琢磨会会報第74号



森 恕 『大東流合気柔術(琢磨会)の技法と合気之術』
小林 清泰『大東流に魅せられて』
和田陽子『父久琢麿の遺言』

森 恕 『大東流合気柔術(琢磨会)の技法と合気之術』


 私は、財団法人日本武道館から、同法人が主催する第二十一回国際武道セミナーの講師の委嘱を受け、平成二十一年三月九日、会場である千葉県勝浦市の日本武道館研修センターにおいて、「大東流合気柔術(琢磨会)の技法と合気之術」について、講義と実演・体験指導を行いました。
 川辺武史・吉田英洋・吉田浩子の三君に助手をお願いし、通訳は、名古屋外国語大学招聘講師ブルース・フラナガン氏に勤めて頂きました。
 結果は、日本武道館の関係者から「会場の空気が、これほど盛り上がったことは今までになかった」と言っていただけたほど、成功裡に終えることができました。
 そのときに用いた講義原稿を披露します。

講義原稿

大東流合気柔術(琢磨会)の技法と合気之術


 皆さんおはようございます。私は、大東流合気柔術琢磨会を主宰し、その代表者を務めております森恕(もりはかる)と申します。
 本日は、これから約三〇分間、午前9時半まで、皆さん方に、大東流合気柔術の技法と合気之術について、ご説明をし、そのあと、午前一一時まで約一時間半にわたり、実技(実際の技)をお見せしたうえで、技の体験をしていただく予定になっております。
 時間が余りありませんので、大東流や琢磨会の歴史についての説明、話の前置きなどは全部省略して、早速本題に入り、大東流の技の説明を致したいと思います。


 大東流合気柔術は、単なる柔術ではなく、流名の通り「合気柔術」であります。相手を制御する(相手の身体を動かしたり動けなくする)のに、柔(やわら)の理だけではなく、合気の理を用いる柔術であります。
 大東流合気柔術の技には、四つの大きな特色があります。次の通りです。
 @  技の数が大変多い。
 A  技の内容は、その殆どが「小手技」である。
 B  技の掛け方が柔道とは全く異なっている。
 C  技の最高極意が合気之術である。


 順次(順序を追って段々に)説明を致します。
 @ 技の数が大変多いこと。
先ず特色第一にあげた「技の数」ですが、大東流の技の数は、二千八百八十四手といわれております。大変多い数ですが本当でしょうか。
大東流合気柔術は古武道です。ご存知の通り、古武道の技は、技法がすべて「型として制定されており、稽古は型稽古の方式で行われます。稽古として競技や試合は一切行いません。

 そのような稽古方式で、長い年月をかけて練り上げられ、現在に伝えられてきた大東流の技の総数は、今申し上げました通り、公称(表向き)二千八百八十四手といわれております。
 然しこれは、僅かな動きの違いや態勢の違いも全部一つの技として数え上げた数字ですので、それを考慮して、整理をして数え直せば、実質的には約七百手位であろうといわれております。
 七百でも結構大きな数字ですので、大東流は、このような技数の多さがひとつの特色になっております。
 なお、琢磨会の技は、久琢磨の技であります。合気の巨星(輝かしい光を放つ偉大な人物)である植芝盛平・武田惣角両師から大東流合気柔術の技を学び、植芝師からは合気道八段、武田師からは免許皆伝を許された久琢磨師が、われわれ門弟に伝え遺した技であります。
 その技数も約七百手あり、そのうちの五百四十七手は、当時、朝日新聞社の社員であった久師が、朝日新聞社の技術で、一手二・三枚の分解写真に撮り、それに簡単な解説をつけて、九巻の写真集にまとめ、「総伝」として遺してくれているものであります。
 我々は、それを研究資料として稽古を致しております。
 古武道の技が、これほど沢山、写真の形で遺されているのは、大変貴重であり、珍しいことだといわれております。
 A 技は殆どが小手技であること
 特色2は、小手技です。これについて説明を致します。
 「小手」とは、一般的には、人の腕の肘から手首までの部分を指します。肘から肩までの部分は高手(たかて)と言います。
 しかし、それであれば、手首から先は小手ではないということになりますが、大東流の場合は、手首より先の、手甲・掌・手の指までが、全部、技の対象になっていますので、小手と呼ぶ範囲を少し広げる必要があり、私は、肘から指先まで、つまり肘から先、全部を小手と称しております。
 したがって、「小手技」とは、相手の腕の小手部分、具体的には、肘から先、手の指先までを攻める技全部を指していることになります。
 大東流は、技の手数が大変多いのですが、その技の攻撃場所からみると、その殆どがこの小手を攻める「小手技」であり、小手技でない技は、数える程しかありません。
 更にそれを技の内容で整理をすると、相手の小手の関節を攻め、その順逆を利用して技を掛ける「関節技」・相手の小手の生理的弱点を攻める「急所技」・相手の小手の合気ポイント(合気が掛かる場所)を武術的に刺激したり、相手の防御本能を心理的神経的に刺激したりして掛ける「合気技」という三つの種類の技に大きく分類することが出来ます。
 私は、この三種類の技を、大東流の技の三大柱と呼んでおりますが、大東流の小手技には、この技の三大柱が、実に見事な形で揃っているのであります。
 それがどのような技なのか、具体的な技については、このあとの実演会や、体験会でお見せをし、ご説明をしたいと思っております。
 B 技の掛け方が柔道と全く違っていること
 特色の三番目は、技の掛け方に関する柔道との違いです。
 体術については、現代武道の柔道しか知らない人が、初めて大東流の技に接したときは、たいていの人が驚きます。それは異文化に接したような驚き方です。私自身もそうでした。
 相手を、投げ・倒し・固めるという技の目的については、柔道も大東流も同じなのですが、技の掛け方・技の内容が全く違っていて、柔道というメガネで大東流の技を見た場合、奇想天外なもの(全く思いもよらないような奇抜なもの)に見えるのでありましょう。
 たとえば、柔道では、技を掛けるとき、必ず、相手の襟・袖を捕り、上腕の屈筋を使って、相手の上体を自分の方に引きつけ、同時に、相手の足脚を、引きつけとは反対の方向に払って、相手の体を回転または半回転させて倒すのですが、大東流では、こちらから相手の襟・袖を捕って引きつけるるということは絶対に致しません。
 逆に、大東流では、相手にこちらの襟・袖あるいは手首を捕らせ、その相手の腕、特に肘から手首に至るいわゆる「小手」に、武術的刺激を与え、相手がその刺激から本能的に逃げようとして、自分から倒れてゆくように誘うのであります。
 その「誘い」の仕方は、伸筋を使って、相手の小手に触れているこちらの腕を伸ばすという方法をとります
 元早稲田大学の教授で、加納治五郎から柔道を学び(講道館八段)、植芝盛平から合気道を学んだ(合気道八段)競技合気道の創始者富木謙治氏は、その著書の中で、合気道と柔道の技の違いについて、次のように述べておられます。
 「柔道の技は、相手の力学的弱点を攻めるが、合気の技は、力学的弱点と同時に生理的弱点を攻める」  また、次のようにも述べておられます。
 「柔道の技は,(相手の上体を引きつけ、その足脚を払うという攻撃方法で生じた)二点二方向の偶力(方向反対で等しい力)の作用で相手を倒すのであるが、合気の技は、一点一方向の力の作用で倒す。」
 私は、大東流と柔道の技の違いについては次のように考えています。
 「柔道の技は、こちらの力で相手の体を動かすためには、どのようにすればよいかと考えて技が組み立てられているが、大東流の技は、相手が、本能的自発的に自分で無意識に体を動かすようにするためには、どうすればよいかと考えて技が組み立てられている。」
 どうでしょうか、私の言っていることがお分かりでしょうか、
 このような、簡単な表現では、大東流の技をよく知らない方にはご理解頂けないかと思いますので、この点については、ご希望があれば、後の実演会や体験会のときに改めてご説明を致しましょう。
 C  特色4番目は、合気之術です。
 大東流の技の最大特色であり、その最高極意である「合気」、その合気を掛ける技術である「合気之術」について、ご説明を致します。
 「合気之術」、これは相手に合気を掛ける技術であります。
 具体的には、相手の身体特に小手を、武術的に刺激して、その反応として、相手の本能的反射的無意識の動き、または、動きの停止を引き出す技術であります。
 私の師匠である久琢磨師は、武田惣角師から免許皆伝(師匠が弟子にその道の奥義をことごとく伝授すること)を受けました。
 そのとき、久師が武田師から授けられた免許皆伝証書、これは武田師が久師に奥義を教えた技の目録ですが、そこに、この「合気之術」が掲げられています。
 この技は、それを掛けられた相手の動きが異色(ありふれたものとは違う)であります。
 合気之術を掛けられた相手は、必ず体を動かします。しかしそれは、こちらの力によって、物理的他発的に動かされているのではなく、無意識に「自発的に」自分から動いているのであります。
 このような動きをするその原動力は、こちらが、相手の小手に加えた武術的刺激に対する本能的反応であり、反射的反応であります。
 ここでいう「本能」とは、こちらが加えた武術的刺激から、相手が自分の身を守ろうとする「防御本能」或いは「防衛本能」であります。
 合気を掛けられた相手が動きを停止する場合も、原理はまったく同じであります。
 合気及び合気之術のこのような術理は、大東流の技の中で、最も次元が高く、それでいて、それがそのまま、合気柔術の総ての技の基幹的原理ともなっているものであります。言い方を変えれば大東流の技は、そのすべてに合気がかかっているのであります。大東流合気柔術は、その技術の根幹にこのような「合気之術」を得たことによって、旧来の柔術諸流派とは次元を異にするまことに神秘的でありながら、合理的先進的な一大柔術に進化をとげることができたのであります。
 このような合気之術は、大東流の小手技から生み出されました。小手技とは、既に申し上げましたように、相手の身体を柔術的に操作するために、その相手の小手を攻める技であります。大東流の技は、精緻(非常に細かい点にまで注意が行き届いて整っていること)精妙(不思議なほど優れて巧みなこと)に、しかも、千変万化の方法で相手の小手を攻め、合気之術で相手の身体を動かす、小手攻防の秘技で組み立てられており、大東流は、正に小手技の集大成(多くのものを広く集めて纏め上げたもの)なのであります。
 小手は、人体の中で、武術的刺激に対して最も敏感な部分であります。
 私は、大東流の創始者が、そこに着目して小手技を編み出し、その小手技が合気之術を生み出したものと思っております。
 それならば、合気之術の「合気」とは何か、それは、大東流合気柔術の最高極意であると同時に、大東流のすべての技にひそかに埋め込まれているいわば、技の基幹原理とも言うべき術理そのものであります。大東流の技はすべて、この合気の原理・合気の術理の上に組み立てられているのであります。
 しかし、「合気」そのものは、合気之術によって生かされる理念であり術理でありましても、それ自体は「力」でもないし、技術でもないのであります。
 私は、久師の下に入門して四十余年、今ようやくそれを悟ることができました。

 三、最後に、合気を掛ける一般的方法をお教えして、本日の私の講義を終わらせていただきます。次の通りです。

 合気を掛ける一般的方法
 「相手の小手の合気ポイント(合気の掛かる場所)に、一定のリズム(拍子)で、一定の方向に刺激を加える」

 合気掛ける具体的場所、(ポイント)掛ける拍子(リズム)、刺激の方向は、掛ける合気技によって違いますので、実演・体験会で説明を致します。



小林 清泰『大東流に魅せられて』


 人生を探求する心身統一哲医学会の天風会で「合気道」なるものを始めて見た。久琢磨師範の指導で女性が大の男に技を掛ける演武を見て、これなら小柄な私でも出来ると思い、昭和三十六年十月関西合気道倶楽部に入門した。関西合気道倶楽部は八畳ほどの小さな道場でその狭さに私は驚いた。昼は植田杏村先生、夜は森脇潔先生が指導にきておられた。道場のメンバーは殆どが法人会員の社員の方々であった。その道場は毎日稽古がなく私にはもの足らず、森脇先生が大阪朝日新聞社社内の同好会で教えておられたので、そちらの道場にも稽古に通った。稽古に来る社員は、印刷局、警備の方々が中心で、大柄な人が多かった。外部からは、大和銀行の秘書の方が二名来ておられた。久師範は昭和三十六年十月脳梗塞で倒れられ自宅で養生しておられたが、春には散歩が出来るまでに回復し、奥さんが付き添い、神戸の岩屋から道場に通っておられた。その頃には道場は二十畳の部屋に替わっていた。当時学生だった私は、翌年の春大学で合気道同好会をつくり学生を集め稽古していた。このとき入会してきたのが川辺武史君である。久師範の奥さんが、神戸製鋼病院にお見舞いにいったその一週間後、昭和三十九年二月他界された。他界後久師範は、大東流に打ち込み、時には、朝、昼、晩と日に三回もの稽古を行い、そんな時には道場で寝起きをしていた。日に日に個人会員はふえていった。一人住まい、外食など不規則な生活で健康を害し、心配する家族の勧めで、東京に引越しすることとなり、昭和四十二年関西合気道倶楽部(埼玉ビルは大阪ガスの御堂筋を挟んで筋向い)は、閉鎖となった。残った同士達は稽古場を求め転々としながら稽古を継続した。私は大阪証券会館内道場、広告の大広ビル、道修町の磯部道場、中津のガソリンスタンドの二階で稽古した。そんな状態の中で、小林高士先生が奈良学園前で、川辺武史師範が住吉武道館で支部を創り稽古開始した。昭和四十五年十月免許皆伝森脇潔師範が亡くなられた。指導者を失い痛恨の極みである。今や久師範の手を握りご指導頂いた者もごく僅かになってしまった。
 船場の道場にあって「企業のことを知っとくといいよ」といって、会員募集のポスターを作り、久先生の名刺を持って会社回りをした。名刺には「石井光次郎秘書役 久琢磨」とあった。石井光次郎は神戸高商(東京朝日新聞社に勤務しておられたご縁で、久師範が鈴木商店退職後東京朝日新聞社に入社)相撲部の先輩でもあり、のちに政治家として活躍、文部、厚生大臣、副総理までなられた方です。
 中津平三郎(武田惣角の弟子で久琢磨と兄弟弟子)は朝日新聞社退職後、阿波池田において大東流を指導した。門弟に大西正仁、千葉隆紹師範がおられる。蒔田完一師範は大東流に魅せられ徳島の南小松島市で真徳館道場をもち大東流を指導しておられた。後に久門人となり、春には久師範が東京から指導にこられ、我々も稽古に参加した。こうして四国の皆さんとの交流がはじまり、今も脇町の合同稽古に引き継がれている。
 年一回大阪朝日新聞社で各支部の稽古発表会と合同稽古を行っていた。稽古の後、懇親会の席で千葉紹隆先生が会の名称を付けることを提案され全員賛成で会の名称をつけることになり、久琢磨の琢磨を取って「琢磨会」と決まった。これが今の「琢磨会」である。
 久師範は昭和五十五年十月神戸の公文病院で亡くなられた。ご臨終の折、同郷の友人公文医院長が心臓マッサージをしながら大声で「琢磨頑張れ」と励ましておられたのが、印象に残っている。久が武田惣角から免許皆伝を授与されたときの肩書きが「総務長武田惣角」とあったので森恕先生に「総務長」名称で、琢磨会の爾後を託した。森総務長は武田惣角から伝承された技「総伝技」の研究、最近では触れ合気、抜き合気などを研究しておられる。森総務長には現在も尚、琢磨会を牽引していただいている。
 琢磨会の功労者川辺武史師範が大きな力を発揮しておられる。現在、指導部長として合同稽古、昇段審査会を受け持ち、琢磨会を牽引してくれている。彼が居なければ琢磨会はここまで大きくなっていなかったであろうと言っても過言ではない。
 昭和四十九年久師範の元部下だった山田三郎朝日カルチャーセンター千里室長より合気道教室講師のお話があり、久師範は私を推挙してくださり、私は、大役ですが大東流発展のために引き受けた。午前と夜の講師をしていたが、仕事が多忙となり川辺武史師範に講師をお願いした。快く引き受けてくださりほっとした。彼の才覚で、朝日カルチャーセンター、NHK文化センターの人気講座を創り、またプロ講師として活躍され、現在に至っている。琢磨会の海外進出の道筋を付けたのも彼の功績であるといっても過言でない。
 また、パソコンによる別の道筋、すなわち、英文ホームページ作成の梅井眞一郎先生も多いに海外進出の一助を担ったといえよう。現在海外支部は、ヘルシンキ、オーストラリア、ニユーヨーク、フロリダにある。

 大東流合気柔術には試合がないのは、一つには危険な武術であり、礼儀作法、にも重点を置いているためである。男女の区別、体力の区別もなく、左右同じ用に稽古するし、裏筋肉をも使うのでので、健康面でもバランスの取れた運動であるといえよう。
 古武道は古代から生命を維持するための闘争技術から派生して、武士の生死をかけた戦いの場における格闘技術として磨かれた。柔術では戦場での古具足を着けて組み討ち合い、身を守り捕り押さえた。柔術は江戸時代になると、野外から屋内、すなわち敷居の内(御敷内)として発展していった。関節を攻め、手首を取り、首を絞め、突き、打ち、蹴り、投げ、捕り押える武術、時には殺傷の武術でもあった。武田惣角以前の文献を持ち合わせていないのでよく分からないが、武田惣角が大東流と名乗ったのは、明治になってからであると一般的にいわれている。大東流のいわれは、武田家の祖先が新羅三郎源義光で新羅殿大東(オオヒガシ)の館(国宝滋賀県)と呼ばれていたからとも、大東亜圏の思想からとも言われはっきりしない。合気と名付けたのはいつ頃か歴史的にも興味が沸いて来る。庵木英雄師範も会津に出向き調べたが、大東流の資料は発見できなかった。武田惣角が、武田家伝来の武芸と、技が膨大すぎて一代で創設されたとは考えにくい。武田惣角は多くの技を琢磨会に伝えている。教わった技を写真に撮り記録として残した技が、琢磨会に伝わる『総伝集』として纏められている。この総伝集の表紙には「大東流合気柔術」と刻印されている。「総伝技」として森総務長指導のもと、研究が行われている。他に岸和田の天津裕師範、能勢の宇都宮守師範も熱心に技を紐解いておられる。
 柔術は一定のルールの下に技を掛け合いながら柔を学ぶ。柔術はどこまでやれば致命傷となるか、ならないか力加減も体得できる。暴漢の攻撃をかわすことも、逃げるすべも身に付く。古武術として老若男女が興味を持ち誰でもが稽古できる。
 殺伐たる世の中、武道の精神を求めてくる人が多い。武道だけではないが、『礼に始まり、礼に終わる』とよく言われているが、稽古した相手に、道場に感謝し一礼する心は大切だ。
 今の人は耐える力が弱く切れやすいといわれている。現在学校教育現場でも男子は武道を必修化されている。琢磨会も「礼儀や精神力の養成」を目標として掲げており実現を目指した指導が行われている。今後女子にも武道を必修化する動きが見られる。
 私の体型は背が低く非力ですが、如何にして大男、力持ちに技をかけるかです。技は合理的に組み立てられており、先人の方々が工夫されたことに驚顎する。
 私はいろいろな道場に出向き稽古や、ご指導をいただいている。稽古をする中で参考になることや、新たな発見があって面白い。道を究める稽古には終わりがないようです。
 私も古参となり、教える立場になりましたが、大東流を究めんと情熱を燃やしております。初心を忘れず体力の続く限り稽古に励みだと思っております。
 久先生は「可愛い子には旅をさせよ」と思ったかどうかわからないが、大東流宗家武田時宗、合気会の植芝盛平先生、養神館の塩田剛三先生宛ての紹介状を書いてくださり、それを持って各道場で稽古をさせていただいた。この頃は若く、がむしゃらに体を使うだけの稽古であったように思う。この出来事は私の合気道人生にとって、生涯の宝となった。
 大学で同好会を作り、今後のことも考え部員全員で合気会に入ろうと考えたとき、久先生より「ブルータスよ、お前もか・・」のお手紙をいただいた。大東流合気柔術という道を示してくださった師範に不義理はしてはいけないと関西合気道倶楽部に残り現在に至っている。

 微力ながら、「大東流合気柔術琢磨会」という暖簾を大切にし、今後の発展に少しでもお役に立つようお手伝いができればと考えている。


和田陽子『父久琢麿の遺言』


 私ごとになりますが、来年1月に末の子供卓也(兵庫県警・高砂署勤務)が、淡路の大住三津子さんと結婚することになっています。思えば、卓也が七月に生まれ、その年の十月に、父が亡くなりました。世の常とはいえ、時の流れは、速いもので、三十年近くが過ぎ去ろうとしています。その間、父の子供の四女朝子、次女喜代、長男南平、三女京子、そして長女佐喜が次々と亡くなり、私が最後の子供となってしまいました。
 父は、土佐の佐喜浜で生まれ、苦学して神戸高商に進学、卒業後は鈴木商店に就職しました。しかし、ご存知のように、鈴木商店は、米騒動で破産してしまいました。その頃の父の様子は、城山三郎「鼠」で伺い知ることができます。その後、先輩の石井光次郎さんに誘われ、朝日新聞社に入社、庶務部長・航空部長を歴任いたしました。その頃の様子は、新延修三の「われらヒラ記者 朝日新聞を築いた人たち」で何章かに渡って紹介されています。その後神戸製鋼所の厚生部長になり、その後、関西合気道倶楽部を立ち上げ、森さんや、小林さんらと合気道に励んでいました。わたくしも、御堂筋の道場には、たびたび押しかけ、練習ぶりを見て、楽しんでおりました。
 この時代に体を悪くし、多くの子供たちが住んでいるということで、東京へ移り住みました。東京時代は、多くの子供たちに囲まれ、楽しそうに暮らしていましたが、やはり、最後の生活は、関西でという気持ちが、強かったのでしょう。私が神戸で住むと言ったら、喜んで同居するということになりました。こうして、最晩年の幸せな生活を始めました。
 神戸の垂水では、森さんをはじめ、多くの人たちに来ていただき、酒を飲み、談笑を交わし、楽しそうに暮らしていました。この会報の読者の方の中にも、垂水に足を運んで頂いた方も、いらっしゃると思います。が、その楽しい時期もそう長くは続きませんでした。一九八0年九月に父の友人の経営している神戸、長田の公文病院に入院いたしました。死を覚悟したのか、ある日、森さんを呼んでくれ、と言うので、わざわざ病院へ来ていただきました。父は、森さんを病室に招きいれ、ベッドサイドに森さんと私が立ちました。その時は、かなり弱っていたのですが、大きな声で、最後の声を振り絞るように、「森さんを琢磨会の総務長に任じて合気道の全てを任せる。よろしく頼む。」と言いました。病室にひびきわたるようなしっかりした大きな声でした。特に「全て」の部分には、思いをこめて、一層大きな声で力を込めて強く言い、後事を託していました。ベッドの側にいた私はいよいよその時が近づいてきたな、と胸が痛くなりました。森さんは、「わかりました。」と答えられたと思います。それから数日後に父は、苦しむことなくあの世に旅立ちました。後顧の憂いは、何もなかったと思います。
 そして、現在の森先生を中心とした大東流合気柔術の隆盛繁栄ぶりを見て、本当に喜んでおります。先号の会報で西神支部の吉田浩子さんが、森さんの言葉を紹介してくださっています。「私は久先生が伝えくださったものを、残さなければならない。」この言葉を読んで、確かに父の遺言は、森先生によって粛々と執行されているのだ、と思い、不覚にも涙をながしてしまいました。あの世で、父もさぞ喜んでいると思います。
 益々の大東流合気柔術および琢磨会の隆盛・繁栄をお祈りいたします。

                   垂水にて 和田陽子