八月六日・七日の二日間、フィンランドのヘルシンキで、当地支部のプログラムに従いデモンストレーションとセミナーを行った。
その模様の詳細は、同行の通訳をして頂いた天津師範に書いて頂けると思うので、私はセミナーのテーマであった「関節技と合気技の違い」について述べてみたい。
このテーマは、ヘルシンキ支部の希望であって、私の指定ではない。
セミナー一日目の冒頭に、私は次のように説明をした。
関節技は、こちらが相手の身体(特に上肢の関節部分)を掴み、関節部分に力を加えることによって、相手に苦痛を与え、相手がその苦痛から逃れようとして動く、その動きを利用して、身体操作を行う技術である。
これに対し、合気技とは、相手にこちらの身体(特に手首)を掴ませ、その掴みを利用して相手の身体操作を行う技術である。
従って、関節技はこちらから相手の身体を掴んでゆき、技をかけるのに対し、合気技はこちらからは相手の身体を掴まず、相手の掴みを利用して技をかけるのであって、関節・合気の両技は、身体操作に、彼我何れの掴みを利用するかという点に大きな違いがある。
そして、セミナーの参加者には、この点を具体的に理解して貰うために、一日目には、小手返し・二ヶ条呼吸絞め・四方投げの三技を選び、夫々の技を関節技と合気技に演じ分けて稽古して貰い、二日目には、三ヶ条の逆の各種取り方と、総伝(惟神之武道)の合気技を教授した。
一般的に、関節技を行う際、関節部に加える力は、屈曲・伸展・捻転の三法であり、加力によって現実に相手に苦痛を与えるので、この関節技の原理は、比較的理解し易いのであるが、合気技の場合、技が上級になる程、相手に加えるものは力ではなく、与えるものは苦痛でもない。強いて言えば、苦痛を予感させる微かな刺激であり、大抵の場合、殆ど現実には大きな苦痛は与えていないので、何故これで体が動くのか、なぜこの程度のことで体が倒れるのか、中々理解することが難しいのが実情である。
しかも、合気技のかけ方には、説明が難しい微妙な要領があって、それを完全に理解し会得することは並大抵のことではない。
例えば、合気四方投げや半座半立ちの片手捕合気投げ(背後を爪先で歩かせて前に投げる技)などは、どちらの技も、指先に力を入れた状態で相手に手首を捕らせるのであるが、相手がその手首を捕った瞬間、すっと力を抜いて、引き入れられるように相手が手首を握り締めるのを待って技をかける。
このあたりの呼吸は、そう簡単には会得できない。
特に、肘や手首の内側に、そっと指先で触れるだけで倒す合気技などは、全く説明ができない技である。
ヘルシンキの人達も、最初は大分まごついていたようであるが、稽古を重ねて、セミナーの終わるころには、何とか形になっていた人達も少なくはなかった。
その真剣で熱心な稽古態度には学ぶべきところが多く、日本の会員諸氏の大いなる奮起を期待するものである。
商売人、殊に貿易という華やかな仕事から百八十度転回して新聞社という異なった社会にとびこんだ私は、その世界と生活の激変に少なからず面喰らった。石井(光次郎)さんは印刷局長も兼任していたが、「新聞社で一番警戒せねばらぬことは従業員のストライキである。これには二、三年前、ゼネラルストライキで各社とも大打撃を蒙った。その余塵はまだ各社の工場内にくすぶっている。この朝日新聞にも相当潜伏していると思う。この連中を指導して正道を歩ませるのが君の責務である。君の腕を信頼して、私から特にこの仕事の適役として君に入社して貰った。その積もりで、当分は仕事をしなくてもよろしいから、工場の現場に入り込んで連中と起居をともにし、早く親しくなって貰いたい。裏の広場に土俵でも築いて角力でも教えてやってくれ」とのことであった。石井局長は大使命だけ言いわたしたが、現実は仲々そんな甘いものではなかった。最初に与えられたのは活字改正の大仕事。毎日、拡大鏡と取り組んでこまかい神経をつかう仕事であった。そしてむろんこれは許りに没頭することはできない。従業員の人事一切を切り廻わし、その上で編集、印刷、営業を結ぶ連絡網を動かす。そのためには連日、夜勤である。夜勤といっても夜ばかりでなく、正午に出勤して人事その他の仕事を見、夕方から深夜市内版を刷り終わるまでの連絡、進行の責任を持つのであって、これは中々に骨の折れる仕事であった。印刷部長の久野八十吉氏、技術部長の江崎達夫氏、庶務部の宮崎老人、みんな良い人で私もすぐなじんでいった。
共産党追放のこと
ゼネストのあと始末ののちも、人員整理から洩れ残った分子が相当多数、工場に居た。久野さんの話では党員であると判って居ても知らぬ顔にて残し、彼等の言動に注意して一般の傾向を知る囮にしているとのこと。その氏名も次第にわかって来た。この連中は例外なく勤務成績は上々で非の打ちどころなく、人物としても立派である。彼等の活動は暗々裡に続けられている。天皇制反対、反資本主義、反帝国主義の過激な赤ビア、黄ビラが工場内外にまかれ、貼られる。誰のしわざか、まったくわからない。私はそれらの行動には余り神経を使わず、一般に共産主義、無政府主義、日本フラクションの組織と活動の勉強を始めた。私の本棚は突然赤化して来た。マルクス理論も読んでみたが、当時の日本でマルクスを現実にあてはめて考えるのは難しい。
私は自分の力で出来るかぎり若い工員諸君の面倒をみようと思い、それは工員の家庭にまで及んだので、若い子たちが私の家に出入りするようになった。このなかにY君という青年が居た。「久さんが余り親切にしてくれるので、秘密でやってることが苦しくなった」と泣いて内幕をうち明けた。共産党のフラクションであった。丁度この頃、私は第二次演習で善通寺師団へ一ヶ月ばかり入隊することになったので、この機会にレッドパージを断行せんと決意してひそかに調査書を作成し、人名簿を作った。工員、給仕、エレベーターボーイ、発送係など、七十余名であった。この大整理を久野さんに頼んだ。大騒動になったが整理は断行され、印刷局は手ぎわよく運んだが、発送課の課長は彼等のためにカンヅメにされ、ひどい目に会った。あとで堀川氏はずいぶん私に文句を言った。自分の不行き届きを認めるが、「僕に何にも知らせてくれないのはひどいじゃないか。」彼はカンカンになって憤慨して居た。然し事前に相談できることではなかった。
アナーキストの堀田君は「久さんは余り親切なので困った。職務のためか、真から親切なのか、疑っていたので、一緒にビールを飲めなかったが、最後に一杯、飲みましょう」とのことで、さるおでん屋で彼と痛飲し、敵味方は袂をわかった。私は主義のためとは言え、まじめな彼等をクビにしたことに対する後味のわるさは終生消えなかった。
追記=これは琢磨会々報に書いたかもしれませんが、この話から四、五年あとで、私たちの母が、三十三才の若さで脳溢血に倒れたとき、父は(合理主義者の父が)ヤラレタ!と、彼にしては珍しく因果応報を感じた。母が歿るまで十年、父は病身の母をそれは大事にしました。