琢磨会会報第41号




森 恕 『掌の裡(てのうち)』

 「手の内」という言葉がある。「手の裏」・「手の裡」とも書いて、剣や弓などの武器技に使う言葉である。
 何れも、その武器の持ち方・把り方のことで、昔から剣や弓の上手下手はその持ち方に左右されると言われており、「茶巾絞りの加減」とか、「傘を持つ心」・「卵中の手の内」などの表現が、その持ち方の秘伝として用いられていることはよく知られているところである。
 これらの表現は、剣や弓を持つときに、どのような心持ちで持つのか、或は剣や弓をとるとき、自分の掌と剣や弓をどのような状態にして握ればよいのか、先人が工夫したその肝心かなめの要領や秘訣を教えようとするものである。
 剣や弓の持ち方などは、一見簡単なことのように思えるのであるが、意外に難しく、従って、この秘訣を体得することは至難の業であり、終生の修業とまで言われているところである。掌の中のことであるから、外から見ては仲々わからないため、そこから転じて、「手の内」という言葉は「他の者の知らない腕前や手並み」の意味に使われたり、「心中に秘ししている考え」を表現する言葉としても使われているのである。
 大東流は武器技ではなく徒手技(手に何も武器を持たず、素手で行う技)であるが、相手の身体を操作して投げたり倒したりする柔術であるため、どうしても相手の身体又は衣服を掴まなければならないということが、いわばその宿命であるが、この掴みにも剣や弓に於ける「手の内」と同じ秘伝であり、その体得は簡単ではない。しかも、大東流では「掴み」に彼我の二態があり、一つは、こちらが相手の身体・衣服を掴む方法で、初伝の技はすべてこれであり、「鷹の爪」もこの延長線上にある秘伝である。
 もう一つの掴みは、相手がこちらの身体・衣服を掴む場合であって、大東流では、この掴んだ相手の手をわざわざもぎとらないで、寧ろ「相手の掴み」を利用して技をかけるのである。
 袖捕り・襟捕り・両手捕り・片手捕りなど、各種捕り技がそれであって、大東流の技の大きな特色を示すものである。
 相手がこちらの身体・衣服を掴んでいることは、相手の方がこちらの動きを制する形になっているので文句なしに優勢であり、こちらは、相手の掴みによって不自由になった動きの中で技をかけなければならないのであるから、かなり苦しい筈である。
 ところが、実際に技をかけられると、優勢な筈の相手の方が、こちらの身体(特に手)を掴んだまま自由自在に動かされ、しかもその掴んだ手が放せない状態になるのである。
 これが大東流の「掌の裡」であり、コツを体得していない者が見れば、不可思議の一語に尽きるものである。
 手捕技をみればわかるように、こちらの手を掴んでいる相手とこちらの接点は、相手のを掴んでいる相手とこちらの接点は、相手の掌とこちらの手甲だけであるから、捕まれた手を使って相手を操作しようとすれば、相手の掌と接触しているこちらの手甲を使う以外に方法がない。
 結論から先にいうと、こちらは、自分の掴まれた手の手甲を使って相手の掌の特定部分に力を加え刺激し、相手が手を放そうにも放せない状態を作ったり、しかも掌から腕・肩を通じて相手の身体全体を操作するわけである。
 掌も手甲も狭い面積であるから、その小さい範囲の中の更に特定部分を刺激して身体操作をすることなどは、体験者以外には不可能としか思えないことである。
 しかし、現実に、稽古の際に、こちらの手を掴んだ者が、自由自在に振り回され、引き倒され、しかも手が放せない状態になっているのを見た者は多い筈である。
 「合気」というものは相手の防御本能を刺激して、本能的な無意識の動きを引き出す技術であるが、その多くはこの「相手の掴み」の中にあり、しかも相手の掌の中、即ち「掌の裡」に伏在しているのである。



久琢磨 『私の軍隊生活』 その2

 さらに志気の揚がらなかった志願兵たちであったから、留守部隊となってからは全く遊び同様であった。私達は既に見習士官に進級してサーベルを下げていたので、当番つきで、起居も全く楽であった。私は見習主計として炊事方面を担当して居ったが、「おー、この豚は中々うまそうだなあ」と言うと「見習士官殿は豚が好きでありますか。お届けします」「試食してみるか」と冗談に言ったが、夕方が来ると豚のヘレを一貫目も切って来た。私達はストーブを火の様に燃やして置いてこれに豚肉をたたきつけて焼いて食った。全く忘れ難い味であった。酒保から酒を持って来て飲んだ。留守部隊副官の前田中佐は支那方面の得意な人で大陸的で内務の雑事には余り拘泥しないので隊内は全く楽園であった。毎期の試験では私は師団出仕の主計少尉と心安くなっていたので試験の時はその前日にヒントを貰い、らくに満点を貰った。宮脇隊長は私が角力ばかり取って居るので本科の成績はどうかと師団経理部へ出かけて調べられたそうで「おい君は角力が強いだけかと思って居たら四十五人の志願兵中成績も一番になって居る。全く驚いた」とほめてくださった。こうして私達は一年の期間を勤め、あと第一勤務演習として三か月勤め、翌年大正十年四月に除隊となった。後年東京朝日から第二次勤務演習で五週間勤務したときも五十余人の見習士官の中でトップで少尉になり、更に在郷、在隊とも成績優秀として抜櫂進級を命ぜられ二等主計(中尉)に任官した。こうして私は兵隊として全く恵まれた運命にあったので、西南の役にかりだされ苦労した父親が兵隊になるなと訓話されたにもかかわらず兵隊は好きであった。第一次支那事変にも第二次戦にも真っ先に出征を志願し、血書を以て願ったが遂に叶えられなかった。これほど兵隊の好きな私がこの総動員戦に召集されず、兵隊が嫌いで呪い通していた連中が動員され、戦死して逝った。運命とは言えふしぎなことと思っている。最後に「今度はご苦労だが出て貰う」と司令官に言われた時は「喜んでいつでも出陣します」と答えたが、神戸製鋼所から軍需産業に必要な人員として免除申請が出て居り、結局、最後まで召集はなく、終戦となった。
 私は支那事変の頃から朝日新聞でも神戸製鋼所でもよく軍服を着た。「○○新聞の○○部長は」と内報紙でヤユされ、新聞社内のご老人ー小西翁や辰井翁からもそれとなく注意された。一方、当時万能だった陸海軍からは社内第一の軍協力者として表彰された。これも楽しかった軍隊時代の余燼と言うべきか。