琢磨会会報第48号





森  恕 『合気柔術は総伝に学べ』

 この五月の三日から、私が講師となって総伝講習会を行うことになった。琢磨会が総伝について講習会を正式に開くのはこれが初めてである。年内に参回くらいの開催を予定している。
 そこで、この機会に、総伝について説明をしておきたい。

@ 総伝とは何か
 「総伝」というのは、本来は、当時、武道家としては最高潮時にあった植芝盛平師と、円熟老成の境地にあった最晩年の武田惣角師が、昭和八年から十四年にかけて、相次いで夫々、大阪朝日新聞社で久琢磨師らに教授した技を、写真に撮って残した「総伝写真集」九巻を指しており、当初は、その写真集に登載された技だけを「総伝」或は「総伝技」と称していたのであるが、現在ではその写真集登載の有無にかかわらず、久師指導の技全部をそのように呼んでいる。

A 総伝写真集は、何故どのようにして作られたか
 この武術は、技数が極めて多く、しかもその一技一技の指導の時間が、稽古者がそれを体に覚え込ませるには余りにも短時間であるため、これをどのようにして記憶するかということが、昔から稽古者の最大の悩みであった。
 久師は、それを朝日新聞社の技術で、写真に撮って保存することで解決しようとした。 両師共に写真を嫌ったので、稽古が終わった後久師が風呂に案内し、師匠の背中を流しているうちに、他の弟子達が技を再現し、これを写真に撮るという方法をとった。
 これは、当時としては画期的な方法であって、これによって、写真枚数約千五百枚、九巻(冊)の解説付きアルバムに、合計五百四十七の技が、両師指導時のままの姿で記録保存されたのである。

B どういう記録保存の仕方か
 写真集には、座技・半座半立・立技・多人数捕といった、彼我の体勢による大まかな区分はあるものの、掛かり方、或は技の掛け方等での整理は行われておらず、初歩から上級へと、段階を踏んでゆくような整理の仕方もされてはいない。各巻共に、様々な掛かり方掛け方で、最初から高度な技が出てくるのである。
 しかも大東流の技は、全体的に精妙な手捌き・体捌き・足捌きで構成されているのであるが、写真集の各技は、それが、平均二枚、場合によれば、僅か一枚の写真で示されており、それに、極めて簡潔な解説が付されているだけであるから、高度な予備知識がなければ、この写真だけを手掛かりにして、往事の技を正確に復元し、それを使いこなせる程に理解することは甚だ困難である。
 特に、心機呼吸をはかって施す合気技は、技の核心になる心得自体が、全く写真には写しようがないものであるし、手捌きひとつを取り上げて見ても、外部からは絶対に見ることができない相手の掌中における微妙な動きが生命であるから、その点の難しさは尚更のことである。
 しかし琢磨会には、私を含め、直接久師から総伝技の指導を受けた者が残っており、その予備知識においては欠けるところがない。
 そういう意味では、この写真集に再び新しい生命を吹き込み、これらを甦らせ、十二分に生かすことができるのは琢磨会以外にはないのである。

C 総伝は大東流の総ての技の中でどのような位置にあるのか
 久師が、武田師から印可された免許皆伝証書には、皆伝をされた技について次のように書かれている。
 百十八ヶ条裏表
 合気の術裏表五十三ヶ条
 秘伝奥義三十六ヶ条裏表
 合気二刀流秘伝
 御信用之手八十四ヶ条上中下
 解釈総伝之事四百七十七
 皆伝之事八十八ヶ条
私は、総伝とはこの「解釈総伝」のことではないかと考えている。
 「解釈」という語義は、岩波の国語辞典によれば、「文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること、また、その理解したところを説明すること、その内容。」ということであり、これをそのまま、大東流に置き換えて意訳をすれば、「大東流の技の意味・術理・極意・等を、指導を受けた者が、理解したところを説明すること」ということになり、「総伝」とは、「総てを伝える」という意味であるから、これらを総合すれば、「解釈総伝」とは、大東流の技について、免許皆伝を受けた久師が、その術理や極意の総てを伝えるものという意味になるので、正に「総伝」は「解釈総伝」のことであると言わざるを得ないのである。
 従って総伝には、初伝から皆伝に至る総ての技について、その解釈が示されており、これを稽古して会得をすれば、大東流の技総てに通暁することができるのである。

D 総伝技の特色
 現在、琢磨会で稽古されている基本技は、皆伝証書記載の技名で言えば、「百十八ヶ条表」である。これは、手捌きは「掴み」・体捌きは「押し進み」であり、全体的に純然たる関節技である。大東流の技を、柔術と合気柔術に区分する考え方に従えば、柔術に該当する。
 従って、この技を駆使するためには、ある程度力が必要であり、相手の腕をシッカリと確実に掴み、そこに力を込めて、相手の体躯を遠隔操作しなければならない。
 そのためには、自分の身体の筋肉も緊張させる必要があり、手刀にしても、指先に力を入れて、腕全体を棒のように固めて使わなければならない。それだけに、この技を使っている術者の姿は、雄々しく、力強く、凛々しいものがあるのである。
 これに対し、総伝技は合気柔術に該当するものであって、手捌きは手刀若しくは手刀に近くなり、「掴み」は余り重視されない。体捌きも「押し引き」自在であり、全体的に合気技が多く、純然たる関節技は殆どない。関節技であっても、総て合気がかけられているのである。
 一番大きな違いは「力の使い方」で、総伝技を使う時は、原則として、不必要な力は総て抜かれており、自分の身体の筋肉も余り緊張させてはいない。このことには、合理的な理由があるのであるが、今は説明をしない。
 総伝技に於いて先ず大切なことは、呼吸と重心をはかることであって、筋肉を使う方はあくまで二義的存在なのである。
 そのため、総伝の合気技をかけられた時、なぜ、このようなことで倒されるのか、不思議に思うほど自分への加力を認識できないのである。
 従って、この技を使っている術者の姿は、あくまで自然であり、柔らかいのである。

E 基本技を学ぶ意義
 総伝が合気柔術であり、これを学べば大東流に通暁できるのであれば、わざわざ百十八ヶ条の基本技を学ぶ必要がないのではないかという考えが出てくるかも知れないが、それは大きな誤りである。
 学問にしても武術にしても、まず基礎から学ばなければ大成はできない。大東流の技の基礎は百十八ヶ条表であり、大東流の技はこれから始まるのである。
 相手の掴み方、押し方を知らなければ、掴まないで相手の身体を操作する方法はわからない。自分の身体について、力の入れ方、筋肉に緊張を持たせる方法を知らなければ、其れを抜く方法、それを緩める方法は学習できない。関節技の基本を会得していなければ、合気技の基本も理解はできない。これは単なる理屈ではなく、実際の話である。
 従って、まず百十八ヶ条を稽古して、手捌き・体捌きの基本を正確に身につけ、その上で、或はそれと平行させながら、この総伝を学ぶべきなのである。それが却って総伝会得の早道なのである。


久 琢磨 『大阪朝日に転勤』

 昭和七年六月、久野氏より大阪朝日庶務部長兼航空部次長に転任の話あり。翌日石井局長に面会、なるべく早く下阪して辰井常務に面会せよとのこと。早速下阪し辰井さんに面会したところ、庶務と航空の兼務で七月一日から転任せよとの話。有り難く承知して、さがり、その夜は神戸に泊まり、翌日は甲陽園で静養の上帰京した。印刷部では送別野球大会などあり、大阪の方が急ぐので、とりあえず単身赴任す。辰井重役から各重役、航空部などに紹介される。
 住居は辰井重役の御斡旋にて曾根崎の元「村山邸」を庶務部長の社宅として借用することになり家族一同、追いかけて八月に転居した。古びたりといえどもさすが村山邸で、広大な邸内にテニスコート、弓道場、柔剣道場あり。角力土俵も旧神戸高商の土俵を移転して設置した。池のそばには私の勤労でゴルフのパッチンググリーンまで設けた。個人の住宅としてはやや過分の嫌いはあったが、道場主として鎮座した。
 母は非常に喜んだが村山さんからお預かりした家であり庭であるから、大切にせねばならぬと朝晩、箒を手に清掃を怠らなかった。市場も近く佐喜、喜代らの小学校もすぐ近くにあり、社にも近く、誠に便利であった。私たちはこの年から昭和十五年庶務部長をやめるまで、足かけ九年居たわけで近所の人たちとも心安くなった。

  最初の中等学校野球大会
 名物の甲子園野球大会は朝日新聞としては年中行事催しものの第一で社をあげての大行事であった。この大会は、競技進行は運動部が主管し、その他の運営一切は庶務部長の管轄で、即ち運動部と庶務部の協力で運営していた。自然に東口君と私のコンビで運営したわけである。私も運動関係は良く心得ていたが、野球大会は最初の経験であったから、万事東口君の指導により、また庶務部長担当のことは弘末君らの働らきによって円滑に進めた。
 この頃、メインスタンドの指定席は郵便ハガキで申し込みを受け、これを抽籤によって選ばれた当選者に指定席券を売るのであって、この申し込みハガキ数がその年の野球大会の人気を表すバロメーターになったので、申込受付から毎日、社長初め重役から「今日は何枚だ」と尋ねられたものである。指定席わずか一万に対して多い時は百数十万枚もの申込みがあり、当選率は1%位であった。私が急いで東京から転任したのも一つにはこの大会の準備に間に合わせるためであった。この大会も何等の支障もなく盛会裡に終了してまず平穏であった。東口眞平君は東京高師出身で往年の長距離選手であったが、新聞社には珍しい人格者であったので、同じ運動選手であった私とは肝胆相照らして無二の親友となり、酒友となった。

  満州國建國祝賀飛行及び酒井・片桐機の遭難
 航空は朝日の一大事業であったので、組織上も他の局部に属せず、村山社長直属で、部長は村山長挙氏であった。航空事業の始めから庶務部がその運営に当たっていた関係で航空部が独立してからも次長として運営の責任を持つのは庶務部長で、航空部の次長を兼任した。私もこの慣習に従って次長となった。発令とともに東京駐在の河内飛行士が挨拶に来られて、大阪に赴任する前に東京の航空部諸君の歓迎を受け、立川の飛行場格納庫で歓迎式があり、王子の料亭で豪華な宴会があった。その翌日が学生航空聯盟の発會式で代々木練兵場で催されたので参加し、初めて河内君の飛行機に乗った。愉快であった。

 この頃は満州事変処理期でいよいよ満州国独立建国、九月十五日は建国式を挙行するので、日本からも各方面から参加した。航空部ではこの記念すべき光景の写真を空輸する計画と、社の祝賀使節を飛行機で送る計画を進めた。空輸の方は当時米国から精鋭機を購入していた大毎のロッキード機には、本社のプリモスでは到底競争に勝てぬので、多少冒険であるが新京から一直線に大阪に飛ぶ計画を立て、飛行士には酒井飛行士、機関士には訪欧飛行の経験もある片桐機関士を選んだ。

 一方祝賀使節は社の代表として下村海南副社長が行くことに内定。飛行機は三機編隊で操縦士には河内、新野、熊野の三名に決まった。然し下村先生の搭乗にはご家庭内部で憂慮の声もあり、社内にも自重論が出て発表直前にやめることになった。この代わりを誰にするかに就いて社内でも議論が出たが結局、庶務部長の私が選ばれた。万事順調に行けば問題はなかったのだが、計らずも、先発の酒井機が日本海に沈没する大事件が起きたため、社内は大混乱になった。この悲報をわれわれは京城で受けた。私たちは京城に一時留まって、祝賀飛行を続けるべきか、引き返して遭難機の捜索に当たるべきか、大阪本社の指令を待った。河内、新野、熊野、三君とも親友酒井、片桐の為には捜索救助に向かいたきは勿論であるが、祝賀使節という、いわば公用を私情のため投げうつことも出来ず、ただ大阪本社の指令を待った。大阪からは祝賀飛行は完遂し、使命を終えてから捜索に当たれと指令が来たので、われわれは予定通り京城から新京へ飛んだ。新京では皇帝に伺候して、祝辞を述べ、記念撮影をなし、茶菓の饗応を受け、任務を完了した。翌早朝から三機は出発し京城に到着。ここを拠点に捜索を始めた。私は河内機に搭乗して、北朝鮮の海上、海岸を捜索したが、手がかりはなく、翌々日は三機で朝鮮海峡を捜索しながら渡り、山口県、島根県、鳥取県と日本海側を廻って岡山練兵場に着陸した。ここから汽車で大阪へ直行し、大阪の捜索本部で経過を報告した。私が捜索本部で語りあっている所へ鳥取支局から「青谷町の海上に飛行機らしき浮流物あり」との情報があり、私と近藤通君が急行した。青谷町に着いてみると、どうもデマらしいとの事。日の明るい間にボートを出して海上を捜索してみたところ、浮流物、飛行機と誤ったのはどうもシーラの集魚のために設けてある竹筏であったらしい。私はこのことを本社に報告して、連日の疲れを休めるために青谷温泉の煙草屋という旅館に入った。そのとき鳥取支局から、八橋町の浜に飛行機の破片が上がったとのことで、とるものもとりあえずまたまた八橋町に急行して中井旅館に入った。先着の通信部堀野氏が居て報告を受け、近藤通君が鑑定したところ正しくプリモス機の破片であった。これを本社に報告して十二時頃、就寝した。しかるに私は上げる、下げるの大腹痛を起こした。七、八回繰り返しているうちに、手足がエビの如く痙攣し、四十度の熱が出た。堀野、近藤君が力に任せて手足の屈折を延ばさんとするが及ばず、私は骨が折れてしまうかと思う苦痛を覚えた。「これコレラだ。俺は死ぬ」と思った。コレラで死んでは旅館に迷惑をかける、と咄嗟に考え、宿のおかみさんに「迷惑をかけては済まんから避病院へほうりこんでくれ。とにかく梅酢を沢山のませてくれ」と頼んで梅酢を一合ばかり飲んだ。このおかみさんが非常に良い人で「あなたの命にはかえられません。心配せず、がんばって下さい。」と言ってくれた。私は二、三日意識を失っていた。ふ気がついてみるとそばに姉が居て「気がつきましたか」とのこと。全く絶望視され、大阪本社では「酒井、片桐両君ばかりか久君も死んだ。」と言われたらしい。この絶望の域から私は蘇生した。子供の時から聞かされた「コレラの時は梅酢を多く飲むこと」を咄嗟に思い出して多量に飲んだことも効果があったのかと思う。「心臓が異常に強かったのでたすかった。原因は魚のプトマイン中毒だ。」と医師は言ったが、シーラを集めるために用意したスルメイカが腐りかけていて、これが当たったかと思う。
 宿には大阪本社から捜索応援のため多数社員が来ており、私は足を引きずって捜索会議に出た。とめる姉を振りきって船に乗り捜索に乗り出した。船を傭って、底引き網を引っ張り、飛行機を網でとらんするのである。この作業が二週間も続けられたが結果は何も得られなかった。しかし最初に拾った物はたしかにプリモス機のものであったので、八橋警察署で遭難死亡を確認した。私は約一ヶ月この八橋町に滞在し、一ヶ月ぶりに帰阪した。斃れかかったのは私ばかりではない、新野君もチブスで阪大病院へ送られ、河内君も入院した。この事件の前後に古い社員は退め、私は河内君を次長とし、多難の航空部の再建に着手した。
 新聞社が記事、並びに写真の空輸で航空機に依るところはすこぶる大きい。また航空機を国産でという要請にも応じねばならぬ。後日朝日の主催でロンドンへ飛んだ『神風号』が国産機として世界の檜舞台に登場するまでもう少し待たねばならなかったのである。