兵隊から帰ってみると世界は激変していた。さしもの欧州大戦も休戦、終戦となったので戦争で巨利を博し、また博すべく、拡張に拡張を重ね風船玉の様に張りきった日本の経済界、貿易界、工業界には一転して大破綻が来た。帰って来て私の打った電報は
バンジキュウス」スベテノケイヤクヲハキスル
の繰り返しである。ニューヨーク支局からは
ケイヤクハキハフカノウ」ソンシツハカリエズ
とか何とか反駁して来るが致し方がない。方々で倒産、破産する者が出て来る。商社、工場で人員整理が始まる。全く一昔前のブームの時代に比べると天地雲泥の差であった。この中にあって鈴木商店は善処し、さすが天下の鈴木だ。微動だにせぬと称賛され、私どもも鈴木は絶対不倒の大木だと信じきっていた。この頃、久しくロンドンに駐在していた高畑氏が帰国した。高畑さんの発言権強くなって来るに従って社内の空気が二流に動揺して来た。これが破綻(はたん)の本であった。昭和元年頃、スタンプ手形の増加につれて鈴木を倒せという運動が三井を主とする大手筋から起こった。井上蔵相、森台銀頭取らが一味となり、金子氏に反対する高畑一党の抱きこみとなり、彼らの協力によって社内で金子排斥となった。金子さえ追い出したら、鈴木は政府の力で救済する、と断言して若い連中を安心させ、無理矢理に金子さんを退陣させておいて、その直後にバッサリと倒して終わった。高畑らが「さては一杯くわされた」と後悔しても、もはや六菖十菊で取り返しがつかない。
昭和二年三月十七日、遂に不倒を唱われた大貿易商、鈴木商店も一陣の風邪に木の葉の散るごとく滅亡した。
これより前、社員大会で金子氏を勇退せしむべきか否かを論じた時、私は若手連中が一言も発言せぬことをいぶかりながら、金子氏に対する尊敬をこめて大声叱咤して、
「鈴木の金子か、金子の鈴木か、蓋し両者は不可分である。その何れを欠いても双方とも滅亡する。このままにして鈴木も金子も生きるんだ」と反対論を約一時間やった。私の発言でとにかく留任勧誘委員を選出することになったが、この芝居の舞台裏の一幕を私は知らなかった。私が奮慨して帰るとT君から「君は神高同志の計画を知らんのか。金子を追い出して神戸高商閥で新式の経営をやるんだよ。反対したらあかんがな」と言われて、「そんな計画があるならなぜ僕にも知らせてくれんのだ」ととぼけておいたが、首脳部は私が金子方であることを承知で知らせて来なかったのである。彼等の同志ではないのであった。この夜、私は(舎弟分の様な)田中を公園に呼び出して意見を聞いたところ「おんちゃんは古い。もう金子の親父も引退してよい潮時だ。私は高畑さんを信頼する」とはっきり言うので唖然とした。若し彼が賛同したら私は若い連中で団結してあくまで金子さんを守るつもりであったが、親子の関係にある田中でさえ離反して居るのなら、駄目だと諦め、自分一人、金子さんに殉じて退社する決意をし、翌日、長文の辞表をしたためて椋池支配人に提出し、退社した。
鈴木時代、私は特に鉄道レールの商売をうけもったので、全国の私鉄を始め、鉄道省、満鉄等、広い区域の商売を体験した。草創時代の私鉄には面白いエピソードも多いが他日に譲る。
[注]鈴木商店に関する挿話は城山三郎氏の『鼠』に詳しい。冒頭に、父が金子さんの須磨の旧宅(跡)へ城山さんを案内する光景が出て来る。このインタビューが行われた頃、ある出版社に居た私は城山さんにお目にかかったことがある。「明治の人はお元気ですね。気骨ある武人と言う感じだなァ」と賞めてくださったことを覚えている。(喜代記)
鈴木を退社したあと、私は水島校長先生を訪ね、退社のいきさつを報告した。先生は
「誠に立派な態度です。人間は立つ時は余り目立たぬが、引く時の態度が一番大切です。丁度、芝居の幕切れが印象深いようにね」「暫く引っ込んで再出発を考えたいと思いますが、この機会に書道を習いたいと思いますから、櫨山先生に御紹介をお願いします」と言うと「それはいい考えです。落ちついた時に落ちついた考えでじっくり書いてごらん」とのことで私はこれから櫨山先生に週一度習いに通った。この稽古がせめて一年でも続いたら私も本物の字が書けたかもしれぬが、この静寂な浪人暮らしも長女佐喜の急病でメチャクチャに終わった。
六月廿四日か、家では亡父の供養をした。私も久しぶりの浪人で畫日中家族と一緒に会食した。夕方から佐喜(四才)が発熱してぐたぐたになった。それ大変と病院に自動車でかけつけると急性腸炎、エキリであった。病勢は急進して、もはや手遅れ、危篤であるとのこと。輸血、注射とあらゆる手をつくしたが脈は細るばかり。夜の十二時頃、若い女医さんは「みなさん呼び人があれば呼びなさい」とのこと。やがて一時頃、「ご臨終です」とさじを投げ、私たちは全く慟哭した。私たちがみな素人であったらこれであきらめたかもしれぬが、強気な母はまだ脈がある、姉はムダかもしれぬがとカンフルをめった打ちに打ち込んだ。百本も打った。サキちゃん、サキちゃんと呼びながら片手でこの細い手の脈を握っている。姉は日赤の優秀な看護婦であった。二時、三時、四時と時刻は過ぎ、翌日の未明五時頃、絶望していた脈が細いながら復活して来た。医者に見放された佐喜は肉親の看病で蘇生した。翌朝になって臨終を宣言して帰った女医が現れて「全く申し訳ありません。かく蘇生したのは全く肉親の方々のご努力です」と謝った。
このさわぎの最中に私には東京朝日新聞の石井光次郎氏(のちの自民党代議士)と関西のある倉庫会社から貰いがかかって来た。私は長女の平癒祈願に「石切さん」にお百度参りをし、ついでに今後の身の振り方をきめるため、運勢を見て貰った。占師は「断然、東の方がよい。光を求めて東へ行け」との卦が出ていると言う。私は決心して東京朝日へ行くことを決め、佐喜の危機脱出を見届けてから東京へ急いだ。これから朝日新聞時代が始まる。