琢磨会会報第75号
森 恕 『合気の極意』
小林 清泰『大東流に魅せられて』
和田陽子『父久琢麿の遺言』
前号(七十四号)の会報で披露しましたように、私は、平成二十一年三月九日、千葉県勝浦市の日本武道館研修センターで行われた第二十一回国際武道文化セミナーにおいて、外国人研修生に対し、「大東流合気柔術(琢磨会)の技法と合気の術」について、講義をし、実演と体験指導を行いました。
そのときに使った講義原稿は、前号の会報にその全文を掲載しました。
しかし、セミナーのために私が書いた原稿は、この「講義原稿」だけではなく、本講義の概要をプログラムに載せるために書いた「講義概要」と題する短い稿があります。
そこに、合気の極意に触れているところがありますので、参考までに、それを本会報に掲載します。(会員の理解の便のため、多少原文の表現を変え、更に加筆をしたところがあります。)
講義概要
一、大東流合気柔術の技法について
大東流の技は、先師武田惣角によって世に出た当初から、謎の武芸、或いは神秘な技を持つ幻の武術といわれながら、既に相当な歳月を経てきているのであるが、未だにその技法の詳細と術理のすべてが、完全に解明はできていない。特に、「合気の術」がそうである。
そのようになった第一の理由は、流儀全体の技数があまりにも多く、(二八八四手といわれている)その技全部を一通り稽古体験して、その極意を掴むに至るまでには、時間が掛かりすぎることである。
第二の理由は、その技その術の術理・内容が、これまでの体術の常識に合わないだけでなく、寧ろその常識に反するところが多く、技の指導を受けても、或いは現実に技を掛けられても簡単には理解ができないからであり、第三の理由は、この武術では、技掛けに力を用いることは例外であって、通常は、相手の小手(腕の肘から先、五指の先端に至るまで)に対して、武術的刺激を与えることで技をかけるのであるが、その刺激の与え方が、単純微妙な動きであるため、どこをどうしているのか、よく見えないし、よくわからないからである。
本講義においては、このような大東流の技、特に琢磨会の技について、分かりやすく整理をして、解説をし、特に、現代武道の代表である柔道の技との根本的な違いについても説明をして、実演・体験会につなげるようにしたいと思っている。
二、合気の術について、
大東流合気柔術における「合気」とは、大東流の技の最高極意であると共に、大東流の総ての技の基幹に、ひそかに埋め込まれている基本的術理でもある。その「合気」を、技に用いる具体的技術が「合気の術」であり、「合気」の術理は、「合気の術」によって、はじめて、現実の技に生かされるのである。
言い換えると、合気の極意は合気の術にあり、合気の術理にあると言えるのである。
大東流には、体術の三大柱である関節技・急所技・合気技が、実に見事に整理され綺麗に揃っているのであるが、合気を掛ける技術を示す「合気の術」は、合気技については当然としても、意外なことに、関節・急所の各技の基幹にも術理として埋め込まれているのである。
したがって、大東流の技は、どの技であれ、深く稽古を進めてゆくと、最後は総て合気技に到達する。
言い換えれば、大東流の技は、技としての難易・深浅・広狭の度合いはそれぞれ違っていても、元々総てが合気につながる技なのである。
しかし、大東流の先師達は、「合気」特に技としての「合気」すなわち「合気の術」に関しては、一様に無口であり、技は見せても、合気とは何か、合気の術とはどのようなものか、一切教えなかったし、説明もしなかった。確かに説明することが難しい極意であるが、その状況は異様であった。私は、先師の真の教えは、極意は技の中から自分で掴め、稽古の中で会得せよということであろうと悟り、独り、研究稽古を重ねた結果、ようやく今に至って、その核心を掴むことができたと思っている。
本講義では、私が会得した合気の極意を公開し、説明をして、実演・体験会に臨みたいと思っている。
人生を探求する心身統一哲医学会の天風会で「合気道」なるものを始めて見た。久琢磨師範の指導で女性が大の男に技を掛ける演武を見て、これなら小柄な私でも出来ると思い、昭和三十六年十月関西合気道倶楽部に入門した。関西合気道倶楽部は八畳ほどの小さな道場でその狭さに私は驚いた。昼は植田杏村先生、夜は森脇潔先生が指導にきておられた。道場のメンバーは殆どが法人会員の社員の方々であった。その道場は毎日稽古がなく私にはもの足らず、森脇先生が大阪朝日新聞社社内の同好会で教えておられたので、そちらの道場にも稽古に通った。稽古に来る社員は、印刷局、警備の方々が中心で、大柄な人が多かった。外部からは、大和銀行の秘書の方が二名来ておられた。久師範は昭和三十六年十月脳梗塞で倒れられ自宅で養生しておられたが、春には散歩が出来るまでに回復し、奥さんが付き添い、神戸の岩屋から道場に通っておられた。その頃には道場は二十畳の部屋に替わっていた。当時学生だった私は、翌年の春大学で合気道同好会をつくり学生を集め稽古していた。このとき入会してきたのが川辺武史君である。久師範の奥さんが、神戸製鋼病院にお見舞いにいったその一週間後、昭和三十九年二月他界された。他界後久師範は、大東流に打ち込み、時には、朝、昼、晩と日に三回もの稽古を行い、そんな時には道場で寝起きをしていた。日に日に個人会員はふえていった。一人住まい、外食など不規則な生活で健康を害し、心配する家族の勧めで、東京に引越しすることとなり、昭和四十二年関西合気道倶楽部(埼玉ビルは大阪ガスの御堂筋を挟んで筋向い)は、閉鎖となった。残った同士達は稽古場を求め転々としながら稽古を継続した。私は大阪証券会館内道場、広告の大広ビル、道修町の磯部道場、中津のガソリンスタンドの二階で稽古した。そんな状態の中で、小林高士先生が奈良学園前で、川辺武史師範が住吉武道館で支部を創り稽古開始した。昭和四十五年十月免許皆伝森脇潔師範が亡くなられた。指導者を失い痛恨の極みである。今や久師範の手を握りご指導頂いた者もごく僅かになってしまった。
船場の道場にあって「企業のことを知っとくといいよ」といって、会員募集のポスターを作り、久先生の名刺を持って会社回りをした。名刺には「石井光次郎秘書役 久琢磨」とあった。石井光次郎は神戸高商(東京朝日新聞社に勤務しておられたご縁で、久師範が鈴木商店退職後東京朝日新聞社に入社)相撲部の先輩でもあり、のちに政治家として活躍、文部、厚生大臣、副総理までなられた方です。
中津平三郎(武田惣角の弟子で久琢磨と兄弟弟子)は朝日新聞社退職後、阿波池田において大東流を指導した。門弟に大西正仁、千葉隆紹師範がおられる。蒔田完一師範は大東流に魅せられ徳島の南小松島市で真徳館道場をもち大東流を指導しておられた。後に久門人となり、春には久師範が東京から指導にこられ、我々も稽古に参加した。こうして四国の皆さんとの交流がはじまり、今も脇町の合同稽古に引き継がれている。
年一回大阪朝日新聞社で各支部の稽古発表会と合同稽古を行っていた。稽古の後、懇親会の席で千葉紹隆先生が会の名称を付けることを提案され全員賛成で会の名称をつけることになり、久琢磨の琢磨を取って「琢磨会」と決まった。これが今の「琢磨会」である。
久師範は昭和五十五年十月神戸の公文病院で亡くなられた。ご臨終の折、同郷の友人公文医院長が心臓マッサージをしながら大声で「琢磨頑張れ」と励ましておられたのが、印象に残っている。久が武田惣角から免許皆伝を授与されたときの肩書きが「総務長武田惣角」とあったので森恕先生に「総務長」名称で、琢磨会の爾後を託した。森総務長は武田惣角から伝承された技「総伝技」の研究、最近では触れ合気、抜き合気などを研究しておられる。森総務長には現在も尚、琢磨会を牽引していただいている。
琢磨会の功労者川辺武史師範が大きな力を発揮しておられる。現在、指導部長として合同稽古、昇段審査会を受け持ち、琢磨会を牽引してくれている。彼が居なければ琢磨会はここまで大きくなっていなかったであろうと言っても過言ではない。
昭和四十九年久師範の元部下だった山田三郎朝日カルチャーセンター千里室長より合気道教室講師のお話があり、久師範は私を推挙してくださり、私は、大役ですが大東流発展のために引き受けた。午前と夜の講師をしていたが、仕事が多忙となり川辺武史師範に講師をお願いした。快く引き受けてくださりほっとした。彼の才覚で、朝日カルチャーセンター、NHK文化センターの人気講座を創り、またプロ講師として活躍され、現在に至っている。琢磨会の海外進出の道筋を付けたのも彼の功績であるといっても過言でない。
また、パソコンによる別の道筋、すなわち、英文ホームページ作成の梅井眞一郎先生も多いに海外進出の一助を担ったといえよう。現在海外支部は、ヘルシンキ、オーストラリア、ニユーヨーク、フロリダにある。
大東流合気柔術には試合がないのは、一つには危険な武術であり、礼儀作法、にも重点を置いているためである。男女の区別、体力の区別もなく、左右同じ用に稽古するし、裏筋肉をも使うのでので、健康面でもバランスの取れた運動であるといえよう。
古武道は古代から生命を維持するための闘争技術から派生して、武士の生死をかけた戦いの場における格闘技術として磨かれた。柔術では戦場での古具足を着けて組み討ち合い、身を守り捕り押さえた。柔術は江戸時代になると、野外から屋内、すなわち敷居の内(御敷内)として発展していった。関節を攻め、手首を取り、首を絞め、突き、打ち、蹴り、投げ、捕り押える武術、時には殺傷の武術でもあった。武田惣角以前の文献を持ち合わせていないのでよく分からないが、武田惣角が大東流と名乗ったのは、明治になってからであると一般的にいわれている。大東流のいわれは、武田家の祖先が新羅三郎源義光で新羅殿大東(オオヒガシ)の館(国宝滋賀県)と呼ばれていたからとも、大東亜圏の思想からとも言われはっきりしない。合気と名付けたのはいつ頃か歴史的にも興味が沸いて来る。庵木英雄師範も会津に出向き調べたが、大東流の資料は発見できなかった。武田惣角が、武田家伝来の武芸と、技が膨大すぎて一代で創設されたとは考えにくい。武田惣角は多くの技を琢磨会に伝えている。教わった技を写真に撮り記録として残した技が、琢磨会に伝わる『総伝集』として纏められている。この総伝集の表紙には「大東流合気柔術」と刻印されている。「総伝技」として森総務長指導のもと、研究が行われている。他に岸和田の天津裕師範、能勢の宇都宮守師範も熱心に技を紐解いておられる。
柔術は一定のルールの下に技を掛け合いながら柔を学ぶ。柔術はどこまでやれば致命傷となるか、ならないか力加減も体得できる。暴漢の攻撃をかわすことも、逃げるすべも身に付く。古武術として老若男女が興味を持ち誰でもが稽古できる。
殺伐たる世の中、武道の精神を求めてくる人が多い。武道だけではないが、『礼に始まり、礼に終わる』とよく言われているが、稽古した相手に、道場に感謝し一礼する心は大切だ。
今の人は耐える力が弱く切れやすいといわれている。現在学校教育現場でも男子は武道を必修化されている。琢磨会も「礼儀や精神力の養成」を目標として掲げており実現を目指した指導が行われている。今後女子にも武道を必修化する動きが見られる。
私の体型は背が低く非力ですが、如何にして大男、力持ちに技をかけるかです。技は合理的に組み立てられており、先人の方々が工夫されたことに驚顎する。
私はいろいろな道場に出向き稽古や、ご指導をいただいている。稽古をする中で参考になることや、新たな発見があって面白い。道を究める稽古には終わりがないようです。
私も古参となり、教える立場になりましたが、大東流を究めんと情熱を燃やしております。初心を忘れず体力の続く限り稽古に励みだと思っております。
久先生は「可愛い子には旅をさせよ」と思ったかどうかわからないが、大東流宗家武田時宗、合気会の植芝盛平先生、養神館の塩田剛三先生宛ての紹介状を書いてくださり、それを持って各道場で稽古をさせていただいた。この頃は若く、がむしゃらに体を使うだけの稽古であったように思う。この出来事は私の合気道人生にとって、生涯の宝となった。
大学で同好会を作り、今後のことも考え部員全員で合気会に入ろうと考えたとき、久先生より「ブルータスよ、お前もか・・」のお手紙をいただいた。大東流合気柔術という道を示してくださった師範に不義理はしてはいけないと関西合気道倶楽部に残り現在に至っている。
微力ながら、「大東流合気柔術琢磨会」という暖簾を大切にし、今後の発展に少しでもお役に立つようお手伝いができればと考えている。
私ごとになりますが、来年1月に末の子供卓也(兵庫県警・高砂署勤務)が、淡路の大住三津子さんと結婚することになっています。思えば、卓也が七月に生まれ、その年の十月に、父が亡くなりました。世の常とはいえ、時の流れは、速いもので、三十年近くが過ぎ去ろうとしています。その間、父の子供の四女朝子、次女喜代、長男南平、三女京子、そして長女佐喜が次々と亡くなり、私が最後の子供となってしまいました。
父は、土佐の佐喜浜で生まれ、苦学して神戸高商に進学、卒業後は鈴木商店に就職しました。しかし、ご存知のように、鈴木商店は、米騒動で破産してしまいました。その頃の父の様子は、城山三郎「鼠」で伺い知ることができます。その後、先輩の石井光次郎さんに誘われ、朝日新聞社に入社、庶務部長・航空部長を歴任いたしました。その頃の様子は、新延修三の「われらヒラ記者 朝日新聞を築いた人たち」で何章かに渡って紹介されています。その後神戸製鋼所の厚生部長になり、その後、関西合気道倶楽部を立ち上げ、森さんや、小林さんらと合気道に励んでいました。わたくしも、御堂筋の道場には、たびたび押しかけ、練習ぶりを見て、楽しんでおりました。
この時代に体を悪くし、多くの子供たちが住んでいるということで、東京へ移り住みました。東京時代は、多くの子供たちに囲まれ、楽しそうに暮らしていましたが、やはり、最後の生活は、関西でという気持ちが、強かったのでしょう。私が神戸で住むと言ったら、喜んで同居するということになりました。こうして、最晩年の幸せな生活を始めました。
神戸の垂水では、森さんをはじめ、多くの人たちに来ていただき、酒を飲み、談笑を交わし、楽しそうに暮らしていました。この会報の読者の方の中にも、垂水に足を運んで頂いた方も、いらっしゃると思います。が、その楽しい時期もそう長くは続きませんでした。一九八0年九月に父の友人の経営している神戸、長田の公文病院に入院いたしました。死を覚悟したのか、ある日、森さんを呼んでくれ、と言うので、わざわざ病院へ来ていただきました。父は、森さんを病室に招きいれ、ベッドサイドに森さんと私が立ちました。その時は、かなり弱っていたのですが、大きな声で、最後の声を振り絞るように、「森さんを琢磨会の総務長に任じて合気道の全てを任せる。よろしく頼む。」と言いました。病室にひびきわたるようなしっかりした大きな声でした。特に「全て」の部分には、思いをこめて、一層大きな声で力を込めて強く言い、後事を託していました。ベッドの側にいた私はいよいよその時が近づいてきたな、と胸が痛くなりました。森さんは、「わかりました。」と答えられたと思います。それから数日後に父は、苦しむことなくあの世に旅立ちました。後顧の憂いは、何もなかったと思います。
そして、現在の森先生を中心とした大東流合気柔術の隆盛繁栄ぶりを見て、本当に喜んでおります。先号の会報で西神支部の吉田浩子さんが、森さんの言葉を紹介してくださっています。「私は久先生が伝えくださったものを、残さなければならない。」この言葉を読んで、確かに父の遺言は、森先生によって粛々と執行されているのだ、と思い、不覚にも涙をながしてしまいました。あの世で、父もさぞ喜んでいると思います。
益々の大東流合気柔術および琢磨会の隆盛・繁栄をお祈りいたします。
垂水にて 和田陽子