琢磨会会報第71号
森 恕 『抜くのか消すのか』
私が総伝技の指導稽古を行うとき、稽古の最後は、必ず合気技にしている。昔の久師の指導方法がそうであったので、それに倣って行っているのである。
その合気技も、最近は「抜き合気」それも「究極の抜き合気」をやることが多くなった。
稽古を重ね、技を練り上げ、色々な相手に、色々な場面で試しているうちに、この合気技の著しい効果に段々と自信がついてきたためである。
やっているうちに、ふと、技術レベルは全く違っていて当然であるが、武田惣角師も同じようなことをされていたのではあるまいかと思いつき、最近は、もしそうであるならば、伝説になっている惣角師の技のうち、どの場面のどの技がそれであろうかと、種々想像をめぐらせ、検討をし、ときには、稽古の余暇に一寸試してみたりすることが、多くなった。
惣角師が「抜き合気」を使ったのではないかと思われる伝説の技は、決して少ない数ではない。不思議だといわれている技には、大体この合気がさりげなく使われているのである。
「抜き合気」は、文字通り「見えない技」である。
技を掛けられた相手以外には,この技が使われたことは全く分からない。
場合によっては、掛けられた相手にも分からないかも知れない。
惣角師は、この技のそういう性質を見極めて、各所でこれを使っているのである。
「抜き合気」は、深遠不可思議な術理を持ちながら、実に応用範囲の広い技なのである。
しかし、本稿では、惣角師の技の問題は暫時措き、「抜き合気」の技の根幹に関わる問題について、いまでも私が悩まされている事件があったので、それを紹介したい。
抜き合気では、相手の体の力を「抜いている」のか,それとも「消している」のかという問題である。
三年前の夏、フインランド支部の女性会員アリアさんが、ヘルシンキの地元武道雑誌の記者として私にインタビューを求めてきたことがあった。
私は、同時通訳を仕事にしている英語専門の通訳者を用意して、自宅で彼女の求めに応ずることにした。
インタビューでは、私の大東流修行歴や、総務長としての抱負、会員に期待すること、大東流及び琢磨会の将来展望など、常識的な質問が、一通り終わったあと、技についての質問になり、特に「抜き合気」について、熱心な質問が続いた。
私が、この技は、自分の体の力を抜くことによって、自分と接している相手の体の力を抜くのだという説明をしていると、突然通訳者から直接私に質問があった。
力を「抜く」ということがこの技の核心のようであるが、この「抜く」という言葉の、英語での表現が難しい。しかも、私の説明を聞いていると、単純な「脱力」でもないようなので、この表現も駄目だとすると、力を「消す」と表現してもよろしいかということがその趣旨であった。
私としては、日本語の、力を「抜く」という表現が、この技の表現として論理的にも感覚的にも、最も適切だと思っているが、力を「消す」という表現は、論理的にはともかく、感覚的にはピッタリとこないところがあるので、通訳者にそのよしを説明し、何とか、語感が、できるだけ日本語の「抜く」という言葉に近い英語を探していただきたいとお願いをした。
そういうことがあって以来、私は、抜き合気の指導稽古あるいは研究稽古を行うたびにこのことが思い出され、果たして,この技で、私は相手の力を抜いているのか、それとも消しているのか、技としては、どちらが正しいのであろうかと、思い悩むことがあるようになった。