琢磨会会報第39号



森 恕 『掌底を押せ』
久琢磨 『印度・ビルマへの旅』


森 恕 『掌底を押せ』

「手捕技」には「合気」の秘奥が凝縮されている。特に手首は攻守いずれの場合にもそうである。
 手は第二の脳であると言われるように、敏感な神経を持ち、刺激に対する反応も極めて鋭敏である。攻撃或いは反撃をして、相手の身体の柔術的操作を行う時には、この神経や反応の敏感さ鋭敏さを利用するのである。
 体の他の部分を利用して相手を動かそうとすれば、どうしても物理的に大きな力が必要であるが、手首から先の部分に上手に刺激を加えて身体操作を行えば、相手が本能的に自分から動くので、それほど力がいらないのである。
 この点は、片手捕・両手捕・双手捕いずれの場合も同じであるが、今回は双手捕について述べてみたい。
 双手捕とは、相手が横から、こちらの腕の肘から先を、両手でしっかりと掴んできた場合であるが、この場合、こちらの右腕であれば、相手の右手でこちらの右手首を、左手でこちらの右肘の下の辺りを、夫々掴み、両手で、こちらの右腕を下方に下げた状態で空中固定するのである。
 このような腕の取り方は、多人数捕に見られるように、二人以上の者が、左右両腕をこの形で捕って、捕られた者を立ち往生の状態にさせるために行われるのであるが、腕の取り方や抑え方が古風であり、甲冑武芸か小具足の名残ではないかと思われる。
 この形で左右両腕を取られた者が、反撃のためにとれる行動は、腕を、更に下に下げるしかない。下げるという謂わば陰の動きは、後の変化が望めず、余り好ましくないので、通常は上段の構えのように上げるのである。上げさえすれば数多くの変化技が用意されているが、琢磨会のそれはほとんど合気技である。
 上げ方は、一般的には「両腕に気力を満たし、呼吸をもって上げる」といわれており、「腕の錬成」と称されて、どの道場でも、毎回この稽古が行われている筈である。特に初心者にはこの上げ方が難しいと見え、皆顔を真っ赤にして、力みながらやっている。
 正面から片手捕りや両手捕りの対処技について稽古を重ねて来た者が、この掛かり方をされると一瞬戸惑うのであるが、それは、掛かってくる方向が、今迄は正面であったのが、横からになり、しかも、手首を捕ってくる相手の手が左右反対になっているからである。相手の伸びきっている腕の方向も違えばこちらの手甲に接触している相手の掌の部分も違う。従って、そこでは今迄の対処方法のコツはそのままでは通用しない。
 それならばどうすればよいか、対処方法は簡単であるが、それを知る前に、双手捕りを行っている相手の両手の状態をよく観察してほしい。
 相手の両手のうち、手首を捕っている手は、一番力が入れやすい形で上から抑えてきているが、肘を捕っている手は、これとは対照的に、掌を上にむけて斜め下からただ掴んでいるだけである。
 したがって、肘を捕っている手に対しては、捕られている肘を、心もち内旋気味に外に張れば、それで力が殺がれ、肘の動きが回復する。
 問題は手首を捕っている手の方であり、これが一番の難題であるようにみえるが、これも、相手の手が、この形で一番動きやすい方向である脇の下の方に突き込むように持って行くことで解決する。このとき、捕られている手の甲を捕っている相手の掌底に密着させ、そこを意識して手首の方に押すようにすることがコツである。この辺のところを研究しながら稽古をして貰うことを期待したい。




久琢磨 『印度・ビルマへの旅』

 筒台(神戸高商)の思い出は数々あるが、なかでも印度旅行は私の青年時代の冒険として忘れることは出来ない。この学校では毎年夏期休暇を利用して卒業生のうち若干名を海外旅行に派遣することになっていた。その経費は貿易商社から調査事項の依頼を受け、同時に調査費用を寄附して貰って賄った。私の時も遠く北米から支那・東亜の各地で、私は英領印度を主としビルマを従とした外来の調査であった。ふつう二人が一組となって行動したが先生が「久くんなら一人でも大丈夫だろう。」との事で、単独行となった。経費を切りつめるため大阪商船の不定期船に往復とも便乗させて貰いたいと頼みに行くと会社としては異議はないが、諾否は船長が決めるから頼みに行けと云う。幸運にもそのセレベス丸の船長根本氏は私の角力のファンでご馳走になったこともある。すぐ承諾してくれた。六月の中頃、セレベス丸に下関から乗船して一路南に向かう。船内では私は船長の命令で特にパーサーとして日給を支給され、部屋は船長の予備室を与えられた。毎日、船長から教わってパーサーとターソーの訓練をした。香港に着くと船長のお伴をして上陸し、ポート・オーサーに挨拶して、船が出帆するまでここで泊まる。船はシンガポール、ペナン、セイロンに寄港し、一か月後にボンベイに着いた。ボンベイでは三井物産の厄介になり、米国の綿花の研究から輸出品の樟脳の消費先を見たりした。一週間も居るうちに、カルカッタの栗山さん(三井物産)から、出来ればダージリンにやってやるからなるべく早く出発せよと電報が来て、一時セレベス丸を離れ、印度横断鉄道の一等のコンパートメントに乗車して、カルカッタに向かった。旅は三日間、始めて大陸の広大さを知った。
 カルカッタでは同窓の歓迎会があり、歓迎柔道大会を催され、柔道の試合に出たが印度人を背負い投げで敗った。その時、同市に居た庭球の大選手、清水氏から金時計を贈られた。ここからは外国船でラングーンへ行く訳だが、日程にゆとりがあったので栗山さんの斡旋で単騎ダージリングに登山した。山麓に独居し印度哲学の研究をしている鹿の子木博しに紹介状を貰って出かけたが、案内人が必要で勇を鼓して単身、印度人の案内人を二人、雇って出かけた。山また山を徒歩で半日、タイガーヒルの麓の鹿の子木先生のカツテージに辿りつく。先生は大変喜んで印度人の友人四・五人を呼んで羊肉に地酒で大いに印度自治論を聞かされた。翌日は先生とある日本婦人と三人でダージリン市に遊んだ。全くの国際遊覧山上郡市で、イギリス、アメリカはもとより、ネパール人、プータン人、支那人チベット人ら人種の展覧会のよう、ここで頼まれた品を手に入れて帰り、翌日は先生と二人、タイガーヒルに登山で、頂からマウント・エベレスト、オレチェン・ジュンガの初日に光るを遠望した。ヒマラヤ最高峯は遠く高く雲間にそびえ、下界を威圧するかの如くであった。翌日、ダージリンを出てカルカッタに帰り、数日後、英船に乗ってビルマのラングーンに向かった。ここでセレベスから歸航し米を積むため立ち寄るセレベス丸をキャッチするのである。船中は全くの外国であるが、もうだいぶ馴れていたからバーへ行って「ワン・モア・カップ・オブ・ウヰスキー」を連呼していた。船中で英国警察官のきびしい取調を受けたが、心当たりはないので何の心配をせず、悠々と答えた。「武器を持って居ないか。」「ノー、サー。」で通した。これが誤りであった。即ちラングーンに着いて荷物を調べられたところ、鹿の子木先生から託された印度の毒刀二振が出て来た。警官は「君は武器は持って居らぬと言ったが、現に、武器を持って居るではないか。」と詰問し、これは武器ではない。珍しい品物でことずかったのだとの弁解を聞いてくれぬ。そのまま警察へほうりこまれた。途中護衛の巡査が自分に金を出したら見逃してやると言ったようだが、余程腹を立てて居たので返事をしなかった。警視庁でも前記の申し開きを繰り返した。尤も先方が余りえらそうで立派あったから、知ってるかぎりの敬語を使った。私が学生で品物を預かり品であることは認められ、所持品を出航まで預かるという条件つきで解放された。警視庁の門を出ると人力車が澤山待っているので乗ると、日本人遊郭に案内された。ここまで来れば三井物産とも連絡もとれると思い、思い切ってそのうちの一番立派な家に上がりこんだ。先方は私を三井の新人とまちがえたのか、上等の座敷に通してくれたので命拾いに一杯やる気になり青畳の上にのうのうと手足を延ばした。目がさめると三井物産の大川支店長が来て居り、「こんなところに居ては君のためにならん。三井のバンガローに来い。」と叱られて三井で厄介になった。鈴木商店の樽谷氏が「明日から奥地へ行くが一緒に行かんか。」と言ってくれたので、お伴をして米の集散地のペクーからマンダレーまで足を延ばした。ラングーンでは米の集散から精米所まで見学し研究資料を三井から貰った。予定通りセレベス丸が入港したので米の積み荷を手伝いここから乗船した。再びシンガポール、上海を通って日本の神戸へ帰りついたのは十月も半ば頃であった。

追記 依田きよ子

 今回は私の怠慢で慌ただしく稿をまとめることになり、父の遺した手記から神戸高商の最後の思い出となった『印度旅行』を抜粋した。第二次世界大戦が日本の敗戦で終わったあと、父もすべての職を辞し、浪人となった。昭和二十七年頃か、アメリカの会社が日本の電源開発に関する調査を始め、四国の現地調査を引く受けた父は報告書のタイピングを私と私の友人に頼んた。自分の古風な英語がいまどきのアメリカ英語に通用するかどうか不安だったのだろう。頼まれて或る商社の通訳の人に読んで貰った。「恐ろしい古風なキングス・イングリッシュですなあ。」というのが、その人の感想で、一字も訂正はなかった。こんなことも出来るんだと私は驚ろいていたが、海外貿易の草創期に商社の若手社員で電報で発注と受注をやっていたのだから、戦後の変身も父にとってはそんなに不思議なことではなかったのだろう。合気道の口伝を何とか英文化したいというのが父の晩年の悲願であったが、それはかなわなかった。文化の傳統が異なるのだから言葉や文字で伝えることは難しい。いま、フィンランドやスウェーデンに出かけて、体当たりで合気道を交流させている皆様のレポートを読むと、父が聞いたらどんなに喜んだろうと感慨無量である。