徒であったパウロは彼らを厳しく取り締まり、場合によっては処罰処刑することも神に与えられた任務であると考えて、「その道の者たち」を迫害し、ステパノ殺害の協力者ともなりました。そして更に、安全を求めてシリアのダマスコに逃げて行った者達を逮捕するために大祭司の添書をもってダマスコの郊外まで行った時に、復活のイエスに出会って回心し、それ以後、席の暖まるひまもないほどに地中海世界を馳けめぐって十字架と復活の福音を宣べ伝え、終にネロ皇帝の迫害の時にローマで殉教の死を遂げました。
 パウロの伝道旅行の一部に同伴した医者のルカは、使徒行伝の中に三度も「ダマスコ途上のパウロの回心」の出来事を記しています。ルカは使徒行伝のクライマックスとして「パウロの回心」の場を実に劇的に描いたので、後にこの場面が文学や演劇や能にまでなるほどでした。そのため後世の聖書読者である私たちは、パウロの回心というと直ぐに使徒行伝9章の記事を思い起こすのですが、パウロ自身の手紙の描写はもっと控え目です。「…母の胎内にある時から私を聖別し、恵みをもって私を召して下さったお方が、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、(傍点始まり)御子を私の内に啓示して(傍点終わり)下さった時…」(ガラテヤ書1・15)。ここでは復活の主イエスとの出会いは、パウロの内心の出来事として記されています。パウロの強調していることは、彼の回心が人間の働きによったのではなく、神の直接的な啓示によるものであったという点でした。
 冒頭にあるコリント第一書15章は全章に渡ってキリストの復活について語っています。「パウロは福音書の著者たちとは異なり、イエスの生涯や教えよりも、イエスの死と復活に関心を抱き、それが人類に対してもつ意味を追い求めた。パウロにとってそれを受けるに値しない人間に示された神の力と愛とは、主の復活の中に、究極的に顕示されているものであった。即ち復活とは、人間の罪と死に対するイエスの勝利であった」(G・E・ライト)。パウロはこの章で、復活のキリストは先ずペテロに見られ、次に十二弟子、次に五百人以上の兄弟たちに同時に見られた。更に主の兄弟ヤコブに見られ、次にすべての使徒たちに見られ、最後にパウロ自身によって見られた、と語っています。その中の「五百人以上の兄弟たち」の場合は、聖霊降臨の出来事(使徒行伝2章)を指していると思われます。「すべての使徒たち」とは、十二使徒とは別に、もっと広い範囲の伝道者を意味しています。そして最後にパウロ自身の経験を述べています。その場合、パウロ以前の人々は皆、第一世代のクリスチャンで、すべてイエスの弟子や味方でした。生前のイエスをよく知っていて、イエスと親しかった人達です。彼らがイエスの面影を慕ってその幻を見た、と言われるかも知れません。しかしパウロの場合は違っていました。彼は生前のイエスを見たこともなく、却ってイエスを憎み嫌う敵対者でした。しかも他の者達の場合と同様に「見られた」と同じ動詞を彼は使っています。
 佐竹明氏は優れたパウロの研究者ですが、パウロの回心の出来事を「幻視体験」と呼んでいます。夢や幻は古代イスラエル人にとって神意を伝えられる一つの手段でしたが、この場合は幻視体験ではなかったでしょう。パウロは彼自身の幻覚や幻視についてもマイナスのイメージとしてではなく、プラスのイメージとして語っていますが、その評価は低いものでした(コリント第一書14・18〜19、コリント第二書12・1〜10)。忘我状態になって夢や幻を見るという宗教体験はある程度の評価をうけてもよいと思いますが、それが絶対的価値評価の基準になったら危険です。
 しかし復活のキリストを見た、ということがパウロの使徒職の絶対基準でした。「私は自由な者ではないのか? 私は使徒ではないのか? 私は我らの主イエスを見なかったというのか?」(コリント第一書9・1)。パウロは以前クリスチャンの迫害者であって、イエスの直弟子ではなかったから本物の使徒ではない、と悪口を言うコリント教会の人々に対して、彼は一所懸命に、私は復活のイエス・キリストに出会って、主から直接、十字架と復活の真理を示され(「目からうろこのようなものが落ちた」使徒行伝9・18)、その福音を異邦人に宣べ伝えるべく任務を委託された者である、と主張しています。復活の主に出会うということの内実は、十字架と復活の真理が信じられたということで、それこそが聖霊の御業なのです。
1990年4月22日 礼拝説教

  「神の国の福音」

 ヨハネが引き渡された後、イエスはガリラヤに来て、神の福音を宣べ伝えて言った、"時は満ちた。神の国(支配)は近ずいた。君たちは立ち帰って、福音(喜びの音信(おとずれ))を信じなさい"マルコ福音書1章14節、15節

 時は春、と思いたい。気候温暖なガリラヤの春は、野にも山にも緑の草の中に、黄、白、ピンク、赤、紫の花々が咲き乱れて、それは美しい。そこへイエスがユダヤから帰って来て、ガリラヤ湖畔か小高い丘の上かで、人々を前にして、「時は満ちた。神の国がすでに近くに来ている…」と語られる。一度だけタイムトンネルでどの時代にでも行けるとすれば、私はこの時の群衆の一人になって、イエス様のお言葉に耳を傾けたい。「ガリラヤの風かおる丘で ひとびとに話された 恵みのみことばを わたしにも聞かせてください」(別府信男)
 時は春、とはイエスの生涯の春でもありました。「イエスが宣教を始めたのは、およそ30歳の時であった」(ルカ3・23)。ヨハネから洗礼を受け、サタンの試練に勝利して、「御霊(みたま)の力に満ちあふれてガリラヤに帰り」(ルカ4・14)、神の福音の第一声を上げました。それからいわゆる「公生涯」に入りますが、イエスの春は、共観福音書では約一年、ヨハネ福音書では約三年の、余りにも短かい春でした。
 「ヨハネが引き渡された後」とは、洗礼者がヘロデ・アンティパス王の手に逮捕されたことを意味しますが、「引き渡される」という用語は、イエスの受難の時にもしばしば使われていることを考えると、記者マルコは、そこに神の導きを暗示しているのかも知れません。とにかくマルコとマタイは、洗礼者が入牢した後、イエスが伝道を開始したと記していますが、ヨハネは、イエスの伝道の開始を、洗礼者の働きと並行させています(ヨハネ3・22〜24)。どちらが歴史的事実だったかと問うことは無意味です。両者の資料の扱かい方が違うのです。マルコとマタイは、先駆者ヨハネを退場させた後、主役イエスを舞台に登場させるのですが、ヨハネは、イエスが洗礼者に勝る者として比較させているのです。
 大統領の就任演説や、選挙運動の第一声は、晴れの舞台を選んでなされますが、イエスは神の福音の第一声を、聖都エルサレムではなく、世界帝国の中心ローマでもなく、「異邦人のガリラヤ」(マタイ4・15)でなされました。そしてその語り方も、「彼は争わず、叫ばず、その声を大路で聞く者はない…異邦人は彼の名に望みを置く」(マタイ12・19)というものでした。静かに、目立たず、小さい所、低い所から。これが神の方法です。「語らず言わず、その声きこえざるに、その響きは全地にあまねく、その言葉は地の果てにまで及ぶ」(詩篇19)。私たちも小さいこと、低いこと、貧しいこと、目立たぬことを恥じるべきではありません。不正なこと、作為的なこと、無慈悲なこと、軽佻浮薄なることを恥じるべきです。特に、キリストの福音の伝道方法についてそう考えます。
 「時(カイロス)は満ちた」。マルコ福音書のイエスの最初の言葉です。イエスの聴衆はその言葉を正しく受け止めました。当時のユダヤ人達は、二つの時代(アイオーン)という世界像を共有していました。現在の時代と将来の時代、サタンの支配する時代と神の支配する時代。「邪悪で罪深いこの時代にあって…人の子が父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来る時…(マルコ8・38)、「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、来たるべき世でも、赦されることがない」(マタイ12・32)。福音書やパウロの手紙の随所に、この二つの世界像が表現されています。「時は満ちた」とは、救済史の準備期間が終わり、その成就の時、恵みの新時代が到来した、という意味です。「時は縮まっている」(コリント第一書7・29)とパウロは書きました。イエスの時代とパウロの時代の人々は、歴史の終末の切迫という期待と緊張の中に生きていました。
 「いかに美しいことか、山々を巡り、よい知らせを伝える者の足は! 彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる」(イザヤ52・7)。イエスの時代のユダヤ教は、人が神のあらゆる律法に従順に従う時、神の支配を自分の上に受ける、と教えていました。エッセネ派クムラン宗団の人々は、斉戒沐浴し、結婚を禁じ、戒律を守り、義の教師の許に共同生活を営みつつ終末の時の聖戦に備えていました。洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ、天国は近づいた!」(マタイ3・2)と叫びました。神の支配の時が近づいた。その前に恐ろしい審判がある。だからマムシの末裔たちよ、罪の生活を改めて正しい生き方をしてその時に備えなさい、と語りました。イエスの宣教はそれらとは全く異なっていました。イエスは神を王として語ることが少なく、神の支配が全世界の上に打ち建てられるとは決して言いませんでした。むしろ、「神の国に入る」と言いました。イエスと関係を結ぶことによって、人々は喜んで神の支配の中に入って行くのです。イエスは人々に地獄の恐怖感を与えて信仰に導くことは決していたしませんでした。丁度、遊びほうけている子供たちに向かって、「さあ夕方になりましたよ。夕食の仕度ができましたからお家へ帰っていらっしゃい」と優しく呼びかけて招く母親のようでした。洗礼者は「まず罪を悔い改めて、天国の来るのを待て」と語りました。イエスは「神の国がわたしと共に来ているのだから、立ち帰っていらっしゃい」と呼びかけました。この順序の逆転が大切です。
 神の国に入るにはどうしたらよいのでしょうか? 人間は常に資格を問います。規準を満たせ、掟を守れ、試験を受けろ、金を払え、洗礼を受けろ、教会員に成れ…。しかしイエスは一切の資格を問いません。さあ神の国の門をわたしが開けてあげたから、わたしの招きに応じて入っていらっしゃい。ユダヤ人も異邦人も、男も女も、孤児も未亡人も、病人も貧乏人も、取税人も売笑婦も、エイズもアル中もホームレスもだれでもわたしの許に来て重荷を下ろしなさい、と呼びかけています。イエスの招きに応じて立ち上がり、イエスに従うことから、神の国での生活は始まるのです。
1990年5月6日  礼拝説教

  「パンと自由」

 わたしは、新しい戒めを君たちに与える。君たちは互いに愛し合いなさい。わたしが君たちを愛したように、君たちも互いに愛し合いなさい。ヨハネ福音書13章34節

 今朝は橋爪正芳さんの召天10周年の記念礼拝です。いつもの教会員たちの他に、橋爪家の人々や、トキコの会社の方々が大勢出席されております。半年ほど前、橋爪佐和代姉(し)がトキコの会社の方と偶然出会われて、その方から「橋爪さんの10周年記念会には仲間達と一緒にぜひ参加したい」と申し出られました。そのお話を橋爪姉からうかがった時に、私は新鮮な感動を覚えました。「去る者日々にうとし」ということわざのように、親しい家族ですら死別して10年も経てばその記憶が薄れてしまうのに、会社の人々が数十人も橋爪さんを憶えていて、大切な時間をさいて記念会に参加したいと言われるのです。橋爪正芳さんが家庭でよき夫、よき父であられたように、会社でも人々に信頼され、愛され、慕われていた立派な社会人であられたことがよく分かります。暖かい人間関係が失われつつある今日、ここにお集まりの方々は大切なものを私たちに教えて下さっているのです。
 橋爪佐和子姉は昭和25年のクリスマスに私と一緒に尾島真治牧師から受洗されたこの教会最古の信者です。佐和代姉は婚約時代に一度か二度正芳さんを教会に連れて来られたと言われますが、私にはお会いした記憶がなく、10年前に危篤状態になられた時に、佐和代姉の要請で洗礼のために病院でお目にかかったのが最初で最後の機会でした。生前そのように御縁の薄かった私ですが、奥さんや二人のお嬢さん、会社の人々など、正芳さんの人生に深く関わった人々を通して、そのお人柄を偲ぶことができます。御自身は教会に来られませんでしたが、奥さんの信仰生活やお嬢さん達の幼児洗礼などには理解を示しておられました。また鎌倉霊園に教会の墓地を購入した時には御一家で参加されました。いま教会墓地には橋爪正芳兄と古市友邦兄の御遺骨が納められていますが、面白いことにお二人共、生前この教会にあまり御縁がなく、又、お酒を愛された方々のようです。
 現在、ソ連や東欧諸国をはじめ世界の各地で改革の大波小波が立ち騒いでおりますが、常日頃聖書を学んでおります私から見ますと、問題の中心は「パンと自由」にあると思われます。ソ連とリトアニアの問題は、象と蟻の争いのような感じですが、自由と独立を求めるリトアニア国民に対して、それではパンをやらないぞ、とソ連が言っているようなものです。私たち日本人は、戦後45年間、ひたすらパンを求めて働いてきて現在の経済的繁栄を築き上げましたが、自由を相当に犠牲にしてきたように思います。いま、地球と人類を破壊と滅亡から守ろうとする立場に立てば、私たち日本人は経済的、物質的な欲望を少しづつ減らして、貧しい国の人々とパンを分け合う知恵を真剣に求めるべき時が来ているように思います。自分のパンを求めることは利己的な行為ですが、他人(ひと)のパンを配慮することは宗教的な行為なのです。
 「パン」という日本語はスペイン語から来ています。会社のことを英語でカンパニーと言いますが、その元来の意味は「パンを共にする仲間」です。また同じくコンパニオンという語も、仲間、友達、道連れという意味で、その原義は「パンを分け合う仲間」です。人間がお互いにパンを奪い合う関係ではなく、パンを分け合う関係になった時に、真の平和が来るでしょう。人がパンを分け合っている時には、愛の心も分け合っているのです。
 今日はじめて教会に来られた方は、私たちが橋爪正芳さんを橋爪正芳兄(けい)と呼び、奥さんを佐和代姉(し)と呼んでいるのを奇異に感じられたかも知れませんが、教会では人種、年齢、学歴、才能、貧富、地位、役職などに一切関係なく、イエス・キリストを信じる者は皆、神の子とされた者であり、神を唯一の父と仰ぎ、お互いをキリストによって結び合わされた兄弟であり姉妹であると信じているのです。つまり神の御前に私たちは皆、平等であるのです。そしてこの地上に平等があるとすれば、「その場」にしか平等を見出すことはできません。
 イエス・キリストが最後に弟子たちに「これを行なえ」とお命じになったことが二つあります。キリスト教会は最も大切な礼典として二千年来守り続けてきたものです。それは洗礼と聖餐です。洗礼は、イエス・キリストの弟子になるという証(あかし)です。そして、洗礼を受けた者たちが聖餐の席に着いて、パンとぶどう酒を分け合ってこれを頂くのですが、パンはキリストの愛を、ぶどう酒はキリストの生命(いのち)を象徴するものです。キリストが私たちをこの世の罪の法則からあがない出し、救い出すために十字架上で血を流して死なれたこと、そして私たちを死の束縛から自由にするために、死から生命へ甦られたことを記念して、私たちは感謝と喜びをもって、パンをさき、ぶどう酒を分け合って頂くのです。
 聖餐式を英語でコミュニオンと言います。それは、親しい交わり、霊的な交渉という意味です。その基盤は、「キリストが私たちのために生命を捨てて下さったことによって、私たちは初めて本当の愛を知った。それゆえに、私たちも又、兄弟のために生命を捨てるべきです」という思想です。そしてコミュニオンを行なう人を、コミュニストと言います。今ではコミュニストと言うと共産主義者のことだと思われていますが、それはこの70年来のことで、元来は聖餐に与かる者のことでした。現在、国際共産主義がなぜ崩壊したかというと、キリストの愛から離れて、自分たちの手でパンを分け合おうとして失敗した結果であると考えるのです。激しい権力闘争と自由の弾圧と新しい特権階級が出現しました。
 現代の代表的自由人は、マザー・テレサとゴルバチョフ氏です。前者は、貧しい人々を助けるために自ら貧しくなり、貧しさの中の真の豊かさを私たちに教えています。後者は、自由のために生命がけで戦っている真の勇者です。両者共、神を信じ、キリストを愛する人たちです。私たちも愛と自由な心をもって、「パンを分け合う者」になりましょう。
1990年5月13日 記念礼拝説教

  「福音」について

 ヨハネが引き渡された後、イエスはガリラヤに来て、神の福音を宣べ伝えて言った、「時は満ちた。神の国は近づいた。君たちは立ち帰って、福音を信じなさい」
マルコ福音書1章14節、15節

 ドイツの聖書批評学者ユリウス・ウェルハウゼンは、1909年に著した「マルコ伝注解」の中でこう言いました、「『福音』という言葉が、イエスがそれについて何の説明もせぬままに、突然始まっている。イエスが語りかけたユダヤ人たちには、この言葉の概念が全く理解されなかったに違いない。これは使徒の説教に属するもので、ここでは全くお門違いである」。
 19世紀のドイツ啓蒙思想の中から、ウェルハウゼンの聖書批評学が生まれて、近代聖書学への道が拓かれました。それは聖書をキリスト教徒の正典として、神聖犯すべからざる真理の書として、常に護教的な観点に立って読むのではなく、聖書を一つの古代文書の資料として扱い、それを科学的、学問的な観点に立って批判的に研究する方法です。ユダヤ教徒やキリスト教徒の伝統的な聖書観は、聖書は完全な形で天から降ってきた神聖な書物で、そこに書いてある言葉に対して人間は服従するのみで、疑問をはさんだり、批判をしたりしてはならない、というものでした。それに対して聖書批評学は、聖書といえども人間の手に成る所産であるとして扱い、これを歴史学的、文献学的、言語学的、考古学的に精密に調べ、聖書の一つ一つの記事にどこまで信憑性(しんぴょうせい)があるかを判断する学問です。そのような新しい観点から発表されたウェルハウゼンの学説は、当時の教会や聖書学者を震感させました。そして開拓者の常としてウェルハウゼンは保守的な教会や大学から迫害され、追放されましたが、彼は近代聖書学に夜明けをもたらした先駆者の一人になりました。彼の立場は丁度、天文学におけるガリレオ、生物学におけるダーウィン、心理学におけるフロイトの立場と同じでした。社会的タブーに挑戦する者は常に迫害を受けるという点では、彼らは旧約の預言者やイエスやパウロと同じ系譜に属しています。彼らは常にラジカル(根元的、急進的)なプロテスタント(抗議者)でした。
 私は、教会の伝統的な聖書の読み方と、聖書批評学的な聖書の読み方とは決して敵対関係にあるのではなく、聖書の言葉に人間の理性の光を十分にあてて調べ学ぶことによって、それまで盲目的に信じられていた聖書の真価が増々発揮され、尽きせぬ霊感と知識と興味を与えてくれるものと信じています。シェマァーの祈りの中にも、「あなたの思い(理解力)を尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい」とあります。 科学を敵視し、理性を危ぶみ、常識に目を塞ぎ、たくさんのタブーを抱えて、戦々恐々として「信仰生活」を守ることが、「聖書的なキリスト教」なのではありません。
 さて、ウェルハウゼンの「全くのお門違いである」という説を検討してみましょう。なるほど、「福音」はキリストの復活から始まったのです。イエスが十字架にかけられた時、弟子達はみんな逃亡してしまいました。彼らは、ルカとヨハネによると、エルサレムの町のどこかに潜伏していました。マルコとマタイによると、なんとガリラヤまで逃走して行ったのです。その時点では、彼らはイエスに絶望していました。ところが、復活のイエスが御自身を彼らに次々に現わしたことにより、彼らはイエスこそ旧約聖書に預言されていた救い主(メシア)キリストであると確信し、次第に寄り集まって、原始キリスト教会を発足させました。その頃の状況は使徒行伝の最初の部分に記されています。コリント第一書15章1節〜11節の中に、聖霊降臨直後にまで逆上ることのできる原始教団最古の信仰告白の定式(3節〜4節)があります。それで「福音」とは当然、イエスの十字架の贖罪的な死と復活とをその中に含んでいるはずです。それでウェルハウゼンは、ペテロやパウロが「福音」を語るというのなら理解できるが、イエスが「福音」を語ったというのは、全くのお門違いである、と言うのです。
 実は、「福音」という語は、すでに旧約聖書に使われていました。「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山に登れ」(イザヤ書40・9)、「よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救いを告げ…」(同52・7)。そこではヤハウェの支配と救いの時の到来の告知をよきおとずれ=福音と言っているのです。
 更に「福音」という語は、ギリシャ・ローマ世界で広く理解されていた言葉でした。「天の配剤はアウグストゥスを我々に送り、人々の幸せのために彼に溢れるばかりの力を与えた。即ち我々と子孫のために戦争を終わらせ、すべてに秩序を与えるところの救い主として彼を送ってくれたのだ…世界にとって神の誕生は、世界のために告知されたところの喜びの使信(エウアンゲリオン)である」(プリエネ碑文 紀元前9年)。救い主、神の子、福音などという用語は、イエスの時代以前に、すでに皇帝礼拝に関連して使われていました。平和と繁栄をもたらす神なる皇帝の誕生の告知はローマ世界にとっての「福音」であり、彼の即位は新しい時代の到来を意味していました。
 その「福音」という語を、使徒達はキリストの出来事に転用して、これこそが唯一真正の「福音」であるとしてローマ世界に宣べ伝えました。マルコによれば、キリストの福音の宣教はバプテスマのヨハネの活動の時から始まっており(1・1)、イエスの教えの中にもあり(1・14、15)、更に、全世界に広がる教会の説教の中にも継続されていく(13・10、14・9)のです。
 「時は満ちた。神の国は近づいた。君たちは立ち帰って、福音を信じなさい」。これはイエスが神の支配の到来を宣言した言葉です。もしこの言葉がイエスのものではなく、原始キリスト教団を代表して語るマルコのものであったとしても、彼らの内に働きかけて彼らにそのように語らしめた活ける主イエスの御声を、私たちはその言葉の中に聴くのです。私たちにとって最も大切なものは学説ではなく、出来事でもなく、主イエス・キリスト御自身なのです。主イエスは福音を語られましたが、実は、主イエス御自身が福音そのものなのです。神の福音それ自身が、今日、ここで、私たちに語りかけておられるのです。
1990年5月27日 礼拝説教

  「聖霊のバプテスマ」

 親愛なるテオピロよ、私は先に第一巻(ルカ福音書)を著して、イエスがその活動の第一期に行われたり、教えられたりしたことすべてについて記しました。使徒行伝1章1節

 聖書記者ルカは、イエスの地上での生涯を、イエスの活動の第一期としてルカ福音書に記し、復活し、昇天し、聖霊として降られたイエスが、その使徒たちを通していかに御業を行われたかを、イエスの活動の第二期として、使徒行伝に記しました。私たちはそうしたルカの著作意図の中に、彼の信仰の確かさを認めることができます。
 5月22日に高橋和美姉のお父上が突然、御逝去されました。その知らせを伝え聞いた鈴木みち子姉は、ご自身の御主人も昨年出張先で急逝された経験をおもちだったので、「死って何かしら?」と言われました。死はいずれ誰にでも訪れる厳然たる事実であるにも拘らず、世の人は恰もそれが存在しないかのように生きています。
 死が避けられない現実ならば、私たちは生きた印(しるし)をどのような形で後世に残していくことができるでしょうか? 親は子供の中に生きると言われます。確かに子供は親から身体的な特長を遺伝として受け継ぎます。職業の継承もあります。八百屋の子が八百屋になり、政治家の子が政治家になる場合があります。「蛙の子は蛙」というわけです。思想的な継承もあります。「プラトンの著作というものはありませんし、これからもないでしょう。世間でプラトンのものと呼んでいるものは、『若くて美しくなったソクラテス』のものです」とプラトンは書きました。哲学者林竹二氏は、「私は、この『若くて美しくなったソクラテス』という言葉は、『プラトンの中に生きているソクラテス』という意味である、と理解しています」と言いました。右のような関係も「復活」と言えないことはありません。子は親の復活体であると。
 しかしイエスの場合は、イエスご自身の復活なのです。そしてしかもイエスは、弟子たちの中に生き、弟子たちを通して活動されるのです。その関係をルカは、イエスの死は彼の活動の第一期の終わりにすぎず、その期間は短く、その範囲は限られたものでしたが、それで終わりではなく、イエスの活動の本番として、使徒行伝を著しました。その辺りのことをパウロは、「私たちは、今後だれをも肉によって知ろうとはしません。かつては肉によってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方をいたしません」(コリント第二書5・16)と言っています。イエスの活動の第二期は、十字架と復活の福音の主として、使徒たちの内に生き、彼らを通して広い世界に、神の国の完成の日まで活動される期間です。「私はイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、君たちの間では何も知るまいと、決心した」(コリント第一書2・2)。パウロの宣教の中心は、イエス・キリストの十字架と復活が人類の救済にいかなる意義をもつかという点にありました。
 「君たちに平安(シヤローム)あれ! 父がわたしを遣わされたように、わたしも君たちを遣わす。…聖霊を受けよ」(ヨハネ20・21)。このイエスの御言葉の中に、彼の活動の第一期と第二期とが要約されています。
 ルカは意図的に、その福音書と使徒行伝とを並行させて筆を進めています。イエスの活動の発端は、聖霊のバプテスマでした(ルカ3・21)。これによってイエスは御父より特別の使命を授けられてこの世に派遣された者としての自覚をもって公的な活動に入りました。聖霊のバプテスマは、この世において神の御業を執行する神の子イエスの任職式でした。同様に、使徒たちは聖霊の降臨によって、復活のキリストの証人としてこの世に派遣されるのです。聖霊の降臨によって、弟子たちは新しく創造された者(コリント第二書5・17)となり、新しい神の民(キリストの教会(エクレーシア))となり、新しい霊の言葉(使徒行伝2・1〜11)を語る者となりました。
 聖霊のバプテスマの後、ルカは人類の全歴史にまで逆上るイエスの系図を書くことにより、過去の歴史の目的と意味は、一人の人、イエス・キリストを生み出すことにあったという、彼の歴史解釈を示しております(ルカ3・23以下)。それに対比して使徒行伝には、聖霊降臨の後に、全世界に広がる諸国民の表(2・9〜11)を記すことによって、この瞬間からキリストの福音の光が、未来のすべての国民に及ぶことが暗示されています。ルカは歴史家でした。ルカ福音書には、キリストの福音がガリラヤからエルサレムに至るまでが記され、使徒行伝には、福音がエルサレムからローマ(全世界の中心)に至るまでが記されています。
 聖霊のバプテスマの後、イエスはナザレの会堂で説教し、使徒たちは神殿の庭で説教しました。その内容もまた、両方共、今や終末の時が到来し、預言が成就し、神の支配が始まり、喜ばしい救いの時が現実となったという、霊感に満ちた説教でした。そして面白いことに、両方共に不信の者がいて、イエスの場合は「この人はヨセフの子ではないか? 彼の氏素姓(うじすじょう)はわれわれには分かっているのだから、たいしたことはない」と言い、使徒たちの場合は、「この人たちは皆、ガリラヤ人ではないか? ガリラヤの田舎者たちが多くの外国語を使って説教しているとは何事か?」と驚いています。
 「わたしは水で君たちにバプテスマするが、わたしよりも力のあるお方が来られる。わたしにはそのお方の靴のひもを解く値打ちもない。このお方は、聖霊と火とで君たちにバプテスマされるだろう」(ルカ3・16)。聖霊の降臨は、洗礼者ヨハネのこの預言の成就でした。弟子たちにとって、地上のイエスと共にあった福音書の時代は、水の洗礼の期間であり、見習いの期間でした。聖霊の降臨を経験して、はじめて弟子たちはキリストの使徒となって、主の御業を継承する者となるのです。「真実をこめてわたしは君たちに言っておく。わたしを信じる者はわたしがしている御業を行なう。また、更に偉大な御業を行なうようになる。わたしが父の御許に行くからである」
(ヨハネ伝14・12)。
1990年6月3日 聖霊降臨日礼拝説教

  「絶対との出会い」

 それからイエスはガリラヤの湖畔を通っていた時、シモンと彼の兄弟アンデレとが湖で網を打っているのを見た。つまり彼らは漁師だった。そこでイエスは彼らに言った、「さあ、私について来なさい。そうすれば君たちを人間の漁師にして上げよう」すると直ぐに彼らは網を捨てて、イエスに従った。マルコ福音書1章16節〜18節

 「最初の数週間、イエスはガリラヤの村から村へと旅をし、夕方や安息日には会堂で説教した。パンとぶどう酒を入れた皮袋と杖を携え、彼は埃っぽい街道を歩き回った。服装は他の旅人と変わるところがなく、粗く織った亜麻のチュニックの上に、厚手の赤か青の外套をまとっていた。イエスの典型的な一日は次のようなものであったに違いない。明け方に出発し、長時間歩き続け、夕暮れ近くになってからある村に入り、そこの会堂に上っていく。村の住民は暖かくイエスを迎えたことだろう。村内にラビがおらず、イエスのような放浪の教師の奉仕を待望している村は少なくなかった。ランプに火がともり、村の男たちが着席すると、イエスは一段高くなった中央の壇に立って、聖書の一節を読み始める。到来しつつある神の国に関する個所を読み終えて顔を上げると、その顔は喜びと確信に満ちていた。朗々とした力強い声で、彼は聖書の預言の成就が、今、この瞬間になされようとしている、と告げ知らせた」(G・E・ライト)。
 そのようなある日、イエスはガリラヤ湖で投げ網で漁をしているペテロとアンデレ兄弟を見かけました。イエスはしばらく彼らの仕事ぶりをごらんになっていたことでしょう。熟練した者の仕事ぶりを見ることは楽しいことです。イエスはその兄弟と知り合いの仲であったに違いない。カペナウムの会堂で一緒であったか、洗礼者ヨハネの許で出会ったことがあったか。とにかく彼らは世の中がそのままであってよいとは決して考えず、メシアが来て神の国を到来させてくれることを熱心に祈り求めていた若者でした。内心に高い理想をもちながら日々の仕事を誠実に果たす人をイエスは好まれます。イエスは頃合いを見て、「さあ、私に従って来なさい」と彼らに呼びかけると、「直ぐに彼らは網を捨てて」イエスに従いました。間もなく同様なことがヤコブとヨハネの兄弟にも起こりました。この四人の弟子が最後までイエスの群れの中核になりました。霊感を受けた大工が、弟子として四人の漁師を選びました。神が救済の新時代を到来させ、この世を再創造なさるためにお用いになる器(うつわ)として、この小さいひと群れで十分だったのです。
 律法を厳格に守るユダヤ教徒たちから見れば、漁師や羊飼などは、サマリヤ人、モアブ人、アンモン人、などと共に、呪われるべきアム・ハ・アレツ(地の民)でした(ヨハネ7・49)。「地の民」とは、旧約時代には土地の所有者であり、政治的、軍事的権利をもった自由民のことで、申命記革命に重大な役割を果たした人達でした。それが新約時代になると意味内容が変化して、宗教的社会の主流からはずれた者を総称して呼ぶ差別用語になりました。律法を無視し、浄、不浄の規則を守らない異教的傾向をもつユダヤ人、ユダヤ教の周辺にいる異邦人などは皆、アム・ハ・アレツでした。その後イエスの群れには、「取税人、罪人、遊女」などが加わります。これはもう、どこから見ても「地の民」のひと群れです。「キリスト教とは、すぐれて奴隷たちの宗教である…奴隷たち、特にこの私は、それに身を寄せないではいられない者」と、フランス人哲学者シモーヌ・ヴェイユは告白いたしました。
 そんなことがあるだろうか? イエスにひと言、声をかけられただけで家族も仕事も投げ出して、イエスについて行ってしまうなんて? 実際は、彼らは家を根拠にし、仕事をもちながらイエスに従ったのです。その頃はまだ「在家(ざいけ)」でした。彼らが本当に一切を捨てて福音伝道に専心するようになったのは、イエスの活動の第二期、即ち聖霊降臨以後のことでした。その時彼らは「出家(しゅっけ)」したのです。それでも尚、「私について来なさい」とイエスに声をかけられた者は、「一切を捨てて従って行く」ということは、本当です。それは聖書宗教の中に一貫して流れている血液のようなものです。「主はアブラハムに言われた。"お前の故郷(くに)、お前の親族、お前の父の家を離れて、わたしがお前に指し示す地に行け!"」(創世記12・1)と命じられた時に、アブラハムは行く先を知らぬまま、安定を捨てて冒険の旅に出て行ったのです。
 これは実に不思議な経験です。神の御声には強制力があり、人間は全く自由な決断をもって神の呼びかけに従うのです。神に強制されながら全くの自由になる、あるいは、自由の中へと強制されて入っていくのです。それは神の愛の力によるのです。ある聖書学者はその経験を「絶対との出会い」とか「超越との出会い」と呼んでいます。その出会いによって、他のすべてのものは相対化されてしまいます。それまでは絶対と考えられていたもの、即ち、家族との絆、社会の慣習、職業、結婚、財産、才能、学歴、容姿など、すべては大した問題ではなくなってしまうのです。その経験によって人間的な一切の物事は、超越、克服されてしまうのです。この優れた経験はクリスチャンなら誰でも有っているものです。私自身も若い時に主の召しを受けました。その後の40年は、その時の経験の路線の上にあるのです。
 アルバート・シュヴァイツァーは、「イエス伝研究史」の結びとして書きました。
 「湖のほとりで、彼が何者であるかを知らないかの人々の所へと彼が歩み寄ったように、彼は今日、見知らぬ人、無名な人として我々の所へ来る。彼は同じ言葉を語る、"さあ、私について来なさい"と。そして彼は我々に、我々の時代において解決しなければならない課題を示す。彼は命令する。彼に従う者には、賢者であれ愚者であれ、彼らが平和、労働、戦い、苦しみにおける彼との交わりにおいて体験することの中に、彼は自己を啓示する。そして人々は、口に言い表わし難い秘密として、彼の何人(なにびと)であるかを悟るであろう」。
1990年6月10日 礼拝説教

  「ペテロの召命」

 話し終わった時、イエスはシモンに言われた。
イエス「沖に漕ぎ出して、網を下ろして漁をしなさい」
シモン「先生、私たちは夜通し働いたのですが、一匹もとれませんでした。しかしお
 言葉ですから、やってみましょう」
 彼らが命じられた通りにすると、いっぱいの魚がかかり、網が破れてしまった。そ
 こで他の舟にいる仲間に応援を求めた。…二隻の舟は満載になり、沈みそうになっ
 た。シモン・ペテロはこれを見て、イエスの足許にひれ伏して言った。
シモン「私から離れてください、私は罪深い者です、主よ!」
イエス「恐れるな。これから後、君は人間を生け捕りにする漁師になるだろう」
ルカ福音書5章4節〜11節(一部省略)

 6月18日は私の2人の父の命日です。肉の父親は51年前に、私が10歳の時、日中戦争で負傷して帰還した後、がんで死にました。私に対する最後の言葉は、「勉強しろ!」でした。幼い頃の私は全然勉強しませんでした。その分、いま苦労しています。魂の父、尾島真治先生は39年前に召天されました。新橋の菊池病院に最後にお見舞に上がり、お別れの挨拶を述べた時に、いきなり首を抱きかかえられ、大声で「キリスト様のために戦ってください!」と言われました。死の床に横たわる84歳の老人とは思えないほどの腕の力であり、力強いお声でした。私はびっくりして病室から飛び出しましたが、今思えば、私はその時に新しく生まれ変わったのです。
 先週は、最初の4人の弟子たちの召命について学びました。マタイの記事は殆んどマルコのものと同じですが、ルカは、召命物語に独自の資料を付け加えて、物語を大幅に変更させました。史実の中に伝説が織り込まれました。
 場所は同じガリラヤ湖畔です。マルコとマタイは、「ガリラヤの海(サラツサ)」と書きました。長さ21キロ、幅11キロほどのガリラヤ湖は霞ケ浦ほどの大きさの淡水湖ですが、砂漠性地方で、内陸的なアラム語を使っていた人々にとって、いつも真水をたたえているガリラヤ湖は、まさに「海(サラツサ)」でした。しかしルカは、広い地中海世界に生きていたギリシヤ人でしたので、ガリラヤ湖ほどのものは「池(リメー)」(ヨハネ黙示録19・20他)であると考えました。それで彼は「ゲネサレの湖(リメー)」と書きました。
 イエスがガリラヤ湖畔にいた時、群衆が福音を聞こうとして押し寄せてきたので、シモンに頼んで舟を出してもらい、舟の中から岸辺にいる群衆に向かって神の言葉を語りました。お話が済むと、どうも有難うとも言わないで、イエスはシモンに奇妙な命令を出しました。「沖へ漕ぎ出して、網を下ろして漁をしなさい」。シモンは驚きました。「釈迦に説法」とはこのことです。本職の漁師シモンに、漁には素人の大工のイエスが、漁の指示をするのです。沖合いの漁は夜するもので、太陽の輝いている昼間は漁には不向きなのです。しかも昨夜は夜通し漁をしたのに一匹もとれなかったのです。シモンは疲れてもいたでしょうし、早く家へ帰って休みたい気持もあったことでしょう。その時、イエスの非常識な言葉に従うか、我(が)を通して家に帰ってしまうか、これがシモンの運命の分れ目でした。他方、イエスの命令は、従えば必ず成功する、という保証でした。「しかしあなたのお言葉に網を下ろしましょう」(山本七平)。シモンはイエスの言葉に賭けました。これは信仰の決断でした。その結果の大漁は、信仰を確証するものでした。
 8節に初めて「シモン・ペテロ」と言って、ペテロの名前が出てきます。イエスとの信仰的な関わりにおいて、シモンはペテロと呼ばれます(ルカ6・14、マタイ16・18、ヨハネ1・42)。彼は自分を罪深い者と呼び、私から離れて下さいとイエスに頼みました。すべてをお見通しの聖なる神の子イエスの御前にひれ伏す、罪人なるペテロの恐れと戦(おのの)きの言葉です。聖なる神に対する人間の恐れと戦きは、アブラハムやモーセ以来の、イスラエル宗教の特長です。日本の諸宗教には残念ながらこの聖なる緊張が少ないように思えます。この緊張がないと、宗教は必ず堕落します。人間は神仏の名を利用して御利益を求めます。又、宗教の名を隠れ蓑に使って欲望を遂げようとします。その点キリスト教も同じです。神霊協会、エホバの証人、テレビ伝道師のスキャンダルなどはその代表です。「わが名をみだりに唱うべからず」という戒めはその罪を防ぐためにあるのです。
 「私から離れてください、私は罪深い者です、主よ!」 それまでのシモンにとってイエスは「先生(ラビ)」でした。この時シモンは、イエスの中にヤハウェを発見して御前にひれ伏し、「主よ!」と呼びました。「私から離れてください」と叫ぶシモンに対してイエスは、彼を御許に引き寄せ、投網を打って魚をとる漁師から、福音の網を投げて人間を永遠の生命の中に生け捕りにする福音の使徒へと造り変えるために、ご自分の弟子となされました。
 マルコの記事では、「さあ、わたしに従ってきなさい」と命じるイエスの招きを受けて2組4人の兄弟たちが「一切を捨てて」、奇跡なしで、あるいは御言葉の奇跡だけで、イエスに従ったのですが、ルカの記事では、ペテロ以外の3人は背後に押しやられ、ペテロひとりがイエスの前に立たされ、先ず大漁の奇跡によって神の豊かな贈り物が差し出され、このお方に従って行きさえすれば何も不足することなく、お仕えする仕事は豊かな祝福に満たされ、一生を安んじてお任せすることができるという保証が示された後、「わたしに従ってきなさい」という命令を受け、「一切を捨てて従った」のでした。こういう形の説教が、紀元一世紀の終わり頃、小アジア(現在のトルコ)か、ギリシャのどこかの教会で語られて、困難と迫害に悩むキリスト信徒たちを励ましていたことでしょう。
 この物語の中には、不思議な大漁の奇跡以上に、罪人の許に歩み寄り、罪人を改造し、聖なる器として用い給う恵みの主の奇跡が語られているのです。
(1990年6月17日 礼拝説教)

  「イエスの権威」

 イエスは安息日にカペナウムの会堂に入って教えた。彼は律法学者のようではなく、
 権威をもつ者として教えたので、人々は彼の教えに驚嘆した。その会堂に不浄の霊
 にとりつかれている男がいて、叫んだ。
その男「私達とあなたと何の関係があるのか、ナザレのイエスよ? あなたは私達を
 滅ぼしに来たのか? 私はあなたが誰であるかを知っているぞ、神の聖者だ」
イエス「黙れ、その人から出て行け!」
 すると不浄の霊は彼をあちこちに引きずり回し、大声を上げて彼から出て行った。
 人々は皆、驚愕し、互いに論じ合った。
人々「これは一体何事か? 権威ある新しい教えだ。彼が不浄の霊に命じると、霊は
 彼に服従するのだ」
 イエスのうわさが直ぐに広まり、ガリラヤ全地方いたる所にまで及んだ。
マルコ福音書1章21節〜28節

 「ガリラヤ全土が肥沃で緑も豊かであらゆる樹木に恵まれているという好条件に魅せられて、労働を全く好まない者までこの地に集まってきた。事実、全地が住民によって耕やされており、荒地は全く見られなかった。町も密集して存在し、村といえどもその多くは肥沃な土地のおかげで多くの住民に恵まれ、最も小さな村でも一万五千人の人口を有していた」、とユダヤ人歴史家ヨセフスが記しているように、紀元一世紀のガリラヤは人口も多く、経済的にも繁栄していました。イエスがガリラヤ伝道の中心としたカペナウムの町は、ダマスコから地中海方面に至る幹線道路沿いにあり、漁業の盛んな重要な町でした。その町は、ヘロデ・アンティパスの領地とピリポの領地との境界にあったため収税所があり、王の役人やローマの士官なども住んでいました。この町には「さまざまな人々が住んでいて、内陸のナザレよりデカポリスの境に近かったので新しい教えを受け入れやすかったと思われる」(アビ・ヨナ)。現在カペナウムに紀元二百年頃建てられたユダヤ教会堂の遺跡がありますが、美しい石灰岩で南向きに建てられ、東西18メートル、南北24メートルの堂々とした建物です。それはほぼ確実に、キリスト時代の会堂跡に建てられました。
 世界のどこへ行ってもユダヤ人が10人集まれば、彼らは礼拝と律法の学びと児童教育のための集会所、即ち、会堂(シナゴーグ)をつくりました。そこで安息日には祈りと聖書朗読とその解説が行われ、ユダヤ人の男子なら誰でもそれに参加できました。
 カペナウムの会堂に列席していた人々はイエスの教えに驚嘆しました。普段よく説教壇に立つ律法学者は、伝統を重んじ、モーセ律法と先祖の伝承とを堅く守っていた保守主義者でした。彼らの話は主に、重箱の隅をつつくような詳細にわたる律法の解釈とその適用でした。「神殿を指して誓う者は構わないが、神殿の金を指して誓う者は、行なう義務がある」(マタイ23・16)。こういう訳の分からない律法の解釈を長々と語って礼拝者たちを退屈させていました。しかしこの日の説教者は違っていました。彼は限りなく深い神体験から生き生きと神の愛と神の意志を、独自の方法で大胆に語りました。聴衆は神を代表する者を目の前に見る思いでした。
 「彼は律法学者のようではなく、権威ある者として教えたので、人々は彼の教えに驚嘆した」。マルコはイエスの教えがどのようなものであったかは具体的に記していませんが、マタイはこの人々の驚嘆の言葉を山上の説教(5章〜7章)の最後に記すことによってそれを明らかにしています。今日の聖書読者は、マタイの筆を通してイエスの説教にふれるのですが、それでもその言葉の権威に驚嘆いたします。ロシアの文豪トルストイは、これこそ「わが宗教」と言ってその実践に励みました。「昔の人々に…と言われていたことを君たちは聞いている。しかしわたしは君たちに言う…」(5・21以下)。モーセはイスラエルに律法(トーラー)を与えましたが、イエスは神の民の倫理を教えました。マタイは山上の説教をシナイ山の十戒と比較し、イエスの教えはモーセの戒律に優るものとして記しました。他方マルコは、イエスの教えというよりも、イエス御自身に権威があり、イエスが語れば人々は驚嘆し、イエスが行なえば悪霊が追放されたことを記しました。
 当時、悪霊の存在が信じられていました。悪霊が人々の中に入り込むと、その人の主になって支配的な力を発揮し、不幸や不和、病気や精神病の原因になると考えられていました。それで悪霊を追放するために薬草や呪いや霊能者の名前などが用いられていました。「神がソロモンに悪鬼を追い出す秘技を授けたので、大勢の人が治癒されて恩恵を受けた。彼は病いを癒す呪文を考案し、また悪霊にとりつかれた者がそれを追い出して二度と入らせないための魔除けの秘法を案出して残した」とヨセフスはソロモンの知恵が悪魔秡いの方法にまで及んだことを語っています。
 カペナウムの会堂にいた聴衆はイエスの権威に驚きましたが、とりわけ一人の男にとりついていた悪霊はその異質性のゆえに敏感に反応しました。そして霊の戦いが始まりました。悪霊はイエスの権威に恐れ戦(おのの)き、私たちとあなたとは関係がないのだから構わないでくれと懇願し、イエスの正体を見破っているぞと言うことによってイエスの力を無効にしようと計りました。霊の戦いでは正体を見破られたり、名前を知られたりすることは、先きに対策を講じられてしまうので、不利だったのです。
 「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのであれば、神の支配はすでに君たちのところに来ているのだ」(マタイ12・28)。浄、不浄ということをやかましく言う宗教的社会では、この男は「不可触賤民」でした。律法学者は彼に「不浄」というレッテルをはって彼を差別の対象としましたが、イエスは神の霊によって悪霊を追放し、神の支配をもたらすことによって悪霊の支配を終わらせてしまいました。
 イエスが神の子キリスト(1・1)であることを証しする福音書記者マルコにとって重大な事は、人間の力を超えた悪霊からイエスが「神の聖者」と宣言されたことでした(15・39参照)。
(1990年6月24日 礼拝説教)