琢磨会会報第47号





森 恕 『同時打ち』

 久琢磨先生から武田惣角直伝の合気二刀流を教えて頂いた。
 先生が大阪の埼玉銀行ビルにあった関西合気道倶楽部の道場を畳んで、お住居を東京に移される直前のことである。
 総伝写真集をはじめ、道場に置かれていた英名録・書籍・写真・書簡等、武道関係の資料一切を私がお預かりすることになり、その整理のために伺っていた頃であった。
 合気二刀流そのものについては、その何年か前に、木刀を使って幾つかの形を教えて頂いたことがあるが、そのときは、それを合気柔術に応用したときの形を教えて頂いた。
 その形では、徒手の両小手を二刀に見立てそれを使った千変万化の攻守の方法を示して頂きながらその説明を受けたのであるが、そのときの久先生のお話の中で、一番深く記憶に残ったのが「同時打ち」に関することである。
 久先生は、先生の動きを真似る私の両小手の動きにズレが生じたとき、それでは駄目だと制止して、更に次のように言われた。
 「武田先生は、両小手の動きについて、交互に打つのは芸者の太鼓、大東流は二刀同時打ち、と言われていた」
 このお話の中の「交互に打つのは芸者の太鼓」というところが面白く、今でも鮮明に覚えている。
 具体的にいうと、例えば剣の場合、二刀を振るって相手に切りつけるときは、真っ向・袈裟・横胴、いずれのときも、二刀を揃え持って一呼吸で切りつける。仮に一刀で相手の攻撃を打ち払い、もう一刀で相手を攻撃するようなときでも、その打ち払いと攻撃は一呼吸で同時に行われるのである。
 例えば、「両手捕りの各種合気投げ」を想起すればわかるように、相手に捕られた両小手を伸ばして投げる瞬間の形は、二刀を揃え持って切りつけるのと同じであるし、「総伝の一本捕り」のように、相手の正面打ちを、一方の手で手刀受けをして、もう一方の手で当て身を入れる場合、或は「横面打ち合気投げ」のように、一方の手刀で横面を打ってくる相手の手を払い受けし、もう一方の手刀で相手の首を打つ場合などは、こちらの両小手が、「相手の攻撃を防ぐ働きと相手を攻撃する働き」を同時に行っているところが、二刀で「打ち払いと攻撃」を同時に行うのと同じである。
 久先生のこの「同時打ち」の教えのポイントは、両小手を伸ばして、同じ方向に合気投げをする場合は当然のことであるが、両小手が、同時に攻・守二つの目的に使用されるときにも、これを、一、二と、二段階二呼吸に分けてやるのではなく、すっと、同時に、一呼吸でやれ、というところにある。
 私は最近まで、このことについては、「交互に打つのは芸者の太鼓」という言葉の面白さだけに惹かれていたのであるが、総伝研究会で、改めてこの二刀同時打ちの教えを見直したとき、私はあのとき、久先生から、折角合気の真髄に触れる大変大事なことを教えて頂いていながら、全く気がついていなかったのではないかと思い始めているのである。


久琢磨 『朝日新聞(東京)時代2』

 社内ではこういう風に左翼の跋扈に対して警戒しているにかかわらず、この頃の一般世間では「朝日は自由主義を脱して赤い」と非難され、往々にして右翼団体から威嚇され暴行された。私が入社した頃(昭和初年)が丁度、第一回の普通選挙で選挙権の大拡張の時である。自由党は強権と金権にまかせてやや専横であったので、各新聞社は共同戦線を張って「政府の買収に応ずるな」などの赤刷を毎日の紙上に特筆して民権の拡張に努めた。私はこの時ほど新聞人の自由、特権、第三帝国ぶりを感じたことはなかった。むしろ痛快に思った。自由党も右翼も、なにかの欠点をとらえて朝日に痛棒を食わさんと虎視眈々であった。この時、「久の宮事件」が起きた。活字のミスで、読みようによっては不敬と考えられる久の宮事件である。紙面では釈明し事なきを得たが右翼がこんな絶好の機会を見逃す訳はない。日比谷公会堂で朝日攻撃大会を開いてその勢いでは必ず朝日に対し暴力を加え輪転機に砂をぶちこむぞとおどした。
 石井さんから「久君、責任者となって防衛してくれ」と頼まれ全権を任された。私は命をかけて守る覚悟で弟分の堀部猪一君に「ちょっとピストル一丁貸してんか」と電話すると飛んで来た。訳を話すと「兄貴が危険な時に俺が傍観できるかえ」と力んだ。彼の背後には暴力団が居た。彼の指令で日本刀、パチンコなど武器を持って集まってもの十四、五名。私は困惑したが決心して彼等を地下室に潜伏させ、万一の襲撃に備えた。常識で考えれば警察がまもってくれるべきなのだろうが、警察は時の政府を怖れて動かない。院外団の暴力団はあばれ放題であった。私はこのほかに電気課に頼んで社の内外に警戒の赤電線をはりめぐらし、いかにも強電が流れてさわれば死ぬと宣伝した。さすがの院外団も面食らったらしい。いたずらに酒を呑んで示威運動をするばかりであった。ある夜、この一団が勢いこんで乗りこんで来たので私が応対して「若しあくまで暴力で押し込まんとするのならこの俺の死骸をのりこえてゆけ」とタンカを切ってやったら、その勢いに押されてすごすご引き上げて行った。こうして彼等の示威運動はまずたいしたことなく解決した。
 私が勝手に社内に暴力団を(万一の時の援軍として)引き入れたことで編集局から非難の声が上がり、彼等への礼金を払うのには苦労した。
 自習会のこと 朝日に入社して第一に考えたことは向学心に燃える少年に教育の機会を与えることだった。給仕や発送係は勤務に応じて夜間または昼間の学校に通学したが、工場の子は時間の関係から通学できない。私は久野さんの許しを貰ってこの子たちに授業することを思いたち、早朝一時間ずつ、科目は国語、社会、英語で教科書は自分たちで印刷して作った。講師も社内の有志にお願いした。これら少年工はみんな優秀な連中だったので非常に成績を上げた。私は学問ばかりでなくこの連中を一団とした野球チームを作り、芝浦で練習した。品川の家からかつげるだけの握りめしを持っていって配った。また、夏は鎌倉や逗子などに海水浴に行く。野球はむしろこの子たちから私が教わった。市内版を刷り終えてから発送の車にネットを積んで、芝浦へ乗りこみ、運動の場所をきめるのだが、他社とかちあってトラブルを起こしたこともある。屋外で、元気いっぱい遊ぶ子供たちを見るのは楽しかった。