片袖を相手に捕られたときの技である。
「片手捕り」「片襟捕り」などの、掛かり方による技の分類呼称に従えば、この技は「片袖捕り」と呼ぶべきであるかもしれないが、久師はこれを「袖技」と称して教授した。
久師の言によれば、これらの袖技は、久師が武田惣角師から免許皆伝を受ける直前の段階で学んだ技であるとのことで、技は総て高度な合気技であり手刀の技であって、合気の極意に迫る技も少なくない。
私は、以前に一度、本誌九号でこの技を紹介したが、最近、それが思ったほど会員諸氏に理解浸透されていないことが分かったので、今回改めて取り上げることにした。
この袖技のほとんどは、初伝百十八ヶ条にも総伝写真集にもないものである。
久師教授のこれらの袖技には、技を掛けるのに、相手を掴まない・力を使わない大東流独特の技法、それもかなりレベルの高い技法が多く、久師の説明では、いわゆる、奥義秘伝に属する技も少なくないということであった。
ところで、誰でも考えつくことであるが、このように、片袖を捕られた場合ならば、袖を捕られておらず、動きが自由なもう一方の手があるのであるから、それで袖を捕っている相手の手を掴み、それを袖上で固定するか、あるいは袖から取り離し、その上で諸種の小手技を掛ける方法がいちばん簡単な反撃方法であると思われる。
ところが、久師が教授した袖技は、袖を捕った相手の手を、こちらからまったく掴もうとはしていない。袖上固定も袖からの取り離しもしない。いわば、捕らせたまま、持たせたままで、しかも、袖を捕られたことによって、動きが不自由になったはずの捕られた袖の中の手を使って、袖を捕っている相手の小手に、微妙な合気技や強烈な関節技を掛けるのである。
しかし、相手の手を掴まないで、その手を攻めるとなると、相手は、袖を補っている手を放して、こちらの攻めから逃げるはずではないかという当然の疑問が出てくるはずで、そのために、私がまるで矛盾した現実にはできないことを述べているようにとられるかもしれないのであるが、実際にやってみると、必要な要領を守りさえすればそれが立派にできるのである。
相手は、この袖技を掛けられると、捕ったこちらの袖から手を放すことができなくなり、しかもこの技によるこちらの身体操作に、無意識にしかも従順に従っているのである。
それは、こちらが、合気に通ずる心理的な原理を心得ており、あえて相手の手を掴まないからこそ技が効果的にできるのであって、相手の手を掴めば、そこで相手の運動意識が目覚め、一瞬にして技の効果が消えるのである。
このあたりの原理・理合の詳しい説明は、いずれ機会を見て行ないたい。
まさに、袖技の奥義は、相手の手を掴まないところにあるといっても過言ではない。
結局そのようなことを可能にしている技の秘密は、合気と手刀の自在な使い方にあるのであるが、その意味では、袖技は、最高の合気技であり、同時に最高の手刀の技である。
今回は、合気についての詳しい説明は避けるが、手刀の技法については、この機会にある程度述べておきたいと思う。
手刀の技法
手刀というのは、手(主に手首から先、場合によって肘から先)を刀に見立てて、刀と同じように使うことを言うのであるが、一般的に、徒手武芸(武器を使わない武芸)において手刀が使われる場合とは、相手を打つとか、または突くとき、あるいは相手の攻撃を払うときに限られている。
剣操法がすべての動きの基礎になっている大東流においても、当然、手刀を同じ目的に使い、とくに「打ち」や「払い」は常用されているのであるが、大東流では、この手刀の用法に、さらに精妙な工夫が重ねられ、驚くほど手刀を多彩に活用しており、それが、大東流の技の一つの特色になっているといっても過言ではない。
手刀のための小手の使い方にしても、単に、典型的な尺骨側や小指側(刀の形で打ち下ろすと刃になる側)だけでなく、橈骨(とうこつ)側や親指側(刀でいうと棟にあたる側)も十二分に使うのであって、それぞれに微妙なコツがあり、とくに手首から先の使い方に秘伝があって、使うときの体捌きと共に、完全に習得して使いこなすのは容易ではない。
たとえば、久師が袖技の稽古の際、必ず我々にやらせた技に、相手がこちらの片袖を捕ったとき、こちらの手刀で外側から袖を捕った相手の手首を押さえ、それで相手の体を崩してから、もう一方の手刀で相手の首を打って倒す技がある。この相手の手首を押える手刀の使い方がむずかしく、なかなか会得することができない。
右手刀であれば、いったん掌を外側に向けて、右回りに巻き込むように相手の手首を押えるのであるが、押えた結果、相手には、手首と肘に、捻るような逆が効いて、ちょっと腰を落としたような形で、動きがとれなくなっていなければならない。また、このときの体捌きは、押え終わる際に、相手の体とは反対側に、少し回るようにするのであるが、そのちょっとした動きとその呼吸がはなはだむずかしい。
このように大東流では、手刀の技法がきわめて多彩かつ玄妙を窮めているのであるが、たいへん興味深いことは、「手刀で相手を掴む」とでも言うべきなのか、要するに、手刀を使って、相手の小手を掴まないで、しかも掴んだのと同じ効果を発揮させて技を掛けることが出来るということである。
大東流では、技を掛けるための小手の「掴み」に、彼我の二態がある。
まず一つは、「我の掴み」であって、相手の小手の要所を、こちらがしっかりと掴み、小手の操作、あるいは身体の操作を確実に行なうことである。初伝の技はもとより、大東流の大部分の技には、この「掴み」が要求されている。
もうひとつは、「彼の掴み」である。
こちらからは相手を掴まず、相手にこちらの襟袖や小手を掴ませて、その相手の掴みを利用し、しかも掴んでいること自体が弱味になるようにして技を掛ける。各種手捕技はすべてこの範疇である。袖技もレベルは高いがこれに入る。
この二態の掴みと次元を異にする最高の掴みが「掴まない掴み」、すなわち「手刀の掴み」である。これは、相手を現実に掴んではいないのであるが、手刀を用いて、掴んでいるのと同じ効果のある技を掛ける技術である。
これらの具体的技法は、言葉での表現には限界があり、実際に体験してもらうほかはないのであるが、自然に伸ばされ、しかも、大きな神秘的な威力がかくされた手刀を縦横に振って、相手の小手や身体を操作し、あるいは打ち、あるいはからみ、あるいは投げる。その技法には、まことに日本武術らしい清々(すがすが)しい華やかさがあるのである。
私は、柔術の究極の理想は、相手を掴むという宿命から開放され、当身と手刀と体捌きのみで相手の小手や身体を自由に操作し、投げ、かつ押え、更に、固めるところにあると考えているのであるが、大東流は、その可能性を秘めた偉大な技法体系を持った柔術であると固く信じているのである。
「家族のことを案じていて男が外で働らけるか」
これが戦前、父の言いぶんだった。戦前は日本の男たちがみんな、そう言わされていたと言えば言えるが。敗戦の年に母が疎開先の高知県で五人のワカランチンを遺して死ぬと、葬式のあと、父はポツリと言った。
「これからはお父さんが二人ぶん、かわいがってやらんとな」
ドン底の父にしては明るい声で、オヤ、変わったことを言うと生意気にも私は思い、事態の深酷をまだよく理解していなかった。五人兄弟の二番目の私はそのとき十七歳。そして体重がなんと十七貫あった。十七歳で十七貫。若い娘に絶望的な数字。父もこんな娘をもてあましたのだろう。進路をきめるとき、それが全く父らしいのだが殆んどなんのあてもなく大学へ行けと言った。学費はどうなるというと
「ナーニ、お父さんが妾を置いたと思えばよいサ」
とこれまた呑気な話で、まんまとのせられた娘はあとで、お父さんの妾ってよっぽど飲まず食わずなんだーとぼやくことになる。
大学で新聞部に入り、当時印刷を頼んでいた朝日新聞で大組の修行を始めると、父はフラリと自分のもとの職場である朝日に現れて旧知の職工さんに挨拶してくれた。
「いやァー、娘が帝大新聞をやっとるもんでネ」
とテレる父の声を頭上に聞きながら、私は少し親孝行をしたと思った。
× × ×
戦後十四年、再び合気道を始めるまで、父は合気道のことなど忘れたような顔をしていた。昔の仲間と縁はあったが、合気道を生計の資とする考えは無かったと思う。いろんな事業を始めては失敗し、いろんなつてを頼っては職につこう、仕事を得ようと七転八倒していた。冗談に「密輪という手もあるが、友達が居るからそうもゆかん」と言うほど困っていた。あんなに重荷を背負い満身創痍でしかも楽天的なのは不思議な気がする。東京の中野の六帖一間の私のアパートに転がりこんでいたとき、神戸から叔父が上京して泊まり合わせた。父が叔父に言った。
「どうぞィ。福さん。わしらは一体何をしとったんかいな。四十年経って、すっかり昔の学生下宿に逆戻りしてしもうた。」
温厚な叔父はただ苦笑いするばかりだった。
× × ×
父が再び合気道を始めたのは石井光次郎先生のおすすめによると父も言い、世間も認めているが、私はその頃、合気道にまつわる或る光景を見た。場所は北海道、昭和新山で名高い洞爺湖のほとりの望羊亭というレストラン。時は昭和33年夏。羽幌炭鉱の嘱託をしていた父の長旅にわたしも同行して、昼食のためそこへ立ち寄った。大柄でヒゲずらの、アイヌかしらと思わせた店の主人が女の子を相手に無言でカラテの様なしぐさを繰返えす。
ふと目をとめた父が
「オヤ、その技(わざ)は大東流かな。大東流ではないかな」
と声をかけた。ムスッとした無愛想な主人が初めて父の方をよく見た。奇遇と言うべきか、その人はかつて父が戦前に出稽古で短期間合気道を教えた尼崎の××工場の工員だった人である。久さんか、久さんか、ほんとに貴方は久先生かと尋ね、
「久さんはジャワで死んだと仲間に聞いた。」
「死ぬもんか。生きとるよ。ちゃんと足もついとるよ」
――あとの泣き笑いは押して知るべし。アイヌどころか彼は生酔の神戸っ子で、尼崎で大空襲に逢った翌日の夜、貼紙を見て駅に集まり、一家四人着のみ着のまま汽車に詰めこまれ、見知らぬ道南に運ばれて来たのだ。と語った。それから十三年、一度も神戸に帰らず、誰とも逢っていないのだと訴える小西新吉氏は、大きなからだで父にすがりつき、涙をこぼして再会を喜んだ。彼はまったく手の舞い足の踏むところも知らぬ様子で昭和新山に私たちを案内してくれた。バスに遅れ、コースを外した私たちは酔った父を置いてタクシー会社を尋ね、三五〇〇円を奮発してつぎの温泉場、定山渓までハイヤーを飛ばさざるをえなかった。
小西新吉氏は北海道で合気道を続けたと聞く。のち東京にも現れ、父とは死ぬまで交友があった。(筆者は久琢磨の次女)
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小西新吉氏との思い出(小林清泰)
昭和37年、学生10名で網走で合宿の途中、久先生の紹介で立ち寄り洞爺湖畔の宿に一泊する。その後二度来阪された。
住友金属に勤めておられ、尼崎の天崎道場で柔道をしておられた。