琢磨会会報44号





森 恕 『合気は母指丘にあり』

合気とは、相手の無意識の(本能的な)動きを誘い出す技術である。
従って、この技術を使って倒されると、倒された本人は、全く無意識に動いて倒れているために、どこをどのようにされたのか、又どのように倒れたのか、よく分からないのが通常である。
 この技術の特質は、柔道の技と大東流の技を対比させてみるとよくわかる。
 柔道は、上肢(腕)の屈筋の力を使って相手の上半身を引き寄せ、同時に相手の下半身を足腰で払うという形で、二点二方向に働く偶力(方向反対で大きさが等しい一対の力)を用い、相手の体を回転させて倒すのであるが、大東流では、伸筋を使って上肢を延ばし相手の身体部分、特に手の或部分に、一点一方向の誘いの刺激を加え(合気をかけるという)、相手の無意識の動きを引き出して倒すのである。
 このように、両者の技は「人を倒す」という目的では、同じであるが、倒すために用いる原理は全く違うのである。
 つまり、柔道の技は人体・物体全般に通ずる物理的原理に着目して組み立てられているのであるが、大東流の技、中でも合気技は、人間の生理的・心理的原理に強く注目して工夫されているのである。
 従って、大東流の技を行うについて要求されているのは、相手の身体の、どの一点をどの方向に刺激をすればよいか、相手の無意識の動きを誘い出すためには、どのようにすればよいのか、など、いわば、大東流特有の、合気をかけて行う身体操作上の要領に関する知識或いは心得であって、上肢の力ではない。
  技を力で解決しようとすれば、それは、もはや大東流の技ではないのである。
 然も、その要領についても、一見単純・簡単に見える技ほど、精妙・微妙なコツがあって、それらを理解し会得することは容易なことではない。
 その代表的な技が居捕りの「合気上げ」である。
 この技は、相手から両手首を取られ、それを強く膝上に押しつけられた状態から掛け始め、決して手解きをせず、取られた儘の両手を操作して、相手を浮かすように持ち上げて倒す技である。
 肘伸ばしはしないので、相手の両腕はわずかに曲がっているのが特徴である。
 定石通り、見かけは簡単であるが難しい技である。琢磨会では、しっかりと持たせてから技をかけるように指導しているのでなおさら難しく感じられるのである。
 然し、この技ができるようになれば、手取り合気技全般に関する理解が飛躍的に深まり格段の進歩が見られるので、各道場とも熱心に稽古しているはずである。
 この技の難しさは、相手に強く握り締められて、動きが極度に不自由になっているこちらの手を使って、相手の手掌のどの一点を刺激すればよいのか、その刺激点発見の難しさに尽きる。
 本当は、その発見を目指して、会員各自が努力と稽古を重ねて欲しいのであるが、敢えてここで解答を先に示せば、それは相手の手掌の「母指丘」なのである。
 意外に思われるかも知れないが、技をかけるときによく注意をして観察すれば、合点がゆく筈である。
 大東流には、小手を攻めるものが特別に多い。正に「技は小手にあり」といっても過言ではない。
 人は、小手を攻められると、その小手を攻撃から守り、・助けるために、本能的に、体躯のことを忘れる程の無意識の動きをする。
 合気は、そのような動きを誘い出し、利用する技術であり、大東流はその合気を技の心柱としているので小手に技が集中するのである。然も、小手の中でも手首に関する技が特に多いのもそのためである。
 手掌の中の母指丘は、手首に次いで合気をかけやすいポイントであり、そのことを心得て技をかければ、合気上げも容易である。
 但し、、ポイントはわかったとしても、そこに合気をかけるためには、どのように自分の手を操作すればよいのか、その問題の方が寧ろ難しいかもわからない。
 膝の上に強く押しつけられている自分の手甲を、どのように動かして相手の手掌の母指丘に合気をかけるのか、力を使わないで、相手の腕だけでなく、その腕の先にある相手の体躯までを持ち上げるには、自分の手をどのように操作すれば良いのか、これからの難問の解答は、次の機会に譲りたい。


久琢磨 『朝日新聞(東京)に入社』

 昭和二年三月、鈴木商店が倒産した。私は職を失なう同僚や後輩のために東京朝日の石井光次郎先輩に就職のお願い状を出した。すぐにはなにも反応はなかったが、五月頃か、上京されたしと電報がはいり駆けつけた。石井さんと会って面談のすえ、私一人が東京朝日に採用されることになる。慌ただしく荷をまとめ、母と妻と娘を連れて東京へ 品川区南品川青物横丁の朝日新聞社社宅に入居した。職場は印刷局庶務主任。全く未知の分野でまた一からの出直しである。
 なぜ私が呼ばれたのか。私は何をすればよいのか。その答はすぐわかった。大上段にふりかぶって云えば、それは言論の府、朝日新聞をとりまく内外の敵と戦うこと。もっとわかり易く云えば新聞社に押し寄せる右翼と戦い、新聞社をねらう左翼と戦うことだった。こう言えば読者にわかっていただけるだろうか。いや実感としてはわかるまい。わからなくても、まあ聞いて下さい。
 その対策として、先ずは新聞社に押し寄せる右翼と戦うこと。彼等はトウキョウアサヒをアカの巣窟ときめてかかって、些細な紙面のミスをタネに脅しをかける。のちミス予防の工夫もいろいろ講じたが詳述は避ける。人数をたのんで社の玄関に押し寄せ、怒号する彼等にカンシャク玉をしかけ、その音と光で驚かせ、敵を文字通り煙に巻いたこともある。ドンパチの音は右翼の勢いをいっときビビらせたかと思うがそのさわぎのなんと子供じみていたことが。
 一方、左翼の方はより深酷だ。私の見聞は主に印刷局だが、彼らはキチンと仕事をし、礼儀正しく、成績も優秀で、仲間の信頼も厚い。いったい誰がいうところの左翼なのか、私には皆目見当がつかなぬ。しかも彼らはみな同じ朝日の従業員、いわば身内である。これには困った。石井さんはこういうことをさせるためにあえて私を採用したのか。だんだんわかって来た。
 さわぎと言っても誰も居なかった筈の工場や廊下、手洗場に、ある朝突然、スローガンを刷ったビラが貼られた、といったようなことだ。印刷工場には外から人はめったに入らない。これは内部のもののしわざだろう。いったい誰が指示を出し、誰が実行しているのか。これには困った。皆目私には見当がつかない。

 私は覚悟をきめて持久戦でゆくことにした。先ずはみんなに心を開かせること。それには子供がいちばんである。当時、新聞社で「こどもさーん」と呼ばれる少年工の殆どは小学校を出ただけで工場にやって来る。家が貧しくて働かねばならぬ苦境なのだ。だが新聞社に来るほどの子はみな優秀で、しかも毎日、仕事として記事を読むから博識で大人びている。一方ではまだ遊びたい、学校にゆきたい年頃なのに。彼等に昼間の外の空気を吸わせてやりたい。そう考えて休日にかれらを近くの公園や私の自宅にさそい、すもうをとったりドッジボール、野球で遊んだ。外で遊ぶのが嫌いでしりごみする子も友達にさそって貰った。  子供たちだけでも、左翼から守ってやりたい。  私は本気でそう考えていた。まだ何もわからぬうちから使い走りをさせられて、罪を犯させたくないと私は思っていた。

(後記)父の日記から私が補充して書き上げました。父は死ぬまでこのことを誰にも云いませんでしたが、首のリストは父が作って大阪朝日へ転勤したのだろうと思います。実行は他の人  多分もっと上級の人がやったのでしょう。父が大阪朝日へ転勤する前に、
「久さんはあんまり親切だったから、気味が悪くて、さそわれても一緒に飲めなかった。もう誰にも気兼ねはないから、さあ、一緒に酒もいっぱい飲みましょう。」と言った人が居た、という話を父から聞いた記憶があります。この話から三年ほど経って私たちの母は三十二才の若さで脳溢血で倒れて、敗戦の年、疎開先の郷里でひっそりなくなりました。母がたおれた時、父は珍しく「やられた!!」と自分の所業がまねいた因果を感じた節があります。(依田きよ子記)