琢磨会会報第50号

 

 


森 恕 『半身の構え』

 どのような武術であっても、相手と対峙して勝負をつけようとするとき、或いは技をかけようとするときには、相手に対し、その武術の流派独特の構えをとる。
 従って、その構えを見れば、どのような武術のどの流派であるか、おのずから分かる。
 大東流は半身の構え、それも左半身が原則だと久師は言われた。
 具体的にいうと次のとおりである。

 

 左足を前正面に向けて出し、右足は、左足と踵の線を合わせてその半歩後ろに置き、ソの字形に、爪先を右斜め前に向けている。

 従って、体全体も自然に右斜め前に向くのであるが、顔は正面に向ける。そして、左右の足の膝は少し曲げて、体の重心は、四分六に分け、その六分を前、四分を後ろに、しかも、それを、夫々の足の指の付け根に置くようにし、踵は何れも僅かに浮かせるようにする。両手は鼠径部に自然に置いて、前に出さない。

 これが、久師からご説明を頂いた「半身の構え」であるが、要は、技をかけるために動き易くして、しかも、相手に対し、身体をできるだけ薄く構えるというとこが、大切なポイントである。

 何故左半身かということは、相手が右手右足を前に出して攻撃をしてきたとき、こちらが左半身で、左手左足が前にある方が、攻撃を捌きやすいし、技もかけ易いからである。

 このことは、大東流の各種の技を想起して見れば、殆どの技がそのようになっているところから、容易に理解できるはずである。

 右手右足が前に出てくるのは、剣の操法の原則であるから、攻撃が右半身であるのはよく分かるのであるが、これに対するに、防御側が左半身をとることは、実際に攻撃を捌き、技をかけてみなければ納得がゆかないかも知れない。しかし、よく検討してみると、捌きと技かけのためには、この方が合理的な体勢であることが理解できるのである。

 未だ詳しくは言いたくないが、久師から教えて頂いた「合気の太刀」は、面白いことに左半身に構えるのである。同じ理由からだと思われる。

 刀の持ち方は右半身のときと同じであるから、そのまま左半身になると、当然に刀をもった左右の手は、体の前で交差した形となるのである。一見不自然な体勢に見えるのであるが、この方が、合気柔術の技を用いて相手の剣を捌き、同時に打ち込むという、この剣の型の目的によく叶っているのである。

 勿論、柔術の世界では、左右何れの半身の構えでも自在にとれる必要があり、そのように稽古を積まなければならないのは当然のことである。

 ところで、過日、植芝吉祥丸氏の著書「合気道」を読む機会があった。氏はその著書で「合気道の構えは半身である」「合気道の技法はすべて、いかに動こうとも半身の連続であり、静止したときにも半身に落ち着く。相手に対してつねに半身に構えるわけである」と述べておられる。

 つまり、合気道では半身の構えが原則であると言われているのである。

 そうしてみると、久師は、大東流を当初植芝盛平師から学ばれたのであるから、久師の説かれた「半身の構え」は、植芝盛平師の教えであったのかもしれない。

 久師はまた、大東流は「無音・無声・無構え」だとも言っておられる。お言葉通りであれば、大東流には本来「構え」はないのだという意味にも取れるので、単純にこれを承った場合、多少混乱が起こしかねないところがある。

 しかし、よくよく真意を伺えば、このお言葉は、心技共に、ある程度のレベルに達すれば、「構えを意識する必要がない」という意味であるようで、「無音・無声」と共に、かなり深遠な教えであると思われる。

 宮本武蔵は、五輪書の兵法三十五箇条水の巻で、「有構無構のおしへのこと」として、構えはあって構えはない。構えに囚われるなと教えている。意味深い教えであって、私はこれを座右の銘にしている。

 しかしながら、武蔵や久師の境地にはまだ程遠いので、稽古の時は意識をして、キチンと半身の構えをとるように努力をしているところである。  

 

久 琢磨 『武田先生の出現』

私どもが、植芝先生一門について、この合気道を習練している最中、昭和十一年の六月廿一日、本社の受付に、右手に鉄棒をジャンジャンと突き、左手には銘刀を携えて、「われこそは大東流合気柔術の創始者宗家武田惣角なり、諸君は門人植芝盛平に習ってるそうだが、彼はまだまだ未熟だ。真の合気柔術を習はんと志すなら、宜しく只今より俺の門人となって習へ。」と申し渡し、有無を言はさず、守衛たちをつれ道場に入った。私は部長であることを秘して、守衛諸君の後について忍び込み、武田先生の秘技を実見、驚天した。私はすぐに植芝先生の元に馳せつけ、宗家の武田先生の出現を申し上げた。植芝先生はすぐに恩師の許に馳せつけるかと思ったが、意外にも非常に驚愕して、引っ込んでしまった。かくして私たちは早朝従来の如く、梅田の道場で植芝先生一門の指導を受け、午後は武田惣角先生を本社の宿直室に迎えて練習するという状況であった。植芝先生一門は、その内に朝日に何等の挨拶もせず、東京に引き揚げてしまったが、武田惣角先生は増々熱心になり、その内令息時宗氏を伴って、現れた。記録によると  
第一回 昭和十一年  六月二一日〜  七月二五日迄 三六日間  
第二回        十一月  一日 〜十一月三十日迄 三十日間  
第三回    十二年 九月十七日 〜  九月三十日迄 四四日間
第四回    十三年 十月二二日 〜十一月十四日迄 二二日間  
第五回    十四年 三月 吉日 免許皆伝 久琢磨 八段 
                           吉村義照 八段 
                           刀祢館正雄
左記の通り免状を渡して北海道へ引き揚げられた。  
顧みれば、合気道を始めて習ってから、この方、約五十年の歳月が過ぎた。この間、武田、植芝両先生を始め刀祢館重役、吉村守衛長以下殆ど全部昇天してしまい、ただ私一人、生き残ってしまった。今八十四才の年令、しかも、中風身体障害者であるが、今の内に残っている力を絞って、この技を後進者に伝え、幾分なりとも先達たちのご恩に応えたい。  
昭和五十七年吉日 免許皆伝 久 琢磨