琢磨会会報第49号
大東流の技は、よく注意して観察すれば理解されるように、その殆どの技が、相手の体躯には直接触れないで、体躯からは離れている相手の小手(腕の肘から先の部分)を操作して、その根元にあたる体躯を動かすように工夫をされているのである。
謂わば、相手の小手を、その体躯を動かすためのリモートコントロール装置として使う訳である。
体躯に密着している道着の襟袖を掴んで技をかける柔道や、腰にしっかりと締め込んだ褌(まわし)取って技をかける相撲等とは、このような、技の手掛かりにおいて大きく異なっているのである。
しかも、技を掛けるためには、必ず相手を強く引き寄せ、相手と体を密着させる必要がある柔道とは異なり、大東流は、相手の小手を操作する必要上、技を掛けるときでも、相手の体と自分の体との間には空間があり、僅かな例外を除き、体躯同士の密着はない。
そのために、大東流は「離隔の武道」とも言われているのである。
しかし、相手の体に直接触れず、その体から離れていて、しかも先の方にある小手を操作して相手の体躯を動かそうとした場合、技の原理や要領が分からなければ、中々巧く捗らない。
小手の操作方法自体に深遠な術理がある上に、力の伝達装置になる人間の腕には、手首・肘・肩の三関節があり、それを保持する靱帯とそれを動かす筋肉があるので、体躯を動かすべく小手に力を加えると、夫々の関節とその付属器官がその力を逃し、体躯への伝達を妨げようとするからである。
従って、大東流の小手技を使いこなすためには、小手操作方法に関する術理を理解したうえで、更に、腕の三関節が、素直に小手に加えられた力を体躯に伝達するようにさせるためには、どのようにしなければならないのか、その方法を知らなければならないのである。我々の日々の稽古は、この術理と方法を探求会得すべく、熱心に繰り返されていると言っても過言ではない。
そこで、小手の操作方法に関する術理ついては今回は措き、小手に加えられた力を体躯に伝達させるためには、相手の腕そのものをどのようにすれば良いのか、そのことについて述べることにする。
答は実に簡単で、要するに腕の三関節を同時固定すれば良いのである。
手首関節にしても肘や肩の関節にしても、夫々、その可動域の範囲内では割合自由に動く。そのため、小手に力を加えられた時、本能的に、これらの関節を動かして、その力から逃げようとするのであるから、技をかける時には、相手の腕の三関節を、動かせないように固定する必要がある。
これらの関節が同時に固定されると、腕全体は、全く単純な力の伝達器官と化し、小手に加えられた力はストレートに肩関節を介して体躯に伝えられるのである。
それでは、腕の三関節を同時に固定するにはどのようにすればよいのか、一本捕りなどの関節技については改めて述べる必要もあるまいと思われるので、ここでは対象を合気技に限定すると、これには二法があり、その一は「肘延ばし」であり、その二は「カギ型」である。何れも合気技の基本である。
「肘延ばし」については、既に何度か述べているのでここで繰り返すことは避けるが、この際強調しておきたいのは「カギ型」である。具体的には、両手捕り合気投げで、合気上げをした時の相手の腕の形、或は、三ヶ条または四ヶ条の技で、相手の片手を、剣の八双の構えのように極めたときの相手の腕の形である。
これらの技で、キチンと正確に極められたときの相手の腕の状態は、高手(肘から肩までの部分)と小手(肘から指先までの部分)がカギ型になっており、小手は、ほぼ垂直に立てられ、高手は肩と同じ高さで水平に保たれており、肘の位置は、肩よりもほんの少し前に出されている。
この状態にされた腕は、例えば手首に力が加えられたとしても、その力を関節の動きで逃がすことはできず、それをそのまま体躯に伝達して、それによって体躯が動かされるのである。
もっとも、この力の加え方にも微妙な要領とコツがあり、それを会得しなければ十分な技はかけられない。
しかし、この型は、肘関節が曲がっているにもかかわらず、小手に加えられた力をその関節で逃がすことができず、しかも小さな力で、体躯までが動かされるというところが不思議であって、その絶大な効果と効用を評して「黄金のカギ」と呼んでいるのである。
「好漢列伝」に釈明
明比真金君から随筆のリレーが廻ってきた機会に、僕も日ごろの感慨を少し語ってみよう。まづ第一に先ごろ本誌にのっていた岡緑荷先輩の「好漢列伝」について釈明を一言。僕は土佐の山奥からいわゆる”笈を負うて”上阪したくみの一人である。なんとかしてはやく一人前になりたい、(ひとの厄介にならず、世の中の役に立つような人間になりたい)というのが若き日の久琢磨の願いであった。この目的のために僕はずいぶん無茶苦茶に勉強し、社会に出ては前後左右を顧みず驀進した。いささか驀進しすぎたのでこの側杖をくって迷惑されたむきもあったろう、といまにして思えば汗顔の至りである。僕はもとより生来の野人である。山奥から掘り出したままの荒削りの傷だらけで短所や欠点も多い。お酒も飲む。その僕が馬車馬のように力いっぱい驀進するのだから、おのずから周囲には批判も湧いた。投げ足を喰った連中からお叱りも受けた。例えば朝日在社時代、あるあまり上品でない「現代新聞批判」という新聞内報は”軍服の○○部長は下役のくせに、専務、社長を蔑ろにして専横をきわめる不届きな奴”と、僕のことを諷刺したものだ。たいへん大時代的なことばで恐れいるがこれは本当にそう書いてあったのだ。内報ごときには一向驚ろかず無視していたが正面からくる批判、非難の声にはいささかこたえた、しかしつとめて耳を藉さぬようにして押し通した。ひとつは、そうしなければ新聞マンとしての信念をつらぬいて生きられない、振幅の大きい時代であり、緊迫した情勢でもあった、といえば弁解になろうか。これは同じ時代と環境を生きた人ならわかってもらえるのではないかと思う。毀誉褒貶を窓外の雨とみなし、非難攻撃を馬耳東風と聞いた、このころの僕はたしかに若かったのだろう。強すぎたのだろう。それかあらぬか、朝日の社内でも凌霜の先輩中でも風当りは強かった。なかには親友でありながら意見の相違のために涙をふるって袂をわかったものもあった。多分、それらの人に僕は好かれていなかったろう。四面に楚歌の声をきき、強風にあほられながらも一本杉のごとく毅然として兎に角大過なくつとめた。いわゆる金銭や社会的地位や名誉といったものに比較的執着の少ない野人の僕はそういう自分の性質のためにずいぶん損をすることもあったが僕は「それでいいのだ自分は正しい清い生涯を全うすればそれで満足だ」と思っていた。”天は自ら助くるものを助く”というのが僕の信念であり心境であったのだ。その僕がはからずも昨年十月大病に倒れ、生れて初めて病臥生活を経験した。物心がついてからはじめてしずかに自分の過去を顧みる機会を得た。たまたまそのとき緑荷先輩の「好漢列伝」に接し、骨身に沁みて先輩の評価を味わった。病床で、僕はこれまで自分のとってきた自信と行動について、酷しい反省に反省をくりかえした。結論は「決してまちがってはいなかった。しかし世渡りの賢い方法ではなかった」ということであった。もしもう少しはやく病気になって早く反省していたら、もっと賢い道をえらんでいたかもしれない、と思って自ら慰めているんだがどうだろうか。幸に命拾いをして蘇生したのだから、今からでも出直そう、今からでも遅くあるまい。古人は「朝に道を聴きて夕に死すとも可なり」といわれた。すぐにでもあらためて出直そう、そしてせめてのこる人生を、万人に好かれる、愛せらる「久」「久のおんちゃん」として生きて行きたいというのが老来久琢磨の念願である。みなさんもどうぞ「ええ子になった、おとなしい男になった」と見直していただきたい。
ところで一つだけ訂正を入れたい、「好漢列伝」の文中、僕がいかにも石井光次郎先輩のために、縁の下の力持ちとして働いたか、またそれが石井先輩のために、非常にプラスになったかのようにうけとれるくだりがあったが、これは全くの見当ちがいで僕には当らない。少なくとも少々エキザゼレーチーブでオーバーである。実を言うと昭和二年鈴木商店の破綻で失業ちゆうを、石井先輩に助けられ、朝日に入社して以来、僕はずっとお世話になり通し、いまだに何等報恩ができていない、むしろ何とも申訳なく思っているのである。凌霜の後輩で先生のお世話になって、そのままになっている者はずい分多いはずだ。もしこの「好漢列伝」を石井先輩が読まれたら「まるで反対じゃないか」と、苦笑されるだろうと僕は窃かに大いに弱っている。ついでにいえばその他の「美談?」などについても同様で、そうしたケースに当れば、誰でもやるだろう、いな誰かがやらねばならぬことを、僕が出しゃばってやったまでで、岡先輩からおほめにあずかり、恐縮千万まことにお恥しい次第である。
相撲、ゴルフ、と合気道 合気道を余生に
岡先輩のご紹介して下さったごとく、僕は奇跡的に助かった命をもって、余生を合気道の研究、指導と普及につくしたいと念願して、大阪、東区淡路町四、の埼玉ビルの中に道場を開いて門弟を指導している、凌霜人もボツボツ入門してきているのでこの機会に合気道のことを少し話してPRしておきたい。
元来僕は子供のころに、小児喘息を病ったためいたって弱虫であった。同い年の友だちはもちろん、年下の小供にも敗かされ泣いてかえることが多かった、母が男まさりで「男の子がそんな弱虫でどうなるか、しっかりしなさい」とよく叱られ激励されたものだ。そこで発奮して習いはじめたのが、相撲である。かぞえ歳十才くらいのころからけいこをはじめたが、最初のうちは誰彼からも投げとばされるばかりでずいぶんつらかった。しかし僕は生来負けずぎらいで「なに糞」と歯をくいしばって稽古にはげんだ、おかげでめきめきと倆をあげ技を覚え、十五才の時にはいつの間にか近郷近在に敵がないくらい強くなっていた。後年阪神に出て苦学力闘したときも、この相撲できたえた体力が唯一つのもとでとなっている。学生相撲で優勝して有名になった縁で母校に入り母校の「学生相撲の黄金時代」をつくり相撲好きの水島校長先生や諸兄を喜ばしたことはすでに皆さんのご承知のとうり。相撲で強靱な体格をつくったことは後年激しい活動の原動力となってくれたがこればかりでなく、「たとえ弱虫でも一旦決心して全力をそそげば大関、横綱にでもなれる、いわゆる精神一到何事かならざらん」という精神的にも堅い自信を持ちえたことは僕の一生に得難い財産であった。
ゴルフは石井先輩にすすめられて、昭和四、五年ごろから始めたのだから球歴は相当古い、が一向に上達せずハンデーもあまり上らなかった。石井先輩から「出世がおそいね」といつも冷かされ、ついにこの年ではもうとてもシングルにはなれないと人前で宣告された。僕の自信をもってすれば、ゴルフだってやろうと思へば不可能ではない、ただあまりにひまがかかり金がかかるのが一番苦手であった。浪人になってから金はともかく閑だけはたっぷりできたのでこれもひとつ仕上げてみてやろうと決心して、猛練習をはじめた、石井先輩や友人たちは年寄の冷水だ、やめておけ、といったが、実をいうと相撲を稽古するくらいの覚悟でやればゴルフの練習などはヘッチヤラだ、この勢で一昨年からラスト・スパートをかけた、昨年の夏などはあの炎天に毎日五時間も六時間も立ちつづけて、ひとりでたたきまくった。このおかげでめきめきと上達してハンデーは一七から一五、一三、一一、一〇と漸次上昇しついに昨年八月朝日新聞杯戦に優勝して待望のシングル九になった、石井先輩「ほう」と言って、宝塚クラブ誌に「久君のシングル」と題して祝って下さった。ゴルフの望みは見事に達したからハンデイは水銀柱の最高点に永久にとどめておきたいと思っている。
最後に合気道だが、これも実は石井先輩が、その通の達人植芝盛平という老人をつれてきて、僕に強制的にやらされたのに初まったのである。なにごとにも凝り性の僕は、当の植芝先生や内門弟の数人を自宅に抱えこんで、毎日朝夕練習に熱中したものだ、その精進の効空しからず技進み術長じ先生から受けるべきものは全部体得してしまった。そこでこんどは一歩を進めて、合気道の宗本家の武田惣角先生という老名人について、数年間伝授をうけた。この努力のすえ、植芝先生から最高の八段を免許され、武田先生からは何人にも他には授けておらぬ免許皆伝という最高最終の皆伝を伝授された。これも何ごとにも精神をこめてやれば出来るという僕の自信力のいたすところであろうか。
僕は浪人中、天下の怪物矢次一夫君の主宰する、国策研究会の関西事務局長をひきうけ、約三年間奔走し大阪にこの会の地盤をきづいた。しかし老来いろいろ細かいことが面倒くさくなってき団体屋が厭になったので一昨年辞してしまった。この会を始めたとき本誌上で親友室賀君が「フレー久」と激励され一般凌霜会員のみなさんにもご協力乞うとPRしてくれたことであったが、同君は「君子は終りを完うせよ」とのことで引退の盛大な慰労送別会を開いてくれた。この席上で石井先生から「久はやらせば何んでもできる、しかし今後は久でなければできぬことをやってくれ、即ち合気道の道場を開いて専ら斯道の研究指導普及につくされたい、有志の諸氏は久君を応援してやって欲しい」と激励されたので、僕は総ての他のことを放擲して、この道に専念することになった。道場というと軽く考へられるが、大阪のど真中の新築のビルで冷房、暖房設備の完備した道場を持つことは、経済的にもなかなか容易なことではない、しかし僕は僕の従来の堅い信念「やれば必ずなんでも出来る」とことんまでやってみたいと頑張っている、凌霜の各位のご声援とご協力をお願いいたします。
合気道について
一般にはたんに合気道といっているが、ほんとうの術は大東流合気柔術という古流の柔術である。伝書によると、開祖は日本武尊で、世々清和天皇の系統に伝わり、新羅三郎義光にいたって完成したといわれる、だから義光公が術祖になっている、爾来戦国時代に甲州の武田藩に伝わり体系づけられた、したがって初めは武田流柔術と称したらしい。武田家滅亡のときにこの師範をしていた人が会津藩の指南番になった。公然と武田流を名乗るを遠慮して、自分の性が大東(久之助)というたのをとって大東流と改称したといわれている。藩主松平容保公はこの人から免許皆伝を受け、これを最高弟の武田惣左衛門に伝授し、さらにこの実子惣角に伝へられたというのが事実らしい。この惣角先生が、すなはち私の習った先生である、翁は昭和十八年八十二才の高令で逝去されたが、いまはその実子時宗氏がその宗家を継いでおられる。
昔の柔術は流派によって多少の差はあるが、みな関節の逆技、当て身、殺法を用いたものである。就中この大東流即ち武田流柔術はきわめて激しい柔術で、習得するにはなみたいていではないが、合理的に順を追って除々に練習してゆけば、なんらの危険なく上達できる、また体全体を合理的に運動鍛練するからまた理想的な健康運動ともなる。かくの如く護身術としても健康法としても、理想的な運動としておすすめできる。スポーツだから、武道に興味のある方、いな健康を保持されんとする凌霜人の各位はお気軽にお立寄り下されば幸甚です。激しい技ですから一般には公開しておりませんが凌霜人各位には無条件で開放いたします。
(神戸大学同窓会凌霜誌より転用)