琢磨会会報45号





森 恕 『掌底の呪縛』

 居捕りの「両手捕り合気投げ」は、膝上に置いたこちらの両手首を、相手が、半ば体重をかけながら、上から、掴み抑えたところから始められる。
 この技は、「朝顔」の口伝を使うもので、こちらは、掴み抑えられた両手首を、掴まれた状態のまま、指先を上にして、小手全体を立てるように持ち上げ、こちらの手甲で相手の手首の内側を少し巻き、朝顔の花が開くような形で指先を開くのである。
 このようにされた時の相手は、こちらの両手首を掴みながら、腕全体が立てられた状態になっており、しかも、掴んだ自分の手首が内側に曲がり、腕も肘のところで少し曲げられ、両肩をそびやかした形で、体を持ち上げられている。
 この時相手は、両手を離すこともできず、さりとて、こちらの手首を制圧することもできず、こちらに誘導されるままに、投げ、或は倒されるのである。
 このときに、こちらが使う合気の秘伝が、「母指丘」の刺激であることは、前号の会報で既に述べた通りである。
 この技を行うとき、皆を均しく悩ませるのが「掌底の呪縛」である。この呪縛から逃れることができなければ、「朝顔」の口伝も「母指丘」の秘伝も役には立たない。もっとハッキリ言えば、「掌底の呪縛」を克服できなければ「両手捕り合気投げ」の技は始められないのである。今回はそれを説明したい。
 よく注意をすればわかることであるが、相手が、膝上のこちらの手首を体重をかけて抑えつけているときは、掌の中でも特に掌底部分を使っている。そのために、こちらの手首は、その手甲を相手の掌底でギシリと抑えこまれて動きがとれなくなっている。それが、まるで、相手が掌底でこちらの手甲を呪縛している(まじないをかけて動けないように縛りつけている)ようにみえるので、その状態を「掌底の呪縛」と表現しているのである。
 このような呪縛に陥った時、大抵の人は、自分の手甲の中心部を相手の掌底の下から母指丘側にずらすことによって、手甲をその呪縛から解放しようとし、抑えられた手首を、膝上で内側に回そうとする。横から見ていると、肩を落とし、身をよじるようにしながら手首を回し、それでも巧く行かないで悩んでいる様子がよくわかるのである。
 しかし、そのようにしても、相手の掌底は抑えた状態のまま、こちらの手首の動きについてくるので、結局その呪縛から逃れることができない。従って、このやり方では根本的な解決方法にはならない。
 要は、こちらの手甲の中心部を、相手の掌底から母指丘側にずらすことができれば良いのであるが、それがそう簡単ではない。自分の手甲は、相手の掌と自分の膝との間に挟まれ、強い力でサンドウイッチ状態になっているため、自分の手甲だけをずらすという動きが難しいからである。
 解決方法はただ一つ、掌を自分の膝から離し、親指側から掌を上に返すというやり方しかないのであるが、これには、更に次の二つの方法がある。その一つは、抑えられた手首を自分の膝の側面まで滑らせて、相手と自分の掌が横向きになり、そこで掌底の呪縛が緩む瞬間を利用する方法であり、もう一つは、そこまではせずに、元々掌底以外の場所は、それ程相手の抑える力が強くはないので、掌中の抑えの緩いところを見定め、そこを予想外のやりかたで攻め、掌を返す方法である。前者の方法は分かりやすいし、成功率も高いのであるが、後者の方法は合気の真髄に触れるところがあるためか、その理解と会得は容易ではない。
 私も本稿では、敢えてその具体的な説明は控え、ただ、相手の掌の内「小指丘」と「指先」に注意を求めるに止どめておきたい。


久琢磨 『余生を合気道と大東流合気柔術のために』

 私は昭和二年春、神戸鈴木商店の破綻整理に合った。友人の多くは高畑さんについて鈴木に残ったが、私は御大金子直吉翁に殉じ、劈頭第一に退社を決意、鈴木を退めた。
 幸いに尊敬する石井光次郎先輩のお引き立てを受け、東京朝日新聞に入社、印刷局庶務課長になり、工場従業員の勤労厚生部門を担当した。昭和三年三月、皇室の久の宮内親王殿下ご薨去に際し、校正係のミスで皇室記事筆禍事件となった。政友会の院外団と右翼が本社に押しかけ、短銃で守衛をおどして工場に乱入、輪転機に金剛砂をふりかけて印刷を妨害するさわぎとなった。私は石井局長の特命で庶務部長に替わって防衛につとめた。
 大阪朝日でも政友会や右翼の力をもっての脅しには手を焼いていたらしい。昭和七年春、永年勤めていた野田庶務部長が定年退社すると、弱冠三十二才の私に後任の大役がまわってきた。
 当時、朝日新聞では、航空部長は村山さんが重役のまま兼任し、実務は庶務部長が航空部次長を兼任していたので、私も庶務部長兼航空部次長に任命された。
 早速七月から始まる全日本中学校優勝野球大会の運営があった。着任してすぐ、忙しい日が始まった。幸い私は学生のころ、毎日新聞社主催の学生相撲大会の実務をやった経験があり、野球大会の方は多少の自信があったが、同じ年の秋に催された全日本学生航空大会の方は困った。飛行機など、一度も乗ったことはなく、常識が全くゼロなので、さっそく河内、新野というベテランの飛行士や飯沼、長友ら新進の諸君について飛行機について学ぶ。操縦の練習を始めた。
 こんなに忙しい最中でも、寸暇を縫って自分の体力を養うため、得意の相撲や柔道などの練習は怠らなかった。石井さんから紹介され、すすめられて植芝守平先生にあい、先生について合気術という、関節の逆極め技を特長とする、柔術の勉強と鍛錬につとめた。何事にも熱中する性質の私は植芝先生とその門弟一行を自宅に迎え、寝食を共にして修練につとめるという熱中ぶりであった。
 単に自分と朝日の有志(守衛さんを含む)が修練するにとどまらず、この秘伝を記録にして後世に残すことを思いたち、その技を一つ一つ写真にうつして技法の解説をつけることを始めた。また、この秘術を映画に撮って残しておきたいと思い、朝日の写真部に頼んで、私が監督をつとめてフィルムを完成した。
 その後、いろんなことがあって、実は私自身こんな映画を撮ったことも、そのフィルムがどこかに残っていることも、すっかり忘れていたが、最近(昭和五十四年三月)アメリカ人の篤志家、スタンレー・プラニンという人が植芝合気道のことをいろいろ調べていてこのフィルムを発見し、私のところで映写して見せてくれた。劈頭に『朝日新聞社撮影、監督久琢磨』の文字が現れた時の驚き。やがて映画に現れた若き日の自分の姿に呆然とし、並んで映画を見た植芝道場の生き残りの高弟の一人、米川君と互いに「若いなァー」「あんたこそ」と老爺二人がクツクツ笑いを止めえず、すっかりタイムマシンに乗った思いであった。

 その後、私はこの道の真の創始者である武田惣角先生にめぐりあい、先生の晩年の弟子の一人として秘伝大東流合気柔術の免許皆伝を授けられる光栄に浴した。
 私はこの植芝、武田両先生の門外不出の奥義を写真に撮り、整理し、、初伝・中伝・奥伝・秘伝と分類し、さらに全体を通じて平均化して新しく第一巻から第九巻までに分け、「大東流合気柔術秘伝・九巻」とし、別に警察官の捕技に適した技をえらんだ「捕技秘伝」、女性の護身術としての技をえらんだ「女子武道」をあわせ、計十一巻をまとめ、完成した。
 話はだいぶ飛ぶが昨年秋、文部省や日本武道館、日本古武道振興会の依嘱を受けて、この大東流合気柔術を映画に撮って残すことになり、演武者としては朝日新聞、大阪瓦斯、その他の団体が参加し、秘伝技法約六百、総数二千四百余の手数の中から三十手をえらんで演武し、テレビ朝日のカメラで完成した。
 機会あれば合気道習得を志す修業中の皆さんにもこの二つの映画はぜひ見て頂きたい。